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ある日の埔里日記2017その6(11)猫空の鉄観音茶

12月23日(土)
猫空へ

朝荷物を持って埔里を出る。今年最後の滞在は何となく終わってしまった。また来年も来ればよい。いつものバスに乗り、いつものように台北駅に着く。ただいつもと違うのは、今日は昼間に着いたこと。土曜日なので葉さんも会社は休みなので、昼でも鍵が受け取れるという。そして折角なので、鉄観音茶の歴史調査に誘うと、車で連れて行ってくれるというから有り難い。

 

家に行くと葉さんはケーキを焼いている。どこかへ持っていくらしい。台湾でも自分でお菓子を焼くことが流行っていると聞いたが、かなり本格的だった。そろそろ出発の時間だったが、一向に出掛ける様子がないのが台湾的。こちらは一応相手と約束しているので、気が気ではないかが、行かないものは行かないのだ。

 

ご主人、林さんのお兄さんがアメリカから帰ってきており、彼を待っていたことが分かる。後で聞くとお兄さんは日本に何度もスキーに行っている。雪の質が良いのと便利だからだという。ようやく出発したが、台湾大学で開かれている農業博覧会に立ち寄る。そこに出店している農家に先ほどのケーキを差し入れるためだった。それが済んで、ついに動物園方面に車が動いていく。

 

今日会う予定の張さんに遅れるとメッセージを入れると、『それなら先に博物館に寄ってから来てくれ』と言われる。確かに午後2時を過ぎており、張さんのところに先に行くと博物館が閉まってしまうらしい。葉さんにお願いして、そちらに連れて行ってもらう。ところが週末の猫空は観光客で混みあっていて車も渋滞気味だ。私一人で来たら、バスに乗るのも大変だっただろう。

 

何とか上まで上がるが、駐車場がなく、車が入れないエリアも多く、随分下の方に車を停めて歩いて向かう。途中ほんの少し茶畑が見えたが、基本的にはこのあたりではもう茶は植えられていないことを確認した。到着したところは『台北市包種茶鉄観音茶研発推広中心』という名前だった。

 

何とも驚くのは包種茶という文字が入っていたこと。ここは木柵から続く鉄観音の産地のはずだがなぜ包種茶の名前があるのか。中に入ると、鉄観音茶の歴史の展示があったが、それはほんの少しだけ。やはりこのお茶はマイナーでその歴史は重視されているようには見えない。更にはこの地でも鉄観音の前に包種茶を作っていたという事実が語られている。だからその名前があるのだ。お茶の歴史なんて、そんなものだ。思い込みや刷り込みで語ってはならない。

 

一応事務室に行って、案内を乞うたが、ここには歴史に詳しい方はいないようだった。もう一つ博物館があるので、そちらへ行くとよいと言われたが、今回は時間が無いので断念した。そうか、博物館を間違えてしまったのだ。この建物の一角ではお茶の試飲が無料で、多くの人はそちらへ流れていき、美味しいと思えば購入して帰るようだった。

 

我々は張さんの工房へ向かうべく、車に戻り、出発した。だが週末は一部通行止めもあり、真っすぐに向かうことは出来なかった。何と一度下へ降り、また違う道を登っていくことになる。何とかたどり着いたそこは、賑わいとはかけ離れた静かな場所で、景色もよい。だが張さんは不在だった。

 

連絡するとバイクで来てくれた。どうやら今は焙煎作業中、作業の合間に木柵の店に戻り、別の作業をしているらしい。12月だが、意外と忙しい。思えば、10月末に張さんの店を訪ねた時は、それほど忙しいそうではなかった。我々が前回彼を訪ねたのは、実は葉さんの紹介だった。だが彼女も張さんに会ったことはない、というので、またご縁が繋がっていく。

 

焙煎室も見せてもらった。そこには、温度管理や焙煎方法など様々な工夫が凝らされており、実に繊細な作業が行われていた。安渓の鉄観音に比べても、木柵鉄観音茶を作るのは本当に大変なことだと感じる。焙煎が命の鉄観音、心して飲む必要があるが、その数量は極めて少ない。代金が高いのも頷けるが、今や木柵鉄観音茶は風前の灯火だろうか。

 

張さんが夕飯を食べに行こうと誘ってくれた。猫空の夜、張さん行きつけのレストランのお客さんは多かった。夜景はハッキリとは見えなかったが、やはり週末は人が多いらしい。蒸し鶏がぷりぷりしていて絶品だった。他の料理もなぜか美味しい。やはり地元の人と行くと違うのだろうか。最後は張さんがバイクで先導してくれて、山を下りた。

ある日の埔里日記2017その6(10)18度C巧克力工房

12月20日(水)
東邦紅茶へ

南部から帰った次の日、東邦紅茶の郭さんに連絡を入れた。トミーが『東邦紅茶には煎茶を作った機械があったはずだ』と言い出したからだ。ちょうど台湾緑茶の歴史を勉強中で、港口茶について話していたので、是非見てみたかった。台湾で日本向け煎茶が作られたという歴史は各地で聞いており、実際にその機械なども見たことがあった。だがここ埔里でも作られたとは意外だった。

 

工場内には古い機械が沢山置かれているが、更にその奥にはすでに使われなくなった機械が積まれていた。その中を掘り起こしてみると、僅かに『SHIZUOKA』という文字が見えるではないか。ここでは1960年代に数年だけ、日本向け緑茶を作ったことがあるらしい。ただその品質はそれほどではなかったようで、すぐに飲料茶の方向へ切り替えたようだ。

 

工場の庭にはほんの少し茶樹が植えられており、ちょうど花が咲いていた。茶の葉を見るとかなり大きい。郭さんは『緑茶はこの葉を使ってつくられたと聞いている。この葉っぱでは日本でいう番茶のようなものしかできなかったのでは』という。創業者である郭少三氏は煎茶製造の知識もあったのではないかともいうが、やはりこの地域で緑茶という選択はなかったのかもしれない。

 

12月22日(金)
牛耳で

金曜日の午前中はいつも黄先生のサロンへ行くことになっているが、今日は18度Cの茆さんの声掛けで、先日の珈琲イベントの打ち上げが行われるというので、Iさんの車に乗せてもらい、牛耳に向かう。牛耳はイベント当日の夜、北大関係者の歓迎会が行われた場所で、素晴らしい鉄板焼きをご馳走になった。

 

前回は夜だったが、昼の牛耳は観光バスでごった返していて驚いた。天気が良いのでこの高台から埔里郊外がよく見える。原住民のシンボルのようなモニュメントがある。敷地もかなり広く、建物もいくつもあり、どこで食べるのかが分からないほどだ。観光バスの団体さんは次々に大きな食堂へ吸い込まれていく。

 

我々は前回食事をした建物に案内されたが、鉄板焼きコーナーではなく、その横へ。我々日本人と黄先生は個室に入った。スペースの関係で茆さんたちは2階へ行ったようだ。今日の会は今回のイベントの反省と、次回の開催に向けての話し合いの場と聞いていたので、これはちょっと残念だったが仕方がない。私個人としては、皆さんの思いと現実の売り上げなどの状況を把握したかったが、それは叶わなかった。

 

目の前には沢山のご馳走が並んでいく。写真映えするきれいな盛り付けがよい。非常に食べ甲斐のある、刺身・焼き魚・巨大茶わん蒸しなど和食風のメニュー。まあ今日はこの料理を満喫するか。楽しいランチが終了する頃、茆さんから、今回のイベント参加者との話し合いの内容が一部伝えられた。どうやら皆さん、次回にも前向きのようでよかった。果たして次はどうなるのだろうか。

 

また日本好きの茆さんは、これを機会に北海道との結びつきも深めたいと考えている。埔里から訪問団を編成して北海道を訪れることを検討するという。そういえば日本の『道の駅』に感銘を受けた彼は、埔里でも道の駅を作りたいと言っている。話がすべて具体的なのがとてもよい。

 

一度部屋に帰って休んでから、18度C巧克力工房に向かった。実は明日からの台北行きのお土産に18度Cのバームクーヘンを持っていこうと考えたからだ。私が何かを少しばかり買ったからと言って、店の売り上げに貢献できるとは思えないが、今回イベントで茆さんから受けた様々な恩恵に少し報いたい気持ちがあった。更には埔里名物を台北にも広めたいという狙いもある。

 

部屋から始めて歩いて店に行ってみたが、こんなに近かったのかと驚く。どうして今まで来なかったのか不思議に思う。今年はイベント打ち合わせのために何度も来ており、その度にここのチョコレートやクッキーが出され、それを食べていた。それが楽しみだったとも言え、満足してしまっていた。

 

バームクーヘンの店に入り、商品を選ぶ。ただ生は日持ちがしないので、焼いたものを求める。すると店員さんが、『これは試供品ですので、是非食べてみてください』と別の味を渡される。更には『1000元以上購入ですので、あちらでチョコももらえますよ』というではないか。ジェラートも食べたかったが、その横でチョコを受け取る。お客さんの心をつかむサービス、なかなか見られないものだった。埔里でここだけが常に賑わっている理由が何となく分かった思いだ。

ある日の埔里日記2017その6(9)台湾農林の挑戦

12月19日(火)
台湾農林の挑戦

翌朝は気持ちよく?目覚めた。1階におり、何とかシャッターを開けて、外へ出てみる。夜はちょっと怪しげに見えた宿だが、朝は爽やか。朝食もちゃんとついていて、お粥の上におかずも豊富でよい。ここの客はカップルもいたが、若者男子4人組とか、女子2人組とか。老夫婦までいて、その利用層の幅はかなり広い。利用者に支持され、儲かっているのではないだろうか。

 

今日は私の希望で屏東市内から車で20分ぐらい離れた台湾農林の茶畑を見学することになっていた。聞くところによれば、台湾でも有数に広い、平地の茶畑が今まさにここで開拓されているという。なぜこんな南部に広大な茶畑を作る必要があるのだろうか。是非見てみたいと思ったのだ。トミーの知り合いの陳さんに案内を乞う。陳さんは苗栗の出身で、昔から茶業関係者であり、今は台北に家があるという。1週間で屏東、苗栗、台北を行き来しているというから、台湾縦断、大変だ。

 

その敷地は見るからにあまりに広大だった。取り敢えず門のすぐ近くにある事務所に招き入れられる。早速お茶を飲み始める。お茶の仲間というのは何を置いてもお茶を飲むものだ。トミーも自分の学院で作った100種類もの茶葉が入っている立派な木箱を贈呈する。プロジェクトの簡単な説明を聞く。

 

台湾農林とは、日本統治が終わった後、日本関連の茶工場などを引き継いだ会社。その歴史はある意味で謎に包まれており、今回『台湾農林の歴史を知りたい』と無邪気に言ってみても、『そう簡単じゃないよ』と言われるだけだった。台湾茶の歴史を学ぶものとしては何とかこの会社に取り組みたい。今は民間の上場会社とはいえ、当然政府との連携が密なのだと思っていた。

 

だがこの土地買収(台湾鳳梨から)だけで、100億元も超えると言われる大型投資だが、政府からの支援はない、全くの民間企業として投資していると言われ、唖然とした。勿論地元政府は大歓迎だろうが、その影響力が大きすぎて、何も言えない状況なのかもしれない。雇用も生まれるだろうし、成功すれば税収も見込める。まあ台湾も日本もまずは民間にやらせて、うまく行きそうなら政府が出てくるという悪しき習慣は健在だ。

 

それにしても4期にわかれた工事の1期が既に始まり、茶樹が植えられていた。ビニールテントの下では数種類の品種の茶苗が大量に育てられている。その光景は壮観だ。早ければ来年より試験的な製茶が始まるという。そのための茶工場も今から建設される。このどこまでも続く平地での大量生産には機械化が欠かせない。既に日本からも乗用機などを購入しており、これが活躍しそうだ。また灌漑が重要であり、水の供給がチェックされていた。

 

もしここが稼働すれば、主に茶飲料用として台湾が現在輸入している茶葉を台湾産に切り替えられる効果がある。更には現在南投などに限られている、台湾内の飲料原料の分散化も図れる。それは台湾茶業の一大変革になるのではないだろうか。現在の台湾の茶葉生産量を20%も押し上げるこのプロジェクト、その行方に注目したい。

 

お昼ごはんもここで頂いた。当然ながらこれだけのプロジェクトだから、注目度も高く、様々な人々がかかわっており、ここに宿泊する人も多い。また出張などでここを訪れる人もおり、食堂も大きく、そこで出される食事も美味しい。ついつい食べ過ぎてしまう。食後またお茶を頂き、失礼する。

 

帰りも順調に高速道路を走った。台湾の道路は昔より空いているな、と最近特に感じる。これは経済の鈍化が原因か、また企業の海外進出が多くて、島内では以前ほど車が走らないのか。ちょっと気になるが答えは簡単には見いだせない。トミーは今晩埔里に泊まるというので、埔里まで車で送ってもらった。何とも有り難い。

 

かなり疲れたので部屋で休んでいたが、あれだけ食べても腹は減る。夜は珍しく、虱目魚を食べてみる。恐らく埔里で食べるのは初めてだろう。やはり脂っこいものはちょっとという感じだったのだろう。あっさりしたこの魚は食べやすい。台湾南部で養殖が盛んなこの魚をなぜ埔里に帰って食べたのかは不明だが、美味しければそれでよい。

ある日の埔里日記2017その6(8)港口茶を再訪する

12月18日(月)
屏東へ

朝7時のバスに乗る。いつものように台中へ行き、そこでトミーを待ち合わせだ。今回は南部、それも台湾最南端に向かう。これまでトミーには様々なところに連れて行ってもらったが、泊りがけで行くのは初めてである。どんなことになるのか、それは全て彼に任せている。面白い旅になりそうだ。

 

車は高速道路を快調に飛ばし、途中一度休憩しただけで、12時前には恒春の街までやって来た。ここは昨年来たことがあるので、様子は分かっていつもりだったが、車で来るのとバスで来るのではかなり景色が違って見えた。取り敢えず腹が減ったので道路沿いの牛肉麺屋に入る。台湾牛とか屏東牛とか書かれると、食べてみない訳には行かない。麺は結構いい値段で、ここが観光客向けだと分かる。まあそんなものだろう、という味だった。

 

それから満洲郷へ向かう。恒春の門を出て、東に10㎞、前回も訪ねた朱松雄さんの家があった。ここは道路沿いにあり、分かりやすい。既にトミーが訪問することを事前に告げていたので、朱さん夫妻に歓迎された。ここは1年前に訪れた時と、特に変わった様子はない。『港口茶は緑茶か』という質問への回答はちょっと曖昧になる。

 

トミーが茶を教えていると聞くと『ぜひこの茶の欠点がどこにあるか、アドバイスして欲しい』と非常に前向きな態度で、尋ねてくる。朱さんは定年まではサラリーマンだった人だから、常に勉強しようという姿勢が感じられる。港口茶は初め緑茶だったが、少しずつ改良が加えられた、という話もあったが、確かに常に改良しているのかもしれない。

 

朱さんに伴われて、茶園に向かう。私は昨年も見ていたが、海が一望できる素晴らしい景色だった。今はシーズンオフでお茶は作っておらず、茶樹は修繕されていた。かなり茶の実が付いており、これがまた自然交配して雑種となるのだろうか。別のところには金萱が植えられてもいるようだ。

 

道路まで戻り、朱さんと別れた。我々には気になる所があり、もう一か所、訪問することにした。そこは前回私が行った時は誰もおらず、話も聞けなかったが、正宗港口茶と書かれた古びた建物がある家だった。実はある人に『港口茶は緑茶か』と質問した時、『あそこは兄弟で違うお茶を作っている。弟のところへ行ってみろ』と言われていたのだ。

 

訪ねてみると、主人が出てきた。やはり朱さんという苗字。朱金成さんだった。この地区で茶を作っているのは3軒だけで全て親族だという。彼は松雄さんの弟さんだと思うのだが、親族の話などにちょっとした食い違いがあるが不思議だ。彼の方はずっとこの地で茶を作り続けていたと言い、この辺の一族は皆客家で広東から来たともいう。

 

だが彼の茶園も先ほどと同じところにあるのだ。これは何を意味するのだろうか。結局は、先代からの相続を3つに分けたのではないかと推測する。そしてどうやら親族間には色々とあるようだと感じるが、それは私には関係のないことなので、話をそのまま聞いて、茶を飲ませてもらったところ、こちらの方が緑茶に近かった。なるほど。何故という疑問は色々とあったが、ちょっと茶を買ってお暇した。

 

今晩は屏東市内に泊まるというので、車は北上を始めた。同じ屏東県だから近いだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。何と車で2時間もかかってしまう。屏東は大きいのだ。市内に入っても街は思っていたより大きい。今晩はトミーの知り合いと会う約束だということで彼らの店を探すが、なかなか見つからない。

 

ようやく見つけたそこはやはり茶荘だった。屏東の街も茶荘はかなりある。ただ単にお店を開いていても、なかなか厳しい。彼らは新しい茶荘の形を模索しており、トミーの講座で勉強し、指南を仰いでいた。イベント出店用の格好いい台車やコーヒーを淹れるマシーンのようなお茶淹れ機の話など、茶業界も動いていかなければならないだろう。

 

夕飯も彼らにご馳走になった。新鮮な魚介類などがふんだんに出てきて、満足。お腹も一杯になり、眠気が襲う。確かに今日は朝早くから起きていたので、早めに休みたいが、彼らが予約してくれていたホテルに行ってビックリ。いわゆる汽車旅館、日本ではラブホテルではないかと思うような作りだった。しかも名前は六本木Motelだ。

 

実際部屋の1階に車を駐車して、2階へ上がる仕組みであり、車中の人物は外から遮断されていて見えない。更にはシャッターまで閉まるので、車の番号すら分からない。部屋はかなりきれいで広くて驚くがラブホ感も満載。こんなところに一人で泊まってよいのか、という感じだが、日本と違って台湾では、誰がここに泊まるは自由だった。これで1泊1600元は安い、と言わざるを得ない。何だかちょっと落ち着かない夜を過ごす。

ある日の埔里日記2017その6(7)サンバフェスティバル

12月16日(土)
サンバフェスティバル

先日の珈琲イベントが終了し、何となく一段落。ホッとしてそれから数日間は、部屋に籠り、お茶の歴史の調べ物に没頭した。外に出るのは昼ご飯と夕飯の2回だけ。気分転換に埔里で有名な牛肉麺屋に行ってみたりした。前回は凄く混んでいて入れなかったが、昼時を少し外すと何とか入れた。スープがちょっと独特だったが、やはり味は美味しく、ボリュームもかなりあり、100元はお値打ちだった。だから混んでいるのは頷ける。

 

天気の良い日は、クラブサンドイッチを食べるのもいつの店ではなく、店舗の外に椅子がある所へ行き、かなり寛いだ姿勢で食べた。12月の埔里、日中はそれなりの紫外線はあるが、実に爽やかな風が吹き、気持ちがよい。心なしかサンドイッチも美味しく感じられるし、フライドポテトが付いているのもよい。

 

その後で、先日イベントがあった埔里演習林に行ってみる。まさに祭りの後、静けさだけが残り、あの賑わいはどこにもない。老人が一人近づいてきて、『子供の頃、ここでよく遊んだよ。だからここが北大演習林だと知っている』と言いながら、遠い目をしていた。あのイベントで子供の頃を思い出してくれたのかもしれない。こんなところにもイベント開催の意義はあったのではないか。

 

そして土曜日、この日は天気が今一つだったが、食事に出かけると、バスターミナル近くの五差路の真ん中にイベント舞台が出来ており、既に大勢の人が集まっている様子が見えた。何だろうと近寄ってみると、その舞台の上には、先週の珈琲イベントの際もMCをしていた埔里の有名人、頼さんが元気にマイクを握っている。

 

埔里サンバフェスティバル。何故この街でサンバが行われているのかはよくわからないが、既に何度か開かれており、この時期の風物詩にもなっているというから驚きだ。珈琲イベントは前週になったのも、このイベントに配慮したからだという。舞台では若者によるダンスパフォーマンスが披露され、私の近くには格好いいオープン車が並び、その横には大型バイクに跨った若者が仮装していた。これは一体何なのだろうか。サンバじゃなくて、仮装フェスではないのか。

 

道は通行止めになっており、舞台のすぐ横には高校のブラスバンドがお揃いの服で並んでいる。その後ろにはどう見ても、パクリだろうという被り物をした人々が列をなし、観客から盛んにカメラを向けられていた。更には各地区の団体の旗や幟も見え、山車を引っ張る姿もある。これは完全に街の祭りであり、サンバは出てこない。

 

そう思っていると、後ろの方に、寒そうな格好で露出の高い服を着て、背中に羽を付けているサンバの一団がいた。まだ出番は先なのか、皆寛いでいる。しかしこの寒空でサンバは厳しいだろうか。いや、踊り始めてみれば、きっと体は熱くなるのだが、待っている間が辛いかなと思う。

 

サンバは始まりそうもないので、帰ろうとしたが、帰り道にも巨大野球ボールが転がって来た。皆楽しそうだからよいのだが、この無軌道な玉、ちょっと危険は気がする。昔運動会に大玉転がしというのがあったが、それを応用したのだろうか。一度家に帰ると、もう外に出る気力がなく、結局サンバを見ることもなく、私のサンバフェスは終わってしまった。

 

翌日の日曜日も天気はあまりよくはなかった。やはり昼ご飯を食べた後、散歩に出掛けた。埔里の街は小さいので10分も歩けば、完全な田舎になってしまう。畑が広がり、農村風景が見られる。更に行くと上り坂になっていく。そこを自転車がぴゅーっと通り抜けていく。最近流行りのツーリングだろうか。ちゃんと自転車用の山道が整備されているようだが、歩いていくのは大変そうだったので断念した。

 

別の方角を見ると山の上には寺が見えたが、こちらもかなりの急坂で途中まで行って息が上がり、引き返さざるを得なかった。体を鍛える必要を痛感する。フラフラしながら、畑の中を歩き、何とか部屋まで辿り着く。先日会った下山さんなどは私よりも一回り以上上なのに、登山もスイスイできるというから、何とも自分が情けない。

ある日の埔里日記2017その6(6)恵蓀農場へ行く

12月11日(月)
恵蓀農場へ

イベントから一夜明けた。今日は北大の方々に付き合って、北大演習林の所在地、眉原にある恵蓀農場へ行くことになっていた。アレンジは北大出身のSさんだ。まずは朝9時半にイベントの実質主催者である茆さんの家を訪ねて、お礼を述べた。茆さんはイベントの成功を大変喜んでおり、毎年継続してやろう、と力強く言っていた。

 

そしてクリスマスが近いからというので、ドイツで食べられるシュトーレンというお菓子を出してくれた。こんなものまで作るようになったのかと、驚いて聞いてみると、何と東京から持ち帰ったというのだ。しかも友人のパティシエが帝国ホテルに勤めているおり、彼からもらったというから、本当に驚きだった。茆さんは我々より遥かに日本を知っている。

 

茆さんの家を失礼して駐車場に向かった。18度Cの店舗の横では、たい焼きが売られており、美味しそうだった。バームクーヘンもいち早く作っている。日本の良いものはどんどん取り入れて、紹介しているは凄い。ジェラートやチョコもイタリアからその技術を入れている。

 

それから車で日月潭に向かった。いい天気だったが観光はなしで魚池の茶業改良場に行く。ここは日本時代に建てられたが、その初代から3代までの日本人所長は、全て北大出身者だというので、北大ゆかりの地として訪問した。ここには1938年建造の茶工場が現役で残っているほか、その後ろには新井耕吉郎の記念館がある。

 

第3代、最後の所長である新井耕吉郎は近年台湾でとみに有名になっているが、初代の谷村愛之助、2代の古市誠も北大を出てここにやって来た。なぜ茶畑の無い北海道の大学の人々が台湾へ来て、茶の研究をしたのか。実に興味深いテーマだが、それに答えてくれる研究はされていないらしい。

 

昼は埔里に戻り、埔里名物と言われる米粉を食べた。名物と言いながら、食べられる食堂が殆どない不思議。埔里酒廠の向かいにある食堂で何とかスープ麺にあり着いた。まあ特にどうということもないが、一応名物なので観光客が押し寄せ、席もない。何とか注文したが、私の麺には肉丸が入っていないというお粗末ぶり。その後軽く酒廠を見学し、そこで下山操子さんと合流。

 

埔里郊外にあるSさんの家にも寄る。ここでは少量ながらコーヒーの栽培が行われ、ちょうど豆が太陽の下で干されていた。元々Sさんが演習林に興味を持ったのも、演習林でコーヒーが植えられたという歴史を知ったからであり、そのコーヒーを今は自分が作っていることを見せたかったのだろう。

 

そこからは下山さんが先導して、恵蓀農場へ向かう。1時間弱走って門まで到着すると、入場料を払わなければならないが、下山さんが地元に貢献しているということで無料となる。すごい。この農場、相当な山の中にあり、その門から事務所の建物までは4㎞以上の登りとなっていた。とても歩いては行けない場所だ。昔はバスすら走っていなかったというから、北大の人々は当時、ここに来るまでが大変だっただろう。広大な敷地に大自然、素晴らしい環境だ。

 

事務所に行き事情を話すと、突然だったにもかかわらず、場長が直接応対してくれた。やはり北大の名前はここではよく知られている訳だ。事務所の中の設備を拝見し、林の中を歩いていき、そして100年前に建てられたという木造の建物に案内してくれた。今は改修工事を行い、宿泊できる施設となっていた。中は昔の日本の家だった。横の建物はもう少し新しいらしいが、それでも趣はあった。

 

それにしても素晴らしい自然が残っていた。恐らくは日本時代からこうだったのだろう。今は台中の中興大学が管理しており、恵蓀という名前は中興大学の先生の名前からとったということだった。屋外で美味しいコーヒーをご馳走になる。ここでは茶樹も少しはあるが、今はコーヒーが主であるらしい。この近くには台湾の原生種と言われる茶樹もあるので、ちょっと残念。

 

最後に下山さんの弟の誠さんの家へ行き、そして操子さんの家にも行き、日本時代の歴史、霧社事件などについて、写真を見ながら詳しく話しを聞いた。台湾の日本時代、日本は良いこともしたかもしれないが、地元の人にとって決して宜しくないこともしていたと思う。演習林なども原住民の人々の土地を奪うことになっていたかもしれない。

 

夕飯は下山さんが近くの客家料理の店に連れて行ってくれた。この付近には客家が多いという。原住民も霧社事件後に強制移住された人々をはじめ、多くが住んでいる。更にはもう少し埔里に近い所には、日本時代前後に沖縄から移住した人の子孫が今も住んでいるというのにはびっくり。山深い不便な場所には土地があり、移住者が開拓したということか。客家料理は非常に美味しい。そして北大の方々はIさんの車で台中駅へ向かい、今夜は台北に泊まるというので別れた。私は下山さんの車で埔里まで送ってもらう。

ある日の埔里日記2017その6(5)水沙連珈琲フェスティバル

12月10日(日)
水沙連珈琲フェスティバル

雨が心配された今日だが、何と朝から快晴だった。これは何を意味するのだろうか。ついにその日がやってきたという感じ。いつもはIさんの車に乗せてもらうのだが、今日Iさんは早くも演習林で写生をしているはずだ。私はとぼとぼ歩いて、イベント会場である演習林に向かった。

 

水沙連珈琲フェスティバル、私が何かしたわけではないが、この3か月、打ち合わせに参加したこともあり、感慨深いイベントである。北大から来られた来賓も到着、日本人メンバーも集結し始めた。そして各ブースでは早くも珈琲の香りが漂ってくる。いつもは殺風景な演習林が、今日は何だか立派に見える。

 

9時過ぎに来賓が集まり、開幕式が行われた。南投県、埔里鎮などの偉い人や黄先生など何人かが祝辞を述べ、そして北大からの祝辞も読み上げられた。このイベントの実質の主催者である、18度Cの茆さんも感慨深げにあいさつに立つ。またこのイベントの言い出しっぺである日本人のSさんは功労者として紹介された。

 

それからこの地区のバリスターが100人の来賓にコーヒーを淹れるイベントが始まる。私も北大の方に交じって、コーヒーを飲ませてもらったが、お茶と同じようにコーヒーも淹れる人の個性が強く出るようで、実に柔らかい味わいに驚いた。聞けば、この付近の若手No.1が淹れてくれたらしい。

 

イベントに訪れた人の多くはコーヒーが目当てだったかもしれないが、そもそも演習林とは何か、なぜ今日このイベントがあるのかに注目する人もいた。そしてその100年前の建物をじっくり眺めては、首を傾げたりしている。地元の人にとっても、この建物と敷地は謎だったに違いない。僅かに70歳以上の人の一部がここの由来を記憶している程度だ。

 

日本人会担当の珈琲豆の種飛ばし大会もついに始まった。果たして参加者がいるだろうかと心配されたが、何となく興味を持つ人が多く、途切れることなく、種が飛ばされていった。ほとんどの人が初めてなので、うまくは行かないが、それがまた笑いを誘い、和やかな雰囲気に包まれる。司会はあの下山操子さんが引き受け、非常に上手いリードで参加者を募り、激励していたのは印象的だった。下山さんの教え子という人も何人か現れ、彼女の歴史を少し見ることができた。

 

昼ごはんは弁当が支給されたが、とても豪華だった。これまで台湾では見たこともないような立派さ。聞けば何と茆さんがイベントスタッフ、ブース出展者のために特注、自腹で配ってくれたらしい。何とも驚く気配りだった。北大の人たちもこのイベントの盛り上がりと茆さんの配慮には驚いたようだった。北大は戦前、朝鮮半島や樺太にも演習林を持っていたようだが、今もってこのような扱いを受けることなどなかっただろう。

 

午後も引き続き種飛ばしは行われたが、人出は午前中ほどではなかった。それでも最後までやり切り、男女及び子供の1-3位を決めて、表彰式まで行い、商品が手渡された。その間、下山さんはずっと立ったままで、マイクを握って司会を続けていた。70歳を越えているとはとても思えない、驚くほどの体力だった。やはり鍛え方が違う。

 

片付けが始まったが、何となく皆に達成感があるように見えた。ブースでの珈琲の売り上げは分からないが、イベントとしては十分に成功したのではないだろうか。そしてここに正式に日本人会も立ち上がり、地元の人々と一体となってイベントに参加したことの意義は大きいように感じられた。来年以降も続くだろうか。お楽しみだ。

 

一度部屋に戻り、夕方Iさんの車で出掛けた。今晩は北大の人々の歓迎宴を茆さんが自らのレストランで開くというのでついでに御呼ばれした。牛耳という、郊外にある観光スポットに茆さんは鉄板焼き屋をもっていた。この辺ではかなり立派な場所で驚いた。しかも2つある鉄板の周囲に約20名が座り、ほぼ借り切り状態となる。

 

そして牛肉のステーキは勿論、魚のバター焼きやホタテなど魚介類まで豊富に登場し実に立派な食事が供された。最後は鉄板で作るどら焼きまで、趣向が凝らされており、単に豪華なだけでなく、お客は楽しめる内容となっていた。埔里ではこんなの食べたことがない。茆さんは世界中を旅して、美味しいものを探してくるようだ。

 

実は2人だけこの会と関係ないお客さん、カップルがいた。茆さんはそれに気が付くと、すぐに彼らのもとに行き、居心地が悪いだろうと、色々と気配りを始めた。男性が誕生日なのでここへ来た、と分かると、さっと自社のチョコレートをプレゼントするなど、そのやり方は実にスマートですごい。最後は台湾人同士だから、皆が仲良くなり、お開きとなる。イベントと言い、夕食と言い、茆さんにはすっかりお世話になってしまったが、満足いく1日だった。

ある日の埔里日記2017その6(4)日本人会忘年会&イベント準備

12月7日(木)
日本人会忘年会

今朝はゆっくり起きて疲れを取る。ブランチに、近所でチキンバーガーを食べる。いつもならそれで終わりだが、何だか腹が収まらず、ベーコン蛋餅まで焼いてもらう。最近ちょっと食欲があり過ぎではないだろうか。まあ気候も良いので、食欲が出るのも当然かもしれない。

 

夕方、Iさんと下で待ち合わせて、レストランに向かう。今日は埔里日本人会の忘年会だ。私もその端くれに混ぜてもらい、参加した。因みに日本人会は最近発足したが、それは週末の演習林記念イベントのためであり、以前より日本人の集まりはあったらしい。一時は日本人ロングステイヤーを受け入れると言っていた埔里だが、現在ではごく一部の人が住んでいるだけとなっている。

 

会場はYさんの知り合いのレストラン。個室に10人程度が集まった。懐かしかったのはOさん夫妻。6年前埔里に来た時、カレー屋さんをやっており、2度ほどお邪魔したことがある。あちらも何となく覚えていていただき、懐かしの再開となった。今はカレー屋さんを止め、埔里郊外で悠々自適と伺う。また戦後ずっと台湾に残り台湾籍となっている下山操子さん、誠さん、ご姉弟も参加され、非常に有意義な会になった。

 

参加者の内、私とYさんを除く全員が、配偶者が台湾人である。奥さん方も参加され、日本語の他、国語も飛び交う。Iさんのお嬢さんは学校での発表練習を皆の前で披露して、元教師の下山さんが、指導をする場面もあった。料理はどんどん運ばれてきて、お酒も回り、愉快な会で3時間も続いた。今後も年に一回は忘年会を開催し、日頃は会わない方々とも、旧交を温めることとなる。

 

12月8日(金)
イベント準備

今日は金曜日。明後日迫ったイベントの定例打合せがあるのかと思っていたが、さすがに皆真剣に準備に入っており、直接会場となる演習林に集まり、実地の最終確認となる。9月頃には一体どうなるかと心配していたこのイベント、私が不在の間に相当の紆余曲折があったらしいが、結果的にここまでこぎつけたのは、素晴らしい。

 

演習林に早めに行くと、入り口のところで、野菜や雑貨を売っているおばさんたちがいた。どっから来たんだ、と聞かれたので、日本と答えると、何でここに、という顔をしていた。地元の人もこの演習林については、日本との関係も含めてほぼ何も知らない。そしてここにはその歴史を示す看板すらないのだ。

 

実行委員、総責任者、イベント会社、当日のMCなどが集まり、具体的な配置と段取り、問題点を確認している。我々日本人は行っては見たものの、殆どやることはなく、ただ演習林を眺めているだけ。最後に日本人会担当の『コーヒー豆の種飛ばし大会』の場所の確認だけを行い、お開きになる。

 

この北大演習林100周年プロジェクトは、諸般の事情により、水沙連珈琲フェスティバルとして、開催されることになった。北大からも結局2名が参加することになり、形は整えたものの、やはり日本統治時代の歴史に対する複雑な思いと、光復後の管理問題が浮き彫りになり、どうも素直に進められる、という雰囲気ではないのが残念だ。

 

打ち合わせ後、日本人でランチを食べに行く。いつもの古月軒の別館だ。ここは車の駐車が楽なので、便利がよいという。麺も小菜も相変わらずおいしいが、お客は満員というわけではないので、経営はどうなのだろうか。いい店には続いて欲しいと思う、一顧客であった。

 

今日は午後魚池の王さんを訪ねることになっていた。ちょうどのこの店の近くに魚池に行くバス停があったはずなので、皆と別れてそちらに向かう。埔里酒廠の前にバス停があり、そこで待っていると、台中行のバスは向こうに見えた。そのバスが信号で止まった時、その向こうに止まったバスは陰で見えなかった。

 

信号が青に変わると2台が一斉に動き出す。あっと思った時はもう遅かった。その向こう側のバスこそ、日月潭行、私が乗るバスだったのだ。田舎のバスの運転手の一部には、乗客に目もくれず、いや故意に乗せないようにして、自分勝手に行ってしまうバスがあるのは事実だ。今回は完全にやられてしまった。はてどうするか。次は1時間後かもしれない。

 

取り敢えず時間つぶしにバスターミナルまで歩いてみる。ターミナルで聞くと5分後に魚池に行くバスはあるという。おかしいなと思いながら乗り込むと、それは裏道を行くバスで山の中を走るので時間がかかった。それでも次の台湾好行に乗るよりは早く魚池に着く。王さんには1時間遅れると連絡したので、店に顔を出すとちょっと驚いた顔をしていた。

 

王さんのところに行くのは半年ぶりだろうか。王さん自身は紅茶を中心に茶を作っているのだが、今はシーズンオフなので、これまでに台湾のみならず各地から収集してきた様々なお茶を出してきて飲む。凍頂の古い茶やプーアル茶、包種茶の老茶まである。一種の骨董趣味とも言えるだろうか。

 

4時過ぎにバスの時間を考えて、帰ろうとすると、『ぜひ隣で飯を食っていけ』という。いや未だ夕飯には早いと断ったが、是非にというので隣に行ってみると、いつの間にか香港式レストランがオープンしていた。何となくいい匂いだったので、思わず中に入ると、王さんが注文した上にお金も払ってくれた。何とも申し訳ない話だ。

 

叉焼と鶏肉の入ったご飯を食べてみたが、これは旨かった。香港や広東で食べる味と遜色がない。聞いてみると、何とここのシェフは香港からやってきたというのだ。道理で本場の味だと感心していたが、そのシェフはなぜこんな田舎街に来たのだろうか。どうやら香港の将来に見切りつけて、台湾に移住したのでは、との話だった。

ある日の埔里日記2017その6(3)茶苗と陶芸

12月6日(水)
再び竹山へ

今日は2日前に連絡だけして、結局会わなかった劉君を訪ねる事にした。さすがに悪いと思い、早めに借りを返すことにしたのだ。一昨日と全く同じバスに乗れば、同じ時間に同じところに着く、と思ったのだが、田舎のバスはそうはいかなかった。一昨日は間一髪乗れた竹山行きバス、今日は、埔里からのバスが5分遅れたため既に行ってしまい、1時間後しかないというのだ。接続などという概念はないことは知っていたが、困った。

 

だが聞いてみると台湾好行が20分後にあり、それで竹山へは行けるという。ただ停まるバス停が違うため、劉君に確認して、工業区で降りることにした。実は彼の家は、そこからほど近かったので結果オーライになる。彼は車で迎えに来てくれ、すぐに自宅へ向かった。お父さん(松ちゃん)は不在のようだった。

 

もう一人、彼の知り合いの若者が入って来た。張君は何と私の分の弁当も買ってきてくれ、3人でランチが始まる。彼らは若いだけあって食欲も旺盛で、すぐに食べ終わってしまう。私はお茶でもスープでもよいから汁けが欲しいのだが、味噌汁とご飯を配分よく食べるというのは日本固有の習慣らしい。食べ終えてから、彼が作ったお茶を飲み始める。焙煎の効いたお茶がよい。

 

さあ、行こうと劉君が立ち上がり車に乗り込む。どこへ行くのかとみていると何と山を登り、鹿谷にやって来た。竹山-鹿谷は車で僅か15分位。いつもとは違う道を行き、1軒の家の前で車は停まる。そこは何と茶苗屋さんだった。茶旅を長くしているが、茶苗を商う家に来たのは初めてではないだろうか。

 

ここでも若者が出てきた。3代目だという。『台湾北部から南部まで、多くの茶農家が顧客』というだけあり、彼は全台湾の茶業の精通しており、各地に行くこともあり、そのお茶の歴史についてもかなりの知識があって驚いた。しかし考えてみれば、今や茶苗を売る所はそれほど多い訳ではないだろう。彼のところに注文が集中してもおかしくはない。ただ彼もまだ若いので、真の歴史を体感しているとまでは言えない。

 

茶苗の畑を見に行った。ちょっと小雨が降っていたが、何とか見学できた。本当に色々な品種が植えられており、顧客ニーズに合わせて、出荷されるらしい。同業者が減り、注文はそこそこあるとは思うが、現在台湾茶業全体が縮小傾向にあり、当然ながら茶苗業の前途も明るいとは言い切れない。まるで今日の天気のようだと思えてしまった。

 

鹿谷で他にどこへ行くのだろうかと思っていると、何と竹山に戻ってしまう。折角鹿谷に来たのだから、とちょっと残念だったが、流れに身を任せるしかない。次に向かったのは張君の家。実は彼は陶芸師であり、お父さんはこの付近では有名な陶芸作家であるという。個展なども開いている。1階の店には数々の茶壺が並んでいる。

 

お母さんがお茶を淹れながら、色々と話をしてくれた。陶芸は原料となる土が命。お父さんは元々鶯歌で修行し、中国江蘇省の宜興の土を手に入れ、創作に励んできたという。1980年代には比較的容易に手に入った宜興の土、今では中国でも手に入らない貴重な物となっており、こちらでも台湾本島の土など、様々な物を使っているようだ。

 

非常に形の良い茶壺がいくつもあり、あまり道具には興味のない私ですら、思わず写真に収め、FBで投稿した。するとお茶好きさんから、すぐに反応があり、現物は見ていないが、是非それが欲しいという。そういうものなのか?結局価格が折り合わずにこの話は流れたが、世の中とは面白いものだと思う。

 

既に夕暮れとなり、竹山を後にする。劉君に草屯まで車で送ってもらい、そこからバスで埔里に戻ることにした。バスは20分に一本ぐらいあるとのことだったが、なかなか来なかった。夕方の渋滞のせいかもしれない。ようやく乗り込んだが、バス停が多く、いつになっても埔里に着かない。この路線、田舎道だが、意外と民家が切れずに驚く。

 

結局1時間もかかって埔里の街に入った。トイレに行きたいやら、腹が減るやら大変だった。終点より前で降りて、いつも行く鶏肉飯に立ち寄り、夕飯を済ませる。相変わらず繁盛している店だ。このあっさりした鶏飯はやはり美味い。

ある日の埔里日記2017その6(2)林内という街を知る

12月4日(月)
林内へ

今日はベトナムのダラットで先日出会った張さんを訪ねるために林内に向かう。林内にはどうやって行けばよいか分からなかったが、『竹山まで来てくれれば迎えに行く』と言われ、それに従う。竹山は直線距離では遠くはないが、バスの便がないので、遠く感じる。埔里から高鐵台中駅へ出て、そこで南投客運に乗り換えるのがよいと言われた。駅に着いて聞いてみると、『あそこのバスに乗れ』と言われ、走って飛び乗る。間一髪間に合った。そこから30分で指定されたバス停、竹山秀傳医院に到着した。結構立派な病院が建っていて驚く。

 

そこから張さんに電話してもメールしても応答がないので、かなり焦る。ここに取り残されても、どうしようもない。10分待ったが、何の返事もないので、竹山の劉君に連絡を入れてみた。彼は若者だが、一度埔里で会っており、また会いたいと言われていたのを思い出した。ちょうど彼も竹山におり、これから迎えに行く、と言ってくれた。ちょうどその時、張さんから電話が入り、こちらに向かっているという。何と間の悪い。しかし連絡が取れたので、今日の目的を優先して、劉君に断りの連絡を入れた。本当に申し訳ない。病院の周囲をちょっと回っていると、張さんの車が近づいてきた。

 

林内は雲林県にあるが、南投県と彰化県の境に位置しており、昔は交通の要所だったことが分かる。車で5分位いくと橋を渡り、南投から雲林に入るので、その雰囲気が分かる。しかも林内は台鉄の駅があり、二水、田中と並ぶ茶の集積地だったようだ。そんなところがあろうとは、台湾は狭いと言いながら知らないことはいくらでもある。

張さんの家は街中にあり、林内駅はすぐそこだという。家に招かれると、張さんはお茶を淹れてくれ、奥さんは林内名物という、麺を買ってきてくれた。この麺、ちょっととろみがあり、煮卵が入っており、何とも言えない美味しさで驚く。食後に出された柿とリンゴも甘くてうまかった。台湾のフルーツは時々日本を越えている、と思うことがある。またデザートだと言って、名物の氷芋が出された。これはタロ芋かき氷とでも呼ぼうか。非常に冷たく腹に堪えた。

 

 

お土産の日本茶を渡していると、若者がやって来た。お茶好きらしい。彼は私が出したこーちゃん作成の茶のパッケージを見て、えらく驚き、『これは凄い、誰がこんなもの、作り出したんだ』と喜んだ。10分ぐらいして、そのこーちゃんから突然メッセージを受け取った。『今突然中国語でメッセージを受け取ったのだが、意味が分からないので翻訳して欲しい』と。その若者に、『これはお前が打ったのか』と聞くと、『何で知っているんだ、日本は狭いな』と笑う。今の時代の検索とスピードには脱帽だ。

 

張さんのテーブルの上には新聞記事など、過去の栄光が挟まっている。製茶師として色々と賞を取り、この辺ではけっこう有名なのかも知らない。そしてちょっと目を惹いたのが『世界緑茶コンテスト』という文字だった。これは日本の静岡で行われているものではないのか。何で張さんがこれに関わって賞を取るんだ。

 

すると意外な答えが返って来た。『実はタイで製茶指導をしていた時に、偶然出品の話があり、何で緑茶コンテスト、と思ったが、入賞したんだよ』というではないか。何だか聞いたことがある話だ。しかも2009年の受賞、まさか?タイ北部チェンライの茶園、チョイフォン?そこはバンコック茶会でお世話になっている日本人Mさんの関係先で、彼女がこのお茶を持ち込んでいたのだ。何とこんなところでまた繋がってしまった。茶縁恐るべし。しかもMさん、ちょうどご主人と台北旅行中!すぐにメッセージを送ると本当に驚いていた。ただMさんと張さん、直接の面識はないらしい。

 

 

この付近の茶作りの歴史を聞いてみた。1950-60年代にこの街の上、標高350mぐらいの坪頂で茶業が始まり、2-30軒の製茶場が作られたという。張さんの実家もそこにあり、茶作りをしていたことから、彼の今があるようだ。だが80年代には凍頂など、標高の高いところに茶畑が動いていく中、多くの製茶場が閉鎖されて行ったという。張さんは製茶技術を生かして、外で茶を作り、その茶を売るという商売になった。今では林内で茶業に関わる人がごくわずかだという。

 

 

その坪頂に登ってみる。眺めは良い。張さんの実家にはお母さんが住んでおり、天気が良いので、近所の人とおしゃべりしていた。近くには樹齢200年と言われるマンゴの木などが、高々と聳えている。この村の歴史は長いようだが、また長く困窮が続いていたとも歴史は述べていた。

 

 

夜は古坑に行こうという。古坑と言えば、コーヒー発祥の地などと呼ばれ、今やコーヒーで有名だ。私は行ったことがないので大歓迎だった。林内から車で30分ぐらい、かなり山を登り出す。着いたところは真っ暗。下は見えるが夜景という程の灯りがない。そこにはおしゃれな民宿があり、食事もできる。そこで鍋を食べる。夜はかなり涼しい。標高も高いのだろう。更にそこで古坑コーヒーを味わう。ちょっと酸味がある。

 

山を下りると、何と車で埔里まで送ってくれるというので恐縮した。約1時間半かけて、埔里に着いた。今日は一日張さんに世話になってしまった。ところがシャワーでも浴びようとしていると、何と張さんがすぐ近くのお茶屋に寄ったから来ないか、と聞いてきた。その店は知り合いだから、ちょっと顔を出すと、張さんとそこの許さんは福建で共に茶に関係していたらしい。何とも世界は狭い。更には改良場を引退して埔里に住む老人まで現れ、茶談義が華々しく繰り広げられた。解散したのは深夜12時、張さんは車を飛ばして林内に帰っていった。