ある日の埔里日記2017その6(12)原住民の憩いの場

12月24日(日)
原住民の庭へ

今日はクリスマスイブ。台湾でもクリスマスムードが高まっていて驚く。ただケーキを買って食べる習慣はなさそうだ。そんな日に私は地下鉄に乗り、輔仁大学へ向かった。駅を出ると大学キャンパスがある。ここはキリスト教系の大学であり、今晩は盛大なミサが催されるという。偶然ながら、今日ここに来たのには意味があるように思えた。

 

キャンパス内を歩いてみると、教会があり、創設者などの像がある。この大学は中国大陸で設立され、新中国建国後、台湾の地にやって来たらしい。確かに共産中国ではキリスト教系の学校が生き残るすべはなかったかもしれない。そして更に進むと、なぜか台湾原住民の文化が展示されている。

 

そう、本日私は、この大学で民族研究をしているセデック族のパワン先生を訪ねて来たのだ。先生とは先日眉渓でセデック族の結婚儀式の1つを見学した時、出会った。その地域のほとんどの原住民がキリスト教徒だった。それは光復後の政策が関連している。日本が去った後、多くの宣教師が山に入り、布教活動を行った。そして物資欠乏の中で、食べ物を与え、教育の機会を与え、信者を獲得したという。勿論個々の宣教師が困難な中、山の民に尽くしたという功績も大きい。この大学に民族学研究施設があるのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。

 

門のところでパワン先生と会い、車で少し離れた場所に行く。そこは台北とは思えない、のどかな田舎の雰囲気が漂っている。先生夫妻が独力で建てたという小屋と、決して広くはないが、周囲の菜園が心地よい。ここは都会の原住民部落ように見える。昼ご飯としてまずは麺が茹でられ、向こうでは火が熾され、肉や魚が焼かれている。その風景が何とも似合う場所だ。

 

そこに知り合いの女性もやってきて、賑やかな食事となる。現在原住民の多くが台北などで仕事をしている。彼らにはホッとできる、自然な場所がなく、ここに集まって来るらしい。憩いの場だ。中には台湾人で興味を覚えて声を掛けてくる人もいるらしい。そこには民族的な対立という雰囲気はまるで見られない。

 

いい風が吹いてくる。そんな中で台湾の原住民はどこから来たのか、など、素朴な疑問をぶつけていく。パワン先生はまじめな人で、分からなければ他人の論文などを紹介してくれる。大陸の少数民族とは繋がっていないことを言語学的に説明してくれたりもする。やはり台湾は南洋系民族か。

 

話に飽きてくると、先生は立ち上がり、弓矢を持って菜園の向こうへ行く。何とそこには弓道場??が作られている。原住民の弓を引き、矢を放つ。その恰好は実に堂に入っており、格好良い。今では全台湾で競技会なども開かれており、そこで他の原住民とも交流が生まれているという。伝統文化の継承と交流、興味深い。

 

今晩はクリスマスのミサがあるのでパワン先生たちは準備のために家に帰り、この楽しいひと時は終わりを告げた。そして私はバスに乗り、台北駅まで引き返した。台北駅の脇には北門が建っている。その横にいつの間にか、古い建物が現れていた。日本統治時代の総督府交通局鉄道部の建物だったと書かれている。後ろには食堂などの建物も残されている。現在ここの改修工事が行われており、将来的には観光資源になるのだろう。

 

夜はクリスマスイブということもあり、友人たちに声を掛けることはしなかった。しかし一人でレストランに行く気にもなれない。そこで夜市を目指した。夜市ならフラッと言って何か食べられるだろう。折角なのでこれまで行ったことのない松山駅近くの饒河街観光夜市を訪ねて見た。ここは駅からすぐなので行きやすい。

 

夕暮れ時でもすでにかなりの人はいた。店はかなり細い道の両側に並んでいたが、何となく同じようなもの、売れ筋が多いのは致し方ないのだろうか。大型夜市なので特徴はないのだろう。最近は松坂豚肉とか卵焼きなど日本風の食べ物が多い。思わず、まるまる焼というお好み焼きのようなものを買ってしまった。鰹節とマヨネーズに惹かれてしまう。これは日本にあるのだろうか。

 

他に刺身なども出ていたが、いくら涼しくても、なかなか手は出ない。韓国のブテチゲなどがあるのも面白い。だが何といっても人込みを歩くのは疲れる。1時間も経たないうちに人はどんどん増えていき、今日の疲れがピークとなり、腹は満ちてはいなかったが、早々に退散した。

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