ある日の埔里日記2018その3(1)改良場に勤めた人々

《ある日の埔里日記2018その3》

福建から戻って今年3回目の台湾滞在。2週間ちょっとで一度東京へ戻る予定になっており、滞在は短かったが、意外なことが起こり、混乱する。更にはM先生ツアーに交じって激闘茶旅を繰り広げる。そして最後は台南へ。

 

4月25日(水)
突然魚池へ

埔里に戻ってくると、図書館の陳さんから連絡をもらう。『先日会った老人が昔東邦紅茶で運送の仕事をしていたという。彼によれば、東邦紅茶全盛期に番頭のような役割を果たした人が、今も90歳前後で生きているらしい』との情報だった。早速図書館で詳細を聞いたが、その老人の住所などは分からない。本件は郭さんに聞いてみることにしよう。

 

その図書館4階に一人の老人が来ていた。彼は思い出したように『今は埔里で茶商をしている人で、昔茶業改良場に勤めていた人がいる。彼なら茶の歴史を知っているのではないか』という。ぜひ紹介して欲しい、と依頼すると、その夜、ちゃんと連絡先が送られてきたので、早々に連絡してみた。

 

その林さんという人に電話すると、『ああ、今から来て』と言われ、早口で住所を言われたが、聞き覚えのあるものではなく、まずは電話を切って地図を眺めてみたがさっぱりわからない。漢字が思い浮かばなければ検索すら出来ず、これは意外と困ったことである。仕方なくもう一度電話して、近くの目印などを聞いて、何とか歩き出す。

 

かなり歩いてみたが、なかなか目的地にたどり着かない。気が付いたことは、『車を運転する人が近くだ、すぐだ、と言ってもそんなに近い訳ではない』ということ。先方はまさか私が歩いて来るとは思っていないのだ。何とか探し当てた頃には、林さんも心配して道路まで出てきてくれていた。

 

林さんが改良場魚池分場で働いていたのは20年も前のことだという。それも数年だけで、後は自らお茶関係の商売などをしてきたらしい。現在は自宅の1階で簡単な茶荘をやっている。彼はまだそれほどの年齢ではないので、歴史的なことは分からないという。そして『やはり魚池の改良場に資料があるのではないか』と言い、これから魚池へ行こうと言い出す。

 

彼の車で30分、今年3度目の改良場へ到着した。今日は天気が悪く、日月潭を望む景色ももやっている。林さんはすぐに旧知の女性を見つけて、資料の話をするが『そんなものないね』という顔をされる。私はここで以前一度だけ会った陳さんを思い出し、今居るかどうか聞いてみる。暫くして陳さんが来てくれた。

 

彼は自らまとめた資料を持ってきてくれた。それを見ると、実は前回もらっているものもかなりある。しかし前回は知識がなかったので、その資料を見ても、何が重要なのか、何が貴重なのか、さっぱり分からなかったが、今回はいくつも驚くような話が載っていた。そして魚池でも歴史的な茶業関係者の末裔などがおり、彼らが資料や写真を持っている可能性があると聞いた。だがこの掘り出し作業はそう簡単ではなく、今後徐々に行っていきたいが、彼も忙しいようだった。

 

次に林さんが連れて行ってくれたのは、改良場よりさらに先にある家。と言っても看板もなく、犬がいるだけで、何をしているのかは分からない。入っていくと、何と簡単な製茶設備がある。ここに陳さんという人がいた。20年前、林さんが改良場に勤めていた時、改良場でメインに茶作りをしていた人らしい。昔気質の職人さんの雰囲気がある。

 

お茶を飲ませてもらったが、紅茶には独特の風味が感じられた。最近俄かに作り始めた人とは違う、と言いたいようなお茶だった。これを林さんが売っているのだろう。そういう補完関係にあれば、2人ともお茶のことはよくわかっているのだから、それは結構強力な関係だ。なぜか日本のフィギャアが沢山置かれているのがご愛敬だ。夕方まで改良場の人々ことなど色々と話して、林さんの車で埔里まで送ってもらった。

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