ある日の埔里日記2018その2(14)三義に行ったが

4月12日(木)
三義へ

台湾緑茶の発祥はどこか、何とか調べたかった。ある資料には苗栗という文字が出てきており、先日は頭份という街に行ってみたが、どうやら苗栗内でも、北側ではなく、銅鑼か三義だろう、という話になっていた。三義とは、歴史の資料に出てくる三叉河のことか。行ってみたかったが、ただ行ってもツテがないと、何もわかりそうになかった。

 

三義には台湾農林の茶工場があると分かり、先日出会った陳さんに紹介を依頼したところ、直前になってOKが出たので、急遽三義に向かった。埔里からバスで台中駅へ。そこから台鉄の区間車に乗っていく。豊原を過ぎるとすぐに苗栗に入る。この辺になると電車の本数が減ってくる。

 

苗栗に入ると何となく空気も変わった。そして急に雨が降って来た。この雨が非常に激しくなった頃、三義駅に到着した。紹介されていた魏さんに連絡を取ると、すぐに迎えに来てくれる。車に乗り込む際のほんの一瞬でもかなり濡れたほど、その雨は凄かった。この付近でも数日ぶりの雨に皆驚いていた。

 

車は5分ほど、坂を上り、茶工場に着いた。裏に少しだけ茶畑が見えた。雨だったが、昨晩摘んだ茶葉の処理が行われている。烏龍茶作りが行われているようだった。今この工場では烏龍茶、東方美人、紅茶などは作っているが、緑茶は全く作っていないと言われてしまう。

 

私の訪問趣旨を魏さんに話すと、『うーん』と考え込んでしまった。自分はこの付近の出身だが、昔緑茶が作られていたことなど、誰からも聞いたことがなかったという。工場の上司に聞いてみても『俺が入ったのは1980年頃だからさ』と言って、やはり全く覚えはないという。むしろ、そのちょっと前には日本向けに煎茶を作ろうとしていた歴史には記憶があると言い出した。

机の中をごそごそ探してくれて出てきたのは古い写真。その写真には木造の茶工場が写っていたが、『これは1950年代の台湾農林の工場。駅前にあったが、30年前に取り壊してここに移転した。昔の工場は日本時代に三井の紅茶工場だったのさ』という。そうか、三井の主力工場は、大寮、大渓、そしてここ三叉河にあったのだ。それを戦後農林が引き継いだわけだ。

 

魏さんは電話を掛けているがなかなかその人は捕まらなかった。ようやくバイクで現れたその人物は蘇さん。元ここの副工場長で75歳だというが、今でも毎日工場に現れ、茶葉の出来を見ている。彼のおじさんは日本時代に三井の工場に勤めて紅茶を作り、お父さんも農林でそれを引き継ぎ、更には蘇さんもそれを引き継いだ、3代にわたり茶に人生を捧げてきたというのだ。

 

『ちょうど90歳代の人々は全て亡くなってしまい、その昔のことは分からない。ただ爺さんから茶のことは色々と聞いているが、緑茶の話が出たことは一度もない』と言われてしまう。三義が台湾緑茶発祥の地かもしれないというのに、あまりにも意外な反応だった。どうしてこんなことになっているのだろう。

 

ちょうどそこへ三義郷の郷長だという人もやってきたので、『三義郷誌に緑茶生産の話は載っていないのか?』と聞いてみるも、日本時代の紅茶の話は有名だが、それ以前の緑茶の話は全く記載されていないし、聞いたこともない』と同じ反応をされてしまい、完全に途方に暮れる。

 

何故なんだろうか、と自問自答を繰り返して何もならない。心優しい魏さんは弁当を頼んでくれ、一緒に食べた。そういえば、もう一つ銅鑼という場所にも茶工場があるようだが、と切り出してみても、『あれは後から作った観光用だ』と言われてしまい、ほぼ万事休すとなり、本日の調査は終了した。

 

そして収穫のないまま、この地を後にして、駅までまた車で送ってもらった。雨はすっかり止んでいる。魏さんが『ここからここまでが昔の工場の敷地(日本時代に三井の日東紅茶が作られた場所)だった』と教えてくれたが、そこはマンションや商店になっており、工場の跡を示すものは何一つ見当たらなかった。記念碑の1つぐらいあってもよいのでは、と思うのは日本人だからだろうか。

 

魏さんと別れて駅に入ったが、次の列車が来るまで30分以上あったので、周囲を歩いてみた。駅前付近には本当に何もなかった。鉄道の下を通る道に、鉄路英雄地下道と書かれているのが目を惹く。1903年にここに出来た鉄道駅、その完成までにはどれだけの苦労があったのだろうか。同時にそこまでの苦労をしても、鉄道を通したかった日本、その犠牲になった台湾人、それも今や歴史なのだ。この昔三叉河と呼ばれた地域には、まだまだ知られざる歴史が眠っているようだが、今はひっそりと息をひそめている。

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