ある日の埔里日記2018その2(10)観音瀑布で

4月4日(水)
郊外散歩2

清明節の連休に入った。私の活動も完全に止まり、ひたすら部屋で日記などを書いて過ごす。だが今回3階から2階に移った部屋には、なぜかちゃんとした机がなく、低いテーブルに合わせて、低い椅子に長時間座っているのは、ちょっと厳しい。そこで図書館を利用させてもらい、勉強を進める。それに飽きるとまた散歩に出ることになる。

 

今回は先日の愛蘭地区とは反対方向、霧社へ上がる道路沿いを歩いてみる。ここにはバスが通っているのだからバスに乗ればよいのだが、それでは散歩にならないので、歩く。最初は郊外の田舎道を歩き、きれいな花が咲いているところもあり和めた。でも田舎道は長くは続かない。基本的には霧社に登っていく大きな道路の端を歩いていくほかはなく、大型バスの危ない運転に冷や冷やし、暑い埃の中を歩くのは決して気持ちの良いものではなかった。

 

それでも前に進んだのは、前からちょっと気になっていた滝を見ようと思ったからだ。いつもはバスでスーッと通り過ぎてしまうのだが、この機会に意を決して見に行くことにした。ただバスでは近く感じられた滝までの道のり。歩いてみると本当に遠かった。途中にはもう一つの地理中心の碑があり、花がきれいに整備されていた。ここは観光客向けのスポットだった。

 

ようやく眉渓という文字が見えた頃はもう汗だけで疲れもピーク。ただここまで来てバスに乗るのも癪なので、そのまま歩き続けた。10㎞ぐらい歩いた気分だ。そしてついに観音瀑布と書かれた場所にやって来た。道路沿いには川が流れており、そちらを渡す橋も架かっているが、何となく吊り橋のようで敬遠した。ここには数人の若者がハイキングに来ていた。

 

ところが愕然とする事態が目の前にあった。何と瀑布に分け入る小道のところには『工事中、近寄るな』の文字が見えるではないか。そして私の侵入を阻止するように、柵が置かれているではないか。ここまで歩いてきてそれはないよ、と泣きそうになっていると、何とその道から老夫婦が出てくるではないか。思わず駆け寄って『ここは入れるのですか』と聞くと、『たぶん問題ないよ、我々も今見てきたところだから』と言ってくれたので、また意を決して?突入した。

 

山道を深く入っていくのかと思い込んでいたが、何と2-3分上がるとそこには滝が見えた。思いの他、水量もあり、立派な滝だった。ただその前で工事をする機械が作業中で動いている。工事の邪魔にならないように遠くから写真に収めていると、作業員のおじさんが『そこだと上手く撮れないだろう。今機械止めてあげるから、もっと前に来て撮りなよ』と言ってくれるではないか。

 

さすが台湾だ、と思ってしまう瞬間。日本ならきちんと保安員がいて、至極丁寧に頭を下げて、危険なのでお帰り下さい、というはずだが、ここは世界が違う。勿論作業員も休息のタバコが吸いたいわけで、ここではお互い阿吽の呼吸が成立する。ルール至上主義の日本では考えられないが、なんとも嬉しい光景だ。

 

これを臨機応変と言ってよいかは分からないが、この山の中で危険があるかないかは、『見ればわかるでしょう』ということだ。今の日本では見えない力が見えるものを抑え込み、さも自分が正しいかのように振る舞っている。世の中、そんな簡単ではないし、庶民にはルールだけが全てではない、などと勝手に思ってしまうが、どうだろうか。

 

おじさんに手を振って滝を後にする。滝の近くがさわやかで涼しかったこともあり、何とも晴れやかな気分になり、これまでの疲れも吹き飛んでしまったから、不思議だ。しかしさすがに今歩きてきた道を、また歩いて戻る気力はなく、ちょうどやって来たバスに飛び乗り、埔里に戻った。今日の散歩は一体何だったのか、よく分からないが、終わり良ければ総て良し、だ。

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