ある日の埔里日記2018その2(11)大同山へ

4月8日(日)
スマホ死亡

清明節連休も最終日、今日はご近所のIさん夫妻に大同山に連れて行ってもらうことになっていた。その前に図書館で調べ物をしようと向かったのだが、そこで思いもしない不幸な出来事に遭遇してしまう。図書館の机に座った瞬間、スマホが全く作動しなくなってしまった。実は先日電池の不具合があり、東京で電池交換を行って、僅か1か月しか経っていなかったので、驚いた。

 

朝の9時台に開いている携帯ショップなど見付からない。待ち合わせの時間は迫ってくる。フラフラ歩きまわっていると、1軒だけ扉が開いている店があったので、飛び込んだ。店主は私のスマホを少しいじって『残念ですが』という。確かに画面が立ち上がる気配はない。回復の見込みがないと分かると同時に、私は連絡手段の全て、および時計機能など、何もかも失くしてしまったことを知り、愕然とする。

 

店主に相談すると、『今ここで中古スマホを買うしかないでしょう』という。そして2台の中古を取り出して、どちらにしますか?と聞く。するとそこにおばさんが入ってきて、やはりスマホの不調を訴える。店主が私にしたいのと同じ宣告を下すと、彼女はすぐに中古スマホを物色し始める。

 

私は現金の持ち合わせが少なかったので、その範囲で買える物をすぐに選び、購入した。そして店主が色々とサポートしてくれ、メール、FB、LINEなどの回復に努めた。万が一のためにパスワードなどを控えており、ある程度はすぐに復旧して、ホッとした。やはりこれからスマホは常時2台持つ必要があると感じた。カメラ機能などを使っていれば猶更だ。

 

待ち合わせの時間が迫っており、急いで宿泊先に向かう。途中狭い道を通って大きな通りに出ると突然名前を呼ばれる。見るとIさんの車がそこに止まっているではないか。携帯ショップに迎えに行こうと思ったが、行き違いになるのを恐れて、ここで待っていたというのだ。私の行動パターンは完全に読まれている。

 

大同山で
大同山に向かう。数日前観音瀑布に行くために歩いた道を車は進む。車は早い。あっという間に滝の横を通り過ぎた。あの歩きは一体何だったのだろうか。修行か。そこからほどなく、眉渓付近に到着する。I夫人の故郷であり、彼女の親戚が待っていてくれた。彼らは大同山で茶畑をやっていたという。やっていた、ということはもうないのだろうか。

 

彼らの車に乗り換えて、山道を入っていく。かなり急な坂道で普通乗用車ではとても上がれない。標高1000mを越えてくると、茶畑がちらっと見えた。その先の家に車は入っていく。何と食事を用意してくれるといい、下で調理したものを持ち込んで温めている。ここは農作業の場なのだという。

 

天気は最高によく、ちょっと強いが何ともいい風が吹いている。既に結構暑くなってきた埔里の街から来ると、何とも心地よく、眠たくなってしまう。山のご馳走を頂き、気分も上々。食後のお茶は『今は自分で作っていないから、誰かが持ち込んだものだ』と言って淹れてくれた。猫がいい感じでそこここを歩き回る。

 

今は茶を辞めて、野菜畑にするため、温室を作っているという。家の横には作りかけの温室があり、もうすぐここに高原野菜を植える準備が進んでいた。『昔はここの茶も高山茶としていい値で売れたが、今はもっと高い場所の茶の原料として安く買いたたかれるので、止めたんだ。高原野菜の方がずっと儲かる』というのだ。

 

標高1000m辺りの茶の現状はこのような感じではないだろうか。この山の頂上付近は1500mほどであり、そこではまだ茶が作られているというので連れて行ってもらった。確かにそこにはきれいな茶畑が並んでいる。ここは30年ほど前までは原住民との土地だったが、その頃平地に住む人が買い取ったらしい。茶園は良く管理されていた。高山茶ブームを見越しての投資だったのだろう。

 

この高地から周囲を見ると、遠く霧社の方までよく見える。向かいの山は東眼山と言い、こちらは、大同山よりさらに茶園が広がっているらしい。遠く、山の斜面を見ると、かなり削られている場所があり、開発が行われたことがよくわかる。高山茶の開発は山を削ることであったと気付く。

 

車で山を下り、道路脇のI夫人の親戚の家に寄ると、そこでは以前茶葉を売っていたようで、広いスペースがあり、茶の名前などがガラス戸に書き込まれていた。老人が『昔は茶がよく売れたよ』と懐かしそうに言う。高山茶の変遷ももう少し勉強してみたいと思った。

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