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ある日の台北日記2018その3(5)豊原の旨い物

11月7日(水)
豊原へ

私は埔里滞在中から、一人でご飯を食べる場合は、一日二食を基本としている。そして午前10時過ぎに食べるブランチ、その多くはクラブサンドイッチにしている。特に意味はないが、好きなのだ。だが、台北に来てから近所にお気に入りの店が見付からない。作りが雑だったり、店員の愛想が悪かったり、とどうも通う気が起こらないのだ。

 

そこで活動範囲を広げてみた。かなり東の方まで歩いていくと、賑やかな繁華街があり、そこには市場もあった。朝から人も大勢歩いており、宿泊先の静かさとは対照的だ。何軒かの朝ご飯屋が存在しており、その中で目を惹くところがあった。炭火鉄板三明治、かなりそそられる。

 

小さなその店、飾りは可愛らしく女性的だが、思い切って入ってみる。店員の女性はかなり愛想がよく、好感が持てる。取り敢えず『当店のお勧め』である招牌サンドを注文してみる。この値段は普通に私が頼む物より、20元は高い。飲み物の紅茶を加えると100元にもなる。だが、やってきたそれは、それだけの価値が十分にあった。パンもちゃんと焼かれており、中にはカツまで挟み込まれている。上質なカツサンドともいえる一品だった。これには驚き、満足して去る。やはり台北は侮れない。ちゃんと探せば、そしてほんの少しコストをかければ、美味しいものはいくらでもありそうだ。

 

午後は台北駅に向かった。今日はこれから豊原に行く。台中なら迷わず高鐵に乗るが、豊原なら自強号かと思い、昨日切符を事前予約しておいた。万が一、満席だと2時間立って行くのは嫌だった。中国ほどではないが、台湾でも駅の窓口でチケットを取らないといけないのは、時間が読めずに困る。案の定、お婆さんが何度も同じことを聞いており、係員も困りながらも親切に対応している。その間、我々はずっと待っていなければならないのだが、まあ仕方がない。想定内だ。

 

何とかチケットをゲットして、自強号に乗り込む。毎回思うことだが、35年前、初めて台北に来て、台中まで自強号に乗ったあの日のことが蘇る。あまりに緊張して車両を間違えて座っていたこと、何時に着くのか一向に分らず、何度も隣の人に聞いた記憶もある。あれば私の初の海外、初の海外電車だった。車両は多少新しくなったかもしれないが、自強号は基本的にあの頃と変らない。豊原に着く時間もほぼ変わらない。

 

ところが豊原駅の方は大きく変わっていた。前から工事はしていたのだが、10か月ぶりに来てみると、新駅舎が完成しており、非常にきれいになっている。駅前も広々としており、これまでの裏口から出てきていたのが、すぐに正面に行ける。ただ駅前には沢山のU-bikeなどがあり、多くの学生がこちらに向かって自転車を漕いできて、その勢いに押される。

 

いつもとは別の路を歩き、いつもの泉芳茶荘に行く。ジョニーはまだ帰っておらず、お母さんにお茶を淹れてもらい、頂く。そして相変わらず、高山茶の歴史確認を行い、途中には当事者でもあるお父さんも登場して、作業が進む。とにかく、この一家と高山茶の繋がりはかなり深い。

 

ジョニーが帰ってきても、話はまだまだ続き、気が付くと8時近くになっている。その間に美味しい肉圓をご馳走になったが、廟東の夜市に行くタイミングを逸していた。さあ、どう切り上げようかと考えていると、突如お母さんが『これ食べて』と言って、カレー味の鴨肉入りパスタを出してくれた。

 

申し訳ないと思いながら食べてみると、これが実にうまい。うまいと言うと、今度はジョニーが『鴨肉がうまいぞ』と言って、煮込んだ鴨肉をご飯にかけて持ってきてくれた。これがまた飛び切り旨い。聞けば市場で鴨を買い、長い時間煮込んだ物だという。この家は普段からいいお茶を飲み、いいものを食べているに違いない。今晩は夜市に行く必要がなくなった。

 

夜も9時近くなり、宿を決めていないというとジョニーが慌ててホテルに電話してくれた。だがいつも泊まる宿は何と満室だと断られたという。何故だ?台中で今月から世界花博が開催されているとは知っていたが、実はその会場は台中ではなく、ここ豊原などにあったのだ。結局ジョニーが探してくれて、駅前のホテルに空きがあるというので行ってみる。

 

チェックインすると相当広い部屋で、浴室から外が見える、大きなベランダがあるなど、かなり豪華で私には不釣り合いだった。普通の部屋はやはり一杯だったようだ。偶にはこんな部屋に泊まるのも良いか、とは思ったが、広すぎてよく眠れない。いや、先ほど散々お茶を飲んだからだろうか。それともお茶の歴史の興奮が冷めていなかったからか。

ある日の台北日記2018その3(4)ご縁を繋いで

11月6日(火)
ご縁を繋ぐ

昨年から大茶商、王添灯氏について調べており、そのお孫さんである黄さんには何度も大変お世話になっていた。黄さんには王添灯以外にもう一人、父方の祖父がいる。黄鐵という名前のこの方、日本の会社の丁稚から身を興し、日本統治時代に日本の大手メーカーの台湾における販売代理店社長になった人だった。黄さんの家には祖父の遺品が沢山あり、是非その日本企業に見せたいという希望を持っていた。

 

その依頼があった時、私はとても驚いた。というのが、私が会社に就職した最初の職場の最初の上司が、何と黄さんの言った会社の関係者だったのだ。取り敢えずその先輩に連絡し、先輩がその会社に口をきいてくれ、ついにその会社の現在の社員が出張のついでに、黄さん宅を訪問する段取りとなったのだ。

 

当日その社員、Kさんと滞在先のホテルで待ち合わせ、タクシーで黄さん宅に向かった。だが途中で黄さんから電話があり、行き先が少し変更となる。黄さんたちが待っていたのは自宅近くのおしゃれなカフェ。そこに段ボールがいくつか持ち込まれており、広いスペースでゆっくりと拝見することとなった。

 

黄さんの弟さん、ご主人、娘さん(赤ちゃんも)まで同席され、沢山の資料が示され、色々と説明があった。こんなに資料が整っているのは、3年前に台北でこの遺品の展示会を行ったからだ。この展示会を見に来た当時を知る人からまた情報が寄せられたともいう。中には台湾の大企業の経営者もいたというから、興味深い。

 

この展示会のために、娘さんが主に資料をまとめ、ビデオまで作られていて、本当に驚いた。同時に当時の大稲埕付近にあった、自宅や関係する会社など、黄鐵氏ゆかりの場所の地図も作られていた。今度この地図をもって大稲埕を散策してみるのも悪くないと思う。

 

終戦に伴い、日本人が引き上げた後、この商品は日本から入って来なくなってしまう。黄氏は以前よりその製法などを研究しており、台湾で自ら作ることにしたらしい。その会社は途中で一緒に経営していた台湾人が引き継ぎ、今では誰もが知る会社となっているという。同時に黄氏が生きている間は、日本企業との連絡もあったと言い、黄さんは子供の頃に会った日本人のことを語り出す。

 

今回ご縁を繋ぐことが出来たことで、黄さんたちが非常に喜んでくれたことは、素直に嬉しい。このカフェで皆さんとブランチを食べながら、話は色々な方向へ向かい、盛り上がる。先輩に良い報告が出来ることも、何とも有り難い。茶の歴史を学ぶ中、こういう機会が有ると、もう一つのやりがいを見出すような思いだ。

 

Kさんとタクシーに乗り、皆さんと分かれる。すぐに懐かしい道を見つけて降りる。そこは31年前、私が暮らした場所だった。長らく行っていなかったので、当時住んでいたところを訪ねてみることにした。ここは松山空港のすぐ南側であり、飛行機の音が聞こえると特に懐かしい。当時は国内線と軍用の飛行場であった。

 

敦化北路と民生東路の大きな交差点には、今もマクドナルドがあり、それほど大きく変わっているようには見えない。その先を入っていくと、昔は完全な、静かな住宅街だったが、今はおしゃれなカフェやレストランが多くある賑やかなエリアに変身していた。大体の場所に既視感はあったものの、自分がかつて暮らしたアパートを認識することは出来なかった。このアパートでは、何と空き巣に入られ、大変な思いをしたので、印象は強かったはずなのに、最近の急激な忘却は、もう止めることは出来ない。

 

帰りは天気が良かったので、U-bikeに乗っていく。途中懐かしい場所を幾つも通り、U-bikeは勿論、MRTもない時代の外出を懐かしむ。30年経ってもまだ建っているビルは多くあり、1つずつの思い出が頭を過る。私は間違いなく、30年前この街で暮らしていた、生きていたと実感は出来るが、記憶の曖昧さは美しい思い出だけを小出しにしているようにも見える。今私が茶の歴史で話を聞く老人たちも、もしやすると、こんな感じで昔話をしてくれているのかもしれない。

 

夜、腹が減り、近くの屋台街へ向かう。何だか炒飯が食べたくなり、探してみるが見付からない。ようやくあったその店の炒飯は正直それほど美味しくはなかった。何が違うのかは分からなかったが、何かが違うのだ。それは今の台北が、30年前の台北と何かが違うのだ、と感じるのと同類のようにも思えた。

ある日の台北日記2018その3(3)猫空&石門 鉄観音茶の歴史を追う

11月3日(土)
猫空へ

台湾の鉄観音茶の歴史を調べるために、これまで何度か木柵、猫空へは行っている。だが、本当の台湾鉄観音茶の歴史というのはどうもしっくりとは来ていない。前回知り合いの黄さんに相談すると、『それなら何度でも違うところに行って聞いて見るべきではないか』と言われたので、お願いして、黄さんの知り合いの茶農家に連れて行ってもらった。

 

MRT動物園駅で待ち合わせて、黄さんの車で上に上がる。私は高所恐怖症であり、ロープウエーなどに乗るのは好まない。車が着いた場所は、先日訪ねた張乃妙紀念館のすぐ近くであった。やはりこの辺が木柵鉄観音茶の発祥地だからだろうか。中では林さんが待っていてくれた。

 

この地に来て5代目だという林さんだが、元々は野菜などを作っており、茶は副業だったという。しかも1970年代に林さんの父が鉄観音茶を作り始めるまで、その茶は包種茶だったようだ。80年代には猫空の観光地化が始まる。それと共に鉄観音の名声も上がっていき、90年代に最盛期を迎えた。

 

だが2000年以降は観光の方に力が入り、茶の生産は減少傾向だという。木柵から茶畑が減っているおり、同時に摘み手の老齢化が拍車をかけている。茶葉は坪林など他の茶産地から調達しているケースも多い。品評会の評価方式も変わり、伝統的な鉄観音より軽発酵、軽焙煎の物が賞を取るようになり、本来の鉄観音茶は失われつつある。

 

黄さんはこの茶農家に毎年、仲間を募り、自分たちの好みのテイストの鉄観音茶を特別注文して作ってもらっている。本当に飲みたい鉄観音茶はこのようにしなければ、手に入らないというのが現状だ。作り手も、『原料の茶葉も少ない中、確実に売れなければ手間をかけて作ることはない』というのが本音だろう。

 

この日、猫空周辺はどんより雲で覆われていた。土曜日なのに何となく寂しい雰囲気が漂う。話の内容が明るいものではなかったからだろうか。とにかく分かって来たことは、『台湾において鉄観音茶がメジャーな商品になったことは歴史上一度もないし、恐らく今後もないだろう』ということだ。ある意味で、歴史があると思い込んでモヤモヤするより、歴史は殆どない、と考える方が非常にスッキリする。本当の歴史とはそんなものではないだろうか。

 

11月4日(日)
再び石門へ

木柵の翌日、葉さん夫妻に連れて行ってもらい、もう一度石門を訪ねた。葉さん夫妻は早朝、マラソン大会で10㎞走って帰ったばかりだというから、申し訳ない限りだ。台湾も今はマラソンブーム、毎週のようにどこかで大会が開かれている。健康ブームともいえるか。

 

途中、淡水の近くで、一人の若者をピックアップ。MRT駅からかなりの坂を上ったところに住宅街があり、ちょっと驚く。台湾のバブル期、この辺もかなり開発されていったようだ。そう考えると以前訪ねた新店などはもっと前に茶畑は消え、住宅街になっていたのだな、これが台北という街の歴史なのだ、と思い至る。

 

石門の茶農家を訪ねる前に、三芝の街中にある、老地方という名前の食堂に向かう。昼過ぎだが、店の外まで人が溢れ、混みあっていた。入口で豪快に小籠包が蒸され、肉圓が作られ、大根などが煮込まれている。確かに美味そうだ。結局席を確保するまでに30分以上かかってしまう。小さな街にこれほどの人気店があるとはビックリした。客の多くが家族連れ、地元の人々だろう。安くて、ウマい、は共通語だ。

 

石門の茶廠に向かう。草里製茶廠に着き、3月に訪ねた85歳の謝さんに会う。この地の石門鉄観音製造は1980年頃始まった。その時の販売責任者はこの謝さんだった。彼によれば、茶業改良場の指導の下、硬枝紅心という、この地に植えられていた品種で鉄観音を作ったという。そして台湾各地に赴き、販売活動を展開したと言い、顧客ニーズに応えていち早くティーバッグ製造機械を導入したりしている。これらの努力により石門鉄観音の名前は知られるようになった。

 

だがそのセールス活動の資金はどこからねん出されたのか、という疑問があった。実は途中で原子力発電所の脇を通った。確かに台湾にも原発はあり、その一つがこの辺にあることは知ってはいた。そして彼の話を聞いているうちに、原発と石門茶の関連に思い至った。1980年代に、石門鉄観音茶を売りだしたのは、勿論それまでの包種茶や紅茶の需要がなくなったからだろうが、同時に鉄観音売り出しの資金は恐らくは街は入った補償金から出ていたのではないか、それだと合点がいく。

 

この付近は1920年代、台湾茶業の中心の一つであり、この地域一面、茶畑だったらしい。特に輸出用の包種茶、そしてその後の紅茶が有名であった。謝さんは話の半分以上を台湾語で話すので、葉さんの通訳が必要になり、肝心な話をうまく引き出して聞くことは難しかった。

 

ただ祖父の謝泉はこの地の有名人であり、もう一人許里と並んで台湾茶業界にその名を残している。その謝泉は、政府の巡回教師に任命され、台湾北部各地を回り、製茶技術を教えている。政府は1920年代に推奨していたのは包種茶だった。そしてこの家には謝泉が巡回教師として回った地名、そして生徒名が資料として残されているが、その中に台湾包種茶を発明したと言われている南港の魏静時の名前があることに首を傾げてしまう。この点についても謝さんはヒントになるような話を全く聞いていないようで、謎は深まっていく。

 

帰りがけに少し茶畑を見に行ったが、本当に小さかった。その周囲を車で巡ってもらっても、往時の面影を発見することは全くできなかった。車が迷路に入ってしまったように、石門の茶の歴史も話が横道に逸れていく。

ある日の台北日記2018その3(2)入り難い居酒屋の今

11月1日(木)
入り難い酒屋へ

台北での生活は埔里とは違い、刺激に満ちている。その分、資料を読む勉強やそれを文章にまとめる執筆に集中できないという難点もある。それでも出来れば、会いたい人とは会い、食べたい物は食べる、というのが良いように思う。変化がある方が更にモティベーションが上がるというのは本当だろう。

 

昼はいつものBさんとランチの約束をしていた。指定された場所に向かうと小雨が降っており、U-bikeは使えないので、地下鉄に乗り、そして歩く。そのレストランはスマホ地図で見ていたにもかかわらず、なかなか見付からなかった。何とかたどり着くと、実は数年前に来たことがある場所だった。既に午後1時だが、席は埋まっていた。店主が『取り敢えずここに座って待って』という。

 

そこにBさんがやってくると、店主が笑顔になる。実は彼女は店主ではなく、ご主人の代わりに仕事の合間に店を手伝っていただけだった。そして出版社に勤めているらしい。このお店、ベジタリアンフードがウリだ。台湾にはベジタリアンが意外と多いので、このような店は重宝される。Bさん夫妻も常連だという。

 

何となく肌寒い台北、キノコの鍋を頼んでみる。味がしみ込んでいる。とても優しい味付けのご飯で、体も暖まった。Bさんとは取り留めのない話をいつもする。それが意外と思考には役に立つ。全く違う世界で生きている人と話すのはためになる。これから北投温泉でのイベントに行くというBさんについて行きたかった。

 

小雨が止まず、どこへも行けないので、一度宿泊先に戻り、休息する。台北は暖かいと思って、長そでのシャツすらあまり持ってこなかった。ズボンも薄いのしかなく、正直寒い。これから1か月、もしこんな天気が続いたら、相当に困ってしまうだろう。まさか天候不順、気候変動の波に襲われるとは思いもよらない。服を買いに行くべきかでかなり迷う。

 

夜はいつものTさんと会うことになっていた。台北のレストランに詳しいTさんに『どこか懐かしい感じのする場所』とリクエストすると、早速3つの場所が送られてきた。さすがだ。その中で、ちょっと変わった店があった。『入り難い居酒屋』と紹介されていたので、行ったことはなかったが、そこに行くことでお願いした。

 

バスで近くまで行き、その居酒屋を探した。指定された付近はなんとなく懐かしい。確か30年ほど前、この辺によく来た記憶がある。そうか、この交差点の近くに、あの鼎泰豊の老店があったはずだ。今や飛ぶ鳥を落とす勢い、すごくきれいでサービスも整っている鼎泰豊だが、あの頃は古びた、学生が行くような店だった。オープンキッチンとな名ばかりの、作っているところが丸見えの1階、狭い階段を上がる2階、欠けた皿、安いが旨い料理、そんな思い出は今の鼎泰豊には不要だろうな。探してみたが、その店はもうないようだった。

 

そしてようやく見付けた入り難い居酒屋。ところがどう見ても入り難くない。むしろきれい過ぎて入り難いレストラン、と言う感じだ。本当にここだろうか、と恐る恐る入っていくと、既に奥の方にTさんが陣取っていた。『この店はすぐに満員になるから』と言って早く来て待っていてくれたようだ。有り難い。

 

『実はこの店、場所が最近移転したんです』というので、ようやく理解した。NHKの番組で取り上げられた時は、まだ古い店だったらしい。この店は元々民進党の人々、支援者が集まる場所としても有名で、それが『入り難い場所』の一つの理由だったともいうが、今はどうなんだろうか。台湾の保守派になったと言われる今の民進党には新しい店舗が相応しいかもしれない。

 

取り敢えず名物を注文してもらったが、料理はかなりうまい。酒飲みにはたまらない食べ物がどんどん出てくる。酒を飲まない私は冷蔵庫からお茶を取り出して飲むが、それでもOKだから有り難い。日本の居酒屋で酒を飲まず、酒の肴だけ食べるのはかなり勇気がいり、もう長い間遠慮しているので、台北のこんな店は有り難い。

 

後からSさんも合流して3人で大いに食べる。店には日本人客も何人も訪れ、これまた名物の『愛想のないおかみさん』と記念撮影などしている。じっと見ていると、おかみさん、確かに愛想がある方ではないが、だからと言って特に怖い訳でもなく、問題もなさそうだ。隣の台湾人グループはかなり盛り上がっていたが、急に一人がこちらを向いて『うるさくして申し訳ない』と謝って来た。何だか日本の居酒屋にいる雰囲気で、なんとも好ましい。

ある日の台北日記2018その3(1)面倒なLCC

《ある日の台北日記2018その3》  2018年10月30日-12月5日

今年最後の台湾滞在。と言っても1か月以上の長丁場であり、さほどの意識がある訳ではない。今回は高山茶及び鉄観音茶の調べが優先であり、その延長で厦門にも行くことにしていた。何か成果がえられるだろうか。

 

10月30日(火)
台北へ

成田発午後1時の便、というのは、意外と厄介だ。2時間前に空港に着くとして、家はその2時間半前に出る。ということは8時台のラッシュとぶつかる。ラッシュ時に大きなスーツケースなど持って電車に乗り込むのは、どうも気が引ける。というか、乗るのが難しい場合もあるので、京王線では各駅停車に乗ることとなる。すると、更に早めに家を出なければならず、そうなるともっと混んでいるという悪循環。どうすればよいのか、いつも迷う。

 

8時半頃の各駅停車はそれほど混んでいないので、まずはこれに乗り、いつもの路線で成田空港に行くと、11時より前には何とか到着した。しかし今度はLCCバニラ航空の超絶残念なサービスに出会う。チェックインは出発の2時間前からなのだ。既に長蛇の列が出来ている。そして既に荷物チェックで激しくクレームする人がいる。ああ、やはり乗らなければよかった、と思ってしまう。

 

私も自分の荷物の重さが気になり始めた。出る直前に幾つもの物を押し込んでいたからだ。秤があるので計ってみると、預け荷物が23㎏近くになっている。これでは重量オーバーで追加料金は必至だ。そこで出来るだけ手荷物に切り替えてみると、ほぼ制限内に双方とも収まり、追加料金を免れる。20㎏の預け荷物で1か月超の滞在は厳しい。

 

チェックインは前よりはスムーズになっており、30分ぐらいで終了する。だがそこから10分間はこの付近にいろ、と言われてしまう。もし荷物に何か禁止の物が入っていたら、呼び出すというのだ。そもそも2時間に並んで30分+10分の時間を使ってチェックイン。それから出国審査と税関検査があるのだから、あっという間に搭乗時間が来てしまい、お土産を買うのも大変だ。

 

何とか搭乗ゲートまで来て待っていると、何だか中国語しか聞こえない。しかもその中国語、どう聞いても台湾人ではなく、北方中国人の言葉なのだ。何故だろうかと思い、搭乗券を見直すと、何とゲートが同じ番号でもBとかCとかあり、私はハルピン行きの前で待っていたのだ。慌てて反対側に行くと既に台北行きの搭乗は始まっており、危うく乗り損なうところだった。これからは何度も確認しよう。そして成田からハルピン行きのLCCがあることも分かり、いつか乗ってみようとも思う。

 

フライトは順調で、寝入る。食事などは出ないので、邪魔もなくこれはこれで有り難い。風の関係か、フライト時間は4時間もかかり、退屈ではあったが、こういう時間は考え事にも適しているので良い。しかしバニラの座席はLCCの中でも狭く感じるのは何故だろうか。

 

午後4時過ぎに桃園空港に着く。いつもは午後5時着が多いので、1時間早いと混み具合も違う。葉さんはまだ仕事が終わっていないだろうから、直接宿泊先に行くのは止めにして、台北駅にバスで向かう。駅のコインロッカーに荷物を預けるつもりだったが、ちょうど空きがなく、駅2階を散策することにした。

 

昔何度か来たことがあったが、2階は完全に変わっていた。特に日本食がかなり増えており驚く。親子丼からつけ麺まで何でもある感じだ。私は日本から来たので台湾食を探すと、フードコートがあり、そこで食べる。街中より料金は高く、地元の味という訳にも行かないが、便利であることは確かだ。その後宿泊先に無事到着し、日を終える。

 

10月31日(水)
ハローウィン

翌日は昼前に、いつものサンドイッチを食べに行く。ちょうど近くに幼稚園があり、園児が出てきて散歩かと思っていた。すると私が食べている店に皆がやってきて突然何かを叫んだ。店の女性たちがわらわらと出て行き、皆にお菓子を配り始めるではないか。そうか、今日はハローウィンかと分かる。

 

それにしても台北でもハローウィンとは。25年も前、香港に住んでいた頃、ハローウィンの夜に何も知らずにドアを開けると、子供たちが次々とやってきて、お菓子を強請られたのを思い出す。あの頃は何の制限もなく、夜10時過ぎでもやってきて、寝られなくて困った。

30年前に住んだ台北にはハローウィンはおろか、クリスマスもなかったように思う。バレンタインデーにチョコをくれるのは呑み屋さんだけで、普通は男が花をあげていた。だが今では、ハローウィンの夜には若者が騒ぐのだとか。東京もいつの間にか渋谷で問題が起こるようになったが、こういう商業的なイベントは、もう少し考えてやってもらいたい。煩いのは嫌いなので、この日は夜、外に出ずに過ごした。

ある日の台北日記2018その2(8)ベトナム華僑と会う

9月23日(日)
アフタヌーンティーをしながら

流石に朝4時に起きて空港まで行ったので、帰ってくると眠気が凄い。昼までは寝ることにした。起き上がって少しするともう出掛ける時間となった。今日はインドから来ている知り合いのOさんと会うことになっていた。Oさんとは数年前、バンコックのお茶会で知り合ったのだが、その後彼はいつの間にかインド、それもラダックに行く途中にあるマナリー付近に引っ越していて驚いた。しかも発酵関連のワークショップなどをやっており、二重に驚く。

 

ちょうど台北にいることが分かったので、彼の宿泊先に会いに行く。その前に小腹が空いたので、雲吞麺を食べる。偶に食べると美味しい。そして数年ぶりの再会。この宿の付近にはカフェなどもなく、探して歩き出す。今日は日曜なので、人はほとんど歩いていない。曇りで暑くもない。

 

話に夢中になっているといつの間にか南京路に出ていた。そこにちょっとおしゃれなカフェがあったので見てみると、何と紅茶館だったのだ。台北で紅茶専門店は極めて珍しいので入ってみる。このお店、1990年頃からあるようで、かなりの老舗だった。週末の午後ということで、家族連れが豪華なアフタヌーンティーを頼んでいる。男二人はちょっと浮いていたかもしれない。台北も普通にアフタヌーンティーを楽しむ時代が来たようだ。

 

インド紅茶とお菓子のセットを頼んでみたが、お菓子はかなり甘かった。最近の台湾人は甘い物を食べないと思っているが、これは伝統的な部類なのだろうか。Oさんは甘党だと言って食べていたが、私は全部は食べ切れない。紅茶は美味しいので、お菓子もいずれ甘さの調整が入るだろう。

 

Oさんはインドで味噌を作ったりして、発酵の研究をしているのだという。これはとても興味深い。マナリ―という街は是非訪れたいと思っていたので、出来るだけ早く訪問することにした。黒茶など、お茶でも発酵が絡むものもあるので、相互の情報交換は有意義だった。気が付けば4時間近く話し込んでいた。おまけに10日後にバンコックに行く予定だというと、そこでも一緒になることが分かり、ご縁を感じる。

 

9月25日(火)
ベトナム華僑と会う

実は今回台北に来てすぐに茶商公会で総幹事から一人の女性を紹介されていた。その人はベトナム華僑で、一族は茶業をしていたというので、ベトナム茶の歴史が分かるかもしれないと思い、連絡を取ったのだが、ちょうど都合が悪かったのか、その後連絡はなく、そのままになっていた。それが突然『いつ会うの?』というメッセージが飛び込んできて驚く。

 

明日には帰国すると言ったところ、では今日会いましょう、ということになり、急きょセッティングされた。こちらまで来て頂けるというので、取り敢えず大安駅近くの茗心坊で落ち合うことにした。彼女は店に入ってくるなり『いいお店ね』と言ってそのままお茶を飲み始めたので、ここで話を聞くことになってしまう。お店には迷惑な話だっただろう。

 

基本的に彼女、林さんは音楽家で、現在も音楽を教えている。茶業の歴史については殆ど知らないと言い、伯父さんが書いたという1冊の本を見せてくれた。本当はコピーしたかったが、初対面で預かる訳にもいかず、何より明日帰るので、致し方ない。断念した。彼女の家業ビジネスで何となく分かったことは、日本統治時代、福建に本拠があり、台湾から茶葉を東南アジアへ輸出する大手茶行であり、光復後は香港経由でベトナムに茶を輸出、そして解放後はホーチミンに逃れ、そこで彼女が生まれた、ということだった。

 

確かに資料にも名前がある茶行であり、興味深い。そして彼女も幼少期、ダラットの紅茶作りなどを見た記憶もあるということで、南ベトナムでのお茶の様子が少しわかった。ただそれもベトナム戦争終結とともに、また逃げ出すことになり、親族の一部はアメリカへ、彼女らは台湾に移住したのだという。勿論ここで茶業は完全に途絶えた。現在ホーチミンに行っても古いお茶屋が殆ど見られないのは、やはり戦争のせいだろう。

 

茗心坊の店主も姓は林であり、しかも同じ客家の出であることなども分り、この二人も突然繋がっていった。林さんは上海で手に入れたという、古い茶を持ち出し、この包装にあるマークはお宅のでしょう、と言ったので、本当に驚いてしまった。お茶と言うのはどこで繋がっているのか分からない。

 

今回台湾滞在もこうして終わった。毎回そうだが、とても実りが多く、また謎もどんどん深まっていき、嬉しいような、辛いような。ただまた11月には再訪するので、更に学びを深めていこう、そう思いながら、翌日成田行きのフライトに静かに乗り込んだ。

ある日の台北日記2018その2(7)和紅茶テースティング会

和紅茶テースティング会In台中

台中のトミー家の2階は講茶学院のスペースにもなっている。そこへ行くと準備は着々と進み、和紅茶も置かれている。まずは昼ごはんということで、スタッフ皆と弁当を食べる。如何にも台湾的ご飯でよい。ここで今回の通訳、エミリーと会う。彼女は神戸に留学経験があり、しかも台北のお茶屋の娘、ということで、通訳にはぴったりの人材だった。製茶公会のフレッダなども手伝いに来ている。

 

金曜日の午後にも拘らず、10数名の参加者を得て、会は始まった。Oさんから和紅茶について、一通りの説明を行い、その後、お茶の説明をしながら、まずは6種類のテースティング。ここに来ている人は、茶農家、茶商、そしてお茶好きばかりだから、質問も非常に細かくなる。テースティング会というのは、単に講師が話すセミナーと違って、皆が立ち上がって自由に動き、実物を飲みながらの話となることから、講師にも質問がしやすいという特徴があり、活発化するのだと知る。

 

前半はべにふうき品種を中心に、後半はそれ以外を6種類、鑑定方式で飲んでみた。途中の休憩時には虎屋の羊羹も出たが、やはり甘いという評価だった(思ったほど甘くなかったという意見もあり)。皆さんの率直な感想は、『日本にこんなに紅茶の種類があるとは思いもよらなかった』という物や『台湾の紅茶に似ているものが美味しかった』など言うことだった。

 

会が終わっても、しばらくは参加者が帰らずに質問したり、記念写真を撮っている。ようやくその波が収まると、近くのレストランに移動して小龍包などを食べる。ここは鼎泰豊にいた人が台中で開いた店ということで、鼎泰豊並みに美味しく、満足できる味。その後、トミーの車で台北へ移動した。何ともハードな日程だが、こればかりは如何ともしがたい。

 

9月22日(土)
和紅茶テースティング会In台北

翌日は朝ゆっくりして、10時にホテルに迎えに行く。そこから大稲埕まで歩いて行けたので、散歩がてら行く。お茶屋や埠頭を覗いていたが、『台北のオーガニック食品事情が知りたい』というので、急遽花博公園までタクシーに乗る。そこに自然食品を扱うお店があり、いくつか購入。

 

また同時に週末マーケットも開かれていたので、台湾各地から来た野菜や果物、お茶やコーヒーなどを見て回る。私もこんなところがあると初めて知る。お昼が近かったので、ついでに、そこのフードコートで麺を食べる。週末で家族連れがかなりたくさん来ており、驚いた。そこからMRTに乗り、今日の会場へ向かう。実はその会場のビルの下にも、Oさんが検索していたオーガニック系食堂があり、ビックリ。台北は急激にオーガニック食品、健康食品市場が拡大しているように見えた。

 

今日は土曜日、そして台北開催ということもあり、参加者は昨日よりさらに増えて30人近くになっていた。こんなに和紅茶に関心がある台湾人が多いとは本当に想像していなかった。これも日頃の講茶学院の活動の賜物だろう。そして昨日よりも、よりマニアックなお茶好きも来られ、また紅茶を輸入している茶業者、台湾紅茶を販売している人などが参加、益々細かい質問が飛び出していた。通訳のエミリーはさぞや大変だったのではないかと思う。

 

またOさんの美味しい和紅茶の淹れ方などにも関心が集まり、使っている茶器にも興味を示す人が多かった。日本の器に対するニーズも高い。食べ物と如何にペアリングするかなどは、台湾紅茶でも考えるべきことであり、単にスイーツと合わせるのではなく、高級和食などとのコラボ、という視点も参加者には刺激を与えたかもしれない。さすがこの道15年以上のOさん、経験豊富だ。

 

昨日同様会が終了しても、質問の輪は解けない。やはり和紅茶への関心は高い。というか、これまであまりにも知られてこなかったから、質問が多くなるということかもしれない。今後は講茶学院などを通じて、もう少し日本茶全般の知識を広めて欲しい。またOさんには来年もまた来て継続的に紹介して行って欲しい。

 

全てが終了して、何もしていない私でも気が抜けた。Oさんは慣れているとはいえ、異国で疲れただろう。今晩は北平料理の店へ行く。台湾では北京を都と認めないので、北平という。メインの北京ダックを久しぶりに食べる!美味しい。昔北京に住んでいた頃は年に何十回も食べていたのに。

 

最後にドリンクスタンドで緑茶飲料を買って飲んでみた。これも重要なマーケッティングだと思う。ただ分量が多くて飲み切れず、しかし台湾のMRTは車内で飲食禁止のため、ずっと持って歩くことになった。Oさんを送り届けて、帰宅の途に就く間に飲み干す。部屋ちょっと寝たが、翌朝はOさんが早朝便で帰国のため、午前5時にホテルに迎えに行き、空港まで送り届けた。トミーはそのまま台中へ、私は台北に戻った。怒涛の3日間は終わった。

ある日の台北日記2018その2(6)Oさんがやって来た

9月18日(火)
国家図書館

今日は以前よりお茶の歴史調べで協力してもらっている黄さんと会う予定になっていた。これまで寄稿した雑誌を渡すためだったが、黄さんから指定された場所が、何ともレトロな喫茶店で、ちょっと面白かった。蜜蜂珈琲という名で、行政院などに近く、記者などが取材の合間に立ち寄る場所だったらしい。そして役人や政治家も人と会うために利用するところで、その話の内容に聞き耳を立てている人もいるとか。今日もXX県の役人が選挙の話をひそひそとしていたとか。私には分からない世界だが、興味深い。

 

店のおばさんは私が日本人だと分かると日本語でお勧めランチを紹介してくれる。昔は日本人も沢山来たところなのだろう。私が知らなかっただけで有名なカフェということか。勧められるまま、宮爆鶏丁定食を頼む。何となく懐かしい味だ。食後のインスタントコーヒー、如何にも昔の台湾を思い出す。

 

黄さんと別れてU-bikeを探して、中正紀念堂まで走っていく。午後はここの前にある国家図書館で調べ物をすることにしていた。初めて来たので登録が必要だったが、簡単に終わる。悠游カードで入館できるらしい。当然ながらこの図書館もかなり大きいので、ざっと見てみる、という訳にはいかず、最初から目指すものを探しに行く。

 

それは1980年頃のある新聞の記事だった。ところがこれらは全てマイクロフィルムに収められており、特別の機械にフィルムを入れて1つずつ見なければならないことが分かり愕然となる。取り敢えず1つ借りてみたが、3か月分の新聞を見づらい機械を通してみるのは難行であり、1時間で断念した。この記事、とても重要なのだが、何とか検索できないものだろうか。

 

9月20日(木)
Oさんがやってきて

準備を進めてきた、和紅茶テースティング会のスタートが切られる。まずは和紅茶の第一人者であるOさんが佐賀から台北に到着する日となった。バスに乗って桃園空港まで迎えに出た。そうか、今や佐賀から桃園まで直行便が飛んでいる時代なんだ。タイガーエアは相当広い範囲をカバーしていて驚く。LCC、何とも有り難い。

 

ところがOさん、なかなか出てこない。佐賀の飛行場から連絡があったので、搭乗しているのは間違いないが、どうしてこんなに遅いのか。あのトレードマークの作務衣を怪しまれたのかなど、一緒に迎えに来たトミーとチャスターと話していると、ようやく姿が見えてホッとする。何と荷物超過となってしまったが、佐賀空港では支払いが出来ず、今支払っていたというのだから驚きだ。

 

午後のスケジュールも詰まっているが、取り敢えずランチということで、空港内のフードコートに行くも満員盛況。仕方なく、洋風のレストランに入り、牛肉麺を食べる。ここでもやはり紅茶を頼むOさん、さすが。

 

そこから車を飛ばして、3時半頃に、苗栗頭份に着く。お茶を感じられる場所ということで、製茶機械の張さんにところに寄り、コンテスト受賞茶などを飲んでみる。Oさんはこれまで何度か台湾には来ているようだが、今回は特別の旅にしてもらいたいと思っている。それから以前緑茶の調べで行った茶農家も訪ねる。こちらは数年前から紅茶も作っており、製茶場や機械を見学し、Oさんも興味津々。

 

それから頭份でお気に入りの客家料理を頂き、その後台中に向かう。台中ではトミーの家に寄り、明日の会場の下見や簡単な打ち合わせを行う。それが済むと、遅くなっていたが、チャスターの車で埔里まで走った。折角台中まで来たので、明日午前中は魚池辺りの紅茶作りを見に行こうと思い、敢えて埔里に泊まった。埔里で予約されたのは、蒋介石像がある圓環付近のビジネスホテル。何だか部屋がとても広かった。

 

9月21日(金)
魚池と埔里の紅茶

翌朝は早めに起きて、ホテルのご飯を食べようと思ったが、食堂に人はいなかった。ようやく探して出された飯は何とハンバーガーとフルーツ。てっきりお粥でも出てくると思っていたOさんは面食らっただろうな。私も埔里でこういう所に泊まるのは初めてだが、お客がいないので、どこかで買って来たかのようだった。

 

それから魚池へ向かう。農会のすぐ前にある茶工場。若手の王さんのところにお邪魔した。ここは設備も最新でお金が掛かっており、いい紅茶が作られ始めている。ちょうど茶作りが見られたので、一通り見学する。何種類もの紅茶のテースティングが始まる。朝からかなりハードな展開だ。

 

帰ろうかとした時、向こうから老人がやって来た。王さんのお爺さんだ。実はこの方、以前お会いしているが、林口茶業伝習所の卒業生で、日本語も話せる。日本人が来るととても喜んでくれるので、一緒に写真を撮る。本当はお爺さんに聞きたいことが沢山あったのだが、今回はOさんのアテンドで時間が無く、残念。次回はいつ会えるだろうか。

 

続いて埔里に戻り、先日も訪れたばかりの東邦紅茶に行った。ここでこの会社を紹介しながら、歴史的な茶工場を見学する。Oさんが是非茶畑が見たいというので、埔里郊外のシャン種が植えられている茶畑に向かった。これは全く予定外の行動ではあったが、やはり茶畑に来るだけでOさんも私も何となく元気になってしまうのが、おかしい。Oさんは楽しそうに茶畑を逐一眺めていた。

 

ある日の台北日記2018その2(5)魚池から霧社へ

9月16日(日)
魚池で

今朝は早く起きた。久しぶりに古巣の魚池付近へ行くためだ。7時発のバスで台北を出発、日曜日で混んでいるかと思っていたが、非常に順調で3時間もかからずに埔里に入ってしまった。元々は日月潭へ行く予定だったのだが、何とこのバスは日月潭に何時に着くのか責任は持てないというので、全員がここで降りた。

 

何故今日はバスがそんなに時間が掛かるのか。それは昨夜李さんからの連絡で分かっていた。1年に一度の『日月潭万人水泳大会』が今朝から開催されており、交通規制が敷かれてしまっていたからだった。日月潭に行く道は一方通行となり、バスの終点までは湖を一周しないといけないのだ。当然大渋滞になっており、何時着くかは分からない、という話になる。

 

相当早く着いたこともあり、すぐに代わりのバスを探さないで、様子を見ることにした。埔里には行き付けの朝ご飯屋さんがあるので、そこでクラブサンドを食べて待った。店の人には私が台北に移ったことは伝えておらず、いつもの笑顔対応だったので、今回も言いそびれた。

 

今日は李さんに魚池を案内してもらおうと思っていた。日月潭には知り合いが泊まっていたのだが、迎えに行くことは出来ず、まず私がどこまで行けるのかを試してみる。結局埔里発のバスは魚池までしか行かないと分かり、それに乗って進む。魚池で降りると、李さんが迎えに来て、老茶廠まで行って、そこで日月潭から脱出する知り合いを待った。何とか落ち合い、まずは昼ご飯を食べに行く。地元の人が沢山食べているレストランがあった。鴨肉も、イカと野菜の炒め物も、そして地元のタケノコも、美味しいのだ。田舎を侮ってはいけない。いいものを食べている人が沢山いる。

 

李さんは知り合いの黄さんがもうすぐオープンするというカフェ?に連れて行ってくれた。これがまた、レトロ感あり、現代感もある不思議な空間だった。そこでまったりとお茶を頂く。紅茶は勿論、李さんが持ってきた高山茶などいくつもの茶を飲んでいると、もう動く気がなくなってしまう。それから茶作りをしている家があるというのでちょっとだけ寄って見学した。

 

夕方、本日宿泊予定の宿まで李さんに送ってもらった。そこは何とも可愛いペンション、という雰囲気だった。建物の中もゆったりしており、気持ちがよい。ただ茶葉は売っているものの、その名前とは違って茶作りは行っていなかった。暗くなる前に周辺を散歩した。小さな村で、付近に茶畑はない。ゆったりと家々があり、宿泊施設やお茶屋さんがあった。特に地図も持たなかったので曲がりくねった道を行くのはどうかと思ったが、無事に一周して宿に戻った。公道からも外れている落ち着きのある集落だった。

 

夜はまた李さんが迎えに来てくれ、先ほどの黄さんのカフェで夕飯をご馳走になった。この辺では行列ができる店でわざわざ買ってきてくれたという、蝦や肉、野菜などが揚げられているものが出され、恐縮しながら食べた。かなりのボリュームがあり、すぐに満腹になる。それからまたお茶を飲み始め、かなり遅くまで飲み続けた。

 

9月17日(月)
霧社へ

気持ちよい朝を迎え、周囲を散歩する。鳥の鳴き声がいいが、天気が良すぎて気温はぐんぐん上昇し、歩いているうちに暑さを感じるほどになる。朝飯は宿が用意してくれる。トーストや卵の洋食だが、お茶はミルクティーが出る。さすが紅茶の産地だけのことはあるが、台湾紅茶はあまりミルクを入れないので、ちょっと意外。

 

トミーが車で迎えに来た。今日はこれから霧社、廬山温泉の高山茶の歴史を訪ねに行く。ここからなら車で1時間半もかからないからちょうどよい。廬山温泉に降りる手前の道路脇で停まり、そこの原住民、セデック族の農家と話す。彼が天仁銘茶と初めて契約して茶栽培を始めたのだ。1980年頃のことだったが、一時は凄い勢いで生産が伸びた高山茶も最近はより高い場所の茶畑に移動して、彼は高原野菜栽培に切り替えていた。

 

廬山温泉で長く、茶を作り、販売している店にも寄った。廬山温泉は最盛期、相当の賑わいを見せており、その時期は茶も飛ぶように売れたらしい。ただ近年の洪水、地震などで、政府から温泉閉鎖が言い渡され、多くが廃業、いくらか残った温泉宿もお客は少ない。それでも息子がここを継いだから、まだ店を開いているという。何となく寂しい。

 

霧社に行き、霧社事件関連の場所をいくつか見学した。日本人はやはりここへきて、考えるべきではなかろうか。帰る前に公道に面している陽光茶園という店に寄る。ここはトミーが小さい頃からの知り合いだという。97歳、武漢出身の陽さんが自らお茶を淹れてくれたのには驚いた。1985年ぐらいから、茶作りを始め、現在も子に引き継がれている。何だかお茶が美味しかった。

 

埔里まで降りてきて時間があったので、東邦紅茶の郭さんを久しぶりに訪ねた。埔里滞在中は何度も来た場所だが、今後は気楽に来られないので、貴重な機会となる。郭さんの紅茶作りの技術は日増しに上がっているようで、好ましい。トミーに台中駅まで送ってもらい、高鐵で桃園まで行き、桃園空港まで深夜便の客人を送る。

ある日の台北日記2018その2(4)台湾茶業のレジェンドに会う

9月13日(木)
レジェンドに会う

本日は製茶公会のご紹介で、台湾茶業のレジェンドに会うことになっていた。偶々東京から知り合いも来たので、まずは松山空港に迎えに行き、宿泊先の大稲埕にあるホテルまでタクシーで行き、この付近の茶の歴史散歩をした。この付近、何度来ても茶の歴史の香りがして、実に好ましい。

 

トミーと待ち合わせて、新店方面へ向かう。紹介は受けていたが、98歳の老人の家に日本人が一人で行くのは何かと不便があると思い、トミーにお願いしたところ、ちょうど台北に来る機会が有り、今回の訪問が実現した。トミーが連絡したら、ご本人は本宅ではなく、お嬢さんの家に泊まっているということで、当初の予定とは違うところへ向かった。こういうこともあるので、やはりトミーの存在は有り難い。

 

その老人は足が悪いということだったが、かなり元気な様子で出迎えてくれた。林復氏は、かつて福建省で福安農学校に通い、中国茶業界のレジェンド、張天福氏の指導を受けた一人。あの長く茶業改良場の場長を務めた台湾茶業の大貢献者、呉振鐸氏とは同級生で、同時期に台湾に渡って来たというからすごい。そして長く農林庁に奉職し、光復後の台湾茶業をけん引した一人であった。

 

最近は人に会うことも減ったという林氏、初めはこちらの質問に考え考え話していたが、30分もすると、様々なことを思い出されたようで、一気に話が加速した。林口伝習所のこと、アフリカのリビアまで行き、砂漠に茶樹を植えた苦労話、東部茶業の開発や70年代の茶葉コンテストの仕掛けなど、どんどん話が出てきて面白い。だがさすがに年代については、おぼろげな様子であったが、これは致し方ない。退職後に製茶公会の総幹事を15年も務めたというのもすごい。

 

福建から来た老人は台湾語を話すこともなく、分かりやすい北京語で応じてくれたのも助かった。アメリカから帰国中のお嬢さんの手助けも大きく、これまで疑問だった点がいくつも解けた。お疲れを考慮して、出来るだけ短い時間で済ませようと思っていたが、林氏の方が話したい、という様子もあり、結局1時間半以上、長居した。林氏が我々の訪問をとても歓迎してくれたことが何とも嬉しい。本を書くのは嫌いだったという林氏、書籍・文章の類はほぼ残っていないので、直接話が聞ける機会はとても貴重だった。

 

ちょっと興奮しながら、講茶学院台北オフィスに戻り、トミー姉にお茶を淹れてもらい、落ち着く。その後近くのお気に入り料理屋で夕飯を食べる。やはり美味い料理は旨い、と思う。普通はこれで帰るのだが、今晩は余勢を買って、久しぶりに双連の広方圓にまで繰り出し、湯さんとも話をした。かなり充実した1日が過ぎた。

 

9月14日(金)
ランチで

翌日はついにS氏がシェフを務めるお店に行く。S氏とは知り合ってもう何年にもなり、一度はお店へ行きます、と何度も行っていたにもかかわらず、常に彼が非番の時に別のレストランで会っていた。このままでは永遠に行けないのでは、と思っていたところ、今回ようやく機会が訪れた。

 

ランチはとても込んでいると聞いていたが、案の定、12時半前に行ったら、何人か待っていた。中山にあるこの店、とても瀟洒でよい雰囲気。ランチを楽しむ付近のOL?などで満員状態だった。15分ぐらい待ってようやく席に着く。こちらは和食の定食がメインの店、盛り付けも工夫されており、美味しく頂いた。料金は300元台と決して安い訳ではないが、これなら人気が出来るのも頷ける。S氏は当然ながらてんてこ舞い状態で、ゆっくり話をする時間はなかった。

 

比較的若い女性が多い客層の中で、私も浮いているかも、とは思っていたが、もっと違和感のある70歳代の人が一人でご飯を食べていた。よく見ると、何と一昨日会ったばかりの李さんではないか。先日は中山の交差点で遭遇し、また今日はここで会ってしまった。余程ご縁があると感じる。彼は日本が好きで先日も日本へ行ってきたばかりだったが、散歩がてら、ここで新聞を読みながら、一人で美味しい和食を楽しんでいたのだろう。何とも面白い出会いで、お互い一瞬唖然となる。このような偶然から、歴史は新たな一面を見せてくれるのかもしれない。