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ある日の台北日記2023その4(1)香港から戻って

《ある日の台北日記2023その4》  2023年5月10日-17日

5月10日(水)香港から戻って

香港からのフライトは順調で時間も短かった。予定より早く桃園空港に着陸した。イミグレの混雑も想定したが、全くなくて拍子抜けした。荷物も預けてないので一番に外へ出た。ここでやることが一つあった。台湾観光協会の抽選会、どこにあるのだろうか。事前に登録したQRコードをかざすと、見事に外れた。周囲には誰一人いない寂しいハズレとなる。

行きはバスだったので帰りはMRTに乗ってみる。きれいな電車は空いており、座っていく。途中で何人かが下りていき、向かいに来た電車に乗った。その時まで気が付かなかった。私が乗ったのは普通車で、もう一つ空港と台北駅を結ぶ直達車があることを。まあ急ぐ旅ではないのでよいが、特に表示もなかったような気が。何だか結構疲れたが、何とか宿泊先に帰り着く。

5月11日(木)小楊と会う

香港から戻った翌日、朝はハノイのNさん出演のラジオを聴きながら、ゆっくりと過ごす。今回の香港・深圳の旅は予想よりはるかにハードとなり疲れたので、仕方がない。一応サンドイッチは食べたものの、ちょっと元気が出なかった。もう頑張る歳ではないのかのかもしれないと実感する。

夕方腹が減ったので、羊雑炒めを食べに行く。やっぱりこれを食べる時に一番元気が出ると思う。飯を搔っ込む感じが良い。満足して散歩していると、小楊から連絡が入る。台北に来た時から連絡していたのだが一向に返事が無くて心配していたが、無事のようだ。今晩来いというので、7時過ぎに訪ねた。僅か歩いて10分だ。

エレベーターがない5階。何とも懐かしい古びた階段を上る。息が少し切れた頃、ようやく到着する。特に変わった様子もない部屋の中にはお客さんがいたが、何と皆でマックを食べていて驚く。奥さんと話をしていると、皆が食べ終わり、お茶を飲み始めたので、お相伴に預かる。小楊はお客さんへの説明に夢中で、ほとんど話が出来なかった。お客さんも熱心でずっと質問を続けており、私の出る幕はないと考え、1時間ほどで引き揚げた。まあ、元気だと分かればまた機会もあるだろう。

5月12日(金)SIMカードを買いに

一昨日桃園空港に行ったが、夜遅くでシムカードを買うことが出来なかった。そこで今日は近くの松山空港まで買いに行く。その前に腹が減ったので、近所で広東系の三宝飯を食べる。何だかとても美味しいと感じる。香港より安いから、これから台北で食べることにしようか。

モノレールに乗って松山空港に行く。ちょうど台北に来て1か月が経つ。30日のシムを買った中華電信で、『このシム継続したいんだけど』とダメもとで聞いてみると、『これは30日間のみのカード。ここにも書いてあるでしょう』と実に素っ気ない対応を食らう。仕方なく、また30日のシムを買い直す。まあ電話番号は変わるが、それで困ることはほぼない。まず台湾で電話を掛けることなどないのだから。

空港からバスで中山北路を目指そうとしたが、ちょうどよいバスは無かったので、またモノレールに乗り、途中で乗り換えていく。途中駅においしそうなパン屋があった。今や台北もエキナカが実に発達している。これからの訪問予定が無ければ、いくつかパンを買って帰りたかった。

ある日の台北日記2023その3(4)圓山大飯店

帰りに何か食べようと、さっきとは別の道を駅の方へ歩いて行く。途中に油飯という文字が見え、立ち止まる。菜頭湯と共に食べると何とも旨い。この何気ないご飯にありつけるのが台湾だ。よく見るとこの辺には旨そうな店が並んでいたが、腹が一杯で次回となる。東門旧趾と書かれた看板を目にする。1853年林家主導で作られたらしい。林家は一体いつから栄えていたのだろうか。

まっすぐ帰るのも何なので、コロナ禍に新しくできた路線に乗ってみる。その名も環状線。その一部が開通しているというので、MRTで新埔まで行き、そこから新線に乗り換える。だがその駅はかなり離れており、駅名も新埔民生だった(板橋駅で乗り換えた方がよかっただろうか)。電車は文湖線より少し大きいモノレール。最初に計画されてから30年(ということはこの路線が台北最初のMRTになるはずだった?)かかって開通に漕ぎ着けたらしい。

景安までゆっくり地上の景色を楽しみながら乗って行く。乗客はさほど多くはない。景安駅から中和線に乗り換えたが、ここもまたかなり移動距離がある。昔と違ってさすがに新線を作るのは簡単ではないことは良く分かった。更に全線が開通し、台北市、新北市をグルっと一周できる日が待ち遠しいが、いつになることやら。

夕飯は先日通り掛かったかつやに入ってみる。6時前ということか、お客は少ない。女性が一人カウンターでとんかつを食べる姿が何人かあったのは、日本とは違う光景だろうか。かつ丼自体はそれほど日本と変わらないように思うが、何となく満足感が薄いのはセットメニューなどが充実していないからだろうか。

5月4日(木)アメリカンクラブへ

今朝はゆっくり始動する。明日から出掛けるのでその準備をしてから、大直駅へ向かう。ここに来るのは何年ぶりだろうか。そこからバスを探して、圓山大飯店まで行く。もう30年以上前、仕事で住んでいた時、偉い人が来て、ここに宿泊したことがある。何と私はお付き部屋に泊まった。

車は一番良い所に停められた。帰ってくるとボーイが常に立っていて、用事を聞いてくる、まさにVIP待遇だった。朝食も部屋に繋がっているダイニングルームで食べていた。バスルームが広すぎて、パターゴルフが出来そうだった。勿論部屋から台北が一望できたのは良い思い出だ。このホテルの歴史は今でも興味を持っている。

バスを降りてGoogleで道を探すと、何と1時間かかると表示された。バスの道路からホテルへ上がれる道はなく、ぐるっと迂回するとそうなるらしい。だがそんなはずはないと、歩き出すと、やはりちゃんと登れる階段を見付けた。5分で到着する。Googleの限界がそこにある。

相変わらず圧倒的な建物だった。中に入ると以前より明るい感じがする。大勢の人がロビーで写真を撮っており、日本人観光客の姿もある。人気のレストランには行列が出来ていた。立派な階段を上り2階も見学できる。裏へ回ると、このホテルの歴史が展示されている。やはり日本との関係は深い。

今日は旧知のHさんのお招きで隣のアメリカンクラブへ行った。ここは初めてだった。カジュアルなダイニングは多くの人で賑わっていた。メンバーは今や台湾人が多いのだろう。Hさんとは香港で知り合ったが、台北に移ってもうずいぶんになる。仕事は順調のようで、台北に根を下ろしている。奥さんも相変わらず元気な様子で、台湾の変化などについて、活発に話してくれる。ちょっと近況を話しているだけで、時間はあっと言う間に過ぎてしまう。

帰りは圓山駅まで歩いてみる。歩けるのかどうかという感じで淡水河を渡る。昔より道が複雑になっており、景観も随分と変わっていて、良く分からない。何とか這い出して来ると花博公園が迎えてくれた。この付近も歴史的には色々とあるが、本日は疲れたので、MRTに乗ってまっすぐ帰った。

ある日の台北日記2023その3(3)再び華新街、そして板橋林家へ

5月2日(火)再びミャンマー人街へ

先月も訪ねた華新街。ただ歩いても良く分からないので、ここに詳しいAさんに同行をお願いした。彼女にはツイッターの投稿を見て連絡をした。どう見てもこの地域への愛が感じられる投稿だった。MRT南勢角で降りると少し時間があったので横道に入る。表は商店街、裏は住宅街。何となく朝ご飯を食べる。

待ち合わせ場所へ行くとAさんがいた。実はこの時点までAさんが男性か女性かすら知らなかった。彼女は台湾大学の修士課程に通っているというが、専攻は考古学らしい。全くの趣味で台湾のミャンマー人などを調べているというので驚く。もうとっくに趣味の域は越えているだろう。

まず華新街を一通り歩いてみる。両側にある店のいくつかについてAさんが解説してくれる。雲南系、シャン系、何故かヤンゴンから来た人々、客家など、驚くほど様々な人々がここにはいた。まだ午前中なので開いていない店もあり、取り敢えずお茶を飲むためカフェ?に入った。ミャンマーミルクティーを飲みながら、お菓子を頂く。

Aさんの調査はかなり綿密だった。ここ華新街だけではなく、中壢など他のミャンマー人村も探索している。これは頼もしい助っ人が現れたものだ。この何とも複雑な歴史を紐解くヒントが話に溢れている。周囲には華人系の顔をした人々が様々な言葉を話していて興味深いが、残念ながら語学能力が低く、どこの言葉かも分からない。

昼になり、ご飯でも食べようかと移動する。一軒の店へ入ると、何とそこには日本語を話す人がいた。東京の蒲田に10年いたというが、元々はヤンゴンにいた客家系らしい。驚いたことに彼は下川さんが書いた本を持っていた。なんとそれは私が登場する物で、Aさんから借りたという。『ダニに食われるところが懐かしい。ミャンマーを思い出す』と笑う。

彼はこの辺のことも、そしてミャンマー華人のことも、色々と知っているようだった。取り敢えずモヒンガーとラペソーを注文して、食べ始める。ぼそぼそ話を聞いていると、かなり奥が深く、また出直すことにした。もう少し的を絞る、知識を蓄えないと、情報を整理するのは難しいと感じる。

そこからまた道を歩く。よく見れば様々な店があることが分かるが、一人だとすぐ通り過ぎてしまう。最後に小さな喫茶店に入る。Aさんはそこでもまた聞き込みに余念がない。台湾のいい所はここに居る人がほぼ華語が話せるということだろう。ただ私は既に消化不良となっており、それ以上の情報を入れても無駄と悟り、静かにミルクティーを啜っていた。

5月3日(水)板橋林家

今日は板橋方面へ行く。板橋駅の次は府中。そこで降りるのは初めてだったが、何だか雰囲気のある街並みだった。慈恵宮という立派な廟がある。その横の食堂に目が止まる。魷魚焿で、しかもご飯が選べる。どんなものか注文してみると、とろみのあるスープをご飯にかけたもので、出汁の味が何とも良い。かなり気に入ってしまった。

本日の目的地は板橋林家の邸宅。そこまで辿り着くと、『茶館街』という文字が目に飛び込んでくる。だが今や茶館はおろか、食堂すらほぼない道だ。往時林家が栄えた時代はここに茶館が並んでいたのだろうか。ぐるっと回ってようやく入り口に辿り着く。今は改修中のようで半分ぐらいしか参観できない。

板橋林家と言えば、清朝時代から栄えた家であり、日本時代が始まると台湾五代家族の一つに数えられた名家。その財力を反映させたのが、この板橋の大邸宅だった。中に入ると池のある庭、石の山、先祖の霊を置く堂などが立ち並んでいる。ただ生活空間、という感じはまるでない。最初からここで暮らすつもりはない、という雰囲気を出していた。

林家については、大稲埕の開発など、茶業に関する功績もかなりあるはずだが、家があまりにも大きく、事業が多岐に渡るため、茶業と林家を簡単に結びつけることは難しい。もし時間があって、林家に関する膨大な資料を読む機会があれば、茶についても何か見出せるかもしれない。ただこの邸宅には残念ながら、林家の歴史の展示などはなく、勉強することは出来なかった。

ある日の台北日記2023その3(2)萬華散策

呉さんが連れて行ってくれたお店、建物は新しいが、中身は古そうだった。お客がいたが、我々が入っていくと帰っていく。オーナーは気さくな人で良くしゃべる。私が歴史の話を持ち出すと、自分の店の話より、台湾茶の歴史について色々と語りだす。釣られて聞いて行くとどんどん話が広がっていく。と同時に、様々なお茶も出て来る。

萬華から大稲埕へ茶商が移っていった経緯など参考になる。現在萬華には殆ど古い茶荘は残っていない。また台湾茶の現代史についても、これまで私が話を聞いてきた多くの茶業関係者を知っており、その頃の話も沢山出た。こういう話をしているとつい盛り上がってしまい、結局2時間以上ここに居た。

そこからもう一軒カフェに寄る。呉さんの知り合いが月に3日だけオープンするというレアなカフェだ。場所も極めてレトロな建物の1階を使っている。店には常連と思われる人たちがいた。カフェというよりむしろおしゃれなバーだった。お客同士は交流をはじめ、仲良くなっている。実に不思議な空間が演出されている。台湾の若者文化は目を見張るものがある。勿論コーヒーも本格的で、マスターは1杯ずつ丁寧に淹れている。こんな空間は好きかも。

それでも腹が減り、カフェを後にした。外は完全に暗くなる。呉さんと華西街を歩く。一体何年ぶりだろう。観光客が行くところだと敬遠していたが、昨日は蔡総統が客人を案内してやってきたらしい。立ち寄った店は大賑わいだ。日本の総理も高級料亭に入り浸らないで、積極的に街を回るべきかもしれない。

呉さん一押しの炒羊肉と牛脳湯を注文する。こりゃ何とも旨い。ご飯と共にあっという間に搔き込む。1939年創業と書かれているが、日本時代にこんな店があったのだろうか。更に広州街の方に抜け出すと、昔ながらの大道商人の声が響き、屋外屋台が並んでいる。呉さんが子供の頃から食べていたオアジェンを頂き、大満足。余韻に浸りながら夜市を後にする。

5月1日(月)西本願寺と江浙料理

朝ゆっくり起きる。最近少し疲れがたまっている。それでも朝ご飯を求めて出掛けるが、その店は閉まっていた。仕方なく隣の店でハンバーガーを食べた。新聞が置かれていたので、何気なく読む。以前は新聞を読んでいたが、今は手に取ることは殆どない。バドミントンのアジア選手権で台湾の戴選手が山口茜を破って優勝という記事が大きく取り上げられている。同時にベスト4の4人(他は中国と韓国選手)が並ぶ微笑ましい写真もあったが、何と戴さんのウエアだけに国旗がないことがまた大きく反響を呼んでいたようだ。

夕方出かける。バスで西門町へ。何となく西本願寺を見学する。数年前に復興されたこの寺、何だかどんどん立派になっている。見学者も増えているようで関心も高まっているのだろうか。私は大谷光瑞には関心を持っているが、ここより寧ろ高雄に復活した彼の屋敷が見たい。

今晩は黄さんと食事。江浙料理の店に行く。午後5時半でほぼ満員の昔ながら食堂だ。好きな前菜を自分で取り、後は鍋などをつつきながら、皆一杯やっている。華語より台湾語が多く聞こえる、実に懐かしい感じの店だった。料理が旨いのも特徴だろうか。残念ながらこのような店は台北にはそう多く残ってはいない。貴重なので益々客がやってくる。

黄さんには以前茶旅で色々とお世話になった。彼の方はコロナ禍で色々とあったようだが、今も元気で働いているらしい。特に料理などに詳しいので、潮州料理屋はないかと尋ねたが、伝統的な店はもうないだろうという。話しているとどんどん台湾が複雑に思えてくる。この複雑さは容易には理解できず、そこがまた面白い。

ある日の台北日記2023その3(1)モスク、眷村、そして萬華へ

《ある日の台北日記2023その3》  2023年4月29日-5月4日

4月29日(土)清真寺から図書館へ

日本はゴールデンウイークに入ったようで、台湾に旅行に来る人が増えていると聞くが、私の周囲では特に動きはない。今日は歩いて大安森林公園を通り過ぎ、その向こうに建つモスクを見学する。約100年前に建てられた、かなり立派なモスクであり、台湾にもイスラム教徒が多いことが見て取れる。ここに来る教徒は回族なのだろうか。その横にはこれまた立派な教会もある。この地区はどういうところなのだろうか。

そこからバスに乗った。図書館へ行こうと思ったが、そのバスはいつも行くMRT駅ではなく、反対側に行くものだった。如何にも下町といった風情だったので、少し歩いてみる。市場を抜けると、そこに羊肉炒麺があったので手を出してしまう。何だか食べてばっかりで怖くなるが仕方がない。

図書館の裏手は、大きな公園になっていた。週末で家族連れが遊んでいる。そして図書館に吸い込まれ、いつの間にか時は過ぎていく。今日も台湾茶の歴史、そして日本茶の歴史について、大いなる成果(疑問)が湧き出してきて怖い。歴史というのは掘れば掘るほど分からなくなる。先日S夫人に教えてもらった古いお茶屋のルーツなど、実に興味深い人物が浮かび上がってきた。

4月30日(日)

四四南村から萬華へ

日曜日のお散歩。途中で広東式三宝飯に引っかかり、食べる。偶に食べるととてもうまい。もうすぐ香港に行くのだから、ここで食べなくても、などとは決して思わない。そのまま101を見上げながら東の方へ歩いて行く。そこには公園があり、四四南村と書かれていた。所謂外省人が住んだ眷村を保存しているところだという。

敷地は意外と広く、中央にはイベントスペースがある。週末なので、出店者が思い思いに店を出しており、家族連れなどが足を運んでいた。だが建物内にある展示に目を向ける人は少ない。この地にあった眷村とそこに住んだ人々の歴史への関心は薄い。なぜ、どのような過程を経て、彼らはここへやってきたのか、そしてどんな生活を送ったのか、を知ることには意味があると思うのだが。まあとにかくこんな一等地を歴史保全に使うのはさすが台湾ではないか。

信義路をとぼとぼ歩いて行くと、かつやがあった。その向こうにはお馴染みのすき家、そして道路の反対側にははま寿司が出店している。以前から台北には日本の外食チェーンが多く出ていたが、コロナで拍車がかかったのだろうか。代金も日本より少し高い程度なので、台湾人も行きたいと思うのだろうか。

午後は龍山寺へ行く。MRTで降りるのは何年ぶりだろうか。公園にはたくさんに人が憩っている。噴水の水がきれいに上がる。龍山寺にはかなりの観光客が来ており、台湾のインバウンドも回復基調を鮮明にしている。私も数年ぶりに中に入り、お参りする。占いをやっている人々が真剣だ。

そこから指定されたカフェに向かい、久しぶりに呉さんと会った。このカフェ、かなりおしゃれでデート用かな。呉さんはまだ若いので、私の知らない台湾を見せてくれる。コーヒーは厳選されており、名物のプリンは何とひとテーブルに1つしか提供されない。私は呉さんと半分ずつ食べる。なんだかおかしい。

彼の祖先は100年以上前、茶業組合の関係者だった。その縁で知り合ったのだが、彼自身は歴史好きで、生まれた萬華の歴史に精通している。今日は彼に萬華を案内してもらい、その歴史を吸収しようとやってきたわけだ。出来れば萬華に古い茶荘があるかどうかも確認したかった。

ある日の台北日記2023その2(5)坪林で

店の1階では鵝肉の調理の様子が眺められる。店から宿泊先まで歩いて帰る。こうでもしなければ腹が収まらない?途中に懐かしい玉器市場があった。今もテーブルを出して玉を見せているが、買う人はいるのだろうか。観光市場と名が付いていたが、観光客は来るのだろうか。大安森林公園を抜けてゆっくり帰る。

4月28日(金)坪林へ

雨が心配されたが、問題ないようなので、今日は久しぶりに坪林へ行く。まずは腹ごしらえとして永和豆乳で朝ご飯。そこからMRTで新店まで行く。新店駅にはショッピングモールが出来ており無印が出店している。いつものようにバスに乗る。ハイキングの老人が多く乗っている。

景観はほぼ変わっていない。バス代も30元のままだった。40分ほどして坪林に着く。まずは歩いて橋を渡り、博物館へ向かう。この橋から見る風景は20年前と変わらない、私の茶旅の原風景であり、今日も美しい。先日トミーが、ここの博物館は進化している、と言っていたのを思い出し、数年ぶりに訪ねた。確かに展示が斬新になり、内容もかなり細かくなっている。正直言うともっと包種茶の歴史にスポットを当てて欲しいが、科学的な考察やカラクリなど一般参観者にとって、また子供たちにとっては、興味深い展示なのではないだろうか。

馴染みの祥泰茶荘に行くと、お父さんもお母さんも笑顔で向かてくれた。馮兄弟も元気に茶作りに励んでいる。今日は特に天気が良いので、茶作りに忙しいはずだが、わざわざ店に戻ってきてくれた。旧交を温め合い、新茶を頂きながらコロナ禍の苦労話をした。中部は記録的な水不足で、産量がかなり減っていると聞いたが、この付近はその影響はないらしい。品質も期待できるという。

そこへ突然?台中の茶師に連れられて、カナダ人が飛び込んできた。彼はまだ20代で、台湾はおろかアジアに来るのも初めてらしい。カナダで自ら薬草茶を作り、商品化して販売するための修行に来ているようだ。馮兄弟は新しいもの、珍しいものが大好きで、茶作りそっちのけで(茶作りはお父さんが向かう)、いきなり品茶会が始まる。

彼のお茶はかなり独特の香りがして、皆興味津々となり、活発な意見交換が始まる。こんな交流も台湾ならスルっとできてしまう。台湾人はこういう良く分からない人に対しても対応が優しい。彼は日本にも興味があるようで、そのうち行きたいと言っていたが、果たして来るだろうか。

そんなこんなで時間はあっと言う間に過ぎてしまい、新茶購入は次回にして、茶荘を出てバスに乗った。新店まで戻ると急に腹が減る。店を探すと、海鮮粥があったので、それを食す。すると益々食欲が掻き立てられ、近くで今度は牛雑麺を食べてしまった。どう見ても食べ過ぎなのだが、するすると入ってしまうのはなぜか。更にかりんとうのようなお菓子まで買ってしまい、部屋で美味しく食べる。

ある日の台北日記2023その2(4)心魂プロジェクト

到着した場所は辛さんのイベントスペース。元は茶荘で、私も3年半前に一度訪れていたが、コロナ禍で閉鎖。今回連絡すると『イベントがあるので参加したら』と声掛けがあり、やってきた。Tさんと辛さんはロータリークラブの関係で様々なイベントを行っているが、今晩は『心魂プロジェクト』。重病で入院、自宅療養で外部との接触が制限されている子供たちをサポートするものだった。

全く我々には想像がつかない苦労や苦痛がそこにある。感染症を常に警戒しなければならない病で、このコロナ禍はどれほど大変だったろうか。コロナ禍で活動は休止状態となったが、オンラインでも繋がれるとのことで、本日も日本とオンラインで結び、会が開かれた。

主催者は劇団四季などに所属していた俳優さんで、いい声で歌ってくれる。子供たちのパフォーマンスも独創的で感動的。何といっても笑顔が素晴らしい。そして『生きていくという意味』を深く考えさせられる話があり、それをサポートする親御さんの話があり、思わずもらい泣きする人もいた。

台湾でもこの活動を広げようとしていたところにコロナが来たので、今回4年ぶりに、病院など関係施設にプロジェクト再開を働きかけているらしい。特に主催者は台湾日本人学校出身でご縁が深い。このような試みが本当の繋がりを生み出すのだろう。実に意義深い。そして料理まで自ら準備してこの活動を支援している辛さんも素晴らしい。この会では以前も会ったことがある方と何にも再会し、このような活動には多様な意味があることも知る。

4月27日(木)弁当とガチョウ

本日は早めのランチを食べる。近所で以前よく行っていた弁当屋。何といっても売りは安さだ。当時70元が現在は80元になっているがそれでも他と比べれば安い。おかずを三品選び、主菜を一品、スープは自分で掬うスタイル。安くて美味しいということで、ご近所の、特に老齢の利用者が目立っている。日本円で400円しない弁当は実に有り難い。

今日は原稿の締め切りなどに挑戦した。だがじっくり座っていると何も思い浮かばず、SNSなどについ見入ってしまい、時が過ぎる。ある画像が目に入る。ガチョウの肉が旨そうに見えた。どうしても食べたくなる。以前吉林街で食べた物が思い起こされる。こうなるとどうしようもない。行くしかない。

バスで20分ほど行くと、そこにきれいな阿城鵝肉があった。昔は古びていたが、今は2号店を出している。午後4時過ぎだというのにお客がかなりいて驚く。5時過ぎたら行列ができるらしい。2階に上がって、鵝肉と鵝腸湯、そして鵝油飯を注文する。周囲を見るとほぼ同じものを注文している。そして昼からビールを飲んでいるグループもいる。

出てきた鵝肉はやはり抜群の旨さだった。基本は二人で食べるのであろう量を一人でペロッといってしまった。鵝油飯はごま塩が掛かりいい感じ。鵝腸のスープは私の好みなので、あっという間に完食する。ああ、大満足だ。これで少しは勢いが出るかなと思ったが、腹が一杯で全く体も頭も動かない。

ある日の台北日記2023その2(3)紀州庵とコーワーキングスペース

公園の庭が意外と広かったので散歩していると、何となくこの近くが昔の川端町だったと気づく。公園の裏手はやはり川だった。そこを歩いて行くと、何やら日本時代の建物が見えた。紀州庵とある。中に入り見学していると、確かに聞き覚えのある名だった。日本時代の料亭、官僚や商人などが毎夜宴会を開いた場所だった。その隣には現代的なビルが建ち、文化基地として、整備されていた。

更に歩いて行く。私の目的地は、あの日月潭で最初に紅茶を作った男、持木壮造の家があった場所だった。当時は川端御殿とも呼ばれ、池のある日本庭園を持ち、鳥居まであった豪邸だった。ここで壮造は晩年を過ごし、終戦の前年亡くなった。現在その場所は完全には確定できない。勿論痕跡などない。それでもこの地の雰囲気を味わうだけでも意味があった。

一度宿泊先へ帰り休息。夜は30年前私が働いていた場所の付近を散策した。勿論大きく変わっているのだが、その建物自体は以前の様子を留めていて何とも懐かしい。そこから少し離れた食堂で、Sさん夫妻と夕飯を食べることになっていた。Sさんとは北京以来実に久しぶりに会いましょうということで約束していたが、先週の会で既に会ってしまって驚いた。相変わらず世界は狭い。

二空眷村小館というその食堂は、名前からして戦後外省人が住んで村を指している。空軍ということで、台南にあったらしい。木須炒餅など、あまり見たことがない料理名がメニューに並んでいる。味付けはかなりあっさりしており、日本人にも好まれているようだ。S夫妻は食通で知られているので、私などよりかなり深く吟味しながら料理を味わっている。同時にこの10数年のお互いの出来事を思い出しながら、会話が進み、何とも楽しい夜となった。

4月26日(水)

チャリティーに参加して

朝はミャンマーのティミックスを飲む。ミャンマーで飲むと甘いのに美味しいと感じるが、台北で飲むと、何となく腹が重くなるのはなぜなのか。11時に開店する近所の餃子チェーン店に行く。開店直後でお客もいないのに、オーダー受付のミスから始まり、何となく店員の態度もよくない。

折角好きな焼き餃子と酸辣湯を食べているのに気分は盛り上がらない。食べ終わった頃思い出した。3年半前もここのサービスは悪かったので、もう少し離れた別の店へ行っていたことを。何年経っても何も改善されていないが淘汰もされない店。ご近所の仲良しでもっているのだろうか、チェーン店の力だろうか?

夕方中山駅まで行く。ホテルオークラの隣にきれいなビルが建っている。その中にコーワーキングスペースが新しくできている。そこの責任者が旧知のTさんということで、見学に行く。セキュリティーが厳しいので入るのに苦労したが、とてもきれいで快適なスペースがそこにあった。

会議スペースや個室なども充実しており、多くの利用者が思い思いのスタイルで仕事をしていた。私のようなノマドとも呼べないフラフラした人には、ご縁はなさそうだが、料金プランなどもきめ細かく、快適な仕事空間を簡単に確保したい人にはお勧めかもしれない。私はオンラインセミナーの時など、Wifi環境が良いので使わせてもらおうかと考えている。

Tさんと出掛けた。天母の方へ行くらしい。車に乗せてくれる人がいるというので有り難く乗る。運転者であるUさんとは初対面だったが、台湾在住40年近いとのことで、僅か5分で多くの共通の知り合いの名が出て来る。その中にS銀行のTさんが登場してとても懐かしい。彼が蝶々を取りによく埔里に行っていたこと、私が数年前埔里を拠点にしていたことを話し、俄然話しは盛り上がる。

ある日の台北日記2023その2(2)有記銘茶の出会いと客家文化

それから茶旅散歩を始める。私は何度も通った貴徳街をフラフラとご案内。徳記ビルが無くなっていたり、錦記茶行のビルの横に案内が張られたりと、ちょっとした変化がある。そして何となくKさんが行きたいというので有記銘茶まで歩いてみる。中に入ると、やはり奥の焙煎室を見学する。

そこになぜか子供が走ってきた。母親が追いかけてきたが、その言葉は日本語だった。観光客かと思ったら、何と有記の親族だという。ご主人がやってきたので華語で聞いてみると、何とバンコク王有記の息子だった。そして『バンコクの店に3回行ったが、オーナーには会えなかった』というと、『親父は今そこにいますよ』というではないか。

何ということだろうか。紹介されたバンコクオーナーは王有記の4代目の弟さんだった。理由は分からないが兄と一緒に台湾に来て、途中でバンコクに戻り、ヤワラーに店を開いたらしい。初めは不審に思っていたようだが、私がバンコクの茶荘のいくつかと接点があることを話すと『あそこのおじさんは元気かな』などと日本人の私に聞いてきて、周囲の人に笑われていた。

店に集まっていた10人ほどの人は実は全て有記の親族だった。彼がバンコクから来たので集まったのであろうか。一緒に写真を撮る。最後に老人が写真に入ってきた。それが有記の4代目だとは最初気が付かなかった。後で分かったことだが、この1か月後に4代目は亡くなった。親族が集まっていた、バンコクから弟が来た、というのは、4代目にお別れをするためだったのかもしれない。非常に劇的な場面にまた遭遇し、Kさんは目を白黒させていた。

そして夕飯を食べるべく、タクシーに乗る。頼さんのお知り合いの女性と和食屋で定食を頂く。何だかよく分からない展開になっている。今晩は彼女のサロンで鉄観音茶を飲む予定になっていて、それに参加する。鉄観音茶を持って現れたのは、木柵の鉄観音茶屋さんで働く人だった。台湾の鉄観音の歴史はもう少しやるべきかもしれない。

4月25日(火)

客家文化公園と紀州庵

午前中はお休みして、昼に銀行へ行く。両替が目的だが、意外と人が並んでおり、待たされる。台湾人は世界中に口座を持っているらしい。色々な話が断片的に聞こえてくるが、その内容は、アメリカやイギリスからアジアまで、かなりワールドワイドで面白い。私の番がようやく来て両替したが、やはり両替目的などを聞かれてうっとうしい。これからは空港ですべて両替しよう。

銀行の近くに客家文化会館という名称の建物があったので寄ってみた。てっきり客家関連の展示でもあるのだろうと思いキョロキョロしていると、受付の女性ににらまれる。聞けばここは事務所だけで、一般人が見学に来るところではないらしい。もう一人の女性が『客家文化公園』の場所を教えてくれたので、突然行ってみることにした。

MRTで台電大楼駅まで行く。歩いてすぐに客家文化主題公園が見えた。実に立派な建物だった。だが中に入っても人はいない。係の人がようやくやってきたので、『客家と茶』について聞いてみたが、2階に簡単な展示があるだけだという。取り敢えず2階に上がり展示を見てみると、客家文化の内容はありきたりで、スペースだけがやたらと広いと感じてしまった。

お茶についても東方美人のいつもの説明書きがあり、また客家擂茶など、客家と関連の薄いものが客家文化とされており、ちょっとびっくり。1階の係の人は『もし必要があれば専門家に聞いて返事します』というので名刺を置いてきたが、そのご返事はなかった。桃園のあたりには客家茶文化館というのも出来ているらしい。次回はそこを訪ねてみよう。

ある日の台北日記2023その2(1)約束の地で

《ある日の台北日記2023その2》  2023年4月22日-28日

4月23日(日)昔話をダラダラと

台中から戻ると台北は涼しいなと感じる。NHKのブラタモリを見ていたら、何と下北沢特集で斎田博物館と共に荏原茶が紹介されている。この番組は時々予想外の話題を取り上げるのが面白い。荏原は私の本籍地。私と茶はこれまで全く無関係と思っていたが、何か出て来るのかな。

今日は天気が良く、かなり暖かい。台北駅までMRTに乗り、そこから歩いてみる。昨日の台中駅が完全に東南アジア化していたので、もしや台北駅周辺もそうかと思ったのだが、さすがにそうはなっていない。やはり台鐵と高鐵の駅が離れているところでは、台鐵側にその傾向がみられるということらしい。

駅の近くに公園があった。逸仙公園と書かれた向こうには孫文の像が見える。ここは孫文が台湾を訪れた際、宿泊した宿の跡らしい。梅屋敷、大和宗吉という人物が経営していた旅館、高級料亭だったとある。建物が一部保存されており、中に入ると、孫文関連の資料や写真が多く展示されている。庭園も整備されておりきれいだ。こんなところにこんな静寂な空間があるとは全く知らなかった。

そこから長春路まで歩いて行く。本日は長年のお知り合いであるBさんと会う予定になっていた。Bさんは俳優業や音楽業で忙しいなか、時間を取ってくれた。牡蠣の店に入ったのだが、彼は昨晩飲み過ぎて二日酔いらしく、粥などに少し手を出しただけで、ほぼ私が食べてしまった。何だか最近とみに食欲が出ていて怖い。

場所をスタバに移して、話を続けた。コロナ禍の3年の間のお互いの出来事などが話題に上る。彼は本も出版しており、1冊頂戴した。さすがにこの歳になると色々と体もきつくなる。また周囲の人々との付き合いなども徐々に変わっていくので、その辺について率直に話せる相手は何とも有難い。話は何となくダラダラと続いて行き、気が付くと4時間も経っていた。体調が悪いのに付き合ってもらい、何とも恐縮だった。

彼と別れて歩き出すと目の前に鳥居が見えた。これが林森公園にある明石元二郎の鳥居だろうか。先日福岡へ行き、明石の記念碑を眺めたことを思い出す。そもそもここは光復後外省人が住むバラックが立ち並んでいたのではないだろうか。1990年代、奥さんに頼まれて出張の際に、良くここでCDを買ったのも懐かしい。今家族連れなどは楽しそうに遊んでいる。

何となくフラフラ歩きたくなる。私が30年前に住んでいたマンションは既に姿が見えない。更に行くとその頃お世話になった会社の本社が見えたが、老朽化で改築待ちだった。その1階にあったファミレスも既に営業を停止してだいぶん経っている。この辺がコロナの影響だろうか。宿泊先の近くまで来ると、昔よく泊まったホテルが見えた。その先のパン屋であんパンを買う。腹も減ったので、魯肉飯と排骨酥を食べて帰る。

4月24日(月)劇的な出会い

ちょっと疲れたので午前中は休息。昼に大稲埕方面に出掛けたので、先日行き損ねた金春発でご飯を食べることにした。ところが何と月曜日がお休み。ショック。仕方なく近所のチャーハン屋で昼を取る。これが意外と旨い。スープの量はどこも多い。でも店名に炒飯とついているだけあってかなり満足する。

迪化街の廟のところでKさんたちと待ち合わせた。日月潭での劇的な出会いから3日、今度は台北で会う。大稲埕を茶旅散歩するはずだったが、既に買い物で消耗していたようで、取り敢えずお茶屋に入り休息する。雰囲気の良いお茶屋だなと思っていたら、ここは5年前『湾生回家』の黄監督とお話しした場所だったことを思い出す。お茶を飲みながらしばし昔を思う。