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ある日の台北日記2018その1(6)茶商の末裔4と中央研究院

5月29日(火)
茶商の末裔4

本日もMRTで中山駅にやって来た。昨日に続き、李春生の末裔を訪ねることになった。その家は繁華街にあり、しっかりしたセキュリティーが施されていた。今日会ってくれたのは、4代目で春生を研究している人。昨日の6代目からも、『おじさんはかなりの資料を持っていると思う』と言われていた。おじさんとは言っても2代世代が違う。因みに今日は6代目の母親(5代目)も、この家にやってきて色々とサポートしてくれた。彼女と4代目が叔父、姪の関係になる訳だ。

 

その李さんの部屋に通されると、資料が山と積まれており、確かに様々な資料を集めていた。ただやはり清朝時代の茶業については、殆ど資料がないという。それでもジョン・ドッドの子孫が訪ねてきたことや、『烏龍茶』という言葉が春生の発案(台湾語発音)で商品名として使われ、台湾茶の輸出に大いに貢献した話などが出た。

 

 

 

また自らも大稲埕の大邸宅で生まれ、育ったというから、光復後ぐらいまでは、川沿いの邸宅は現存していたことになる。古い写真や地図も保存されており、李家に関する資料はかなり集まっている感じだ。勿論台湾には李春生の研究者は何人もいるだろうから、そういう人々と交流する中で、資料が出てくることもあるようだ。

 

更には春生後の李家についても、いくつか話しが出ていた。中でも日本に渡った人々がおり、保険会社を興したことなど、全く知らない歴史を見ることができた。その子孫は今でも横浜在住だといい、今度訪ねに行くそうだ。歴史をやっていくと自ずと現代に繋がっていくわけだ。

 

取り敢えず、茶商の末裔調査はここまでとして、この日の午後から翌日までは台湾緑茶の歴史の原稿の締めに追われ、それに集中していた。この調査も予想以上に困難なものであり、最後までどうしてよいか迷うことが多かったが、何とか日本統治時代の緑茶について書き上げて、提出した。

 

5月31日(木)
中央研究院へ

5月最後の日、トミーに迎えに来てもらい、南港にある中央研究院へ向かった。中央研究院は台湾のシンクタンクであり、各種研究が行われている場所。台湾茶の歴史を調べるにあたっても、一度は訪れてみたい場所だった。何とトミーのお姉さんが昔ここで働いていたというご縁で、彼女もやってきて、サポートしてくれた。誠に有り難い。

 

中央研究院にはいくつもの研究所があり、事前にどこへ行くか決めないと、ビルも分れているので厄介だった。今回は取り敢えず台湾史の関係のところへ行ったが、その広い敷地に入る時も、ビルに入る時も、何のチェックもなかった(車で入る時は免許証の提示はあった)のには、ちょっと驚いた。そして事前に外国人が行ってもよいか確認してもらった時も『むしろ外国人が研究院に関心を持ってくれていることは良いことだから、歓迎する』と言われたそうだから、そのハードルは思ったより低かった。

 

そのフロアーを歩いていると、研究室の名前に何人も見覚えがあった。そう、ここの先生が研究して、その成果を発表した論文を参照することが如何に多いか、ということを感じた瞬間だった。更には廊下に展示された出版物にも即座に反応してしまい、受付に行った時、まずはその本が買えるかと聞いてしまう程、魅力的なものがあった。ここはやはり宝の山かもしれない。

 

スタッフも親切にその機能を教えてくれ、PCで一つ一つ検索していったところ、かなり貴重な写真などを見つけることができた。台湾史における資料は、まずはここに集まってくるのだと分かる。懸命にPC検索を行っていると、あっという間に昼ご飯の時間になってしまった。

 

お昼は研究院内の食堂が工事中とのことで、トミー姉の知り合いの先生に連れられて南港の山の方にあるレストランへ行った。ここはレストランだが、茶農家がやっており、お茶も飲めるようになっている。美味しい料理を厨房で作っていたここのオーナーとトミーは何と知り合いだと分かり、また盛り上がる。本当にお茶の世界は狭い。今度はゆっくりお茶を飲みに来よう。

 

午後も又研究院に戻り、ひたすらPCに向かい、検索を重ねる。三好徳三郎と辻利について、台南の茶荘の話などが見られ、面白い。また出版書籍の中に、蜜香茶で有名になった粘一族の変遷を日本人研究者が日本語で書いたものを発見し、思わず購入。周囲から変わった日本人だと見られてしまう。尚郭春秧と関係した堤林数衛の本も出版されていたが、残念ながら品切れで買えず。インドネシア茶の歴史も面白い。

 

ある日の台北日記2018その1(5)茶商の末裔3

5月28日(月)
茶商の末裔3

土日は基本的にゆっくり休むつもりだった。埔里では観光客にバスを占拠されるとの理由があったが、台北では特に理由はなかった。ただ図書館に行けば勉強できるので、フラフラっと、行ってしまう。行ってしまえば、調べたいことはいくらでもあるので、結局6時間もの間、図書館のPCと睨めっこを続けた。それほど寒いとは思っていなかったが、気が付けば体がかじかんでおり、何となく疲れてしまった。それでも週明けの準備も始める。茶商公会から紹介された茶商の末裔に連絡を取る。ある末裔は上海におり、微信でやり取りをした。

 

そんな中、あの日本統治時代初期には既に台湾一の富豪とも言われた李春生の子孫にも連絡が付いた。今日は彼のいる東呉大学を訪問することになっていた。この大学の名前は何度も聞いていたが、どこにあるのかさえ知らなかった。MRTに乗り士林駅で降りる。そこから指示されたバスに乗ると、大学近くまで行けた。

 

大学はそれほど広くはないが、かなり落ち着いた場所にあった。実は本日会う人とは電話で話してはいたが、彼がどんな人で、ここで何をしているのかは全く確認せずにやってきてしまっていた。迎えに来てくれたその人は若い。何とここの学生、この秋から大学院に進むという若者だった。

 

だが彼は只者ではない。あの台湾烏龍茶の父とも呼ばれる大富豪、李春生の末裔で6代目だった。更には李春生の研究で論文を書いており、研究の道に進んでいる人でもあった。研究室で話を聞くと、李春生にとって茶業はごく一部であり、その事業の幅広さ、そして思想家、哲学者、キリスト教徒としての李にスポットが当たっていることが分かる。

 

正直私が知りたい茶業についての資料は多くない、と李君は言う。1860年代にイギリス商人、ジョン・ドッドと始めた茶の輸出、その後台湾茶のかなりを仕切るようになり、財を成したはずだが、なぜその資料はないのだろうか。大稲埕の開発や鉄道敷設などもっと大きなビジネスが沢山あったからだろうか。この点は今のところ、どこを見てもはっきり書かれたものはない。不思議だ。

 

李君によれば、今年は李春生生誕180周年であり、先般その末裔が一堂に会して、周年行事が教会で執り行われたという。そこに集まった末裔は約180名(欠席者も同数はいるとか)。その多くがキリスト教徒で、世界中に散らばっているらしい。李君はそこで春生の略歴を紹介したというから、既に子孫にとっても春生は歴史上の人物となっている。

 

折角士林に来たので、帰りのバスを途中で降りて、蒋介石と宋美齢が住んだという士林官邸にも行ってみた。南国風の木々が生い茂り、多くの花が咲く広大な庭園(周囲の開発が制限されていたので自然環境が素晴らしい)の中を歩いて行ったが、何と今日は月曜日で、官邸は閉鎖されていた、残念。

 

それから駅まで歩いていき、更に駅の反対側を線路沿いに歩く。ついでと言っては何だが、郭元益の博物館にも行ってみることにしたのだ。ここはあの埔里の東邦紅茶の郭家と縁戚関係にあるという。確かに創業者、郭少三氏の叔父、郭邦光は士林の茶業公会を立ち上げた人だった。士林の郭家は名家であり、郭少三の妹が台湾の5大財閥、基隆の顔家に嫁ぎ、そこが一青妙・窈姉妹のルーツになっていることは前に書いた。

 

博物館は郭元益ビルの中にあったが、見学者はおらず、鍵を開けてもらって中に入った。別の階ではお菓子の製造体験会などが開かれ、ここはお茶屋ではなく、お菓子屋なのだと改めて意識する。そして展示物の中にもお茶や東邦紅茶に関連するものは見いだせず、残念な思いで去る。

 

その後大稲埕に行く。今日は先日お会いした王添灯氏の末裔、黄さんの紹介で、添灯の兄、水柳氏の娘さんに引き合わせてもらった。添灯は戦前の茶商、そして二二八事件で有名になった(今回はこの事件の生々しい話も聞く)が、戦後の台湾茶業界では兄の水柳と弟の進益の両氏が活躍していたのだ。水柳は茶商工会の理事長、弟は総幹事を長く勤めている。

 

お会いした場所は茶商工会のすぐ近くにある立派なオフィス兼住宅ビル。茶業は1982年の茶業管理条例廃止により輸出に終止符が打たれて辞めてしまったというが、不動産業などで財を為している感じだった。最近は昔の茶を復活させようと、六合香茶と言うブランドで茶作りを再開しているという。

 

そして夜、またMRTに乗り、芝山駅へ向かった。香港時代からの知り合いであるH夫妻と久しぶりに会うことになっていたのだ。場所は数年前に一度訪れたことのあるお茶屋さん。そこでは食事ができ、美味しい夕飯をご馳走になった。生まれたばかりの頃から会っているお嬢ちゃんもどんどん大きくなり、英語など話している姿は頼もしい。Hさんもこれから新たなステージに入るようで、楽しみだ。

ある日の台北日記2018その1(4)茶商の末裔2と炒飯

5月24日(木)
茶商の末裔2

お昼に大学の後輩、Sさんと会うために出掛けた。国父紀念館近くをちょっと歩くと、何と日本の本屋ジュンク堂があるではないか。それにしても目立たない場所にひっそりとあるな、と言う感じだ。中に入ると日本語の本も一杯売っていたが、残念ながらお客は殆どいなかった。それから飲茶屋に行き、Sさんと会い、とりとめのない話をして過ごす。

 

その後、一昨日行ったばかりのニニ八紀念館を再訪した。実は一昨日紀念館にいた人から、王添灯氏の末裔の方を紹介され、連絡を取ったところ、紀念館で会いましょう、ということになり、やってきたわけだ。その女性、黄さんは音楽家で、王氏の孫に当たるという。黄さんは王添灯氏の奥さん、黄氏の系譜らしいが、そこは台湾、複雑に閨閥が絡み合い、私などが一度聞いても理解できるものではない。

 

そしてこの紀念館の立ち上げに尽力され、資料提供など様々な援助をしてきた。というか、この二二八和平公園の敷地内には、黄氏の牌楼があるなど、そもそもこの地にゆかりが深いらしい。よく分からないが、この紀念館自体が、王氏と黄氏の支援によってできたのかもしれない。何しろ館内には、二二八事件の犠牲者の中で唯一、王添灯氏の像があるのだから。

 

黄さんからは、子供の頃に聞いた王添灯氏の話は勿論、その兄水柳氏、弟進益氏など、光復後も台湾茶業会で活躍した一族の話が多く出てきた。そしてその子孫もいるので紹介してくれるという。台湾において添灯氏は、二二八事件の犠牲者、という側面で語られるのみだが、日本時代の満州への茶の輸出などで大いに成功しており、進益氏は長い間大連で商売していたという。実に興味深い話なので、是非一度まとめてみたいと考える。

 

同時に黄さんの実家、黄家の方も、王氏と同じ新店付近の出であり、祖父が丁稚からのたたき上げで有名な日本企業の台湾社長をするなど、なかなかユニークな経歴になっているようだ。こちらは日本企業も含めて、何か繋げられないかと模索を始めることになった。台湾には日本時代の様々な遺品が残っており、これらをどうするのかも、意外と難しい課題だと知る。

 

5月25日(金)
懐かしの炒飯

埔里と違い、台北にいると、実に様々な歴史的な情報が入ってきて、そして実際に関係者、その末裔などに会えるケースもあり、かなり忙しい毎日になっている。資料をもらい、それを読み込むだけでも相当に時間がかかっている。まるで研究者のようだ、と勝手なことを思ってみるが、真似事に過ぎず、その調査の深さは遥かに及ばない。

 

今日はそんな作業を続けていき、夕方に出掛ける。シェフのSさんと夕飯を食べることになっていた。Sさんとは、先日烏山頭ダムに一緒に行ったばかりだが、台湾料理の成り立ちなど、興味深いテーマで話が弾み、また会って話すことになった。こういう繋がりは実に貴重だ。

 

Sさんに何が食べたいかと聞くと、『以前Yさんが食べたという炒飯が食べたい』と言われたが、何のことだか分からなかった。もう一度聞いてみると、何と4年も前に私とYさんが初めて会った時に行った四川料理屋の炒飯のことだと分かった。Yさんから話を聞いていたSさんは、是非一度食べてみたいと思っていたというから、その記憶力は凄い。私はそんなことはすっかり忘れてしまっていた。

 

その四川料理屋は台北駅前にあり、行ってみると幸いまだ営業していた。早めに行ったので席はあったが、6時を過ぎるとどんどん客が来て、すぐに席は埋まってしまった。人気店だったのだが、私はその後1度来たきりだった。やはりあまり食に興味がない人間だ、ということだろう。

 

メニューを見ると四川料理だから回鍋肉や麻婆豆腐などはあるのだが、肝心の炒飯はない。おばさんが『白飯食べるか』と聞いてきたのを断り、『炒飯あるか?』と聞いたところで、思い出した。4年前も全く同じ会話をしたのだ。Yさんにはちょっと面白いところがあり、ない、と言っても食べたいという人なのだ。そして聞いてみると『メニューにはないけどあるよ』という答えをもらえるタイプの人なのだ。

 

YさんがSさんに炒飯の話をしたのだから、よほど美味しかったか、何かが印象に残ったか、そして料理人であるSさんがそれを覚えている、Yさんの舌を信じている、ということだろう。ここの裏メニュー炒飯は色がいい。Sさんは一口食べると『これはラードですね』とその秘訣を解き明かす。そうか、ラードは美味しいのか。そんなことは全く知らない私にとってはいい勉強になる。

 

まだ時間も早かったので、場所を移して話すことにした。Sさんが行ってみたい場所があるというので、向かった先は台北駅の地下。そこにあったのはUCCの喫茶室。ちょっと居心地のよさそうな空間、金曜日の夜は、充電なども出来るので若者で満員だった。メニューを不思議なものがあり、和三蜜糖ミルク紅茶、というのを頼んでみる。甘さも適度で意外とイケる感じだ。Sさんとは色々と話が盛り上がるので、いつの間にか10時を過ぎ、閉店までいてしまった。

ある日の台北日記2018その1(3)大稲埕 茶商の末裔

5月23日(水)
大稲埕 茶商の末裔

4月に訪れた大稲埕の福記。前回は王泰友氏の息子が留守だったので、もう一度訪ねることにして、アポを入れた。大稲埕は今は正直不便なところ。MRTの駅からも遠く、バスもすぐ近くまで行ってはくれない。仕方なく、今日も中山駅から歩いて向かう。圓環の先まで行くと、天馬茶房と書かれたビルがあり、この付近で二二八事件の発端が起こったとの碑がある。昨日相当事件について勉強したので、思わず足を止めた。

 

延平北路を北に向かう。この辺りは日本時代に台湾民主化運動などの拠点があったところ。往時の展示がある場所にちょっと寄り道。色々な展示があるのに、私が注目してしまうのはお茶関連ばかり。どう見ても、これはちょっとまずい状況だと言えるが、それだけ集中して一つのことをやろうとしている表れと、いいように解釈しよう。更に歩いていくと、労働部、という比較的新しい建物があった。ここは日本時代初期、郭春秧の錦茂茶行があった場所らしいが、残念ながらその痕跡は全く発見できない。

 

福記に行くと、王泰友氏の息子、平雄氏が待っていてくれた。前回訪問時に色々と教えてくれた彼の奥さんと息子さんは、お客対応に追われていた。王さんから、彼が子供の頃の話、比較的最近の話などを数多く伺った。何しろ泰友氏は100歳まで生きたので、未だ亡くなって10年ぐらいしか経っていない。しかもその奥様は、100歳で元気なのだから、何とも歴史が近い。泰友氏が包布球法を教えた場所、人名などが細かく出てくる。晩年まで、四両の茶葉を紙で包んでいたともいう。

 

福記を辞して、そのまま茶商公会に向かう。ここも7年前に訪問した記憶はあるが、その後完全にご無沙汰していた。中に入ると、やはり色々と資料があり、総幹事から説明を聞く。徐英祥先生が纏められた茶商公会の日本時代の本もある。日本時代の冊子も残っている。古い茶缶も展示されている。当方が台湾茶の歴史を勉強しているというと、何人かの茶商の末裔を紹介してくれた。

 

ここには当然ながら、様々な情報が集まってくるのだが、如何せん日本統治時代の資料には乏しいと、総幹事は言う。それでその末裔を訪ねて、少しでも参考になるのか、トライしてみることになる。因みに昨日急に調べ始めた王添灯氏、弟は90歳過ぎまでここの総幹事をしていたし、兄は光復後も大きな茶商であったと聞き、驚く。また台湾烏龍茶の輸出の初期に大いに関わった買弁、李春生の子孫も沢山いるという話だった。ちょっとワクワクして、連絡先を聞く。

 

それからちょっとフラフラする。大稲埕公園はきれいなところだが、このあたりから大稲埕が開発されたと紀念碑に書かれている。開発したのは先ほども出てきた李春生と板橋の林家。公園の周囲には、まだ古い家が残っており、少しだけ往時を偲ばせるが、その向こうは乾物屋や薬局などが立ち並ぶ観光地になっており、日本人も沢山歩いている。その先に埠頭がある。

 

ゆっくり夕方の散策をしてから、歩いて中山北路まで戻る。それほど暑くないので、歩けてしまう。夜はSさんに誘われて、台北で唯一?の沖縄料理屋に行ってみる。料理は定番が並んでいたが、雰囲気はちょっと沖縄的。働いていた女性も沖縄から来たという。昔香港に住んでいた時、よく行った沖縄料理屋をふと思い出す。私は泡盛のシークワサー割だけをごくごく飲んでいた記憶がある。

 

台湾と沖縄の関係、それは日本と台湾の関係よりかなり濃密なはずである。距離的な近さだけでなく、文化的、歴史的な部分が格段に近い。沖縄料理を台北で食べながら、どうしても、この2つの地域の悲哀、日本統治時代の競争関係などに思いが至ってしまう。特に戦後の混乱期、同じ日本の領土であった2つの地域が、1つは国民党、1つはアメリカに占領され、その中で茶を含めた物資の貿易が行われていたことなど、なかなか表に浮かび上がってこないのだ。お客さんも少なく、何となく寂しい夜だった。

ある日の台北日記2018その1(2)圓山と二二八事件

5月21日(月)
台湾大学

今度の宿泊先は台湾大学に結構近い。歩いて20分はかからないので、昼時にテクテク歩き出す。ちょうど大きな通りから少し入った場所に麺屋の看板が見えたので、入ってみた。ランチを食べる人で混んでいたが、何とか席を確保する。やはり目に付くのは牛肉麺、初めての店ではどうしてもこれを注文してしまう。麺がしっかりしていて、牛肉もチャンとのっかっており、満足。

 

それから台湾大学の裏門からキャンパスに入る。今日は何となく散歩したい気分で、前回も見た蓬莱米発祥の地が気になってしまい、その推進者であった磯永吉博士を説明する看板を見ているうちに、もっと知りたくなってしまった。ネット検索すると台湾大学内には磯永吉記念館が設置されているというので探してみたが、古い建物はあるものの、なぜか農学部周辺では見付けることが出来なかった。

 

仕方なくいつものように大学図書館に入り、資料を探すことにした。ここも一度登録してしまえば、パスポート持参で簡単に入ることができる。古い資料を見るには更に手続きがいるのだが、ここには寄贈本も沢山あり、探せばきりがないほどだった。時間の限り、本を探すが、一つを読みだすときりがない。一部をコピーして退散する。

 

5月22日(火)
台北歴史散歩 圓山から二二八事件

翌日は圓山へ向かう。実は昨晩資料を漁っていたら、茶商公会に興味を持ってしまった。1915年に改組された公会の理事長は陳朝駿という人だったが、この人がどんな歴史を辿ったのか、なかなか資料が見付からなかった。すると、圓山駅の横には2010年に開かれた花博の跡地があり、その向こうに台北故事館という建物があることが分かった。そしてそこがなんと陳朝駿の別荘だというので、早々に行ってみることにしたわけだ。

 

MRT圓山駅を降りると、日差しはかなり強かった。これは歩くのは大変だと直感したが、周囲に遮るものはない。花博会場を横目に、広場を歩いていく。広場を越えて大きな道路を地下道で渡り、何とか出てきたところに、その建物は忽然と現れた。何とも台湾には似合わない洋風な、小さな館。別荘という程広くはない。

 

入場料を払って中に入ると、1階に陳朝駿に関する簡単な説明があり、ここが往時外国商人などを招いてパーティーや商談をした、いわゆるゲストハウスだったことが分かった。ただ彼が南洋華僑で、財を為した人物だとは分ったが、茶葉貿易についてはほとんど触れられてはなかった。

 

入口の人に聞いてみたが、詳しいことは分からない、むしろ公会の方が知っているだろうという、堂々巡りな話だった。2階はチャイナドレスの展示が行われており、陳氏とは関係なかったが、昨今チーパオも流行りだということで、その歴史的な変遷を見た。それが終わると何か資料が売っていないか見て回り、昔の地図を購入して、見学は終了した。

 

圓山駅に戻る途中、広場の端から登る所が見え、ちょっと寄り道した。そこには昔の石灯篭があり、ちょっとした日本時代の建物が残されていた。そうか、ここは台湾神社の一角だったのだ。台湾神社と言えば、今の圓山大飯店の場所に建てられていたということだが、その敷地は広かったのかもしれない。意外なところに意外なものがあるものだ。

 

更に進むと寺が見えてくる。臨済護国禅寺、この寺もいかにも日本的だな、と眺めていると、説明書きに日本統治時代初期に児玉源太郎が僧侶を招聘して建てたとある。台湾に残る日本時代の木造寺院、この寺はどんな変遷を経て、今日に至ったのだろうか。柱や廊下に日本が見え隠れする。

 

MRTに乗り、台大医院駅で下車。二二八和平公園に入る。ここには台北二二八紀念館がある。1947年に起こったこの事件、実は関係者の一人に茶商がいた、と聞いたので、何か展示されていないか、見に来たのだ。紀念館の建物も古いなと思っていたら、ガイドブックには旧NHK台北支局、と書かれている。

 

中に入ると、かなり充実した展示になっており、二二八事件がまだそう遠くない歴史なのだと分かる。私が探した人物、王添灯氏は、何と事件発生後に、国民党政府と折衝した際のリーダーであり、拘束されて、生死すら分からなくなってしまった人であった。王氏は日本統治時代、満州へ茶葉を売り、商売を大きくしていったが、その一方で民主化活動などもしており、実に興味深い人物だった。

 

紀念館の人に、王添灯氏についてもっと知りたいのだが、というと、紀念館の出した本を勧めてくれ、更には王氏の子孫の方までご紹介頂いてしまった。驚くような展開ではあるが、これもまた茶縁だろうか。王氏一族について、そしてその茶業について、これから勉強してみたい。

 

二二八事件に関する紀念館は実はもう一つあった。折角なので、そこにも行ってみようと思い、またMRTに乗り、中正紀念堂で降りて歩く。今日はよく歩いたなあ。もう日が西に傾いている。総督府の昔の建物が二二八国家紀念館になっていた。非常に立派な建物だったが、展示物は先ほどよりは多くはなく、いやかなり広い範囲をカバーしている、と言う感じだった。ここで出されている関連本を買いたかったが、既に売切れだった。それでも今日一日で事件についてはかなり理解が深まった。

 

ある日の台北日記2018その1(1)カレーとたこ焼き

《ある日の台北日記2018その1》

5月上旬まで埔里を臨時拠点としてきたが、その拠点を失った。突然のことだったので、どうしてよいか分からず、しかも台湾に1週間後に戻ることにしていたので、大いに困った。そこを救ってくれたのが台北の葉さん。結局5月は台北を臨時拠点として、今後の身の振り方を考えることにした。

 

5月17日(水)
台北に落ち着く

1週間前は松山空港から羽田へ行ったが、今回は成田から桃園へ向かう。この差はかなり大きい。時間的な差もあるが、精神的にも距離がある。もう慣れたエバ航空で桃園に着くと、いつものルーティーンをこなし、バスで台北へ。これまではMRTで桃園、高鐵で台中だったが、埔里滞在が無くなり、台北になったことから、この辺は楽になる。とは言っても、当初は余り便利でない方が動きすぎなくて健康に良い、ということだったのだが、台北でも埔里と同じような生活が送れるのだろうか。

 

滞在先はMRT駅から近く、荷物を持っていてもあまり問題にはならない。鍵はそこの息子が開けてくれたので、今回はスムーズに入ることができた。午後7時前には荷物の整理を終えていたから、埔里よりはかなり早い。問題は夕飯かな。この付近、比較的良い住宅街のため、きれいなレストランはあるが、私が欲する昔ながらの食堂は少ない。

 

フラフラ歩いているとおしゃれなパン屋もやたらに多い。最近はご飯を食べずにパン食が多いのだろうか。その中で安い定食屋、いや弁当屋で中で食べられるところを見つけた。メインを1つ選び、野菜などおかずを3品選ぶ方式。ご飯も大盛りで、如何にも昔の弁当だ。これで70元は、この付近では突出して安い。

 

5月18日(木)
カレーとたこ焼き

翌日はゆっくり起きようと思ったが、早めに目覚める。やはり台北は大都市、埔里のように眠りは深くはならないようだ。ただ腹も減っておらず、ボーっと過ごす。午前中に外に出た。MRTで中山へ向かう。暇だから散歩しようと思ったが、思いのほか暑く、すぐに断念する。これもまた埔里とは大きく違い、都会には熱がある。

 

取り敢えず両替を試みる。埔里では馴染みに銀行、馴染みの銀行の人がいたのだが、ここでは同じ銀行でも支店がいくつもあり、そういうことにはならない。もう完全に埔里ロス状態になっている。銀行は広く、両替は2階に行かねばならない。更に申請用紙は自分で書く。たったこれだけのことで嫌になってしまう自分が怖い。日本円は相変わらず弱く、心に追い打ちをかけられる。

 

そういえばこの銀行の横には日本のファミリーレストラン、サイゼリアがあった。日本のロードサイド店舗とは違い、かなりいい場所に店舗を構えているが、ランチは99元で提供しているらしい。若者がどんどん地下の店舗に降りて行く。私も入ってみた衝動にかられたが、場違いな気もして止めた。

 

昼は旧知のBさんとコンビニで待ち合わせ。早く着いたので飲料コーナーを見ていると、いつの間にか緑茶ブーム?が来ている。『台式緑茶』『日式緑茶』『日本緑茶』など、細かく分類されており、驚く。一体何が起こっているのか。この辺はもう少しじっくり眺めて勉強したい。

 

Bさんとランチに向かったのは、いつも行く路上カフェの横にある店。そこで『カレーとたこ焼きのセット』を注文する。この組み合わせ、どういうことだろうか。興味津々で食べてみると、意外や美味しい。いや、両方とも個別に食べて普通に美味しい。勿論カレーにたこ焼きを突っ込むわけではないので。

 

店の台湾人に聞いてみると『いや、自分がカレーとたこ焼きが好きだから、両方食べたい人のためにセット料金を設定しただけ』とのシンプルな説明。確かに大勢の台湾人が日本を訪れ、その食べ物を好きになって帰ってきている。皆が高級料理を食べている訳ではなく、むしろB級グルメに嵌るのは必然のなり行きではないだろうか。そしてそれを屋台風の店で出すのも、いかにも台湾的でよい。因みに私は3月にたこ焼きが食べたくなって大阪まで行ったが食べ損ねたので、リベンジ?できた気分だ。

 

Bさんとは長い付き合い??だが、彼のルーツに台湾が関わっていることをこの時初めて聞いた。しかもそれがお茶とも関連があるというのでビックリしてしまう。台湾に関係する多くの日本人にはそれぞれのファミリーヒストリーがある。そして簡単には分からないその歴史に挑むことにはそれなりの意義があると、強く感じた。

 

MRTに乗り、永和の図書館へ向かった。ここの6階には既に何回も行っているが、日本統治時代の新聞が電子化され、簡単にみられるのがよい。なかなか見つからない茶業者の記事なども出てくるので、じっとパソコンに向かい、気が付くと何時間も経過していることが多い。USBを差し込めば、記事が無料でダウンロードできるのは凄い。こんな地道な努力が何になるのか分らないが、台北に来たからには、やはりここで資料を探そう。

ある日の埔里日記2018その3(8)烏山頭ダムで

5月8日(火)
烏山頭へ

朝は早く起きた。昨日は小雨だったが、今日も日差しはなかった。このホテル、朝食が付いているとのことだったが、何とセブンで買うための食券(60元)2枚とコーヒー券2枚が渡されていた。朝7時過ぎにセブンに行くと既に長蛇の列。取り敢えず食べたい物を確保して並ぶ。だが隣の珈琲は8時からしか提供されない。何ともちぐはぐで面白い。

 

9時半にホテルをチェックアウトして、駅に向かう。何しろ目の前だから便利。Kさんと落ち合って電車に乗り込むはずだったが、何と昨晩行った茶荘のオーナーから『明日烏山頭ダムは行事のため一日閉鎖』との情報がもたらされ、Kさんは行くのを断念した。私は台北からSさんが来るので、取り敢えず隆田という駅へ行ってみることにした。

 

昨日行った新栄の方に向かって走る。これなら新栄に泊まってもよかったな。駅に着くと駅員に烏山頭の状況を聞いてみるが『分らない』との回答。そこへSさんと嘉義の大学で勉強している日本の若者がやってきたので、どうなるか分からないが駅前のタクシーに乗ってみることになる。タクシー代は片道300元、まあ3人で割ればたいしたことはない。

 

田舎道を20分ほど走ると烏山頭という門が見えた。今日は命日の行事(追思会)があり、一般観光客の入場は制限されていたが、中に入れてもらうことができたので、タクシーでそのまま進む。小山の上にホテルがあり、その脇で降ろしてもらう。電話でこのタクシーを呼べば帰れることが分かり安心。

 

まだ午前中だったが、追思会は午後にあるというので、それまで付近を散策することにした。会の準備が進む会場、花が沢山飾られたお墓、そして修復された八田与一像をみて、それからダム?湖?の方へ歩く。この付近の灌漑用水の確保のため、1920年に着工されて10年後に完成したという。

 

ちょうど天気が良くなってきてきれいな景色が見える。人も歩いていないので、この景色を独り占めしている感覚になる。なんとなくいい風も吹いてきて、思わず手を広げてしまった。今から90年も前に、ここで日々格闘していた人々がおり、その後のこの地域の農業の繁栄をもたらし、そして今もそれが残されていることが、何とも素晴らしい。

 

紀念碑があり、ヘリポートがあり、そして北京の天壇を模したような建物が見える。周囲をウロウロしているのも疲れてくると、座るところを探して、無駄話をして過ごした。それにも飽きると、記念館を覗き、八田与一とこのダムの歴史を改めてみてみる。会場の方に戻ってみると午後1時半を回り、大勢の参加者が既に椅子に座っていた。

 

この慰霊祭、日本からお孫さんなどのご遺族及び出身地金沢の関係者が日本から来ている。台湾側も地元の顕彰会などから多くの人が参列している。マスコミ関係者もかなりいるようでしきりに写真を撮っている。さっき見たヘリポートの方にヘリが降りてきたような音がした。誰が来るのかと思っていると、何と行政院長の頼清徳氏が歩いて来るではないか。これにはちょっと驚いた。

 

式典が始まり、僧侶による法要、関係者の挨拶が続いた。皆がそれぞれの立場から思いを述べ、日台の交流を語っていた。だが主役であるはずの行政院長はなかなか呼ばれない。何と最後に頼氏は立ち上がり『昨年まで7年間、台南市長として参加していたが、今年も何があっても参加するつもりでいた』と言い始める。一市長と国のトップでは立場が大きく違う。それでもやってくる頼氏に対する信頼、期待は大きいだろう。また行政のトップとしては『日台関係は好転している』とし、相互の災害支援などでも関係が強まっていることを告げながらも、金沢から来た日本人とも親しげに交流している。如何にも台湾らしい光景だった。

 

その後参列者が献花するなど式は続いていたが、我々は先に失礼することにした。タクシーを呼んで、出口に方に向かって歩いていく。ところが門を出てもタクシーは一向に来ない。どうやら駐車場で待っていたようで、行き違ったらしい。『門から駅までなら250元』と言われ、何だかよく分からなかった。

 

電車に乗り、まず嘉義へ、そこでSさんたちと別れ、一人台中を目指す。何だか速い列車だなと思っていたらプユマ号で、1時間ちょっとで台中駅に着いてしまった。そこからバスで埔里に戻り、旅は無事に終了した。

 

5月9日(水)
埔里を去る

実はこれまで1年半、使わせてもらっていた埔里の部屋が、次回から使えないと数日前に通告されていた。私の勝手な都合で借りていた場所なので、残念ではあるがここを退去することになった。ただ荷物は非常に多いので、一度に持ち出すことは出来ず、一部は預かってもらうことをお願いし、昨夜は荷物の整理に追われた。特に茶の歴史調査の資料が多く、色々と思い出すこともあった。

 

朝ご飯は最近気に入っているクラブサンドイッチを食べたが、店の人には特に挨拶しなかった。これまでも旅人であり、また戻って来るつもりもあったからだが、寂しさは否めない。私の心を反映してか、朝からかなり強い雨が降り出した。バスに乗る時間が近づいても雨は止まず、最後は仕方なくスーツケース2つを両手で持って、バスターミナルまで疾走?した。まるで青春が終わったかのように感じた。

 

バスで台北まで行き、午後松山空港から羽田へ向かった。実は僅か1週間でまた戻ることになっていたのだが、いつもとは違う感情が沸いて来ていた。さあ、これからの私の台湾旅は、どう展開していくのか、楽しみでもあり、ちょっと面倒でもある。

ある日の埔里日記2018その3(7)台南の老舗茶荘

5月7日(月)
月曜日に台南に向かう

一度東京へ戻る日が近づいていた。そんな中、Sさんから『八田与一の作ったダムに一緒に行きませんか?』とのお誘いが来た。日にちは5月8日、帰国前日なので予定もなく、行ったことがなかったので行ってみることにした。実は5月8日は八田与一の命日であり、毎年法要が行われているという。ただ昨年は直前に八田与一像を壊される事件が起き、色々と大変だったと聞く。

 

折角南へ向かうのだから、ここは台南へ行こうと思い立つ。ダムのある烏山頭も台南の一部らしいので、ちょうどよい。台南にある国立歴史博物館は一見の価値があると言われていたので、是非見てみたいと思い、前日から行く日程を立て、ホテルも台南に予約していた。

 

ところが直前になって、『博物館は月曜日、休みでしょう』と言われ、初めて検索すると本当に休館日だった。完全にやらかしてしまった。さて、どうしようか。一緒に行く予定のKさんがちょうど台南にいたので聞いてみると、『それなら茶荘巡りでもしましょうか』と言ってくれたので、それに乗っかってしまう。何ともいい加減なことだ。

 

取り敢えず埔里から台中高鐵駅へ出て、新烏日から区間車で嘉義に向かった。1時間40分かかって嘉義に着くと乗り継ぎの間に駅弁を頬張る。それからやって来た莒光号に乗り、待ち合わせ場所の新栄に向かう。ここはあっという間に着いてしまう。莒光号の車内への出入りは自動ドアではなく、手動なのがなぜだろうととても気にかかる。

 

新栄という駅は初めて降りたが、特に何もなさそうな街に見えた。でも駅の近くに今は使われていない引き込み線などが見え、ここも昔は糖業あたりで栄えたのだろうと感じられた。Kさんも台南から来てくれ、彼が以前一度訪ねた茶荘に行ってみることにした。突然店に飛び込むと、店の人と客が怪訝そうな顔をしたが、日本人でFB知り合いだと説明すると、喜んで受け入れてくれた。

 

そこへ6代目という若い黄さんが戻って来た。慶瑞茶荘は何と1850年創業の老舗だというので驚いた。新栄にそんな古い茶荘があるとは。確かに古そうな茶缶が置かれており、奇種などという文字も見えるので写真を撮らせてもらう。歴史について質問すると、『おじさんの工場へ行こう』と若い黄さんは言い出す。どうやら、黄さんとお父さんは、店で販売担当、おじさんが製茶担当らしい。

 

車で10分ぐらい走る。周囲が畑に替わった頃、その工場に着いた。敷地内には相当に古い、立派な木が植わっている。中にはかなり古い製茶道具や茶缶などもあり、博物館でも出来そうだった。黄さんのおじさんは、製茶だけではなく、台湾茶の歴史についても独力で研究している人だった。そして自分は日本時代末期、父親が商売の関係で厦門にいる時に生まれたという。香港の堯陽茶行などとは繋がりがあるらしい。100年前の包種茶は今とは全く違って、相当発酵度が高く、焙煎も掛けて輸出されていたともいう。品質もそれほどではなく、勿論値段も安かった。思いの他、収穫のある訪問となった。

駅まで車で送ってもらい、自強号に乗って台南へ向かう。新栄は自強号が停まる駅なのである。そういえば自強号の車内へ入るドアはやはり自動だった。莒光号との違いはそこか。そんなことを考えていると台南に着く。取り敢えず駅まで予約した宿に行ってみる。ビルの1階に総合受付があり、ビルの上の方、何フロアーかが、客室になっていた。まあ、駅前で800元、そんなものだろう。

 

Kさんの知っている老茶荘に向かった。台南駅前から歩いていく。思ったより時間がかかったが、昔の街並の中にその茶荘はひっそりと建っていた。振發茶行、1836-41年の間に台北で創業し、1860年には台南に移って開業というから、180年以上の歴史を誇る台湾最古の茶荘だと言える。店内には恐ろしく古い茶缶も見える。

 

店は改修、移動をしているようで、今は小さいが往時はかなりの規模で商いをしていたと、6代目の厳さんが語る。土産物を買いに日本人も訪れるようで、伝統的な紙包みは4両の他、買いやすい2両の包みも用意されており、価格表もしっかりしていて分かりやすい。今は若者が跡を継ぎ、伝統を生かした中に新しい取り組み、FBなどSNSでの発信なども行われている。

 

最後は退勤時の満員バスに乗り、ちょっと離れたところにある、梅山製茶廠というお店に行った。郊外の住宅地、なんでこんなところに、と言う感じだった。というか、Kさん、よく見付けたなあ。そこで夕飯として、肉圓をご馳走になり、高山茶を飲ませてもらう。名前から高山茶の歴史が何らかわかるのでは、と期待したが、この店は梅山製茶廠の代理店に過ぎず、成果は得られなかった。

 

バスで何とかホテルに戻り、暗い中、折角なので付近を散策する。台南の思い出は1995年、出張に出来て、駅前の台南飯店に泊まったことだが、今はこのホテルも立派になっている。部屋に帰ると、ちょうど横に洗濯機が置かれており、学生が洗濯しながら大声で話しているので、煩かった。

ある日の埔里日記2018その3(6)改良場に残る資料と真の茶業

5月3日(木)
桃園へ

嵐のお茶合宿の疲れも癒えぬ中、何の因果かまたもお茶の歴史調査に出ていく私。今回は茶業改良場の本場、楊梅に出掛ける。いつものように台中高鐵でトミーと待ち合わせて北上する。毎回申し訳ないと思いながらも、今や彼の助けなしでは私の調べは前に進めないのだ。

 

実は改良場、魚池には何度も行っているが、楊梅に行くのは、何と7年ぶり2回目。7年前は黄正敏さんに徐英祥先生を紹介して頂き、徐先生に会いに台鉄で埔心駅まで行った。先生とはうまく連絡が取れておらず、黄さんが書いてくれた手書きの地図を頼りに先生の家を訪ねたことは、忘れられない。

 

客家様式の家を案内してもらい、更には足が悪いにも拘らず、車を運転して私を改良場に連れて行ってくれ、全ての案内をしてくれたのは徐先生の人柄だろう。そして『歴史を知るには魚池の試験場へ行きなさい』と言って、わざわざそちらへ電話を掛けて、手配までしてくれた(その時魚池で電話を受けたのが、今の黄正宗場長というご縁)。今の私の歴史調べがあるのは、徐先生のお陰であり、これから何度も伺って話を聞こうと決めていたのだが、何とその僅か3か月後に、先生はこの世から旅立たれた。まさに一期一会。

 

 

車は変化の殆どない改良場の敷地に入った。ここでトミーの知り合いの陳さんと落ち合い、まずはお茶を頂く。試験場なのだから、試験中の茶は沢山あるだろう。陳さんは博士であり、当然色々と詳しい。ただ忙しいだろうからと、すぐに話は切り上げて、我々は図書室に向かう。

 

今回の目的はずばり図書室の見学。見学というか、何か役立つ資料はないかと探しに来たわけだ。一般開放はしていないが、知り合いがいれば、入るのは特に問題はない。だが中に入って奥の方へ行くと、驚くことばかり。何と100年以上前の試験資料や報告書などの原本がそのまま置かれている。これを見ただけで、触れただけでももう歴史だろう。

 

そんな中で、今回締め切りを迎える緑茶に絞って資料を探す。見たい物は沢山あるが、そんなことをしていては日が暮れてしまうだろう。特に先日行った三叉河関連の資料は貴重であり、多少残っていた。台湾で緑茶が作られなかった理由を書き留めた貴重な文章も出てきた。何とも有り難い。

 

 

昼ごはんは車で街に出て麺を食べた。そしてまた図書室に戻ったが、やはり資料が多過ぎて手が付けられず、今回は必要なものをコピーして退散した。日本時代の試験場を引き継いだとはいえ、100年以上前の資料を、ちゃんと保管されている(失われたものも多いらしいが)のは凄い。紙がボロボロにならないのはなぜだろうか。

 

続いて龍潭へ向かう。車でそう遠くはない。福源茶業を訪ねる。ここは日本統治時代初期に茶業をはじめ、現在の黄さんは4代目だという。工場は思いの他広く、何でも作っているよ、と言う感じだった。目を惹いたのは、何と珠茶(ガンパウダー)を今も作っていたことだろう。光復後最初に輸出したのは北アフリカ向けのガンパウダーだったはずだ。今では島内で使用されているらしい。

 

 

2階に上がると、実に広い倉庫の空間。黄さんによれば、最盛期にはこの天井一杯茶葉が積み上げられ、トラックが横付けされると、2階の扉を開けてそこから茶葉の袋を落として輸送してというからすごい。従業員も不眠不休、捌いても捌いても注文がやってきて、本当に寝る暇がなかったらしい。ある意味でこれが真の『茶業』の姿ではなかろうか。『極上の茶』を作るのではなく、コスパの良い茶を大量に作り、大量に輸出する、消費者に提供するのが、仕事だと言っているように見えた。

 

因みに龍潭も客家系が多く、こちらも客家だった。客家のお茶として近年脚光を浴びている酸柑茶を購入する。私はこのようなお茶を飲むことはないが、これは6月に佐賀で行うセミナー用、世界でも珍しいお茶の一つにした。柚の皮に茶葉を詰めて作る、その形状の面白さと健康効果?が注目らしい。

 

続いて、大埔茶業に行く。大埔というのは別の場所らしいが、この茶屋はそこから引っ越してきたので、元の名前が付いているという。こちらも問屋と言う感じで、小売りがメインではない。ここも若者が跡継ぎとしており、三峡龍井茶を復元しようと試作品を作っていたのが面白い。三峡と言えば、今では碧螺春だが、光復後一時期は龍井茶が作られており、外省人が飲んでいたという。これもまた小さな歴史だ。

 

もう日も暮れた。急いで台中高鐵駅まで戻ってきたが1時間半以上かかった。夕飯を食べようというので駅にあるロイヤルホストに入る。この店に入るのも何十年ぶりだろうか。私が台北にいた1990年頃、知り合いが日本本社と掛け合い、始めた店だった。今ではどのくらい展開しているのだろうか。久しぶりにステーキを食べる。お代は茶スターがご馳走してくれた。有り難い。

ある日の埔里日記2018その3(5)お茶合宿最終日

5月1日(火)
3日目 合宿最終日

さすがに朝は早く起きた。昨日は昼ご飯を食べずに、夜遅くに弁当を食べたことが影響していたかもしれない。6時台に起きて散歩してみたが、何と1軒だけあるセブンイレブンは午前7時からだった。珍しく朝食は開店を待ってセブンでおにぎりを買う。他に選択肢はあまりなかった。まあ外で食べる朝食は案外気持ちがよい。

 

ここから下に降りると、見事な林があり、観光客が山を眺めるスポットがあった。そこで太極拳?をしている一団がいた。地元の人だろうか。何だかとても気持ちよさそうで、一緒に体を動かしたい、そんな衝動に駆られるほど、疲れは溜まっていた。奮起湖の駅に行ってみたが、何と列車は運休中。横にある博物館も勿論早朝は開いていない。それでも鉄道オタクの台湾人が写真を撮りまくっている。

 

9時に昨日タクシーを降りた場所に迎えが来るはずだったが、やってこなかった。昨日までの2日とは運転手が違うという。遅れてやってきたおじさんは、謝りもせず、荷物を運ぶのも手伝わず、道もよく知らない、という困った人だった。いや、昨日までの運転手のサービスが良すぎただけかもしれないが、一旦それに慣れると、もう取り返しは付かない。この日一日、この運転手への不満は皆の中に充満する。

 

まずは昨日も訪ねた太和村の中で阿里山に一番近い、樟樹湖に向かう。住所は梅山郷だが、実質的には阿里山と言ってもよいかもしれない。樟樹湖というお茶のブランドはなく、普通はあまり聞かない名前だが、基本は卸しに徹しているようで、実は阿里山茶として台北などの茶商が買って行っているらしい。茶畑では茶摘みが行われ、道路脇では日光萎凋が始まっていた。

 

狭いエリア、道の両側に茶荘が数軒並んでいる。我々が車を降りるとすぐに声がかかり、茶を飲みに入る。実はM氏、この一帯でも有名人で、FB友達多数。彼らは前日のFB情報でM氏が今日あたり現れることを知っていた。こんな日本人、いるのだろうか。いや、いるんだな、現に。

 

この付近も1980年頃茶作りが始まったという。梅山龍眼、瑞里辺りから、登って来たのだろう。ここから阿里山へ高山茶の歴史が繋がっていく。ただ今はもう、どこから高山茶が始まったか、などということに興味のある人はいない。昨晩の製茶の疲れもあり、商売にしか頭は働かない。我々のような小口のお客は、日本人だから何とか相手をしてもらえるのだろう。いいお茶はすぐに茶商が大量に買い込んでしまう。2軒ほど訪ねて、この地を後にする。

 

ついに阿里山公路を走る。1時間ほどで目的地、石棹近くに着いたが、運転手は場所が分からず右往左往。むしろM氏の方が詳しく、詳細な指示をして何とか到着。ここも皆が初めて訪れる場所だった。ちょうど昼時のせいか、約束の時刻からかなり遅れたせいか、何となく会話がかみ合わず、退散。それからもう一軒、M氏の思い入れがある茶園の茶を商っているところを聞いて訪ねるも、先方は売る気もなく、茶も?で、やはり?空振り。

 

そして午後1時ごろ、阿里山公路唯一のガソリンスタンド前の茶荘に入る。オーナーの伍さんはまじめな人。ちょうど茶作りの最中で忙しいそうだったので、昼ごはんを食べてから出直すことにした。M氏からランチという言葉が聞けるとは夢にも思わず、嬉しいやらなにやら。先ほど来た道を戻り、鶏飯とタケノコスープを食べたが、やけに美味かった。

 

それから先ほどの茶荘に戻る。実は私は15年ぐらい前から数年間、この茶荘のすぐ横の茶農家と非常に親しく付き合っていた。最近はご無沙汰していたので、ちょっと抜けて店に行ってみたが、残念ながら夫婦ともに外出中で会うことは出来なかった。戻って伍さんに聞いてみると、親戚だという。何とも懐かしい。帰ってから、FBで繋がったのは有り難いことだった。

 

それから車は山道を下っていく。最後の一軒は2年前に訪ねた隙頂。その際、M氏から紹介されたのが蘇さんだった。蘇さんは非常に探究心の強い人で、コンテスト用の茶を作り、数々の賞を受賞している。我々が入っていくと蘇さんは何と私を覚えていてくれ、しかもFBも見ていてくれていて驚く。

 

何ともいい焙煎の香りがする。ここではなかなか普通では飲めないお茶がいくつも出てきたが、我々が手に入れられる物は限られていた。それほど貴重、または売ることができないものだった。蘇さんは焙煎作業を続けながらも、楽しそうに相手をしてくれていた。きっとこの日は茶作りの調子もよかったのだろう。

 

ついにお茶屋訪問が終了した。3日間で一体何軒のお茶屋を回り、どれだけのお茶を飲んだことだろう。1時間で車は嘉義の高速エリアに着いて休憩後、更に1時間ちょっとで台中まで何とかやって来た。そして駅近くで車を降りて皆と別れ、重い体を引きずりながら、バスに乗り、埔里に戻っていった。

 

今回の旅は言ってみれば、『全ての余計なものをそぎ落とした究極の茶旅』であり、そのスタイルを極めたM氏には感動すら覚えた。ただ旅のスタイルとしてありかな、とは思うものの、私の旅とはあまりにも異なっており、付いて行けなかった、というのが正直な感想だ。私も歳をとったものだ、と言うほかはない。