ある日の台北日記2019その3(13)花茶から広がる意外な歴史

11月10日(日)
再び全祥茶荘へ

土日は動かないとの原則が崩れていく。土曜日は気になっていた花茶資料探索のために、永和図書館へ行く。ここでひたすら日本時代の新聞記事を検索して時を過ごす。それに疲れたら、日本時代の書籍を斜め読みする。午後一に出掛けても閉館の5時近くまでいることになる。

 

帰りがけに1階奥のスペースを何気なく見ると、写真が数枚飾られていた。近づいてみると、古寧頭戦役70周年記念の写真展だった。古寧頭戦役と言えば、国共内戦で国民党が金門島を死守した戦役だと記憶している。そうか、中国人民共和国が建国70周年なのだから、その裏には70年前に幾多の歴史が起こっているのだ。ただこの展示には、根本中将などについては全く触れられていない。

 

翌日もまた出掛けてしまった。知りたいことが出てくると、どうしてもすぐに動きたくなる性格なのだ。先日一度訪れた、全祥茶荘、その衡陽路の本店にもう一度行ってみる。今回は林さんのお父さんに話を聞く。日本時代、林家は天津で商売していたということで、そのあたりの事情を聴いたのだが、お父さんも台湾生まれであり、伝えられているトピックスを参考までに聞く。

 

その中には、あの民主活動家で、先ごろ亡くなった呂明さんの名前などが出てきて驚く。後日呂明伝記を読んでみた。彼もまた、大陸から引き揚げた一人であり、その引き上げの際に頼った親戚というのが、私が今調べている王添灯の兄、王水柳だと書かれているではないか。ここでも繋がったお茶の歴史、本当にすごい。

 

お父さんの話は引っ切り無しにお客が来るので、途切れ途切れになる。花茶の歴史としては、外省人がキーになると思われるが、この店の裏は台湾銀行本店、その向こうは総統府という位置関係を考えるだけでも、そのレトロな店舗と相俟って、その歴史の一旦は十分に見て取れるのではないだろうか。

 

このすぐ近所には、兄弟である華泰茶荘もある。そして西門町まで歩けば、紅楼のすぐ近くに全泰茶荘もある。ここも先々代は兄弟である。一応歩いて行ってみたが、特に中には入らなかった。お客は観光客がメインなのだろうか。私はあまり各家のファミリーヒストリーを調べるつもりはないのだが、この辺の棲み分けには興味がある。

 

帰りがけに、店先でいい匂いをさせている食堂があったので、フラッと入り、肉粽と魚丸湯を食べてみる。たまに食べるとこういう食事は実にうまく感じられる。しかもサックと食べられるのが何とも私の今のリズムに合っている。宿泊先の近くにこんな店がないのは残念だ。

 

11月14日(木)
茶業者の宴会へ

今日から何となく南港茶展のムードが高まってくるが、なぜか朝部屋の電気が点かなくなる。停電かと思ったが、電球が切れたことが判明。すぐさま近所の雑貨店に行き、替え電球を買い求める。こんな時、台北はすぐ近くに何でも売っている店が何軒もある。コンビニでは間に合わない物を簡単に買えるのは良い。そして電球を交換したので、部屋が急に明るくなり、眩しいほどで、ちょっとやる気が出る。

 

午後は知り合いがやってくるので、松山空港に迎えに出た。ちょっと時間があったので、空港展望台に行ってみる。今やどこの空港にもある展望台だが、ここは飛行機との距離がやけに近い。やはり小さな空港なのだ。そういえば、飛行機に乗っていると、『空港上空からの写真撮影は禁止』とのアナウンスが流れるが、ここからは何の規制もないのか。

 

今回日本から来た人はちょっと変わっており、ホテルではなく、民泊するという。タクシーでその住所へ向かったが、本当に住宅街で、探すのは大変だ。しかも古い住宅で、5階までエレベーターもなく、重い荷物を自分で持ち上げなければならない。宿泊スペースは快適そうだが、私には向かないタイプだ。オーナーは流ちょうな英語を話し、近隣紹介もちゃんと英語で書かれていた。『鼎泰豊まで歩いて行けるぞ』がウリらしい。

 

夜は明日の南港茶展の前夜祭か、茶業者の集まりに顔を出す。日本から手もみのAさんが来ており、彼を囲む夕食会に私も飛び込んだ形になる。行ってみると3卓もあり、非常に盛況な会だった。主催者の許さんの人徳だろうか。明日の茶展に出展する台湾中の茶業者の顔が見られた。

 

Aさんは非常に社交的で、言葉が通じなくても、酒を酌み交わし、誰とでも仲良くなれる人だった。何だか昔の日本の宴会がそこにあって、酒を飲まない私でも、ちょっと懐かしい気分に浸る。海鮮料理の店なので、海の幸がふんだんに出てきたが、途中から何を食べているのかも分からなくなってしまい、笑い声が絶えないまま、夜は更けていった。

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