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スリランカご縁の旅2014(5)コロンボ隣は凄い中国系ホテル

4月4日(金)朝から爆竹

翌朝は早く目覚めた。腹も減ったので下に降りていくとオーナーがいたので、朝ごはんが買える場所を聞くと『隣のホテル』というので、行ってみる。このホテル、漢字の看板があり、中国系らしいが、中華レストランの入り口でサモサやパンを売っている。ここで食べ物を手に入れ、GHに戻る。

オーナーが『僕はお茶のことは分からないが、そこにあるから適当に飲んでよい』というので、ヌワラエリアのお茶を選んでお湯を沸かして淹れてみる。サモサと一緒に食べると何となく美味しい。

すると突然大音響が響き渡る。隣のホテルの従業員らしき若者が爆竹を鳴らし始める。中国なら何か祝い事があるとか、開店記念に爆竹を鳴らすが、見ていても何も起こらない。ただ爆竹で遊んでいるだけ。オーナーが眉をひそめて『煩くて困る』と嘆く。よくやっているようだ。隣人を選べない不幸、というものがありそうだ。

その後知り合いの紹介でコロンボ郊外のある工場へ行き、半日過ごして戻る。予想以上の交通渋滞、そして様々なコストの上昇、スリランカは人件費が安くてこれからの国、と思っていたが、違うのかもしれない。根本的に別の目で見る必要がありそうだ。

ファックスを送る

携帯に1つのメッセージが入ってきた。ネゴンボで携帯を買った店からだった。パスポートのコピーをくれというもの、完全に忘れていた。既にコロンボにいるというとファックスして欲しいと。仕方なく、GHの近くにあるITセンターのような所へ行く。PCや携帯など電化製品を売ってはいたが、コピーもできないし、ファックスもなかった。

仕方なく周辺を歩き回るが、ネットカフェなども意外とない。暑いのでいい加減、嫌になった頃、大通りからちょっと入った場所に、店があった。入っていくとコピーもできるし、ファックスもOK。しかも低料金で、まさに庶民の味方。昔はこんな便利な店が沢山あったが、今や大型店が進出し、街の小さな店は潰れていく傾向にあるらしい。それからホテルに帰ってゆっくりと休む。

夕方外へ出た。前回行った福建人のオジサンがやっている中華レストランを探す。1年半前のこと、場所が思い出せず苦労するが何とか探し当てる。店には中国人観光客などがいたが、オジサンはいなかった。オバサンに聞いても、『今は忙しい』などと言われ、とうとう会えなかった。1年半前はとても美味しい料理だと思ったミンハン。だが今回はそれほどには美味しく感じられず、早々に店を出た。ほんのちょっとしたことだが、残念なことがあると気持ちが塞ぐ。

大騒音 隣は変な中国系ホテル

そして夜、何とかネットが部屋でも繋げたので、先ほどの残念な気分も薄らぎ、今日も気持ちよく寝た。ところが・・、夜の12時頃だろうか、途轍もない大音響の音楽が隣から聞こえてくる。それまでも音楽を流していたのだろうが、何かの拍子に起きてしまうと、この音では寝るに寝られない。

しばらく待っていると隣の部屋のドアが開く音がした。隣はロシア人の中年夫婦で不動産業をやっていると言っていたので、ついに我慢できずに文句でも言いに行ったのか。こんな状況で出ていくと喧嘩沙汰になりそうだ。そして彼らはついに帰ってこなかった。そしてまどろんでいる内に、いつしか音も消えていた。

翌朝起きてリビングへ行くとノウルエー人とパートナーのスリランカ人が『昨日はヒドイ音だったな』と笑いかけてくる。例のロシア人の話をすると『いや、あの人たちは夜中の飛行機で帰ったよ。12時にチェックアウトしたんだ』と。何だ、彼らのお蔭で眠れたのかと思ったのだが、実はスリランカ人が警察に通報し、ひと騒動あったらしい。これからも隣人、本当に大変だな、このGHは。

スリランカご縁の旅2014(4)ネゴンボオーナーは茶園関係者

4月3日(木)オーナーは茶園関係者だった

昨日の疲れがドッと出た。どうにも起き上がれなかったが、8時半に朝食と言えば、私だけのために朝食が用意されるわけだから、下りて行かないわけにはいかない。行ってみるとオーナーが昨晩よりもかなり顔色もよく、お茶を飲んでいた。ちょっと話をしていると意外な展開に。

先ずはここの宿泊客。どんな人が多いのかと聞くとネット予約者。私もそうなのでそれには驚かないが、最近来るのは中国人が多いというのだ。宿帳代わりのノートを見せてもらうと、そこには中国語と英語でビッシリ感謝の言葉が綴られていて驚いた。『若いカップルが多いかな。中には新婚旅行で来る中国人すらいるよ』と言い、『次回は子連れで来てね』と言っておいたとか。

中国人の若者がこの宿にいい感触を持つ理由は何となく分かる。所謂アットホームさ。オーナーの人柄は昨晩の態度を見れば分かるし、スタッフも気が利く。環境も抜群。そして何より、料金が安くて、清潔。中国人の団体ツアーではなく、のんびりゆっくり日常を忘れたい人々には打ってつけの場所なのだ。それほどに中国での生活にはプレッシャーが多いということか。

実はオーナーは5年前にこの家を買い、移り住んだ。そしてなんとそれまではずっとキャンディ郊外の茶園のマネージャーをしていたというではないか。今回のスリランカの旅にはお茶の要素を入れていなかったが、やはりご縁で出てきてしまった。そうなると話は必然的に盛り上がる。やはり彼の感覚でもスリランカの茶業は転換しなければならい、ということだった。『このままでは段々品質も下がるし競争できないよ』という言葉が印象的。

そしてキャンディならこの茶畑へ行け、とその茶園のマネージャーの名前と電話番号を書いてくれた。こうなると行かない訳にはいかない。どんなところか分からないが1つ楽しみが増えた。

話しをしている内に女性が声を掛けてきた。『今日は天気が良いので外で食事をどうぞ』と。玄関先のスペースに私の為にテーブルがセッティングされ、気持よく食事が並ぶ。メニューは昨日と変わらないのに、全然違うものを食べているような気分になるのが不思議だ。雰囲気というものは大切。

朝の陽ざしが眩しい庭先を見ているとリスが花の間を動き回っていた。鳥は昨日と同じように囀り続けている。山の中の茶園の朝も素晴らしいが、この海辺の別荘地を買ったオーナーの気持ちが少しわかる気がした。

3.コロンボ  GHオーナーはノルウエー人

午後までゆっくり休息した。かなり体力が回復したところで、スマが迎えに来てくれた。残念ながらこの宿ともお別れだ。オーナーも最後まで見送ってくれた。何となく涙が出そうだった。理由は分からない。

車は空港付近に戻り、高速を使ってコロンボ市内に入った。これはかなり時間が短縮されている気がする。やはり高速の影響が大きい。料金が高いのか、車は殆ど走っておらず、海辺を走るので景色もなかなか良い。

今日はまたネットで予約したGHに向かった。1年半前は自ら歩いて探したホテル。一等地に立つボロボロホテルだったが、今回検索しても出て来なかった。代わりに50ドルぐらいできれいそうなGHがいくつか引っかかり、オーナーがノルウエー人というのに惹かれてここCJビラを予約した。

行ってみると海沿いのマリンドライブにあり、白を基調とした外装、内装は如何にもヨーロピアンスタイル。元々貿易の関係でスリランカと縁のあったオーナーがここに場所を確保し、その後移住。GHを始めたという。パートナーのスリランカ人もいる。

部屋は2階、何とも居心地のよさそうなきれいさでうっとり。ベッドもフカフカですぐに寝入りそう。シャワートイレは共同だが3部屋しかないのであまり不便はない。シャワーにあるシャンプー、石鹸もいい物を使っており、彼の拘りが分かる。まあしいて言えばWiFiが部屋では繋がりにくいか。まあ下のリビングも居心地がよく、そこでネットを繋いでいるとオーナーや他の客とのコミュニケーションも生まれるので、それはそれでいいかと思う。

夕方3階の屋上へ行くと、海に夕陽が落ちる様子がばっちりと見えた。ここにもソファーが置かれ、ビールを片手に夕日を眺める客もいる。当初自分が住むため、自分の為に設計されている家なので、客が気分良く過ごせるわけだ。ゆっくりゆっくりと落ちていく夕陽を見ていると、時間が止まり、自分がどこにいるのか分からない、錯覚に陥った。そして目の前を電車が通り過ぎて行き、静寂が破られた。

夜は静かに部屋で過ごす。というか、クーラーを掛けて涼しくしていたら、いつの間にか寝てしまっていた。何だかスリランカへ来てからよく眠れるな。

スリランカご縁の旅2014(3)ネゴンボ退院してきた宿の主人と会う

人影のないビーチ

ビーチはずーっと続いていた。これは前回見たヒッカドゥのビーチと全く同じ。スリランカの西海岸はほぼ同じ作りになっているということだろう。波は結構荒くて、飛沫が上がっていた。カラスが沢山水辺にいて、波が来るとジャンプしているように見えた。なぜかじいさんが英語で話し掛けてきたが、あまり話す気にならない。

そのままビーチロードを歩いて見る。ビーチ同様お客はまばらで、道は一本道。かなりの暑さであり、ちょうどあったカフェで休むことに。ここはフランス人が経営しているようだ。フランスパンやデニッシュが置いてある。何となくライムジュースを頼むと、クラブサンドイッチも頼んでしまった。これを早めの晩御飯に決定。ここでボーっとしていると、疲れを忘れ、つい長居をした。

街中歩き足傷める

本来ならここでビーチから引き揚げ、パスポートコピーをとって、携帯屋に届け、部屋に戻って平穏な一日が終わるはずだった。だがそうはならなかった。ちょっとした気の迷いで、ネゴンボの街も見てみたくなったのだ。先ずは真っ直ぐ、南下して魚市場へ。既にサンダル履きの足はこの時点で少し痛くなっていた。

街道沿いには立派な教会があり、ヒンズー寺院も見える。広場では海に夕日が沈む中、クリケットに興じる若者たち。何だか絵になる光景だった。もう夕方であり、魚市場も終わっていた。メインの通りはここで途絶えていたが、更にそのまま南下を続ける。

細い道を歩き切るとそこにはのどかな漁村が見えた。子供たちは走り回り、大人たちは明日の漁に向けて準備をしていた。その裏手には1879年創建の古い教会がある。村人たちは海を渡り魚を取り、欧米人たちは海を越えてこの地にやってきた。歴史だな、と思う。

それから進路を変えて街へ。小さな街だが、時計台があり、列車の駅もある。ここからコロンボへ向かうことも出来る。もし明日スマの迎えが無かったら、ここから列車に乗ろう。それにしてもビーチサンダルでここまで10㎞ぐらい歩いてしまい、既に限界を超えていた。だが自分が泊まっている場所の名前すら良く分からない。

リキシャに声を掛けてみるが、皆首を傾げる。そして高い料金を言いだす。確かに場所が不確かだから損をするようなことは言いだせないだろう。私も何となく意地になり、足を引き摺り歩きとおす。街から宿までの街は分からないので、またさっき来た街道まで出て、道を探す。既に夜の闇の中、相当の格闘の末、何とか辿り着いたが、足のダメージは想像以上で、大きな水ぶくれができ、歩けるような状態ではなかった。

宿の主人と面会

宿に戻ったのは午後7時半、部屋で倒れ込む。合計で5時間、炎天下の中を歩いたのだから、その消耗たるや凄い。なぜこんなバカなことをしたのだろうかと思うのだが、してしまったものは取り返しがつかない。

8時きっかりに部屋をノックする音がした。下の女性が『オーナーがお会いになります』と言うではないか。一体何が始まるのだろうか。中世のお屋敷の様で疲れてはいたが興味をそそられ、下へ降りてみる。リビングにはひざを手術して病院から帰宅したばかりという老人が待っていた。彼は椅子に座るのも大変な状態で付き添っている奥さんのサポートが無ければ何もできない。それでも第一声が『ウエルカム』だったのには驚いた。そして続けて朝食はどうだったか、何か問題はなかったか、と自分がこんな状態であるのに、あれこれと聞いてくる。

老人は言う。『私がこのロッジを始めて2年になるが、自ら出迎えられなかったお客は君が初めてなんだ。本当に申し訳ないと思っている。でも家に戻ったんだから、私に何でも言ってくれ。宿泊が快適になるようにできるだけのことはするよ』と優しいまなざしを向けられ、こちらがドギマギしてしまった。

こんなことってあるだろうか。私ならとても相手を思いやる余裕はないだろう。オーナーは自分のポリシーを貫いていた。頑固な老人なのかもしれない。しかしこれはとても嬉しい応対だ。さすがに疲れたのか、老人はそれだけ言うと寝室に引き上げていった。こちらも足を引き摺り部屋に戻り、すぐに寝た。

スリランカご縁の旅2014(2)ネゴンボ高級住宅の部屋を間借りすると

4月2日(水)2.ネゴンボ 高級住宅街の宿

空港も改修されていたが、スマの車も日本車に変わっていた。『スリランカはどんどん変化している』と開口一番スマは言う。空港を出ても見覚えがない。暗いせいだろうか。途中まで走っていくと、空港高速が出来ていた。確かにスリランカは進歩している。

本日は夜も遅いので、空港に近いネゴンボという街に泊まることにした。スマも土地勘がないというので、ネットで手ごろなホテルを適当に予約した。だが夜中の2時だ、道を聞くにも人影はない。結構探すのに苦労した。最後はスマたちが今晩泊まる知り合いの家へ行き、場所を聞いてようやく分かった。だが着いた場所は予想外だった。しっかりした門が固く閉ざされた高級住宅地、住所はそこを指しているのだが、私のホテルがそこにあるとも思えない。『Ivy Cottage』と門番に行ってみると、なぜか門が開き、門番が自転車で先導してくれる。中はやはり豪華な一軒家が続く。

自転車がそのうちの一軒の前で停まり、呼び鈴を押す。こんな夜中に人の家をたたき起こしているようで気が進まない。ちょっと待つと女性が出てきて、中へ入れてくれた。中も立派なリビングスペース。私の部屋は2階の一室だと知り、これはホテルではなく、ホームステイ、というか間貸しだと分かる。

まあそんなことはどうでもよい。早く寝たい。だが水も飲みたい。部屋には水があったのでごくりと飲んでいると女性がやってきて、ネットのパスワードを教えてくれ、そして朝食の時間と卵の数などを聞いて下がった。一体どうなるんだ、これは?クーラーを効かせてベッドに潜り込むと、あっという間に寝入った。

午前3時に寝て、9時に起きた。予想外に寝ざめが良い。鳥のさえずりが心地よい。リゾート地の高級別荘に来たような気分だった。部屋代は僅か45ドルなのに、バストイレが部屋にある。所謂メインベッドルームを使っているらしい。下へ降りるとちょうど朝ごはんの支度が出来ていた。

泊り客は私しかいないようだ。私の為にトーストが4枚、オムレツ、そしてグアバジュース、更には暖かい紅茶も出て来る。そしてデザートのフルーツが山盛り。昨晩の腹の具合と寝不足を考えれば、当然朝は軽めにしなければいけないのだが、このように出されてしまうと、食べないわけにはいかない。というか美味しいのでどんどん口に入ってしまう。

この宿は一体何なのか、という疑問を女性に聞くと『それは今晩8時にオーナーが戻ってきてお会いしますので、その時聞いてください』とまるで謎めいた答え。私はオーナーに会いたいとも言っていないし、勿論アポイントがあるはずもないのに、既に今晩8時に予定が出来ているようだ。

SIMカード

朝食で満腹となり、またベッドに潜ると寝入る。外は暑くなってきているようだが、やはりスリランカもよく眠れる。何と午後2時まで起き上がらなかった。まあ、今日は休息日、と決めていたのだが、それにしても。

取り敢えずネゴンボのビーチでも眺めようかと外へ出る。門の右には鉄道の線路があり、左にずっと歩くとビーチだと教えられた。だが門の隣を歩いただけで、私はこの街に興味を持ってしまった。何と隣は墓地で、その隣は教会だった。仏教国スリランカで教会とは珍しい、と歩いて行くと、今後は本格的な墓地がある。中には十字架が沢山見えた。

実はネゴンボは街中に教会がある、クリスチャンの街だったのだ。後で調べてみるとポルトガルがやってきて以降、宣教師たちが熱心に布教活動をしたらしい。スリランカの海岸沿いはその影響でクリスチャンが今でも多いとのことだが、中でもこのネゴンボは有名らしい。

ビーチまでは歩いて15分と言われたが、意外と遠いなと思っていると、1軒の小さなショップがあった。携帯を取り扱っていたので、何気なく入りSIMカードはないかと聞いたところ、初めは意思が通じなかったが、若いにいちゃんがやってくると『ここで買える』という。料金もカードが150r、通話料が100rで50分ぐらい付くらしい。これで十分と買い込んだが、どうやらパスポート番号で登録する仕方が分からず、四苦八苦。

何とか開通したが、今度はパスポートコピーが欲しいという。斜め向かいでコピーできるのだが、5時までは昼休みということで、私があとでコピーして持ち込むことで話がつき、晴れてSIMをゲットした。スリランカも便利になったものだ。

スリランカご縁の旅2014(1)きれいになったコロンボ空港

《スリランカ散歩2014》  2014年4月1日-9日

2012年の11月、初めてスリランカを訪れた。この時いくつかの茶園を回り、スリランカティの質の高さに驚いた。茶園に私を連れて行ってくれたのが、スリランカの高僧、スマ。茶園見学の後、彼の寺で宿泊させてもらい、仏教についての興味も出てきた。その後の私の旅に大いに影響を与えた。

そのスマからドネーションの依頼メールが舞い込んだ。昔の私なら世話になった人だし、少しは寄付を送るか、などと考えただろうが、最近は全く違う。このような依頼を我々はチャンスと考えるべきだ。人が支援を求めている時は積極的に応じるべき。それがアジアンルールだと気が付いた。しかも折角支援するのだから送金するのではなく、持参するのが良い。幸い私は時間が自由になる。行くしかない。

4月1日(火)1.スリランカまで

スマに『寄付を持ってスリランカに行く』と伝えると、『歓迎』との返事はあったが、その後の反応は何となく鈍い。何かを考えているようだ。そしてしばらくして、4月6日にセレモニーがあるのでゲストとして呼ぶ、という連絡が。何だか良く分からないが、それに合わせて日程を組む。ところが前回格安だと思っていたスリランカ航空が、高くなっていた。おまけに1年半前と比べると20%以上の円安。円換算すると意外と高い。すると旅行社Yさんがキャセイの方が安いと提案してくれた。確かに前回のランカ航空と同じ料金だった。何でキャセイは安いんだ?

兎に角キャセイの23時バンコック発に乗り込んだが、30分のディレー。機内は空いており、3席を独り占めし、出発すると機内食も断ってすぐに寝込んだ。だが途中で何だか腹の具合が悪い。トイレに三回も行く。でも下痢ではない。ここ数日食べ過ぎた物が全てきれいに出ていく。この感触、どこかであったような。そうだ、ミャンマーだ。ミャンマーに行くと全てが緩んだように、全てが出てしまう。これをリラックスというのだろうか。スリランカも私のとってはリラックスできる場所と言う訳だ。それもこれも夜中にもかかわらず、空港に迎えに来てくれるスマの存在があってこそ。

空港に着くと、何か違う。妙にきれいなのだ。イミグレも明るい。スムーズにイミグレを抜けると、両替も簡単に出来た。以前の薄暗い出口を想定していたが、どこも明るくて戸惑う。お客を待っているホテルスタッフがいたが、スマがいる場所も分からず、どんどん進んでいくと、本当に出口を出て、タクシーが目に入る。さすがに行き過ぎたと引き返すと、向こうから僧衣のスマが追いかけてきた。

スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(12)コロンボ 美味しい和食、中華、洋食

11月18日(日)   優雅なブランチ

翌朝は昨晩の苦しみもあり、9時過ぎまで寝る。もう食べたくないという気持ちと、何となく腹が減ったという気持ちが交錯。こういう時ジャンクフード系は体にも心にも良くないので、立派なブランチを食べることに。向かった先はお向かいのシナモングランドホテル横のショッピングモール。そこの1階にはSugarという名前のレストランがあった。ここに英字新聞を持ち込み、朝食セットを頼む。しかし料金はホテル並み。1000ルピーを超えた。

ジュースとトースト。パパイヤ、マンゴとバナナのフルーツセット。ここまででそこそこお腹が張ってきた。更にオムレツ、ソーセージ、ベーコンなどが乗ったプレートが現れ、大満足。食後の紅茶も美味しく頂き、充実した食事を終える。実は便秘解消法として推奨されていた中に、お茶を飲む、バナナを食べるなどがあり、それを実践してみた。翌朝の効果は抜群でほぼ正常に戻っていた。

周囲のお客は欧米人が多く、インド系と思われる人もちらほら。まあ地元の人には敷居も高いが、ある意味ここで食べる必要性はないかもしれない。私には必要だったので、良かったのだが。

博物館

午後は日差しが強い中、国立博物館に向かう。何となく急に行ってみたくなったのだ。途中に立派な中国料理店を2軒発見。海鮮などがメインのようで、中国人団体観光客用だろうか。日本人の団体も行きそうだ。

道を間違えたこともあり、へとへとになって到着。そこは白亜のお城、ならぬ白亜の博物館。1877年に建造されたという立派な建物。前庭も広くて立派。大体この周辺には相当立派な建物が集中している。

入場料500ルピー。カメラ代250ルピー。展示物はスリランカの仏教美術が中心。植民地時代の歴史は敢えて触れないのか、殆どない。私が少し期待していた紅茶貿易の話なども全くなく、個人的にはあまり見る所もなく、終わる。カメラ代を支払ったが、損した気分。おまけに写真を撮ろうとすると、「カメラ代払ったのか」と聞かれ、不愉快に。もうちょっと分かり易い工夫をしないと面倒だ。

その後、ふらふら歩いて行くと、高級住宅街へ出る。本当に昔風の建物がきれいに保存されている。スリランカの金持ちはこのようなところに住んでいるのか、と感心。クリケットクラブという名前のカフェがあった。なかなか良い雰囲気だったが、私にはその辺のレストランで40ルピーのミルクティを飲む方がよほど疲れが取れる。事実、これを飲むと又歩き出せるのだから、不思議だ。

11月19日(月)   投資事情

今日は午前中、2か月前にバンコックで会った日本人に会いに行った。駐在経験が3年あり、忙しい中、まとまった話をしてくれた。最近は中国問題の発生もあり、東南アジアのみならず、南アジアも注目されていると言う。2009年の内戦終結後、欧米を中心に観光客が増えたが、それに対応するホテルが不足。これから欧米一流ブランド、シェラトン、ハイアット他、シャングリラなどが出来て来る。スリランカ政府は観光業に不慣れ。外国人から法外な入場料を取ってしまい、今後リピーターが来ることを想定していない。接客業も不慣れで、問題が多い。

日本企業で30年、40年と当地で工場経営している会社もあり、手先が器用、真面目、などの利点はある。だがここへ来て、給料の値上がり、オフィスや工業用地の不足による値上がりなど、投資環境は変わってきている。それでも他のアジアに比べればまだ安いし、競争相手がいないのだから、進出の余地はある。

日本のODA関連で建設会社も結構進出しているが、地元の要求がむちゃくちゃで、結構苦労しており、儲けも出ていないという。中国はワーカーまで中国から丸抱え、違いは鮮明。政府の汚職などは大問題と言うほどのことはない。ただこれからエスカレートしてくる可能性はある。税関の嫌がらせは小遣い稼ぎ。法律は英国法がベースだが、執行はケースバイケース。労働法など企業経営者の立場に立っていない。解雇などは慎重にやらないと裁判沙汰になる。感覚的に言うと、現在のスリランカは「80年代半ば(改革開放初期)の中国」と言える。

日本料理屋

昼はインドのチェンナイの日本人駐在員が飛行機に乗って食べに来ると言う「日本ばし」という店へ行って見る。ちょっと分かり難い場所だが、宿泊先から直ぐ近くだった。12時に行ったがお客は居なかった。店内は綺麗で個室もいくつかあり、本格的な日本料理屋というより、モダンなレストランといった印象だ。入り口に立っていた女性は日本語が出来たが、ウエーター達(ウエートレスはいない)は基本英語。それでも無料のお茶は運んできてくれる。

今日の定食を頼む。1400ルピー。他に数種類の定食があり、1400-1700ルピー。夜は居酒屋メニューも豊富とか。今日のメインはメンチカツ、あと野菜炒め、ポテトサラダ、ホタテ焼にご飯とみそ汁が付いていた。味噌汁を一口吸うと、成程これならチェンナイからも来るはずだという味。全てが日本の味で美味しく、久しぶりのメンチカツにも思わず涙。米もパサパサしていない。人間、たまにはいい物を食わないといけない、と昨晩からの続きで思う。12時半過ぎに日本人や地元の人が入り始めた。ここは香港などと同様にランチは1時からだろうか。イギリス植民地の名残を感じる。デザートにパパイヤも出て来て大満足。

最後の晩餐

午後は少しホテルで休息。インド洋を眺めて過ごす。暑さが感じられるが、エアコンもあるので快適。そして夕方、再び歩き出す。ここ数日の体調を考えて、いい物を食べようと思う。昨日も通ったクリケットクラブを目指したが、どうもこういう場所は敷居が高い。すると向かいにオシャレなカフェがあった。ギャラリーと書かれていたので入って行くと、伝統家屋を改造した立派なレストランだった。

渡り廊下に絵画が掛かり、骨董品が置かれている。相当に暗いシックな作りで、ヨーロッパの雰囲気が醸し出される。うーん、こんなスリランカもあるのか。思わず、カフェに座り、アイスティーを飲む。広い中にはテーブルが配置されているが、食事をしない人はバーコーナーに座るらしい。

折角なので少し早いがクラブサンドイッチを注文してみる。ここのマヨネーズ?の使い方が絶妙でパンも美味い。あるところにはあるんだな、美味い物が。2時間近く座ってまったりしていたが、お客は殆ど来なかった。まだヨーロッパ人のディナータイムにはかなり早い時間だったのだろうか。

それにしてもスリランカ滞在の前半はお坊さんとの修行の旅、最後のコロンボは少し贅沢な旅。うーん、もう少し修行を重ねる必要がありそうだ。

夜な夜なパーティーが

このホテル、WIFIはロビーでしか使えないため、毎日毎晩ロビーのソファーに座り、PCを眺めていた。すると初日、夜8時を過ぎるとソファーが満席になった。地元スリランカの人々がキチンと正装して、座っていたのだ。何だこれは?その日はどこかの会社のパーティーが開かれていた。

次の夜もまたタキシードを着た男性、ドレスの女性が集まって来た。お金持ちのパーティーがあるらしい。確かに1階の奥にはボールルームがあり、かなりの人が入れるようになっていた。それにしても現時点でそれ程豊かではないスリランカで2日も続けてタキシード姿を見るとは。子供達もおしゃれしているので驚く。

そして今日、紳士淑女がまたやって来た。今回は結婚披露宴。新郎新婦が入場していく横で、私はPCを眺めていた。違和感、ありあり。しかしこう言ってはなんだが、このホテルは外観もそれほど美しくなく、部屋がきれいなわけでもない。それでも紳士淑女が夜な夜な集まるということは、ロケーションが抜群なうえ、料金的にもそれほど高くない、穴場なのだろう。

常に突然始まるので写真を撮ることが出来ずに残念だったが、実に面白い物を見せてもらった。これからはどこのホテルでもロビーでWIFI使うのが良いかもしれない。

11月20日(火)   さらばスリランカ

とうとう2週間のスリランカ滞在期限がやって来た。うーん、長かったような短かったような。午前9時にスマが迎えに来てくれる予定であり、4泊したこのホテルをチェックアウトした。フロントのおばさんともすっかり仲良し、名残を惜しんだ。ところが9時になってもスマは来ない。まさか何か間違いがあったかと電話してみると渋滞に巻き込まれているらしい。車はようやく9時半に到着。コロンボも渋滞がどんどんひどくなっている。そしてここから空港まで24㎞、どのくらいの時間で到着できるか全く読めないという。

フライトは12時35分でだいぶ余裕を持っているが予断を許さない、と緊張する。ところが・・、何と渋滞は全くなくスムーズに進み、10時半には空港に着いてしまった。スマに最後の別れの言葉をと思っている内に着いてしまい、しかも車が長く駐車できないということで、何も言えないで、ただ握手を交わして別れてしまった。車が遠ざかるのを見て、後悔したが、後の祭り。

空港でのチェックインはスムーズだったが、何だか出発時間が違っていた。あれ、1時間ぐらいデレーしたらしい。周囲で戸惑っている人々がいた。中国労働者の人々だった。英語も現地語も分からない、訳が分からない彼らに「1時間遅れだよ」と中国語で言うと、安どした様子。それからネットが繋がるというカフェでパンケーキなど食べながら待つ。ネットのスピードは遅く、多くの人が使うと繋がらない。これが今のスリランカの現状だろう。

そしてフライトはそれ以上遅れることはなく、スリランカの大地を離れた。何とも不思議な2週間の旅だった。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(11)コロンボ 街を彷徨い歩く

11月16日(金)   10.コロンボ    Tea Board

翌朝はいつもの通り、パンを焼いて食べる。ゆで卵が付いた。昨晩遅くまでテレビを見ていた運転手は寝坊。スマは彼らを本当に自由にしている。基本的に若手のお坊さんもそうだが、「不必要に規則で縛らない」として、放任している。それをスマは「自分が彼らの側に居ることが大切」という言い方をする。確かに口では「あなたの味方だ」と言っても、本当に相手の立場に立っている人は少ない。どこで線を引くかかなり難しいと思うが、その点、スマは凄い。

8時にコロンボに向けて出発。スマの大学のスタッフも同乗。コーヒーを飲むかと質問すると「スリランカではコーヒーは薬でした。レモンを入れて飲みます」というではないか。レモンを入れて飲むのが紅茶ではなくコーヒー。初めて聞いた。コーヒーと言えばネスカフェのようだが、タイのようなめちゃくちゃ甘い缶コーヒーなどはまだ出ていない。

朝のコロンボは渋滞だ。市内に入る前から混んでいる。途中、ここが国会議事堂、と言われる。そう、スリランカはブラジルやオーストラリアのように政治行政機能が分離されており、コーティと呼ばれるコロンボ郊外が国の首都となっている。コロンボはスリランカ最大の都市、と呼ばれる。

ようやくスマの大学の関係機関に到着。ここもまだ市内中心ではない。私はここから歩いて市内を目指す。横は海軍の施設、その先を行くとHSBCなどの看板が目に入り、ゴールロードへ到達。ここから少し北へ歩いて行くとTea Boardがある。観光客にとってはお土産に紅茶を買う場所である。スリランカ各地の紅茶が売られており、特に買いやすいようにパッケージされていたり、5大産地の茶を1つずつ入れた箱が売られていたりする。
   

売り場の女性に紅茶の歴史の本はないか、と聞いてみると、それなら図書室へ行け、と言う。売り場の裏手がオフィスになっており、更にその後ろには実験室がある。ここでも紅茶の研究開発が行われているようだ。その上の階にひっそりと図書室があった。意外とあっさりと部外者でも入ることが出来る。マネージャーに来意を告げると親切にも関係の本を取り出してくれた。ようやく歴史の本に巡り合えた。そして実に貴重な内容がそこには書かれていた。2時間以上、そこで調べ物をして、退散した。

コラム⇒ http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5534

ホテル探し

もう一つの用事は今晩の宿探し。スマから3時までに探して、大学機関へ戻るようにとの指示。どこへ行けばあるんだ、ホテル。仕方なく、北上し、湖の畔へ出る。ベイラ湖、かなり大きい。その畔にレイクロッジというホテルがあることをガイドブックで知り訪ねる。

そのホテルは湖から少し離れた閑静な所に有った。ガイドブックだと50-60ドルと書かれていたが、見ただけでそんなに安くないことを知る。従業員に聞いてみると95ドルからだと言う。流石にちょっと高いな、と思っていると、それを見透かしたように「高いね」と日本語を使う。きっと多くの日本人がここへ来て値段を聞いて帰って行くのだろう。そうであればこのおじさん、もう少し安い宿を知っているかもしれない。

「ゴールロード、ランムトゥー」、そうおじさんは書いてくれた。兎に角そこを目指す。途中にYWCAがあった。ここは女子と名が付くが、ガイドブックに寄れば、男性もOKとあったので、一応聞いてみると「女子のみです」とあっけなく言われ、向こうの方でまた来たか、という顔をしたオジサンが居たので、ここもガイドブックのせいで迷惑している様子が分かる。


   

ゴールロードに出ると、シナモングランドホテルが目の前、少し北にはゴールフェイスホテルというコロンボの代表的な豪華ホテルが並んでいる。こんな環境の中に安ホテルなどあるはずがない、と思った時、道の向こう側に、如何にも古い建物を発見。行って見ると紹介されたホテルだった。

ルームレートを聞くとエアコン付。ホットシャワー付き、ロビーWIFI無料で3500ルピー。30ドルにもならない。こんなロケーションでそれはないだろうと思い、部屋を見せてもらう。と何と何と、確かに部屋は綺麗とは言い難いが、目の前にインド洋がドーンと現れた。小さなバルコニーから一日眺めることもできる。ここに決めた。スマに相談するまでもなく、チェックインする。

スマには電話で連絡し、荷物を運んできてもらう。彼も忙しいようなので、荷物を受け取り、分かれる。スマとの10日間の旅はこうして終わりを告げた。

ゴールロードを彷徨う

あまりに高級ホテルが並び、南側には首相官邸、アメリカ大使館などもあり、食事をするところが無い。飲み物を買う所すら見つからない。これは失敗だったかと思う。仕方なく、両替に行く。スリランカの両替レートは銀行によりかなりの差があるので、良く選ばないといけない。今回はセイラン銀行へ行ったが、対応は悪くなかった。ただ3回の両替で分かったことはセイロン銀行が手数料も安く、結果的にレートが一番良いということ。

さらに北上すると、ゴールフェイスホテルの前に、突然ゴールフェイスグリーンと言う広場が広がっている。インド洋が目の前だ。ここに観光客向けのスタンドが並び、飲み物が買える。普通の店の10%増し程度だから良心的か。それでも冷たい飲み物を置いている所と置いていない所がある。何とか冷たいスプライトを探し出し、口に含むと本当に爽快だった。それにしても最近水分を抑えて来たな、と感じる。

夜はゴールロードを南へ行って見るが、どうしても美味そうな店がない。思い余って、やけくそで、シナモングランドホテルに向かう。するとホテルの横にショッピングモールがあった。中を覗いていると地下に何とフードコートがあった。10軒ほどの店が並んでおり、食欲が涌いてきた。

食べたいと思って立ち止まった所、そこは何とタイ料理屋だった。そこのチキンチャーハンにのっていた野菜炒め、懐かしかった。バンコックから来て態々コロンボでタイ料理。それが今の私かもしれない。おじさんは中華系に見える。流暢な英語を話し、新入りかと思われるスリランカの若者に一生懸命何かを伝えている。その若者の姿と自分の息子たちがだぶる。

11月17日(土) フォート周辺

部屋にばかりいても仕方がないので、出掛けてみる。フォートと呼ばれる港があるエリア、旧市街地へ行く。歩いていると鉄道線路の脇に恐ろしく古そうな建物が見えた。Castle Hotelと書かれており、ホテルのようだ。中へ入ると本当に古い。200年は経っていると言う。1泊、1200ルピー、流石にここに泊まるとダニに食われそうだ。イギリスが侵攻してきたのが1796年。歴史だ。

その付近にはモスクがあり、イスラム系が住んでいるようだ。子供達は道でクリケットに興じている。昔々の日本の風景だ。豊かではないが、楽しそうではある。空軍の前を通ると一人の若者が日本語で話し掛けて来た。岐阜で3年働いた経験があると言う。月給30万円貰ったが、毎日12時間労働で疲れた。今は月給3万円だが、辛くはない。お金だけが全てではない。日本にはもう一度行きたいな、と言っていた。

ヒルトンホテルを過ぎると突き当りが港だと分かる。そしていかにも古めかしい建物が並ぶ。中でもカーギルのビルが目を惹く。実に重々しい風格のある建物だ。ところが何と中にあるのはKFCとFood Cityというスーパー。特にKFCには違和感があるが、返ってそのギャップが良いのかも。

オリエンタルという1875年に建てられた大きなホテルもある。今は改装されて綺麗だ。港についたイギリス人が泊まったホテルであろう。とても便利なロケーションにある。そこから駅へ行く。フォートステーションで列車に乗ろうかと思ったが、切符を買うのが面倒で、駅前のバスに乗り込む。これがまた満員で大変だ。途中で降りるのに苦労したが、何とバスが我がホテルの真ん前に停車した。バス停なんか、あったっけ。

オシャレなカフェが見えた。帰りにそこへ寄る。韓国人の若い女性たちが楽しげにコーヒーを飲んでいた。私は2階の屋外のテーブルに腰掛け、爽やかな風にあたりながら、アイスティーを飲んでみた。結構濃厚なアイスティー、恐らくはミルクティを作る茶葉を使ったのだろう。それでも雰囲気もよく満足。かなりの時間をまったり過ごす。

夜は疲れたので、昨日のフードコートへ行き、チャウメンとビールを頼む。満足して帰ったのだが、その夜、何故か今までなったことが無い便秘に襲われ、難渋する。何が原因か分からないが、水分や食生活の変化ではないか。それにしても便秘がこんなに苦しいとは、初めて知る。



スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(10)ゴール オランダ時代の街

コロンボ郊外へ

次はキャンディ郊外のメディテーションセンターへ行くのだと思っていたが、そのままひたすらコロンボ方面へ向かう。メディテーションセンターには少し興味があったので、残念だが仕方がない。途中休むこともなく、車は進む。座っている尻が痛くなってきたが、なかなか車は停まらない。水を一回買ったきり、とうとう3時間半ほど走り日が暮れた。そんなに遠くはないと思っていたが、道は真っ直ぐではなく、工事中もあり、車や人の飛び出しにも注意しながらの運転はさぞや大変だろう。

そしてコロンボからおよそ20㎞の地点で車は停まった。そこはホテルのようだった。今日はスマの宿舎泊と聞いていたが、明日の夜の為の視察だという。プールがあってちょっとリゾートっぽいが、暗くてよく見えない。部屋はまあまあ広くて清潔そう。これならいいだろうと言うと「では今日も泊まれ」と突然言われる。言われたら泊まるのみ。

スマは麺を頼んでいたようだが、自分たちの分は持ち帰り、私にはここで食べるように告げて去る。残された私は取り敢えず、レストランでコーラを頼み、麺の到着を待つ。やってきた麺は3人前はあるかという分量。ビーフンだ。半分近くは残して部屋へ。

WIFIがあるかとホテルに聞いたが、ないとの返事。何とかメールチェックがしたいと申し出ると、何とホテルで使っているモデムを貸してくれ、私のPCへのセットアップまでしてくれた。これはとても親切。そしてスリランカ8日目にして、初めて自分のPCにネットが繋がる。何とも嬉しい。

ところがこのネット回線、残念ながらスピードが遅い。400通ものメールが溜まっており、中には写真や文章の添付もあるため、何とメールを受領するだけでも4時間以上掛かってしまった。そして5日遅れたメルマガを送付するのに夜をまたいで2日掛かりの作業となる。これもまた新鮮な体験だった。

11月15日(木)   9.  ゴール  高速バス

翌朝は7時にスマが今日のスケジュールを言いに来るとのことで、あまり寝ずにメール作業などを行っていた。ところが7時に現れたスマは「チェックアウトするぞ」と突然言う。実は突然ではなく、昨晩彼から電話があったのだが、こちらが聞き漏らしていたようだ。慌ててネット作業を行い、荷物を纏めて、チェックアウトした。

今日は何と自分でゴールと言う街までバスで行き、興味があればビーチリゾートのヒッカドゥと言う街へも行き、またバスでこの街へ戻ってくる、という予定となった。私として一人旅もしてみたかったし、バスにも乗りたかったので、喜んで応じる。スマも大学へ来ると忙しいようだ。

先ずは車でバスターミナルへ行く。大学はコッタワと言う街にあるが、ゴール行きのインタシティバスはマハラガマという所から出る。そこまで10㎞以上行く。ターミナルに着くとちょうどゴール行きのバスが出る所。そそくさとスマに別れを告げて、バスに乗り込む。

既に席はほぼ満員。席の幅も広く、冷房も効いておりかなり快適。直通バスなのか、ゴールまでどこにも停まらなかった。車内には一部欧米人の姿があったが、基本的にスリランカ人が利用していた。高速に乗る頃、車掌が料金を集めに来た。470ルピー。

この高速道路、中国の援助でコロンボからゴールまで開通したという。実に快適な道路で、車も殆ど走っておらず、これまでの田舎の道とは別世界。元々は日本からの援助が多かったこの国も、近年対インド政策を重視する中国からの支援が増えている。ただ中国の建設工事は労働者も中国から連れてくるため、地元に雇用が生まれないとの不満が大きい。中国流は各国で禍根を残している。

高速道路の周辺は殆どが畑か林。南国風の良い風景が見られる。バスはゴールで高速を降りると、次々に人が降りていく。街に入ると直ぐにバスターミナルが見え、終点。

ゴールの街

ゴールの街は初めポルトガル人、続いてオランダ人が占拠して作った街。どことなくマレーシアのマラッカを思わせる所がある。バスターミナルからは既に城壁が見えており、旧市内の位置は聞かなくても分かる。

城壁の外側にプレーグランドがあり、クリケットの試合が行われていた。スリランカではバレーボールに人気があると言った人がいたが、やはりクリケットは人気競技のようだ。城壁にある門を潜り、城壁に上る。時計台が印象的。海も一望できる。海からの攻撃に備えていたのは、マラッカやマカオと同じ。

古い教会が見える。オランダ時代の建物とか。旧市街地に残っている古い建物は基本的にオランダ時代のもの。1800年代からはイギリス支配に変わり、港もコロンボ重視となったようだ。この古い町並み、暑いけれども気持ちが良かった。こういう古さが私は好きだ。マカオ歴史散歩をした頃を思い出す。

昼ごはんはオランダ洋式の建物にあるレストランで取る。間口は狭いが奥が深い、確かマラッカに有ったババニョニャハウスに似ている。その奥には中国洋式の小さな中庭がある。中国人が住んでいたのかと聞くと、今でもオランダ人家族の子孫が住んでいるという。歴史が感じられる。

ヒッカドゥア

バスターミナルへ戻り、ヒッカドゥア行きのバスに乗り込む。これは完全なローカルバス。乗った時は人が少なかったが、呼び込みの声でどんどん人が増え、更には動き出してからも次々に乗り込んできて、一炊の余地もない。学校帰りの小学生と親も沢山乗っている。料金は車掌が一人ずつ集めに来る。これは満員の中、大変な作業である。いくらか分からないので100ルピーを渡すと、何か言って行ってしまった。このローカルバスが100ルピーもするはずないと思いながら、なすすべもない。大分たってから車掌が戻り、おつりが渡される。料金は35ルピー、ようはおつりを集めていたのだ。

バスは海岸線を走り気持ちが良い。だが途中から雨になり、かなり激しく降る。その内段々と人が降りて行き、周囲が見えてくる。兎に角コロンボまでの道をひたすら北上していた。スリランカは学校が多い。子供が多いというべきだろう。たった10㎞かそこらの間に一体いくつの学校を見ただろうか。

50分ほどして終点のヒッカドゥアへ到着。最後まで乗っていたのは私の他は一人だけ。完全なローカルバスだった。ターミナルの横に鉄道の駅があったので、ゴール行きの時間を確認すると4時15分だという。ちょうど2時間後であり、いい感じなので、帰りは列車に挑戦する。

ヒッカドゥアの街は昔ヒッピーたちが作ったビーチリゾートだという。今ではいくつかの高級ホテルも建っているが、基本はそれほど高くないゲストハウス。ゴールロード沿いに延々と続く、ゲストハウス。そこを抜けると海がある。格安ビーチリゾートだ。

サーフィンを売り物にして所もある。レッスンを受けないか、と声を掛けられた。日本人も多く来るという。そして私より年上の人々がサーフィンを楽しんでいるともいう。サーファーのにいちゃんは決して無理強いはしない。非常にフレンドリーで好感が持てる。この辺がこのヒッカドゥアのよい所であろう。

北のターミナルから南へゆっくりと30分、帰りもゆっくりと30分歩き、駅へ戻る。切符は40ルピー。ホームは2つある。どちらがゴール行きか分からないが、既に大勢の人が待っていたので一緒に待つ。するとまだ時間前なのに列車が到着。私の切符は2等なので、こちらだと言われる。念のため、「ゴール行きか」と聞くと、いやコロンボ行きと。この辺のいい加減さが何ともおかしい。危うくコロンボへ行く所だった。

列車が行くと寂しくなる。駅員がやって来て話をする。だが途中から「娘が各国通貨を集めているから、日本円をくれないか」とか、ボールペンはないか、と言い出す。この国はまだまだ貧しいのだ、と実感する。

列車は定刻を過ぎても一向に来ない。乗客も寧ろ時間が過ぎてから集まり始める。これではいつ来るのか、と不安になったが、15分遅れでやって来た。しかし今度は2等は一番前の車両になっており、3等車の乗り降りでごった返すホームをかき分けて進むには時間が掛かった。ようやく2等に到着し、乗ろうとしたところで列車が動き出した。辛うじてデッキに滑り込む。

車内はそれほど混んでいなかったが、席は1つしか空いていなかった。自由席であり、そこへ座る。扇風機が勢いよく回り、涼しい。外は何故かまた雨になっている。私の活動時間を知って、天が降らせているようだ。バスで来た道を逆に向かっており、途中で海が見えたりする。僅か15分でゴールに到着。

駅から隣のバスターミナルへ行くと、ちょうどマハラガマ行きのバスが10分後に出ることが分かり、直ぐに公衆電話に走って、スマに連絡を入れる。公衆電話は5ルピー以上入れる。バスは空いており、5時に発車。また高速を戻る。途中で夕焼けが見え、そして辺りが暗くなる。コッタワという場所で降りるように言われていたが、言われた場所ではバスと停まらなかった。スマの運転手が手を振っているのが見えたが、バスが停まったのは1㎞以上先。しかも今度は相当の雨に降られ、這う這うの体で待ち合わせ場所へ。

その夜はスマと運転手が料理を作ってくれた。魚のカレーが実にウマく、何度もお替りした。ゴールやヒッカドゥアなどの海辺に行きながら食べなかった魚を今食べる、不思議だ。夜はスマの大学の宿舎に泊まる。同僚がいないとのことでその部屋で寝たが、蚊が凄かった。良く見ると部屋の上の方が空いており、蚊が入り放題だった。全く寝付けず、苦労した。





スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(9)キャンディ 三顧の礼で茶葉博物館へ

若手の僧と議論する

帰りは車で寝込んでしまい、3時間があっという間に過ぎた。流石に足を鍛えていないので、疲れたのだろう。戻るとスマは熱があるという。彼も私の世話で疲れたのかもしれない。その夜は自分出来ることは自分で行う。

例えば自分の使うお湯は自分で沸して湯浴びをするなど。実はこの湯浴び、私の為だけに行われているもので、普通は水浴び。申し訳ないので、日ごとにお湯の量を減らして、使っている。まるで兵隊さんのような気分で、貴重なお湯を有効に使う。この気持ちは大切だ。

食事はここにいる若い僧が準備してくれている。これが非常に美味しくて、日ごとに食べる量が増えている。現在3人の若者がここに滞在し、大学へ行っている者もいる。寺に来て最初に教わるのは自分で調理することだというから、もう10年以上のベテランだ。それにしてもスリランカでは既に托鉢の習慣がない。食べ物の寄進は、信者が寺へ運んでこるのだ。それ以外は普通に市場で野菜を買い、自分で料理する。

初めの方でペーラーデニヤ大学を案内してくれた若者は何か話したいようだったので、誘うとドンドン話し始める。彼はスリランカの東大、ペーラーデニヤ大学でも最も優秀な学生の一人だそうで、将来は大学で教えることも考えている。非常に発言に自信を持っていて、はっきりものを言う。これも大事なことだ。

スリランカで今最大の問題の一つはイスラム教徒の増加。これは他のアジア諸国でも顕著であり、問題視している点だが、スリランカでは具体的に、中東からの資金投下でイスラム系が商業を握り、シンハラ人の女性を雇っている点。イスラムでは4人まで奥さんが持てること、内戦でシンハラ人の若者(男性)が少ないことから、シンハラ女性をイスラム化していく作戦らしい。またシンハラ女性に高学歴者が多く、こちらは結婚相手としてふさわしい男性が見付からない。結果として、シンハラの子供が減り、イスラム+混血の子が増加していくことになる。中東を中心としたイスラム世界はスリランカを支配下に置くつもりだ、との危惧は絶えない。

今の日本で、自国の問題点を的確に把握し、それにいかに対処するかを真剣に考えている若者はどのくらいいるのだろうか。若いお坊さんとの対話はかなり刺激的であった。

11月14日(水)   8.キャンディ3   寺の高僧

朝、スマは少し具合が良くなったようだが、まだ食べ物を口にしない。私は一人でパンを焼き、バターとジャムを塗って食べる。すると卵焼きが運ばれて来て、食事が豪華になる。お茶もTWGのフルーツティを淹れてみる。何だか優雅な朝食になる。   

スマが寺を案内するという。すでに数日泊まっていたが、ちゃんと中を見たことはなかった。実は高くなった所に寺があるのだが、その横にも仏像が有ったりする。更にその上を登って行くと、瞑想できるような空間もあるという。私はほんの一角に過ぎない僧院に泊まり、全体を見ていなかったが、敷地はかなり広大で、現在は林になっているが、将来スマには何か計画があるらしい。確かにここの自然は得難い物があり、また日曜学校の為の校舎などもあり、やりようによっては色々と出来るかもしれない。

スマはこのお寺に10歳でやって来たが、その時から指導しているお坊さんがいる。聞けば93歳。実に気さくなお坊さんで、私にも英語で話し掛けてくれるのだが、僧院の中の写真を見ると、何だか偉い人に傅かれている。スマに寄れば、1か月半ほど前に、こちらから招待したわけでもなく、大統領が来たのだそうだ。現役の大統領が態々山奥へ来るとは、このお坊さんの名声は相当に高いらしい。

スマの師匠であるこのお坊さん、お姉さんは今年99歳、弟さん達も80歳を超えて皆健在だという。どうすればそんなに長生きになるのか、それも健康で。秘訣はこの自然環境にあるような気がしてならない。お別れする時に「またお出で」と言われた。何年後かは分からないが、再会できると思う。

Tea Museum

3日ほどお世話になったお寺を去る。そしてこれまで2度行っては入れなかった鬼門、Tea Museumへ3度目の挑戦を行う。キャンディ市内は結構なラッシュで渋滞が続く。ようやく1時間以上かけて辿り着く。相変わらずひっそりとしている。入り口のドアは開け放たれていた。遂に入場した。500ルピー。案内人が来るという。スマに配慮したかと思ったが、2時に定時のツアーがあった。我々2人とアイルランド人の若者の3人で行く。

博物館の中は、各製茶工場、茶業者などから寄贈された物が置かれており、初期の頃、どんなものを使っていたのか、などは分かったものの、肝心の紅茶の歴史は出て来ない。仕方なく質問してみると「それは茶葉研究所が知っているでしょう」との答え。先日研究所は博物館に行けといったので来たのに。案内の女性はマネージャーに聞いてみると言って姿を消した。

博物館の2階へ上がると、スリランカ紅茶の父として、ジェームズ・テーラーのコーナーがあり、以前書かれた記事などが張られていた。どれも同じネタ元から出た話を書いたのにすぎないが、その記述には「テーラーはアッサム種を持ち込んだ」と書かれている。それでは当初の研究所の人間が言った、また各茶工場の人間が説明した「中国種」との説明はどうなるのか。確かに茶畑の葉はそれほど大きくないのだ。スマと2人で頭を抱えた。

4階にティサロンがあり、無料でお茶が振舞われる。2階には各産地の紅茶が販売されているブースもある。だが何故があまり落ち着かない。1階へ降りると先程の女性が数枚のペーパーをくれた。これは参観者への説明用だという。そこにもテーラーが何を持ち込んだかは書かれていない。

マネージャーという男性が「それは昔のことだから、誰にもはっきりわからないのでは」という。この博物館はTea Boardというスリランカ政府の茶業局が作った場所であり、そこのしかるべき人が分からない、というからには分からないのだろう。ただ「テーラーが中国へ行ったという話は聞いたことが無い」という所に微かにヒントがある気がした。

キャンディ市内へも戻る時、スマがドイツ人のカップルを同乗させた。ドイツ人もあまりお茶は飲まないようだ。女性の方が「以前日本のクリル島へ行き、ビールの調査をした」と言い出す。よくよく聞き直すと千島列島に熊(ベアー)の調査に行ったのだが、ドイツ人と聞くとどうしてもビールと思ってしまう。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(8)シーギリア 観光費用の高いスリランカ

Tree of Life

帰りの車の中で、ウトウトと寝込んで仕舞う。気が付くと既にかなり寺に近くなっていた。実はもう一か所、行きたい所が出来ていた。Tree of Lifeと書かれた場所がキャンディと寺のある村の間にあったのだ。昨晩ガイドブックを見ていると、アユルベーダのマッサージなどが受けられると書いてあり、印象に残っていた。

急いでそちらに向かってもらう。幹線から入るとそこは森の中。かなりの森を抜けていくとそこにTree of Lifeはあった。受付のある建物は1900年に建てられたもの。実にいい感じで建っている。案内を乞うとマリーという女性が出て来て先へ進む。ここはホテルだったのだ。全部で43室、普通の部屋が35室、コテージが2つ、スイートが2つ、そしてビラタイプがある。

広い広い庭をゆっくり歩いて行くと最初に客室のある建物があり、そこから上ると子供の遊び場があり、プールとレストランが見える。その向こうに客室、ビラが続く。周囲は森と茶畑、この雰囲気はどこかダージリンを思い出す。

このホテルは17年前に出来た。何とオーナーは日本人。レストラン前にあるマッサージルームでは、アユルベーダによるマッサージ(治療)が行われる。3日コース、7日コースなどがあり、各人の体調や気候状況などで療法が異なる。マッサージ師の中に日本語が出来る人もおり、日本人にも好評だという。

ただ日本人でここを訪れるのは殆どが60代の団体客。マリーは「何故若い人は来ないのか」と逆に質問してきたので、若者にはお金も時間もない、と答えておいた。実はこのホテルのコンセプトの一つとしてハネムーン客に来て欲しいようだが、日本人の利用はあまりない。途中にはハネムーンブリッジと名付けられた橋もある。

部屋はコロニアル風で落ち着きがあり、何よりバスタブが大きい。バルコニーから森を眺めて過ごすことも出来、快適だ。食事は朝晩付きで基本はビュッフェ。土曜日はBBQディナーなどの趣向も凝らされている。料金は朝晩付きで1泊140ドルとか。アユルベーダは1回80ドルぐらいから出来るようだ。勿論Wifiもあり、テレビもあるが、偶にはこんな場所で何もしないで過ごしたいものだと、ディンブラの濃い目の紅茶を頂きながら、そう思った。

夜は自分でお湯を用意して、体を洗う。ある物で足りるように努力する。重要な気がした。

11月13日(火)  タミルの祭り

朝6時前に起きて外を眺める。相変わらず天気は良い。今日は遠出するので早起きし、サッサと朝食を取る。朝からご飯を食べるのにも慣れた。ご飯の付け合せは毎回変わる。今朝はなすと干し魚が入っていた。これはなかなか美味。7時半に運転手を待つがやって来ない。どうやら寝坊したらしい。普通なら怒る所だが、その待つ時間、寺の庭を眺め、ゆっくり過ごす。運転手も疲れている。寝坊するぐらい睡眠を取った方が私の安全のためになると思える。リスがバナナの木にぶら下がる。面白い。

朝から寺にやって来る親子がいた。聞けばタミル人だという。今日はタミルのお祭りで祝日。タミル人の殆どはヒンズー教徒と聞いていたので、彼らが寺にやって来たことは少し意外だったが、タミル人の中にも寺を訪れ、参拝する人もいるという。彼らは何か寺に食べ物を届けに来たようだ。

夫婦に子供3人。小学生ぐらいの男の子、幼稚園ぐらいの男の子に小さな女の子。典型的なファミリーらしい。何となく好ましい雰囲気が感じられる。一家の主人たる男性が私に向かって身振りで何か語りかけている。良く見ると寺の茶樹を指して、摘む真似をしていた。そうか、彼らも茶業の為にインドからやって来たタミル人の子孫なのだ。実はこの付近にも多くのタミル人がシンハラ人と共存している。実に身近な茶の歴史がここにあった。

7. ダンブッラとシーリギリヤ   ダンブッラ

8時過ぎに運転手がやって来て出発。いつものキャンディへ行く道とは反対、北へ向かう。流石に寝坊して遅れたのを気にしてか、少しスピードを上げる。近道だと言って、狭いが誰も通っていない道を行く。1時間ほどでマッターレと言う街に出る。ここには確か名古屋に本社がある陶器メーカー、ノリタケの工場があったはずだ。彼らは40年も前からここで生産を行っている。スリランカを代表する日本企業である。

メイン道路はそれほど悪くない。スーッと車が走り、10時過ぎには最初の訪問地、ダンブッラの寺院に到着。何と目の前に巨大なGolden Buddhaが高々と祭り上げられている。その前へ行くと博物館と書かれているが、無視して脇の階段を上る。世界最大の大仏とある。高さ30m、1997-2000年までかけて建造された。確かに大きい。

一旦降りて今度は洞窟寺院に向かい上る。この階段が急なうえ、相当数があり疲れる。途中で物売りが近づいてきたり、フルーツを売る人もいる。サルも沢山おり、人を襲ったりはしないが、特に人を恐れる様子もなく、犬や猫のように寛いでいる。

物凄い階段を登り切り、上へ着くと流石にいい景色だ。靴を預けてさて、寺院にはいろうとすると、「チケット」と言われる。ここまで一度もチケットオフィスを見なかったので、ここで買うのかと思いきや、何と「下まで戻れ」という。それはないだろう、いくらなんでも。チケットオフィスの表示すらどこにもないのだ。何と不親切な、と言ってみても始まらない。ここが中国ならちゃんとお金を取る仕組みをすぐに講じるだろうが、スリランカは違う。結局寺にはいれず、中がどうなっているのも分からない。外国人から多額の入場料を取ろうとするスリランカ、所詮はガイドがいる団体客しか念頭にないということ。この点は利用者の便を改善しないと、将来が思いやられる。

何となく不機嫌に下へ降りていく。物売りも不機嫌な人間にはあまり近寄らない。預けた靴を取り戻したが、金は請求されなかった。偶にはそういう人間もいるのだろう。下まで降りたが、結局チケットを売っている場所は見付からなかった。後でガイドブックを見ると建物の裏にあって見逃す恐れあり、となっていた。何とも不思議な寺だったが、世界遺産を見損なったのは残念。

シーリギリヤ

ダンブッラから30分ほど、かなり良い舗装道路を行くと、シーリギリヤへ着く。ここにはシーリギリヤロック、と呼ばれる岩山があり、一大観光地となっている。遠くからでも絶壁と見える岩山に壁画を描き、あまつさえ、そこに王宮を建てて住んだ王がいたというから驚きだ。

先ずは先程に凝りて、チケット売り場を探す。入場口には相変わらずチェックポイントの文字しかなく、チケット売り場を示す何の手掛かりもなかった。聞かなければ何も分からない仕組みだ。数百メートル向こうに歩くとようやくチケットオフィスがある。しかしここのチケット、何と30ドルもする。ちょっとしたゲストハウスに泊まっても20ドル、それなりのレストランで食事をしても10ドルかからない国で、30ドルとはいくらなんでも取り過ぎではないか。勿論外国人だけが支払う。

こんなことをしていては、スリランカに来たくないと思う観光客も増えるのではないだろうか。少なくとも私はもう観光地へは行きなくない。ただ反対にスリランカの立場に立つと、産業があまりなく、観光に頼りながら国を発展させていくためには致し方ない手段だとも言える。それとしても、係員に愛想が無く、これだけ払ってもまだガイドを別に雇わなければならないシステムは改善すべきであろう。

シーギリヤロックは予想以上に険しかった。水路や水の広場を通過すると、急な階段が続き、洞窟が見える。洞窟寺院の跡であろう。観光客でも高齢者はかなり難儀しており、若者は汗だくとなる。20分ぐらい歩いてようやく山の中腹に出る。そこからは下が一望でき眺めが良い。

そしてそこにチケットのチェックがあった。何でこんな所に、と言っても仕方がない。その上には金網で守られた螺旋階段があり、上にはフレスコ画があるとのことだったが、高所恐怖症の私はこの辺から既に気分はパス。一人ミラーウオールという回廊を抜ける。そして岩肌にくっついて作られた鉄の通路。この辺はもう限界。更には頂上へ上るとても急な階段。信じられないほどに高い所へ上って行くようで、断念。そこから下へ降りた。

後は会議堂跡、ブッダの玉座があったというアサナ礼拝堂を通り、私のシーリギリヤは終了した。残念ながら30ドルの元を取り戻すには遠く及ばず。駐車場脇にはレストランや土産物屋があったが、ジュース1杯、250ルピーという表示を見て直ぐに退散した。ここはなんでも高いのだ。

ランチはスマが用意してくれたお弁当。私にはパンと卵、運転手にはチキンカレーだった。実にすばらしい心遣いだ。この付近の食べ物が異常に高いことを知っての行動だろう。道路沿いの売店でスプライトを買っても街の2倍はした。あまりお金のことばかり書きたくないが、正直こういう場所が一番苦手だ。