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スリランカ紅茶の買付茶旅2016(6)茶業の問題点

茶業の問題点

もう1軒、午前の間に回る。オールトン。もうここでは完全に自由人となり、テースティングルームにも入らずに、外を歩きだす。水供給プロジェクトで日本政府が協力しているとの看板が出ている。こんなところにも来ているのか。その向こうの斜面に茶畑が広がっていた。工場の囲いの外を歩いていくと、近くの茶園で茶摘みを見学することができた。ヌワラエリアのように観光客に慣れた茶摘み女性ではなく、実に素朴な感じでハニカムのがよい。茶業はこのような重労働をするタミル人によって支えられていることをこれまで何度も垣間見てきた。この労働力は無限なのだろうか、それがスリランカ茶業の1つの課題ではないのだろうか。

そんなことをYさんに話していると、すぐ近くにあった茶園労働をするタミル人が住む村に入ってしまった。ここにもヒンズー寺院があり、南インドから100年以上前にやってきた人々が伝統を守っていた。Yさんはスルスルとこの村に溶け込み、おじいさんを捕まえて、話を聞き始めた。『自分の爺さんの代からここに居るんだ。ここの茶園で働いた労働者は終生ここに住んでいられるよ。決してきれいではないが、生きていくのは十分だ』とにこやかに話す。

だが『息子はここを継いで、茶園で働いているが、孫たちは皆コロンボへ行ってしまったよ』と悲しそうな顔になる。これが茶園の現状ではないか。尚息子が茶園で働かなくても、お爺さんが生きている限り、家族はここに住むことができるようだ。これは茶園側にとっては、色々と負担が多いのではないかと推察した。

幼い孫を連れた女性もやってきて、恥ずかしそうに写真に収まってくれた。『この子が茶園で働くのかどうかは全く分からないね』という。茶園経営から見ると、労働者は不足する、勿論給与も上がっていく、そして終身雇用のような老後の負担も出てくるので、これまでのような安価な茶業は既に難しくなってきていると思われる。とは言っても現在の賃金だけでは食べていけない家もあり、余暇に野菜などを植えて、副収入としているらしい。若者はこれほどの重労働に耐えていくより、都会に出て簡単に稼ぐ、という発想になるのも分るほど、茶摘みや茶園労働は厳しい上に、低賃金だということだ。今後は機械化が進んでいく、ということになるだろう。そこで茶の品質が落ちてしまえば死活問題だ。

茶園訪問と言えば、茶工場へ行き、テースティングをして、周囲の環境を満喫して終わり、というのが普通かとは思うが、実際にどんな人がどんな環境で働いており、その問題点はどこにあるのかを考えることも重要ではなかろうか。私は常にそんな視点で物を見ており、茶畑を訪問している。今回直接労働者の関係者と話ができたことはとても有意義であった。労働者の視点、経営者の視点、そして消費者の視点、今回はとても考えるところが多かった。今日も茶畑には茶の花が咲いていた。

そこから車で30分。何だか欧米人のバックパッカーが歩いている街に来た。聞けば、スリランカ随一の聖地、スリー・パーダ、別名アダムスピークに上るための拠点となるナラタニアという場所だった。アダムスピークは仏教徒にとっては仏陀の足跡のある場所、ヒンズー教徒はこの足跡をシバ神のものだと主張し、キリスト教徒やイスラム教はここをアダムが降り立った場所としてそれぞれ聖地としているそうだ。聖地の共有化、初めて聞く。こんな場所が世界にあるなんて。スリランカは仏教国だという頭が日本人にはあるが、ここに来れば、多民族国家であることが一目でわかると言われた。スリランカ中から巡礼者が訪れ、賑わっているらしい。この辺に、ゲストハウスが多い理由が分かった。

実際に2回上ったというルアンさんに聞くと、『階段は何万段もあり、とても疲れる。基本的に夜中に数時間かけて上り、ご来光を拝んだら早朝下山する。でも途中でリタイアする人も多い』ということだった。夜中に階段を上るのはちょっと怖い感じだが。子供たちの遠足?の場所にもなっているようだ。実際は遠足ではなく、巡礼、各宗教の理解を深める、祈りを捧げるためらしい。ちょうど車を降りると、アダムスピークがくっきり見えた。思わず記念写真を撮る。

午後1時過ぎだったので、適当にレストランに入り、ランチを取る。フレッシュジュースが飲みたくなり注文。ここまで体調が回復したことに改めて驚く。チャーハンと焼きそば、そして野菜炒め。腹が減っているのでバクバク食べる。食べ終わると、また外へ出て山を眺める。『山がくっきり見える日は限られている』とのことで、我々はここでも幸運であった。

また車に乗り、茶園へ向かう。今回最後の訪問地、ラクサパーナへは、30分ぐらいで到着した。天気の良い日の午後、腹一杯昼ご飯を食べてしまい、眠気すら覚えた。2日間で10軒の茶園巡りは初めての私にはやはり堪えていたのだろう。正直もうお茶の味は覚えていない。1260mにあるこの茶園、歴史は比較的新しく、1954年に創業、他の茶園同様、1972年に国有化された、という記述が見える。従来イギリス資本で経営されてきた茶園が国有化されたことはスリランカ茶業の大きな転換点だっただろう。イギリスはスリランカからケニアに拠点を移し、現在ケニアでは大量に安価な茶が生産されていると聞く。その品質も向上してきており、今やセイロンティを脅かす存在になってきている。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(5)スリランカ紅茶の新たな発見

2月9日(火) スリランカ紅茶の新たな発見

翌朝は早くに目覚める。鳥のさえずりが少しうるさい。取り敢えず起き上がると、お約束のお散歩へ。かなり涼しいのでジャンパーを羽織っていく。昨晩は暗くてよく見えなかったが、このロッジ、建物の壁は最近塗り替えられているようだが、シックでかなり良い雰囲気。広い庭には花が咲き、木も植わっている。そこから出ていくと、茶畑が広がっている。若葉がせめぎ合うように葉を上へ、横へと突き出していく。この若々しい雰囲気がお茶のシーズンであることを実感させる。周囲はいくつか、建設中や改修中の家があり、乾季であることを思わせる。更には下には大きな病院があるが、そこはまだ開業していないという。だが人はそこそこいて、散歩途中なのか、休息していた。

午前7時には朝食が始まる。まずはフルーツが出る。なんだかラマダンの時の新疆の食事を思い出す。急に胃袋に食物を入れると体に悪いという配慮からだと聞いたが、ここにもそんな習わしがあるのだろうか。そしてオムレツとソーセージ、パンをふんだんに食べる。これまで食べられなかった分、今朝はいつにも増して軽快に食べていく。体が楽になったことで活力が大きく増してきていた。自分でも驚く。紅茶もディンブラのお茶だと思われたので、試飲ではできないミルクティを作って飲んでみる。少し濃い目の渋みにミルクが調和していた。

8時過ぎにロッジを出て、わずか10分後に今日最初の訪問地、ストックホルムに到着した。アップコートバレーという地名にあったが、なぜストックホルムというのだろうか。スエーデンと何かゆかりでもあるのかも?今日は昨日よりは日程がゆっくりしているので、テースティングの準備がまだ整っておらず、私にはちょうどよい茶工場見学の機会が与えられた。何しろ昨日は殆ど試飲の連続で、ゆっくり工場を見る機会もなかった。ただ現在スリランカでは原則として茶工場内の写真撮影は禁止されているとの話もあったので、何となく外から眺めたのだが、Yさんが『茶葉を繰るあの工程は手作業だね』などと解説を入れてくれる。基本的に自動化が進んでいる紅茶製造だが、一部作業が人間によるものになっている。

その間に着々と準備は進んでいったが、実際の試飲はあっという間に終わってしまう。本当に呆気ない。プロというものは一瞬で善し悪しの区別がついてしまうものなのだ。これには日頃の経験がものをいう。中国茶・台湾茶の世界ほど、茶の種類にバリエーションがないことも、関係しているかもしれない。しかもクマさんのようにスリランカ紅茶だけを扱っている、というのはある意味でとても強い。専門性は重要な要素になっている。ここではBOPが美味しく感じられた。そしてもう1つ、ダスト1に一票を投じてみた。ダストというと『カス』というイメージがあり、美味しくない茶葉、低級な茶葉だと思い込んでいたが、このダストにも分類があり、今回飲んだダスト1は、これまでにない、渋みと微かな甘み?を感じた。中国などでも例えば白茶では白牡丹は寿眉より高級だと言われているが、美味しい寿眉もたくさんあることを経験から知っていた。それに近い感覚があった。消費者も名前だけに騙されず、思い込みだけで買わずに、キチンと試飲して選ぶようにすれば、経験値が上がっていくように思う。

ストックホルムを出ると茶畑が広がっていた。今日も天気が良く絶好の茶摘み日和だった。基本的に茶作りは天気が勝負だった。明日以降は雨が降る可能性があると言われており、『今回の日程はベストのタイミングだった』とクマさんが胸をなで下ろしながら、言っていた。日本の紅茶関係者でもこの後買付に来る人々がいるようだったが、『一度雨が降ったら、良い茶ができるまで2-3週間待つべき』だそうで、実際に2月中旬の予定を3月はじめてに変更した茶商もいたようだ。本当にお茶のビジネスは難しい、とつくづく思う。工業製品なら機械の良さや自社の品質管理などで補える部分も多いが、お茶のように農業と工業の組み合わせでできる物は、自然の摂理と人間の柔軟性に、その品質が委ねられており、一筋縄ではいかないものだ。

次の訪問先、グランビラもすぐ近くにあった。今日はディンブラだけの訪問であり、何となく楽な感じで来た。買付は引き続き、緊張の中で行われていたが、私とYさんは少し開放感に包まれ始め、自由に外を歩きだす。そして必要な時はマネージャーなどに質問する形式になっていった。ここでは実際に工場長が親切にも工場内を案内してくれた。基本的に紅茶工場に特に変わったところはなく、どこでも皆、同じ機械で同じ工程なのだが、一つだけYさんが気になるところを発見した。

それは選別機で茶葉を選別している中、さらに脇から何かが出てきて、籠に入っていく。これは一体なんだろうか?と聞くと一瞬戸惑った工場長だったが『これはオフグレードです』という。そんなお茶あるのか?よく見ると、何というか、確かに屑のようなものが横から出てくる。オフグレードとは文字通り、グレードが付かない、という意味だろう。ではなぜここで籠に入れているのか。単なるゴミ集めなのか?その辺をYさんがどんどん突っ込んでいくと、ついに耐え切れなくなった工場長が『これはこれで売れるんです!』と。『どこに??』、え『ヨーロッパの有名な紅茶屋さんとか??』。実はこのお茶、ティバッグなどに混ぜる物らしい。単に量をかさ上げするのではなく、これを入れると風味が増す、というからお茶は本当にわからない。いわば隠し味をこんなところ見付けてしまった訳だ。紅茶関係者の方々はご存じなのだろうが、私にはちょっと刺激的だった。

一度気になるとどうも気になるのがダストというお茶。ここでもダスト1に注意力を特に払って飲んでみる。なんかふくよかな香りを感じてしまい、テースティングした茶葉の中で、これが一番うまい、と思わず叫んでしまった。ダストとかオフグレードとか、何だか分らない蔑称?が付いたものをもう一度見直そうと思う。それがそこで生き抜いてきた理由、事情はとても面白い話なのかもしれない。人間は最高のものを求める傾向があるが、それだけでつまらない。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(4)初めていくディンブラの茶園

4.ディンブラ  ディンブラの茶園

午後の日程はまだまだ続く。これは結構きつい。私の旅はそこそこハードだと言われるが、今日は特にきつく感じられた。体調のせいだろうか。ヌワラエリアをあとにして、次の茶産地であるディンブラへ向かう。ディンブラとヌワラエリアは隣同士で距離は近い。30分でデスフォードという茶園に到着した。その茶園、名前が書かれたボードの脇から道が登っていたが、『道が悪いのでここから先は徒歩で行く』というルアンさんの言葉に全員が車を降りて、歩き出す。確かに道はかなりデコボコ、穴が開いているとこもあり、補修というものが全くなされていない。なぜこうなっているのか。

茶園はそんなに儲かっていないのか?実は他の茶園でもこのような状況のところがいくつもあった。『自分で直せるなら、とっくに直しているよ。とにかく茶葉の運送も大変なんだから』という声を聞き、なんだそりゃと、益々訳が分からなくなる。『スリランカの茶園の土地は国が所有しているところが多い』というのがその答えだった。それなら中国は当然そうだし、台湾でも茶園の撤収騒ぎが最近話題になっている。ただスリランカの場合、紅茶栽培は国の重要産業であり、国家のコントロールで行われていると言ってもよい。国が所有する土地の道路を勝手に補修することも出来ず、さりとて国の予算はかなり限られている。大きな道路の整備改修が優先されており、こんな小さな道まで手が回らないのが実情だろう。ようは金がないのだ。茶園が自らお金を出して補修したいと言ってみても、その認可はすぐにはおりないという不思議な現象もあるという。この辺は実に社会主義っぽい対応になっている。

まあそのお陰で、車から降りて、散歩がてら、気持ちの良い風に吹かれて、茶畑の中を歩いて行ける。その距離およそ1㎞。ちょうどよい運動であり、なんとも幸せな気分になった。茶畑では新芽が出ている物もあり、花が咲いている物もあった。かなり歩いていくと、遠くに茶工場が見えてくる。茶摘みが行われているのが見える。終わった女性が、籠を頭において、ゆっくりとこちらに歩いてくる。何とものどかな光景がそこにあった。ただクマさんの戦いは続いており、タラタラ歩いている我々をしり目に、どんどんの工場に突き進んでいった。

この工場は標高1385mと表示されていた。1936年創業、タラワケレというブランドで紅茶を販売している。先ほどランチで飲んだティバッグは何とここの製品だったのだ。その後もこのブランドは何度も見かけており、スリランカでなお馴染みのもののようだった。こちらでも我々の到着を待っていてくれ、すぐにテースティングが始まった。ヌワラエリアのお茶はいかにも高山茶という感じの香りがあり、茶色が薄かったが、こちらはどれもそれに比べると濃い目であり、香りというよりは味がしっかりしていた。『ミルクティ向きなんだよ』と言われて、なるほどと思ってしまう。試飲用の茶葉が少量、紙に包まれて置かれている光景が何とも微笑ましい。

ここデスフォードのお茶は、ここ2-3年で急速によくなっているという評価のようだった。やはりここもマネージャーが交代して、品質が高まったらしい。マネージャーとは一体何をしている人なんだろうか。工場長は別にいるのだから、茶の製造には直接かかわらず、経営をしている人、という印象を勝手に持っていたのだが、どうやら少し違うらしい。イギリスにおいてマネージャーという役職はある意味で全ての責任を負っている。長らく英国植民地下で紅茶作りが行われてきたスリランカは、この点で英国式の伝統を受け継いでいる。

だからマネージャーの権限は大きく、この茶園のすべてを負っていると言ってもよいかもしれない。スリランカの茶園はある意味で国策工場が多いから、マネージャーにもサラリーマンのように定期異動があり、ウバからディンブラへと言ったように地域を跨いで転勤になることもあるという。茶葉を摘むタイミングから、寝かせる時間、製茶の技法まで、マネージャーのやり方、考え方がその茶に現れてくるというのだ。そして香りや味に変化が確実に出る。実に面白い。確かにこの工場で作られたBOPはしっかりしている、という印象を私に与えた。

帰りもまたデコボコ道を歩いていく。来た時は、デコボコに思えた道が、なぜか平たく感じられた。そしてディンブラという、初めてきた土地に親近感を持った。ヌワラエリアは高地の優等生で、その価格も高い。一方ディンブラは一般的には一段低くみられており、ミルクティの原料という印象だったが、実は指導者や生産者によって、そこは十分に挽回できるものだ、ということがよく分かった。ホンのわずか離れているだけのこの2つの地域、やはり来てみないとわからない。今回の訪問ではディンブラが明らかに優勢だった。と言っても、それは私の勝手な感覚で、元々違うものを比較してみて仕方がない。昨年と比べてどうかという方が大切なようだ。

そこから30分ぐらい山道を行くと、そこにも茶園があった。駐車場に車を停めたが、その工場には入らない。既に時刻は夕方5時を過ぎ、徐々に日が傾いている。しかしなぜか皆タバコなどを吸っている。テースティングの準備でも待っているのかと思っていたら、なんとパジェロが迎えに来た。これから訪ねる茶園はここではなく、ここの山の上にあり、普通の運転では行けないので、迎えを頼んだことが分かる。そしてマネージャーが自らやってきたというわけだ。茶畑も急斜面にあり、短時間ながら相当標高が上がった。

グレートウエスタンというその茶園は、確かにすごいところにあった。茶工場の階段をのぼり更に2階へ。そしてテースティング。ここで面白かったのは、室内に茶葉が置かれていたのだが、それは白茶を作っているところだった。インドでもホワイトティと言って、白茶を見たことがあるが、ここではシルバーチップという目の部分が使われていた。更には烏龍茶も作ってみたというのだ。飲んでみると正直、味も香りもまだまだだと思われる。クマさんがポイントをアドバイスしており、マネージャーは真剣に耳を傾けていた。

そして紅茶の粉末を固めてコインの形にした物まであった。そのデザインは100年前に実際に作られたこの茶園のものだという。この茶園も創業は1880年となっている。従来のやり方ではじり貧になるという危機感があるこの茶園の試みは、基本的にコロンボのオークションに出荷してそれで終い、という従来の茶園経営からはみ出しているかもしれないが、今後の参考になることは間違いない。

ついに今日のすべての日程が終了した。1日で茶園を6軒回る。それがどんなに大変なことか、身を持って体験した。クマさんは1年に1回、これを続けて20年近くになるようだ。好きでなければできないが、好きなだけでもできないと思われる。これはあくまでもビジネス、出張なのであり、私がやっている茶旅とは根本的に違うのである。だがそこに同行させてもらえたことは、いくつもの新たな発見を私にもたらしてくれた。

グレートウエスタンから車で1時間ちょっと、既に暗くなった山道を走っていくと、そこに瀟洒なロッジがあった。ここが今日の宿だった。部屋は広く、如何にも別荘という感じだった。食事も中のダイニングで頂く。我々は到着が遅れたので、ルワンさんがすでに食事の手配をしてくれていた。この時点ですでに私は、体調を気にしなくなっていた。驚くべきことに完全に復調してしまっていた。そして肉も野菜もバクバク食べて、全く問題がなかった。今日1日、尋常でない疲れがあったはずなのに。しかも朝は絶不調だったのに、私の体に何が起こったのだろうか。ある人曰く『茶園が心も体も健康にしてくれる、そういう効果が茶にはあるんだ!』と。

このロッジはある銀行が保有しているらしい。昔はイギリス人の別荘だったのだろう。山の中なのにネットもサクサク繋がる。でもそんなにPCに前にはいなかった。クマさんとルアンさんは、リビングに当たる場所でゆっくりとお酒を飲んでいた。そんなことが絵になる場所だった。そして何よりも涼しい。気持ちが徐々に静まり、周囲の静けさも相まって、大きなベッドで心地よい眠りに就いた。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(3)残念なヌワラエリア

ようやく朝日がまぶしくなった頃、RAXAWAを辞して車に乗る。周囲の茶畑も輝いて見える。それからキャンディ市内の湖の脇を通過して、約2時間後にロスチャイルドに到着した。ここは日本でも名前を聞く有名茶園。1839年に研究所が置かれたと書かれているが、これはちょっと早すぎないだろうか?スリランカ紅茶の初期からある。ちょうど摘み取られた茶葉が運び込まれてきて、活気が出ていた。茶葉は少し大きめで、色が鮮やかだった。生葉、という雰囲気がよく出ている。茶園の朝、という感じだった。

ここでもすでにテースティングの準備は終わっていた。全て凄腕ルワンさんのアレンジによる。今日は何と1日で6軒の茶園を回るというのだから、これぐらいしないととても回り切れない、ということだろう。このテースティングに使う茶葉の量を計る秤が実にレトロでいい。マニア垂涎の的、ではないだろうか。勿論欲しいと言っても譲ってくれるとは思えない。台湾や中国では今や機械で測るのだが、こちらの伝統的な雰囲気を良しとしたい。因みに試飲した後に吐き捨てるツボ?も何となく格好がよい。

ここは伝統的な工場だったが、1992年にCTC専門に転換したという。これはキャンディの茶葉が衰退していった時期と重なるのだろうか。ここではBPがいいな、と思った。またダストはパウダーミルクを入れてキリテーを作るとどうか、という基準で選定が進んでいた。私には全くわからない分野だ。茶葉を販売するだけでなく、喫茶としてお茶を提供するクマさんにとって、店で出すお茶も重要になってくる。またワッフルとの相性などにも頭が巡っているかもしれない。このような感覚が、紅茶の普及に貢献していると思うのだが、中国茶・台湾茶には店で出す茶、という発想はあるだろうか?はたまた日本茶にはそんな考え方すらないのではないか。

まだ午前中だが、ヌワラエリアへ移動する。途中道端でYさんがルアンさんに何か言って車を停めた。良質のハグル(孔雀ヤシ)を買うのならここだ、という。そこでは既に出来上がって、木のお椀に固まり付いたハグルが売られていたが、Yさんはそれには満足せずに、ズカズカと家の中に入っていく。するとまさに現在制作中のものがツボで煮られていた。まだ固まっていない柔らかな物を買う。1つ、400rp。食べてみると、見た目と違い甘さは控えめ。これを舐めながら紅茶を飲むと美味しいというのだが、どうだろうか。

3.ヌワラエリア  ティブッシュでランチ

キャンディから標高の高いヌワラエリアへは車で2時間ぐらいかかる。途中でランチを食べると言って車が停まった場所は実におしゃれなレストラン。ティブッシュという名前で、宿泊施設もあるようだった。建物に入ると、向こう側の大きな窓の向こうに、茶畑が見えていた。景色がとてもよい場所だ。レストランは2階にあり、登っていくと、客は殆どが中国人の団体ばかり。まあ、それほど煩くはなく、行儀の悪人もいなかった。食事はビュッフェスタイルで、中国人が食べやすそうな、中華系料理も並んでいた。団体さん用というのがちょっと残念。

なんだか昨晩に比べるとかなり元気になっていた私、腹が減っていたが、ここで大食いは禁物と自分を戒める。実は今朝は6時半にホテルを出たため、朝食はランチボックスでサンドイッチとバナナだったが、ほぼ手を付けていない。水も飲まないようにして、体調を整えていたが、美味しそうな野菜スープがあったので、よそって飲むと、これが想像以上に美味しく、すぐにお替りした。そしてパンを食べ、野菜炒めや焼きそばなどにも手が伸びた。ついにはデザートとして禁断のフルーツにまで。自分でも大丈夫かと危惧したが、なんとその後も問題がなく、体調はどんどん回復していった。これは『茶畑を見ると元気になる』というお茶効果だ、と言う説あり。

食後は少し周囲を散歩した。と言っても建物の周りをまわり、広大な風景を眺めただけだったが、心もかなり回復してきていた。やはり素晴らしい景色を眺め、美味しいと思うものを食べ、そしてお茶を飲めば、病も癒えるということか。因みに紅茶はディンブラのティバッグだったが、先ほどキャンディであれだけお茶を飲んだのに(実際には口に入れて吐き出してはいるが)、これも美味しいと感じてしまう。

ヌワラエリアの茶園

食事を終えて出発。1時20分頃、コートロッジに到着した。ここは一時日本人に騒がれ、有名になった茶園だそうだ。標高も2300m近く、かなり涼しく感じられた。クマさんは過去の相性が悪かったそうで、数年ぶりの訪問だったようだ。買付に来るタイミングとよい茶ができているタイミングが合っていないといくら良い茶園でも、買付できないという。何も知らない私はもちろん初めて。ここでも予めテースティングが用意されており、すでに試飲が始まった。だがあれ、と思うぐらいに、すぐに終わってしまい、私がモタモタと試飲している間にも、クマさんたちは外へ出てしまい、マネージャーと何か話している。タバコでも吸いに行ったのだろうか。

どうやら特に特徴のあるお茶には出会わなかったようだ。キャンディでは『今年のお茶は出来が良いな』と感じていたようで、それならばと、ヌワラエリアのお茶には更に期待が高まったが、その期待が外れてしまった、という感じらしい。当然ヌワラエリアのお茶の価格は高地のため安くはないので、購入しても捌けない可能性が考慮されていた。そうなるともう用はなく、さっさと立ち去る以外に道はなかった。何とも厳しい世界だ。

続いてペドロに向かった。標高1900m、1885年創業の老舗で私は4年前もここを訪れていた。その時の印象はかなり良く、茶畑が広がる景色も素晴らしく、お茶も美味しかった。その時は車で裏から入ったため、労働者であるタミル人が住む住宅やヒンズー寺院も見て、スリランカ茶を支えている物を見た思いだった。工場や喫茶ルームは相変わらずにあったが、そこで売られている物にはちょっと違和感があった。よく見ると、ペドロというブランドは完全に消えていた。聞いてみると、現在はマーブロックグループの傘下に入り、茶工場として機能しかなくなっていた。製品としてはマーブロックという名前で売られている。これはなんとなく残念だった。

テースティングルームには沢山のお茶が並んでいた。ペドロのお茶を飲んでみたが、4年前ほどの美味しさは感じられなかった。マネージャーが交代した、という話もあったし、企業の傘下に入れば経営方針も変わるだろう。天気が良かったので期待していたが残念ながらここも外れのようだった。むしろ遠方のために行くことができなかったウッタダルラのサンプルがここに持ってこられ、一緒に試飲したのだが、こちらの方が良い印象を受けた。ヌワラエリアの茶園は2つしか回らなかったので、茶葉入手は別の方法を考えるらしい。

疲れたので、喫茶ルーム、ラバーズリープでお茶を飲む。以前は沢山いた観光客も減っているようだ。ペドロの歴史が示されていた展示物も撤去されており、寂しくなっていた。スリランカ紅茶の父、と言われるジェームス・テーラーゆかりの茶樹を起源としているこの茶園は今後どうなっていくのだろうか。スリランカにおいてはマネージャーの交代が大きな節目になるようで、次に期待、ということだろうか。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(2)朝7時から始まる買付

4時頃には飽きてしまい、またレストランへ上がっていく。まだお掃除は完全に終わっておらず、おばさんが『また来たのか?』と嫌な顔をしたが、お構いなしに席に着いてしまった。そしてまたティバッグ紅茶を頼む。ボーっと1時間ぐらい座っていると、今度は腰が痛くなり、座っているのが辛くなる。そしてまた1階へ降りていく。そして到着ボードを何となく眺めると、なんと東京から来るランカエアーが1時間ほど遅延となっている。えー、まだ待たなければいけないのか。驚きで、ちょっと声も出ない。

その間にも中国や中東から続々とフライトが到着し始めた。今日正月休みで中国人がドーッと来るかと思っていたが、それほど多くは見受けられない。私の横に立っていたスリランカ人ガイドに聞いてみてみても『中国人の数はいつもと変わらないよ』という。その横にいた日本人が声を掛けてきた。旅行会社の人で誰かを探していたらしい。それは人違いだと日本語でいうと、さらにその向こうにいた女性が、急に私の名前を呼んだ。ここに知り合いなどいないのでビックリした。彼女は今回クマさんと一緒に茶園巡りをするのだと言い始めた。今回他に同行者がいることも全く知らなかった。これもまた私の茶旅らしくてよいかと思う。

思わず、『紅茶好きの方ですか?』と聞くと、曖昧に笑う。後でわかったことだが、このYさん、スリランカとは30年以上のかかわりがあり、日本スリランカ友好協会を仕切っている重鎮であるらしい。更にはスリランカ紅茶のお店も日本に持っており、紅茶好きどころか、スリランカをもっともよく知る、有名な日本人だったのだ。そんなことも何も知らずにとんでもなく、失礼してしまった。とにかく退屈だった時間が、Yさんの出現で、かなり楽しくなった。何しろ彼女のところへはガイドさんなどスリランカ人が何人も挨拶に来る。その情報から、『誰がいるスリランカに来るか』も分ってしまう。そして茶商兼今回のガイド、ルワンさんも何でも知っており、頼もしい限りだ。というより、私が知らないだけで、後の3人はスリランカと紅茶に非常に詳しいということだったのだ。

成田からのフライトは結局20分程度の遅れで飛んできた。有り難い。そして人が降りてきたが、クマさんはなかなか登場しない。その前に日本人の団体がやってきたが、女性たちがYさんの方に皆で挨拶に来る。日本紅茶協会の研修旅行らいしい。Yさんの顔の広さが出てきた。更にはランカエアーのCAまでがやってきた。日本語のできる彼女はよく東京線に搭乗していて仲良くなったという。この人は一体なにものなのだろうか、なんとも不思議だ。そんなことを考え始めた頃、ようやく重そうな荷物を押してクマさんが、苦笑いしながら出てきた。ここまで約7時間、やはり長かったが、まずは合流できて本当によかった。

2.キャンディ  車でキャンディへ

クマさんはルアンさんの先導で、そのまま荷物を押して車に乗り込んだ。さてどこへ行くんだろうか?私はある程度の予定はメールでもらっていたが、実はほとんど見ていなかった。全てをクマさんに任せるつもりでいた。それが楽だし、クマさんの仕事の邪魔にならないことを第一に考えていた。まあ、どこへ行こうと私にとって新鮮であることは間違いがない。今晩は空港からキャンディまで走り、そこで泊まるという。キャンディまでは3時間ぐらいだろうか。体調はたぶん問題ないとは思うが、一応心配ではあった。

午後8時半頃、レストランで夕飯を取ることになった。だがそこはかなり薄暗いバー。スリランカにもこんな店が増えているという。食事がなかなか出てこない。私は全く食べずに、ミルクティだけを注文したが、それもなかなか出てこない。それはそうだろう、バーでミルクティを頼む方がどうかしている、という感じだった。しかし仕方がない。出てきたティを啜ったが、味は今一つだった。

夜の暗い、うねった山道を車は走っていく。10時半過ぎには車が止まり、今晩のホテルに到着した。思ったよりはずいぶん早かった。どうやらキャンディ郊外の街道沿いのホテルのようだ。きれいな部屋に案内される。熱いシャワーを浴びる。さすがスリランカ、部屋にはちゃんとお茶を淹れるためにポットやカップが備えられていた。紅茶を淹れて飲むと落ち着いた。疲れはあったが、少し興奮状態で、寝にくい。PCとカメラの充電を行うために、アダプターを差そうとしたが、うまく入らない。仕方なく、スタッフに声を掛けて、差し込んでもらった。ネットは簡単に繋がっており、スマホでも繋がっていた。寝たのは午前1時ごろになっていた。

2月8日(月) キャンディの茶園

6時半にホテルをチェックアウトして、出発した。今回訪問する最初の茶園に朝7時15分には到着した。こんなに早い時間に行くとは思わなかったので、まずは驚く。買付とはこんなに朝が早いのか。そして更には行った場所にも驚いた。それは2年前、前回ご縁で行った茶園の帰りに何気なく寄ったパンレイのRAXAWAだったのだ。前回来た時は突然茶園に踏み込み、茶工場を見たいとお願いしたこともあり、その時の従業員の対応は今一つで、お茶も飲めず、正直あまり良い印象は持っていなかった。

だが今回は事前にアレンジされており、オーナーがちゃんと朝から待っていた。ここはプライベート企業であり、父親が始めた茶園を若い息子が継いでいる。そしてテースティングの準備として、数種類の茶葉が置かれ、茶が淹れられていく。そこにクマさんが次々にテースティングしていく。そのスピードは恐ろしく速い。口に含んでは吐いていく。それを数回繰り返し、『OK。分った』と言って、テースティングは呆気なく終了した。それからルワンさん、Yさん、そしてオーナーもテースティングし、どれがよいかを話している。

その間に私も飲ませてもらった。正直私がよいと思うものとクマさんがよいと言ったものは結構違っていた。やはり私には紅茶は分らないんだな、と思ってしまったが、後で聞くと、『紅茶が美味しいかどうかというより、売れるかどうかが決め手だ』という。当たり前と言えば当たり前のことだが、ようは商売でやる場合は、お客さんに好まれるかどうか、価格が妥当かどうか、どうやって飲ませるか、で決まるようだ。紅茶好きは商売ができない、とも言われているようだ。美味しい物だけを買ってきても在庫が増えるだけらしい。自己満足が一番よくないという。とても勉強になる話だ。ここでペコダストというのを初めて飲んだが、面白い味だった。この旅では、『ダスト』の美味さに気が付くことが多かった。これも自分の幅を広げる実によい機会だった。

この茶園は標高1500m近くにあると思われ、ミディアムグローンのキャンディというイメージからは少し遠い。CTCとリーフの両方を生産しており、プライベートらしく、独自色を出そうと試みている。オーナーの父も出てきて、様子を眺めている。実質的には彼がまだオーナーなのだろう。一代でこれだけの工場を開いたのだから、それはやり手なのだろうが、実に温和な笑顔が印象的だった。

スリランカ紅茶の買付茶旅2016(1)コロンボ空港で7時間待つ

《スリランカ茶旅2016》  2016年2月7日-2月14日

スリランカには過去2回ほど行き、高僧スマの案内もあり、茶畑も見学していた。そしてスリランカ社会に潜む様々な問題点を見ることも出来、とても有意義だった。だが茶旅的には何か物足りない。そんな時、紅茶が専門のKさんから『青山にスリランカ紅茶専門店がある』と聞き、一緒に行ってみることにした。外苑前で降りて、陸橋を渡っていた時、何となく見覚えのある建物があった。そこはなんと私が40年以上前に1年半ほど通った小学校だった。普通は見えないのだが、オリンピック景気か何かで青山通り沿いのビルが取り壊され、その隙間から覗いていた。

その紅茶屋さんにとてもご縁を感じており、その後も色々とつながりがあったのだが、昨年後半にお店がお引越し。その新店舗は何と私の本籍地のすぐ近くだった。相変わらずご縁がある。そこへ行くとマスターのクマさんが『2月にスリランカに買い付けに行くよ。とても快適なロッジに泊まるから来たら』と言ってくれたので、その気になる。ただ買付は真剣勝負であり、出発日も1週間前にしか決まらない。果たしてスケジュールは合うのか。

今回ミャンマー、ラオスの茶旅で激闘を繰り返していたが、その途中でスリランカ入り日程が2月7日に決まった。ネットが繋がりにくい中、そして旧正月だったが、何とかバンコックからコロンボまでのフライトを確保した。そしてすでに書いてきたとおり、這ってバンコックに戻り、体調が悪化、絶不調の中、その日を迎えることになった。

2月7日(日)1.コロンボ  コロンボ空港で7時間待ち

バンコック発朝9時のランカエアーに乗るため、絶不調の中、何とか起き上がり、文字通り這って空港まで行く。日曜日だったので道路は空いており、すぐに到着したが、チェックインカウンターは予想以上に混雑していた。旧正月ということか、コロンボに行く人は予想以上に多い。カウンターで『あのー、もし夜の便に振り替えて頂ければ』と言われたが、私は空港で待ち合わせがあり、夜の便では間に合わないので即座に断ったのだが、もし受け入れていれば、どんな特典があったのだろうか?そんなことを聞く余裕もなく、イミグレへ進む。ここも大混雑。

空港では春節飾りがまぶしかったが、私はポカリスエットを探し回っていた。ドムアンには売っているのだが、ここにはなかった。調子が悪い時にはポカリが一番だったが、それがないとなるとかなりガッカリ。飛行機に乗っても、ひたすら熱い紅茶を飲むだけで機内食もすべて断った。気を紛らわすために映画を見たが、日本の映画はなぜか『猫侍』という時代劇だけ。仕方なくそれを見てみたが、昨今の猫ブームに便乗した映画にしか見えず、何のためにこんなものを作ったのか、皆目見当もつかない。ただ猫侍が南の島へ行くというのが、このフライトにマッチしていた。

午前11時半の定刻にはコロンボに到着。ネットでビザ申請しており、実にスムーズに入国で来た。それにしても時間があり過ぎる。東京から来るクマさんの到着時間は午後6時、それまで一体どうすればよいのだろうか。まずは両替所で米ドルをスリランカルピーに替える。何となく米ドルの価値が上がっているように思われた。私以外の欧米人は、殆どが両替所を素通りして、ATMの前に長い列ができる。今や現金を持ち歩かずに、キャッシングなどで現地通貨を調達するのがごく一般的になっている。日本の空港もそうなのだろうか?

次に向かうのは携帯のシムカード。以前スリランカではシムを買うのも大変だったのだが、ブースをちょっと覗き込むと、何と電話だけでなくインターネットも出来ると書いてある。しかも中国語表示もある。出迎えのガイドに連れられて、欧米人も中国人も、中には日本人女性も、皆がシムを買い、スマホに入れて、街へ出ていく。少なくともこの2年でスリランカはこの分野では、確実にそして、急激に変化していた。私も1600rpを出して、1枚買ってみた。本当に繋がるのか不安だったが、見事に繋がった。これでWi-Fiも不要。これからの時間つぶしに有効だった。だが、この空港には電源がない。

一旦外へ出てしまうと、再度入れるのかどうかさえも、分っていなかったので、ここでクマさんの到着を待たなければならない。コロンボまで行って帰る時間は十分にあるのだが、何しろこの体調の上に、荷物も持っており、正直身動きが取れない状態だった。それに外は相当に暑そうだ。この小さな空港の到着ロビーはエアコンが効いており、椅子はふんだんにあるが、そこに座っていても仕方がない。トイレに行こうとして、中2階のようなスペースに、レストランがあるのに気が付いた。食べ物を食べられる状態ではないが、美味しい紅茶が飲めるかもしれない。確か出発ロビーでは、紅茶専門店が出店しており、100rpもするが、ウマい紅茶が飲めたのを思い出す。

そのレストランはかなり簡易だった。そして空港職員が立ち寄るような場所だった。当たり前だ、観光客はすぐに空港を離れるのだから、ここに来るのは職員かお客を待つガイドたち。そんなに立派な施設を作る必要がない。そして紅茶はあったが、残念ながらティバッグだった。1杯、25rp。決してうまいとは言えないが、何となく水分補給にはなる。カップは小さいので、すぐに無くなってしまい、カウンターでお湯を入れてくれるように頼むと、ちょっといやな顔をしたが、お湯は入れてくれる。基本的にインスタントコーヒーを作る機械からお湯を出す。

ちょうど昼時になり、職員がランチにここを使っている。弁当箱はなく、紙に包まれた弁当を広げるので見ていると、中は大量のご飯、そして鶏肉などのおかず。それを美味しそうに手で食べる。1時過ぎには席がないほど、皆が集まったが、外国人である私を排除はしない。私も紅茶が無くなったので、今度はインスタント紅茶である、ネスティを頼んでみる。ティバッグより高い40rp。当たり前だが異常に甘く、これはこれで腹にはよくなさそうだった。

午後3時頃まで、旅行記などを書いていたが、ふと気が付くと、周囲には誰もいなくなっていた。そして掃除のおばさんがこちらを睨んでいた。テーブルを動かして掃除を始める。私のところにも来て、『あっちに行け』という感じで、テーブルをどかしてしまった。確かにここは24時間営業のようだし、いつ掃除するんだろう、とは思っていたが、この時間はフライトなどがないのだろう。仕方なく、1階に行き、何をするでもなくブラブラしていた。

スリランカご縁の旅2014(9)キャンディ ホロスコープ

占い師

夕方スマから声がかかる。オートリキシャ―がやってきたので乗り込む。ちょうど雨は上がってきた。どこへ行くのかと思うと隣の村あたりの民家。何とこの家は占い師の家だという。ホロスコープ、私とは遠い存在だと思っていたが、興味津々で門を潜る。

意外にも出てきた当主は若い男性だった。2歳ぐらいの男の子が付いてきた。今回の占いの対象はスマの寺で見かける12歳の少年。彼は何らかの事情で寺に入ることを希望し、今は時々スマの教えを乞うていたが、今回正式に剃髪することになった。その髪の毛を切る日時を決めるため、やってきたのだという。

お坊さんが占い、などというと、日本では違和感があるが、ホロスコープは古代インドから非常に重んじられてきた星占いだという。スマは手元から紙を取り出し何かを告げる。少年の生年月日、そして生まれた曜日と時刻だという。日本では生年月日で占うという話がよくあるが、ここスリランカでは生まれた時間までが実に重要な要素となる。その為、病院の産婦人科の一番の仕事は『赤ちゃんが生まれた時刻、何分何秒までを正確に測ること』だというのだから、驚きである。私は自分が生まれた時刻を正確に知らないので、この時点でホロスコープは出来ないと諦める。

占い師は情報を聞いて、何やら本を取り出し、熱心に眺めている。そして1つの結論が出ると、それを紙に書いて渡す。『7月13日5時53分』と書かれたその時刻に、少年は剃髪することになった。事の成否は分からないが、何やら荘厳な物を見てしまったような気がする。

夜は早めにシャワーを浴びる。前回はお湯を沸かしてもらい、そのお湯を丁寧に使いながら、その大切さを体験したが、今回は湯沸かし器が備えられていて、お湯は自動的に出る筈だった。ところが壊れているのか、使い方が間違っているのか、一向にお湯が出ない。面倒なので水シャワーを浴びる。まあ世の中はこんなものだろう。

スマからモデムを借りてネットを繋ぐ。前回は接続にすら苦労したが、今回はスピードも上がっており、確実に機能向上している。静かな僧院の夜が、少し騒がしくなった気がした。

4月8日(火)学校の映画

寺は山の中にあり、かなり涼しい。特に夜は涼しいので、蚊帳があったが使わなかった。ところが昨晩はなぜか蚊が多かったようで、朝起きるとかなり刺されていた。私は思わず、飛んでいる蚊を叩きたくなったが、ここは僧院。そのような殺生は原則許されない。蚊は手で追い払うだけである。

日曜学校の隣には正式な小学校がある。今日はそこで生徒が映画を見る会があるというので、出掛けてみる。講堂には既に沢山の生徒が集まっており、映画も始まっていた。当然教育的な、また仏教関連の映画を見るとばかり思っていたが、何と上映したのは子供が主人公のコメディだった。魔法が使えるようになった少年が親の目を盗んで冒険に出る、そんなストーリーだが1時間半ぐらいの間、子供たちはずーっと大声でゲラゲラ笑っていた。

今の日本の学校でこのような映画上映は殆どないだろう。教育的見地や指導といった建前が求められ、何故それを見せるのか、が問われるはずだが、この学校では少なくとも『子供が楽しむ』ことを基準に映画を選んだに違いない。内容は別にして、子供たちも集中して見入り、健康的に笑う。

学校の事務室に招かれ、お茶が出された。先生に映画のことを聞くと『今日で学校は終了し、夏休みに入るから』だそうだ。そして『夏休みに入って喜んでいるのは生徒よりむしろ先生だ』という。生徒は家にいるより、学校に来る方が楽しいが、先生の負担は相当に大きいらしい。どこの国でも教育問題の原点は生徒よりも先生にある、ということだろうか。

空港へ

そして寺でランチを食べ、午後4時前には出発した。名残惜しかったが、スマは相当に忙しく、今日もシンガポールから来た友人とコロンボで会うため、私のフライトは午前2時だったが、少し早めに寺を出た。まあ空港まで5時間ぐらいかかるので、ちょうど良い、ということになった。

今日は快調に車が走る。途中でスマがサモサなどを買ってくれる。晩御飯の代わりにしろ、ということらしい。今は街道沿いにファーストフード系の店などができ始め、様子がかなり変わりつつある。我々からするときれいな店が増え、物を買うのも簡単になってきたが、果たして実情はどうだろうか。

なぜか今日は渋滞もなく、事故もなく、何と3時間で空港に着いてしまった。だがもう空港にいる以外仕方がないので、用事のあるスマと別れた。相変わらずあっさりした別れだった。空港でチェックインしようにも早過ぎた。何しろまだ7時間もある。空港内を一巡したがすぐに飽きる。どうやら私と同様の境遇の韓国人や中国語人が手持無沙汰に、椅子に座っている。スリランカはまだ時間が読めない国なのだ。行ける時に行っておかないで万が一乗り遅れそうになっても救済手段がない。

さすがスリランカ、と思わせるような紅茶屋が一軒あった。土産を買うだけかと思いきや、空港職員もここで茶を買い、その場で飲んでいる。1杯100pは高いが、紅茶は不味くない。

それにしても7時間は長すぎた。ネットも繋がらない。椅子に根が生えたと思う頃、ようやくチェックイン。それから空港内で更に2時間以上待った。ある意味、疲労はピークに達していたが、一人で寝込む勇気はない。最終的に搭乗し、あの寒いキャセイの機内で、爆睡した。翌朝バンコックに着くと、タイの正月、ソンクラーンが始まろうとしていた。

スリランカご縁の旅2014(8)キャンディ 日曜学校とハタレ茶園

日曜学校の表彰式

今回の訪問の目的、それはこのお寺にドネーションをすることだった。このお寺の書籍などを整理・保管するため、図書館を作ろうというのが当初の目的だったが、取り敢えず今回は書棚を作り始めていた。

そしてそれとは別にスマが1つのイベントを用意していた。寺の横には寺が所有する日曜学校がある。毎年成績優秀者を表彰するセレモニーを行っているが、今日がその日となっており、特別ゲストとして私が招かれていた。こちらにも先ほどの長老はじめ、数人のお坊さんが招かれ、一列目に座っている。

私が入っていくと可愛らしい少女が花輪を掛けてくれた。そして花が飾ってあるところに、お坊さんが一人ずつ蝋燭を捧げたので私もそれに倣った。セレモニーはまずスマが挨拶し、それから子供たちの踊りが披露された。民族舞踊、先生たちも入って楽器演奏も行われる。それからお坊さんが順番に挨拶、いや講話をし、その合間に子供たちが歌い、踊る。

そして時折、表彰が行われ、名前を呼ばれた生徒は前に出て、お坊さんの前で跪き、賞品を貰って下がる。プレゼンターもお坊さんから校長先生になり、また変わる。結構長い時間、表彰式は続く。最後の方に私も呼ばれ、プレゼントを渡した。私は握手を求めたが、握手する子、逃げ出す子、戸惑う子など様々。如何にも純朴な子供たちとの触れ合いは面白い。

最後に私に英語であいさつするようにとスマが言う。通訳は中学生の女子が務めたが、私がいきなりダジャレを言ったので、戸惑ってしまい、可哀想なことをした。それでもめげずに最後まで堂々と通訳してくれたのはエライ。その夜は疲れたので、夕飯を食べると早々に寝た。

4月7日(月)パンワラ ハタレ茶園へ

翌朝は少し早く起きた。朝飯を済ませると、スマが『ランチだ』と言ってサンドイッチをくれた。今日は茶園へ向かう。どのくらい離れた場所なのか良く分からないので、念のため持って行く。今回は茶園へ行くつもりがなかったが、先日ネゴンボの宿のオーナーの紹介があったため、行ってみることにした。

そこはキャンディとは言われたが、寺からはやはりかなり離れていた。車でキャンディの街方面へ行き、それから途中でまた山の方へと入った。山を登っていくと景色が素晴らしい。標高は相当に高くなってきた。

車で1時間半ほど乗った後、ついに目的地ハタレ茶園に着いた。実にクラシカルな場所、一目で気に入った。マネージャーの名前を出して案内を乞うたが、生憎不在だった。アシスタントマネージャーが対応してくれた。1925年設立のこの茶園、当初はイギリス資本だったが、現在中東資本に変わっており、利益を追求する姿勢が見られた。基本的に作った紅茶はコロンボのオークションへ出す。中東への直接の輸出も考えているようだった。

オフィスの横にはティルームがあり、観光で訪れた人に景色と茶を振る舞っていた。ここで飲む紅茶は景色のせいか、美味かった。窓から外を眺めると、気分は最高になる。ただ水不足のせいか、茶樹に元気がないようだった。これだけ高い場所で水がないとなると生育にも大きな影響が出ているのかもしれない。

こちらはロッジも運営しており、ここから少し離れた場所に泊まることも出来るらしい。恐らく欧米人が単に大自然の中で過ごす、というようなコンセプトでやってくるのかもしれない。私もいつかそんな境地になった時、また来てみたい場所だ。

帰りがけにもう1つの茶工場を見つけたので寄ってみる。いきなり行っても見せて貰えないかと思いきや、片言英語のオジサンが工場内を案内してくれた。1934年の設立、ここは先ほどのハタレよりも規模が小さく、収穫量もさほどでもない。全てオークション用に茶葉を砕いていた。こちらは試飲できるスペースもなく、茶葉を売っている訳でもない。オジサンに茶葉のサンプルが欲しいというと、案内料を請求されたので、ちょっと支払い、少量のサンプルを貰った。この案内はオジサンの暇つぶし、小遣い稼ぎだったようだ。

午後2時半頃には寺に帰り着いた。折角のサンドイッチは寺の部屋で食べた。午後はボーっとしていると雨が降り出した。

スリランカご縁の旅2014(7)キャンディ 法事に同行する

4月6日(日)リリーバレー茶園

寺に来たが特に用事がある訳ではない。今朝は早くから起き、散歩に出る。相変わらずヒンヤリとした山間の環境。コロンボより断然いい。前回も歩いた道、リリーバレー茶園を目指す。前回は入口までで引き返したが、今回は茶園を見ようと、頑張ることにした。

今は真夏、朝と言えども日差しは強い。茶園の茶樹も水が欲しそうに下を向いている。かなり厳しい状況だ。勿論茶摘みをしている人はない。リリーバレーと書かれた所を下ってみる。ところがいくら行っても茶園もないし、工場も見えない。途中には結構立派な家が並んでいたりする。

どうやらこの集落は以前茶園関係で働いていた人々の家らしい。今キャンディの茶業はかなり廃れたと聞く。この辺も完全に止めてしまっているのだろう。相当に歩き回ったが、迷子になりそうで断念した。

元の場所に戻ると、そこにはロッジの場所が示されていた。奥に門があり、そこを潜ると工事している人がいた。更に奥に行こうとすると管理人らしきオジサンが出てきた。見学したいというと、案内してくれた。

ここは昔茶園マネージャーのロッジだったらしいが、現在改装中。これからは外部の客も入れる、実質的には高原のホテル、のようにするらしい。確かに見晴らしの良い場所に建物を建てている。ここからなら下が一望できる。一部茶園も見える。帰りもまたトボトボと、歩いて戻る。

法事に同行

寺に帰ってみると、ちょうどスマたちが出かけようとしていた。どうやら近くの檀家の家の法事に行くらしい。お前も付いてくるか、と聞かれたので、付いて行くことにした。でもお坊さんの仕事に私のような者が付いて行って大丈夫なのだろうか?

車で5分ぐらいの家に行く。既に親族が集まり、他の寺からもお坊さんが呼ばれてきていた。我が寺の95歳の長老がご出馬し、皆が出迎えに来た。家の中に入ると、お坊さんは皆並んで座り、在家さんは下座に座っている。私も下座からお坊さんを見上げた。スマが最初に声を発し、読経がスタートした。下手の人々も熱心に祈りを捧げている。その後老師の講話があり、スマも補足する。すでに実質的にスマが仕切っているが、それでも95歳で現役として出て来る、その貫禄は凄い。

その後お坊さんたちに食事が振る舞われる。準備の関係で私も外へ出て、椅子に座る。すると横に座ったオジサンが、英語で話し掛けて来る。何でもウバあたりの茶園のマネージャーらしい。昔はキャンディの茶園にいたが、最近この辺の茶園は閉鎖が多く、遠くへ行くことになったらしい。彼の茶園も訪ねてみたいと思ったが、場所などを聞く前に食事が始まってしまった。

食事は在家の人々がお坊さんの為にサーブする。私はどうするのかなと見ていると、お坊さんへの振る舞いが終わった後、私だけ特別に食事を取るように言われる。これは外国人だからという面と、お坊さんたちと一緒に帰るためという両面があったようだ。恐れ入りながら、テーブルの上の食事をいくつか取り、ご飯と混ぜて食べる。箸やスプーンはないので、勿論手で食べた。魚なども入っており、美味しかった。

そうこうするうちにお坊さんたちは食べ終わり、各人談笑を始めた。お坊さん同士のコミュニティもあるのだろう。なかなか面白い体験のうちに、この訪問は幕を閉じ、また車で寺へ戻った。

スリランカご縁の旅2014(6)コロンボ  スリランカの現実

4月5日(土) 紅茶局

翌朝は昨晩の騒音の影響か、目覚めが悪かった。7時に目覚めては寝て、8時に目覚めてはまた寝て、結局9時近くに起きる。それから階下でPCとにらめっこ。今日キャンディの寺に入ると、当分ネットとはお別れになる。できることはやっておこうと少し躍起になる。相変わらずノルウエー人オーナー、ジャールはお茶を自分で淹れるように用意してくれた。

11時前に荷物を纏めてチャックアウト。荷物は階下で預かってもらい、出掛ける。先ずは紅茶局で紅茶を仕入れることに。これまでの話から、OPと緑茶を探すことにした。紅茶局のショップまでは歩いて5分ぐらい。有難い場所にGHがあった。

紅茶局はかなり混んでいた。インド系と思われる旅行客が大量にティバッグを買い込んでおり、店員もそれに掛かり切っていた。更に香港人のカップルが『プレーンティに合う紅茶を探して』と頼んでいたが、相変わらずここの店員は素っ気ない。たぶん国営企業職員なのだろう。インセンティブが無ければ働かない、昔の中国だ。

私もOPを探してほしいと言ったが、相手にされなかった。種類が結構多く、探すのは大変だ。何とか若いにいちゃんを捕まえたが、お茶のことは分からない様子。店員は沢山いるものの、結局は年配のオジサンと若い女性の二人に知識があることに気が付く。ようやく若い女性を捕まえてOP、というと、布袋に入った500g入りのお茶を差し出す。もう一つ缶入りの有機と書かれたお茶があったが、産地が特定できずに、こちらを選ぶ。

彼女はそれでいいのよ、という顔をしてレジを打つ。打っている傍で『緑茶は?』と聞くと、面倒くさそうに私の後ろを指す。これも黙って購入した。これ以上聞いても無駄なような気がしたから。観光を産業の柱にしているスリランカだが、依然としてサービスは付いてこない。

更に食事中に『モレスナ』というブランドの紅茶が美味しい、と言っている人がいたのを思い出し、再度紅茶局に戻って探す。午前中とは打って変わって誰も客がいない。ちょうどランチタイムなのだろう。さっきの彼女が所在なげに座っていた。今度は愛想よく、モレスナを取り出して説明してくれた。単にお客がいると捌き切れないだけのだろう。

ベアフット

GHのジャールが『ランチはベアフットがいいよ』というので出掛ける。これもGHから3分ぐらいの場所。ベアフットは土産物ショップとして知られているが、その裏庭にしゃれたカフェがある。

土産物に関心の全くない私は素通りしようとしたのだが、入るといきなり警備員に紅茶局の袋を取り上げられ、番号札を渡される。背中のバッグは取らないのだから何とも不思議。店内は如何にも女性が好きそうな織物や服、そしてフレーバーバリバリの紅茶などを売っている。欧米人をターゲットにしているが、中国人や韓国人の姿も見られた。

そこを通り抜けると、庭に出た。かなりの広さがあり、ギャラリーになっている建物も別途ある。日差しが強いので、屋根の下に入るが、朝なら庭の真ん中で食べたいところ。木々にはリスが上り下りし、その数は相当なもの。自然な雰囲気がよく出ていた。

今日は土曜日なので、ブランチというか昼までブレックファーストを頼むことが出来た。これがなかなか美味しい。庭にはいい風が吹いており、屋根ではリスが走り回る。とても優雅な気分に浸り、満足を覚える。

4.キャンディ キャンディまで

そして午後スマが迎えに来てくれた。本当に申し訳ないと思うが、一人でスマの寺へ行くことは不可能なのでお願いする。今日は土曜日なので道は空いているかと思えば、さにあらず。逆に免許取りたての週末ドライバーが多く、平日より車が多い上、危険も増している。まず市内を抜けるのに一苦労だ。運転手も慣れていて抜け道を行くが、そこも塞がっていたりする。鼬ごっこのようなものだが、私はまたコロンボ市内、特に旧市街地を眺めることが出来て、渋滞でも飽きない。

それから本来はキャンディロードという道を行くのだが、今日は別のルートを取ることになる。これもまた初めての道であり、歓迎できる。スマの読み通り、こちらの道の方がはるかに空いていたようだ。だがその分遠回りなので時間はかかっている。3時間ぐらい走ってクルネガラという街に着いた。ここで買い物をすることになり、スーパーへ。私の為に食パンや卵などが買われる。更には市場へも行き、野菜や果物も調達する。そこへ急に雨が降ってきて、かなり濡れてしまう。まあ、それでも気持ちの良い雨だった。

僧院

そこから更に小1時間走り、懐かしいスマの僧院に辿り着いた。ここは特に何の変化もないようだった。またスマの部屋を借りる。もう夜になるがスマは溜まった用事を済ませている。

そこへ前回は大学生だった若い僧が顔を出す。彼とは一晩語り合った仲であり、すぐに最近の話となった。彼は大学を卒業し、その大学のカウンセラーになったらしい。勿論身分は僧侶であるが。今スリランカでは大学を卒業した若者が就職できずに、困っているという。一般人でも以前はゆったりと生活していたのが、昨今は物価も上がり、仕事を2つしないと食べていけない人もいるという。

そして驚くべきことに、彼は海外の学者が書いた本を読み漁り、日本の事例としての『過労死』にまで言及した。スリランカに過労死など考えられないというと、それが現実に起こりつつあるのだと。急激に発展する社会ではその歪に飲み込まれる人々がいる。80-90代の中国人もそうだったが、この島国でも恐ろしいことが起きつつある。

その日はスマと遅い夕飯を食べ、蚊帳の中で寝る。この季節、スリランカはかなり暑いが、この山の中は比較的涼しい。