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スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(7)キャンディ 廃止された茶工場

6.キャンディ2   買い物

キャンディの街に近づく。実に5時間ほどランチも取らずに車に乗っている。City Foodと書かれたスーパーの前で車を停め、パンやバターを買い込む。これが意外と高い。聞けば、輸入品を扱うスーパーだとか。最近このようなスーパーが出来てとても便利だとスマは言う。続いてパン屋というかケーキ屋の前に停まる。今度はこれから食べるカレーパンと食後のケーキを買う。一番甘くないケーキを頼むと「ネスカフェ」と書かれたコーヒーケーキが出て来た。ここで売っている飲み物はネスカフェのコーヒーかネスタというミルクティ。

それから運転手が市場へ走る。今日のおかずを買う、といった感じで、ニンジン、トマト、オクラ、ネギなどを買いこむ。袋一杯買っても300円ぐらいか。日本ならキャベツ1個しか買えない。雨が降っており、商人たちも早く店仕舞いしたかったらく、叩き売ったのかもしれない。そして最後にフルーツを買う。アボガドなどが選ばれる。バナナが食べたかったが、スマは店の人の勧めを断っていたので、きっと良いのが無かったのだろうと諦める。

僧院で和む

ようやくスマの僧院へ辿り着く。6時間ぐらい掛かっただろうか。3日前に泊まった部屋へ入れてもらい、その前の椅子に腰掛けて和む。雨は降り続いており、涼しい。何もすることが無く、紅茶を飲みながらさっきのパンとケーキを頂く。実にゆっくりと時間が流れていく。スマのPCでメールをチェックしたがあまり見るべきものもない。もうネットに縛られる感じはない。お寺にはお寺の過ごし方がある。日本のように規則に縛られるのではなく、自分で自分を解放するのだ。そんな気分となる。

お湯の準備が出来たという。3日前と同じ、お湯と水を適当に混ぜて湯を使うのだ。これがまた良い。無暗に湯を使うのではなく、一定の分量を丁寧に使う。勿論寺の人々は水シャワーだろう。私の為に湯を用意してくれことに感謝が必要だ。そういう気持ちで体を洗うと実にスッキリした。気持ちの問題は大きい。

先程買ってきた野菜を使った食事が出た。恐らくは私の為に作られた物で、スマは私に付き合っているのだろう。オクラの煮つけ、ニンジンと玉ねぎの和え物、卵料理が出たが、ご飯にかけて食べるとどれも美味しい。

10歳で寺に入ると先ず先に教えられるのが、料理だという。ミャンマーなどでは托鉢が残っているが、ここスリランカには既にこの習慣はない。自らの食事は自ら用意できるように修行する。

スマの考え方なのか、スリランカにはそのような所が多いのか、食べ物にはあまりこだわらない。正直野菜を買っても肉を買っても、同じという考え方だ。自分で殺して肉を食べることは許されないが、提供される物は食べてもよいという。また僧侶の食事時間も午前中のみの所が多いが、ここではいつ食べてもよいという。非常に合理的だと思うのだが、どうだろうか。

11月12日(月)  朝の茶畑散歩

前夜はかなり激しい雨が降った。気温も予想以上に下がり、肌寒い感じがした。だが、朝若い坊さんたちの元気な声で目覚めると、いい天気になっていた。6時半にはローティの朝食を食べた。紅茶に合う食べ物だ。散歩に出た。学校の所をキャンディに行く方向と反対に下ってみた。特に意味もなく歩く。すると直ぐに道の脇に茶畑が出現した。そして釣られるように脇道に入ると高い方も低い方も一面茶畑となった。朝日を浴びていい感じだ。

茶樹の垣根があったので沿って降りていくと、そこは民家だった。お婆さんが供え物だろうか、白い花を摘んでいた。この雰囲気が実にいい。言葉は全く通じなかったが、笑顔で挨拶した。

それからずーっと歩いて見た。30分も歩くと、Lily Valley Estateと書かれた看板が見える。横に小さな小さな郵便局があり、聞いてみると「茶工場はない」とのこと。仕方なく引き返す。すると後ろから五羊ホンダのバイクに乗ったオジサンが話し掛けて来た。「茶工場は30年前に無くなった。ここは数十エーカーの小さな茶畑。立ち行かなくなり、茶葉は8㎞先の工場へ運んで茶を作っている」と説明してくれた。スリランカ人の英語は実に分かり易い。同じことをインドで言われても恐らく分からないだろう。

そして驚いたことには彼、サラは私が世話になっているスマの寺、モラゴダの檀家。母親は寺の長老と兄弟だというから、長老の甥にあたる。ちょっと話していると色々と繋がるので田舎は面白い。

また歩いているとトゥクトゥクが通り過ぎる。この道は狭いがバスも通っている。スリランカのバスは実に発達していると感心する。トゥクトゥクから顔を出した若者が手招きした。乗れという。何となくその行為が好ましくて乗り込む。奥さんと可愛い小さな娘さんが乗っていた。分かれ道の所で降ろしてくれ、バスに乗るならこっちだと教えてくれた。何とも親切な人々で一度でここが好きになる。

キャンディティー工場

9時半に寺を出て、先日行けなかったキャンディの茶博物館を目指す。どこへ行っても茶の歴史なら博物館へ行け、と言われるので、どうしても行きたかったのだ。ところが1時間掛けてようやくたどり着くと、雰囲気がおかしい。誰もいない。「Monday Close」無情にもまた拒否されてしまった。しかも明日も祝日で休みだという。果たして最終的に行けるのだろうか。

次の目的地は茶工場。既にいくつも工場を訪ねているが、キャンディは初めてなので、出掛けてみる。キャンディ市内からコロンボの方向へ15㎞ほど行ったところに、Geragama茶園の工場はあった。1903年創立と書かれた看板が誇らしげだ。

正面入り口から上へ上がると、ティールームと販売所があった。「茶工場の見学は必要ないので、歴史だけ教えて欲しい」と願い出ると、担当の女性は話し始めたが、工場見学者が待っていると言って、出て行ってしまった。その合間にお茶が振舞われたが、少し渋みが感じられたが飲み易いキャンディティーだった。

ジェームス・テーラーの顔写真が飾られていた。立派なひげを生やした紳士は1865年にここキャンディのLoolekandura Estateの29エーカーの土地に茶樹を植えたとある。「セイロン茶の父」とも書かれていた。イギリス人によって1903年に創立されたこの工場でも当然テーラーが植えた茶樹の葉が使われているという。だがそれ以上の情報は得られなかった。

ランチ

昼時となり、キャンディ市内へ戻る。ところがかなりの渋滞に遭遇。道が狭いこともあるが、スリランカでは地方都市と言えども車が急速に増加している。ようやく市内へ着くと、今度は駐車場探し。駐車場の建物には入ったが、スペースがなかなか見付からない。車社会への対応に迫られている様子がよく分かった。

ランチはこぎれいなレストランへ入る。何となくインドと似た雰囲気がした。マネージャーが席を振り分け、テーブルごとに担当のボーイがいる。プライドだけ高そうな人々が働いているように見えて、リラックスできない。チャウメンを頼んでみたが、それほど美味しくはなかった。欧米人観光客が数組居たのを見て、きれいなだけのレストランとの印象を持つ。

その後、ネットカフェへ向かう。先日満員で入れなかったので念の為、試してみたくなった。今日は何とか席が確保できた。ネットスピードは結構速く、スムーズだった。10分20ルピー。Facebookにもすぐに繋がった。

バスやトゥクトゥクが交錯する道を歩いて、駐車場に戻る。午後2時過ぎには車の数が結構減っていた。ランチタイムが特に混んでいることが分かる。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(6)バドゥッラ 100年前の茶葉集積地

ホテルのWifi

バドゥッラに到着。この街には教会がいくつも見え、また英国時代の建物も多く残っている。何となく、ミャンマーのメミョーを思い出す光景だ。イギリスは街づくりのパターンが一定しており、その影響かもしれない。また流石にここまで来る旅行者は多くないらしく、開発も進んでいないということか。

今日の宿はスマの知人がいるお寺と聞く。そのお寺、ムティヤンガナ・ビハーラは街の真ん中にかなり広大な敷地を持つ。ところが残念なことに部外者を泊めることは出来ないと言われ、ホテルを探す。寺の前のゲストハウスを覗くが、ホットシャワーが無いと言われ、他へ。そこは寺から少し離れているが、外装はかなり立派。何とスマもここに泊まると言い出した。

ところが部屋は外装とは違って昔のまま。勿論広くて悪くはないのだが。そして今日こそはと思う、自己PCでのネット接続にもまた失敗した。ロビーではフリーWifiだと言っていたが、どうしても繋がらない。プロバイダーに電話しているようだが、埒は開かない。これがスリランカの地方都市の現状であろう。

ホテルのスタッフにメールチェックを申し出るもオフィスは既にクローズしているとして断られる。そこへ一人の従業員が自分のPCで接続するといって、4階にあるバーでPCを貸してくれ、メールチェックだけは出来た。

このバー、屋上に屋根を付けた構造で、雨が降っていても、濡れることもなく涼しい。大型テレビがクリケット中継を鮮明に映しており、ここで夕食を取ることに。インドでも見たチャオミン(焼きそば)とコーラを頼む。このチャオミンがかなりのボリュームがあり、またなかなかイケル。焼そばというよりビーフンだ。野菜、鶏肉、シイタケなどが豊富に乗っており、美味。これでコーラと併せて3ドルとは。

夜は早く寝ようとしたところ、停電となりこれ幸いとベッドに潜るが、直ぐに明るくなり、眠れない。

11月11日(日)  バドゥッラの駅

朝は7時前に起き、散歩へ出る。バドゥッラの街を見学する時間はないと言われていたので、散歩のついでに駅を見に行く。ところが方向を間違え、真反対の方へかなり歩いてしまう。

ようやくたどり着いた駅は珍しく鉄橋を渡った所にあった。川の直ぐ近くに駅があるのはあまり見たことが無い。だがこの駅が英国時代の終着駅だと聞き、何となく合点がいく。この街は以前茶葉の集積地として栄えていた。茶葉は川を使って集められ、すぐ横の駅からコロンボへ運ばれたのだろう。

この街には古い教会もあり、昨日の大きな仏教寺院もあり、そしてヒンズー寺院もある。完全に混在した不思議な街。当初はイギリス人の都合で開拓された山の街であったのが、いつの間にか変化したようだ。

街のティー・センター(茶荘)を覗く。ダスト茶が基本であり、またBOPFのようなミルクティに適した茶葉しか売っていない。高級茶葉もリーフも庶民の興味の対象外。値段も相当に安い。ティーと言えばミルクティのお国柄である。これも植民地時代の名残りか。

Wewesseのウバ茶

ホテルをチェックアウトして、今日も茶畑へ。スマも飽きずに良く付き合ってくれる。車で30分ほど上ると、きれいな茶畑が森の中に出現。かなり急な斜面に植えられているものもあり、茶樹がびっちりだ。そんな中で茶樹に埋もれるように茶摘みをしている女性たちを発見。滝があり、いい音を立てて水が落ちる。

今日は日曜日で残念ながらWewesseの工場はお休み。工場前のティショップでお茶を飲んでいくことに。今日は時間が無く、朝食も抜きだったので、ここでバターケーキも取る。ストレート(プレーン)ティは15ルピーだが、ミルクティは40ルピーもする。ミルクがよほど高いのか。皆ミルクティを飲む中、一人ストレートで飲む。実にあっさりしていて飲み易い。またケーキのハーモニーが良く、美味い。

屋外で風に吹かれながら、コテージ風の椅子に座り、ゆっくりと飲む。疲れを感じさせず、癒しがある。ずーっとここに座っていたい衝動に駆られる。ここの工場は1936年に出来たらしい。よくぞこんな山奥に工場を作ったものだ。イギリス人は逞しい。

ブッダが訪れた寺

もう一度バドゥッラの街まで戻り、針路を北にとって、キャンディまで直接帰るルートが選ばれる。2時間以上車に揺られているとウトウトしてくる。突然起こされて外を見ると、何ともでかい湖が。良く見るとダムのようになっており、水力発電をしていることが分かる。この辺りは地面がフラットで道路も整備されており、快適に進む。

兎に角この2時間ほどは、何度も道路工事に出会い、通行を止められていた。何故そんなに工事があるのか、昔の日本の年度末工事を思わせるほど、現場が続く。だが、快適な道路へ出ると途端に、デコボコ道の工事の必要性を痛感する。人間とは何と我儘なものだろうか。

途中で突然スマが声を掛ける。何事かと外を見たが、何もない。車を降りて見に行くと、何となく小さな碑があった。「ここがスリランカの真ん中だ」とスマが言う。しかしどう見ても真ん中とは思えない存在感の無さ。どうなっているのだろうか。我々が車を降りたのを見て、後ろの車の人々も降りて見に来た。意外と物見高い人々かもしれない、スリランカ人は。

マヒヤンガナ、と言う街を通るとスマが言う。「ここに大きな寺がある。ブッダが訪れた寺だ」え、こんな田舎にブッダが訪れた?スマに寄ればブッダは3回スリランカを訪れており、その内の一度、この地へやって来たのだという。そんな昔にどうやって?「ブッダはどこへでも行ける」というが、どうなんだろうか。

寺の参道は新しく、周囲は畑。何とも素朴だが、昔からある寺とも思えない。正面に見える仏塔も、真新しく2500年前にブッダが来たとは思えない。人々が思い思いに座っていたが、雨が降り出し、退散した。

いろは坂

「18ものヘアピンカーブ?があるんだ」、ウバ県からキャンディのあるセントラル県に入るとスマが言う。因みにスリランカには10の県があるらしい。北海道の80%の面積と書かれているが、北海道とはかなり違って山岳地帯も多く、平地が少ない中で10県は多いのでは。

キャンディに行くには山越えとなるが、今年新たに道路が開通した。それが冒頭の発言。確かに番号が振られた表示が18から順番にある。まるで日光いろは坂だ。上るにつれて景色が良くなり、霞掛かった向こうの山が実にきれいに映える。

この道路を作るのに何年掛かったのだろうかと思うほど、難工事だったらしい。一番上で景色を眺めているとサルがやって来て、こちらを眺める。彼らは住処を追われたのだろうか。スリランカでは田舎町でリスなどを見掛けることも多い。自然が残っているということだが、今後は経済成長に軸足が移るのだろうか。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(5)ウバ 世界の三大紅茶の今

ペドロ茶工場

8時半過ぎにはスマが来て、出発を告げる。どうやらここに連泊することはない。荷物を纏めて下へ。品の良いお婆さんがスマと話したいらしく、お茶を勧める。私にはコーヒーが振舞われたが、紅茶の方が良かったな。贅沢か。お婆さんの娘たち?もやって来て、スマの足に跪く。

車が出ると直ぐに湖が見える。向こう側に茶畑が見えたので、行って見ることになる。湖を回り、丘へ車を入れると、そこにはかなり原木に近いと思われる茶樹が植えられていた。木々の間もある程度間隔が取られており、かなり余裕のある茶畑だ。直ぐ近くには労働者であるタミル人の集落があり、覗いてみると決して豊かではない生活が見えた。

ここのタミル人は英国時代に南インド(恐らくは茶畑)から連れてこられた人々で、ずっと茶畑で重労働をしている。内戦をしていた北のタミル人とはカーストが違うと言い、シンハリ人ともフレンドリーだと。シンハリ人はイギリスの支配下で働くのを嫌がり、タミル人が来たという歴史を聞く。集落にはヒンズー教の寺院が見え、従順ながら自己の宗教を守って生きているタミル人を見直した。

この茶園の話が聞きたくて、茶工場へ向かうがかなりの悪路であった。後で分かることには街から普通の道路で来れば簡単だったようだが、それだけタミル人の人々の苦労が見えた。ペドロと言う名前の茶工場が見える。

この建物は1940年の再建だそうだが、会社は1885年に出来、茶樹はあのジェームス・テイラーが1867年に中国から(?)持ち込んだという茶樹だそうだ。現在茶摘みの女性は800人、それ以外に工場労働者、オフィスワーカーが500人の大工場。創立時はイギリス人の所有だったが、その後スリランカ人の手に渡り、現在は複数の株主が存在している。

この工場見学ではエプロンをして、帽子を被らされた。スマは不要。案内に立った女性はきびきびと、そして丁寧に説明していく。紅茶製造プロセスは昨日から4回目の説明で流石に頭に入っていたが、もう一度聞いてみる気になる説明だった。特に1885年当初は中国産茶葉をそのまま使っていたが、徐々に生産が拡大されるに伴い、リプトンなどの有名メーカーがコロンボのオークションで競り落とした後、ティバッグなどにするため、CTCを好んだことなど、初めて聞いた。コロンボでブレンド後輸出されているという。

見晴らしの良いティールームでお茶を頂く。かなり薄めのお茶は日本人好みではないか。小中学生が見学で入って来た。郷土の名産品を頭に入れるにはよい場所であろう。

5.   ウバ   静かなランチ

昨日ウバの場所を尋ねたことから、スマはウバへ行こうという。ところがガイドブックにもウバという地名は見当たらない。取り敢えず車は進む。途中の何もない場所に一軒ポツンとレストランがあった。スマが何かテイクアウトして、車中で食べようと立ち寄る。

店に入ると、向こう側のドアから外に出られた。実にいい景色がそこにあり、静かで穏やか。気にいってしまい、ここで食べることに。雨が降りそうで降らない。いい風が吹き抜けて来て、気持ちが弾む。

食事はチャーハンにカレーやサラダなどを乗せて食べる。しかしこのチャーハン、中国風となっているが、誰が中国から持ち込んだのだろうか。中国人が中国料理屋を沢山開いているとの話もない。不思議だ。実際問題、このチャーハンは米の違いもあり、中国の物とはかなり違う。更にはカレーを掛けるのだから、どうみてもスリランカ風。

デザートは断ったが、ここはイチゴの産地らしい。それもJICAのプロジェクトでこの辺にイチゴ栽培を広めたという。それなら食べてみてもよかったのだが、後の祭り。この店ではお坊さんには敬意を表して料金は取らないとのことで、非常に安いランチとなった。

ウバ紅茶

ヌワラエリアから、ウェリマダを抜け、バンダーラベェラへ行く。この街は何故か人通りが非常に多く、賑やかだ。街の真ん中には仏像を備えた時計台があり、また鉄道の駅が見えた。

そこからかなり進むとようやく茶畑が見えてきた。更に行くとハープターレという茶工場も見える。ここがウバ茶の産地なのか。スマが茶を飲もうという。茶工場へ行くのかと思うと、そうではなく、Rest Houseと書かれた場所へ上がる。ここからの眺めもまたよい。

紅茶が運ばれてきたが、何とミルクティ。ウバ茶はミルクティで飲むのかとウエーターに聞くとスマが「私が頼んだのでミルクティになった」と説明。このミルクティがスマにはかなり上等と映ったようだが、私にはミルクの味が勝ちすぎて、うーん。仕方なくストレートティも頼む。聞いていた通りメンソールの感じ。これはダージリンにも有った味だと思う。

「実は道を間違えた。本当はバドゥッラという場所へ行くはずだった」とスマ。でもそれでとても美味しいお茶にありつけたのだからよい、とお互いに思う。そしてまた元来た道をバンダーラベェラへ引き返す。鉄道の線路も並行して走っていた。もしやと思い聞いてみるとやはり茶葉を運ぶためにイギリスが作った鉄道だった。これはダージリンと全く同じ。

バンダーラベェラまで戻ると駅へ寄ってもらった。茶葉に関係あると聞き、写真に納めた。今では一日に数本が走るだけの小さな駅だが、往時は茶葉輸送の拠点として栄えただろう。そもそも鉄道が敷かれたことで、この地へ移住してきた人もいただろう。元々は深い森だったのだから。

ウバ茶工場で

今度はバンダーラベェラからバドゥッラへ道を取る。途中にまた茶畑が見える。だが一部は茶畑を潰して、家を建てたり、農地にしたり、荒れ地となった所もある。かなり急な斜面である。ここもウバ茶の産地だと聞き驚く。

Halpewatteと書かれた一軒の茶工場の看板があったので、行って見る。ところがこれが急な坂の連続で難所。よくもまあこんな所に工場を建てたなという感じだ。相当に上り、景色も少し靄がかかった山々が望める素晴らしい所に工場はあった。ちょうど雨も降りだした。雨宿りの雰囲気だ。

スマが案内を乞うと、男性が説明を始めた。この工場は1971年に出来た新しい工場であり、だからこそこんな山道の上に作ることが出来たという。「山の上に工場を作らないと新鮮な空気が入らない。この空気が茶葉の味に大きな影響がある」と説明された。成程。

この地方の特徴は乾季には全く雨が降らないこと。6-9月は殆ど降水量が無く、その間に茶葉は諸成分を内包する。この条件がウバ茶のメンソール感を出し、特にイギリス人に好まれてきた。

しかし近年スリランカの茶葉生産量は横ばいか減少に転じている。輸出量世界一を誇っていたが、インドや中国、そしてケニアやベトナムが急追してきており、大きな転換期に来ている。中東のスリランカ紅茶購入の減少、ヨーロッパの不景気など色々と要因はある。

またスリランカ自体の問題として、茶葉の値段が上がらない、賃金も左程上がらない、茶農家を止める所も出て来ており、栽培面積も減少傾向にある。本当に良い一部のウバ茶にはかなりの高値が付くが、その後ブレンドされてしまうなど、その良さが理解されているのかも懸念材料。スリランカ茶の将来は決して明るくないと、男性は嘆く。

この工場は後発の為自前の農園も少なく、近隣の茶農家から茶葉を買い入れているため、特に影響が大きいのだろう。美味しい物を作るだけでは、成長しない難しい産業形態であるとも言える。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(4)ヌワラエリア 英国植民地時代の街

ホテルを探して

ヌワラエリヤでのホテルを探す。最初のホテルは街からかなり離れた一面茶畑のいい雰囲気の場所。ホテルとしては決して良いとは言えないし、Wifiもないとのことだが、ここに泊まれ、とスマが言えば泊まってみようと思うホテル。

2軒目はかなり街に近づいた立派なホテル。きれいな外装。ただ朝夕食込ではあるが70ドルは高いと判断され、見送り。3軒目は街中直ぐに競馬場の前。だがここもよくないとのことで、そのホテルの人に連れられて、競馬場の反対側の路地へ。きれいな外装のゲストハウスがあったが、街から遠い、という理由で却下。

そして再度競馬場前に戻り、数軒あるホテルからスマが一軒を選び中へ。とても品の良いお婆さんが出て来てここに決まる。スマは知り合いの寺に泊まると言って去る。部屋は奥の建物の3階。雰囲気は悪くない。

英国時代のホテルと競馬場

実はホテルを探す途中、街中にあるイギリス時代からある建物をいくつか見た。総督の屋敷は郵便局になっていた。他にも警察署など役所に使われているケースが多い。

そんな中でも一際目を惹くのがグランドホテル。1892年の開業というから古い。前庭が広く、きれいな芝と花に囲まれ、優雅な気分になれる。裏庭までよく整備されている。建物の中は典型的な英国風ホテル。1泊200ドルはするらしい。偶には泊まってみたいが、早々に退散。

ホテルの横にはゴルフ場もあり、植民地時代のイギリス人がここに泊まり、そのままホテルからコースへ出る姿が目に浮かぶ。今でも客は欧米人ばかりに見えた。ゴルフコースはフラットだが、バンカーなどが配され、意外と難しいのではと推察。

そしてホテルの直ぐ近くには競馬場。イギリス人の植民地政策の典型的な作り。全てが揃っている。今でも年に1回、競馬が行われるとかで、厩舎もあり、馬もいる。だが日頃は庶民のサッカーグランドなどになっている。

この競馬場の周辺にはホテルが多い。今でも1-4月のハイシーズンには欧米人、スリランカ人がこの地に押し寄せ、競馬などを楽しむらしい。ホテル料金も値上がりし、予約も取れないとのことだ。

雨の夜 元気な女性と会話する

ヌワラエリヤの街を散策しようと支度していると急に物凄い雨が降り出す。スコールと呼んでよい雨だが、いつになっても止まない。仕方なくWifiがあると聞いたので、ネットを繋ごうとしたが、失敗。ロビーで理由を聞こうとした矢先、突然欧米人女性が凄い勢いでやって来て、スタッフにまくし立てている。聞いてみると私と同じ理由でネットが繋がらずに困っており、その理由を説明していたが、スタッフが理解できなかったらしい。確かに最近普及し始めたWifi、田舎では繋がらないことも多いだろうし、そのシステム自体が理解できないだろう。

結局スタッフはプロバイダーに電話、その電話を彼女に渡し、彼女が英語でまたまくしたてる。だが、やはり繋がらない。雨のせいだ、ということで終わる。彼女も諦めて部屋へ戻る。それから3時間、雨は止まなかった。Wifiは繋がらなかったが、ホテル専用のPCでメールチェックだけは出来た。更にFacebookへ入ると、不正アクセスの恐れありとばかり、行き成り知り合いの顔が5人も出て来て、誰だか当てろ、という。これには驚いたが、それほどに不正アクセスが多いのだろう。最近はアポの申し込みなどをFacebookでして来る人がいて困る。このようにネットが繋がり難いと回答も出来ないし、中国では通じない。

仕方なくホテルで夕食を頼む。中華料理もできると書いてあったのでチャーハンでも注文しようかと思うと、スタッフが「カレー付きが良い」と勧める。彼は韓国のインチョンにある大宇で6年、IT関連で働いた経験があるという。スリランカの中華は本場とは違うと知っていて、助言したようだ。従う。

だがこのチキンカレーのチキンは冷たかった。チャーハンはやはり中国とは違った。何だか一人で食べていると空しくなった。そこへあの女性が入って来てビールを飲み始める。聞けば何とポーランド人。スイスのチューリヒで働いているとか。毎年2回ほど、1回1-2週間、一人で各地を回っている。今回も一人で来て車と運転手を一週間チャーターしているとか。

コロンボではネットアクセスは問題なかったという。茶畑はケニアがお勧めという。彼氏とスカイプしたいが、ネット状況が悪く、プライバシーも保てないとまくし立てる。何とも元気な女性だ。雨の日はこんな女性との会話も悪くない。

11月10日(土)  朝飯

昨日の雨が嘘のように晴れていた。そして昨晩遅くまで聞こえたテレビの音に代わり、向かいのホテルから大音響が聞こえる。ベランダから見ると、数人の若者が大声で騒ぎながら車を洗い、大音響の音楽を流す。仕方がないとは思いながら、「なぜこんな静かな環境で、音を出すのだろう」と。いや、静かすぎて落ち着かないのだろう。

ホテルの料金に朝食が含まれていないのを確認して、これ幸いと街へ出る。朝8時前の競馬場前の道路、車も多く煩い。昨日行ったグランドホテルへ回り、ゴルフ場の横を歩くと、かなり静かな環境となる。

街中の小さなレストランでチャパティのようなものを作っていた。釣られるように入る。ローティという小さくて丸いパンを頼むと黙って4つ出て来た。そしてカレーとスパイスの効いた物が出て来て、これを付けて食べろという。意外に美味しいのだが、ローティは少し塩辛い。

ティーを頼むと何も聞かずに甘い甘いミルクティが出て来た。これはインドのチャイだ。店の人もそうだというから、同じ物だと思う。全部で僅か120ルピー。昨晩の何分の一かで、満足できる朝食が取れた。帰り掛けに乗馬クラブのメンバー?と会う。

銀行はスロー

先ずは街中で用事を済ませる。私は両替をしたかったのだが、銀行はなぜか閉まっていた。ATMだけは使えたので、スマはキャッシュカードで現金を引き出す。お坊さんがATMを使う、ちょっと不思議な気分だ。更に彼はネット会社にも立ち寄る。今やスリランカもそういう時代なのだ。

ようやく開いている銀行を見付けて、両替に挑戦した。100米ドル札を出して、パスポートを出すと担当のにいちゃんは、コピーを取りに2階へ行く。しかしいつまで経って降りて来ない。両替レートがいくらかも提示されず、どうなっているのかも一向に分からない。15分後にようやく席に戻り、作業を開始。書類にサインを求められたが、レートや受け取り金額の表示はない。これにはちょっと驚いて聞いてみると、PCが遅くてレートがなかなか出ないとのこと。

このにいちゃん、人は良いのだが、風邪をひいて熱があるらしく、苦しそうだ。喘ぎながら「手数料は1%」と告げられるが、未だにレートの表示が無く、どうしてよいか分からない。スマも心配して銀行内へ見に来る。ようやくレートが出たが、今度は手取り金額を提示しない。手数料金額だけ言い、またサインを求める。どうなっているの?結局100ドルの両替に35分を要した。お客は勿論私しかいない。

日本でも昔、こんなことがあったと思うが、それにしてもPCやネットが急速に発展しても、まだまだソフト面は追い付いて行かない。街には両替商もあるようだが、信ぴょう性に問題があり、未だに銀行が使われるようだが、いずれはこのサービスでは淘汰されるだろう。

因みに定期預金金利は13-15%、貸出金利は20%前後と高く、まだまだ資金不足のようだ。企業や個人は借入れを好むようだが、そんなに儲かるビジネスがあるのだろうか。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(3)キャンディ お寺に泊り茶畑見学へ

茶葉研究所と博物館

キャンディは茶の産地としても有名。ここには茶葉研究所があると聞き、突然訪ねて見る。小山の上に有ったその研究所の前には茶樹が植えられ、いい感じで育っていた。オフィスへ行き、茶の歴史の話を聞きたいと申し出ると男性が応対してくれた。ただ彼は何だか急いでいるようで、話を早く切れ上げたいと顔に書いてある。分かったことはスリランカの茶葉生産は90%以上が紅茶だが、中東向けなどで緑茶生産も始まっていることぐらい。どうやら帰宅時間のようだ。

茶の歴史に関してはTea Museumに行けという。研究所の直ぐ近くだと言うので急いで行って見ると、小さな製茶工場のような建物があり、その横に博物館が併設されている。入り口が分かり難く、ようやく探し当てて入ろうとすると何と今日はもう閉館だという。しかし表示には4時半までとあり、まだ3時40分だ。しかし良く見るとチケット販売時間が3時半まで。お客が無いのでスタッフが帰ろうとしていた。日本から来たことを告げ、入れてくれるよう頼むが断られ、ではせめて資料だけでも、と言っても取り合ってくれなかった。この辺にイギリス統治下の慣習、親切心の無さ、政府機関関係者の対応が見えるようだった。

この博物館、それほど重要なのかとの思いで立ち去るが、その後何処へ行っても「茶の歴史はここ」と言われてしまい、どうしても行かねばならないと自覚する。

お姉さんの家

仕方なく次へ進む。次はスマのお姉さんの家へ行くという。スマはいないが、そこで紅茶を飲んだらどうかという提案らしい。行って見て驚く。小高い山の中腹、自然に囲まれ、キャンディ市内も見渡せる場所に家があった。そして家の中は実に豪華。斜面に作られているため、家が3段階になっている。大豪邸である。

入り口にはソファーセットが2つ。バルコニーへ出ることもできる。天井も高い。実に居心地が良い空間。一段降りると階段の両脇に部屋がいくつか見える。そして一番下には大きなテーブルがあり、お茶を頂く。キッチンも大きく、バルコニーもある。何とも結婚式場を思わせる。

紅茶は実に美味しい。基本的にミルクティを飲むようだが、私の為にプレーンティを淹れてくれた。他の皆さんはミルクと砂糖をたっぷり入れて飲む。実に甘そうなケーキが出て来る。ビスケットも出て来る。家庭でのもてなしはやはり量が大事。

ある年齢以上の人は家庭ではミルクティしか飲まないと言う。偶にコーヒーを飲むにしてもネスカフェのインスタント。ネスカフェは非常に有名で、コーヒーと言わずネスカフェ=コーヒーといった感じだ。紅茶は朝、10時、昼、3時、夜と多い人は一日5回飲む。10時と3時にはおやつも食べる。日本の3時のおやつは元々イギリス、そしてアメリカからもたらされたのだろう。

お姉さんは政府職員だったが既に引退。ご主人は弁護士、息子はコロンボの学校へ行っているとか。絵に描いたようなエリート一家だ。ということはスマも裕福な家庭の出身なのだろう。そこからお坊さんになる、ということはどんな気持ちなのだろうか。

お寺に泊まる

お姉さんの家を辞し、スマのお寺へ。お寺はここから25㎞離れているらしい。結構田舎の道を走り、更に狭い道を分け入り、到着。お堂と僧院があったが、日本的ではなく、普通の家のようにも見える。

日本のお寺の宿坊は今はどうなっているのだろうか。お坊さんは雑魚寝ではないのだろうか。ここには3人に若者僧がいるが、皆個室だ。私にも個室が割り当てられ、快適そう。特に部屋の外にある椅子に座っていると、疲れも忘れ、いい気持ちだ。ここには喧騒もなく、すっきりしている。だが、自然の中だ。虫はいる。特に蚊がまた襲ってきた。

スマが電気ポットで湯を沸かし、紅茶を淹れてくれる。いい感じだ。あたりは暗くなってきた。しかし夕飯あるのだろうか。ここはお寺だ。どうなるのか、見ていると、「お湯を用意した」と言われる。スマの執務室の脇には水洗トイレがある。そこに湯が運ばれる。ここでは基本的に水を浴びるだけだが、特別にしてくれたらしい。申し訳ない話だが、嬉しい。

湯に限りがあるので節約して使う。この気持ち、大切だ。ここに来て、例えば、トイレの紙なども出来るだけ節約するようにした。あるもので間に合わせる、子供の頃、そんな言葉を聞いた気がするが、今は無ければ買ってこい、だから、どうしてもギャップがある。口で節電などと言いながら、至る所で電気を使い、お湯を大量に消費する日本を考え直す時期が来ているとみて間違いない。

何と夕飯も出て来た。スマの方針で「午後は食べない」とする考えは取らないという。そういう戒律、ルールよりも、食べたければ食べてよい、悩みがあれば話せばよい、と若者に言い、若者に寄り添っていく姿勢を強調していた。日本では老害と呼ばれる人々による精神論があるが、スマのこの考え方、実は真の仏教に近いのではないだろうか。権威主義的な宗教は必ずしも良いものではないと感じる。

食事は若い僧が作ってくれた。茄子の煮つけ、オクラなど。それをご飯に載せ、カレー味を付けて食べる。これは良い食事だ。食べ過ぎることもない。その夜は蚊帳を吊り、早々に寝る。

11月9日(金)   お寺の学校

朝は6時に起き、朝食。スマはパンを焼き、出してくれた。そして紅茶を飲み、バナナを食べ、充実の御飯が終了。今日はヌワラエリヤへ行くと聞いていたが、出発までの間に周囲を散策。

この辺はかなりの森があるが、坂を上がると道へ出る。その角には学校がある。元々はお寺が建てたそうだが、今は政府の管轄になっている。狭い校庭には、白い制服を着た中学生が沢山いた。私が通りかかると一斉にこちらを向く。中には英語で話し掛けて来る子もいる。何とも気さくな、それでいて好奇心旺盛な子供たち。道の向かい側には小学校もあるようで、こちらは可愛い子達が、目を輝かせていた。


   

学校の横にはお寺の日曜学校用のスペースもある。この付近の子供達は何キロも離れた学校へ行かなければならなかったが、ここに学校が出来、大いに助かっているという。日本のように廃校が続く少子化の国と違い、この国はこどもの数が多い。穏やかな中にも安定的な成長が予感される。

4.   ヌアラ・エリア  茶工場

キャンディを出発して2時間もしない内に茶畑が見えてきた。そして最初の茶工場、グレンノッチに立ち寄る。ここでは工場見学者を快く受け入れ、案内人が英語で説明もしてくれる。茶の製造工程を実際に見ながら説明を聞くのは良い。

600人の摘み手が積んだ茶葉が運ばれて来ており、12時間ほど室内乾燥。一部機械的に風を入れて水分を50%飛ばす。その後ローリング20分。ここで茶葉に含まれる雑物を取り除く。そしてカッティング。茶葉を小さく砕く。それからソーティング。ここで細かいダストは下へ落ちる。大きなままの茶葉は再度カッティングへ。枝などを取り除き、最終段階へ。等級ごとにソートされた茶葉が乾燥機に入れられる。最後にパッキング。

説明者の女性が非常に明快だったので、更に突っ込んで茶の歴史を聞く。1867年にジェームズ・テーラーが中国から茶葉を持ち込んだことは昨日聞いたが、その後ハイブリットされ、今日に至った。それ以上はキャンディの博物館へ行くようにと言われる。ここのティールームではBOPF紅茶が振舞われた。かなり濃いお茶のようで、私は好きだが、一般的にはミルクを入れて飲むという。また砂糖はふんだんに入れるらしい。

次に向かった茶工場も案内人がいたが、彼は急いでいたらしく、説明も乱暴で、質問にもあまり答えずに、握手して、直ぐに車に乗ってどこかへ行ってしまった。これは仕方がないと次へ行こうとするとスマが一人のオジサンを捕まえていた。彼はここのスーパーバイザー、茶摘みの監督だ。昼休みにも拘らず、我々に付き合って話をしてくれた。仏教信者は有難い。

茶摘みは年中行われており、茶摘み女性のノルマは1日4時間、20㎏だという。これで賃金は515ルピー。20㎏以上摘む、または4時間以上働く場合は残業となり、1㎏あたり17ルピーが支払われる。ワーカーは皆タミル人で、子供の頃から親がやっている仕事を見ており、労働環境は良くないが、特に労働者が不足することもなく、皆働くという。農薬はあまり使わず、年2回程度撒くのみ。雑草を取るなど茶畑は手間が掛かると嘆くが、それほど嫌でもなさそうだった。ここでランチも取る。ビュッフェ形式だが、それほど美味しいと思わない。何だか似たようなものを食べている感じだ。運転手さんはご飯を山盛りにして手で食べている。

3軒目を訪れるもまた案内人に連れられて、工場見学。いい加減飽きてきた。そして歴史の話も出来ず、何となく中途半端に終了。日本の国旗が掲げられており、日本との取引があるようだが、具体的には分からない。不完全燃焼に終わる。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(2)キャンディ 古都を歩く

11月8日(木)  朝

殆ど眠れない状態で朝を迎えた。スマは5時には起きて瞑想等の行をするという。私は6時半に起きて、支度をする。階下でスマが朝食の用意をしていた。トースターでパンを焼いてくれた。お坊さんを使ってしまってよいのだろうか。フルーツも用意され、結構食べてしまう。

食後スマは率先して皿を洗う。お寺ではそうしているのだろう。その動作が実に機敏。私も反省して自分の使った皿を洗う。その後、この家の周りを散歩してみる。結構立派な家もあり、別荘地帯にも見える。少し行くと村外れとなり、田んぼが広がる。鳥が囀り、いい雰囲気である。

8時に出発し、先ずはこの家の大家に鍵を返しに行く。大家はスマの同僚だというのだが。実はスマは寺に所属する傍ら、コロンボ郊外のパーリ大学で教えていた。その大学の関係者らしい。この村から少し離れた所に彼女の家があった。こちらもそこそこの大きさがある家だったが、近々我々が泊まった方の家に引っ越すらしい。スリランカにもお金のある人が意外といるものだ。

3. キャンディ    ピンナラワの象の孤児園

キャンディに向かう。キャンディは仏教の聖地であり、最後の王国の首都であり、そしてスマの寺のある場所だと聞く。車はフォルクスワーゲン。日本車がかなりを占めるスリランカでは珍しい車だ。コロンボ郊外の大学へ通うスマの為に大学が提供しているようだ。コロンボ⇒キャンディ間は約100㎞。だが、道はカーブが多い片道一車線。バスもトラックも走るのでかなりの時間が掛かる。中国のような訳にはいかない。しかも途中で幹線を外れた。

ピンナラワという所に象の動物園があり、そこが面白いので連れて行くという。動物園と聞いてタイの象動物園を思い出す。象の上に乗ったり、餌をやったり。それは面白いだろうか。ところがここは孤児園だった。病気などで親を失った象を引き取り、育てているのだという。勿論国の施設だ。ただ外国人料金は高過ぎた。2000ルピー(日本円約1200円)と言えば、簡単なゲストハウスに泊まれる料金。スリランカ人は不要のようだから、観光客目当ての政策だ。インドと似ている。

象は100頭以上いるという。確かに広い敷地には沢山の象がいた。寝ころんでじゃれ合って遊んでいたり、かなり自由だ。スタッフが象と一緒に写真を撮ってあげるというので撮ってもらうとチップをくれという。国の施設なのにと思うが、国の施設だからとも思う。生まれたばかりの象も2頭いた。こんなに小さいのかと思うほど小さく、直ぐに大きくなるのだろうかと心配するほどのサイズだ。観光客にも一番人気。

メインイベントは100頭以上の象が、一斉に水浴び場に向かって歩いて行くところ。何と園を飛び出し、道路を渡り、のしのしと歩いて行く。このパフォーマンスを見るために時間を合わせて来ている観光客も多いようだ。

ランチ

キャンディの市内近くに来たところで、ランチを取るという。かなり立派なレストランに入る。まだ11時で誰もいない。スマは僧侶だから、食事は午前中に取るのだろうか。ビュッフェ形式、チキンカレーやチャーハンなどが並ぶ。野菜の煮込みなども含めて一通り取って食べてみる。味は悪くない。

周囲に客が増えてきたが、いずれも観光客。中国人の団体が相変わらずの大声で騒ぎながら、料理を取り、食事を始める。韓国人の団体もやって来た。出張者と思われる日本人も2人で食事をしている。そういえば、昨晩の飛行機では、前の席に日本人出張者が乗っていたのを思い出す。確かキャンディの近くへ行くと言っていたが、違う人だった。

この国では僧侶は尊敬されているのか、お客が増えて来ると、デザートは自動的にボーイが運んできた。フルーツは美味しかったが、ケーキは余りにも甘すぎて食べ切れない。先日のトルコを思い出し、苦笑する。恐らくスマはこのような場所で食事をすることはないだろう。私の為に態々やって来たようだ。感謝。

ペーラーデニヤ植物園と大学

街から少し離れた大学へ行った。大学と言っても相当の敷地に緑が溢れ、まるで植物園のよう。駐車場に車を停めると一人の若い坊さんがやって来た。スマの寺の若者で、この大学で勉強しているという。彼が大学内を案内してくれということでスマは去っていった。

スリランカ最古の大学で一番入るのが難しい大学。彼の説明では入試で満点を取った者だけが入学できるほど、厳しいという。大学の建物も由緒正しく、古い。図書館には相当の蔵書があるようだが、事前の許可が無ければ部外者は立ち入れない。

それにしても本当に恵まれたキャンパスで、大きな木の下で学生達が楽しそうのおしゃべりしている。木の下のベンチにはカップルが並び、恋愛も盛んなようだ。気が付くことは女子学生が非常に多いこと。70%以上が女子ではないかと思われる。内戦の影響で男が多く死んだから、と言われ、戦いがつい最近まであったことを初めて認識した。これが今後のスリランカの大きな問題なのだと知らされる。

横には大きな川も流れており、別のキャンパスには橋を渡って行く。本当に広い。橋にはサルが何匹もいて、愛嬌をふりまく。

隣と言ってもかなり離れているが、同じ名前の植物園へ行く。ここは1867年、イギリス人が中国から茶樹を持ち込んだ場所と言われ、来てみたが、当然茶樹などはない。これはカルカッタの植物園と同じパターンだ。

ここもかなり広い。迷子になりそうな大きさだ。ガイドブックには全て歩くとまる一日掛かるとある。1821年に出来たというから古い。しかもそれまでは王妃の庭園だったか。確かに相当に古い木が多数見られる。

日本庭園と言う名の庭もあったが、雰囲気は少し違う。オーキットガーデンは素晴らしい蘭の花が何種類も咲いて、良かった。こんな感じで一つ一つ見ていくと確かに相当の時間を要するのは間違いない。ここもデートスポットなのか、カップルが多い。

仏歯寺

キャンディ市内には大きな湖がある。ここが中心だ。そしてその横にあるのが仏歯寺。キャンディでは兎に角ここだけは行け、という聖地である。ブッダの葬儀の際に持ち出された歯はスリランカへ持ち込まれ、歴代王朝はこの仏歯を主権者の象徴とし、都の証とした。そのため歯は転々としたが、最後の王朝があったキャンディに落ち着いているという。

寺へ入るとスリランカの伝説の人物や初代首相セナナヤーケの像など様々な歴史が見える。そして寺はかなり新しく見えたが、2009年にテロ事件で破壊され、修復されたと聞く。仏教の聖地が異教徒の攻撃に遭う、どんなことだったのだろうか。ちょうど内戦が終結した時期であったので、残念な話だ。

靴を預けて中へ。本堂の前には沢山の信者が何をするでもなく座っていた。こんな光景は良い。木造の本堂の周囲を回り、2階へ上がる。薄暗い中に所々光がさし、良い雰囲気だ。残念ながら仏の歯を見る機会は殆どないとのことだが、それはそれでよい。毎年1度、ペラヘラ祭りという盛大な行事で仏歯を入れた箱を乗せた象が市内を練り歩くという。約2週間の行事だというから相当大掛かりだ。

寺の前にはクイーンズホテルという由緒正しそうなホテルが建っている。この周辺は外国人も多く見られる。私のPCが使えるかどうか試すためにインターネットカフェに立ち寄る。PC接続は可能とのことだったが、何と満員で席が無い。諦めて次回を期す。スリランカでも携帯とネットは今や必需品。毎月5000ルピーの通信費を使っている若者も多いという。

更にショッピングセンターを覗く。ジョルダーノなどの若者向けファッションが入居。スーパーマーケットに銀行もあり、お客はあまりいないが、少しずつ消費喚起が行われていることが分かる。このような最新のショッピングセンターがキャンディにあることも驚くが、恐らくはそれが中東のイスラム資本による進出だと行くともっと驚く。




スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅2012(1)コロンボ 空港でお坊さんの出迎えを受ける

【スリランカ お坊さんと行く紅茶畑の旅】 2012年11月7-20日

スリランカ、とても遠くて未知の島。少し前まで行こうとすら考えなかった場所。それが最近の紅茶ブームでインド、トルコなどを歩き、台湾、中国の紅茶を見て来ると、スリランカへ行かない訳にはいかない、と思うようになった。

ある大学の先生が「お茶に熱心なスリランカ人がコロンボに居る。紹介するから是非行け」と言ってくれたが、何と連絡先を聞く前に病気で亡くなってしまった。日本スリランカ協会の人を紹介する、とも言われたが、実現しなかった。そして特につてが無くても行ってしまう私の旅を始めようかとした矢先、「スリランカのお坊さんを紹介する、彼は北京にも留学していたとてもいい人」と言われ、連絡してみた。そのお坊さんの返事は「Do not worry。Take it easy!」。では行ってみよう、未知の国へ。

1.   ビザ

トルコを旅行中、日本人バックパッカーに出会った。彼と話をしている内に、「スリランカに行くには今年からビザがいる」ことを知る。そしてその申請はインターネットで行うことも併せて教えられる。

スリランカへ行く前にトルコ、バンコック、中国、日本を転戦し、中国上海でビザのことを直前に思い出し、申請しようとしたが、どこが公式ページか分からない。在日本のスリランカ大使館のHPを見に入ったがエラーと表示される。中国では取れないのか。検索を続けると一つのサイトが出て来た。だが入力を進めるうちに、聞いていた画面と異なることに気が付く。そして何よりビザ代が違う。米ドル20ドルのはずが、何故か英国ポンドで29ポンドとある。流石におかしいのでフィッシング詐欺を疑い、入力を途中で取りやめる。しかし止めたらスリランカ行はどうなるのか。

バンコックに戻り、再度大使館のHPから入るとちゃんと入れた。何故だろうか、中国は相変わらず不思議な国だ。そして入力を完了すると1分後にビザ取得のメールが届いた。これは単に入場料としてビザを申請させているだけなのだろうか。それともテロ対策の登録であろうか。あまりに簡単で少し驚く。

2.   コロンボへ到着   11月7日(水)  スリランカ航空

今回のコロンボ行きでは、当然エアアジアが安いだろと思い、最初にその予約を試みる。ところが10月11日を最後にネット上での予約は出来なくなっていた。バンコックーコロンボ線は今年運行を開始したが、当初は毎日1便であったのが、6月には早くも週3便に減便されており、恐らくは乗客数が伸びずに運休したものと思われる。

次に安いのはどこか、ネットで検索するとスリランカ航空と出た。そして出発と到着が意外といい時間である。特に到着が深夜になるキャセイとタイ航空は出来れば避けたかったので、スリランカにする。更にネットではなく旅行会社経由としたところ、料金がまた安くなり、結局往復2万円ちょっとで行けることとなった。エアアジアに競争力が無い理由が分かった気がする。

午後8時発のコロンボ行きは、マイナーエアラインに有りがちな1時間前が搭乗時間とされていた。普通は行って見ると搭乗は始まっておらず、遅れる人間が無いように早めに設定しているケースが多い。ところが50分前に行って見るとゲート前にはほとんど人影が無い。慌てて乗り込むと既にかなりの席が埋まっており、本当に1時間前に搭乗を開始したことが分かる。そして30分前には殆どの乗客は乗り込み、出発を待ったが、いつになっても出発しない。一体何が原因なのか、さっぱり分からずに定刻を過ぎてしまった。

隣はミャンマーからスリランカに勉強に来ている尼さんで英語も出来たので、スリランカの事情などを聴いている内にようやく出発。機内は広く、LCCとは違ってサービスも悪くない。食事も出るし、飲み物もある。食事はちょっと中華風、デザートはかなりあまいスリランカ風。紅茶は何となくおいしく感じられる。

周囲をよく見るとなぜか中国人が多い。観光客もいるが、どうみても観光には見えない男たちが10数人ほど乗っており、入国カードの書き方などを皆で議論している。恐らく彼らは出稼ぎ者だろう。訛りが強い普通話を使っており、北の人間であることは間違いない。機内には中国人CAも乗っており、普通話の機内放送すらあった。スリランカと中国はそれ程密接な関係にあるのか、ちょっと不思議であった。

空港で

出発は遅れたが、定刻にコロンボの空港に着いた。空港は大きくはないが綺麗であった。これも日本のODAだろうか。例の中国人達は入国カウンターには進まず、別の場所へ行く。どうやらビザの申請らしい。アライバルビザも可能であった。なんだ。

入国審査は簡単でビザ認可のコピーを提示しなくても、名前で分かるらしく、直ぐにビザのシールをパスポートに張ってくれた。これは早い。そして預けた荷物を待つ。直ぐにテーブルが回り始めたが、荷物が多過ぎるのか、なかなか自分の荷物が出て来ない。バンコックの空港で手荷物は1つだけと言われて、素直に従ったのが恨めしい。他に乗客は2-3個平気で持ち込んでいたのに。

乗客の中のインド人と思われる人間が非常に横柄な態度でポーターを使って荷物を探している。どうもこういうことに慣れていない日本人は反感を持ってしまうが、使われるスリランカ人も習慣なのか、平気な顔をしている。だが荷物は見付からず、何と別の空港へ行ってしまったらしい。私の荷物もまさか同じように、と思い始めた頃、ようやく出て来てホッとした。

荷物検査もなく、直ぐに外へ出る。先ずは両替をする。そして迎えが待つ場所へ出てみた。今回はお坊さんが来てくれているので、直ぐに分かると思っていた。そして一番前にお坊さんが立っていたので、そこの前へ行ってみたが、立派なお坊さんは全く無反応であった。人違いかと思い、更に探したが、見当たらない。と思うと、さっきのお坊さんが背後に立ち、私の名を呼んだ。恐らく彼は私が日本人に見えなかったに違いない。私もそのお坊さん、スマがもっと若いと勝手に想像していた。

知り合いの豪華な家

私を車に乗せたスマはコロンボ市内とは反対の方角へ進んだ。時間は既に夜の11時。車はあまり走っておらず、道も明るくはないが、意外とスムーズ。車はある村に入り、大きな門の前で止まる。スマの知り合いの家だと聞いたが、相当大きな家だった。

中へ入ると、2階建てリビングにはソファーセットが2つあり、2階にもリビングに相当する場所があり、ソファーセットがあった。部屋はいくつあるのだろう。日本なら豪邸だろう。だがこの家、まだ人は住んでいない。今晩は運転手を含めて3人が泊まる。

スマが言う。この家には何もないので、簡単な食事を買ってきておいたと。スリランカのレストランはコロンボの繁華街以外は8時頃には閉まってしまうのだという。ダイニングテーブルの上を見て少し驚く。何とマックの袋が置いてあった。スリランカにマック、そしてお坊さんとマック。何となくそぐわない感じだが、スマに寄ればマックは以前からあるという。紅茶のティバッグを淹れながら、冷えたチキンバーガーを食べる。何となく可笑しみがある。しかし考えてみれば偉いお坊さんの手を煩わせる、有難い話である。

夜も遅いので早々に寝る。私が宛がわれた2階の部屋は大きかったが、何とドアがキチンと閉まらなかった。特に問題はないし、何となく暑いのでそのまま寝ようとしたが、蚊が何匹もいるようで、耳元で煩い。煩いだけでなく刺してくるので始末が悪い。寝るどころではなかった。3時間ほど格闘し、疲れ果てて浅い眠りに入った。