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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(2)こんな所にもシルクロードが

西双版納

空港に着いくと、荷物がなかなか出てこない。私の荷物は何と一番最後に出てきた。なぜだろうか。それにしても深夜に大勢の人が空港に居るものだ。空港には鉈先生のパートナーである中国人王さんが迎えに来ていた。彼ら2人の中国語での会話は微妙に食い違っていたが、なぜかそれでも通じ合い、意思疎通ができていたのはなんとも不思議だった。語学は通じることが一番だ。この日はホテルへ送ってもらい、明日の出発時間だけを決めて、鉈先生をしり目に、すぐに寝込んだ。

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4月8日(金)

翌朝は7時に起き、ホテルで朝食。雲南らしく、麺線があり、麺を茹でてもらったら、後は自分で好きな具を入れ、味付けして食べる。朝から食べ過ぎになってしまった。このホテルは雲南の農墾集団が経営していた。農墾といえば、中国各地に存在するかつての屯田兵。戦後余った兵士の行き場として、辺境の防御と開墾に従事した一団で、今では豊富な土地と資金で、大規模な開発などを手掛けている。

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8時にはチェックアウトして、銀行を探した。実は私は前回のシベリア鉄道の旅で中国の銀行カードを曲げてしまっていた。160時間も列車に乗っていれば、そんなことも起こるだろう。ATMに入れてもし引っかかって出てこないと文無しになってしまうので、銀行窓口で現金を下ろしたかった。だが私の銀行口座は北京が本店の銀行で、何と西双版納には支店は1つもなかった。鉈先生には、人民元は私が払います、などと大きなことを言ってしまったのだが、それは出来なくなってしまった。仕方なく鉈先生が現金を下ろし、出発した。ラオスでも取引は人民元なのである。

 

それから3時間、高速道路だと言われながらも、人が歩いていたり、車が脇から突っ込んでくる道を制限時速100㎞で走っていく。いくつもの長い橋が架かっているのは、元々このあたりに山や谷が多いからだろう。きっと難工事だったに違いない。しかしこの道の脇には、更に本当の高速道路を建設している。これが出来るとラオス国境までは2時間で行くようになるというのだが、現在の道をちゃんと整備すれば済む話のようにも思える。とにかく未だに、中国はインフラ建設ラッシュなのである。特に国境は予算が付きやすいのだろう。

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国境の街 モーハン

モーハンはタイやラオスの田舎によく見られるダラッとした街並みだった。東盟大道(アセアン大通り)というのがメインストリート。取り敢えず昼飯を食べるために入ったレストランは清真飯店だった。ヒジャブを被った女性が調理場に立っていた。回族なのだろうか?周囲を散策すると、西安とか蘭州とか、かつてのシルクロードの地名がいくつも張られていた。なぜかトラックのナンバーも西安のある陝西省から来るものが多いように見えたのは、ただの気のせいなのだろうか。

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シルクロードと一口に言っても、我々が普通に思い描く道は、いわゆる新疆ウイグルを通るオアシスロードであるが、その他にも北上したステップロードや海の道でもシルクは運ばれた。そして全く注目されてはいないが、恐らくは西安から南下して、雲南経由でビルマへ抜けたルートも存在していたはずだ。そしてそれは今でも健在だという証がここに見られる。この辺境の地に来て、ロマンを掻き立てられるのはなんともうれしい。

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車は国境で停まった。ここからは歩いて国境を潜る。何とも緊張感のない出国だった。入口のところでは、両替屋さんが何人か立っていた。人民元をラオキープに替えるところがないため、このような商売が成り立つらしい。ラオスに入ると人民元を受け取らない店もあるだろうから、これは必要悪だと言える。

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中国側を出たところには免税店もある。かなりきれいな店内には、酒やたばこなど、ラオスにもっていく土産がたくさん売られていた。そもそもこの国境、分不相応に立派である。中国の国境にはよくあることがだが、相手国に対するこけおどし、ということだろうか。人間は早く出てきたが、車はそうはいかない。チェックが厳しいようで、そこで結構な時間を待つ。その間にも、トラックがどんどん通っていく。ラオスに向かうトラックの荷台は空が多い。ラオスから帰るトラックには、バナナが積まれているものが多くみられた。ラオスでバナナが作られているのだろうか。

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ラオス側も相応に立派な建物だった。ラオス人や中国人はイミグレでお金を渡していた。一瞬賄賂なのかと思ったら、パスポートでなく通行証(両国人のみ有効)の場合、1万kの支払いが義務付けられていた。私たち外国人はすんなり通過した。そこは早かったのだが、その先に税関があり、車が集中していた。作業効率も相当悪いようで、いつまで経っても車は出発できない。もうすぐ水かけ祭りなので、その影響もあるのだろうか。ただボーとするしかない。

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結局昼前にはモーハンの国境についていたのだが、食事をして国境を越えるのに3時間かかり、出発したのは午後3時になってしまった。走り始めてすぐに車が停まる。何と車両保険を買いに行っている。ラオスでは保険加入が義務付けられており、入らないで走っていると相当罰金を取られるらしい。その保険は外資系であり、ラオスではどういう仕組みが働いているのか、よくわからない。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(1)フライトディレーも這って西双版納へ

《鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016》  2016年4月7日-4月15日

2月初めのラオス行きは苦難の果てにミッションを果たせず終了した。何とも悔しい思いを抱えてさらに苦しい茶旅を続けていたが、そんな中、2月のラオス行き指令を出したSさん(以降鉈先生)から、『4月にラオスに行こうと思う』との連絡が入り、『リベンジ』を胸に参加することにした。ただ決め手は『タイからバスで入るよりずっと近いですよ、雲南から車で入るのですぐです』という鉈先生の言葉だったが、これを信じた私はバカだった?

4月7日(木)
1. 西双版納まで
フライトディレーで

今日の日程はかなり過酷なものだった。エアチャイナで上海-昆明、更には東方航空で西双版納まで一気に進む。まずは朝4時に起きて始発電車で成田空港へ向かう。当初は成田に泊まらないと間に合わないかと思っていたが、京王線の始発電車がいつの間に早まっており、頑張れば間に合うことが分かる。それもいつもと違うルートが速い。渋谷から半蔵門線で押上へ出て、そこからアクセス特急に乗れば、7時には成田空港へ到着するのだ。何だか普段より早い気がする。料金も変わらないので、この始発は使えるな。

 

成田空港で鉈先生の到着を待つ。フライトは8:55。1時間半前にはチェックインが完了し、順調に滑り出した。このフライト、北京拠点のエアチャイナがなぜか上海へ行く。朝が早い成田、ということもあり、料金が非常に安い。恐らく普通の北京往復の値段で昆明までの往復ができる。前回は3月に羽田発7:05というフライトに乗ったがガラガラだった。今回もそうかと思っていると、ほぼ満席。ちょうど桜シーズンだからだろうか。機内食で斬新な唐揚げ麺が登場したのは面白かった。色々と工夫はしているが、エアチャイナの機内はCAが客を管理する感じが捨てきれない。客はなぜ文句を言わないのだろうか。

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上海には昼過ぎに到着して、荷物を一度取り、国内線カウンターでチェックインし直す。普通は乗り継ぎカウンターなるものがあるのだが、それもない。浦東空港、どうなっているのだろうか。そしてカウンターでチェックインしようとすると『お客様のフライトは2時間のディレーです』と告げられる。もし2時間ディレーしてしまうと、昆明から西双版納への乗り継ぎが不可能となり、日程が大幅に狂ってしまう。

 

何とかならないかと何度も交渉したが、ここは上海、エアチャイナの昆明行きはこの一便しかなく、代替できなかった。しかしこの国のやり方は『諦めないこと』だ。その内責任者が出てきて相談が始まり、ついには『15時の南方航空が昆明に行く。現在満席だが、もし空席があれば乗せてもいい』ということになった。ギャンブル的なウエーティング?面白い、それに賭けてみよう!ということになる。

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まだだいぶ時間があったので、暇つぶしに永和豆乳大王に入り、豆乳を飲む。1杯7元で1時間以上粘ってしまう。今や中国人の方がお金持ち、みんな50元もするランチを食べている。さぞや貧しい日本人に見たことだろう。でも腹も減っていなかったので仕方がない。そして出発40分前にカウンターへ行き、おじさんに南方航空へ連れていかれ、カウンターで聞いてくれると、何とあった、2席のみ!

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しかしすでに出発30分前だ。荷物検査は当然長蛇の列、ここに並んでいては折角確保したフライトに乗り遅れてしまう。ここはVIPゲートへ直進してチケットを見せるとすんなり通過できた。こういう急ぎ客は必ずいるものだ。急いで搭乗口まで行くとまだ搭乗は始まっていなかった。機内に入ると、我々の席は本当に一番後ろ。まさにぎりぎりの搭乗だったのだ。これは運が良いと言わざるを得ない。

 

エアチャイナに比べて南方航空のサービスは洗練されているように見えた。少なくともCAに笑顔があり、その顧客の要求に対する対応が柔らかい。機内食は美味しいとは言えないが、トレーを廃して、ボックスで配るのは簡単でよい。席が一番後ろということは皆がトイレにやってくるので、私の席の横は人だらけになり、ひどい目に合う。これもディレーの代償だった。

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昆明空港に着くと、元々予約していたエアチャイナ便より早く着いてしまったので、西双版納行の便を早められないか、乗り継ぎカウンターで聞いてみたが、なんと『ここでは分らないので一度外へ出てチェックインカウンターへ行け。但しかなり混んでいるので席は保証できない』と言われ、愕然となる。時刻表を見ると西双版納行は何便もあるのだが、そんなに乗客がいるのだろうか。仕方なく当初予約の21:50発のフライトを待つことにした。

 

昆明空港は何とも広い。そのフライトはその一番端から出発するということで、長い道を歩いた。既に相当に疲れがたまっており、眠さも加わっていた。やはりこれはかなりの強行軍だった。しかし私が決めたわけではない。ただ付いていくだけ、それが私のポリシーだ。ついに搭乗時間となり、確かに満席のフライトは僅か50分ほどで西双版納に着いた。勿論機内食などなく、水が一本配られただけだった。

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ラオスポンサリー茶旅2016(12)ビエンチャンでも体調が

結局ラオシルクというホテルに入った。体はもう限界で、23ドル(朝飯付き)でOKした。部屋は狭いが熱い湯が出たので、それだけで十分に満足した。シャワーを浴びると生き返ってくる。次にすべきは明日のフライト予約だが、部屋ではWi-Fiが弱く、航空会社のサイトが開けず、予約ができない。ロビーに降りるときれいなカフェになっており、そこで何とかネットを繋ぎ、チケットを得た。だが今日の明日、ということもあり、料金は安くなかった。25時間乗ったバス代の5倍以上もした。これは決して速さを金で買ったのではない。ラオ航空よりバンコックエアーの方が安いという状況であり、もう何でもいいからとにかく逃げるようにバンコックに戻ることにした。

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ところで今回はビエンチャン在住のMさんに連絡を取っていた。体調が思わしくないのでどうしたものかと思っていたが、彼の方からホテルに来てくれるというので、ロビーで会った。ほんのちょっと会って話すだけのつもりでいたが、彼から韓国の話や東南アジアの話が次々に出てきて、気が付くと日が暮れていた。まさかこんなに話し込むとは。私も25時間のバスの旅で日本語が恋しくなっていたのかもしれない。まあ元気が出てきてよかった。

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少し元気になると腹が減る。ただ普通の食事が難しそうだったので、うどんのような麺を食べたいといったが、タイのクイッティアオのような麺は夜はやっていない。そこで彼が奥さんとよく行くという店に連れて行ってくれた。チャーシュー入りのラーメンだったが、すきっ腹には何とも有り難い味だった。ゆっくり食べるつもりがすぐに完食してしまった。やはり25時間バスの旅で何も食べなかったというのは、何とも異常なことであり、体への負担は大きかった。

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既に夜の9時、ここで別れるつもりだったが、お茶が飲みたくなる。すると向かいの店に案内される。ここが彼の奥さんの実家だと言い、熱いお茶は無料だと言って、出してくれた。何とも申し訳ないことだ。店の外ではお客さんが冷たい飲み物を飲んでいる。結局10時頃まで話し込み、奥さんが迎えに来て、ようやく終了した。なんでこんなに長い時間話した、いや話すことがあったのだろうか。自分でも全く訳が分からないが、その時はかなり元気になっていたから不思議だ。

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帰り道は分るからと言ってMさんと別れたのだが、なんとそこから道に迷ってしまった。そんなに難しいはずもなく、以前もビエンチャンに来たときは通った道のはずだった。最近どうも方向感覚がおかしい。夜の街は一度迷うとなかなか感が取り戻せない。ついに川辺に出て何とか道が分かった。ビエンチャンは1年ぶりぐらいだが、その変化は他のアジア諸国の首都と比べれば少ない方だろう。それでも店がきれいになっていたりして、分りにくくはなっている。

 

2月5日(金)

朝食のパンは美味かった

翌朝はゆっくりと起き上がる。バスの疲れ、というより、寝違いを起こしており、首筋が痛かったが、それでも心地よい目覚めとなった。やはり朝はこうでなければいけない。そして体調は引き続き悪かったが、どうしても朝食は食べたかった。それはパンがあったから。このホテルの食事はビュッフェではなく、オーダーするスタイル。目玉焼きとベーコンを頼み、思いっきりフランスパンをかじった。私が食べたかったのはこれだ、と感動する。

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食事が終わってもWi-Fiがよく繋がるこのテーブルを離れずに、PCでメールの処理かなどをやり続けた。既に次の旅、スリランカが待っていた。その準備やら、バンコックに戻った際のアレンジやらで、かなりの時間を取られる。今回のポンサリー行の意味はよく分からなかったが、次に進むしか私には道はない。そしてポンサリーのリベンジも。

 

11時頃にはチェックアウト。ホテルで空港行のトゥクを頼もうとしたが、7万kと言われて、外へ出て探す。初めは6万kと言った運転手があっさり4万kまで譲った。昼間は客がいなのだろうか、それともコレが相場だろうか。まあ昨日のバスターミナルからここまでが5万だから、空港まで4万でよいのではないか。ビエンチャンの昼間の日差しはかなり強い。山とは全然違っている。それでも風は吹き、空港までの道は空いており、すぐに到着してしまった。

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チェックインもスムーズ。出国審査も順調だった。そしてバンコックエアーはエコノミークラスでもラウンジが使えるという特典がある。だがこのラウンジ、Wi-Fiのパスワードをくれたのに、1つも繋がらない。他の客も首を傾げているので、容量が小さ過ぎるのか、それとも最初から繋がらないのか。ビエンチャン空港全体がWi-Fiにはまだ対応できていない。アジアの空港はこの辺がどんどん進化している。次回来た時は進歩しているだろうか。

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仕方なく、クッキーを食べ、ジュースを飲む。グレープジュースがやけに美味いと感じ、2杯も飲む。このジュースがいけなかった。またおなかがゴロゴロ言い始めている。それなのに更に、20分遅れて出発したフライトで機内食が出てきて、それも食べてしまった。バンコックに着いたときは、また以前のように体調が最悪になっていた。今回のバス旅、合計は40時間、その疲れはそう簡単に抜けるものではない。果たしてスリランカには行けるのだろうか。

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ラオスポンサリー茶旅2016(11)25時間バスに乗り、疲れ果てる

延々と続く道を

実は乗ったベッドに非常に問題があった。最初は気が付かなかったが、乗客が増えて車内が暑くなり、エアコンをガンガン掛けて初めて分かった。エアコン調節機が壊れていて、冷たい風が直接頭に当たってきた。最初は我慢していたが、このバカ寒では必ず風邪をひく。元々体調がよくないのだから、首にタオルを巻き、必死にこらえたのだが、それも限界がやってきた。体が凍り付き始める。休憩所に停まった時、ふと気が付いた。反対向きに寝ればよいと。だがこの向きだと、にいちゃんの顔の横に私の足が来る、ということはにいちゃんの足も私の横になる。仕方ない。勿論足は寒いが、このほうがまだマシだった。

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懐かしいウドムサイに着いたのは夜の10時半。ここまで順調にバスは進んでいたが、私の体調は悪くなるばかりだった。途中の食事休憩でも何も食べられず、そしてなにも飲めなかった。ただひたすら、トイレに行き、体を動かして、寒さに耐えていた。そして徐々に乗客が降り始め、隣のにいちゃんも笑顔で降りていった。にいちゃんの寝ていた位置に頭を置いてみると、なんと完全に冷風が直撃していた。よく耐えていたなあ、彼。

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乗客が減ると、寒さがさらに堪えた。運転手も車掌も若いので平気らしい。私も一人になったが、まだほかのベッドへ移るほどには空いておらず、その内ウトウトしてしまった。全くの暗闇の中を行くバス、景色を見ることもなかった。ただこの韓国現代製のバスは夜間、七色に光っている。何のためにこんなどぎつい色を使っているのか、夜間の山道走行の安全のためなのか、全く意味不明であるが、これも慣れてくると、気にならなくなり、少しずつ眠りに落ちていく。

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2月4日(木)

3:30にルアンプラバーンに着いた。ここは有名な観光地で、私も前に一度来て気に入っている。是非ともここで降りたい気分だった。既に13時間半もバスに乗っているのだから、降りたくもなる。だが午前4時のターミナルには全く人気はなく、トイレに行くのも怖かった。きれいなターミナルからは誰も乗ってこないし、そこそこの人が降りたのでバスは空いてきた。ついにベッドを移ることができた。何と快適なのだろうか。これまでの苦行は一体何だったのか?そのまま明るくなるまでぐっすり眠りに就く。素晴らしい、と夢見心地になりながら。

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朝7:30に欧米人に人気があると聞くバンビエンを通過した。郊外のバス停でバックパックを背負った白人が3人、乗ってきた。8:00にはアンバインというところで、休憩となる。私はもうここまで来たのだから、バスを降りるまで何も食べないことを決心したが、熱いお茶だけは飲みたかった。だが残念ながらそれはなかった。

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スロベニアから来たという男性が乗っていた。昨日バンビエンまで来て気に入ったので、今日は荷物を置いてある別の村まで戻り、自転車でもう一度バンビエンを目指す。スロベニアでは旅行会社を経営していると言い、趣味と実益を兼ねた旅のようだった。『ヨーロッパにはイスラム教徒が押し寄せてきていて、今後は危うい。アジアの片隅でゆっくりした』とぽつりと言った言葉が印象に残る。スロベニアもそのうち戦渦に巻き込まれる、と言いそうな勢いだった。こののどかな朝には信じられないが、そんなことが現実に起こらないことを祈る。

 

日が昇り、徐々に暑くなる。後はバスに乗ってひたすら耐えるだけだった。一体何時になればビエンチャンに着くのだろうか。皆目わからない。その内に道路表示にビエンチャンの文字が出てきたので、もうすぐだと思っていたが、そこからも長かった。道はどんどん良くなるが車の通行量も増え、なかなか前に進まない。24時間経った午後2時にバスは一瞬停まったが、これもトイレ休憩。なぜかそこには干し魚が大量に売られていた。もう美味しそうだ、などと見る余裕もない。疲れ果てていた。そして午後3時、ついにバスはビエンチャンに着いた。25時間もバスに乗り続けてのは生まれて初めてだったが、もう2度と経験したくはない。

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 8.ビエンチャン
郊外のターミナルから

バスでビエンチャンに来たことはなかった。ここがどこかもわからない。バスを降りるとトゥクトゥクの運転手が寄ってきて、『どこへ行くんだ?』と聞いてきたが、私はどこへ行くのだろうか。何も決めていなかった。だがこの疲労度合からして、ビエンチャンに一泊してから、飛行機でバンコックへ戻ろうと自然に考える。

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街の中心は確かナンプーといったような気がした。客がいないので5万kだと運転手が覗き込むように言う。少し高いような気もしたが、疲れていたのでそれに乗ることにした。運転手はそれからも客を探したが、ついに諦めて出発した。ところが走り出すとすぐに後ろから日本製のバスがやってきた。例のODAバスだが、何とここから市内へ向けて走っているではないか。聞くところによれば1人、5000kだったとか。僅か15分で見慣れたビエンチャンの景色に出くわし、何となく釈然としないが、まあ無事に着いただけで良しとしよう。

 

ビエンチャンはポンサリーと違い、暑かった。その中ホテルを探して歩く。以前よく泊まっていたホテルはなぜか閉まっているようだった。ナンプー付近には安宿が沢山あると聞いていたが、ちょっときれいな宿は未だ昼間だというのに『満室』という表示が出ている。さすがにもう中国の旧正月、中国人観光客の姿が至る所で見られた。

ラオスポンサリー茶旅2016(10)予約したトゥクトゥクが来ない

2月3日(水)
最後の日

翌朝は早く起きた。当たり前だ、前日は8時には寝たのだから。今日は鳥の鳴き声が聞こえる。外はかなりの霧がかかっていた。今日のフライトがあったとしても、これはダメだったかもしれない。バスに乗る諦めがついた。午前中はずっと部屋でPCをいじっていた。バスに乗れば、全ての通信が遮断され、何もできなくなるのだ。

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それでも11時頃になるとやはり腹が減ってきた。丸一日以上、ものを食べていないのだから、当然だ。クッキーなどは持っているがこれはとても食べられない。さてどうするか、と考えて、例のレストランにパンがあるのを思い出す。トーストなら食えそうだった。だが行ってみると『没有』と言われてしまう。何と旧正月直前でパン職人が国に帰ったというのだ。えー、ここのパン職人は中国人なのか。ラオスはフランス植民地だったからパンがうまいと思っていたのに、この田舎までフランスは来なかったらしい。とても残念な思いだ!

 

奥さんに『この辺で麺が食えるところは?』と聞くと、この道を這い上がったところに市場があると教えられ、そこへ行ってみる。小さいが街の市場だった。そして麺を茹でる湯気が気持ちよく上がっており、思わず中へ吸い込まれる。取り敢えずスープでも啜って、英気を養おうかと思っていてが、あまりにうまそうなので、つい麺も食べてしまう。2日ぶりの食事だった。それにしても田舎の麺はなんとも量が多い。肉や野菜もふんだんに入っており、結局全部食べてしまった。これは腹にもたれると思ったが、後の祭り。1.2万k。

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そしてとうとうポンサリーを離れることに。この街にはタクシーはなく、バスターミナルへ行く路線バスもないと言われた。ただトゥクトゥクが通れば、それに乗って行くのだという。だが私は体調も悪かったし、それなりに荷物も持っていたので、昨日のうちにツーリストインフォメーションの女性に頼んで、トゥクトゥクを予約していた。既に4万kの支払いも済んでおり、これで安心と思って、宿をチェックアウトしたのだが。

 

12時半に予約したトゥクトゥクはいくら待っても来なかった。教えられた携帯番号にかけても誰も出ない。ちょっと焦って、『どうしたものだろうか』と婆さんに聞いてみると、『歩いて行け』の一言だけ。トゥクトゥクに乗れば10分だが、歩くと30分は掛かりそうだったが、こうして待っていても埒が明かない。ここはそういう場所なのだ、私はどうしても2時のバスに乗らなければならないのだと、1時前には歩く決心を固める。

 

そして30分、下り坂とはいえ、荷物を引いて歩いていくのはそこそこ大変だった。それでも待っているイライラよりはずっとましに思えた。雨が降らなかったのも幸いだった。一昨日も昨日も通った道だったが、歩くと遠く感じる。途中で道を聞くと親切に教えてもらえた。そして何とかバスターミナルに着いた時にはさすがに汗が出ていた。

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バスチケットは難なく買えた。25万k、これまでで最高額であり、ビエンチャンまでが如何に遠いかを思い知った。そしてバスに荷物を載せ、自分も乗り込む。上下2段のスリーパー。ひとつのベッドは意外と広い。これなら快適な旅が送れそうだ。出発前にトイレを探していると携帯が鳴る。何とツーリストインフォの女性が『今どこにいるの?トゥクが迎えに行ったのに』というではないか。なぜ12時半に来なかったのだ、と詰め寄ると『予定が変わったので1時半になった』と言い、ではなぜ変更を連絡しなかったんだ、と聞けば、『連絡先が分らなかった』、ではなぜ電話に出なかったのか?と問い詰めると、ついに黙ってしまった。

 

当方が歩いてターミナルに着いたと知ると、さすがにバツが悪かったのだろう。『お金は3万k返す。運転手がこれからターミナルへ行く』と言ってきたので、それで了承したが、ついに2時の出発までに運転手は現れず、私のお金は戻らなかった。何といい加減なのだろうか?まあラオスはこんなものだろう、と諦める。バスが定刻に出発しただけでも良しとした。

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 7.ビエンチャンまで
2人で1つのベッド

乗客の中に外国人は一人も見られなかったが、ポンサリーからウドムサイまでは、一昨日既に経験済みだったので、あまり心配してはいなかった。だが最初の休憩所であるボーヌアあたりで、すでにバスは満員になった。そしてなんと、私のところにラオ人のにいちゃんが同居してきた。このベッドは2人で1つを使うのだと初めて分かった。さすがに男女はできるだけ別にするように各人が配慮していたが、知らない男が横で寝ているというのも、男の私でもかなり気にかかる。

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だが、さらにバスは超満員になり、通路まで一杯に人が溢れた。横になっていられるのはかなり幸運なのだ、と思うようにした。それでもかなりの揺れである。となりのベッドのお姐さんはずっと吐いている。可哀想だがどうすることもできない。行きのバスでのおばさんが同じ状況だったが、ラオスではまだ乗り物に慣れていない人がかなりいるように思う。

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途中でガソリンスタンドに寄る。日本なら乗客が乗る前の準備で満タンにしておくのだろうが、こちらではすべて乗務時間中に行う規定があるようだ。顧客サービスではなく、乗客のための運行してやっている、という感覚はさすがに社会主義国だ。昔の中国も同じだった。先日のミャンマーでもそうだった。1ℓ、7500前後。ラオスでは安いとは言えないガソリン代だが、日本に比べれば安い。

 

ラオスポンサリー茶旅2016(9)ラオ人の嫁をもらう中国人

ポンサリーの中国系

ソンテウに揺られて街に戻る。茶畑にいる間は元気だったのだが、戻ってくるとがっくりと疲れた。皆と別れて宿に戻り、休息した。だが水分が欲しい。お湯がない、という状態は続いていた。婆さんと交渉する気力がない。仕方なくまた例のレストランへ行き、熱いリプトン紅茶(5000k)を飲む。ゆっくりと水分補給する。

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このレストラン、従業員はラオ人だが、オーナーは中国系で奥さんは中国語が通じた。先代がここへ流れてきて、彼女は嫁に入ったらしい。『中国系は多いが、基本的にこの街は発展していない、静かなところだ』と笑っている。なんだか皆でうまそうなものを作っているので見てみると、鶏肉をご飯で包んだ弁当だった。大量注文でもあったのだろうか。忙しそうなので、早々に切り上げて宿へ戻った。

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宿代を払おうと婆さんに人民元を出してみると『ノー』と言われてしまう。さすがラオ人、キープしか受け取らないらしい。ラオキープが少ないので、ATMで引き出そう向かったが、お金は出てこなかった。ウドムサイではできたタイカードでの引き出し、ここではなぜできないのか。オランダ人が『僕のクレジットカードでも出なかった』というので、仕方なく銀行へ行く。銀行はこの街としては立派な建物だった。

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中に入ると警備員が『何の用だ』という顔をしたので、両替だと言ったが通じず窓口まで行き、その旨を伝えると『通貨は?』と聞かれたので、米ドルを出してみる。すると『まずあっちに行って』と指さされた部屋へ行く。そこでは米ドルが偽札かどうか、機械で鑑定していた。それから申請書を書いて窓口へ出す。2か所ぐらいでチェックされ、何とかラオキープが出てきたが、またさっきの部屋へ行けという。なんとラオキープまで、機械でチェックしている。いや、枚数を数えているのだろうか。それにしても厳重な両替だった。

 

小さな街をフラフラすると、ちょうど目が合った男性がいた。顔を見て中国人と判断し、中国語で話しかけるととても喜んだ。湖南省から来たという。『何を売っているのか?』と聞くと、『ここで売れるものは何でも』と答える。なるほど、確かに日用雑貨から農業用品まで様々なものが雑多に置かれていた。若くはみえるが、年齢は40歳近く。数年前に湖南省からここにやってきて、中国の物資を運び、小商いをしていて、住み着いたらしい。因みに物資の仕入れは人民元で、販売はラオキープだから、人民元の急上昇は堪えたに違いないが、本人は『価格に反映しているから問題ない』とはっきり言う。

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まあ、この建屋を建てたのだから、商売はそれなりにうまくいっているのだろう。『何しろ嫁をもらったしな』というのだが、『現在中国女は結婚条件が厳しすぎて、自分のような金のない人間は結婚できないのさ。でもここではちょっと商いしているだけで嫁が来る。子供も養える。中国よりずっといいよ』と説明してくれる。最近中国男性がこちらへ来て、ラオ人の嫁をもらうことが増えているらしい。中国側はそれでよいかもしれないが、ラオス側はどうなのだろうか?ラオスの中国化は進むのか!

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それから宿に戻り、ぐったりと休む。そして夕方昨日行った店にもう一度、ミッションの一部でもできないかと出掛けてみた。実は昨日英語のできる若者が『明日の夕方なら、時間があるかもしれない。茶畑に連れていくことも可能かも』と言っていたので、来てみたのだが、なんと彼は不在だった。まあ既に茶畑には行ってみ見てきたので問題はない。ただ紅茶のサンプルがもらえなかったのは残念だ。

 

夜7時ごろ、暗くなったところを見計らったように停電になった。完全に部屋が真っ暗になり、周囲を見てもどこにも灯りがない。これは困った、懐中電灯が部屋にあるかもわからない。昔インドで身に染みた『部屋に入った自分の荷物の位置は確実に頭に入れろ!』を怠っていた。仕方なく、そろそろと部屋の外へ出てみた。月明かりが多少ある。何とか前に進めたので、母屋の方へ行く。だが当たり前だが誰もいないし、誰も出てこない。

 

どうしようかと思っていると突然私が何かに照らされた。結構焦った。誰だ、と思ってみたが光ってよくわからない。『俺だよ、ヨセフだ』と声を聴いて、唖然。ここに居るはずのない彼がなぜかいた。彼は用意がよく、頭にライトを点けて歩いていたのだ。『ちょうど部屋が空いたというので、この宿に引っ越したばかりだ』という。そんな話をしていると、ちょうど電気が戻ってきた。『後ほどレストランで会おう』と彼は言ったが、私はたぶん行くことができない。彼は明日朝から3日間のトレッキングだというから、もう会うことはないだろう。

 

あたしの腹の具合は一向に良くならなかった。何かを食べれば下す、という状態だったので、食べないのが一番、という結論に達していた。何しろ明日は24時間バスに乗り続けるのだから、下手なことはできない。準備としてまたいつ停電になるかわからないのでカメラの充電をして、シャワーを急いで浴びて、ベッドに潜ってしまった。今晩は宴会もなく、トイレに行くこともなく、ぐっすりと眠ることができた。

 

ラオスポンサリー茶旅2016(8)即席茶園ツアー

即席茶園ツアー

今日は体調が悪いので休養日にあて、明日の長距離バスの旅に備えようと思ったが、ツーリストオフィスに貼ってある茶畑の写真が気になってしまう。これは習性だろうか。何となく聞いてみると、茶畑に行くツアーはないが、ソンテウをチャーターすればそこには行けるという。体調が悪いはずなのに、ムクムクと行く気になってくる自分が怖い。だが料金は30万k。これはさすがに一人で借り切るには高過ぎた。『他の人とシェアすれば安くなる』と言われ、誰か来ないかなと思ってしまう。そして突然『そうだ、ヨセフに声を掛けてみよう』と思い付き、例のレストランへ戻る。そこでは皆が集結していた。ヨゼフに今日の予定を聞くと、『明日からのトレッキングのアレンジ』との答え。茶畑に行こうと思うんだけど、というと、『ぜひ一緒に行こう!』と言ってくれる。

 

しかもそこにいたドイツ人、オランダ人、イギリス人カップルも行きたいという。これで6人になった。10:30にツーリストインフォメーションに集合する、即席茶畑ツアーが完成した。料金は当初の30万から42万に上がったが、それでも一人頭7万kと、ぐっと安くなった。これは面白くなってきた。体調が悪いことも完全に忘れてしまっていた。10:30に行ってみると、ソンテウは来ていない。まあ、ラオスの田舎だから仕方がない。メンバーは徐々に集まってきたが、ヨセフが『アメリカ人の若者も行きたいらしい』という。席はあるのだろうか。ソンテウが来ると、何とか座れる。これで一人頭の料金は6万kまで下がった。なんと素晴らしいツアーだ。このツアーにはガイドもなく、単にツーリストインフォメーションの女性が言ったとおり、歩いてみるだけなのだが、それでもちょっとワクワクする。

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ソンテウはボコボコの山道を30分近くも走った。大型バスではそれほど揺れが気にならなかったその道が、ソンテウでは相当に堪える。こんな遠くに茶畑があったのだ。停まったその場所には確かに茶樹があり、運転手が『そこを登っていけ』とジェスチャーで示す。行きがかり上、私がガイド役になり、皆をまとめていく。この辺の茶樹は予想に反して整然と植えられており、それほど古いものではなかった。石の階段もついており、人工的な畑だった。丘の上にまで登ると、遠くが見渡せ、空気もよく、皆がトレッキング気分でその環境を楽しんだ。同時に『この茶樹でどんなお茶ができるだ?』などの質問が出てきたので、私が即席解説者になり、お茶について英語で話すことになった。英語で茶を語る、香港以来実に久しぶりではないか。単語などかなり忘れてしまったし、聞いている方も茶の知識は基本的にないので、どこまで通じたかは分らないが、私にとっては新鮮な時間だった。

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更に歩いていくと、茶工場らしきものが見えた。行ってみると誰もいない。この時期、茶は作っていないようだ。張り紙には中国語が書かれており、ここは中国人が投資した茶工場であり、荒茶を作る場所であることが推測で来た。4月から製茶作業があるらしい。大鍋もあり、釜炒りが行わる模様だ。雲南省のプーアール茶は有名であるが、その原料は不足しているので、それを求めて、ここまで来ているのかもしれない。近くには茶樹と思われる大木もあったが、それは先日ベトナムで見た茶に近いタリエンシスであろうか。

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よくわからないまま、やはり体調が悪いと言っていたアメリカ人の若者が先を行く。ドイツ人のおじさんも着いていく。ふと細い道を下っていくと民家があり、おばさんが手招きしていた。袋から何か取り出している。どうやら茶葉のようだ。興味を惹かれてそこへ行ってみる。言葉は通じないがおばさんが茶葉を売ろうしていることが分かったので、記念に買うことにした。代金は分らないので、1000k札を出してみると結局6枚要求された。まあそんなものだろうと支払い、小袋に茶葉を詰め込む。でも、何となくここで飲んでみたくなり、おばさんに言うと、家に入れという。

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他のメンバーも興味津々で付いてきた。家の中は質素だが、冷蔵庫もテレビもある。既に電気は通っており、奥には囲炉裏もあったが、電気ポットで湯を沸かしていた。このほうが早くて楽だ。コップはかなり汚かった。白人たちも床に座り込み、おばさんが茶を淹れているのをじっと見ている。果たして彼らはこの環境で手を出すのだろうか。ヨゼフが飲み始めた。するとほかのメンバーもトライする。

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更におばさんが自家製の漬物を出してきた。私は腹の調子から遠慮したが、彼らは臆せず口にしている。ポンサリーの街では例のレストランしか行けない彼らが、ここでは大変身!さすがに皆、来た目的がトレッキングだけのことはある、と妙に感心した。そして家を出る際、誰ともなく声を掛け、一人2000kを集めておばさんに渡した。ささやかなお茶代だったが、おばさんからしたらうれしい臨時収入だろう。この辺、欧米人は慣れている。日本人ではなかなかこうはいかないだろう。支払うなら、もっとたくさん集めてしまうはずだ。

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丘を降りるとそこには道があり、ソンテウが待っていた。そしてシガーティーと呼ばれる竹筒茶のようなものが売られていた。一応興味を示して聞いてみると5万kだという。これはいくら何でも高いと思い、通り過ぎた。ソンテウに乗ろうかと思ったが、その向こうの道を行くと展示館があるという。地元民が鍵をもって先導したので、付いていく。その道端でも女性がシガーティーを売っていたので聞いてみるとはじめ3万kだったものが、1.6万kでよいというので購入した。緑茶として飲むらしいが、後発酵茶の香りがする。

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パビリオンと書かれたその建物中には英語でこの付近の茶の歴史が記されていた。この村はコーマンというらしい。プノーイ族という少数民族の住んでいる場所で、1888年にイギリス人がここまでやってきたらしい。元々はケシ栽培で生計を立てていたが、1990年ごろ、ケシ撲滅運動で茶を植え始めたとある。如何にもタイ北部、ミャンマー北部と同じような場所だった。

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ラオスポンサリー茶旅2016(7)あっという間にミッション終了

ミッション

5分ぐらい歩いていくと、別のホテルがあった。そこの看板を見ると漢字の名前が指示されていたものだった。実はセンサリーはホテルの名前ではなく、このあたりの地名だったことが分かる。ついにここまでやってきたか。入っていくと、女性がいたが、英語も中国語も全く通じなかった。次に出てきた足の悪い男性はほんの少し英語を使ったが、やはり要領を得なかった。そして最後に呼ばれてきた若者は英語が話せた。しかし写真を見せると『ここにはいない』とあっさりいうではないか。問い詰めると、写真のばーさんはここのオーナー夫人で、ご主人と一緒に、今はビエンチャンに行っていることが分かった。さて、どうするか?

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更に一緒に写真に写っている男性、この人は中国人の茶商だとSさんは言っている。彼が見つかれば、お茶が手に入る、とも書かれていたが、これまたあっさりと『あー、アーワンはもうここにはいない。どこにいるかもわからない』と取り付くしまもなかった。では『この店に茶葉はあるだろう』と聞くと、それは『全くない』とか『倉庫の鍵はオーナーが持っている』とかはっきりしない。私は一体ここまで何をしに来たんだろうか。Sさんに踊らされて、よくわからずに来てしまったが、これはトンデモナイことになった。

 

困った顔をしていると、若者が『携帯電話を持っているなら掛けたらどうか』と助け舟を出してくれた。そうだ、昨晩ウドムサイでシムを手に入れ、電話だけはできるようにしてきたではないか。彼に掛けてもらい事情を話してもらうと、オーナーが直接電話で話すという。彼は普通に中国語を話した。ラオ人だというが中国語名も持っている。元は中国系なのだろう。国境の街ポンサリーで中国関連の商売をしていることは明らかだった。これは期待が持てる、とこちらの要件とSさんの話を持ち出す。Sさんについては全く覚えていないようだった。

 

そして彼もまた『今、お前がほしいといった茶は在庫がない。そしてそれは貴重な茶でとても高い。4月になれば新茶が入ると思うが、今年は雲南でも雪が降った。収穫量がどれほど確保できるのか心配だ。勿論価格も今は分らない』というではないか。ようは4月にここに来て、運が良ければ買えるよ、というメッセージをもらっただけに終わる。そンなことのためにここまで来たのか、となんだか気が抜けてしまった。仕方なく、宿に帰り、この情報を早々にSさんに流した。私のミッションはあっという間に終わった。

 

夕飯

非常に疲れてしまった。今日は体調が悪く、ほとんど何も食べていないのを思い出した。だがこの街、とても小さい。そして暗い。店も思ったほどない。何となく宿から下っていくと、そこに1軒のレストランがあった。比較的きれいそうだったので、中に入ろうとすると、向こうから笑顔が飛んできた。あのドイツ人、ヨゼフが座っていたのだ。彼は一言、『待っていたよ、こちらにどうぞ』と手招きして、席を勧める。

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彼とはさっきのホテルで、出くわしていた。彼らは最初に降りた場所のGHが気に入らず、私が泊まっているセンサリーまで重い荷物をもって上がってきたが、婆さんに満室だと断られたらしい。それで更に上のあのホテルに投宿した。1泊10万kだという。私は自分が間違った宿に入ったと思っていたが、結果としては、良い宿を選択したことになるらしい。取り敢えず、ビールで乾杯した。ヨゼフはドイツの田舎町で教師をしていたが、すでに定年退職。年に1度はアジアにトレッキングに来ているという。今回は3か月の日程で、タイ・カンボジア・ミャンマーなどを一人で回っている。こんな白人さんが実はかなり多い。

 

そこへ白人女子3人組が来た。更にはイギリス人、スエーデン人も来た。ヨゼフによれば、『この街で白人が食べられるレストランはここしかない。英語のメニューがここにはある』というのだ。だからあのバスを降りた白人全員が、必ずここへやってくることを知っていた。日本人の私が来ることも十分に予想していたようだ。何とも面白い。彼らはパンと卵か、チャーハン、そして麺類しか食べられないらしい。

 

私はチャーハンを頼んだ。味はまあまあだったが、腹が減っていたので、すぐに平らげた。そこへアメリカの若者がやってきた。時刻は既に9時近かった。声を掛けたが、従業員はテレビを見ており、まるでやる気がなかった。彼らが何か注文しても、全く反応しなくなっていた。きっと店との契約ですでに休み時間に入ったのだろう。だが店は11時までやっていると書いてある。アメリカ人は怒って出て行ってしまった。ヨゼフがその背中に『あいつは今晩メシ抜きだな』と、つぶやく。まるで映画のようだ。

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宿に戻ると、部屋の下のところで、ラオ人が10人ぐらいで宴会をしていた。それが結構騒がしい。相当酒も入っており、男女の声がすごく大きい。まあ10時ぐらいには終わるだろうとたかを括っていたが、なんと12時近くまで続いていた。ベッドに潜り込むと、その声がだんだん遠のく。浅い眠りに入っていたが、どうも体調がおかしい。自分の体が深い闇に落ちていく感覚があった。

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2月2日(火)

体調不良に見舞われて

朝早く、何度も起きてトイレに行く。腹の調子が悪くなっていた。これは相当疲れた時に起こる現象だったが、その程度はかなりひどい。熱はなく、単なる疲れだとは思うが、体がだるくて、起き上がる気力が出ない。昨晩は宴会の嬌声、今朝はどこでけたたましい音楽を流している。せっかくこんな田舎に来たのだから、鳥のさえずりを聞き、静かな環境でゆっくりしたいのに残念だ。

 

食欲もなかった。ただ水分が欲しかった。コップがあったので、それをもって婆さんのところへ行き、『湯を入れてくれ』というジェスチャーをすると、分ったと言って、コップをもって奥へ引っ込んだ。そしてコップを戻してくれたのだが、なんと中には茶葉も入っていた。これは有り難いと飲んでみたが、濃い緑茶で、腹にはさらに良くない。湯はない、水は飲みにくい、これは困った。

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仕方なく、外へ出て、また例の店へ行く。すると図ったようにヨゼフがいて、『おはよう』と挨拶する。私は熱い紅茶を注文する。リプトンティバッグだが、これは緑茶と比べればかなり胃腸にやさしい。ヨゼフはトーストを食べている。他にも数人が集まってきた。やはりここしかないのだ。私は今日完全休養のつもりでいたが、明日戻るための算段が必要だった。できれば飛行機で帰りたい。もうバスには乗りたくない。疲れている。ヨゼフが『ここの下にツーリストインフォメーションがあるよ』と教えてくれたので、そこへ行ってみた。

 

既に先客の女子3人組がいた。彼女らはトレッキングツアーの相談をしていた。担当女性は英語が普通に話せた。『ビエンチャン行のフライトはあるか』と聞くと、『今日はあるけど、この天気では来るかどうか?明日はないわね』と素っ気ない。確かに天気は曇り、というより霧がかかっていた。私はどうしても5日にはバンコックに戻りたかった。フライトが飛ばない可能性が高いのであれば、他の方法を探すしかない。『バスしかない』とこれもきっぱり。ビエンチャン行夜行バスは午後2時にここを出て、24時間かかるという。乗り気にはとてもなれなかったが、他に方法がない。明日の出発を決意した。

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ラオスポンサリー茶旅2016(6)3日目にしてポンサリー到着

確かに長い旅だった。このバスには数人の白人の他、外国人は私だけだと思っていたが、一人だけ中国人が乗っていた。彼はアメリカ人の若者とつるんでいた。話し掛けると、『今日のバスは出発も遅かったし、休憩も長い。ポンサリーに着くのは夜だな』と嫌なことを言う。暗くなる前に着きたい、という希望は叶えられるのか。

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彼はポンサリー近くに中国が投資して造っている水力発電所建設のために働きに来ているという。もう2年も住んでいる。『ここに発電所が出来れば、電気の通っていない山間部の多くの村に灯りが灯る。これは素晴らしいことだ。我々はラオスに大いに貢献している』と胸を張って話す。確かに電気が通れば多くの人々の生活が変わるだろう。だがそれは果たして本当に良いことなのだろうか。地元の人はどう思っているのだろう。

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彼とは言葉も通じるし、ポンサリーに着いたら、彼を頼ろうと思っていたが、なかなか上手くいくものではない。16:30に到着した最後の休憩所、ボーヌアで、何と彼に迎えの車が来て、あっという間に去ってしまったのだ。水力発電所建設地はこの近くにあるらしい。彼の生活も大変なんだな、と思ってしまう。そしてポンサリーまで、まだ50㎞もある。なんだかかなり寂しい気分になってきた。それでもバスに乗るしかない。旅は続く。

 

あたりが少し暗くなり、またウトウトしてしまった。確かにこれは夜になるな、と諦め、気を緩めていた。するとガソリンスタンドが見てきて、バスはそこへ入った。これはもう長期戦を覚悟しなければと思い、トイレに行こうかと思うと、降りるな、という。なぜ?と思っていると、数百メートル行って、バスターミナルに入った。また休憩所かと外を見ると、皆が降り始めるではないか。17:30、何と突然定刻にポンサリー着いたのだ。

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驚きながら、有り難いと勇んで降りる。荷物が降りてくるのを待つ間、ソンテウのおじさんが声を掛けてくる。例のドイツ人、ユセフが『これに乗って街へ行くんだ』という。一人1万k、彼は2年前にもここへ来ており、すでに慣れていた。迎えが来ていない者はこれに乗る以外、他に車はない。白人全員と私、そして地元民が2人乗り込んで、ソンテウは出発した。如何にもバックパッカーの旅、という感じだった。3㎞ぐらいで街に入る。ソンテウが停まると、皆が降りて行った。ただ私は行くところが決まっていたので、運転手にその場所を告げると、もう少し先だというので、残念ながらここで別れた。

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 6.ポンサリー
センサリーGH

私の目的地はセンサリーだった。これはミッションをくれたSさんが送ってきた名刺に書かれていた地名だった。ソンテウが停まる。そこにはセンサリーゲストハウスという看板があった。これだ、やっと着いたという感慨が沸きあがる。思えばミャンマーのラショーを出て3日目、本当に長かった!中に入ると皆が食事をしていた。ラオ人のお婆さんが出てきて、『部屋は7万kだよ』と片言英語で言ってどこかへ行ってしまった。

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まあとにかくまずはここに泊まるしかないと思い、部屋に荷物を置く。部屋はかなり小さいが、一応トイレとシャワーがついていた。そして充電するためのコンセントもあった。バスの旅から考えれば、これで十分満足できる。あとは熱いお湯が出れば!と思い、捻ってみるとちゃんと湯も出た。完璧だ!すぐにシャワーを浴びた。昨晩お湯がなかったため入れなかった、そして何よりもバス旅の疲れがとれた。

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気分が爽快になると急に元気になる。やはりミッションが気になってくる。Sさんからは写真が送られてきており、『このばーさんに聞いてくれ』とメッセージが書かれていた。ばーさんとは『馬さん』という中国名だろうか、などと考えていたが、何と『婆さん』の意味だとか。正直Sさんの指示を見ても、私には要領を得ない。でも面白いから、それに乗ってやってみる。普通の日本人なら絶対にやらないだろう。

 

ここではWi-Fiも問題なく使える。日本や中国では辺鄙な場所にはフリーWi-Fiなどないことが多いので、何とも有り難いことだ。PCに写真を取り込み、皆が食事している場所へ行き、中国語で話しかけると、おじさんが中国語で反応した。しめたと思い、写真を見せると『このばーさんなら、もう少し上にいるよ』というではないか。あれ、ここはセンサリーではなかったのか。よくわからないが、取り敢えず暗い中、言われた通りに行ってみることにした。

ラオスポンサリー茶旅2016(5)人と荷物で満員のバスに揺られて

2月1日(月)
5.ポンサリーまで

バスターミナルで

翌朝は6時過ぎには起きて、7時にバスターミナルの切符売り場に出向く。ポンサリー行は8時半だが、ラオスでは何が起こるか見当もつかない。切符が買えないと困るので取り敢えず確保しに来た。だが開いていない。すでに数人の白人もバッグを待っている。7:15になり、ようやく係員が来て窓口が開く。チケット代7.5万kを支払うとすぐに切符は買えた。これで何とか一安心、何とか順調にポンサリーに行く目途がついた。

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朝食を食べるかどうか迷った。というのも、昨晩辛い物を一気に食べたので、腹の具合が心配になったのだ。長距離バスに乗るのに、腹の具合を心配するのは大きな負担なので、食べるのを止めた。8時前にはチェックアウトしてバスターミナルへ向かう。ほどなくバスがやってきたので、まずは座席を確保した。ドイツから来たというおじさんをはじめ、白人も数人、大きなバッグを預けて、乗り込んできた。皆さん、ポンサリーにトレッキングに行くという。そんなにいいところなのだろうか、ポンサリーは?ちょっと不思議な感じだ。

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バスの横では2-3人の女性が何かを売っていた。見てみるともち米ご飯が竹筒に入っている。食べてみたいと思ったが、我慢した。白人達も興味津々ながら、さすがに手が出ない。幼い子が赤ちゃんをあやしている姿を見ると、何となく涙が出る。運転手の奥さんは幼い子供を助手席に乗せて、パパに見せている。これから長い旅に出るんだな、としみじみ感じる。

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8時半になったがバスは出発しなかった。直前に大きな荷物の持ち込みがあり、積み込みに時間が掛かっていた。一旦バスに乗り込んでいた乗客がバスを降り、体を伸ばす。その間にも滑り込みむように人が乗り込み、また荷物が持ち込まれた。9時前にようやく出発かと思うと、我儘なおばさんが登場した。席は自由席なのに、空いている席に文句をつけて出発が遅れた。更には腹が減ったといってバスを降り、買い出しに行ってしまう。こんな人間もいるのか、と唖然。

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山道を行く

9時過ぎにバスは走り出した。なんと運転手の子供も乗ったままだったが、街外れで母親と一緒に降りた。あの我儘なおばさんはもち米を食べて始めていたが、少し山道を入り30分もしないうちに、気分が悪くなり、強烈に吐き出した。普通ならだれかが心配しそうなものだが、あの態度が影響してか、誰も手を出さなかった。隣の席の若い子も顔を背けている。バスが揺れるたびに顔を窓の外に出していたが、そのうちぐったりしてしまう。

 

パクナムノイというところで停まった。トレイ休憩だが、まだバスが走り始めて1時間半だというのに、運転手と車掌はゆっくりと食事を始めた。私は食事を控えて、無料のトイレに行っただけ。田舎のラオ人はこの時間がランチのようで皆何か食べていた。なんか見ていると食べたくなり、道路の反対側へ行くとそこでバナナが売られていたので、思わず買って食べた。4本で2000kと安い。そして甘くてうまい。天気はとても良い。

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ターミナルに停まっていたバスを眺めると韓国現代製だった。頑張っているなと思っていると、このバスの行き先はなんとベトナムのディンビンフーだった。昨年10月に行った場所だが、ラオスからもバスで行けるとは。近辺の距離感は実際に来てみないとわからない。道路標示にもベトナムボーダーの文字があったからここからそう遠くはない。

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小1時間経って、再びバスは出発したが、乗客はかなり増えており、またさらに途中で乗り込んできたので満員となる。車掌が風呂椅子を補助席代わりに渡していたが、座る場所が足りなくなり、何人もの若者が立っていた。ただ立っていたと考えてはいけない。この道の悪い中、アップダウンのある中を、立っているというのは大変なことだ。しかも満員で身動きも取れない。私にはとてもできない技だと思うが彼らは慣れている。

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道は悪くないが山道がずっと続いている。時々人がおり、そして人が乗る。窓の外を見るのにも飽き、心地よい揺れの中?寝入る。14:30にボータイというターミナルで休み。トイレだけは行くのだが、出てくると子供たちが待っていて、お客さんから2000kを徴収する。子供も白人にはどう声を掛けてよいか迷っていて、お母さんに叱られたりしている。ポンサリーまであと92㎞と書かれていたが、ここからも長い旅なのだろうか。

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