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パクセー茶旅2020(4) 老舗ホテルで夕日を

昨晩泊まった宿ではなく、新しく予約した宿で降ろしてもらった。ここは街の名前がついている老舗ホテル。1962年開業だというから、設備は古いだろうが、昨日の宿よりはだいぶマシだろうと昨晩料金を聞き、交渉して安くしてもらい、部屋まで予約しておいたのだ。部屋はさほど広くないが、コンパクトで良い。昨日は繋がりにくかったネットも何とか繋がるのは有難い。何よりクラシカルな作り、窓から街が一望できるのがよい。

昼ご飯を食べようと外へ出たが、かなり暑い。旅行社のパネルを見ると、ここからバスでタイだけではなく、ベトナム、ダナンなどへも行けることが分かる。いつもならノリでバスを使いたくなるのだが、今はコロナがあるので、密閉された空間を避けて、出来るだけ短時間で移動したい。ご飯は地元民しか行かない食堂を見つけ、麺をすすった。これはベトナム風で、安くて意外とイケる。

午後は疲れてしまったので部屋で休んだ。今は疲れを貯めるのもよくない。ちょっとした風邪なども大事に至る可能性があるので、注意が必要だ。取り敢えず早めにバンコックに戻ろうと、明日のフライトを予約した。それでも簡単にタイ入国が出来るのだろうか。厳しいチェックがあるとか、外国人が入国拒否されたとのうわさが出ている。もう流れに任せるしかない。

夕方、このホテルの屋上に行ってみる。ここの屋上からメコン川に沈む夕日がよく見えると言われたので、夕日好きとしては眺めてみようと思ったのだ。まだ陽があるうちから白人たちがビールを飲みながら大声で話している。ハッピーアワーと書かれていたが、私は一人、アイスティーを飲みながら、陽が沈むのを待った。

段々陽は落ちていくが、メコンに沈む夕日、という雰囲気には残念ながらならない。なぜか昨晩も出会った中国人グループがやってきた。その後ろには日本人女性が一人でPCを打っている。午後6時頃、陽は沈んだが、お客たちは誰も帰らず、話し込んでいた。私は一人、部屋に戻った。

暗くなってから、軽くご飯を食べようと思い外へ出たが、やはりピンとくる食堂はない。思い出したのが宿のエレベーターの広告。クラブサンドイッチが食べられるとあったので、急に宿へ戻った。ところが1階のカフェは元々休業中だったようで、スタッフの姿すらない。

フロントに聞くと、たぶん屋上のレストランでサンドイッチを作ってくれるだろうというので、何と先ほど出てきた屋上にまた戻ってメニューを眺めた。ところがサンドイッチはなく、あるのはハンバーガーだけ。それでも面倒くさくなり、大きなバーガーを注文して、ポテトを頬張った。もう完全にバーとして機能しているので、酔っ払いも登場してうるさい。私は食べたらすぐに退散した。

2月19日(水)バンコックへ

翌朝は宿の朝ご飯を食べた。1階のカフェは、朝ご飯会場のみに使われていることが分かった。多くの人が食べており、席の確保が難しい。食事は何といってもパンが美味しい。オムレツも丁寧に作られておりとても良い。もう一泊したところだったが、今回の最大の目的はタイ入国だったので、急いでチェックアウトした。

ラオスではGrabが使えない。ホテルに車を頼むと高そうだし、このホテルの外にいる運ちゃんも吹っ掛けてきそうだし、と思っているうちに『まあ、時間もあるので、ゆっくり歩いていくか』となり、歩き出してしまった。途中までは数年前にも歩いた道で、何となく懐かしい。朝ごはん屋の湯気も好ましい。さっき食べたばかりなのに、また食べたくなる。

空港までほぼ直線で3㎞ちょっと。思えば先日ウボンで空港から宿まで歩いた距離とほぼ同じだ。今回は運動のため、旅に出たのだと分かる。もともと私の茶旅は『歩いてなんぼ』の旅だったはずだが、最近は少しサボっていたのかもしれない。旅の良い所は、適度な運動、気分転換、そして未知との遭遇だろうか。

空港は小さかった。入っていくとチェックインが始まっているが、並んでいる人は多くない。それでも乗客と係員が長い間話しているので列は進まない。やはり他国へ移動するのは難しいのか。だが私の番になるとあっという間にチケットが渡され、何の質問もなかった。

ここはビエンチャン行きの国内線も混在しており、そちらはかなり混んでいる様子だった。まだ時間があったので、空港内を歩いてみたが、特に何もなかった。仕方なく、出国審査に進んだが、何と普通の窓口でパスポートを提示してスタンプをもらう。その横の狭い通路を入ると、荷物検査があり、その向こうが待合室だ。

どうやら国際線も国内線も区別なく、待っている。中国人はいないようだ。バンコック行にはタイ人の他、白人がかなり乗っているが、彼らはどこへ行くのだろうか。日本人は私の他に出張者が一人だけかな。機内は半分以下の搭乗率であり、CAもマスク、手袋。一応簡単な食事は出た。さて、バンコックに無事入れるのだろうか。

パクセー茶旅2020(3)パークソンの茶畑

それから街中をゆっくり散策する。ウボンと比べると少し涼しい感じがするのは気のせいか。ワット・ルアンという大きな寺に入ってみる。かなり歴史がありそうだとみていると、なぜか日本人の団体が入ってきた。学術調査のついでに観光しているといった感じで、細かい所を見ている。ここのお墓にも漢字が刻まれており、華人もいることは分かる。

きれいな建物があった。中には小さな店がたくさん入っているが、お客は全くいない。昔の市場をここに押し込んだのだろうが、効果はあまりなかったようだ。教会も見える。この地には、華人の他、宣教師などもやってきたことだろう。そこから川沿いに出て友好橋を写真に収めようとしたが、うまく撮れないので、どんどん橋に近づいて行き、気が付くと橋の袂まで来ていた。

この橋、日本の資金でできたらしいが、建設したのは韓国の会社か。その名前が刻まれている。そして実際にこの橋を使っているのは、ラオ人の他はタイ人と中国人が多いらしい。これぞ国際貢献、と言って喜べるのだろうか。いずれにしてもパクセーはこの川で栄えた、とは分かる。近くには立派なホテルも建っている。夕陽がドンと落ちていく。

今度は内側に歩いて行くと、市場があり、夕飯の買い物をする人々がいた。宿の方へ戻ると、途中には中国系の廟などが見られたが、既に門は閉ざされていた。結構歩き回ってかなり疲れてしまった。夜外へ出るとすぐ近くにも立派な中華商会の建物があり、やはり華人が貿易していたのだと理解する。

夕飯は、昼を食べた隣のカフェへ入る。そしてシーフード炒めと書かれているのを、イカ炒めだけにしてもらい、たらふく食べた。隣に地元の華人と中国から来た中国人のグループが座った。周囲はちょっと気にしていたようだ。既に中国人団体観光は止まっているが、彼らは個人で来たのだろうか。それとも中国に帰れず、既に1月からここに留まっているのかもしれない。

2月18日(火)パークソンの茶畑へ

翌朝は宿で簡単にご飯を食べてチェックアウトした。やはり隙間風がうるさくてよく眠れなかった。フロントの男が『どうしてチェックアウトするのか』と聞いてきたが、無言で支払いをした。外に出ると、そこには昨日予約した車の運転手が待っており、荷物を載せて出発した。

車はすぐに郊外へ出て、思っていたよりずっといい道をほぼまっすぐ走っていく。山を登っているという印象は全くなかったが、30分後に標高を計ると、100mから800mに上がっていたので、かなり驚いた。そして車は道路わきに入っていく。そこは茶園があるらしい。手前の小屋には簡易な製茶道具が置かれ、奥には確かにかなり古い茶樹が沢山植わっている。

運転手は何が楽しんだ、という顔をしていたが、とにかく茶畑を見ると嬉しくなってしまうのはどうにも止めることができない。思ったよりずっと広い茶畑なので、写真を撮りながら、ずんずん奥へ入っていく。茶樹の間隔は広く、昔の茶畑という雰囲気が漂う。但し直射日光が照りつける、平たい場所にあるので、茶樹の生育としてはどうなのだろうか。

建物の所に戻ると、運転手が女性と話していた。その女性がここのオーナーであり、製茶もしているとのことだった。運転手が通訳をしてくれて聞いたところでは、まだフランス統治下、お父さんがベトナムからやって来て、ここでフランス人の茶作りの手伝いをしていたらしい。

フランスが去った後、その茶園を受け継ぎ、ここで茶業を続けてきた。道路の向かいにはコーヒー園とドリアン畑も広げた。そして父親が亡くなる時、姉妹が相続をした。目の前の彼女が茶園を引き継ぎ、妹が残りをもらい受けたらしい。とにかくここの茶畑は80年以上の歴史があることが分かり、満足。

現在ここで作られている茶は、何と紅茶、烏龍茶、白茶の3種類だった。普通ならあの晩茶のような緑茶が作られるはずだが、どうやら観光客向けに販売するので、フランス人あたりの好きそうなメニューになっているのかもしれない。これ以上、技術的な話は、通訳もできないだろうからと止めた。そして茶を少量ずつ買って、ここを離れた。

更に道を行くと、大型バスが停まっていた。ここでは白人さんが沢山下りてきて、皆でコーヒーを飲みながらガイドの説明を聞いていた。そしてお土産にコーヒーを買っていく。まさにコーヒーツーリズムだ。お茶も同じような扱いだろうが、現在ではコーヒーの方が優勢だ。

もう一つの茶園に行った。こちらはきちんと手入れをしていないようにも見える。完全に平らな土地に茶樹が無造作に植えられている。日もだいぶ高くなり、とにかく暑い。これではいいお茶が出来る、という感じはしない。なぜか茶畑を牛が歩いており、危うく衝突するところだった。

もうこれ以上、ここにいる理由もなく、車は町に帰っていった。途中道路脇に、大きな工場が見えた。Dao Coffeeという有名ブランド。1991年創業のラオスでも有数の企業だという。昨日歩いていた友好橋の袂にも、きれいなカフェを開店させていた。コーヒーの他、茶も商っている。

パクセー茶旅2020(2)バスで国境を越え、パクセーへ

2月17日(月)パクセーへ

翌朝は早めに起きて、宿の朝食を食べた。思ったより多くの人が宿泊していたことが分かる。その中にはやけに偉そうにしているタイ人の爺さんもいた。大声で皆に話しかけているから街の有力者かもしれないが、朝の大声は耳に響く。料理は色々とあってなかなか良い。このホテルの料金が安いのはコロナのせいなのだろうか。

午前8時にはGrabで車を呼んで、急いでチェックアウトした。Grabがあるので、交通に困ることはなく、何とも有り難い。月曜日の朝だが特に渋滞もなく、すぐにターミナルに着いてしまった。昨日の切符売り場に行くと、かなりの席は埋まっていたが、私は予約してあったので、一番前の席を確保した。

9時過ぎにバスに乗り込み、出発を待ったが時刻を過ぎても発車しない。誰かが荷物でも運んでくるのだろう。特に急ぐ旅でもないので、ゆっくり構えていた。乗客は意外と白人が多い。子供連れまでいる。20分ほど遅れてバスは動き出す。街の郊外、特に見るべきものはなくウトウトしていたら、1時間半ほどで、ラオス国境に到着した。

特に車掌は指示もせず、皆勝手にタイのイミグレで出国手続きをする。そこからどう行けばよいか分からなかったが、タクシーの客引きや物売りのおばさんから情報を得て、地下道を通り、上に上がるとテントがあり、いきなり検温された。コロナ対策だ。それが済むと、向こうにラオス側のイミグレの建物が見えたので向かう。

窓口がどれか分からなかったので、前の人が出したところに私もパスポートを差し出してみた。すると向こうから『100バーツ』との声がかかる。なぜここで賄賂払うんじゃ、と思い、ノー、と言って見たら、パスポートを突っ返された。何と入国カードを書いていなかったことが判明。直ぐに用紙を探して提出したら、あっという間にスタンプをくれる。入国カード代筆が100バーツか。

その頃、白人たちはゆっくりと歩をラオスに進めていた。そして皆がアライバルビザの申請を行い、その許可をもって窓口の審査を受けるのだから、そんな直ぐに出来るわけない。あっという間に30分が過ぎたがまだバスすら来ない。そんな時、おばさんが『ラオスのシムカード、要らない?』というので、100バーツで買ってみた。おばさんが親切に使えるように挿入してくれた。これでパクセーに着いても安心だ。

バスが来たので乗り込んだが、白人たちが乗っても未だ出発しない。外へ出ようとすると車掌が入り口に座り込んで、邪魔している。誰かがどこかへ行ってしまうと探すのが大変なのだろう。確かこのバス、3時間でパクセーに着くとか言っていたが、もう3時間は過ぎていた。

結局バスは国境で2時間立ち往生した。最後に乗ってきたのは、恐らくはラオス人の若者たちだ。私の隣に乗っていた若者もやってきた。地元民なので、とっくに別の手段で出発したと思っていたのだが。何で彼らだけ検査が厳しいのか。それを説明してくれる人はここにはいない。

そこからまだパクセーまで50㎞ぐらいある。3時間で着く?全然話が違うが、これがアジア旅だろう。バスは順調に進み、パクセーの街に入る時、大きな川を越えた。これがメコン川か。するとこの大きな橋が日本の資金援助でできた友好橋か。そしてついに5時間弱かかってパクセーのバスターミナルに到着した。

バスを降りない人も多かった。これから街へ向かうのかもしれないが、私は尻が痛かったので、とにかくバスから降りた。トゥクトゥクおじさんたちが近づいてきたが、料金が高そうだったので、端にひっそりと立っていたおじさんに乗せてもらった。80バーツ、ここではタイバーツが普通に使える。

街中まで風に吹かれていくのはとても気持ちがよい。大きな街ではないが、川沿いは少し道が入り組んでおり、目指す宿に行くのに迷った。ホテルサイトでは高評価だった宿だったが、フロントの態度も今一つで、部屋も今一つ。料金もさほど安くはない。特に部屋の窓に隙間があり、風でかなりの音がするのには困った。これは早々に逃げ出そうと思う。

とても腹が減っていた。もう午後3時近い。さっき見たカフェが良さそうだったので、入ってみる。客は白人が多く、英語メニューがある。ラオスに来たらパンが食べたかったので、サンドイッチを注文。お茶もアイスグリーンティーにしてみた。これは甘いが意外と満足できる味だった。ラオキープを持っていなかったので、ATMで引き出して、支払ってみる。

旅行会社を探すと、すぐに見つかり、『明日茶畑へ行きたい』というと、簡単に車のチャーターが出来た。パクセーは白人も多くやって来る、観光地だったのだ。そして大きな滝などがあり、自然を見るツアーが多いようで、茶畑だけ行きたいというのはやはり変わった客だったらしい。

パクセー茶旅2020(1)ウボンラチャタニーで

《パクセー茶旅2020》  2020年2月16日-19日

3月初めまでバンコックを拠点に活動する予定だった。そして5年マルチのインドビザを用意し、コルカタ経由でアッサムに乗り込むつもりだったのだが、コロナウイルスの影響で急激に雲行きが怪しくなる。もしインド国内で隔離されたら、と思うと、インド行きに二の足を踏んでしまい、ビザを捨てて、ラオスに走ることにしてしまった。この判断が正しかったのかは、後に分るだろう。今回は行ったことがない南部ラオス、パクセーを目指す。

2月16日(日)ウボンへ

バンコックから直接パクセーに行ってもよかったのだが、それではやはりつまらない。今回は陸路で国境を越えようと思い、ラオス国境に近い街、ウボンラチャタニーまで飛行機で行って、そこに泊まることにした。実は2年前、コンケーンからウボンに行こうとしたことがあったが、バスの時間の関係でシーサケットに行ってしまい、結局ウボンだけ取り残してしまっていたのだ。

国内線に乗るべく、ドムアン空港を目指す。日曜日ということもあるが、MRTは空いていた。マスク姿が殆どだ。チャドチャックから空港バスに乗ると乗客は何と2人だけ。既にバックパッカーなどは随分と減っていることが分かる。ある意味でこれだけ人がいなければ安心かな。

ところがドムアンでは相変わらず乗客がかなりいた。マスクしていないのは、ほぼ白人というのが面白い。白人は感染症に敏感だとずっと思ってきたが、違うのだろうか。それともマスクが買えないのだろうか。飛行機に向かうバスも満員。機内はタイ人が多く、7割程度の乗客だった。

1時間でウボン空港に到着する。直ぐに外へ出ると、ここにも空港バスが出来ていたので乗ろうとして聞いたら、このバスは、お前が予約した宿にはいかない、と乗せてもらえなかった。タクシーに乗れと言われたが、何となく嫌で、そのまま歩き出してしまう。この空港、街とくっついているので、宿まで3㎞程度だった。ちょっと暑いが歩けないほどでもなく、街を散策しながらゆるゆると行く。

街はゆったりとしており、それほど大きくもない。宿までもう少しというところで腹が減ったので、食堂に入ってみた。そこには何ととんかつなどと書かれている。注文してみると,薄いカツに、不思議なソースが掛かっており、どんぶりでもなく皿に載ってくる。ライスの上には、目玉焼きが載る。完全な創作料理で面白い。

宿は結構立派で部屋も広い。料金は意外と安かったので、嬉しい。早速明日のパクセー行き情報を集めようとしたが、残念ながらフロントの女性たちはあまり英語が得意ではない。それでも一生懸命対応してくれ、何とか分かったのは、ここからかなり離れたバスターミナルから1日2本バスが出る、ということだけだった。

仕方なく、周辺を歩いて、旅行会社などを探すが、見つからない。大きな通りに出ると、ウボン国立博物館があったので、取り敢えず見学してみる。タイの博物館はどこもそうだが、ここも発掘された仏像の展示が中心。見学者は誰もいないので、係員も手持無沙汰でおしゃべりに夢中。

商店街があったが、日曜日のせいかほぼ閉まっていて人気がない。旅行社が一軒開いていたので、入ってみると何とか英語は通じたが、やはりバスの予約はターミナルへ行かないとできないと教えられる。その場所はBigCの近くだと聞く。そのまま川沿いに歩いて行くと、市場があったが、既にほぼ店じまいしており、のんびりした雰囲気。少し川を眺める。

橋の所へ行くと、ソンテウが停まっていたので、『BigC』と言ってみると、乗れ、と合図されたので乗ってみた。大通りをまっすぐ行けばBigCなのだが、ソンテウはくねくねと横道に入りながら、北に向かって行き、最後のBigCで停まった。地方都市のソンテウは10バーツだから安い。

地図で見るとすぐのはずだったが、ターミナルまでは実はかなり距離があった。テクテク歩く。郊外のバイパス道を何とか渡り、ようやくたどり着く。私はウボンで何しているんだろうか。パクセー行のバスは午前9時半と午後3時の2本、料金は200バーツ。午前便を予約したかったが、当日しか売らないと言いながら、座席表に私の名前を書き込んでくれたので、安心してまたソンテウで戻る。

まだ陽が高かったので、もう少し散歩を続ける。大きな教会が見えたので、ちょっと眺めていると、シスターが子供たちに声を掛け、何か話している。その親しげな様子は好ましい。私にも英語で声を掛けてくれた。

国境の街だから、貿易などに携わる華人は沢山いると思うのだが、華人廟も見つからないし、漢字の看板もさほどない。華人は一体どこへ消えたのだろうか。夜は何とか見つけた華人経営の店で麺をすすったが、言葉は英語だった。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(8)ラオスで感じ、考える

5. ウドムサイ
中国人の街

結局4時間ほどかけて、まだ日のあるうちにウドムサイに入った。何だかそれだけでうれしい。今日はここに泊まることとなる。鉈先生は前回もこの街に泊まったようで、かなり立派なホテルにチェックインした。1泊44ドルの部屋が豪華に見えるのは、我々のこれまでの苦闘の旅がなせる業である。久しぶりに街に来た、という感じがよい。

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街自体はそれほど大きくはない。前回シムカードを買った店の横にホテルはあった。この辺は特に中国系が多い場所で、恐らくはこのホテルの資本も中国からのものだろう。中国とラオスの交差する街ウドムサイは、今や完全に中国人の街と化している。夕飯も当然のように中華レストランへ行く。結構広い店内は中国人で溢れていた。料理も中国なら、言葉も中国語であり、ここにはラオスの要素が全くない。ある意味で中国を感じさせないのは鉈先生ぐらいのものだった。

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食後、街を散歩してみるが、2か月前と特に変化はない。前より暖かくなっていることぐらいだろうか。もうすぐ水かけ祭りだが、あれはタイ族の祭りであり、この付近ではあまり見られない。ただバンコックなど大都市でもイベント化しているので、ここでも大型の水鉄砲が売られており、当日は多少の水掛けがあるのかもしれない。その水鉄砲ももちろん中国製であった。

 

鉈先生は道端の屋台でマンゴを買った。鉈で切って食べると意気込んでいたが、ついには車の中に置き去りとなってしまい、どんな味だったかはわからない。ホテルに戻るとそのイルミネーションが中国の街のように輝いていた。暑いシャワーを心行くまで浴び、夜はフカフカのベッドでゆったりと眠る。幸せな気分になれる一瞬。

 

4月12日(火)
国境までに考える

翌朝は当然のように早く起きたが、散歩する気力もなく、ただ何となく過ごす。疲労がかなり溜まっており、もし私一人ならここにもう一泊したのではないだろうか。ボーっとネットをやっているとすぐに時間は過ぎ、階下で朝食を食べる。王さんは既に食べ終わっており、散歩に出た。ホテルの内装などは立派だが、朝食は比較的簡単だったので、粥をすすって終わりにした。

 

8時半前にはホテルをチェックアウトして、今日こそは中国へ戻る。ラオスに入ってからはや5日目、これまで中国へ戻るのを心待ちにすることなどなかったが、今回は取り敢えず中国へ戻りたい、そしてこの旅を早く終わらせたいという気分になっている。それがどうしてか、自分でもわからなくなっている。

 

車は5日前に来た道を戻っていく。ポンサリーからの山道に比べれば、平たんであり、道も悪くない。何となく文明に近づいている感覚になる。今の中国が文明的かどうかはかなり疑問だが、物質的な豊かさは、人間の心理に大きく影響していることは当然だろう。ただそれに蝕まれてはいけない、そう思うのだが、つい便利さを求め、楽な方を選び、それを心地よいと感じてしまう。何となく修行者のような気分になり、そんなことを考えながら車に揺られていった。

 

1時間半ほどで行くと、来る時にも寄った少数民族の物売り屋台が見えてきた。鉈先生はまた車を停め、先日の女性を探したが今日はなぜかいなかった。赤ちゃんにチェキを向けると、大泣きされて困る。するとお兄ちゃんが寄ってきて、彼をなだめ、一緒に写真に収まっている。なんだかとても家族だな、と思ってしまう。

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ここに居る人々はもしやすると物質的には恵まれていないようだが、精神的には我々より十分に恵まれているのかもしれない。退屈な日常生活から微かな喜びを見出すこと、それが本当の幸せではないか、とふと考えてしまった。そんな気にさせるのも、ラオスという独特の場所にいるためだろうか。

 

鉈先生は彼らの持ち物を物色して、使っていた鉈を売ってほしいと頼んでいる。前回のベトナムでもそうだったが、彼らが使っている何気ない日用品の中に、何となく価値を見出すことができることを、鉈先生により知った。商売の合間に縫っている民族衣装などもその価値はかなり高いものがあるが、現金にすれば知れた額になってしまう。この世の中はどうなっているんだろう。

 

それから約1時間走って、国境までたどり着いた。相変わらずトラックは長蛇の列だが、乗用車はレーンが違っている。だがそこまでトラックが入り込んできて、我々の通行は邪魔されてしまう。ここでイライラしても仕方がない。まずはゆっくり行こう、そんな気持ちでいると突然前が開けたりする。水かけ祭り前の駆け込みか、本当に通行量が増えていた。私は西双版納で水掛けられることだけは嫌だ、と強く思いながら、国境を歩いて越えた。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(7)樹齢400年茶樹のある村

 そしてこの近くの街道沿いで宿を探すことになったが、周囲を見渡してもなかった。王さんが暗い中、道端で人に聞いている。ようやく見つけたその宿は何と満員だと断られる。そこにいたおじさんが『いい宿がある』と連れて行ってくれたのは、街道から少し離れた場所。新しくできた宿のようで、部屋はかなりきれいだったが、ツインの部屋がないことと、Wi-Fiがなかったことから、残念ながら泊まらなかった。丸2日以上、全くネットを繋げないのもちょっと不安だったのでこの決断になったのだが。

 

そして辿り着いた宿は、正直狭くて臭かった。今回の旅で最悪の部屋だった。しかも外から大額の音が響き、煩い。唯一Wi-Fiがロビーで繋がる以外、全くいいことはなかった。そんな部屋なのに、価格はあのきれいな部屋よりも高い。どうなっているんだ?やはり街道沿いの便利な場所、というのが強気にさせているのだろう。王さんも『ここは良くなかった』と反省しきり。でも疲れていたので、仕方がない。布団をかぶって寝るしかなかった。

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4月11日(月)
4. ポンサリー郊外
再びコーマン村へ

本日は当然早起きして、ネットをやる。部屋で寝ている気にもなれない環境だった。王さんもロビーにいた。早々にチェックアウト。もうお決まりのようなっている麺の朝食。美味しいのだが、少し飽きてきた。この付近は中国が支援して道が作られている。中国側にとってもこの道は大事だということだ。そして我々は中国側に向かって戻らず、反対にポンサリー方面に車を走らせた。ここに泊まったからには、ポンサリー郊外の茶畑に寄って行こうということになる。

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1時間ぐらい走ると、『樹齢400年の茶樹はこちら』という表記が見えた。そこで山の方へ向かって入っていくと、何と2月に私が白人ツアーを敢行したコーマン村に着いた。ここにはそんな古い木があったのか。前回はガイドもなく、何もわからなかったが、今回は色々と見られそうだ。

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ここの塀にコーヒー栽培を奨励する広告が張られていた。中国語が使われていたので、中国企業がラオス農民にコーヒーを作らせようとしている様子が分かる。具体的に3年後の収入を表示するあたり、如何にも今の中国らしい。しかしラオス産コーヒーを中国人が飲むのだろうか。インスタントコーヒーなどの原料になるのかもしれないが、そんなに儲かるだろうか。

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前回と全く同じ道を登っていく。そのきつい階段のところで何と、前回突撃訪問した家のおばさんとすれ違う。彼女も私を認識したようだが、驚いた様子もなく、会釈して別れた。何となく日常だった。その家の近くには、かなり大きな茶の木が植わっていたが、あれは茶だったのだろうか。

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もう少し行くと、前回も覗いた茶工場がある。2月には誰もおらず、鍵もかかっていたが、中には製茶機械も置かれており、今回は人が茶を作っていた。なんとそれは中国人であり、ここで原料の茶葉を調達して、加工、そして広東に売りに行くのだという。そうすると5倍から10倍の値で売れるというのだから、多少不便なラオスの田舎でも我慢しているのだろう。実際そこは工場でもあるが生活の場でもあり、鍋釜があり、テントまで張られていた。

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そのすぐ下に、樹齢400年の木があった。前回は完全に気付かずに通り過ぎていた。かなり太い木であり、タリエンシスかな、と思われる。樹齢400年の木とは、誰が鑑定したのだろうか。鉈先生はしきりに写真を撮っているが、果たしてこの木をどのように評価するのだろうか。

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車のところに戻ってくると、ちょうど人だかりがあった。その中心には中国人がおり、地元の女性が片言の普通話で話していた。その中国人は何と王さんの知り合い(中学の教師を定年退職)で西双版納からピックアップトラックでやってきたという。昨晩到着し、これから買い付けた茶葉を積み込んで、西双版納へ戻るらしい。彼の車は最寄りの国境を通れるため、5時間あれば西双版納に着くというから、なんとも羨ましい。我々はこれからここを出発しても今日中に西双版納に辿り着くことはまずありえない。でも一番かわいそうなのは王さんだろうな。

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地元民は皆茶葉を摘んで、ここへ持ち込んでいた。茶葉を買ってもらえればすぐに現金化できるのだろうか?とにかく勢い込んで売り込んでいた。買付者はその茶葉を一々吟味して、良いものだけを選んでいる。中には、茶葉を先ほどの茶工場へ回して加工してもらってから、西双版納に持ち込むこともあるらしい。それでも明日の夕方には受け取れるというから、やはりこの距離感は侮れない。

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昼前にはコーマン村を離れる。いよいよ帰路に就く。途中でランチを食べる。今日は中華系、豆腐がイケル。昨晩王さんと『西紅柿炒鶏蛋』について話していたら、ちゃんと注文してくれていた。日本の中華料理にはないトマト卵炒めは、中国人が最も好む家庭料理であり、王さんも言っていたが、何とも懐かしい料理なのだ。これが美味しくないレストランは流行らないともいえる。

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それから3時間山道を走り、ウドムサイに近い、パクナムノイという街に着く。そこにはちょうど少数民族が集まってきており、筍などを売り歩いている。彼女らはどの辺からここへ来たのだろうか。ずいぶん遠くから来たのかもしれない。買ってあげたいが、食べる術もないので諦める。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(6)喬木古茶樹を発見

 古茶樹発見

細い坂の道を下っていくと、そこには確かに茶畑が存在した。だが勿論、人工的に植えられたものであり、樹齢もそれほど古いとは思えない。作業小屋もあり、ここに人が来て、茶畑を管理していることが分かる。こんな山の中に一体誰が、どこから来るというのだろうか。

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その向こうにヒョロヒョロと背の高い木が見えた。村長が『あれが樹齢数百年の古茶樹だ』という。確かにかなりの高さがある。茶葉は上の方にしかなく、肉眼で見ることができない。カメラのレンズを通してみると、意外にも葉が小さい。喬木の小葉種とは珍しい。葉っぱが見てみたいというと、村長がガイド役の少年に指示、彼はスルスルと木を登り、難なく葉っぱを採って降りてきた。これはすごい。きっと木登りは遊びであり、慣れているのだろう。

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彼はちゃんと一芯三葉で、きれいに葉を摘んできた。これは茶摘みにも慣れている証拠だった。鉈先生は『喬木の小葉種』などを見たことがある日本人などいないのではないか、と言い出す。しかしその樹齢もよくわからないし、ここにある理由も不明だ。この付近も40年前に移住した際、植えられたものが多いというが、この喬木はその前から生えていたのだろう。

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小屋では昼飯の準備が始まる。村から持ってきた生の豚肉の塊をその辺に木に刺して焼く。村長はあっという間に火を熾し、肉の塊を掲げた。昔あった丸大ハムのCMを思い出す。持参した岩塩をふるのもワイルドだ。焼きあがった肉はジュージューと音を立てて、かなり熱い。その塊を大きなハサミで切る。これは本当にすごい作業だ。兎に角あるもので何とかする。食べられるサイズに切ると、バナナの葉の上に乗せ、後は各自が口に入れるだけだ。なぜかその辺から人が出てきて、もち米ご飯を置いていくのが不思議。水も天然の湧水を飲む。

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その肉は何ともうまかった。もち米と肉、そのシンプルさがよい。少年は何も食べずに、向こうで何かしている。村での生活は一日二食だと言って、食べないのだそうだ。あれだけの山道を歩いてきて、途中の沢で水をすくって飲むだけとは、なんとも驚き入る。単に遠慮しているだけなのだろうか。まあ、慣れない外国人と一緒で彼は彼なりに緊張しているかもしれない。

 

帰りはだいぶ余裕が出てきた。周囲の花が目に入り、写真に収めることができた。その種類は1つや2つではない。恐らく植物学の世界でお宝と思われる草花が生えていることだろう。自分の専門性のなさを嘆いても仕方がない。1時間半ほど、ふらふらと歩いていく。途中、少年と若者が、急に山中に分け入る。見ていると、野生の鶏?がおり、なんとそれを捕まえようとしていた。今夜のおかずを想定しているのだろうか。真剣そのもの表情だった。ただ敵もそう簡単に捕まるものではない。かなりの素早さで逃げていく。

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平地に出ると、向こうに煙が上がっている。焼き畑農業が行われている。焼き畑農業はヤオ族の得意分野であり、焼き畑とお茶についてもたびたび指摘されている。遅れ気味に歩いていた鉈先生がついにダウン寸前になる。フラフラ、ヨロヨロ、まるで夢遊病者のように歩いてくる。その前に立ちはだかる小川。靴をずっぽり入れないと渡ることはできず、びしょびしょになる。それでも無事に生還したことが嬉しい。

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村に戻るとお婆さんが何事もなかったように孫と遊んでいた。そして午前中に干されていた茶葉は日陰に移されている。作りたての茶葉を使って淹れた茶を飲む。乾いた喉には何とも心地よい。村長は電波が戻ってきたので、盛んにスマホをいじっている。また茶葉の注文が中国から来たのかもしれない。持っていたバナナを皆で食べると生きた心地がした。ちゃんとした食料も持たずに山中に分け入ったことを深く反省した。それにしても体が重い。犬が実に気持ちよさそうに地面に寝ころんでいた。

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分岐点に泊まる

それから車に乗り、来た道を帰っていく。ガソリンスタンド脇で村長たちは置いていた自分たちのバイクに乗り別れた。烏太までやってきて、そこから我々は一路、中国国境を目指して、来た道の逆走を本格的に始めた。後部座席でウトウトするが、眠れない。なんでもいいから冷たい飲み物が欲しい。車を道路脇の店に停めて、中を見てみると冷蔵庫があった。コーラを取り出しごくごく飲む。乾きは相当に来ていた。

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烏太から車で約2時間、ようやくポンサリー-ウドムサイを結ぶ国道本線に戻ってきた。ただもうあたりは暗くなり、さほど前には進めない感じだった。疲労もピークに達していた。取り敢えず腹ごしらえをと入ったレストランは珍しくラオス系であり、意思疎通が難しかった。

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出てきた料理は何とも言えない代物だった。例えば卵と白菜の炒め物、ただボヤーッとした感じで、とにかく味の素の味がした。それはこれまでレストランで食べてきた料理がほぼ中華系であったことにより、ラオスの食べ物の味が分かっていなかったことを意味する。よい経験だったと言えよう。

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鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(5)夜間決死行と昼間のハイキング

迫力の茶作りと決死行

完全に夜の闇に包まれたマーラー村。村長の帰りを待っていた我々だが、彼のバイク音は一向に響いて来ない。そんな中、家々の灯りが灯り、そしてそこに設置された大鍋で茶葉を炒る作業が始まっていた。上半身裸、筋骨隆々たる男が大量の茶葉を炒る姿は、ある種宗教儀式のような荘厳な感じがある。それにしても釜炒が夜行われるとは。

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夕方まで摘んでいた茶葉を少し干してから、ゆっくりと炒る。普通の緑茶製造では、すぐに殺青を行い、処理してしまうが、そこは完全に製法が違う。ミャンマーでもそうだったが、プーアール茶の原料を作るようなものであり、出来上がった茶葉をすぐに飲むとかなり強いため、半年ぐらい置くと飲み頃になる代物である。釜で炒った後は、女性がざるの上に茶葉を広げて揉んでいる。今晩の作業はここまでのようだが、釜炒りは延々と続いていた。

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夜の8時になっても村長は戻らなかった。鉈さんは、カメラの充電が切れ掛けていたが、この村には充電する場所もなく、彼は充電ケーブルを持っていなかった。村人はしきりに『ここに泊まっていけ』と勧めてくれたが、決断の時が来た。鉈先生たちは前回ここに泊まったようだが、私はやや強引に『今日は帰る』と主張して、何とか受け入れられた。やはり乗り捨てた車とその中に置いてきた荷物のことも気にかかる。疲れがあり、ごろ寝は堪えると思ったこともある。

 

しかし帰ると言っても5㎞の暗い夜道を歩いて引き返す勇気などとてもない。村の若者が3人、バイクで送ると言って準備してくれた。それからがまた恐怖の連続だった。真っ暗な中、かなりのスピードで山道を走り過ぎる。一昨年のミャンマー決死行を思い出さざるを得ない。するとまた恐怖が増す。あの時は山道がよく見える恐怖だったが、今回は何も見えない恐怖。どっちが本当は恐ろしいのだろうか。ほぼ20分間、生きた心地はしなかった。

 

何とか車が見えて一息ついたが、今度は相当に狭い山道を車で走る恐怖が待っていた。幅がぎりぎりの山道を走るのだから、一歩間違えば、当然下に転落する。しかし周囲に灯りはなく、車のヘッドライトのみが頼りとなる。王さんの運転技術が発揮される。烏太の灯りがうっすらと見えた時は、取り敢えず生還したことに、心から安堵した。

 

烏太の街と言っても規模は小さい。今度は泊まるところを探すが、ゲストハウスの看板があっても、やっていなかった。何とか部屋が確保できるホテルに辿り着いたときは、相当に遅くなっていた。ここの部屋はかなりきれいだったが、ツインの部屋はなく、今晩は珍しく一人部屋となる。しかしあると言っていたWi-Fiは結局繋がらず、疲れも手伝い眠りに就く。

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4月10日(日)

バイラオウー村から

翌朝はスケジュールがよくわからず、早めに起きたが待機となる。例の村長と連絡がなかなかとれなかったようだ。8時半頃宿をチェックアウト。因みにこの宿には中国商人が何人か泊まっており、朝から持ち込んだカップ麺を食べていた。こんな僻地に何の商売があるのだろうか。Wi-Fiは故障しており、全く繋がらなかった。我々は街外れの食堂で朝飯の麺をすすった。

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それから車で約1時間、昨日行ったマーラー村へ向かう山道を行く。今日も同じ村へ行くのか、何の用事があるのだろうかと思っていると、途中に一軒だけあるガソリンスタンド付近で待ち合わせをしており、村長以下3台のバイクが待っていた。またバイクで山道か、と思っていると、村長ともう一人が私の横に乗り込んできた。今日は車で別の場所へ行くらしい。

 

車で20分ほど行くと、小さな村があった。名前をバイラオウーと呼んでいた。一軒の家に入ると老婆が孫と遊びながら、茶葉の枝取り作業をしている。庭には茶葉が干されていた。彼女はやはりヤオ族だった。村長の村とこの村はともに1970年代の文革中に、雲南省の思芽付近から移住してきた同族らしい。なぜここに移住してきたのか、『思芽でもめ事があり移り住んだ』という説明の中に、文革が何か関連しているのだろうか。実に興味深いがそれ以上の説明はなされない。

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そしてそこからは徒歩になった。かなり古い茶の木がある場所まで行くらしい。村長たちはいるものの、地元の人の案内が必要ということで、10歳の少年が先導役になって進む。初めは意気軒昂に歩き始めた我々だったが、きつい山登りに次第に遅れがちなる。勿論民家など一軒もなく、すれ違う人もいない。本当の山の中に入り込んでいく。このいつ終わるとも知れないハイキングは、体力を相当に奪い、鉈先生なども段々よれよれになってくる。

 

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1時間後には奥深い山中に分け入り、その30分後にはバイクが停まっているのが見えた。とうとう着いたかと安堵したが、それはさらに山に分け入った人のもので、目的の古茶樹は全く見えなかった。小休止後、少年や村長が周囲を探し出す。目的地は近かったが、特に目印があるわけでもなく、本道から脇道に入って探している。我々にはもうそんな気力も体力もなく、言われるがままに進むのみ。そして出発から2時間後、とうとうその場所を発見した。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(4)国境まで15㎞の村で

3. 烏太
徒歩で5㎞

烏太の街を横目に車はまた山に突っ込んでいった。時刻は午後2時を回っている。もし今日も着かなかったらどうしよう、などとは思わなかったが、なんとも嫌な予感がしていた。ランクルは水のある場所、小川などを苦も無く走破していく。もし普通の乗用車で来ていたら、全く身動きが取れなかっただろう。それでも比較的大きな川のところで道を失う。その川では子供たちが楽しそうに水浴びしていた。丸まると太った豚君たちもその横で水に入っている。

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王さんが近所の人に道を聞いていた。そこへ向こうからバイクに乗った人がやってきて、普通話で『この先に道はないぞ』という。鉈先生によれば、一昨年来た時は、車で村まで行ったというのだが、地元の人の言うことを信じるべきだろう。しかし王さんも鉈先生も行った経験があるというので、それを無視して、川を車で渡り、さらなる山道に飛び込んだ。

 

しかしやはり、道はなかった。正確には道はあったが、車が通れる幅がなかったのだ。そこで初めて、村長に電話を入れるが、繋がらない。困っていると村人がバイクでやってきたので連絡を取ってもらうと、やがて村長はバイクで登場した。だが、我々が持ってきた土産、ビールや日本酒などをバイクに積み込むと、行ってしまうではないか。

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取り残された我々3人は車を沿道?に乗り捨て、炎天下の道を歩くことになった。村長に村までの距離を聞くと『遠くはない』との答えだったが、結果的にはそこから約5㎞を歩くことになる。後でわかったことだが、このあたりに住む人々には、残念ながら距離感というものが全くなく、『遠くない』は、意味としては『自分で歩いて行ける範囲』ということらしい。ということは、鉈先生もこの付近の住民と同じ感覚だ、ということに初めて気が付く。

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マーラー村で

それにしても疲れ果てた。少し日が傾き始めた頃、我々はついにその村に到着した。そこはマーラー村という名前だと聞いた。実にのどかな、家々が少しあるだけのシンプルな村だった。だがお婆さんの服装を見れば、そこが中国で言うところのヤオ族の村であることはすぐにわかった。これは昨年訪れたベトナムの村に似ていなくもない。家の壁に『古茶樹』とか『大茶樹』とか、漢字で書かれているのも面白い。ベトナムのヤオ族の家には対聯などの漢字文化を受け継いでいたが、ここにはそれはなかった。

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早々に村長の家の前でお茶を飲み始める。村人が集まってきた。お茶は大葉種でできた緑茶。いい感じに乾いた茶葉がそそり立つようにテーブルに置かれている。これはまさにプーアール茶を作る時の原料のようであり、ミャンマーの山岳地帯でも目にしてきたものであった。作りたての茶葉で茶を淹れると、味は悪くないが、かなり強烈であり、できれば半年ぐらい置いてから飲みたい感じもする。茶殻は見事なばかりの緑色をしていた。何種類か試す。

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村長が席を外す。どこへ行くのかと見ていると、ちょうど摘まれたばかりの茶葉が運び込まれており、彼はその計量をしていた。これは重要な村長の仕事なのだろうか。計量は分銅を点けた昔ながらの秤で行われる。この軽量で全ての成果が問われるので、当然皆真剣だ。村長はノートに1つ1つ記録する。そして村長はいつの間に我々の前から姿を消していた。彼は一体どこへ行ったのだろうか。

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村の中を散策する。豚が飼われており、皆お昼寝をしている。お婆さんはヤオ族の伝統衣装を着ているが、他には誰も民族衣装など着ていない。鉈先生は持ってきたお菓子を子供や若い女性にばら撒いて、ご機嫌を取る。若者からは鉈さんに声がかかる。『うちで作った茶葉を見てくれ』というリクエストが多い。ここでは彼は『茶葉を買ってくれる買い手』として認識されており、村長以外の家からも買ってほしい、という要望が寄せられている。茶葉は皆古茶樹の葉だというが、そうなのだろうか。素人の私にはよくわからない。勿論村の周囲には茶畑など見られない。

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ご飯だと言われ、裏の調理場のような場所へ連れていかれる。そこには新鮮な豚肉を煮込んだもの、野菜を煮込んだもの、そしてもち米で炊かれたご飯が出てきた。何とも素朴な料理だったが、何しろ素材がよいので、実にうまく感じられる。王さんによるとこの村では今日、もち米祭りが行われているらしいが、その気配は全く感じられない。単にもち米を食べる日なのだろうか。薪でやかんの湯を沸かしているのが好ましい。

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夕日が落ちていくのをゆっくり眺めながら、枝取りをする村人たち。こんな風景は茶旅の理想形の1つに思えてくる。村外れまで歩いてみても特に何もない。何もないことが素晴らしいと思えるような村だった。そして日は急速に落ち、夜の闇に包まれていく。我々は村長の帰りを待ったが、一向に戻る気配がない。この時になって初めて、『中国から茶葉の注文があり、村長はバイクで届けに行った』と聞かされた。中国国境までは僅かに15㎞、注文は中国携帯を使って、中国語で行われていることが分かる。

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我々ははるか400㎞を走破してここに辿り着いたのだが、ここの住民は僅か15㎞で中国の国境を越えられた、というのは衝撃の事実である。勿論イミグレなどない場所、厳密には越境なのだろうが、この辺の人々には従来から国境の概念などは薄い。いや、国境は国家間で勝手に決めたものであり、そこに住まう住民には国境などないのだろう。

鉈先生と行く雲南ラオス茨の道2016(3)目的地まで行けなかった初日

2.烏太まで
ついに着かなかった初日

車は国境からラオスに入った。中国の道よりよくはないが、まあ普通の滑らかさで揺れはあまりない。30分ぐらい走ったところで見覚えのある分かれ道を過ぎた。確かここは2月にファーサイからルアンナムターを経由して通ったはずだ。これはどういうことだろうか?確か鉈先生は『タイから入るよりずっと近い』と言っていたが、これでは同じではないか。そんな疑念は抱いたが、もっと近道があるはずだ、バスとは違うのだと思うようにした。

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1時間半ほど走ると、車が急に止まる。道端に少数民族の物売りが沢山小屋掛けしていた。山で採れる薬草や野菜を売っていた。何か買うものがあるのだろうか、と見ていると、鉈先生は誰かを探し始め、そしてついに見つけた。それは前回ここに来た時に、一緒に写真を撮った女性で、今回はその写真を渡すために車を停めたのだ。更に今回鉈先生は文明の利器を用意していた。チェキ、これで撮れば、その場で写真を渡すことができる。幼い子の中には、何が起こるのかわからずに泣き出した子もいたが、概ね好評だった。地元民との交流は、鉈先生のお得意とするところだ。

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国境から2時間後にウドムサイに着いて、完全に道が同じであることを思い知った。大きな街なので当然休息すると思ったのだが、王さんは運転の手を休めずに、そのまま中心都市ウドムサイを通過して、山道に突っ込んでいった。すでに日は西に傾いている。ここから私はバスで9時間かけてポンサリーへ行ったのだ。車だと何時間で行けるのだろうか?そんなに早いのだろうか?鉈先生はまだ『そんなに遠くない』と言っているが、本当に前回もここへ来たのだろうか?王さんが急いでいる様子を見ても、そんなに近いとはとても、とても思えないのだが。

 

山道をぶんぶん飛ばしていくが、残念ながら高速道路のようなわけには行かない。トラックなど大型車量を追い抜くのも一苦労だった。途中でトラックが停まっていた。見ると周囲からバナナが取られて運ばれてきており、ここで積み込まれている。この辺でバナナが作られているのはちょっと意外だった。それほど中国から近いわけではないが、バナナ栽培に適している要素がこの辺にあるのだろうか。日は更に傾き、いよいよ暗くなり始めてきた。

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夜道を2時間ほど走った。暗いのでどこをどう走っているのか分らなかった。9時ごろになり、ついに車が停まった。どこかへ着いたのかと思ったが、ご飯を食べるのだという。もう西双版納を出て12時間以上が経っているが、本当に今日、着くのだろうか。魚入りの濃厚なスープがやけに美味かった。疲れはかなりの状態になっており、野菜炒めは食べたが、ご飯は少なめとなる。そして王さんがここのオーナーと何か話を始めた。そして車でどこかへ向かう。鉈先生は『あと2時間ぐらいで着くだろう』などとのんきなことを言っていたが、そんな状態ではない。

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着いたところは、村はずれの場所。そこにゲストハウスがあった。王さんが『今晩はここに泊まろう。もう限界だ』という。やはりそうだろう、私の2か月前の経験から言っても、とてもポンサリーなどへは行けない。部屋は道路沿いの小さな宿としては、きれいであり、泊まるのに支障はなかった。私はシャワーを浴びるべきだったが、疲れたので、ここがどこかも分らないまま、そのまま寝てしまった。Wi-Fiが繋がらなかったのも一因だった。

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4月9日(土)

行先変更

翌朝は早めに起きて、ロビーでネットに挑戦。今やラオスの田舎でもWi-Fiは普通の存在だった。ただ容量が少なく、繋がらないことが多いだけ。ここに泊まっている若者は中国語ができた。中国人もいた。外へ出ると、向かいの家は農家だった。トラクターに座り、女の子が幼児をあやしている。ラオスでは兄弟の面倒を見る子供は大勢いるが、なぜか気になる子であった。

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車で出発した。すぐに曼約という街に着く。ここも2月に通過した記憶がある。正直未だここまでしか着ていないのか、という思いである。そこで朝ご飯を食べる。薪で鍋に湯を沸かし、麺を入れて茹でている。素朴な麺が出来上がる。お湯をもらい、茶葉を入れて、茶を飲む。鉈先生はここでも民間交流を展開するが、相手は興味を示さない。

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1時間半ほどでボーヌアまで来た。ここからポンサリーまでは50㎞ちょっと、ようやく目的地が見えてきたが、鉈先生は『ポンサリーに行かないで直接茶産地へ行こう』という。茶産地はポンサリーではないのか、それはどれぐらい離れているのか。そんなに近くないという言葉は既に幻となっている。ここでバナナを仕入れ、そして昼ご飯として、焼き魚と焼き鳥を買う。これを買うということはこの先に食べるところがない、と王さんの表情に出ていた。

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確かにここからの道は良くなかった。道路工事現場もあった。途中で葬式の準備をしているところがあったが、その先にはやはり家はあまりなかった。土砂崩れが起こっているところもあった。何とか麺を食べる店を見つけて、ランチを取る。そこでさっき買った焼き魚を食べると結構イケル。ついに烏太の街が見えたのは朝出発してから5時間近くが経っていた。これでもまだ『近い』とは、もう誰も言えないだろう。しかし車はここで停まらなかった。目指す村はここからまだまだ先だったのだ。

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