「ミャンマー」カテゴリーアーカイブ

ミャンマー激走列車の旅2015(5)虫に食われ、揺れに耐えた26時間

 ヤンゴンまで

約9時間も乗っただろうか。もう疲れたな、と感じていた頃、イエという駅に到着した。確かダウエイの駅長がここで列車を乗り換えろと言っていた場所だった。列車には車掌が乗っていた。彼もほぼ乗客のように席に座り、仕事をしているようには見えなかったのだが、この時ばかりは立ち上がり、隣の列車に移るように指示を出す。乗り換える、と言っても、ホームなどはなく、隣の停車している列車に移るだけなのだ。しかしそれが意外と大仕事で、皆大きな荷物を持って、タラップを這い上がっている。

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今度の車両に入った瞬間、嫌なにおいがした。この車両は一体いつから使っていなかったのかと思うような、古びたカビの様な匂いだった。座席の広さなどは同じだが、そのシートにも埃が被っているように見える。ずっと車庫に入っていたのを引っ張り出してきたのだろうか。これはヤバい、と言わざるを得ないが、我々にはここに座る以外に選択肢はなかった。アッパークラスは確か一両しか連結されていない。

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イエで弁当を買ったが、鶏肉と酸菜がぽつんと入った物だった。あまり食欲もわかない。列車が動き出すと、更に埃を感じてしまう。そして一番恐れていたことが起こり始める。この座席には虫が住んでいたのだ。それが列車の動きに合わせて急に動き出す。そして私の体を刺しまくり出した。これには参った。しかしどうすることもできない。この状況はS氏もNさんも同様だったようで、後で見てみると腰から背中、足まで喰われた跡が残ってしまった。痒くて仕方がなかったが、防御の方法はない。虫のなすがままだった。

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3時間ぐらい乗っていると、お茶売りが乗ってきた。ものすごく揺れる中、彼は器用にチャイを淹れていた。すごい技だ。毎日乗り込んできて淹れているのだろう。修練の大切さ、茶を飲みながらしみじみと思う。午後6時半頃、停まった駅でまた弁当を買う。どうも先ほどのものが胃袋には物足りなかったようだ。今回は豚肉と魚が入っており、味的には満足した。あたりがだんだん暗くなる中、痒みも徐々に収まってきた。

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そしてダウエイから乗ること15時間、夜の9時に真っ暗な中、大きな駅に着いた。これまでの最大の都市、モールメインだった。正直私はもう降りたくて仕方がなかった。モールメインはミャンマーの重要な貿易港であり、今回のお茶の旅にも通じる歴史を持っている。まだ行ったことがないこの街に、私は降りてみたかった。S氏にその旨を告げると『そうですね』と言ったきり黙ってしまった。そして列車がホームに着くと、早々に降りてはいったが、ホームの売店で冷たいビールを手に入れると、さっさと戻ってきてしまった。

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これで明日の朝までこの車内で過ごすことが確定してしまった。もう言葉も出なかった。S氏にとって、旅とは一体何であろうか?我々凡人なら『せっかくここまで来たのだから、ちょっと寄って行こう、見ていこう』という気持ちも起こるだろうし、ましてや『途中で休みながら行った方が体の負担も少ない』と考えるのではなかろうか。ところが彼は私より年上にもかかわらず、そしてお金がないわけでもないのに、このような旅を続けている。もし一つ理由があるとすればそれは『時間』かもしれない。前に進むことによって時間を節約し、より多くの旅をする、という習慣が身についているようにも思う。

 

また列車が動き出す。揺れには慣れてきたとはいえ、体はまだ完全に反応できてはいない。重たいものを感じている。しかし容赦なく、揺れは訪れ、また引いていく。これからは寝るだけだ。眠ってしまえば、朝になり、朝がくればヤンゴンがやってくるんだ。薄暗い車内で呪文のように唱えてみたが、どうしても眠れなかった。確かに朝からずっと寝ているのだ。そして揺れで起こされる状態が続いており、神経は高ぶっている。ミャンマー人の乗客でヤンゴンまで我々と一緒に行く人は殆どいなかったと思うが、車内では皆スヤスヤ寝入っているように見えて羨ましい限りだ。窓の外にライトアップされた仏塔が見えた。

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7月25日(土)

いつの間にか眠っていたらしい。外が白々と明けてくる。夜中、何度か駅に停まった。その度に一瞬ヤンゴンか、と思ったが外が暗かったので、また目をつぶった。車内に売りに来た売り子から朝ご飯を買った。餅のようなものとチャイだった。チャイはビニール袋に入っていた。あまり食欲はないが、取り敢えず口に入れてみる。皆がソワソワし出した。荷物をまとめている者もいる。いよいよヤンゴンに到着だ。

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しかしそこからが実に長く感じられた。何となく家々が見え始め、都会に近づく感じが出ては、また農村の逆戻り。一体いつになったら着くのか、と不安になった頃、突然それはやってきた。大きな駅に入ったのだ。それまで周囲にヤンゴンを感じさせるものは、何もなかった。なぜかというと、ヤンゴン市内の線路は柵で囲われており、周囲から隔離されていた。それで気が付かなかったのだ。ともあれ、何と定刻午前8時に列車は中央駅に着いたのだった。26時間の鉄道旅は終わった。

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ミャンマー激走列車の旅2015(4)ダウエイ あんなに苦労してきたのに散策は30分

 ダウエイの街

時刻は夜の7時を過ぎていた。腹も減ったので、外へ出る。ホテルを出るとすぐに、携帯ショップがあった。ミャンマーではこれまで通信手段で苦労していたので、ダメもとでシムカードを買えるか聞いてみる。半年前、ヤンゴンで半日探してやっと買えた記憶があったが、ここではすんなり買えたので驚いた。タナカを塗った若い女性が簡単にセットしてくれ、通話もすぐにできた。半年前は確かヤンゴンとネピドーとマンダレーしか通じない言われたカード。ミャンマーは半年で変化すると言われているが、それは本当だった。たった半年でヤンゴンだけでなく、この一番南の街までシムカードは普及し、ほぼ全国どこへでも電話できるようになっていた。

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街は急速に暗くなった。食堂もあまり見られない。仕方なしに、屋台に入る。ここはインド系がやっていた。ダンバオというカレーチャーハンに焼き鳥を乗せる食べ物が美味そうだった。S氏とNさんはビールを所望したが、ここにはないらしく近くから買ってきたのは5歳ぐらいの息子だった。ただ他のお菓子も一緒に買ってきてしまい、母親にひどく叱られていた。何とも微笑ましい光景だった。そしてそのビールは当然のように冷えていない。そこで氷を頼むと、これまたおじさんがバイクで買いに行くという具合だった。飯は予想通り美味かったが、疲れていたせいかそれほどは食べられなかった。

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食後私はS氏に聞いた。『せっかくダウエイに来たのに、街も見ずに列車に乗るのか』と。答えは『ダウエイには以前に来たことがある。でも確かに街を見ないのもなんだな。30分ばかり散歩しよう』と。そして我々は真っ暗な中、30分ほど歩いてみた。あれだけ苦労してここまでやってきて、街の散策がたった30分とは。これはやはり私の旅ではない。途中の商店はどうも中華系の香りがしたので、普通話で話しかけると、やはり答えがあった。ここは港町、昔は華僑も沢山来たことだろう。S氏とNさんは晩酌用の酒とつまみ選びに余念がない。

 

ところでダウエイの開発区だが、ここには影も形もない。S氏によれば、開発区も港も街からかなり離れており、たとえ開発区ができても、この街にどの程度良い影響があるのかは不明だった。街にはこの特別区に関する宣伝もなければ、それとわかるものも何もない。これは暗いせいばかりではないと思う。今回の散歩では残念ながらダウエイについてはほとんどなにも分らなかったが、ここに投資する勇気は称賛に値する。明日も早いのでホテルに帰り、3人部屋で電気も点いたままなのに、すぐに寝入る。これが私の特技だった。

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7月24日(金)

翌朝は4時過ぎには起きた。5時に迎えのリキシャが来る。これが来なければ列車に乗れない。ホテルには朝食の代わりに、ランチボックスを用意してくれるように依頼していたが、ちゃんと用意されていて驚く。何と順調な2日目の朝。何となく涼しい。リキシャは10分で昨日に駅に着く。まだ5時過ぎだ。例の体育館の様な建物では、灯りもない中、人々が起き上がり始めていた。少しずつ夜が明け、駅の周りの小屋に商売を始める煙が立つ。我々もその一つに入り、ティミックスを飲みながら、過ごす。一応今回の旅は茶の旅でもあるので、コーヒーではなく、ティを飲むようにS氏に促したところ、この甘いティミックスがことのほか気に入ったらしい。それからはいつもティミックスを飲んでいた。

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問題は列車がいつ来るのかということだ。隣の中堅国、タイの鉄道のひどさは昨日を見ても分っている。それより遅れているミャンマーではその到着時間には懐疑的にならざるを得ない。ところが6時が近づくと、乗客がホームに集まりだす。そして昨日の駅長も出てきた。これは来るかもしれない、と思っていると、何と列車は突然音を立ててやってきた。ほぼ定刻だった。だがすでに僅かに乗客が乗っていた。ここで気が付いた。このダウエイ駅は始発駅ではなかった。もう一つダウエイポートなる駅があったのだ。しかしすでに列車は来てしまった。乗るしかない。

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どこに乗るのだろうか、我々はアッパークラスを予約していたが、その車両はどれか分らない。そこへ駅長が来て、こっちだと指さす。急いで言われた方へ行き、タラップを上がり、車両内へ入る。中は意外と広い空間があり、リクライニング出来る椅子が用意されていた。2席、1席の3列配列。相当にゆとりがあり、足を延ばしても相手にぶつからない。さすがアッパークラスだった。料金はローアークラスの2倍。それでも安いと思ってしまう。

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ミャンマー激走列車の旅2015(3)何もない山道をダウエイまで

 ダウエイへ

イミグレは無事に通過した。正直ほっとした。ここでダメだと言われてももうどうしようもない。戻ることすらできないだろう。外国人がここを通過できるようになったのはつい最近。だがまだ問題はあった。ここからどうやって今日の目的地、ダウエイまで行くのだろうか。周囲を見渡してもバスがあるようには見えない。S氏がバスについて尋ねると『日に一本はある』ということだったが、その費用も安くなかった。

 

先ほど我々を乗せた軽トラのおじさんは英語ができた。彼が仲介役となり、交渉が始まった。車のチャーターが一人700バーツと聞いてのけ反る。1台ではないのだ。タイ国内をここまで来るのに150バーツも掛かってはいない。しかし選択肢がないことは絶対的に不利だった。ただバスが来たとしても400バーツぐらいはかかりそうだったので、最終的に一人600バーツで手を打つことになる。仲介役はいくら懐に入れたのだろうか。まあいずれにしても、これで今日中にダウエイに入ることが確定したのはよかった。何と順調なのだろうか。

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道はかなりの山道だった。確かミャンマーとタイはダウエイ経済開発区の開発を共同で行っているはずだったが、とても大量のトラックがここを通過できるとは思えない。アジアンハイウエーとは名ばかりで、辛うじて舗装された狭い道が続く。こんなところに莫大な税金を投入しようとしている日本政府の関係者は、この道を通った後で出資を検討したのだろうか?決してそんなことはあるまい。いくらダウエイに素晴らしい港があっても、陸路は実質的に遮断されているも同じだ。だからタイ企業も撤退を表明し、困ったミャンマーは日本に話を持ち掛けた、ということだろうか。

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1時間ぐらい走ったところで、茶店があり、休憩した。というより、運転手が食事をとるためだったが、何だか酒も飲んでいるようだった。今日は本当に運のよい儲け仕事が転がり込んできた、ということなのだろう。何とも言えない気分でそれを見る。車は川沿いを走っていく。途中何か所か橋が架かっていたが、いずれも小型。大きな車がここを通って大丈夫なのか、というほど、柔い代物だった。まあ、とにかく村などもほぼ見られない山道をずっと走っていく。一体いつまでこれが続くのだろうか。

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国境から3時間半ほど揺られただろうか。特に街らしい風景もない中で、突然畑の中に大きな建物が見えた。なんとそれがダウエイ駅だった。完全に街の郊外にある。言われなければ気付かない場所だろう。運転手とは言葉が通じないが、仲介役が駅に連れて行くように言ってくれていたので、ここまで来られたらしい。建物に入ってみたが、だだっ広い体育館の様な場所だった。そこにござなどを敷いて座っている人々がいた。まさかと思ったが、すでに列車を待っている人だった。

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何とか情報を得ようとしたが、言葉が通じない。すると線路でセパタクローをしていた一人がやってきてちゃんとした英語を話した。なんと彼が駅長であり、列車は一日一本、午前6時発だとわかった。駅長室に行き、切符を買う。S氏が『明日の朝のを買いますね』と軽く言ったが、私にはそれは衝撃だった。え、今日こんなに苦労してやっとここまでたどり付いたのに、これではダウエイの街すら見ることはできない。そんな馬鹿な、と心の中で思ったのだが、今回の旅は全てお任せしようと思っており、自分の意見は控えた。まあ成り行きに任せてみよう。

 

駅長は丁寧に切符を作成した。支払いはすべてミャンマーチャットのみとなっていた。幸い私は現金を持っていたので、何とか払えたが、なければ街まで両替に行かなければならなかっただろう。それにしてもヤンゴンまで26時間かかるらしい。その料金が米ドルにしてわずか10ドルとは。ミャンマーでは昨年外国人に対する列車切符のドル払いを停止して、チャットに一本化したが、その際料金までもミャンマー人に統一した。その結果、料金は3分の1に下がったらしい。驚くほど安い。中国で兌換券が廃止された90年代には確か料金は値上がりした記憶があり、ミャンマー政府は何と良心的なんだと思ったが、それが少し違うことは追々わかってくる。

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これからどうするか。まさか明日の朝までここで待機するのかと思ったが、さすがにそれはなかった。乗ってきた車の運転手もちゃんと待っており、街まで運んでくれた。車で10分ほど行くと街らしくなってきた。高い建物は見られない。ほぼ中心部という場所で、ホテルを見つけ、そこに入る。1部屋、ベッド3つで、40ドル。何となくリゾートホテルみたいで雰囲気は悪くない。フロントも英語で対話ができた。ネットも何となく繋がる感じで好ましい。

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ミャンマー激走列車の旅2015(2)絵に描いたようにミャンマー国境へ

駅を抜けると、そこにはトラックの荷台を座席にしたようなバス?が停まっており、数人が既に乗っていた。我々も促されて乗り込む。ツーリングの2人も自転車ごと、乗っていた。出発したが、残りの乗客はどうしたのだろうか。そんなことを考えているうちに、道路沿いで車は停まり、我々はさらに小型のソンテウに乗り換えさせられる。一部の人はここからどこかへ行くのだろうか。全く分からない状況が続く。更にはカンチャナブリのバスターミナルらしきところを通過した。私はここで降りるのがよいと思ったが、S氏はターミナルを見送った。列車が動いていなくても、取り敢えず駅があるのならそこへ行くのがこの旅のルールのようだった。結局代替輸送の運賃は徴収されなかった。

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カンチャナブリの駅は街外れにあった。駅がこんなところにあるのか思うような場所だった。ツーリング組は早々に自転車をこぎ出した。ドイツ人夫婦など、鉄道に乗る人は駅へ向かったが、そこに列車はなかった。何と本来接続するはずの列車は既に出てしまっていた。この特殊状況になぜ待てないのか、しかも次の電車は午後4時と聞いて、他人事ながら呆然とした。さすがタイだ!

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しかし人のことを憐れんでばかりもいられない。我々はここからどうするのか。何とも閑散とした駅の写真を一通り撮ると、もうここには用はないのだが、先ほどのバスターミナルの戻るにも、交通手段がなかった。広い道まで行ってバスでも来ないか待ってみるも、その気配が見えない。こんなことでミャンマーへ行けるのだろうか、と思っていると、木陰にバイクが見えた。しかも三台。絵にかいたような光景だった。そして運転手が三人、ハンモックで寝ていたのだ。これは使うしかない。たたき起こして交渉し、1人30バーツで送ってもらった。この時思わずS氏に『これって出来過ぎですよね、テレビ番組の仕掛けでもあるのでは?』などと失礼なことを聞いてしまった。それほどネタの引きが強い、それが旅行作家というものだ。

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ミャンマー国境

バスターミナルへ行き、ミャンマー国境へのルートを探った。ここは鉄道がないので、他の交通手段を使う。すると係員が外を指さし、『あのミニバスが国境へ行くぞ』というではないか。そこへ駆けつけると、30分後に出るという。しかも都合のよいことに座席は3席空いていた。これまた絵にかいたような展開。荷物をバス内に括りつけてもらい、ランチに向かう。近くの麺屋に飛び込み、麺をすする。後でわかったことだが、このミニバスは1日4本しかなく、もしこれに乗れなかったら、次は4時間待ちだった。しかも我々の後に来たフランス人は席がなくて乗れなかったのだから、我々の幸運は計り知れない。

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バスは定刻に出発した。アジアンハイウエーと書かれた道を行く。ハイウエーとは名ばかりだったが、道は悪くない。1時間ほど、田舎を走っていく。途中で土砂崩れがあったりもしたが、通行に支障はなかった。その後道を外れて行くと、立派な建物があった。こんなところになぜ建物があるのか、と訝ったが、タイの建設大手企業の施設だった。確かこの企業がダウエイ開発区の建設担当だったが、資金難で撤退したとのうわさもあった。確かに人影はなく、プロジェクトが動いている感じはなかった。

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1時間半後、ついにタイとミャンマーの国境へ来た。ミニバスを降りてイミグレに向かう。プナムロン、という名前の国境だった。しかしこんな所から本当に出境できるのかと思うほど、何もないところだった。思いのほか簡単に手続きは済んだが、ミャンマー側の国境はどこにあるのか?S氏が係官に聞くとなんと、ここから6㎞離れているという。どうやって行くのだろう。S氏が『乗ってきたミニバスが来るだろう』と言ったが、我々が振り向いたとき、すでにミニバスの姿はなかった。完全に取り残された思いだった。しかしここからがS氏の豊富な経験が生きてくる。『こういう場所には必ず何かが来るんだ』と言い、どっかりと腰を落ち着けた。何とも頼もしい。

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そしてその予想通り、10分後には軽トラが通りかかった。しかし荷台には農機具なども積まれており、スペースはあまりなかった。S氏を助手席に乗せ、私とNさんは何とか荷台で頑張ろうと思ったが、S氏は『ここは私が荷台に乗るのが筋です』と言い、その姿をNさんに撮影してもらっていた。なるほど、これは私の旅ではなく、彼の旅なのだ。それにしても6㎞の山道、振り落とされる可能性すらあったのに、と思うと、頭が下がる。

 

何とかミャンマー側へたどり着いたが、そこには小屋がいくつかあるだけでどこがイミグレかも、一瞬分らないほどだった。その建物へ行くと、数人が手続きをしていたが、何とものどかな光景で、とても国境の緊張感など感じられない。ただ我々がパスポートを取り出すと、慌てて機械の電源を入れたのがおかしかった。外国人などめったに通らないことがよく分かった。

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ミャンマー激走列車の旅2015(1)最初の列車は工事中

《ミャンマー激走列車の旅2015》  2015年7月23日‐31日

 

不思議なこともあるものだ。確か昨年旅行作家のS氏と雑談した中に、『シルクロードのお茶版、ティロード、万里茶路というのがあるんですが、まだ誰も知らなくて』と何気なく話したことがある。その後数か月も経ってから『企画が通ったよ、一緒に行かない』と声を掛けられた時には、もう何のことか分らないほどだった。S氏とは数年前にバングラディシュにご一緒したことがあるが、その時は大学生に同行しており、氏の本当の旅は本の中でしか経験していなかった。興味本位で『行きます』と元気よく答えてしまったのだが。

 

バンコックに滞在している間にS氏がやってくるとの話があった。何と例の企画の旅をするという。万里茶路とバンコックは関係ないだろうと思っていたら、その企画は『北半球の一番南の駅から一番北の駅まで列車で行く』というものだったことを初めて知る。第1回はシンガポールからバンコックまで。一旦帰国して2回目が始まるというのだ。まさに乗り掛かった舟、一緒に乗って行くことにしたのだが、これがあの試練の始まりとは全く想像もしていなかった。

 

7月23日(木)
カンチャナブリへ

朝5時に定宿で目覚めた。隣にはカメラマンのNさんがいた。S氏とNさんの名コンビはこれまでいくつもの旅を仕掛け、本を作り好評を博している。Nさんの優しい視線から撮られる写真は私も好きだったので、今回一緒に行けるのは楽しみの一つだった。タクシーで駅へ向かう。もしバンコックの中央駅ファランポーンを使うのであれば、このメンバーは迷わず地下鉄に乗っただろう。しかし今日の出発点は川向こうのトンブリ駅。バンコックに30年来来ているが、正直そんなところに駅があることも知らなかった。

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バンコックの渋滞を避けて6時にはタクシーに乗る。車はスピードを出してすぐに川を渡り、30分で目的地に着いた。だがここが駅だろうか、と思うほど、貧相な駅舎がそこにあった。早々に切符の購入。ところが・・??何と最初の目的地カンチャナブリまで繋がっているはずの鉄道は、修理のため、途中駅で打ち切りだとわかる。すごい、最初から躓いている。どうするのかと思っているとS氏は何事もなかったように『行けるところまで行く』というだけ。切符を買い、時間があるので駅前の道端でコーヒーを飲み始める。

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この辺の店、店員の顔を見るとタナカを塗っている女性が沢山いた。何ともミャンマーチックなと思っていると、実際にここで働いている人々はほぼミャンマー人だった。この駅を使う乗客の中にはミャンマー人が多いということだろうか。我々も今日はミャンマーへ向かっている。気持ちは高まるが、列車は走るのだろうか。何しろタイ国鉄のスローな運行にはこれまでも痛い目に遭っている。因みにこの駅には両替所などはなく、銀行のATMが鎮座していた。もし外国人がここに辿り着いたら、これでキャッシングする。

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思いのほか、列車は定刻に入線し、ほぼ定刻に出発した。乗客はそれほど多くない。4人掛けの普通座席に陣取る。何と座席番号が一応あるのだが、手書きで書かれているところが凄い。一番後ろの一両は座席がなく貨物用かと思ったが、とてもきれい。そこにはタイ人が自転車を持ち込み、乗り込んできた。最近タイでもツーリングブームだ。列車内でアルコールを飲んではいけない、との表示もある。いつの間にか列車はホームを離れていた。窓から心地よい風は吹いてくる。

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途中に駅はいくつもあり、多少の乗り降りはあったが、概ね平穏。窓から見える風景は田舎の畑あり、突然のマンション建設ありと、都市と農村が交錯する。1時間半ほどこの列車に乗っていたが、ある駅で停車してしまった。駅舎を見るとそこには『泰緬鉄道起点駅』という碑が立っている。1942年日本軍は、ここノンプラドックからあの泰緬鉄道建設を始めたという。そうだ、我々は鉄道の旅でミャンマー入りしようとしているのだが、今も泰緬鉄道があれば、このルートでミャンマーへ行けるはずだ。だが残念ながらその鉄道今はもうない。今回の旅の最後に出会う中国系ミャンマー人によれば『1990年頃、あの鉄道の線路はすべて撤去して、タイに売ったよ』という話だった。

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ここで迷っていた。数人がこの駅で降りていた。だが工事の始まっている駅まではまだ1駅ある。皆がざわつき出す。タイ語のできるS氏が情報を収集したが要領を得ない。ついには荷物を持って一旦降りて、易に人に聞くことに。その間に列車が出たらとひやひやしたが、駅員はこのまま駅を突き抜けろ、と指示を出し。さて、一体どうなるのだろうか。のっけから皆目わからない旅となっている。

 

 

変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(10)ミャンマーの人材

WIFIは繋がるが

市内へ向かって戻る。1つ大事なことを忘れていた。今日の夕方会う予定のNさんの電話番号を控えるのを忘れていた。オフィスの場所は分かっていたが、何時に行くかは電話で連絡を取り合うことになっていた。念のためPCは持っていたが、WIFIが繋がらないと、番号を探すことができない。

 

TTMに緊急を伝え、どこかWIFIの繋がるところを探してもらう。市内に入るまでは無理とのことで、かなり進んだ後、道路脇の1軒の喫茶店に入る。立派な喫茶店であり、店員もWIFIは繋がるというので、急いでPCを立ち上げる。周囲でも数人がネットを繋いでいるようで、安心した。

 

だが現実にWIFIは飛んでおり、ネットは繋がってはいるものの、GmailもFacebookも開くことができない。あまりにスピードが遅く、容量も小さいのか、画面が少し出てきてもそれ以上動かない。このイライラ感は凄い。急いでいる時にこれをやられると、どうにも我慢できない。店の人に言ってみても『ネットは繋がっています。他のお客様も使っていますのでどうしようもありません』ということになる。

 

注文したフライドアイス?を食べながら待ってみたが、一向に埒が明かず、ついにはこの店を捨てる。因みにフライドアイスとは、アイスクリームを揚げたものだった。天ぷら屋でアイスを揚げた物を食べたことがあるが、それと同じ原理か。味はよく覚えていない。それほどイライラしてしまった。

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車に乗り、他を探す。TTMは頭をフル回転して考えている。そしてネットの繋がるカフェより、ネットカフェ、という結論に達して、街中を行く。ごちゃごちゃした一角に若者がゲームなどをしているネットカフェがあったが、ネットは繋がらないと断られる。それでも粘ると隣の店を紹介され、その店でも、『持ち込んだPCでは繋がらない』という。仕方なく、店のPCに向かい、ログインしてみると簡単に入れた。昔他国ではGoogleやFacebookにログインするのがとても面倒だったので、警戒していたが、問題なかった。Nさんにすぐに電話を入れ、待ち合わせ場所と時間を確認した。

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ミャンマーの人材

Nさんのオフィスへ行く。ここは人材紹介会社。それほど広くないオフィスには面接の人やスタッフが沢山いた。何だか活気があった。Nさんはヤンゴン在住15年を超え、ミャンマーが発展していない時期から様々な仕事をして、ここで暮らしてきた。この2₋3年急に脚光を浴び、彼の発信も注目されるようになってきている。現在人材紹介のほか、旅行業や通訳翻訳業も手掛けている。苦労した時代からようやく花開いたといった感じだ。

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Nさんにミャンマーの人材事情を聞くと『日本企業はまだ本格的にミャンマーに参入していない』という。ミャンマー人で日本語のできる優秀な人材はむしろ『日本の中小企業が日本採用する動きがある』という。人手不足の地方の中小企業、日本の大学生を雇うより、真面目で高卒程度の給与で正社員にできるミャンマー人に注目しているらしい。スカイプで面接し、良ければ会社が費用を出して日本へ呼び最終面接、採用が決まるケースも出てきている。

 

TTMはこの話に興味津々だ。そして『人材紹介会社に仕事を探してもらっても手数料無料』と言われ、信じられないという顔をした。ミャンマーでは仕事のあっせんを頼めばお金を払うのは当然。このシステムは素晴らしいと思ったのだろう、その後すぐに親戚、知り合いで日本語のできる女性を数人この会社に紹介したらしい。ミャンマーはまだ昔のシステムのままだから、ビジネスチャンスは大きいといえる。

 

日本の報道では『ミャンマーには安価で豊富な労働力がある』となっているが、その点はちょっと違うようだ。『教育問題』もあり、企業で働くには再教育が必要ので、そのための研修などにも力を入れているという。今は日本語ができるというだけで高い給料がもらえるが、ちゃんと仕事ができる人材を供給出来ているか?単純労働者と言っても仕事で使えるのか?これからの課題は多いようだ。

 

Kさんと日本料理屋

夜はKさんと会う。S氏からも一度会うように言われており、Facebookではお友達にもなっていたが、どんな人かは分からなかった。さくらタワーで待ち合わせると、TTMとKさんは久しぶりの再会を果たした。

 

食事の場所は日本料理屋の老舗、一番館。名前は良く聞いていたが、入るのは初めてだ。というより、ミャンマーに来るのは今回が8回目だが、初めて日本料理屋へ入ったことになる。これは自分でも意外だったが、常にTTMが一緒にいて、日本料理屋に連れて行くということもなかったし、私もそれを希望しなかった、ということだろう。

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Kさんは三重で不動産業を営んでいるが、同時に15年以上前からミャンマーでも活動をしていた。バガンに不動産を買ったり、ヤンゴン郊外の開発に関わったりと。そのミャンマーでの不動産の話を聞きたかったのだが、話は思わぬ方へ行ってしまった。実はちょうど甲子園の高校野球シーズン。

 

Kさんの母校、三重高校は順調に2つ勝ち、三回戦に進んでいた。彼は同校の同窓会会長で、当然力が入っている。どうしても誰からこのことを伝えたかったが、ミャンマー人に話しても理解してもらえない。ちょうどいた日本人が私だったと言う訳だ。その気持ちは十分に分かるので、殆どその話に終始した。恐らくTTMには何故そんなに熱くなっているのか、理解できなかっただろう。

 

Kさんに車で途中まで送ってもらい、タクシーでホテルに帰った。相変わらずホテルにWIFIはロビーに限られており、部屋からPCを持ち出し、メールチェックだけをして寝た。

 

8月19日(火)

散歩

今日も良い天気だ。朝食を食べてから、散歩に出た。この付近の散策は全くしていなかったので、最終日に少し時間を貰い、歩いてみる。確かにこの辺は問屋街であり、物の集積地だった。ヤンゴンに入る物資をここで一端受け、市内へ配送しているのだろう。大型トラックの出入りも多い。建設資材などを扱う店が目立つのはヤンゴンが建設ラッシュだからだろうか。

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この辺りでは昔ながらの喫茶店もいくつか見られた。作業の合間に休む人、はなからずっと休んでいる人、皆お茶を飲んでいる。ここで飲まれているお茶は紅茶が多い、と先日聞いたのだが、どうだろうか。コーヒーではないのだろうか。ミャンマー茶(いや中国茶)は相変わらず無料。

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何だかこの中には溶け込めそうもなく、後ろ髪をひかれながら、店を後にした。兎に角今日も暑い。ホテルで少し休んでからチェックアウトしよう。何と部屋に戻るとWIFIが微かに使える気配があった。これも運命か。

 

TTM、SSがSS旦那の車で迎えに来た。空港のすぐ近くのレストランに入り、麺を食べた。少し塩辛い。SSのお腹は日増しに大きくなる。来月には出産だ。無事の出産を祈ると同時に、孫のような赤ちゃんを見る楽しみを次回は味わえるのだろう。すぐにも再訪の予感あり。

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変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(9)プライベートスクールを訪問して

郊外の開発住宅

Tさんは自家用車を持っており、その車でホテルまで送ってもらった。今日は日曜日、道は思いの外空いており、すぐにホテルまで辿り着いた。Tさんと別れて、部屋に荷物を置き、TTM家へ向かう。タクシーを探し、また橋を渡る。ここも日曜日なので、前回ほどは混んでいなかった。

 

家でごろごろしていても仕方がないということで、この住宅街の散歩に出た。TTM家は門からかなり遠いと思っていたが、実はこの敷地全体の中ではかなり近い方だった。驚きの広さ、ちょうど向こうから僧侶が沢山歩いてきた。何かのイベントだろうか。住民が水を与えたり、喜捨したりしている。

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TTM家は20年も前に建てられた古い住宅だが、最近の不動産ブームに乗って、残っていた敷地で今、大量の住宅建設が行われていた。それも庶民から見ればとても手が出ないような大型の一戸建て。一体誰がこんな家を建てるのだろうか。ミャンマーには相当の金持がいると認識していたが、この辺ならまだ市内より安いということで、新興勢力が買い漁ったのだろうか。

 

分譲住宅のような同じ形の家も作られており、まだ色々な意味で開発中ということか。歩いていると中国語が聞こえてきたり、韓国人の子供たちが遊んでいたりと、バラエティもある。広々とした敷地、緑のある環境、市内からこちらへ移る人々もいるのだろう。勿論家賃もだいぶ安い。

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それにしても暑い。特に建築中の住宅付近は木もないため、暑さがひとしお。こんな中で作業する人たちは大変だ。また作業員の数が多い。これは効率性が低いということだろうか。いくら人件費が安いと言っても、どうなんだろう。帰りはかなり喉が渇きながら、喘ぐように戻る。

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夕飯を頂きながら、昨日のお寺のインタビューが放映されていないかチェックしたが、なかった。車で送ってもらいホテルへ帰る。そしてちょっとネットをやり、すぐに風呂に入り、寝てしまう。

 

8月18日(月)

ナースーダのプライベートスクール

今朝もいい天気だ。相変わらず部屋ではWIFIが繋がらず、朝食を取りながらPCを立ち上げる。まあ、一日中ネットと睨めっこしているよりは余程健康的なのだが、今朝はメールが入っているか見る必要があった。残念ながら期待されたメールは見当たらなかった。

 

8時にはTTMが迎えに来た。タクシーでバゴー方面へ向かう。これは昨日の朝妹さんの家に行った道と同じだった。ヤンゴン郊外に出るとTTMが『私は昔公務員でした』という。公務員だったという話は聞いたことがあるが、具体的にどんな仕事をしていたのかは知らなかった。『このすぐ近くのミルク工場でマネージャーをしていた』のだとか。それだと公務員というイメージより、国営企業社員という感じだなあ。軍にコンデンスミルクなどを納めていたらしい。

 

バゴーに行く途中、高速道路があったがそこで高速に乗らず、脇道を入る。ここからは完全な田舎道、と思ったが、道路は舗装されており、車の走りもよい。『この辺は軍政時代、ミャンマー全土各州の代表者が集まる会議場があった』のだという。それでこの道が作られたが、首都がネピドーに移転し、役割が無くなったらしい。会議場の敷地を過ぎると途端に道が悪くなる。それから結構走って、ナースーダという村に来た。ここが目的地らしい。村人に聞くと学校は直ぐそこだという。行ってみるとこじんまりした校庭と校舎が見えた。

 

何故ここへ来たのか。それも必然のご縁かもしれない。5月に沖縄へ行った時、久高島のヨーガ合宿を終え、本島で大学の1年先輩に会った。普通にランチを取る約束をしてのだが、急に『今日はミャンマー人の新年会に行くことになった』というのだ。沖縄でミャンマー人?新年会?ミャンマーの正月は4月のはずだが、どうして?聞けば新年会が会場の都合で今日になったというのだ。そして行ってみると美味しいミャンマー料理が出た。会長のチョチョカイさんが沖縄初のミャンマー料理屋を開いたというのだ。

 

何故料理屋を開いたのか。チョチョカイさんは『日本で教育法を勉強したのでミャンマーにそれを伝えるため学校を作った。その運営資金を稼いでいる』というではないか。その学校こそが、今の目の前にあった。ヤンゴンの日本語ガイドさんを紹介されていたが、彼は急に同行できなくなり、学校の名前も、先生の名前も電話番号も、何も分からない突然の訪問だった。

 

校舎内では実に元気な子供の声が響いていた。嬉しくなる。校長先生はチョチョカイさんのおばさんだが、今は不在だという。代わりに若い女性が対応してくれた。ゼーマートゥンさん、25歳。私の質問を真剣に聞き、真面目に答えてくれた。彼女の目が実にいい。まっすぐ前を向いている。

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この学校は昨年開校、今年認可を得て、正式にプライベートスクールになった。民政に移行し、プライベートの学校設立が認められるようになっていた。生徒はプレスクール26人、小学1年生30人。先生は5人。校長先生とゼーマートゥンさんがヤンゴンからやって来ており、平日は学校に泊り、週末だけ家へ帰るらしい。給料は僅か70000k。週末帰る交通費にも困るほどだが、彼女の志は高かった。

 

『貧しい子供に教育を与えたい。そして自分もこの学校で色々なことを吸収し、いい先生になりたい』、実に明瞭な目標を淡々と語る。ここにいる時は24時間、子供のために対応しているとも言う。国が作った学校では、教師はただ教えるだけだが、ここでは学校に来なかった子供の補修をしたり、一人一人の学力に合わせて質問に答えたりしている。これはミャンマーの今の教育には全く存在しない物だろう。

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日本から導入された教育法と言っても、幼い子供たちだ。先ずは『食事の前には手を洗う』『ごみはゴミ箱に捨てる』などの生活習慣の改善を行っている。子供が学校でこれを習い、家に帰って親に伝える。実は村人たちの教育になっているのだという。また絵を描いたり、帰る前に体操をしたり、折り紙を折ったり、とミャンマーの教育にはない、独創性を育てる、健康な体を作る、などにも取り組んでいる。

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教室を覗くと、子供たちが先生の言うことを聞いているかと思えば、集中力を欠いて、机の下に潜り込んだりしている。我々が行くと一斉に好奇の目が向き、教室を飛び出してくる子もいる。一様に目が輝いているのが印象的。

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校長先生が帰ってきた。我々が来たことを知らされ、ヤンゴンから急いできたらしい。35年教師を経験し、今はリタイヤ―していたところをチョチョカイさんに頼まれて、一時的に引き受けているらしい。とても楽しそうな校長で、生徒の人気も高いようだ。

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ランチを食べて行けと言われ、恐縮したが、更に話を聞くため、ご馳走になった。子供たちは家から弁当を持ってきて教室で食べていた。昔は貧しくて学校に行けない子が多くいたが、今では政府が国の小学校を無料化、ノートや教科書もタダで支給しており、学校へ行ける子が増えた。更にはお寺でも無料で教育機会を与え、優秀な子は大学まで無料で行かせるようだ。村の子供でも殆どが教育を受けているという。

 

プライベートスクールの認可は、国の方針。これまで進学や海外留学のための塾が多くあったが、これを学校にするのが目的だとか。高い学費を取り、優秀な先生を雇い、成果を上げる。ところが今いる学校はまるで違う。『小学校は無料、運営経費などは全て沖縄から来る』という。政府の支援など一切ない。これからどうやっていくのか、ちょっと心配だった。

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男の子と女の子が呼ばれ、我々の前で朝のお祈りと歌を披露してくれた。5歳にしては利発な印象で、可愛い。2人とも『将来は大学へ行く』という。男の子はエンジニア、女の子は教師、とこの年齢ではっきりを将来の目標を言っていた。

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変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(8)環状線に乗ってみる

エアコン電車と特別電車

占いに没頭している間に時間はいつしか9時になっていた。今度は乗り遅れることはできないため、走って駅へ行く。電車は常に数分は遅れるとのことで幸いまだ来ていなかった。切符を買うと終点のセントラル駅まで300kだった。エアコン車、どんな車両なのだろうか。

 

電車がやって来て驚いた。日本のJRの車両だったのだ。この路線にたった一両配されている。車内には日本語の表示や広告が残されていた。昔の急行車両だろうか。TTMによれば、最近ヤンゴンの鉄道整備の為にJR東日本が協力しているという。社員も派遣されているとか。エアコン車両の人気は高く、乗りたい人が多いという。確かに途中駅からどんどん人が乗り込んできた。

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それにしても電車のスピードは遅かった。歩いたほうが速いのでは、と思う所さえあった。急いでいる人には全く不向きな乗り物だが、観光用、レジャーとしては面白いかもしれない。子供連れ、若者、カップルが多い。水田で作業をする農民もよく見えた。ヤンゴン市内でもこの線路沿いだけは自然が残っていて、どこを走っているのか分からなくなった。

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ただエアコン車というだけあって?エアコンが効いていた。むしろ効きすぎで寒くて仕方がなかった。1時間20分乗っていたら凍えてしまい、セントラル駅では直ぐにトイレに駆け込んだ。ここのトイレは汚かったが100k取られる。とてもヤンゴンの中央駅とは思えない状況。時代は飛行機になっており、空港の整備などが優先された結果だろうか。

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そして更に電車を乗り替えることにした。別のホームへ行き、切符を買う。次の電車は直ぐに来るとのことだったが、ホームのどちら側に来るのか分からない。古い電車が停まっていたのでそちらかと思っていると、きれいな電車が入って来た。ただ停車位置がかなり外れの方で走って乗りに行く。

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100チャットと200チャットの車両があるようで、皆100チャットの方へ走って行くが私にはどの車両かすら分からない。外国人観光客も来ており、英語で案内を買って出る人もいる。何とか乗り込むと中は空いていた。2倍の料金は威力を発揮した。この電車は冷房車ではなく、心地よい風が車内を吹き抜ける。こちらも先ほどの電車と同様、輸送用というより、観光用。デートのカップルがダラッと乗っていたりする。

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とてもヤンゴン市内中心部を走っているとは思えない景色が続く。この鉄道線路周辺だけは囲われており、木々が茂り、草花が生えている。喧噪とも渋滞とも別世界。この鉄道をもう少し活用できないものだろうか。環状線とは言いながら、いつ来るか分からない電車では、急いでいる人は乗らない。

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お茶の村の話

20分ほど乗り、ある駅で降りた。本当に田舎の駅に降り立った感じだ。ここからランチの約束の場所へ向かうのだが、やはりタクシーが必要だった。電車の不便さを実感。今日はバンコックお茶会に参加しているIさんからのご紹介でヤンゴン在住日本人Tさんと会う。指定された場所は先日ミミさんと食事をしたカイカイチョーだった。ここは有名なレストランらしい。この日もお客で混んでいた。

 

Tさんを探したが見付からず、携帯に電話したところ、仕切られた場所を予約してくれていた。Tさんはミャンマー在住15年、NGO活動を行ったり、大使館の仕事を請け負ったりと、ミャンマー事情に明るい。ミャンマー語も堪能で、料理も選んでくれた。

 

話を聞くと、最近関わったシャン州の村がお茶で村興しをしたいらしい。そこは昔行った北シャンのチャウメイから山に入って行くとか。そしてその村はパラウン族と言う少数民族が住んでおり、政府軍と最終的な停戦合意が出来ていないので、一般の外国人は入ることが出来ないと聞き、興味を覚える。

 

もしやすると雲南あたりから来た少数民族で、お茶の起源に繋がっているのかもしれない。そんな山の上で伝統的な製法でお茶を作っているのであれば、かなり珍しいお茶があるのかもしれない。想像はどんどん広がる。更にはTTMが『そこはナムサンか?』と聞き、かなり近いというのでまた興味が出る。

 

TTMによれば、ナムサンは子供の頃、よく飲んだ紅茶の産地だったという。軍人だったTTMのお父さんが配給で貰ったとか、その缶を使って別のおやつを食べたとか、TTMの回想は尽きない。決して豊かではなかった時代、ナムサンの紅茶を飲むのは喜ばしかったに違いない。だが、なぜシャン州に紅茶があるのだろうか。イギリス時代の影響だろうか。

 

TさんはNGOの経験は豊富だが、お茶については全くの素人。そしてその村の歴史に関しても殆どわかっていなかった。むしろだからこそ、行ってみたいという欲望が湧いてしまった。更に前回僅か2時間ほどしか滞在できなかった街、チャウメイ。ここも再度訪れ、もう少し見てみたいと思う。時期を見てTさんと行ってみようということで今回の話は終わる。これも茶縁。

 

変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(7)袈裟贈呈式

8月17日(日)

朝4時に起きて袈裟贈呈式

本日は朝4時に起きる。4時半にはTTMが迎えに来ることになっていた。何でこんな早いの?と言っても仕方がない。真っ暗でホテルのフロントの女性も寝こけている中、予定通りタクシーに乗る。向かう先はヨーマちゃんの家。

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ヨーマちゃんは先日ホットポットを一緒に食べた。現在東京に留学中で日本語学校に通いながら、ラーメン屋でアルバイトしているしっかり者。来年日本語学校を卒業したら、旅行かデザイン関係の大学に進みたいと意欲を持っている。

 

ヨーマちゃんの家はヤンゴン郊外。お父さんは軍人で軍から支給された古い家に暮らしていた。真っ暗な中を行くと車は途中で進めなくなり、歩いて行く。番犬に吼えられる。ヨーマちゃんのお母さんはTTMの4番目の妹。他の妹2人も既にきており、おじいさんも間もなく到着した。先日お婆さんが亡くなり、おじいさんも気落ちしていると思ったが、予想以上に元気で安心した。おじいさんも軍人で、その昔おじいさんの家で色々と話を聞いたことを思い出す。

 

その他、TTMの亡くなった弟の奥さん(ネピドーで働く公務員)とその娘、ムアちゃん(現在TTMオフィスで働いている)も家が近くということで参加していた。ムアちゃんも日本語を勉強していた。更に食事の用意はインド系のオジサンがしていた。その20歳の娘も端に座っている。正直それほど広くない居間は人で溢れ、一部は庭に出ていた。

 

5時と聞いていたが、お坊さんたちが到着したのは5時半だった。雨安吾の時期、ミャンマーでは雨で袈裟が濡れるというので、お坊さんに袈裟を上げる習慣がある。その儀式が始まった。5人のお坊さんが並んで座り、読経を始めた。時々参列者も唱和する。日本のように一方的にお経を聞くのではなく、皆が声を出すのはいいな、と思う。残念ながら私はミャンマー語が分からないので手を合わせているだけだが。

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それが終わるとお坊さんに食事が振る舞われる。ヨーマちゃんのお兄ちゃんがお世話をしている。彼はかなりのイケメンで、シェフを目指していたが、今は辞めてしまったという。私は邪魔なので外へ出て付近を歩いて見る。ようやく夜が明けたので、外がよく見えた。付近には同じような家が並び、軍人たちが住んでいる。日曜日だが仕事へ行く人たちが通り、また物売りの女性が頭に籠を乗せ、声を張り上げながら過ぎていく。

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お坊さんたちは一台のタクシーに乗り、帰って行った。我々の食事の番が来た。ご飯はインド風、ピラフに鶏肉が隠れていた。これが非常に美味しい。ミャンマー料理ではないが、ミャンマー人も好きだという。インド系のオジサンはシェフで、こちらを作り終えると仕事だ、と言って帰っていた。

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昨日お寺で取材を受けた話をTTMが皆に話す。ちょうど7時にニュースが始まったので、皆で楽しみに見ていたが、30分の番組ではとうとう映像は流れなかった。きっと夜に違いない、ということで、諦める。そして我々も車に乗り去る。

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パゴダと占い師

TTMと私は電車に乗ってみることにした。すぐ近くに駅があるという。8時の電車に乗れ、というので行ってみるとちょうど電車が去っていく所だった。8時は間違いで7時40分の電車が少し遅れていたようだ。いずれにしても乗り遅れた。次の電車は9時6分。1時間以上をこの田舎でどう過ごすか。

 

そこには待っていましたばかり、ちゃんとパゴダがあった。しかも先ほどの式に参列していたTTMの従妹の男性がそこに座っていた。これも導きだろうか。このお寺のパゴダは蓮の台座の上にパゴダが乗っている。これはミャンマーで唯一という。池には大きな魚や亀が沢山おり、幸せな日曜日を過ごしていた。

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今日はここでも袈裟贈呈式が昼に行われるとかで、調理場では朝から準備が行われていた。豪快に火を焚き、大きな鍋でご飯を炊く。その勢いがあまりに強いのでご飯を炊いているとは思えなかった。あとで聞くと、ミャンマーではご飯を炊くとき、水の量は適当で途中で調整するのだとか。

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お寺の端の方に小さな小屋が見えた。占い師がいるという。ちょうど彼は朝の水浴びをしていた。時間があるので、興味本位で占ってもらった。所謂ホロスコープ、生年月日から占う。ミャンマー人なら生まれた日だけではなく、何時何分何秒に生まれたかが重要。先日スリランカでも同じことを言われたが、我々にはそこまでは分からない。生まれた曜日までで占う。小さな本を取り出し、熱心に何かを書き出していたが、そのまま結果を言いだす。ここでは結果は敢えて書かないが、一部当たっているところもあり、ちょっと驚く。

 

途中タロットカードを引くことはあったが、基本的には生年月日だけで仕事から体調まで言っていく。どうやったら占いが出来るのかが一番知りたいことだったが、その質問は飲み込み、ひたすら彼の見解を聞いていた。わずか2000k。それにしては内容が豊富だった。

 

変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(6)ミャンマーの両替は凄い!

日本帰りの開いたカフェ

帰り道、何となく街道沿いのカフェに寄る。コーヒーでも飲みたい気分だったのだろうか。店は街道沿いにある割にはこぎれいで、ケーキやプリンなども美味しそうに見えた。SSは『この店はトイレがきれいだから好きだ』という。確かに入ってみると掃除が行き届いており、ミャンマーとはかなり違っていた。店内も変わっており、スーチーさんの肖像画が飾られている横に、キャラクターグッズがあったりする。これはちょっと日本的だなと感じる。ミャンマーでも最近はこのような雰囲気の店が流行っているのだろうか。スイカジュースとプリンも美味しかった。

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帰る時にふと見ると、数人の女性がカタログを覗き込んで話し合っていた。TTMが『誕生日のケーキを選んでいました』という。街中の喫茶店ならまだ分かるが、ここはわざわざ来るところ。そこにケーキを頼みに来るとは余程美味いのだろうか、とTTMに話し掛けると『今店長が「ありがとうございました」と言いましたよ』というではないか。

 

急いで戻って話しかけるとやはりその人は日本語を話すミャンマー人だった。日本に長く住み、最近ヤンゴンに戻ってカフェをオープンしたという。『ヤンゴン市内の不動産は高過ぎます。ここならそれほど高くない』と立地の理由を話す。日本では特にケーキ造りや喫茶店の経験もないようだが、『今のヤンゴンでは日本のスイーツが流行る』と思い、出店した。

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この道は日本が進めるティラワの工業団地にも通じているので、認知されれば、立ち寄る人も増えるのではないか。果たしてこの試み、成功するのか、ちょっと注目してみていきたい。

 

驚きの両替所

街中に戻る。SS旦那の仕事の関係で、取引先と待ち合わせる。やって来た女性は支払い分として『米ドル紙幣』を渡そうとしたが、SSは受け取りを拒否した。何故なのだろうか、前は米ドルを喜んで受け取っていたのに。両替に問題があるのだという。ドルからチャットへ両替できないということだろうか。TTMが『まずは自分で両替してみたら』と言い、古い100ドル札を渡す。私は新品の札と交換して出掛ける。

 

街の両替屋に入る。100ドル札を差し出すと、受け取った女性は札を詳しく眺めてから、『97ドルね』と言った。意味が分からないという顔をすると、札の落書き、汚れ、折れ目にマークを付けてきた。各1ドルのマイナス。しかしアジアを回っていても偽札を疑われて受け取りを拒否されることがあっても、汚れているからディスカウントするのは聞いたことがない。

 

その旨強く伝えると相手は困った顔をして上司と相談している。そして実に不機嫌そうな顔で100ドル分のチャットを寄越した。そこにTTMが入ってきて、『両替できたの?』と意外そうな顔をする。最初から落書きのある札を渡したのだろう。体験型だ。『これから両替はあなたに頼もう』と真顔で言う。

 

後から入ってきたミャンマー人客はあっさり2ドルのディスカウントで応諾していた。聞けば『中には7枚中5枚の100ドル札を受け取り拒否に遭った日本人もいる。ミャンマー人は受け取ってもらえれば大成功と考える』というのだが、国際常識からかけ離れた内容だけに受け入れがたい。こんなことをしていては、いくらヤンゴンが発展しても、外国人からは敬遠される都市になるだろう。

 

新しいホテルも

今日もホテル探しが必要だった。気が重い。TTMは『ちょっと高いが、日本人のお客さんが泊まったことのあるホテルにしよう』と言うので、それに従うことにした。昨日のホテルの近くにグランドパレスと言う立派な名前のホテルであった。建物も立派でロビーもきれい。

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料金は90ドルだが、今は雨季なので75ドルだという。部屋を見るときれいで広々としていた。偶にはこのようなホテルに泊まるのもよいかと思い、チェックインすることに。ところが『今日は工事のためWIFIはロビーでしか使えません』と。またかと思ったが、ロビーで試してみるとスピードも速いので、泊まることを決めた。勿論『明日は部屋でもWIFIが繋がる』と言う言葉を信じるほど素人ではなかったが、ロビー脇のレストランで使ってよいということだったので、これから別のホテルを探す手間を考えてそうしたまでだ。

 

これからTTM家に行くのも大変なので、TTMには帰ってもらい、ここでゆっくりネットをすることにした。先ずは部屋で湯船にお湯をため、風呂に入った。熱いお湯が沢山出て、それだけでも気持ち良かった。やってスッキリした、と思うのはやはり日本人だからだろうか。

 

夕食前にレストランでネットを始めた。店員も分かっていて何も言わなかった。お客は中国系が多かった。このホテルのオーナーは中国系、または大陸中国資本なのだろう。中に日本人が中国系ミャンマー人、台湾人と商談している姿が見られた。台湾人男性は日本語が出来、両者の間を取り持っている。結構厳しい交渉をしているように聞こえたが、主導権は常にこの台湾人が握っており、彼のさじ加減で条件が決まるという構図だった。

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彼が日本語を話す時と中国語を話す時はかなり内容が違っており、このままでは日本人社長が騙されるのではないか、と思われたが黙って聞き耳を立てるだけにした。日本人だってある程度のリスクは覚悟でやって来ているのだろう。それにしても仲介役や通訳は重要だ、と再認識。

 

外に出て食べ物を探すのも大変だったので、そのままここで食事をした。炒飯を1つ頼んだだけだが、サービスは悪くなかったし、味もよかった。どうやら私は中国系のサービスになれてしまっているらしい。同時にミャンマー人のサービス意識向上に中国系が一役買っている実態を見ることになった。夜はフカフカのベッドでぐっすり寝た。