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シベリア鉄道で茶旅する2016(10)恐ろしいロシア国境を越える

 車はすぐに街を抜けてしまい、一本の舗装道路を快適に飛ばしていく。雪が残る大地を走る。途中馬が草を食べていた。万里茶路としては、ここは駱駝でしょう、と思ったが、今や駱駝を飼っているところなど殆どない状態らしい。この道、家なども殆どなく、朝ご飯など完全に忘れ去られている。そして、30分後、いきなりあのロシア正教会の建物が見えてきた。キャプタは思いのほか、近かった。

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そして国境ゲートのところで車を降りた。ここからは歩いてロシアに渡る、つもりだった。既に朝から車の渋滞が起きていた。モンゴル側も少し見ておこうと、周囲を歩いて見たが、何もない。遮るものがないため風がきつく、寒い。恐らくこの辺に茶葉貿易が実際に行われた、中国側の売買城があっただろうというところまで確認して、国境に引き返す。腹が減ったので朝飯を食べたかった。ようやく小さな家が一軒開いていたので入ってみる。

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そこはボーズが少しあるだけで基本的には茶を飲むところだった。我々はなぜかコーヒーを頼んだ。湯気が立ち込める中、インスタントコーヒーが淹れられた。女性が一人座って茶を飲んでいた。何と現金を取り出し、札を数え始める。まるで占い師のように見えたが、どうやら国境の両替屋らしい。私がモンゴル通貨を取り出すと、ルーブルに替えてくれた。そのレートがよいかどうか、全く分からなかったが、取り敢えずもらっておこう。

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国境を越える

そしていよいよ国境越えだ。ゲートを通ろうとしたが、警備兵に止められた。何とこの国境は歩いて通ることはできないらしい。どうするのかと見ていると、女性が近づいてきて、車に乗れ、300ルーブルだという。兵士も何となく乗れ、という雰囲気である。勿論シャトルバスなどない。これに乗るしかないことを悟り、乗り込む。この車は一番前にあったから、朝から並んでいたのだ。特別優遇車なのだろうか。

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車に乗り込んだが、なかなかゲートは開かなかった。時折特別車両が通り過ぎるだけ。20分ぐらいしてようやく前に進んだ。まずはモンゴル側イミグレで出境する。こちらはちゃんとした建物があり、室内で暖房が効いていた。イミグレの雰囲気も明るかった。なんだ簡単だな、と思ってしまったが、車の女性はなかなかやってこなかった。荷物検査が厳しいらしい。まあまだ午前中、焦る必要もない。

 

次にロシア側へ進んで驚いた。何しろ警備兵の顔が険しい。威嚇するような目で見ている。車はなかなか進まない。チェックが相当厳しいようだ。運転する女性は行動を開始した。積んでいた荷物を一部取り出す。マフラーを運転席にかけ、下着を腹にねじ込む。ストッキングは靴下の下に隠す。これでは完全に密輸だ。そうか彼女の本業は、運び屋だったのだ。そのついでに我々も運び、稼いでいるのだ。これは凄いことになってしまった。彼女が捕まれば、我々も同罪なのだろうか。さすがに我々に商品を隠せとは言わなかったが、車中が密輸一色になっている。何ということだ。

 

そしていよいよ入国審査の順番がやってきたが、何とそこは外だった。いや検査官は重装備の箱の中にいる。我々は一列に外に立っているのだ。少しでも動くと、警備兵がロシア語で威嚇する。シベリア送りになってしまった兵隊さんの心境になる。日は出ているが風は強く、寒さは相当なものだった。こんな中に一日立っていれば、兵士がイライラするのも無理はない。それにしても恐ろしかった。私の番がやってきた。検査官はかなり細かくビザを見ていた。このビザに間違いがあったら終わりだ。そしてすべてがロシア語のため、我々には何が書かれているのか読めないのだ。もうドキドキだった。

 

検査官が判を押し、パスポートを返してきた時には、嬉しくて涙が出そうだった。こんな国境は初めてだった。我々は念のため、2次ビザを取得していたが、もうモンゴルに戻ることはないだろう。3人とも無事にパスしたが、車は厳重にチェックされていた。もし車がダメだったら、どうなるのだろうか。最後まで油断がならなかった。何とか車もパスして、我々は車に乗り込んだが、ゲートを出るのに、また並んでいた。

 

これから一体どうなるのだろうか。幾多の国境を越えてきているS氏は泰然として、『何とかなるものです』というのだが、言葉も通じないこの北の大地に放り出されるのだろうか。その場合、本当に何とかなるのだろうか。そんなことを考えていると車は動き出し、勢いよくゲートを飛び出した。横を見ると、あの教会と、そしてロシア側の茶貿易の建物が見えてきた。あそこの写真を撮りたい、と思っていると、車はその思いをわかっているかのように、その前まで来て停まった。300㍔とは一人当たりであり、私は両替したばかりのルーブルを全て投げ出して支払った。車はゆっくり走りだし、我々は取り残された。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(9)国境の街 スフバートル

それでも2-3時間経つと飽きてくるのは仕方がない。外の景色は草原が続くのみ。座席も空いてきたので広いところに移ったが、向かいのおじさんが『お前は上に行け』といったように思えたので、上段で寝ることにした。中国と違って三段ベッドではないので、余裕を持って寝られた。ロシア人の体形で三段ベッドに潜り込むのは無理なのだろうか。2時間ほどぐっすり寝入る。

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その後は窓際の席で外をボーっと眺めて過ごす。腹は減らないので、ジュースを買って飲んでみる。この列車はシベリア鉄道と違い、駅には沢山停まるが、停車時間が短いため、ホームに降りるには難しい。人の出入りも激しいので、返ってストレスがたまる。珍しく長く停まった駅でホームへ降りてみたが、いつ発車するか分らないので気が気ではなかった。言葉が分らないというのはなんとも不便なものである。

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日がかなり傾いてきたころ、ダルハンというモンゴル第二の都市に着いた。ここでかなりの人が降りた。さすがウランバートル以外で駅の周囲に建物が見えた唯一の街だった。3年前に日本のODAで作られた製鉄所を訪問したのを思い出す。あの時すでに経営が厳しいと言っていたが、今はどうだろうか。中国の影響を受けて、沈んでいるかもしれない。産業の少ないモンゴル、中国からの輸入に頼るのは危険であるが、中国はお構いなしに入ってくる。

 

ここから乗ってきた大学生ぐらいの若者がノートを取り出し、わき目もふらずに勉強を始めたのには、驚いた。あまりにすごい勢いなので、周囲もドン引き?我々も恐れをなして他の席に移動した。彼はなぜこんなことをしているのだろうか。この列車は彼の通学列車なのだろうか。何とも不思議だ。若い時は、自分しか見えない、自分だけがこの世で頑張っている、と思ってしまうことがある。彼は自分がモンゴルを背負っている、という気概あるのだろう。空回りしなければ良いのだが。世の中、バランスを取ることも重要である。

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徐々に暗くなってくる。駅もどんどんみすぼらしくなっていく。こんなところで降りても、どこへ行くのだろうという場所がある。数台の車が迎えに来ていたが、それがなければ歩いていくのだろうか。私は1つの不安を抱えていた。それは今日の目的地であるスフバートルには泊まるところがあるのだろうか、ということ。なぜなら以前この駅を車で通ったことがあったのだが、その時ホテルがあったという記憶がなかったからだ。スフバートルと言えば、モンゴル建国の英雄だが、その名が付いた街は、確かかなり寂しいところだったことを覚えている。

 

スフバートルで

そして午後8時前、列車はスフバートルに入った。予想通り、あまり明るい街ではない。乗客もかなり減っており、不安が高まる。列車はスーッとホームへ入るが、ホテル、という建物は見えなかった。駅も暗い。人はどんどん歩いて行ってしまう。Nさんが率先して、ホテルを探しに出て行った。この駅にも改札はなく、いきなり外へ出てしまう。駅前には白タクがおり、客に声を掛けている。中には『ウランバートル』と叫んでいる者もおり、ここからどこかへ行く人が降りる駅らしい。Nさんの『ホテルらしきところを発見しました』という言葉を聞き、ホッとした。

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だがそこへ行くとドアは閉まっており、横に雑貨屋に灯りがあった。呼ばれてやってきた女性も『あっちに行って』という感じで指を指す。仕方なく、もう1つの建物へ行くと、そこはパン屋だった。美味しそうなパンが並んでいるなと思ったが、部屋は別の入り口から入るとのこと。何とか言葉も通じて、3人部屋を確保することができた。ネットも辛うじて繋がっている。だが、お湯は出なかった。ボイラーはあるのだが、壊れているらしい。これにはがっかりした。この辺の人はシャワーを普通に浴びないのだろうか。

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腹が減ったが、午後9時まででパン屋は閉まってしまった。周囲を見渡したが、その横のパブに入るしかなかった。それほど寂しい駅前だった。そのパブにはモンゴル人の若者が数人おり、かなりやかましかった。かなり酒が入っている。その内、若夫婦らしい2人が派手に口喧嘩を始めた。ビックリするぐらいの大音響。我々は隅でこそこそと食べ物が来るのを待つ。ここもステーキとかフライドチキンなどしかなく、何とかサラダを食べて繋いだ。脂っこくて、腹がもたれた。夫婦喧嘩は外へ出ても続いていた。

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3月11日(金)

キャプタへ 翌朝は寒かった。駅前の閑散とした雰囲気が寒さを増していた。キャプタ行のバスでもあるかと思って聞いてみたが、誰もが首を振る。バスの姿も全く見えない。国境へ行くやつなどいないよ、と言わんばかり。周囲には数台駐車された車があり、これが白タクとなっているように見えた。その1台に声を掛け、『キャプタ』と叫ぶと首を振られてしまう。そして向こうの車を指したので、そちらで聞くと『行く、一人15000tで』という。急いでホテルをチェックアウトして車に乗り込む。朝ご飯が食べたいと言ったのだが、まずはガソリンスタンドでガソリンを入れる。彼らは金が入って初めてガソリンを入れるらしい。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(8)モンゴル国内列車に乗る

夕飯で

それから街を少し歩く。通りはそれほど変わっている感じはないが、若い女性の化粧が非常に韓国人に似てきている。これも韓流ドラマの影響だろうか。韓国の化粧品会社の上手な戦略の影響だろうか。まあオシャレになってきているのは間違いない。モンゴルの人口は300万人もいないのだが、その半数はウランバートルに住んでいると言われている。寒くても、人がそこそこ歩いているのは嬉しい。それにしても、ウランバートルは高原で標高も高い、ということがよくわかるほどの寒さだ。昼間でも零下10度以下であり、体感温度はもっと低い。スーパーなど室内に入るとそれだけでほっとした。S氏は今晩と明日の列車のために食料の買い出しをしていた。酒とつまみが多かったが、パンなども買っていた。私もそれに倣ってパンだけ買っておいた。

 

一度ホテルに帰り、休む。電気ポットがあったので湯を沸かして茶を飲むと落ち着く。暗くなってから食事に行くことになり、また外へ出た。今日は現代モンゴルを見る、ということで、敢えてパブレストランに入ってみた。入口ですでに酔っぱらっているモンゴル人とすれ違った。何となく怖い。店内は洋風で、モンゴルの雰囲気はない。こちらでもメニューはフライドポテトなど、酒のつまみ的なものと、肉類。ビールとスープ餃子を頼んでみる。周囲の客は女性も酒を飲み、肉に食らいつく。とてもモンゴルらしい、といった感じはなかった。ウランバートルはソ連以降、洋風化が定着しているのだ。

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夜の街にはカラオケ屋などもあり、酒飲みはとっては何とも楽しそうなところだった。寒い中でもパブの電気だけが煌々とついている。寒さは極限に達しており、尋常ではなかった。スマホでは気温が零下25度と表示されている。これから北へ行けばもっと寒くなる、とは実は思わなかった。前回の経験では、ウランバートルは高地にあり、ここから北へ下っているので、緯度は上がるが気温は上昇することに期待した。部屋に帰りシャワーを浴びようと思ったが、お湯が出なかった。昨日も一晩入っていないので、入りたかったが、体を拭くだけにとどめた。これももはや想定内だった。

 

3月10日(木)

モンゴル国内列車に乗る

翌朝はゆっくり起きた。やはり寒さで体力が奪われていたのだろう。きりっとした寒さの中、ホテルの周囲を散策したが、特に面白いものは見付からなかった。今日の列車は11:30発。食事をどうするか迷ったが、朝飯が食べられるような場所も見付からなかった。10時過ぎにホテルをチェックアウトして、駅前の食堂に入る。おじさんたちが茶を飲みながら話し込んでいる。おじいさんが一人、遠くからそれを見つめている。その後話の輪に加わる。これはどういう状況なのだろうか。草原の掟のような雰囲気が何ともおかしい。

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私はどうしても食べてみたいものがあった。ハンバーグの上に目玉焼きが乗っているもの。名前は分らない。ハンバーグは当然羊肉だろうから、これはモンゴルとソ連が融合した食べ物と見えた。ご飯も付いたセットで出てくる。何だかチンしたような温かさだったが、味は悪くなかった。ただ食べ過ぎると消化にはよくないようで、腹が重たかった。そのまま、荷物を引いて駅に向かった。すでに列車はホームに入っている。

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駅に入るところに日の丸が見えた。モンゴルの鉄道は2001-04年、日本の援助でメンテナンスが行われたようだ。我々はミャンマーで線路のメンテの重要性をいやというほど味わっている。こういう支援は素晴らしいな、とつい思ってしまう。これからその恩恵に預かるわけだし。国内列車の車両は大丈夫だろうかと心配したが、杞憂に終わる。ロシア製の長距離列車の車両が使われており、三等車と言いながらも、寝台車だった。ベッドは二段で、通路の反対側にも席があり、その上下にもベッドが作れた。こんなのは初めてだった。

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乗客が次々に乗り込んできて満員になる。通路側の席にはお婆さんと幼い孫娘がのっており、その母親が最後まで付き合っていたが、発車間際に降りて行った。当然女の子は大泣きしたが、お婆さんがうまく宥めて、そのまま眠りに就く。どういう事情だろうか。前の席には文化人と思われるおじいさんが、本を読んでいる。その本はモンゴル文字と、ロシア文字が併記されており、何とも難しそうに見える。しかしこの列車はやはり国内の普通列車だった。2-30分経って駅に着くと人がおり、また乗ってくる。席は目まぐるしく、乗客が変わる。

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少しすると、車掌、いやスタッフがお茶とコーヒーのパックを持って現れた。何と三等車なのに、無料であった。お湯とカップもくれるので、お茶を飲んでみる。インスタント茶で、フレーバーが効いている。まあ無料だからこれで十分だ。乗客はインスタントコーヒーを飲む人の方が多いように見えた。その内、車内ワゴンが回ってきて、販売も始まった。飲み物も多いが、韓国風海苔巻きなどもあり、なかなか充実している。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(7)ウランバートル 寺院とお茶の関係は

 S氏は言葉が通じない場所での切符の買い方には慣れている。行きたいところの駅名を書き、窓口で見せる。若い女性はなんとか英語を使おうとしているが、分り難い。外国人がここで切符を買うことなど珍しいのだろう。いや、鉄道ファンでもなければ、ここから鉄道に乗ることもないのかもしれない。我々が乗るのは国内線、ロシア国境の街、スフバートルまでだから、なおさら難しい。何とか筆談して、料金が表示された。S氏が『ここは一番安いのでいいですか?』と聞いてくるので、不安はあったが、思わず頷く。まあ9時間だから、大丈夫だろう、と強気になる。モンゴルの三等車、どんなのだろうか。明日が楽しみになるほど、余裕が出てきている。

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駅前でホテルを探す。これもS氏の基本だ。閑散とした駅前だが、ホテルという文字は見えた。この時期はオフシーズンなので、すぐに見つかると思ったが、最初に訪ねたところは提示された料金は意外と高かった。2軒回ったが、他になさそうなので、民宿のようなところに決めた。フロントに『レセプション』という英語が書かれており、若い女性は英語ができた。3人部屋はなかったので、私は一人になる。1部屋5万t。これは少し高いがやむを得ない。部屋はそこそこに広く、暖房は聞いているので問題はなさそうだった。

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カンダン寺

外は晴れてはいたが、相当に寒い。日差しがあるうちは良いが、日が暮れると恐ろしく寒そうだった。ウランバートルでやるべきとはあまりなかった。万里茶路に関する遺跡も残っているという話はなかった。ただ駱駝隊はモンゴル高原では、野宿していたが、ウランバートルのような街では、寺院に宿泊していた、との話が耳に残っていた。だから、ウランバートルで一番有名なカンダン寺に行ってみることにした。

 

カンダン寺には数年前にも行ったことがある。その位置は、駅からほぼ真北にあった。これはやはり昔の名残だろうか。以前の社会主義的な団地が並ぶ道。雪が凍って滑りやすい。寺に向かって歩いていくと、ソウルストリートなる道があった。サムソンの事務所などがあるようだ。そういえば東京ストリートもあったな、この街には。さほど遠くないところに寺はあった。前回は夏に来たので、結婚式の写真撮影が行われていたが、今はコートをまとった人々が寒そうに歩いているだけ。ハトも心なしか寒そうに飛んでいる。

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本殿の方は新しい雰囲気なので、横にある古い廟を訪ねる。こちらには各種マニ車が置かれており、この寒さの中、チベット仏教徒がきちんとお参りしている。中には五体投地を始める男性もいた。坊さんもこちらにいるようで、たまに出てきて祈っていた。このあたりに茶葉を積んだ駱駝隊が荷を下ろして休んだのだろうか。しかしチベット仏教徒であれば、漢族ではなく、モンゴル人ではないのだろうか。

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もしやすると、漢族、例えば山西商人と、モンゴル商人が共同で茶葉を運んでいたのでは、と思ってしまう。鄧九剛先生にこのあたりのことを尋ねたところ、『その可能性はある』との回答だった。寺は商人や貴族からの寄進で成り立っていた部分があるから、それも頷ける。日本のように仏教と茶が密接に関係しているのとは違い、こちらは商人と寺院が密接に関係しているように思える。まあどこでも寺を維持するためには強力な支援者が必要ではある。

 

お寺とお茶の関係を示すものを探したが全く見付からない。仕方なく、モンゴル人がよく飲む、ブロック型の磚茶の売っているところを探した。しかしモンゴルでも都市部では既に磚茶を飲まずに、紅茶のティバッグを飲むのが主流になっており、普通のスーパーでは見かけなくなっている。唯一あったのが、寺の横にあった仏具店と雑貨店。やはりお寺で使うお茶はこれなのだろうか。また真の仏教徒は家でもこのお茶を飲むということだろうか。そういえば、モンゴル伝統の祈りの場には、この磚茶が供えられていることが多い。モンゴルでもソ連の傘下にあった時代、宗教は弾圧され、寺は荒れていたと聞くから、ことは複雑かもしれない。

 

体が冷えていたので、寺の前にあった店に入る。ミルクティーを飲むためだ。靴がかなり濡れており、床がびしょびしょになってしまった。それほどに外と中に気温差があった。室内は本当に暖かい。スーヨーチャ、というと何となく通じた。だがそのお茶は既に作られてポットに入っており、カップに注ぐだけだった。何だかつまらないが、これが現代モンゴルだろう。300t。庶民の飲み物だ。味はゲルで飲むほど濃厚ではないので、私にも飲みやすい。水分補給という感じが強い。後から入ってきた男はどことなく怪しかった。何も頼まずに時折こちらを見ている。スリではないか、との見方もあったが、どうだろうか。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(6)哀愁漂う駅の物売り

 3月9日(水)
4. モンゴル
ザミンウデから

それにしてもエレンホトでも博物館に行けなかった。ここも駱駝隊が休息した宿場があった場所。万里茶路的には降りてみたいところだったが、何しろ警戒厳重な国境であり、我々国際列車の乗客に自由はなかった。高い金を払って自由がないとは理不尽だと思ったが、何とも仕方がない。列車が動き中国を離れると、完全に気が抜けてしまった。やはり陸路の国境越えは何といっても緊張するものだ。ウトウトしていると、モンゴルの最初の駅、ザミンウデに到着した。こちらも真っ暗で何もない。

 

そして今度はモンゴル人のイミグレ職員が乗り込んできて、パスポートを回収した。列車を降りて、列に並んで入国手続きしないというのは、優遇されているということなのだろうか。眠気に負けて寝入る。そこへ女性が入ってきた。税関職員だという。ちらっと部屋の中を見て、すぐにOKと言って出て行ってしまった。国境というのは写真を撮るのにも気を遣う。しかも暗い。ほとんど何もしないうちに、手続きが終わり、また列車が動き出す。

 

S氏とNさんはお酒が好きで、いつも酒とつまみをやっている。私は飲まないので、すぐに眠たくなる。既に午前2時、横になるとあっという間に意識がなくなり、気が付くと、薄暗い中、どっかの駅に停車した。午前6時、文字が読めない。後で調べると、サインシャイドという駅だった。それから周囲は徐々に明るくなっていった。窓の外から見えるのは、雪が積もった草原ばかり。勿論ここがどこかも全く分らない。時々小さな家が見え、また時々羊の群れがいた。のどかというより、荒涼とした、寒々とした風景が広がっていた。こんなところを茶葉を載せた駱駝が隊列を組んで歩いていったのだろうか。

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10時頃に駅に着いた。チョイルという名前。この駅の次に停まるのは終点ウランバートルだった。駅と言ってもふきっさらしのホームがあるだけ。乗っているのにも飽きたので、降りてみたところ、その寒さは半端ない。天気が良いので分らなかったが、風が強いこともあり、体感温度は零下20度以下ではなかっただろうか。そんな中で数人のおばさんがカートを押して、何かを売っていた。言葉は通じない。中身を見ると、飲み物やカップ麺だった。横には弁当箱のようなものがあった。中を開けると包子が湯気を立てて出てきた。ショーホー、と言っているように聞こえた。いくらか分らなかったが、これまでモンゴルの通貨に両替できそうな場所などなかった。

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人民元しかないので、10元札を出すと受け取ってくれた。なんだかうれしかった。このおばさん、全く商売になっていない。何しろ乗客が殆どいないのだから仕方がない。これで生計が立てられるのだろうか。一日に1本列車が通るかどうか、他人事ながら心配になる。この寒風吹きすさぶ中、帽子をかぶり、マフラーを巻き、重装備の服装で寒そうに立っている。そして何より哀愁、という言葉が絵になる。列車に戻り、急いでショーホーを開けた。羊肉がジューシーだった。ちゃんと作っているんだね、おばちゃん、有難う。そんな感じだった。

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その後廊下を歩いていると、いい匂いがしてきた。何と洗面台で中国人車掌が野菜を切っていた。そして中華鍋で調理をはじめたのには、驚いた。実はモンゴル国境で台車を付け替えたが、その際食堂車も付け替えたらしい。昨晩のあの安い中華食堂が一変、豪華なモンゴル食堂に変わっていた。そうなると、中国人はそこでは食事をしないので、自炊することになる。因みに服の洗濯をしている車掌もいた。ある意味でここは生活圏なのである。

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その豪華食堂車に行ってみた。その内装はモンゴル風でもあり、ヨーロッパ風でもある。これぞ、国際列車、という雰囲気を出していた。だがメニューを見ると、ロシア風の肉料理などばかりで、モンゴル料理は何もなかった。料金も昨日の中華食堂とは大違いでかなり高い。すごすごと引き返した。食事をしている人も殆どいなかった。午後2時にはウランバートルに着くのだから、当然かもしれない。

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切符とホテル

列車は全く遅れることもなく、定刻の午後2時半にはモンゴルの首都ウランバートルに着いた。この駅はこの街の端にあり、列車から急にビルが立ち並ぶ大都会が見えた。私は過去2度来ているので驚きはなかったが、列車から街を眺めると、その薄っぺらさがよく分かった。駅は立派に見えたが、白人乗客を迎えに来たガイドぐらいしか人はいない。汽車の展示があるぐらい。改札もなく、すぐに外に出られた。

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S氏はいつものように『まずは次の切符』というので、駅に入ろうとしたが、締め切りだった。張り子のトラ?モンゴルの通貨トゥグルグも持っていない。両替所も全く見当たらない。駅の横に建物があったので、文字は読めないが、何となくここかな、と入ってみる。外は寒かったが、中は暖かかった。人もおり、ここが切符売り場であることが分かった。S氏はATMでキャッシング、私は両替所で米ドルを出して、両替した。モンゴル滞在は短いので、最小限の両替に留めたが、切符の代金すらわからないのでかなり困った。

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モンゴル草原を行く2013(8)ウランバートル散策

大使館で

午後は日本大使館を訪問した。ここで対応して頂いたのはやはり?同窓の先輩と後輩。昔誰かに聞いたのだが、この大使館は基本的にモンゴル語学科の人ばかりが、モンゴル専門家として配置されるらしい。そういえば司馬遼太郎さんも大阪外大モンゴル語卒だったな、と急に思い出す。

 

3月の安倍総理訪問で、これまで進まなかった事案もスムーズになったと。また最近はモンゴル政府の閣僚に日本留学組が就任するようになり、益々日本の重要性は高まっている。但し経済の実態を見れば石炭など資源輸出の90%が中国向け、外国からの直接投資も見かけ上は中国から35%だが、オランダとルクセンブルグからの迂回投資を合わせると、こちらも80%以上が中国からとなり、中国頼みが顕在化。中国の景気減速で経済的に厳しい状況が出てきている。

 

ホテルの結婚式

大使館からホテルまでは近かったので歩いて帰る。途中にモンゴル文化教育大学という看板が見えた。日本語だ。Nさんによれば、『ここは日本に留学したモンゴル人が作った大学で創設者は知り合い』とのこと。残念ながら創設者はいなかったが、中を見学した。

 

この学校は日本の大学とも提携しており、日本人留学生も来ているようだ。この国に来て彼らは何を見ただろうか。ちょっと興味が湧く。片やモンゴル人学生が日本語を学んでいる。壁には『折り句』が張り出され、面白い。微笑ましいものから、かなりのレベルのものまで、自分の名前を使って作っている。

 

ホテルに戻ると玄関口に飾りが施され、結婚披露宴が行われようとしていた。実はほぼ毎日、このホテルでは披露宴が行われている。ホテルの建物がオシャレなのと、立地が良いからだろう。参加者も皆着飾っており、子供たちもはしゃぎまわっている。かなりの費用が掛かるだろうから、お金持ちの宴だと分かる。

 

中ではちょうど弦楽四重奏の演奏中だった。この辺が中国などとは違っている。洋風なのだ。夜もオペラを歌う参加者がいるなど、ロシア、ヨーロッパの影響を強く受けていることが分かる。恐らくはそちら方面に留学した人が多いのだろう。

 

それにしてもアジア各国、どこへ行っても派手な結婚式が行われている。これは一種のブームでもあり、また伝統的に祝祭を派手に行う習慣でもある。結婚式は一大ビジネスチャンスである。北京の知り合いが中国で日本式結婚式のアレンジビジネスをやっているが、これはやり方次第では日本的なきめ細やかな手法が受ける、日本的なおもてなしの輸出になるだろう。

K先生

夕方市内の外れのホテルへ行く。実は本日大学と大使館にはモンゴル研究の第一人者であるK先生が同行してくださった。K先生はずっとモンゴル研究を続け、1973年にUBの日本大使館に滞在、それ以降も、毎年モンゴルを訪れ、司馬遼太郎に付き合い、『草原の記』のツェベクマさんとも交流。また開高健の魚釣りに同行、1か月もモンゴル奥地で行動を共にするなど、実に豊富な経験をお持ちであった。日本人でモンゴルを知る第一人者である。

 

このホテルのレストランは8階にあり、周囲が一望できる。市内にはどんどん建物が建ち、河沿いにも以前あったゲルの姿はなく、建物が建ち始めている。『モンゴルは急激に変わった。ちょっと急激すぎるのが心配』とK先生はまるで我がことのように言う。

 

既に引退されているK先生、毎年夏にはUBに戻ってきて、長期滞在する。このように1つの国を一生涯追い続ける、これは素晴らしいことだ。奥様も苦楽を共にされており、ご夫婦で思い出話をされる。楽しそうだ。『モンゴルは年々便利になっている』とのお話の中に、『年々つまらなくなっている』というニュアンスを感じたのは私だけだろうか。

 

8月23日(金)

社会主義時代のホテルサービス

UBのホテルに戻った瞬間、シャツをクリーニングに出した。一応当日夕方出来上がると書かれていたが、心配だった。案の定、部屋には戻ってこなかった。ところが問い合わせても『既に届けた』の一点張り。言葉が上手く通じないのだろうか。今朝N教授の部屋から我々のシャツが発見された。何とクローゼットにきちんと入っていたらしい。部屋を間違えていること、及びどこに入れたかを他の従業員が知らなかったこと、ちょっと驚きだった。

 

驚きと言えば、お湯が出ない状態も続いていた。この時期UBは真夏、と言っても夜の気温は10度台。水シャワーを浴びると風邪をひく危険性がある。仕方なく、電気ポットで湯を沸かし、体を拭くことにしたのだが、そのポットが壊れてしまっていた。何度が使えるポットを要請したが、要領を得なかった。その内、何とシャワーの湯の方が先に出てしまう。まあ。こんなものだろうが、まるで社会主義時代の中国(今も形式だけそうだが)を思い出し、懐かしんでしまう。

 

この旅も早2週間が経とうとしている。長い夏休みが終わる。学生時代のように宿題に取り掛かる。原稿書きである。本日は朝6時に目が覚め、2時間、わき目を振らずにPCに向かった。同室のNさんがあとで『あんなに真剣な顔をこの2週間、見たことがなかった』と言ってくれた。2週間、何も書かない生活は活力を与えたようだ。

ザッハの火事と大渋滞

本日はA教授の買い物をメインに、再びザッハを訪れる。ところが、車で近くまで行くと、なんと火事が発生していた。当然前の道路は通行止め、仕方なく向かいに新しく出来たザッハへ行く。しかしこちらは店が殆ど開いていない。どうやら古いザッハで成功した人々が新しいザッハの権利を買ったらしく、未だに古い方に店のある人は、そちらの荷物の持ち出しなどで精一杯、新ザッハの店など構っていられないようだ。

 

遠くから見ると、建物の一部が焼け落ちていた。もし我々が行っている時に火事が起こればパニックだっただろう。消防車が駆けつけていたが、防火水の設備がないのか、なかなか放水は始まらない。車は益々近づけない。

 

いつまで経っても埒があきそうにもなく、テンゲルへ向かう。ところが少し行った所で大渋滞に嵌り込んだ。我が運転手は最初から『この道を行ったらマズイ』と言っていたが、東京が長いUさんはその忠告を聞かずに突っ込んでしまう。そこから延々、ダラダラ状態となった。

 

普段でさえ、渋滞がひどい道に、今日は火事が重なっている。全く身動きが取れない。歩いたほうが余程早い。UBの交通事情は車の増加に道路が追い付かない。おまけに冬は工事が出来ないため、夏に一斉に道路工事に入る。観光業としてはかき入れ時だが、車は動かない。今や一大ストレスになっている。僅か10㎞以内の道を2時間以上かかって進んだ。

 

テンゲルはダルハンで行った食肉加工会社の社長とその兄弟が90年代に始めた大規模スーパー。まあウオルマートのようなもの。倉庫のような店舗に大量の商品を積み上げ、纏め売りしている。その手法がモンゴルでは画期的で珍しく、この店は誰でも知っている。今日行ってみると、お客は午前中のせいか殆どおらず、閑散としていた。これも時代の流れだろうか。

 

お茶コーナーに行くと、韓国製緑茶などが目立つ。安いのだろう。レンガ茶もあるが、どこの製品であるか表示がないらしい。モンゴル語で書かれており、分からないが、写真がチベットのポタラ宮であり、どうやら中国製。中国製は嫌われるため、敢えて表示をしなかったのだろう。Uさんによれば、『紅茶はグルジア産』ということで探したが、見付からなかった。モンゴルとグルジア、あまりにも離れた国で何故お茶の交易があるのか、それはソ連時代の歴史と深い関係がある。今後の研究課題としたい。

カンダン寺

お昼はロシア料理の店へ。立派なロシア正教会の横にあり、本格的なロシア料理が食べられる。ボルシチは濃厚で美味しかった。モンゴルとロシア、この繋がりは当然に深い。店内には葬儀の帰りか、僧侶を囲んで食事をしている一団がいた。こんな風景も珍しい。

 

午後は特に行く所もなく、名所カンダン寺を訪れた。4年前、私はなぜかこの寺だけ入っていなかった。そこそこの渋滞を潜り抜け、車は西へ向かう。正面は車が停めにくい、とのことで脇の門から入る。広い敷地にハトが沢山いる。結婚式の写真を撮るカップルもいる。

 

本殿は立派な高い建物、ここがモンゴルにおけるチベット仏教の聖地。だが何となくおしゃれになっている。前の広場を歩いて行くと、古い建物に出会う。あー、ここはこれまで私が訪れたチベット仏教寺院の匂いがする。モンゴルは社会主義時代、宗教を弾圧した。相当に悲惨な状況であったらしい。体制崩壊後、徐々に昔の仏教を取り戻そうとしているのだが、近代化の波とぶつかり、そう簡単には進んでいないように思う。

 

最後の晩餐

その夜、モンゴル最後の晩。お世話になった商工会議所の副会頭を招いて、食事となった。場所はお洒落なイタリアンレストラン。欧米人も多く、味もまあまあ良い。1皿の料理の量が非常に多かった。それでもアメリカ人の老人がステーキをペロッと平らげるのを見て、我々とは違う、と思ってしまう。まあ、モンゴル料理が口に合わず難儀しており、ようやく美味しい物が出てきたのでパクついたのかもしれない。

 

モンゴルの商工会も岐路に立っている。会員数は増加したがモンゴル経済も厳しい状況となり、これからどのように発展していけるのか、難しい局面となっていた。中国以外の海外との貿易も重要な業務となってくる。だが例えば日本へ乳製品を輸出しようとしても、日本側の要求が高すぎる。それは品質などの問題だけではなく、検査費用が高すぎて採算に合わないなど、日本の国内保護とも取れる政策にも原因がある。

 

モンゴルと日本、ある意味で非常に友好的な国であるのだから、相撲ばかりではなく、もっと多方面の交流を深め、両国にとってメリットのある政策を打ち出した方が良いと思うのだが。どうやら政治はそうは行っておらず、経済的な結びつきも強化できないでいる。

8月24日(土)
さようならモンゴル

本日はモンゴル滞在最終日。N教授とUさんは朝早い仁川経由の飛行機で東京へ戻って行った。私とA教授は昼の便で北京へ行き、そこからA教授は乗り継いで東京へ戻る。Nさんは知り合いもおり、もう1日、UBに滞在する。

もう慣れてしまった朝食を食べる。トーストを焼き、卵を取り、そしてキムチ。今日もそれほどお客はない。モンゴルのかき入れ時である夏に、これしか客がいない、このホテル大丈夫だろうか。既に愛着が湧いている。

今日も快晴のUB。9時過ぎにホテルをチェックアウトし、2週間を共にした運転手君の運転で空港へ向かう。もっと長い時間、居たような気がする。こちらは別れを惜しんでいるが、彼の方は別に仕事があるのだろう、我々を降ろすとあっさりと去っていく。まあ、そんなものか。

空港内は異常に混んでいた。チェックインカウンターは長蛇の列。団体さんが多い。処理能力にも問題があるのだろう。荷物検査は意外とあっさりしており、買い物に行く。モンゴルのお土産と言ってもなかなか難しい。これから北京とソウルへ行くので、モンゴルウオッカを買ってみる。北京で渡す1本と、ソウルまで持ち込む2本に分ける。そうしないと免税にならないらしい。ウオッカの名前はブラックチンギス。如何にもモンゴルらしい。

 

 

 

4年前は北京まで帰るのに31時間遅れたフライトだったが、今日は定刻に飛び立ち、定刻前に北京空港に到着した。これは季節要因が大きいのだが、何だかモンゴルがかなり進歩した象徴のように思えてしまう。これから作られるUB第2空港は日本企業が受注している。どんなものが出来るのか、また見に来たいものだ。

 




モンゴル草原を行く2013(7)UB 日本語を勉強しても

8月21日(水)

5.ウランバートル2

ダルハンからナラハへ

朝、ダルハンを出発。郊外に出ると先日訪問した製鉄所を示す不思議なモニュメントが見える。何となくユーモラス。あの工場長さんを思い出す。それからひたすらUBに向かって進む。


 

途中休憩した場所には、何かが祭られていた。広い広い草原の中に、ポツンとある石。これは何を意味するのだろうか。昔は道路などなかったはずだから、何かの目印にもなっているように見える。羊が群れを成して過ぎ去っていく。ああ、モンゴル草原だ。

 

そしてUBに到着したが、大渋滞。ここでランチを食べるはずが、そのまま午後の訪問先であるナラハ区へ進む。あまりの渋滞に後続車を見失い、ガソリンスタンドで待つ。ナラハはUBの南約30㎞。UB市内を1時間以上かけて突き抜けるとまた草原だ。花が咲いている。可憐だ。腹が減った。4年前もナラハから戻るとき、昼飯がなかったことを突然思い出す。そろそろモンゴルに飽きてきたのかも知れない。

 

ナラハ区庁

ナラハの街は4年前と変わっていないように見えた。昔の炭鉱の街、ソ連崩壊後経済的に行き詰まり、現在再開発の計画のあるところ、という印象だったが、再開発はどうしたのだろうか。

 

区庁に入ると、少しも変っていない。再開発計画の模型もそのまま置かれている。大きな部屋に何人もの区の幹部がやってきた。最近の事情を聴くのになぜこんなに人が来るのだろうか。代表者が『区長はUBに行っており、今ナラハに向かっている。皆さんの質問に応えるべく、関係者を集めた』と。

 

女性幹部が区の労働事情を説明し始めた。既に公式の炭鉱は閉鎖されているが、未だに勝手に個人で掘っている人々がいる。危険なので取り締まりたいが、彼らに職がないので困っている。実はこの区は長い炭鉱の歴史もあり、モンゴルで障害者が一番多い。それでも炭鉱労働者の子孫は炭鉱を離れないが、それ以外の若者はUBへ行ってしまい、帰っては来ない。

 

現在区を市に変更するという計画がある。ただここには発電所がなく、電力問題があり、独立できないでいる。発電所建設は悲願だが、環境問題で財政問題がある。政府に支援が期待できるかどうか。

 

明らかに4年前の再開発計画とは異なっていた。以前は韓国系企業が開発を請け負うという話だったが。その計画について尋ねると、皆が一斉に話し出す。『今日は労働者問題の話ではなかったのか』『わざわざ夏休み中を参加したのに、なんでそんな話をするの』何だか様子がおかしい。そして代表者が唐突に『会議はこれで打ち切る』と宣言し、退場した。

 

聞く所に寄れば、韓国系企業は2009年3月の段階でほぼ撤退(夜逃げ同然?)しており、それはこの区にとって大きな打撃だった。昔の嫌な話を蒸し返されるのは気分が悪いし、中には責任を問われている人もいるのではないか、とのことであった。発展には様々な要素が絡んでくる。なかなか発展できない街、その一端を垣間見た。

中国料理屋

予定が中途半端に終わったので、また昼飯兼夕飯を食べに行く。UBに戻る途中、N教授は目ざとく中国料理屋を見つけていた。そこに入る。普通海外でも中国料理屋といえば、派手な感じの看板を掲げ、それらしい雰囲気を出すものだが、ここモンゴルには漢字の看板は存在しない。モンゴル人の対中感情に極度に配慮しているらしい。

 

建物の中へ入ると、実に立派なレストランで、漢字で『龍府』と書かれていた。メニューを見ると、中国国内にある内容とほぼ同じで本格的な中国料理屋さんだ。これなら中国語も通じるかと思い、ウエートレスに話しかけると、恥ずかしそうに手を振る。青島ビールを飲み、『乾鍋菜花』『爆炒腰花』『水煮肉』など、味も中国と同じで、美味しく頂いた。隣では中国人が数人で宴会、白酒をあおっている。

 

オーダーした物と違うものが出てきた。それも3回も。1つ目はあっさりと皿を下げたが、2つ目の間違いでは彼女は困ったように止まってしまった。我々はそのオーダー違いの皿を受け取った。彼女はとても喜ばしそうな顔をした。聞けばレストランで働き始めて1週間、中国料理など食べたこともなく、間違ってしまうこともあるらしい。だが何度も間違えると首になる恐れがあり、ビクビクしている。中国系レストランで働いてくれるモンゴル人は多くはないはずだから、それでもここで働くにはそれなりの理由があるのだろう。

 

そして本当に腹一杯になり、渋滞の市内を以前泊まっていたホテルに再びチェックインした。シャワーでも浴びようかと思ったが、全くお湯が出ない。フロントへ行くと何と『明日の午後8時までお湯は出ません』と言われる。それなりのホテルなのにどうしてと聞くと、『この付近一帯全て出ません。UBのお湯の供給は中央システムが担っており、冬に備えて夏の間にメンテナンスするんです』と答えられて驚く。

 

冬の寒いモンゴルでは統合暖房が敷かれているのだろう。それを使ってお湯を供給している、何とも社会主義国家のようだ。だがこの話をその後モンゴル人にすると『我が家は既に20日間お湯が出ていない』などと平気な顔で言われてしまう。我々のホテル、結局翌日はダメだったが、2日後の午前中には何の連絡もなく復旧していた。感謝せねば。

8月22日(木)

日本語だけでは金にならない

翌日はN教授の大学が以前より交流のあるモンゴルの大学へ行った。モンゴル人学生は海外留学に行く者が非常に多く、この大学でもロシア、中国など海外の60の大学と協定を結んで、留学生を送り出していた。日本でも数校と提携を始めていた。ただ震災後、それまで留学していたモンゴル人が国に戻ってしまうなど、少し後遺症があるようだった。

 

今回驚いたのは、海外の大学と折衝する担当者が、どう見ても日本人にしか見えないモンゴル女性だったこと。その日本語もほぼ完ぺきであり、化粧の仕方まで日本人だった。聞けば、日本に留学、その後日本の大学で働いていたらしい。15年ぶりに戻ってきたという。更に彼女は高校時代、内モンゴルに留学しており、中国語も普通の話せ、英語もできるらしい。このような有為な人材は祖国モンゴルの成長とともに帰国し、尽力し始めている。

 

この大学は教育者を養成する学校だったが、『教育はお金にならないので教師志望が減少している』という。政府も教員給与アップを図り対応している。日本語を勉強する人は多いのだが、その就職問題がある。『日本語を学ぶ人は全員教師になるしかない』との言葉は重い。現在多言語教育も行われ、また日本語学科以外の人が日本へ留学するなど、日本語オンリーからの脱却も図られている。


 

この大学で学ぶ学生が選ぶ外国語の1位は中国語、次の英語、ロシア語と続く。中国嫌いのモンゴルだが、経済的、就職に有利という意味では断然中国が選ばれている。学部長にお会いしたら、中国語の先生だった。『私が中国に留学した90年代、中国語はマイナー語学だった。私も仕方なく留学に行った』とのこと。

 

その日の夜のテレビで『日本の高専に留学生を1000人送る』と教育大臣が発言していて驚いた。この大臣も日本留学組であり、『日本の高専はレベルの高い技術が学べる』として、日本を技術者養成の場としたい意向だった。3月の安倍総理モンゴル単独訪問以降、日本との関係は非常にスムーズになっている。その後訪れた日本大使館でも『総理訪問後、モンゴル側の対日姿勢は非常に良くなっている』とのことだった。総理は一体何を話したのだろうか。興味深い所である。

日本留学経験者の本音

もうお昼近くなってしまったが、我々を待ってくれている人たちがいた。過去に日本に留学して、今はUBに戻ってきている元留学生たち。現在就活中の人、日本関係の仕事をしている人など。とても面白話を聞くことが出来た。

 

先ずは日本の印象。『とても安全』『時間の管理がしっかりしている』『日本人のチームワークは素晴らしい、モンゴル人は一人ずつしか行動できない』という肯定的な面も出たが、『留学するコストが高すぎる』『日本人学生の勉強の対する意識が低すぎる』と言った先生たちが頭を抱える問題点も指摘された。これを話した人は理科系で修士まで進んだが、『日本人学生のレベルはあまりに低くて競争相手がいなかった』と嘆いていた。

 

『モンゴルに戻ってから日本人と交流する機会がない』のでもっとモンゴルに日本人留学生を派遣してほしい、との要望もあった。確かにモンゴルを目指す留学生は多くはない。日本企業もあまり進出していない。日本人の視野がどんどん狭くなっていていることを指摘された。『我々は本当に日本に好印象を持っているし、モンゴル人は一般的に日本が好きなのでとても残念』とは本音であろう。

 

そして話は就職の方へ向かう。『日本語では就職できない』は前述の通りだが、特に理工系は『専門用語を全て日本語で学んでしまったので技術があっても欧米系の会社では役に立たない。モンゴル人の同僚とすら話が出来ない』といった何とも残念な話も出た。また『日本企業に就職しても直ぐには役職が上がらない。人口の少ないモンゴルなら海外留学生はもっと尊重されている』といい、『自分で起業するしか道はない』と日本での就職を諦めた話も披露された。

 

『将来は日本人とチームを組んでビジネスをやってみたい』という積極的な意見も出てきた。モンゴル人との積極性と日本人のチームワークをうまく融合して事業を成功させようという考えだ。『モンゴルは中国とロシアに挟まれている。日本との友好が非常に大切だ』と言った国の将来を対局から見る発言もあった。やはりそれ何の意識をもって留学すれば物の見方も大きく変わるのだろう。日本の学生にも期待したい。

 

 



モンゴル草原を行く2013(6)ダルハン 国営体質に苦しむ企業

4.ダルハン

ヘビーな食事

ダルハンはモンゴル第二の都市。だがUBと比べるとかなり小さいようだ。ホテルに着き、すぐに食事へ。昼と夜の中間食、何というのだろうか。3時過ぎたこんな時間でも食事している人がいた。面白い。その人たちがスパゲッティを食べていたので頼む。すると出てきたのはものすごい量。スープもサラダもすべて大きい。とても食べきれない。満腹になる。

 

レストランを出て水などの買い出しに行く。そこから歩いて帰ることにした。何しろ腹が重い。少しでも減らさねば、と思ったが無駄なようだ。歩いていると建設現場が見えてくる。第二の都市もやはり建設ラッシュ。『誰が投資しているんですかね』と地元の人に聞くと『朝青龍じゃないの?』と笑われた。

 

結局その夜は何も食べずに寝ることに。ところがなぜかホテルの外で深夜までウルサイ音楽を流して何かしている。若者が騒いでいるのかと思ったが、どうやらBBQか何かの野外営業らしい。そんなに遅くまでお客がいるとは思えず、もっと早く止めて欲しかった。何しろこちらは腹一杯で、それでなくても寝付けないのだから。

 

8月19日(月)

中国に圧迫されるモンゴル企業

翌朝はダルハン県庁を訪問、県知事と面談した。さすが第二都市の首長、忙しいそうだ。面談中に大統領から直接電話が入るなど、これからのモンゴルを背負う指導者の一人なのだろう。

 

それから突然製鉄所に向かう。こんなところに製鉄所があるのか。何と日本のODAで作られたらしい。さすがに大規模な工場、入るのにチェックが厳しい。1993年に生産を開始、2003年にODA支援が終了。それ以降は自力で生産している。現在従業員は1600人余り。モンゴルとしては大きい。

 

説明してくれた工場長は生産開始から今日まで、この工場の全てを知っていた。恐らくモンゴルでもっとも製鉄に詳しい人なのだろう。その苦労、苦悩が話の随所に表れていた。『もうすぐ定年です』という言葉が妙に重い。

 

工場見学もさせてもらった。熱い鉄が流れてくる。26年前、上海留学中に宝山製鉄所を見学した日を思い出す。日本の技術がアジアで使われている素晴らしい光景だった。これからは一層技術革新がなされていくだろう。原料となる資源はモンゴルにあるのだから。ただ中国から安い鋼材が入ってくる。この競争に打ち勝たないと、企業はやっていけない。

 

財閥系セメント工場にも行った。ここの責任者若く、英語を話した。シンガポール留学中にスカウトされ、シンガポール企業のモスクワ事務所で働いた。最近戻ってきてここにいると。中国より安いセメントがどんどん入ってきて、価格競争が起こり、厳しい状況だ。グループ企業ですら、安い方から買っている。

 

中国系企業はセメントを前渡し、代金は6か月後でよい、といったファイナンス付で市場をかく乱している。『中国から圧迫されるモンゴル』という図式が見えてきた。価格競争では大量生産の力に負け、付加価値の高い製品作りには技術が伴わない。中国経済が減速していくと、更に中国企業からの圧力が強まりそうだ。

 

韓国レストラン

当初言われていたほど、羊肉は出て来なかった。これもある意味、食生活の変化、多様化だろうか。それでもさすがに地元料理に飽きてきた。するとNさんがあっちに『ブルゴギファミリーがあります』という。何だそれ、と思っていると、何と韓国料理屋だった。よくぞこんなところに韓国料理がと思ったが、結構な人気店。お客は常にいたからすごい。

早速ビビンバを注文。キムチ、野菜などの小皿は頼まなくても出て来る。これは本当にありがたい。スープもあっさりしている。周りのテーブルでは皆カルビやロースを焼いている。羊から牛へ、確かに昨日行った牛肉加工業者は成功だろう。所得が上がり、食文化が変化する、モンゴルは今そのような時代を迎えている。

それにしても『困った時の中国料理』という話は旅の中でよく出て来るが、これからは韓国料理かもしれない。アジア全土、そしておそらくアフリカなどにも韓国人は果敢に進出しているに違いない。日本料理は、今後日本人以外が店を展開していくだろう。

8月20日(火)

国営工場のその後

翌日も企業訪問を続けた。元国営の皮工場。チェコの支援で毛皮のコートなどを作っていたが、1993年に民営化。しかし96年には操業ストップに。2000年に経営陣を刷新し、株式会社へ。ある意味、典型的な国営企業の変遷。その後上場している。日本人でも株を持っている人がいるという。

国営時代の概念を取り払い、デザインを一新し、営業にも力を入れた。国内販売のみならず、牛の半製品をスペインやイタリアに輸出しているとか。とても愛想のよい営業責任者の女性が一生懸命説明してくれた。

その後食肉加工工場へ。ラクダ以外の全ての家畜を扱っている。工場、オフィス共にとてもきれい。衛生には特に気を付けており、『遊牧民の伝統的な衛生概念を変えたい』という思いが感じられる。ここでは生の肉から、ソーセージ・ハムの加工、またボーズと呼ばれる肉まんの冷凍食品なども製造している。

ここの社長は90年代元々UBで有名な食品市場を立ち上げ成功した三兄弟の一人。兄が急死し、ダルハンの元国営工場を買収し、食品会社を経営するようになった。設備などを一新し、何とか軌道に乗ってきた。と言っても買収金額が少なく、既に企業価値は相当上がっているようで、投資は成功したという。

非常に有能な経営者と思われ、話もテキパキしている。中国に生肉を輸出したいが認可されない。何とか食習慣が近い内モンゴル市場へ食い込みたい、日本に馬肉を輸出したいなど、次々に新しい発想を持ち、実現させていくようだ。

国営体質のホテル

午後2時過ぎにホテルに戻る。これまで2日間はランチがなかった。色々とアポをアレンジしてくれ、食事をする暇がなかったのだ。中国では間違ってもこのようなことはなく、もし昼を食べさせなければ、文句が出るだろう。国民性の違いか。ホテルのレストランで羊スープの麺を食べる。意外とおいしい。

 

その後ホテルのマネージャーに話を聞いた。このホテルは旧国営の古い体質、彼女は大学院で経営を勉強して、ここに人事部長として、1か月前にやってきたばかりだった。彼女は昨日訪問したセメント会社でも働いた経験があったのは、世間が狭い証拠か。

 

このホテル、部屋が古いのは仕方がないが、インターネットの高速化を進めるなど、ハード面では改善策を講じていた。だがソフト面、特に従業員の確保、教育には苦労していた。レストランのウエートレスは殆どがバイトの学生。現代的なサービスをしようにも人材はいない。また従来からいる従業員の意識改革も進めなければならない。『サービス』という意識もなく、『責任感』もない。これら国営体質の打破が彼女に与えられた任務。人事制度改革と研修、彼女の2大目標だ。

 

日本を評価するパン屋さん

 

 

そして夕方、もう1軒訪問した。パン工場、1971年設立。ソ連の支援を受けてパンを製造。90年代は原料の小麦の調達にも苦労するなど厳しい状況が続いていたが、2000年頃民営化。05年には株式会社化し、経営陣を全て入れ替え、国営体質を一掃。4年後にはモンゴルトップ150企業に入るほど成長した。現在ダルハンを中心に、15台のトラックで毎日スーパーなどにパンや菓子を卸している。

 

ミーティングの間に出されたクッキーがとても美味しかった。オランダから技師を招いて、パンやクッキー製造に当たっている。これなら海外に出しても売れるのではないかと思う商品まである。生クリームをパンにつけて食べると、得も言われぬ美味しさ。全員が日本への輸出を進めたが、『日本は検査が厳しい』と。

 

何とモンゴル国内でも、現在ダルハン、セレンゲ、ユルデネットの3県のみで販売しているという。相当慎重な経営方針のようで、『現在UBへの進出を検討しているが、まだ自信がない』とか。支払いは現金、借金もない。優良会社だ。

 

社長は日本モンゴルセンターの研修を受け、日本への視察にも行ったという。日本の5Sなど管理手法も採用、会社の規律も日本から導入した。営業部長は『日本のお蔭で弊社はここまでになった』と非常に親切で、夕方日が落ちる頃まで延々と質問に答えてくれた。日本の良さを理解してくれるモンゴル企業、大切にしたい。

 

因みに大きな夕日が落ちる中、ホテル近くのスーパーへ行った。食品売り場にはさっきのパン屋さんのパン専用コーナーがあり、お客がどんどんパンを買っていた。

 

モンゴル草原を行く2013(5)セレンゲ 自然の中に生きる人々

聖なる母の木

ほろ酔い気分で観光へ。といっても『聖なる母の木』を訪ねる。ほろ酔いではマズイ。モンゴルの精霊信仰の1つだろう。樹木に対する信仰は深い。そして驚くことに聖地の周囲は全てレンガ茶で囲われている。お茶と聖地、宗教と茶、非常に興味深い。

 

この囲われた場所は元々母なる木があった場所とされ、木の切り株に皆が頭を下げ、頭をつけて祈っている。中には体全体を大地につけて、祈る姿もあり、チベット仏教との深いかかわりも見られた。この辺りに来た観光客は聖地ということでやってくるのだろう。多くの人が祈りを捧げている。

 

日本語でこの儀式についてN教授と話していると、後ろから『この紙を木の枝に巻き付けて』と日本語で言われ、ちょっとビックリ。モンゴル人女性が日本語を話している。『日本で勉強したことがあるの』という彼女。モンゴルには日本に住んだことがある、日本語が出来る人が人口比で言うと非常に多いと言われたが、目の前に現れると納得してしまう。

 

そして現在のご神木へ。高い木が一本そそり立っていた。周囲には無数のカタ―(布)が巻かれているが、何となく象徴に過ぎないような雰囲気がある。やはり元の木が大切、ということだろうか。因みにこのカタ―、チベット仏教で用いられる。青海省西寧のお寺に行っても、インドのラダックに行った時も見られた。モンゴルでは高僧謁見の際、五色のカタ―を重ね合わせるという。道理で色とりどりのカタ―があるわけだ。チベット仏教とモンゴル、勿論歴史的に大きな繋がりがある。

 

8月17日(土)

モンゴルNo.1の小麦農場を見学

本日も郊外へ出る。草原の中に牛がいる。羊や山羊ではない。これは牛乳を搾るための牛だろうか、それとも食用?とにかくのんびりした雰囲気が出ていて、とても良い。思わず車を止めて記念撮影。

それからいかめしい門を潜り、工場へ向かう。すごく立派な小麦の貯蔵施設が見える。草原の中、ここだけが別世界のようだ。モンゴル全体の15%の小麦をここで扱っている。牛も5000頭輸入し、食肉用として加工している。ここは一大食料備蓄設備のようだ。道理で設備がデカい。

ここのオーナーは元々金鉱山の開発で財を成したいたようだが、農牧に目を付け、2003年にこの地で事業を始めた。小麦は国策で政府が買い上げる。しかし2年前より支払いは止まっているらしい。政府資金の枯渇か、それとも不正か?小麦以外ジャガイモなど他の農作物にシフトしつつあるとの印象がある。これからはモンゴルでも牛肉を食べ、牛乳を飲む飲食文化が出て来ると予想。またアメリカ製のコンバインなど農業機械の代理店となり、モンゴル全体の小麦生産を機械のリースでサポートしている。このような動きも重要だろう。

工場敷地内に宿舎もあり、モンゴル全土から従業員を集めているが、人手不足とか。農業における人材の確保も重要性が増してきている。尚ここでランチをご馳走になった。牛肉とサラダ、とても美味しかった。こんなに美味しい食事が出て来るのであれば、従業員は集められそうな気がするのだが。やはり若者は都会を目指すのだろうか。

自然の中で蜂蜜を取る

別の場所に移動した。道端に車が待っていた。何とランチを食べるために待っていてくれたのだった。予想外の展開。我々はお腹一体だったので、飲み物だけにした。そしてまた車で、草原の中へ入っていく。

気持ちの良い草原に花が咲いている。その向こうに箱が置かれている。何だろうと近づいてみると、マスクをした人たちが小さな跳び箱のような箱を開けている。そこから蜂蜜を取り出していたのだ。棚にこびり付いた蜜を小刀で削ぎ取っている。車の中には機械があり、蜜を入れて回すと、濃厚な蜂蜜が絞り出されてくる。

そしてまさに大自然の中、皆でその蜂蜜を飲んだ。舐めるだけかと思っていたが、コップが渡され、何とウオッカを混ぜて飲んだ。強い酒を混ぜると強さが分からなくなり、どんどん飲めてしまう。途中頭がくらくらしたが、それがまた心地よかった。強い日差しに目が回る。

この事業は6-8月、花が咲く場所に合わせて移動しながら行われる。花から花へ、何とも優雅。この辺りは花の種類が豊富で蜂は50種類の花に触れ、蜜を作り出す。何というエコだろうか。ただ蜂蜜は国内需要がないので、日本などへ輸出されている。大自然の中で、1年の内3か月だけ働く。これは理想的な仕事の仕方ではなかろうか。聞けばこちらも人手不足。いっそこのキャランバンに付いて働いてみようか、と思ってしまうほど。モンゴルでは唯一ここだけで蜂蜜で作られているという。

カラオケBBQ

ホテルに戻る。ちょっと疲れた。蜂蜜ウオッカが効いたのかもしれない。少し横になる。そしてまだ明るい内に、レストランに向かう。今日はセレンゲ夜の最終日、初日にゲルBBQを開いてくれた社長などを招き、あのBBQ名人の夫妻が経営するレストランで、カラオケパーティーを当方主催で行う。

 

既に食事の用意はできていたが、また羊ではなく、鶏肉などが中心。結局今回は羊を食べる機会が殆どなかった。それもまた皆さんの配慮の結果だろう。参加者が集まってきて、何となく会が始まる。そして何となく芸が披露される。社長の4歳のお嬢さんが幼稚園で覚えた踊りを披露、N教授とA教授がお返しに、子供向け踊りを披露。芸域の広さが際立つ。そういえばモンゴルでは幼稚園が不足しているそうだ。数だけでなくノウハウも欲しいという。日本の幼稚園を参考にしたいとの話。こういう交流もあるのか。

 

その後はカラオケ大会に。今や地球のどこに居てもカラオケが出来る。衛星カラオケ、日本語の歌がモンゴルとロシアの国境で歌えるなんて、凄い。BBQ屋の奥さんは日本語の歌が上手い。きっと日本で仕事している時に、カラオケに行って覚えたのだろう。その旦那はモンゴル語で歌い、そして強烈に踊る。娘さんは現在大阪日本語学校に通っており、一時帰国中。若い歌声が響く。そして運転手君も横須賀仕込みの歌を。何と吉幾三の『酒よ』だ。みんな、歌が上手い。

 

3時間ぐらい、歌っただろうか、最後はディスコのようになり、踊りまくっていた。楽しい夜だった。モンゴルでこんなに日本が意識できる機会はそうはないだろう。日本とモンゴルがとても、とても近く感じられた。

 

8月18日(日)

サウナシャワー

翌日は昨夜の疲れが出て、昼まで休息とした。シャワーを浴びようとしたが、お湯が出ない。何と水漏れが発生していた。スタッフが来て治そうとしたが、治らない。すると『地下にサウナがあり、そこでシャワーが使えるよ』というではないか。行ってみると確かにサウナがあり、シャワーもある。

 

これがロシア式のサウナか。まるでクラブの個室にサウナが付いている感じで、立派なソファーセットがあり、酒が飲める。ここでウオッカの一気飲みを繰り返しながら、政治や商売を語るのだろうか。ここにもモンゴルにおけるロシアの影響を見た。

 

そしてセレンゲを離れる時が来た。随分長くいた気がする。不思議なほどの愛着がある。日本との共通点も多かったということだろうか。A会頭がわざわざ見送りに来てくれた。本当に我々の為に色々とやってくれた。いい人だ。彼が支えるセレンゲの中小企業、これから経済が厳しくなる中、何とかやって行ってほしいと願う。

パンクしたのでゲル突撃訪問

モンゴル第二の都市ダルハンへ向け出発した。だがすぐに大きな競技場が目に入り、停まる。何とモンゴル相撲の競技場だという。それにしても大きい。競技場の前にはモンゴル相撲の王者の像が輝いている。さすがモンゴル。

そして車は順調に走っていたが、何と我々が乗ったランクルのタイヤがパンクした。いつ治るんだろうか、と心配してみていると、全く心配していないばかりか、むしろこれを喜んでいるN教授がいた。『向こうにゲルが見えるぞ。突撃しよう!』と歩き出す。皆半信半疑で付いて行く。1.5㎞ぐらいあったろうか、草原を突っ切りゲルに到着した。

ゲルでは我々を快く迎えてくれた。これは草原の掟らしい。来る者は歓迎すると。早々に中に招き入れられ、お茶が出される。このお茶が美味い。ヤクの新鮮なミルクで作っているらしい。驚くことには、このゲルの中にはテレビもあり、PCもある。実は裏に衛星アンテナがあり、何十局ものテレビ番組を見ることもできる。勿論携帯もあり、移動も最近は車でする。我々が思っているゲル生活より遥かに現代的だった。

『息子と娘はUBの大学へ行って先生になった』とも。ここにやってくる時は2人ともランドクルーザーだとか。長男が後継者として残っているが、『昔は草原で嫁が見付かったが、今は街に行かなければ見つからない。このゲルを継いで行けるかは分からないし、継げなくても仕方がない』と諦め顔で話す。このゲルの主人は遠くから我々が来るのを見ていたという。馬に乗って戻ってきた。さすが草原に生きる人だ。

パンクしたのは偶然ではないのだろう。こうして人と人は繋がり、そして別れる。これが草原の掟、だと思う。馬で戻りたかったが、パンクを直した車がそこまで迎えに来ていた。今は馬から車の時代になったのだろうか。



モンゴル草原を行く2013(4)セレンゲの企業経営者たち

女性社長は担ぎ屋さん

午後はセレンゲで大規模農業をしている会社を訪ねる。小麦が主体のこの会社、社長は女性だった。彼女はソ連が崩壊した20年前、農業大を出てコルホーズに勤めていたが、物資の欠乏に目をつけて、ロシアとモンゴルの間の所謂担ぎ屋を数年やったらしい。これをモンゴルでは『豚を引っ張って歩く』と称するとか。

 

今回訪問した多くの経営者が、実は90年代豚を引っ張っていた。そこで蓄積した資金を元に事業を始めている。ここの社長も90年代後半、コルホーズが行き詰るとそこの株を買い、農地を買い、成長してきている。そして『民間初の女性社長』として取り上げられ、最近はJICAの支援で、農業設備を購入したりしていた。

 

オフィスから出て小麦畑に行った。道は途中からなくなり、ランドクルーザーでなければいけないような悪路となる。流れている小川を横切ったりする。ワイルドだ。そして一面の小麦畑。何だか楽しくなる。

 

帰りに大きな池の側で停まる。ここは夏の間、子供たちが泳ぐ遊び場となっていた。ここセレンゲは一般的に思うモンゴルとは違う。普通の畑があり、水がある。淡い色の花が咲いていたりする。実に良い所だと分かる。

8月15日(木) 

フェルト靴工場

翌日は朝からホテルの近くのフェルト靴屋さんへ。N教授は数年前に訪問したことがあるようで、旧交を温めていた。ご主人はUB、奥さんがセレンゲ出身。90年代にパン作りで成功したが、親戚に横領され、2000年に倒産。そこから苦労の末這い上がり、2005年にノルウエーと共同で、今の事業を開始。最初は言葉も通じなかったというが、原料がよく、デザインもいいことから注文が続き、今ではモンゴル内から買い付けに来るという。

 

最近テレビ番組に出演、その注目度が一気に上がった。だが、内実は自転車操業。デザインは他社に盗用され、銀行融資は受けられず、生産効率も高くない。モンゴルの中小企業の悩みがハッキリと出ていた。テレビをきっかけに様々な支援が入ることを望んでいる。海外への売り込みも狙っており、ドイツのNPOがHPを制作してくれたりしている。

 

このフェルト靴、何よりも暖かい。冬の寒いモンゴルでは室内履きにする人もいるようだ。特に子供靴は可愛らしい。孫がいたら、買い求めたい一品。A教授はすかさずブーツを購入。A氏は直ぐに誰とでも仲良くなるタイプ。皆を笑顔にする。

 

フェルトの帽子、は昔モンゴルでもよく被られていたらしい。旧共産圏のチェコあたりで作られていたそうだが、今では市場でそれを見つけることも一苦労。あったとしても相当高額のようであり、このフェルト靴も、もう少し値段が上がってもよさそうだ。その為には市場の開拓が第一。

 

なぜかほのぼのとした家内工業。雰囲気が良い。長男も後継ぎとして帰ってきたとのことだったが、勤めていた銀行が破たんしたとの話もあった。モンゴル経済は冬の時代を迎えるのだろうか。

 

バイオアグロ

午後はバイオアグロの会社へ。何と沖縄の教授が開発したバクテリア菌を使い、作物の生産量が飛躍的に伸びるらしい。昨日訪問した小麦農場も実はここの肥料を採用し、生産量を伸ばしていた。社長曰く、『生産量が伸びれば、肥料の売り上げも伸びると思ったが間違いだった。成功した農家は絶対にその秘密を他にばらさないから。また収穫量をごまかし、税逃れする企業も多い』、なるほど。

 

肥料だけで収益を確保することは難しいうえ、政府は予算で安い肥料を購入し、無償で農家に分けているのも痛い。肥料は海外から安い商品が入ってくるので価格では対抗できない。一方輸出は国家間の協定が必要だが、なかなか交渉してはくれない。

 

この会社のオフィスは国有企業時代のまま。せっかく良い商品を持っていながら、それが生かせない。政府も色々と利権があり、民間企業を支援しない。これもまたモンゴルの1つの問題である。

モンゴル緑茶

夕方A会頭のオフィスに向かう。ここでお茶農家と会うことになっていた。私はお茶と聞くと現場の農場まで是非行きたかったのだが、時間がそれを許さず、逆に農家の嫁さんがわざわざ車を飛ばして会いに来てくれた。片道3時間以上はかかるそうだ。恐縮。

 

ただ話を聞いてみると当たり前だが、茶の木があるわけではなく、茶葉が使われている訳でもない。高原で採れる花などを使い、茶として飲んでいる。カフェインがなく、飲みやすい。これは健康に良く、むくみや骨粗鬆症にも効果があるという。一種の薬にもなるようだ。

 

モンゴルでは従来茶葉はなく、ソ連時代は遠くグルジアから運ばれてきた。ただこのお茶には苦みがあり、砂糖とミルクをたっぷり入れていた。いずれにしても茶葉は不足していた(60年代以降中ソ対立により、中国から茶葉が入らなくなったことが影響)。

 

92年に生産を開始。最近の健康ブームにより、砂糖ミルクを入れずに飲める飲料として、『モンゴル緑茶』と称して、販売を拡大している。現在はリピーター中心だが、スーパーなども取り扱いを始め、またキオスクなどへの直接販売も始まっている。面談が終わると、『日のあるうちに山へ帰る』と嫁さんは車を飛ばして戻って行った。

 

スモークフィッシュで大宴会

Nさんが市場へ行った。そして河魚の燻製を買ってきた。これはとてもうまかった。段々普通の食事にも飽きてきたので、魚をあてに一杯やる。N教授などは望むところで、仕入れたビールやウオッカを取り出す。それにしても、セレンゲはとにかく豊かなところだ。モンゴルにもこんなところがあるのかと本当に驚く。

 

   

 

部屋のテレビもきちんと映った。ロシア語の放送だが、世界陸上を生中継している。日本ではTBSが織田裕二をキャスターに起用して放映しているはずだが、日本選手ばかりにスポットを当てて、引っ張りに引っ張るが、こちらはどんどん競技を中継してくれるから嬉しい。

 

勿論モスクワで行われているのだから、ロシア選手が注目されているが、日本選手も映ってくるし、中国選手も出て来る。このような放送がモンゴルで見られること自体、興味深い。当然モンゴルでロシア語が出来る人は多いし、特にここは国境である。当たり前なのかもしれないが。

8月16日(金)

競馬協会会長は運送屋さん

今日もセレンゲ。ここは本当に色々なものが見られる。これも商工会A会頭の尽力だ。午前中は何と競馬協会会長の所へ行く。モンゴルには草原の競馬がある、賭け事というより、遊牧民のスポーツだろうか。会長の体格もいかにもがっしりしている。

 

この会長、運送・貿易会社の社長さんでもある。ロシア‐モンゴルの国境運送に長年携わってきている。90年代より中国企業と合弁で事業を展開。近年はロシアと中国を結ぶ役割が大きくなってきている。馬乳酒を作ったり、馬肉を輸出したりと馬に関わる仕事もしている。

 

レンガ工場も経営しているが、『今年は去年の半分の売り上げ』と嘆く。経済状況が悪く、学校建設などの予算が削られている。中国の景気減速の影響は大きく出てきているようだ。UBの建設ラッシュもいずれ止まるのではないか、とふと思う。

 

元外交官の絶品スープ

昼前に郊外の農園に行く。チャルツラン?という実からオイルを採っているという。社長の家に行くと、何ともお洒落な造り。社長は何と元外交官で、モスクワのモンゴル大使館勤務経験もあるという。確かに品のある人だ。退官後、これからは農業だ、と思い、セレンゲに住み、様々な商品開発などを行っている。

 

お昼ご飯を用意してくれていた。何と社長自らが農園で採れた野菜などをたっぷり入れたボルシチを作ってくれていた。この濃厚な味、忘れられない。数時間煮込んだという。サラダなどもふんだんに出てきて、さすが農園と思う。そしてお昼からウオッカ一気飲みが始まる。ボルシチとウオッカで酔いしれる?

 

社長の息子たちはアメリカ・カナダなどに住んでいるようで、1年の半分は向こうで暮らすそうだ。『夏はモンゴルだよ』という言葉に生活の豊かさが感じられた。こんな『半引退生活』はすてきだな。