モンゴル草原を行く2013(8)ウランバートル散策

大使館で

午後は日本大使館を訪問した。ここで対応して頂いたのはやはり?同窓の先輩と後輩。昔誰かに聞いたのだが、この大使館は基本的にモンゴル語学科の人ばかりが、モンゴル専門家として配置されるらしい。そういえば司馬遼太郎さんも大阪外大モンゴル語卒だったな、と急に思い出す。

 

3月の安倍総理訪問で、これまで進まなかった事案もスムーズになったと。また最近はモンゴル政府の閣僚に日本留学組が就任するようになり、益々日本の重要性は高まっている。但し経済の実態を見れば石炭など資源輸出の90%が中国向け、外国からの直接投資も見かけ上は中国から35%だが、オランダとルクセンブルグからの迂回投資を合わせると、こちらも80%以上が中国からとなり、中国頼みが顕在化。中国の景気減速で経済的に厳しい状況が出てきている。

 

ホテルの結婚式

大使館からホテルまでは近かったので歩いて帰る。途中にモンゴル文化教育大学という看板が見えた。日本語だ。Nさんによれば、『ここは日本に留学したモンゴル人が作った大学で創設者は知り合い』とのこと。残念ながら創設者はいなかったが、中を見学した。

 

この学校は日本の大学とも提携しており、日本人留学生も来ているようだ。この国に来て彼らは何を見ただろうか。ちょっと興味が湧く。片やモンゴル人学生が日本語を学んでいる。壁には『折り句』が張り出され、面白い。微笑ましいものから、かなりのレベルのものまで、自分の名前を使って作っている。

 

ホテルに戻ると玄関口に飾りが施され、結婚披露宴が行われようとしていた。実はほぼ毎日、このホテルでは披露宴が行われている。ホテルの建物がオシャレなのと、立地が良いからだろう。参加者も皆着飾っており、子供たちもはしゃぎまわっている。かなりの費用が掛かるだろうから、お金持ちの宴だと分かる。

 

中ではちょうど弦楽四重奏の演奏中だった。この辺が中国などとは違っている。洋風なのだ。夜もオペラを歌う参加者がいるなど、ロシア、ヨーロッパの影響を強く受けていることが分かる。恐らくはそちら方面に留学した人が多いのだろう。

 

それにしてもアジア各国、どこへ行っても派手な結婚式が行われている。これは一種のブームでもあり、また伝統的に祝祭を派手に行う習慣でもある。結婚式は一大ビジネスチャンスである。北京の知り合いが中国で日本式結婚式のアレンジビジネスをやっているが、これはやり方次第では日本的なきめ細やかな手法が受ける、日本的なおもてなしの輸出になるだろう。

K先生

夕方市内の外れのホテルへ行く。実は本日大学と大使館にはモンゴル研究の第一人者であるK先生が同行してくださった。K先生はずっとモンゴル研究を続け、1973年にUBの日本大使館に滞在、それ以降も、毎年モンゴルを訪れ、司馬遼太郎に付き合い、『草原の記』のツェベクマさんとも交流。また開高健の魚釣りに同行、1か月もモンゴル奥地で行動を共にするなど、実に豊富な経験をお持ちであった。日本人でモンゴルを知る第一人者である。

 

このホテルのレストランは8階にあり、周囲が一望できる。市内にはどんどん建物が建ち、河沿いにも以前あったゲルの姿はなく、建物が建ち始めている。『モンゴルは急激に変わった。ちょっと急激すぎるのが心配』とK先生はまるで我がことのように言う。

 

既に引退されているK先生、毎年夏にはUBに戻ってきて、長期滞在する。このように1つの国を一生涯追い続ける、これは素晴らしいことだ。奥様も苦楽を共にされており、ご夫婦で思い出話をされる。楽しそうだ。『モンゴルは年々便利になっている』とのお話の中に、『年々つまらなくなっている』というニュアンスを感じたのは私だけだろうか。

 

8月23日(金)

社会主義時代のホテルサービス

UBのホテルに戻った瞬間、シャツをクリーニングに出した。一応当日夕方出来上がると書かれていたが、心配だった。案の定、部屋には戻ってこなかった。ところが問い合わせても『既に届けた』の一点張り。言葉が上手く通じないのだろうか。今朝N教授の部屋から我々のシャツが発見された。何とクローゼットにきちんと入っていたらしい。部屋を間違えていること、及びどこに入れたかを他の従業員が知らなかったこと、ちょっと驚きだった。

 

驚きと言えば、お湯が出ない状態も続いていた。この時期UBは真夏、と言っても夜の気温は10度台。水シャワーを浴びると風邪をひく危険性がある。仕方なく、電気ポットで湯を沸かし、体を拭くことにしたのだが、そのポットが壊れてしまっていた。何度が使えるポットを要請したが、要領を得なかった。その内、何とシャワーの湯の方が先に出てしまう。まあ。こんなものだろうが、まるで社会主義時代の中国(今も形式だけそうだが)を思い出し、懐かしんでしまう。

 

この旅も早2週間が経とうとしている。長い夏休みが終わる。学生時代のように宿題に取り掛かる。原稿書きである。本日は朝6時に目が覚め、2時間、わき目を振らずにPCに向かった。同室のNさんがあとで『あんなに真剣な顔をこの2週間、見たことがなかった』と言ってくれた。2週間、何も書かない生活は活力を与えたようだ。

ザッハの火事と大渋滞

本日はA教授の買い物をメインに、再びザッハを訪れる。ところが、車で近くまで行くと、なんと火事が発生していた。当然前の道路は通行止め、仕方なく向かいに新しく出来たザッハへ行く。しかしこちらは店が殆ど開いていない。どうやら古いザッハで成功した人々が新しいザッハの権利を買ったらしく、未だに古い方に店のある人は、そちらの荷物の持ち出しなどで精一杯、新ザッハの店など構っていられないようだ。

 

遠くから見ると、建物の一部が焼け落ちていた。もし我々が行っている時に火事が起こればパニックだっただろう。消防車が駆けつけていたが、防火水の設備がないのか、なかなか放水は始まらない。車は益々近づけない。

 

いつまで経っても埒があきそうにもなく、テンゲルへ向かう。ところが少し行った所で大渋滞に嵌り込んだ。我が運転手は最初から『この道を行ったらマズイ』と言っていたが、東京が長いUさんはその忠告を聞かずに突っ込んでしまう。そこから延々、ダラダラ状態となった。

 

普段でさえ、渋滞がひどい道に、今日は火事が重なっている。全く身動きが取れない。歩いたほうが余程早い。UBの交通事情は車の増加に道路が追い付かない。おまけに冬は工事が出来ないため、夏に一斉に道路工事に入る。観光業としてはかき入れ時だが、車は動かない。今や一大ストレスになっている。僅か10㎞以内の道を2時間以上かかって進んだ。

 

テンゲルはダルハンで行った食肉加工会社の社長とその兄弟が90年代に始めた大規模スーパー。まあウオルマートのようなもの。倉庫のような店舗に大量の商品を積み上げ、纏め売りしている。その手法がモンゴルでは画期的で珍しく、この店は誰でも知っている。今日行ってみると、お客は午前中のせいか殆どおらず、閑散としていた。これも時代の流れだろうか。

 

お茶コーナーに行くと、韓国製緑茶などが目立つ。安いのだろう。レンガ茶もあるが、どこの製品であるか表示がないらしい。モンゴル語で書かれており、分からないが、写真がチベットのポタラ宮であり、どうやら中国製。中国製は嫌われるため、敢えて表示をしなかったのだろう。Uさんによれば、『紅茶はグルジア産』ということで探したが、見付からなかった。モンゴルとグルジア、あまりにも離れた国で何故お茶の交易があるのか、それはソ連時代の歴史と深い関係がある。今後の研究課題としたい。

カンダン寺

お昼はロシア料理の店へ。立派なロシア正教会の横にあり、本格的なロシア料理が食べられる。ボルシチは濃厚で美味しかった。モンゴルとロシア、この繋がりは当然に深い。店内には葬儀の帰りか、僧侶を囲んで食事をしている一団がいた。こんな風景も珍しい。

 

午後は特に行く所もなく、名所カンダン寺を訪れた。4年前、私はなぜかこの寺だけ入っていなかった。そこそこの渋滞を潜り抜け、車は西へ向かう。正面は車が停めにくい、とのことで脇の門から入る。広い敷地にハトが沢山いる。結婚式の写真を撮るカップルもいる。

 

本殿は立派な高い建物、ここがモンゴルにおけるチベット仏教の聖地。だが何となくおしゃれになっている。前の広場を歩いて行くと、古い建物に出会う。あー、ここはこれまで私が訪れたチベット仏教寺院の匂いがする。モンゴルは社会主義時代、宗教を弾圧した。相当に悲惨な状況であったらしい。体制崩壊後、徐々に昔の仏教を取り戻そうとしているのだが、近代化の波とぶつかり、そう簡単には進んでいないように思う。

 

最後の晩餐

その夜、モンゴル最後の晩。お世話になった商工会議所の副会頭を招いて、食事となった。場所はお洒落なイタリアンレストラン。欧米人も多く、味もまあまあ良い。1皿の料理の量が非常に多かった。それでもアメリカ人の老人がステーキをペロッと平らげるのを見て、我々とは違う、と思ってしまう。まあ、モンゴル料理が口に合わず難儀しており、ようやく美味しい物が出てきたのでパクついたのかもしれない。

 

モンゴルの商工会も岐路に立っている。会員数は増加したがモンゴル経済も厳しい状況となり、これからどのように発展していけるのか、難しい局面となっていた。中国以外の海外との貿易も重要な業務となってくる。だが例えば日本へ乳製品を輸出しようとしても、日本側の要求が高すぎる。それは品質などの問題だけではなく、検査費用が高すぎて採算に合わないなど、日本の国内保護とも取れる政策にも原因がある。

 

モンゴルと日本、ある意味で非常に友好的な国であるのだから、相撲ばかりではなく、もっと多方面の交流を深め、両国にとってメリットのある政策を打ち出した方が良いと思うのだが。どうやら政治はそうは行っておらず、経済的な結びつきも強化できないでいる。

8月24日(土)
さようならモンゴル

本日はモンゴル滞在最終日。N教授とUさんは朝早い仁川経由の飛行機で東京へ戻って行った。私とA教授は昼の便で北京へ行き、そこからA教授は乗り継いで東京へ戻る。Nさんは知り合いもおり、もう1日、UBに滞在する。

もう慣れてしまった朝食を食べる。トーストを焼き、卵を取り、そしてキムチ。今日もそれほどお客はない。モンゴルのかき入れ時である夏に、これしか客がいない、このホテル大丈夫だろうか。既に愛着が湧いている。

今日も快晴のUB。9時過ぎにホテルをチェックアウトし、2週間を共にした運転手君の運転で空港へ向かう。もっと長い時間、居たような気がする。こちらは別れを惜しんでいるが、彼の方は別に仕事があるのだろう、我々を降ろすとあっさりと去っていく。まあ、そんなものか。

空港内は異常に混んでいた。チェックインカウンターは長蛇の列。団体さんが多い。処理能力にも問題があるのだろう。荷物検査は意外とあっさりしており、買い物に行く。モンゴルのお土産と言ってもなかなか難しい。これから北京とソウルへ行くので、モンゴルウオッカを買ってみる。北京で渡す1本と、ソウルまで持ち込む2本に分ける。そうしないと免税にならないらしい。ウオッカの名前はブラックチンギス。如何にもモンゴルらしい。

 

 

 

4年前は北京まで帰るのに31時間遅れたフライトだったが、今日は定刻に飛び立ち、定刻前に北京空港に到着した。これは季節要因が大きいのだが、何だかモンゴルがかなり進歩した象徴のように思えてしまう。これから作られるUB第2空港は日本企業が受注している。どんなものが出来るのか、また見に来たいものだ。

 




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