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モンゴル草原を行く2013(3)セレンゲ 幻の茶城

8月13日(火)

3.     セレンゲ

セレンゲヘ

今日はいよいよモンゴル草原を行く。2台のランドクルーザーに分かれ、北を目指した。ウランバートル市内を抜けると、後はずーっと草原。道は一本道で舗装道路、快適だ。天気も良い。恐らくはモンゴルで一番良い季節なのだろう。ただゲルや羊の姿はなく、もっと遠くへ行っているように思えた。

 

途中にガソリンスタンドがあり、給油。簡単な店があり入ってみると、缶コーヒーなどが売られていた。これは台湾製。モンゴル人もコーヒーを飲むんだな。車を所有している層は当然海外慣れしている。因みにガソリン代は日本並み。

 

鉄道の線路に出くわす。列車が来るので足止め。列車が来るまで相当の時間がかかり、周囲を探索。この辺りは草原と言っても、家があり、区画が割られている。聞けばモンゴルでは全国民が700㎡ずつの土地を貰う権利があり、誰も使っていな土地は自由に使い、届をすれば自分の物となるようだ。自分の土地には柵などをして、使用していることをはっきりさせるらしい。最近はUB付近の土地は確保できないようだが、田舎は便利なところを選んで貰うという。

 

列車は基本的に貨物。それも延々と続く。石炭や石油を運んでいるようだ。これがモンゴル経済を支えているのかもしれない。勿論トラックも走っていたが、その数を見れば、鉄道輸送の重要性が分かる。

 

4時間ほど走ってセレンゲ県に入る。ここは草原ではなく、小麦や野菜の畑が見えてきた。農業県セレンゲ、UBの市場で見た野菜などもここから運ばれてくるらしい。内モンゴルの草原出身のNさんは『ここの小麦は悪くない』などと、自らの故郷を懐かしんでいるようだ。作物や草花を見て、一瞬で名前を言い、種類を見分ける、草原で生きてきた証を見るようだ。

 

合計5時間ほどで、セレンゲ県の中心都市、セレンゲに到着。ここはもうロシアとの国境の街だ。当然北に進んだので涼しくなると思っていたが、何とどんどん暖かくなる。実はUBは標高が高く、我々はどんどん坂を下っていたらし。『北へ行く=寒くなる』という固定概念ではアジアは語れないと痛感した。UBの市場でわざわざ購入した上着の出番はとうとうなかった。

県庁訪問

セレンゲは静かな田舎町だった。だが、ホテルは結構立派で驚く。最近できたようだが、それだけ需要があるということだろう。ネットもちゃんと繋がるし、何よりきれいだった。ホテルから歩いてすぐの所に県庁があり、訪問した。セレンゲの現状について聞いたが、『農業県』ということだった。またロシアとの国境貿易も盛んのようで、この県はかなり豊かな感じがした。

 

お昼はホテルに戻り、県庁の人々やセレンゲ商工会のA会頭も参加して会食した。このホテル、食事もしっかりしており、益々よい。餃子の皮のようなものが入ったスープが特に美味しい。昼からしっかり儀式としてビールを飲み、歓迎された。先方のトップが女性だったのでこの程度で済んだのかもしれない。

 

部屋に戻り休息。今回は全てNさんと同室だが、彼は早々探検に出るという。やはり私などよりは10歳以上若い。モンゴル族と言っても外モンゴル、特にロシア国境には初めてやってきた。興味津々のようだ。こちらは車で疲れたので、ベットに横になるとすぐに寝てしまう。環境が良いせいか。ここは空気もいい。UBの喧騒もない。

 

草原のBBQ 

午後5時に車に乗り、草原へ出発。牛や羊がゆったりと歩く草原を見ると心が休まる。車で30分ほど行くと、突然丘の斜面を登る。そこにはゲルが。そして濛々とした煙が上がっていた。A会頭より『今日は旅行会社の社長のインタビュー』と聞いていたが、何と草原のゲルで行われるという趣向だった。というか、このゲル自体が観光用で、BBQを食べるというプランだったのだ。

 

一人の女性が近づいてきて『ビール、飲みましょう』と何と日本語を話した。聞けば3年前まで千葉県の工場で働いていたという。そして『この3年間で初めて日本人と会った。日本語が話せて嬉しい』とも言う。彼女は思い出すように日本語を使っていたが、すぐに流暢になった。

 

このゲルツアーは今年から始まった。ロシア国境から7㎞、外国人の観光客に期待している。日本人はほんの数組が泊まった。このような民間による新たな試みがモンゴルに芽生えている。

 

BBQは美味かった。だが羊ではなく豚肉。モンゴルの地方に行ったら毎日羊だと脅かせれてきたので拍子抜けした。青空の下で食べるBBQ、ビールや馬乳酒を酌み交わし、気分も爽快となる。そうなると歌が出る。N教授も特にロシア民謡を披露。先方は日本語の話せる女性とその旦那が日本語の歌を歌う。そして踊る。最後にはモンゴル相撲まで披露された。これは決してショーではなく、素朴なもてなし。それがとても良い。

 

この近所には周囲を一望できる丘もあり、景色もよい。丘に登れば、河が見え、遥か国境付近まで見渡せる。思えば遠くへ来たもんだ、と思う。こんな観光、したくてもなかなかできるものではない。

 

8月14日(水)

幻の茶城発見

朝ごはんはビュッフェスタイルではなく、オーダー。オムレツとパン、野菜が少ししかないのがモンゴル風。テーブルにキッコーマンの醤油が置かれている。羊肉にかけて食べる人がいるようだ。これは意外に美味いだろう。さすがキッコーマン、モンゴルの果てまで営業していると思ったが、これはシンガポール製。恐らくはモンゴル人の誰かが日本人と関係なく輸入したのだろう。うーん、モンゴル市場は確かに小さいが、親日的でファンは多いと思うのだが。

セレンゲ県の税関を訪ねた。役所のビルの目の前に鉄道の線路があり、ロシアと繋がっている。モンゴルにとってロシアがどんな存在であったのか、よく分かる。ただセレンゲの貿易に占める地位は低下してきているらしい。ロシアではなく中国の影響があまりにも大きくなりすぎた。

そして車で国境に向かった。呆気ないほど簡単に到着。車が列をなしており、国境を越えてロシアに向かうことが分かる。イミグレの人に話を聞くと、『毎日数百台が通る。日帰りも多い』と。気軽な国境だった。

ちょうど自転車に乗った人たちがやってきた。聞けばフランス人の50代の夫婦。何とフランスから自転車でやってきて、モンゴルを回り、これからフランスへ帰るところだという。既に1年半の旅をしている。半端じゃない。驚きだ。

そして何より驚いたのは、国境の柵の向こうに見えた白い建物。何気なく聞いてみると、何と百年以上前の茶城だった。ここはモンゴルではヒャクトという地名だが、ロシア語はキャプタ。1727年に清とロシアで結ばれた、あの歴史の教科書にも出て来るキャプタ条約の場所だったのだ。Nさんが言う。『今朝、「茶葉の道」という本を読んでいたでしょう。あそこに出ていた茶城ですよ』と。意図せず持ってきた本の写真が目の前に。歴史が厳然と存在している。全く驚きだ。

茶葉は中国からここを経由してロシアに運ばれ、拡散し、人々は茶を飲むようになり、やがては生活必需品となった。この地は清国の商人とロシアの官僚がパーティーをしていたところでもある。是非とも国境を越えて茶城跡を見学したかったが、『ビザを持っていないなら行けませんよ。こっちは出てもいいが、ロシア側で罰金とられますね』というイミグレの一言で現実に帰った。

これは茶縁なのだろうか。きっとそうなのだろう。旅には意外性が付き物だが、今回の意外性はスケールが大きかった。

何もない自由貿易区

実は今日国境を訪問したのは、単なる旅ではなかった。今回の調査の目玉の一つ、モンゴル-ロシア国境における自由貿易区の発展状況を視察することにあったのだが、現場に案内されて驚いた。10年前から計画されているこの貿易区、殆ど何もなかった。プレハブの事務所に計画のパネルなどがあったが、何ともむなしい。

 

なぜこのような状態なのか。このプロジェクトを担当していたのは20代の若者2人。『毎年予算は付くが、お金が届いたためしがない。当初基礎工事で地中のパイプなど水工事は行ったが、そこまでだ』と本人たちも残念そうだ。

 

外に出ると、骨組みだけ出来た倉庫が一つ、ポツンと建っていた。これは今の貿易区を象徴していた。多少の従業員がいるとのことだったが、昼休みで誰もいない。何とも寂しい。ここは産物のないモンゴルが、世界各国から物資を集め、貿易を進めるはずの場所だったが、計画倒れ。モンゴルの現状がよくわかるプロジェクトとなっている。

 

因みに貿易区には柵が設けられている。これはロシアとの国境を示すもの。『ロシアはどんどんモンゴルの土地に侵入してきている。何も対抗しないと、奴らは更に進んでくる』、昔は気が付くと、ロシアの柵が前進してきたそうだ。確かに広大な草原、全てを守ることは人口の少ないモンゴルにはできない。またロシアは入植と言う形で、ロシア人をどんどんこの地に放り込み、彼らが国境を動かしていることもあるようだ。島国日本から来たものには、全く想像もできないような、領土争いがそこにある。

 

またモンゴルには精霊信仰がある。この大地にも祭られている場所があった。一見無造作に置かれている石、布で周囲を囲われている。そして驚くべきことに、捧げられているのはお茶の葉。日本ではレンガ茶と呼ばれるブロック状の磚茶。これはモンゴルの人々が日常飲むミルクティの原料だ。中国茶は仏教との兼ね合いが強いが、ここでは精霊。

 

ローカルランチ ロシアから卵

昼ごはんはかなりローカルな店に入った。まんとうと羊スープ、これは私が望んだものだったので満足。この辺に店はあまりなく、国境を越えてロシアから来たトラックなどが引っ切り無しに前を通り、または停車していく。レストランの隣はちょっとした何でも屋。トラックの運転手が下りてきて、水などを買っている。

 

運転手に何を運んでいるのか聞いてみると『卵』との答え。材木などを積んだ車もあるが、食品を運んでいる車も当然ある。卵はモンゴルでも何とか生み出せないのだろうか。ロシアでも条件は変わらない筈だから。大量生産した方が安い、と言う資本主義の原理だろうか。こうした輸入形態がモンゴルの伝統だとよくわかる。

モンゴル草原を行く2013(2)中国野菜を拒否する

8月11日(日)

ザッハで モンゴル産野菜

翌朝朝ごはんを食べに1階のレストランへ行くと、欧米人と韓国人のお客がいた。このホテルには誰も泊まっていないのかと思うほど静かだったので、意外な感じがした。やはりモンゴル、野菜は少ない。なぜか海苔とキムチはある。韓国人が多いのだろうか。昨晩長野から到着したOさんも加わって食べた。

 

今日は外出。これからの旅の準備をする。先ずは両替所へ。空港と比べて多少レートが良い程度。ただ人民元のレートが非常に良く見えたので、両替した。今や人民元はメジャー通貨扱いだ。

 

それからザッハと呼ばれる市場へ向かう。ここは庶民が買い物をする巨大市場。私はここで厚手の上着を購入した。それはこれからロシア国境まで北へ向かうとかなり寒いだろうという予想があったからだ。ここの服は殆どが中国から持ち込まれたもの。勿論輸送代の分だけ中国より高い。

 

服だけではなく、雑貨もあれば、化粧品もある。食べ物は専用の建物に入っていた。野菜を売っている場所に異変が起こっていた。我々はモンゴル文字が読めないが、多くのモンゴル産野菜が並んでいたのだ。4年前は基本的に中国産が並んでいたが、その後『中国食品の安全性』にスポットが当たり、拒否する人が増えたという。

 

芋でもキャベツでも、モンゴル産が好まれる。これは食の安全性もあるが、モンゴル人の中国に対する嫌悪感を表している。歴史的に複雑な隣国とはそのようなものだが、かなり中国からの投資圧力があるのだろう。

 

そして昼食へ。以前も行ったきれいなレストラン、外国人が多かったが、今では地元の人で込み合っていた。出てきた羊肉は美味かった。内臓系のスープも抜群。やっとモンゴルに来た、と言う実感が湧いてきた。

 

このレストランで頼んだのが『Sencha』。キレイなパッケージであり、中は使いやすいティパックになっていた。裏を見るとドイツ製となっている。何故ドイツ製のティパックがモンゴルに?この謎は後々解けていく。味はまあまあ。でもこれ煎茶なの?

 

午後はスフバートル広場へ行く。観光は夏がかき入れ時、と言われてが、この街の真ん中の名物広場に人はあまりいない。天安門広場なら人で埋まっているだろうに。モンゴルは本当に不思議な国だ。

スーパーで

夕方、高級スーパーへ。ここも以前来たことがあるが、かなりきれいになっていた。この4年間の変化、特に消費の伸びは十分に感じられるほど、モノの値段も上がっているし、地元モンゴル人の買い物客が増えている。我々は今晩、ホテルの部屋で宴会?を開くための食べ物を買い出した。


 

海苔巻、キムチなど韓国製が食べやすそうだ。ビールなどは世界各国の物が揃っていたが、中には地ビールもあり、牛乳のボトルに入っていた。面白かったことは割り箸がなかなか見つからなかったこと。モンゴルでは基本的にフォークやスプーンで食べるヨーロッパ風。ようやく見つけた箸もやはり韓国製。

 

カップヌードルも買ってみた。よく考えてみれば箸もなく、どうやって食べるのだろうか。この間インドでも同じ問題があった。解決方法は麺を短く切り、スプーンで掬って食べること。カップ麺も日本製は少なく、韓国製が圧倒していた。

 

外国産が圧倒しているこのスーパーで、日本が目立っていたのは何と日本茶コーナーがあったこと。それも棚3段。そしてティパックや『日本煎茶』『静岡茶』といった一般的なお茶だけではなく、知覧茶、屋久島茶なども並んでいたことには正直驚いた。一体誰が輸入し、誰が買うのだろう。日本人でないことだけは確かだ。モンゴルの日本びいき、日本のゆかりのある人が増えている証拠だろう。また日本側の事情としても、海外輸出を進めたいということの表れだろう。その夜はホテルの部屋でパーティー。東京からA先生及び内モンゴルからNさんも到着し、今回のメンバーが揃った。

 

8月12日(月)

ウランバートルはお金持ちが多い

翌朝はUさんが所属するモンゴル商工会議所を訪問した。我々の調査団はこちらの会員企業などをアレンジしてもらい、企業訪問、インタビューを実施、調査を遂行する予定である。その為の表敬訪問。会頭Dさんはかなりのやり手。先日国会議員にも当選したという。商工会も彼の牽引で地位が向上しているらしい。関係部署を回り午前中が終了。

お昼はスフバートル広場横のモダンなビルへ。このビルはルイビトンなどもテナントとして入り、モンゴルでは最も先端的なオフィスビルと言える。その中にあるレストランはカフェ風。香港にいるのと同じ気分になる。クラブサンドイッチも美味しい。お客はお洒落な30代が多い。

因みにこのカフェと同じフロアーには鉄板焼き屋とラーメン屋が入っていた。モンゴルも日本食ブームなのだろうか。残念ながら入って食べる機会はなかったが、料金はモンゴルとしては結構高い。

昨晩からホテルの部屋が同室になった、内モンゴル人のNさん。彼の帰りのフライトチケットを買いに航空会社オフィスへ。そこはかなり昔の中国のオフィスも思わせるスピード感。チケット1枚買うのに30分以上かかる。

そして今度はNさんと一緒に携帯ショップへ。モンゴルのSIMカードを買うためだった。ランチをしたビルにあるというので行ってみたが、そこはVIP専用。さすがビルが良ければ客も選ぶ。何とか一般向けのオフィスを探し当て、無事カードを購入。僅か数百円で通話とショートメッセージが出来る。よしよし。このショップ、結構スマホなども売っている。

話しによるとウランバートルの車の修理工はベトナム人が多いという。何故だか知りたかったが、行く機会を逸してしまった。メイドはフィリピン人から来るとか。モンゴル人もメイドを雇える層は英語ができるということだろう。人口の少ないモンゴルだが、意外とお金持ちが多いことが分かる。



モンゴル草原を行く2013(1)夏のウランバートルへ

《モンゴル草原を行く》 2013年8月10日-24日

 

モンゴルへ行ったのは2009年3月。あの時の印象は強烈だった。N先生調査団に同行したのだが、私には時間がなくウランバートルしか行かなかった。そして実に寒かった。

 

モンゴル草原はどうなっているのか、ゲルでの生活は?いつかは見てみたいと思っていたら、またN先生が調査団を出すという。今回は2週間、全日程に参加した。ウランバートルの変化、そしてウランバートルだけでは全くわからないモンゴルが見えてきた。

 

8月10日(土)

1.ウランバートルまで

北京経由で

バンコックの空港に夜向かった。午前1時発の飛行機に乗るのに、9時半に空港に着いてしまう。早過ぎた。チェックインは10時からしか始まらない。同じ便に乗ると思われる中国人が大勢待っていた。今夏休み、満員だ。

 

バンコックを深夜に発ち、北京を経由した。中国人乗客はタイで遊び疲れたのか、殆どが眠り込んでおり、異常に静かだった。4時間半で北京に着く。朝の北京は爽やかだった。空気が汚いと言われていたが、感じられない。ここで国際線乗り継ぎのイミグレを通るのだが、いつも1つしかゲートが開いていないので、長い列ができる。この辺のサービスはもう少し充実してほしい。何しろトランジットでも金を取っているのだから。

 

そしてウランバートルへ。欧米人の子供たちがサマーキャンプに行くらしい。大勢乗り込んでいた。非常に順調な飛行で定刻には着陸した。4年前に聞いた話では、このチンギスハーン空港は世界でも有数の『離発着が難しい空港』だそうで、私はえらい目に合ったのだが、素人にはどこが難しいのか全く分からない。一見何もない場所にしか見えない。風の関係が大きいようだ。

迎えが来ない空港

イミグレも実にスムーズ。だが預けた荷物が出て来ると、何とスーツケースが凹んでいた。え、と思い、職員に伝えると、マッチョな彼は『ケース開けて』と言い、内側から思いっきり叩き、一発で元に戻した。さすがモンゴル。

 

出口には沢山の出迎えが待っていたが、私の名前はなかった。周囲を確認したが、迎えの人はいなかった。そうなると突然途方に暮れる。ホテルの名前は聞いているが、電話番号すらなかった。勿論迎えの人に番号もなく、頼みの綱のN先生とモンゴル人Uさんも今こちらに向かっているので、連絡は取れない。

 

タクシーの運転手が近づいてきた。日本語ができる。空港のインフォメーションに相談したが、どうにもならない。仕方なく彼のタクシーに乗ろうとしたが、モンゴルのトゥグルグをもっていなかった。運転手が両替は2階だ、と連れて行ってくれた。案外いい人かもしれない。両替したが、公式の両替所なのに、レシートすら出さない。どうなっているんだ。

 

そして1階に下り、タクシーに乗ろうと進むと、何と私の名前が書かれた紙を持った男性が立っていた。彼は突然『探しましたよ』と流ちょうな日本語で言う。旅行会社のガイドか。車に乗ると彼自身が運転している。聞いてみると運転手兼ガイドだと答えるが、一人三役の活躍だ。

 

何とその彼は日本に5年間住んでいた。しかも通っていたのは防衛大。え、日本人以外でも防衛大に入れるの?『防衛大には中国以外のアジア各国から勉強に来ている』というではないか。日本人が知らない、意外ない事実に唖然。

 

空港からの道路は専用道路になっており、4年前とは違う。空も抜けるような青空。気持ちの良い空気。だが、市内に入るとことから渋滞が起こり、新しいマンションが見えてくる。『ウランバートルは急激に発展して、インフラが付いて行かない』のだそうだ。モンゴルの変化が既にっ随所に表れている。楽しみだ。

2.     ウランバートル1

誰もいないホテル

宿泊するホテルに到着。何だかやけに立派に見える。中に入ると人気はない。部屋はとても広かった。キッチンもあり、冷蔵庫もある。ここは長期滞在者用アパートらしい。インターネットも簡単に繋がり、何だか拍子抜けするほど、快適。

 

ただこの辺にはレストランがない。外へ出ると、観覧車が見える。遊園地があるようだが、動いてはいない。その付近はマンション建設ラッシュ。どんどん建物が建っていく。ウランバートルの勢いが分かる。

 

近所にスーパーがあるというので出かけてみる。4年前に比べて、品揃えが豊富に見える。モンゴルは基本的に輸入品が多いが、韓国製が目立つ。お茶も韓国製緑茶が売られている。ここでバナナと水を買い、ホテルに戻って食べた。

 

午後は何をしようかと思っていたが、何だかとても疲れてきた。昨晩の夜行便の疲れか、または最近の過密日程の旅の疲れか、いずれにしてもこれからの長いモンゴルの旅を考えるとここは休むのが一番と判断。ベッドに潜り込むとあっという間に寝入る。このような休息が私には必要だ。しかも部屋の環境が良いとよく眠れることも分かっていた。

 

夕方目覚める。そろそろN先生が到着しているはずだと電話してみるとちょうどチェックインしていた。N先生とモンゴル人のアレンジャーUさんは東京からソウル経由でやってきた。とにかくモンゴルは夏が旅行のかき入れ時。便数も多いが、料金も非常に高い。

 

夜はN先生と2人で食事をした。面倒なのでホテルのレストランへ行ってみたが、お客がいないばかりか、従業員の姿さえなかった。ようやく探してきて注文する。ビールを持ってきてと言ってもなかなか出て来ない。このホテルはどんなレベルのホテルなのだろうか。きっといい料金を取っているはずなのだが、この辺がモンゴルの課題なのだろう。




ウランバートル探訪記2009(6)

(21)民族音楽オーケストラ 
外へ出るとガンゾリは、『さあ行こう、遅れちゃう』と言う。まだ時間は6時間半も残っているに何が遅れるのか??彼の車もランドクルーザー。快適に飛ばす。直ぐに見慣れた場所に到着。何とさっきのアイリッシュパブだ。と思うとその横のソ連風の建物のゲートを潜る。ここは何だ。劇場のようだが。

国立民族劇場、らしい。裏に車を止めて、裏から中へ入る。守衛のおじさんがいるが、気にしない。構わず中へ踏み込む。何でだ??建物は荘厳で、恐らく50年代に建てられたのではないか?社会主義のにおいがする。

階段を迷路のように何回から上がり下がりした。何処へ行くのか?漸く到着した場所は室内から音楽が聞こえていた。しかし我々は外の椅子に腰掛けて待つ。何を待つのか??音楽が止み、中からジーンズを履いた青年が出てきて、ガンゾリと握手。と思うと彼の先導で室内へ。入ってビックリ。何と民族楽器のオーケストラがそこにいた。良く分からないが頭を下げてその後ろへ回り腰を下ろす。すると指揮者が指揮棒を振り、何と演奏が始まったのである。

馬頭琴という頭に馬の飾りのある楽器は眼にしたことがあるが、そこには琴のような楽器、二胡のような楽器、あの青年は慌てて横笛に食らい付く。16種類からなる民族楽器を集めてオーケストラにしているのだそうだ。その音色は郷愁をそそる。懐かしい音楽だったり、ちょっとモダンな印象だったり。私は今、その練習風景を突然見ているのである。

30分ほどで休憩。皆外へ出てトイレやタバコ休憩だ。私もトイレに行ったが、電気はつかなかった。指揮者はじめ皆に紹介され、言葉は分からないが、握手を交わす。青年は何と片言の日本語を話した。団員も皆片言以上の英語は出来るようだった。

青年の説明によれば、このオーケストラはモンゴルのトップオーケストラで、年に数回海外公演をこなしている。青年も何度も日本で演奏したことがあるそうだ。このオケに入れるのは、国立音楽大学を出て、認められたものだけ。見た感じ若い人が多い。エリート集団のようだ。こんな中にぽつんといる自分は何だ??何だか夢を見ている気がする。本当に貴重な経験が積まれていく。

オーケストラと分かれて、また建物の中をぐるり。今度は舞踊団の練習を見た。こちらは上から見学できる場所があり、近づかなかったが、いかにもロシアのバレエと言う感じのものとモンゴルの民族舞踊と言うものが組み合わされていた。

音楽もバレエも現在は国が保護している。彼らは国家公務員であるが、その収入は限られている。そんな中で必死に修練を積んでいる人々を見て、プロの厳しさを感じた。

外へ出て、ガンゾリが聞く。何処へ行きたいかと。もう沢山見せて貰ったと言いたいが、まだ時間がたっぷり残っていた。さて、どうする?仕方なく『ゲルの中に入ったことが無い』というと、連れて行ってくれた。そこも午前中街歩きで通った場所であったが、生憎冬で閉まっていた。観光客用のゲルは当然冬眠である。しかしガンゾリの底力がここから発揮される。私も彼の力を認め、無理を言い始めている。

何と彼は再度アイリッシュパブに戻る。そして何と何と中へ入る。しかも初日に鉱山会社社長と食事をした場所へ向かい、更に奥へ突き進む。当然店員が止めるが、彼が一言と言うと引っ込む。そして女性店員に親しげに話し掛け、何かを渡す。見ると彼らが写っている写真ではないか。写真と交換に?ゲル見学が実現する。

ここで初めて彼の職業が写真家であることが分かった。先日この店も撮影したらしい。そして一番奥に確かに小さなゲルがあった。中はレストランの個室として使われていた。特に目新しい物は無かったが、確かにゲルの中に入った。恐れ入る。

(22)画家のアトリエ 
既に色々な経験をした。次は何だろうと期待が沸く。ガンゾリはまた車を走らせる。今度はとあるアパートに到着、何だ??入り口から地下に降りる。半地下になった部屋がある。部屋に入るとヘッドホンをして軽快に動いている人間が見えた。部屋の中は馬の絵ばかり。大きなキャンバスがいくつも掛かっている。ここが画家のアトリエであることが分かる。

その画家、チャルダバール氏は30歳、若いが既に海外の展覧会にいくつも出品している。私の方を向いて『鳥取はいい所だった』と言う。何と鳥取の展覧会にも出品し、彼は相当の日本好きであった。

これまでの作品を見せてもらうが、なかなか人を惹きつける。今年は馬の絵に集中している。如何にもモンゴルらしい。このアトリエで毎日絵を書く生活。リラックス法は80年代のユーロビート(アバなど)を聞くことらしい。現代モンゴルを象徴している。ガンゾリによれば、チャルダバール氏は現在モンゴルの若手画家No.1であり、モンゴル若手画家協会の会長もしている。この才能は将来有望である。

更に部屋の中を眺めていると、とてもよい風景画があった。彼の父親の作品であった。この父さんも、有名な画家だそうだ。やはり血筋か。それにしても激動の現代モンゴルで、絵で食べていくのは大変なことだろう。この苦労は報われるはずである。

尚チャルダバール氏は非常に友好的な人で、常にニコニコしており、今後日本とモンゴルを繋いで行きたいと語っていた。こちらも北京に来ることがあれば連絡して欲しいと告げた。

何と北京戻って4日目、彼から電話があった。北京に来たという。彫刻家の友人と奥さんと3人で現れたが、よく考えてみれば言葉がいまひとつ通じない(UBではガンゾリの素晴らしい通訳があった)。奥さんは英語がある程度出来るので、それに頼った。一緒にすしを食いながら言葉が通じなくても愉快に過ごした。

彼とは今後もどこかで繋がる様な気がした。楽しみである。彼がアトリエで習作を何枚かくれると言った時、何故か北京まで持って帰るのが大変だと思い、断った。もったいないことをした。

(23)遺産文化センター 
時間は緩やかに過ぎていく。夕方になった。それでもまだ時間はある。どうするかと見ていると、ガンゾリはまた車に乗れという。直ぐ近くで降りる。そこはまたビックリ?

何と大通りの裏側の建物だったが、対面の建物は黒焦げだった。何とモンゴルで前年起こった暴動の爪あと。反政府活動の結果だという。表通りから見るとそうは見えないようにしており、その意外さにまた驚く。

ガンゾリが連れて行ってくれたのはその横にある遺産文化センター(彼は黒焦げの建物を見せるつもりはなかったと思う)。そこに知り合いがいた。責任者である彼は我々を歓迎してくれ、中を案内してくれた。

何と国立博物館に展示している書画、陶器などが痛んだ場合、ここで修復しているのだ。各部屋で実際の作業が行われていた。これは考古学を目指したこともある私には大感激。各種機械は日本製でODAによる供与が多い。こんな所に使用されているのか。

責任者と雑談すると、政権が交代したので、経済最優先となり、文化方面の予算が大幅にカットされている。このままでは修復などの計画はあまり進まない。日本企業から援助は貰えないだろうかと。他国の企業は時折個別援助を申し出てくるが、日系は殆どないらしい。確かこの国で個別に宣伝をしても、直接利益につながらないかも知れない。しかしモンゴルと日本の関係を考えると・・??結局政府援助の形になる。日本と言う国はお金があっても使い方を知らない、と言われそうだ。

センターに併設されて美術館がある。既に閉館していたが、好意で見学していくように言われ、誰もいない館内をゆっくり視察。現代モンゴルの絵画をじっくり拝見した。

(24)写真を撮る人 
さて、夕方。そろそろ食事でもしてと思ったが、ガンゾリがもう1軒行こうと言う。もうこうなれば彼の言うとおり行くしかない。次は一体なんだ??

大きなショッピングモールに来た。映画館もあるようだ。中に入る。何をするのだろう??片隅に写真館があった。写真家である彼の知り合いがやっているという。どうしてここに寄ったのか?と聞くと、他に何処に行けばよいか相談するためとのこと。当方は既に十分に案内してもらい満足していることを伝えたが、一応相談している。

ご主人はちょうどお客があり、写真を撮っている。見学してよいとのことで、近くで見る。6-7歳の男の子が被写体である。おじいさんと思われる男性が付き添い。一体何の写真を撮るのだろうか?お洒落をした子供の全体、アップなど何枚も撮影している。撮影が終了すると奥さんがPCに取り込み、おじいさんが真剣に注文を付けている。

てっきりアイドル応募写真でも撮っているかと思ったが、ガンゾリによれば、この子の母親は1年以上アメリカに働きに出ており、息子の写真を送って欲しいとの要望に応えるためだとか。

モンゴルには仕事が少ない。そのため多くの人が出稼ぎに行っている。アメリカが一番多いそうだ。そのアメリカも金融危機の影響で仕事が減っている。出稼ぎ外国人に対する風当たりは強い。簡単に帰国できない状況にある。せめて写真で息子に会いたいという気持ちには胸が痛んだ。

モンゴルと言う一見簡単そうな社会、実はかなり複雑である。それもこれも経済的に難しい環境のせいである。それにしてもこのショッピングモールには人が溢れている。経済的に厳しいのか、と思うほどである。

(25)日本食 
とうとう日が暮れた。ガンゾリと知り合ってから6時間近く経過した。全く予想外の展開であった。これは私が望んだ旅、いや望んだ以上の旅となった。彼には感謝の言葉も無い。

お礼に夕食をしようということになる。日本食でもっとも美味い場所はと聞くとケンピンスキーのサクラだという。何処でも日本食屋はサクラなんだなあ?このドイツ系のホテル、最近オープンしたらしく、UBで最高のホテルとのこと。

実際入ってみると豪華な感じはあったが、何しろ狭い。昔バンコックでケンピンに泊まった時、やはり同じことがあった。元々はマンションとして建てたものを事情でホテルにしたのだろうか?エレベーターが狭いから恐らくそうであろう。今後外資系ホテルの進出は計画されているが、実現するかどうか??

サクラは2階に有った。なかはそこそこ広い。とんかつ定食が13,000T、決して安くはないが量はかなりあった。日本から料理長が来ているとのことで、味も悪くない。お客もかなり入っていた。その中には多くに日本人が含まれていた。

先日会った建設会社の人もいた。何でも日本人駐在員の送別会だという。季節は3月、人事異動であろうか。それにしても世界的に景気が悪く、モンゴルの景気も悪い中、帰国していく人々の心中は如何なるものか?ホッとしているのか、無念であろうか?

ガンゾリが言う。『最初はどうしようかと思ったよ。しかしお前が「茶」と言うキーワードを出したので、文科系だと思ったんだ』なるほど、やはりこのエクストラの旅に茶は役に立っていた。

ガンゾリはモンゴルが社会主義を捨てた頃、写真に興味を持った。当時写真の技術を伝える本は日本語が多かったので、独学で日本語を始めた。当初は日本から草原などを撮影に来る写真家などを案内しながら、日本語と写真技術を上げた。10年前には大統領の訪日に同行し、天皇と皇居で対面した。

しかし政府は金払いが悪かった。同行は1回で止めた。本当に撮りたかったモンゴルの自然を撮り続けている。食べるためには色々なバイトはしているらしい。奥さんは大学の研究者とのことで、好対照のようだ。

モンゴルの行く末に関してはかなり懐疑的なようだ。官僚の不正、一部の人だけが金持ちになる社会、日本活躍する相撲取りが国会議員になる世の中、確かに難しい社会である。彼はその一端を短時間に見せてくれた。感謝せずにはいられない。

(26)別れ、そして 
夜8時過ぎホテルを出た。外は零下20度はありそうな凍て付き方である。車の駐車場所まで走っていく。車内は本当に凍て付いていた。暖房を入れても直ぐには回復しない。

ちょっと家に寄ろう、とガンゾリ。9時前に自宅へ行く。中心部の3LDKのアパート、かなり立派だ。奥さんが大学から戻り夕食の準備をしていた。私にはお茶を出してくれた。チョコレートを添えて。こちらではお茶と一緒にチョコやクッキーを出す。

お子さんは3人、外国学校に入れているという。教育は大切だが、地元の公立では十分な授業が受けられないと。政府の経費削減で教員の確保も難しいらしい。いい先生は私立に、そしてお金のある子も私立へ行く。

ガンゾリが1冊の写真集を手渡す。開いた瞬間、鳥肌が立った。素晴らしいモンゴルの自然、民族の風景がそこにあった。主に夏の草原が舞台。彼本人もそうした大自然の中で育ち、都会に出て来た一人である。こんなすごい写真を撮る人間が私の為に、私だけの為に半日付き合ってくれた。感謝の言葉も無い。しばらくは写真に見入る。

ふとわれに返る。フライトはどうなったんだろう。フライトインフォメーションなんてないので、空港に行くしかない。とうとう時間が来てしまった。当初は一体どうやって時間を潰そうか悩んでいたことが嘘のよう。今ではもう時間か、という雰囲気。

空港への道は暗かった。着た時は晴れた日の午後で周囲は美しかったが、今は漆黒の闇。信号も殆どなく、対向車も稀な道を黙々と進む。空港の明かりすら暗い。

到着するとガンゾリがフライトを確認する。11時出発で間違いないと分かると握手して早々に引き上げる。あっけない、何だか非常に残念な気分になる。しかし彼にとっては、やっと重荷から解放され、家族の元に帰るのであるから喜ばしいことである。

イミグレは特に問題なく通過。空港には北京に帰る中国人、ソウルに戻る韓国人、そして多数の外国人で込み合っていた。遅延したのは我々のフライトだけではなかった。韓国系も昼間は全て飛ばなかったのだ。

待合室を眺めていて、各国のビジネスマン、政府関係者が資源を求めてやってくる国、モンゴルと言う国の難しさを改めて実感。更には世界有数の難しい空港を見て、この国に上手くランディングできる企業は少ないのではと勝手なことを思った。

フライトは11時過ぎに無事出発、北京到着は夜中1時。自宅にたどり着いたのは2時頃だった。次回草原に行くことはあるのだろうか??

ウランバートル探訪記2009(5)

3月12日(木) 
(17)自然博物館と歴史博物館 
朝起きて食堂に行くと、S先生がN先生、Xさんと朝食を食べていた。まさに感動の再会である。会う人とは会うのである。S先生は金融界出身であるため、昨日までにUBで収集した金融情報を伝えた。

朝9時、ホテルの前では雪かきが行われていた。天気は快晴。一行は今度こそ辺境へ出発した。さすがにもう会うことは無かった。私はやることが無かったが、天気がよかったので、散歩に出た。昨日と同じ道を歩く。目的地は自然博物館。これまで2度入れなかった場所。

30分歩いて、到着。2500Tのチケットを購入して中へ。見学者は殆ど居ない。博物館の建物は年代物。旧ソ連式か。電気は点いておらず、暗い感じがいい。ここにはモンゴル何千年の自然界の資源が展示されていた。石英、クリスタルなどが目立っていた。

植物も豊富。今は砂漠のイメージがあるモンゴルだが、大昔は豊かな場所であったと思われる。恐竜の骨も出土しており、楽園であったかも。2階の特別室には7千万年前のディノザウルスの本物の骨も見事に修復されて、展示されていた。大きくて迫力がある。この部屋には監視員と研究員と思われる女性が居た。

研究員は白衣を着ており、英語も出来たので色々と質問。それによれば南ゴビは恐竜の宝庫で、自然も実に豊かな場所であり、その南は海。今の中国は無かった。勿論日本も無かった?

自然博物館の南側には民族博物館があった。ここは国立博物館と言う感じ。モンゴルの歴史が一通り見られる。これによると古代は草原に多くの石碑が残されており、当時は遊牧しながらも、史跡が作られた。突厥時代の物が多い。

チンギスハーン一族については4階のワンフロアーが割かれ、展示が行われていた。英雄テムジンの生涯は特にその前半生が殆ど解明されていないという。日本人俳優も出演した映画『テムジン』を先日テレビで見たが、その前半は相当過酷でいつ死んでもおかしくない。そう言えば日経新聞の朝刊に堺屋太一が『世界を創った男 チンギス・ハン』を連載していたな。

戦いに敗れて妻ボルテを奪われ、その後取り返したものの彼女のお腹には敵の子が居た。それでも自分の子として育てた。一族が戦いで崩壊し、奴隷として売られたりもしている。何処までが真実かは分からないが、なぞの多い人物である。義経がテムジンとなったとの伝説を作りたくなるほど、なぞが多く、また不明な人物である。

ところで我々が学校の歴史の授業で習ったモンゴルの歴史はチンギスが突然現れ、フビライの時に最大の版図となり、その後分裂して消滅したとの印象を受ける。ところが見方を変えれば、『モンゴルが世界史を覆す』(杉山正明著)に書かれているように、モンゴルが世界初の、そして最大の帝国であり、その影響はその後のヨーロッパ、中東、アジアで長く続いた、と考えるのが間違いとは思われない。

ティムール帝国などでも、象徴としての盟主はチンギス一族出身者として、実質支配者はその補佐と言う形を取った。これは如何にチンギスの影響力が強かったか、その名前なら皆が納まったかが分かる。清朝も正史ではモンゴルを滅ぼし、その傘下に収めたとあるが、実はホンタイジはチンギスの後継者から国を譲られたとも見られている。ヨーロッパでも自分たちが征服された民族であり、遅れた文明を持っていた、などとは言いたくない。我々はヨーロッパの文化、歴史が優れていたとの、錯覚がある。400年前、彼らは手で物を食べていた。当時日本には最高の茶の湯文化があった。中国にも優れた文化があった。単に歴史を誇る必要は無いが、過度に西洋を美化するのは明らかない間違いである。

(18)街中 

まだ時間はある。今日は快晴なので待ち歩きに挑戦。しかしこれが意外にも無謀だと思い知る。何しろ晴れているとはいえ、気温は零下10度以下。日陰を歩いていると手がかじかむ、いや凍傷になるような強い冷気を感じる。

どこか目的地を決めて早く駆け込もうと先日もらったモンゴリア ウォーカーズなる日本語コミュニティ誌を取り出す。この冊子、UBに住む日本人が編集しているとのことで、大変便利である。レストラン情報の他、経済状況などの解説もある。

サクラベーカリーという名前のレストランがある。ここは日本人のたまり場と誰かが言っていたのを思い出す。取り敢えず目指す。スフバートル広場から西に横道を進む。中央銀行を含めて銀行がいくつかあった。

その後南下し、大きな通りの地下道を通る。地下道には小さな店がいくつもあり、湯気が出ている店もあった。何だか昔のソウルの地下街を思い出す。更に南に行き、この辺だと当たりを付けて、ベーカリーを探したが見つからない。

サーカスと呼ばれる大きなテント?建物が見えた。今は冬で何も無いが、イベントをやるところらしい。何でも相撲の朝青龍が建てたのだとか?当然日本の相撲で活躍している数人はここでは大金持ちかもしれない。国会議員になった人間もいる。

更に西に進むと韓国焼き肉屋などが見えてくる。通りの名前もソウル通りに変わっていた。行き過ぎたことに気が付いて戻るが、かなり体力を消耗した。ようやくサクラベーカリーを見つけて喜んだのもつかの間、本日より数日休業との張り紙が日本語で出ていた。がっくり。

ホテルまで歩いて帰るには1時間近く掛かる。どうする?当ても無く東に歩く。タクシーが通るが、言葉は通じず、乗る勇気も出ない。しかしこのままでは凍死(大げさ)だ?

ふらふら歩いていると、前方に見慣れた建物が。あれは初日に行ったアイリッシュパブ。思わず入る。暖かい。珈琲でも飲もうと中に入るとケーキが目に入る。珈琲とケーキ、今欲しているものはこれだった。アップルパイはなかなかの味。周りは外国人ばかり。日本人がスパゲティを食べているのを見て、思わず?それも注文してしまう。

かなり体力を消耗した原因か。疲れはあるが食欲は旺盛。横の西洋人はヨーロッパのサッカーをESPNで見ている。ここはモンゴルだろうか?昔中国留学中にたまにこんな場面があった。異次元空間に入り込む?

店を出て、通りの横にいると目の前をタクシーが通り過ぎた。思わず手を挙げると停まる。乗り込んでホテルカードを出すと理解したようで進む。しかしこのタクシー一体いくらんなだろうか?本当にホテルに向かうのか?運転手のおじさんが何か言ったが分からない。車は何となくホテルと反対に動く。違う、違う、と手を振ると彼はまた何か言った。暫く行くと曲がり、川沿いの道に出る。そして段々ホテルに近づく。恐らくは一方通行か何かだったのだろう。

無事にホテルに着いたが、料金が分からない。確かガイドブックの説明に1km、500Tとあった気がした。4-5km走った感じなので2,500Tを渡すと黙って受け取った。高かったのか、どうかは分からない。ちょっと新鮮な体験であった。

(19)突然の出会いとディレー 
時刻は午後1時、部屋で荷物を整理して、メールもチェックして、いざ出発。フロントでチェックアウトしようとすると『お客さんが待っている』と告げられる。見るとソファーに男性が座っている。あー彼がUさん差し回しのタクシー運転手かと思い近づくと何と日本語で挨拶される。

フロントに戻りチェックアウトの精算を始めると、何と何と『あなたのフライトは4時から11時に変更になった』と淡々と告げるではないか?確かに昨日は雪が降っていた。しかし今日は快晴も快晴、非の打ち所が無い天候だ。それなのにCAは北京から飛んでこないのか??

ソファーの男性も不安そうにこちらを覗き込む。それはそうだろう。単に日本人を空港まで送るように頼まれただけなのに、どうすればよいというのか?男性が私に『どうしますか?』と聞く。一番聞かれたくない言葉だったが仕方が無い。こちらも『どこか行く所はありますか?』と聞き返す。

彼は『あなたは何処に行きたいのか?』とまた聞き返す。永遠にこの問答が繰り返される気がした。既に私は観光も買い物も、そして街歩きもした。他に何があるのだろうか?この7時間は私に何をもたらすのか??

仕方なく切り札を出す。私の旅のキーワード『茶』はあるかと聞く。私の理解ではモンゴルにはお茶は殆どないが、この時間を打開するには有効な手段かと期待する。ところが・・彼、名前はガンゾリ、は一言『無い』と答えた。また永遠に木霊する様な声で。

望みは絶たれた。部屋を半日借りて寝ていようかと考える。その時ガンゾリは突然自分の携帯を取り出し、何処かへ電話した。そして『取り敢えずチェックアウトしないか?』と告げる。私は反射的に従う。彼の声は絶対なのである。たとえ先に何も無いとしても。

(20)携帯アニメ 

ガンゾリが最初に連れて行ってくれた場所。それは何とホテルの真裏にある建物。先日水を買いに来た時、何で昼なのにカーテンが掛かっているのか、怪しい、と思った場所であった。一体何が??

中に入るとPCが20台ほど並んでいて、若者がPCに向かって何かやっている。PC教室か?と思ったが、どうやら違う。もう少し高度だ。管理者と言う若い女性がやってきて、見学が許される。

何とここは日本のアニメ原画に色づけをする作業現場であった。そう言えば、北京で日本のアニメ関係者に話を聞いたことがある。アニメは日本が世界に誇る文化だが、その製作現場は悲惨だ。給与は安く、労働条件は最低だと。日本でやっていた作業の内、外注できるものは韓国や中国に出していたが、とうとうモンゴルまで来てしまったのである。これでよいのだろうか?

作業を見るとPCで色を選び、日本から送られてきた原画に色を付けている。何と細かい作業であろうか。私などは1時間も続かないだろう。20代前半と思われるモンゴルの若者は黙々とこなしている。

管理者の女性は日本語が片言できたが、私に向かい『私は日本が嫌いだ』とはっきり言い切った。何故??その理由はこの原画が携帯サイトで見られるエッチサイトだったから。日本の印象は非常に悪いという。当然である。因みにその原画を見せてもらうことは出来なかったので、内容は分からない。

ウランバートル探訪記2009(4)

3月11日(水) 
(12)散歩
 
いよいよUB最終日を迎えた。今日はどうなるのだろうか??取り敢えず予定が決まらないということで、自由行動。散歩に出た。

先ずはホテルから見えたチンギスカーンホテルへ。昨日入ったスカイショップの横にある。ちょっと小高くなった所に立派な様子で建っている。中もなかなかきれいだ。しかし日本人はあまり泊まらないらしい?

その横にはソウルビジネスセンターと言う名前のオフィスビルがある。名前からして韓国系。UB、いやモンゴルでの韓国系の行動は実に積極的だ。しかしN先生によれば、以前に比べれば、そのプレゼンスはだいぶ落ちてきたようだ。勿論金融危機の影響が大きい。そう考えると、このビルの入居率はどうなのだろうか??

更に西に向かい歩く。河を渡るとインド大使館、中国大使館が並ぶ。いずれも重厚で立派。語学学校も立派だ。更にモンゴル日本センターという建物もあった。日本とモンゴルの関係を考えれば、当然あるべき建物。実際には何が行われているのだろうか?門は閉ざされており、中は分からない。

道端の広告も目を見張る。ほぼヌードの女性が表紙の雑誌広告が堂々と展開されている。同じ雑誌の広告には朝青龍も掲載されている。相撲とヌード、なるほど何となく近い??不動産の広告は字が読めないが、絵から察するに相当値下がりしているらしい。

神社の鳥居のようなものもあった。中国的な物が殆ど見つからないUBでは、珍しい。世界平和の鐘、などと言う鐘もあった。かなり使い込んだトロリーバスが横を通る。80年代の北京を思い出す光景だ。

(13)日本人OBの夢 
ようやく皆で出発。車が2台来ている。1台はこれからN先生、Xさん、Uさんを乗せて、更には空港でS先生を迎えて、辺境調査に向かう。もう1台は私が空港に行くまで使われ、その後は別の人が乗って辺境へ向かう。

先ずは企業訪問。最後の最後まで取材とはさすがN先生。訪問先は郵政省をリタイアした日本人K社長が立ち上げた宅配会社。合弁しか認められず、モンゴル人との共同経営。

K氏は郵政省時代、アジア各地の郵政事業を手伝った人物。退職後当時の仲間と第二の人生として、更にアジアに貢献しようと考えた。そして出てきたのが、モンゴル。だから儲けるつもりは無い。

モンゴルには宅配便はない。そのような概念も無い。許認可にも一苦労。更に金融危機が追い討ち。小包は郵便局に出しに行くし、取りに行く。自宅で渡すと無くなってしまうのではないか、と心配するそうだ。また行政指導も有り、価格がコントロールされており、割高の宅配に対する市内のニーズは少ない。

『モンゴル人に目線を揃える』がモットー。TVのCMを開始、引越しサービスも検討。色々とアイデアを出す。将来軌道に乗ることを期待したい。私は途中で失礼した。それは飛行機までの時間を自由に使うため。翌日ホテルでK氏と再会。彼は現在2週間程度ホテルに滞在し、行き来しているそうだ。『モンゴルには色々と問題があるが、きっとよくなる』と言う言葉が印象的。

(14)日本人墓地 
ガンバリさんという写真家のランドクルーザーが待っている。彼はアメリカ西海岸に8年いたとのことで、英語が達者。助かる。何処に行きたいか、と聞くので、迷わず日本人墓地と答える。

車は北に向けて走り出す。天気が悪くなってきた。何だ??市内から少し出た所で小雪がちらつき始める。えっ、何で。道の丘側にはゲルが大量に設営されている。何処から移動してきたのだろうか?最近は都市部に移動してくるゲルが増えているが、仕事にありつくのは難しいと聞く。レストランのウエートレスなどでも夜はゲルに帰っていく子もいるとか。

雪がどんどん強くなる。道に雪が積もり始める。30分ぐらい行った所で集落に入る。ここかなと思うと、お寺が見える。しかしそこで止まらずに、更に奥に。とうとう吹雪となる。一面の銀世界。建物もなくなる。

周りに何も無い草原、いや雪原に日本人墓地?はあった。建物は管理人のいる家のみ。右手には墓地と言うより慰霊碑が建っている。階段を上ると脇に地蔵が立っている。日本的である。真ん中に円形の広場があり、その上が碑になっている。

『1945-47年の間に祖国への帰還を望みながらこの大地で亡くなられた日本人の方々を偲び』とある。旧日本兵845柱の遺骨が葬られている。以前はダンバダルジャー墓地と言う日本人墓地であったが、近年厚労省の遺骨収集調査を経て、慰霊碑となった。

旧満州より連れ去られた日本兵は強制労働を強いられた。極寒の地で栄養も不足し、体力も奪われただろう。雪がどんどんひどくなる中、真っ白な草原を眺めて、非常に切なくなった。

車で10分ほどの所にダンバダルジャー寺があった。その道を雪が振り込む。黙々と歩く子供が数人。これから学校へ行くらしい。こんな雪の中大丈夫かと心配になるが、慣れているらしい。スタスタ歩いていく。

寺には壁があり、ウルジー(幸せの印)が描かれている。壁の向こうにはチベット風のパゴダも見える。丸い建物に入る。中は人で溢れている。人を掻き分け進む。占いをしている僧侶、真剣に見つめる信者。この国では大事なことは僧侶に占ってもらうという。

境内にはチベット風、中華風の寺院の建物が並存する。小山があり、頂上には塔が見える。気が付かなかったが、ここには日本人霊堂もあったようだ。遺骨はここに安置されていた。強制収用された人の他、ノモンハン事件の犠牲者、モンゴル独立の際に戦死した人も祭られているとのこと。近くには学校もあり、雪の中で子供たちが遊んでいた。何だか救われる光景だ。しかしUBの学校環境は決して恵まれていない。学校も足りないので2交代制。

市内に戻り、ランチを食べる。カリフォルニアレストラン『ゲート』。駐車した場所から、入り口まで行くのに、かなり滑る。雪は更に降り続く。ランチセットが珍しくある。ガンバリさんの写真の話などを聞いていると、突然携帯が鳴る。北京からで『今日のフライトはキャンセルされた。予約は明日の同じ時間に自動的に変更された。』と告げられる。

確かに雪は降っており、ちょっと強くはなっている。しかし日本ならこの程度でキャンセルにはならない。しかも丸1日、飛ばない。一体どうするのか??N先生に連絡を入れると、『S先生もソウルの空港で足止めされている』とのことで、作戦会議の為に、N先生のいる別のレストランに移動。一度はお別れしたN先生、Xさん、Uさんと劇的な??再会。お互い笑うしかない。取り敢えずこれから企業訪問が1件有るので同行することに。

(15)カシミア工場2

カシミアワールド、と言う名前の建物に到着。ショップと工場がある。この面談の仲介者と待ち合わせ、一緒に中へ。かなり複雑な迷路を通り、面談室に到着。Yという元経産相副大臣だという人物と面談。ドイツの大使館勤務も経験、国際派だ。この国の問題点はずばり『賄賂などの汚職』と言い切る。根はかなり深そうだ。

この工場も国有。92年の民営化後、かなりの紆余曲折を経て、最近軌道に乗ったという。但し金利も高く、まだ財務問題は解決していない。株主も個人を含めてかなりいるようで、複雑なこの国の国有企業の典型か。イギリスに直営店あり。カシミアのマフラーなどを売っている。日本へも進出したいが、バヤン社事件(丸紅が出資した案件で社長が逮捕され、裁判沙汰になった件)により、日本の商社などはモンゴルのカシミア業者を信用していない。

ショップも見学。昨日のゴビと比べると垢抜けていないが、質のよい物もあるようだ。Xさんはかなり高いカシミアセーターを気に入って購入していた。雪が止めば寒くなる、ということか。この店の前で2度目の別れをした。今度こそお別れである。彼らは辺境に向けて出発した。私は一人、寂しくホテルに戻り再度チャックインした。さて、どうするか?このエクストラディを過ごす方法を持ち合わせていない。

(16)再会 
仕方なく、インターネットに向かう。旅行記を書き始める。写真を整理する。時間は6時を過ぎ、暗くなってきた。夕飯はどうするか??考え付かない。食べなくてもいいか?最近食べ過ぎだし、などと考えていると、ドアをノックする音が。あれ、誰だ??

ドアを開けてビックリ。辺境へ向かったXさんが立っていた。雪が激しくなり、途中で道を引き返して来たと言う。翌日聞いた話では、雪道でスリップするなど車の事故が数件あった。もしあのまま行っていれば危なかった。Xさん曰く、『私がカシミアのセーターを買わなければ、早く出発していただろう。そうすれば引き返すことすら難しくなったはず。』。

夜はホテルの中華料理屋へ。モンゴルまで来て中華は無いだろうと思ったが、他に行く当ても無い。Xさんが張り切ってメニューを見る。ウエートレスは全く中国語を解さず、料理も懸念されたが、出て来た料理を食べてビックリ。

それは20年前、中国で食べた中華の味であった。妙に懐かしい。Xさんも懐かしそうに食べている。ウエートレスに『作っているのは誰か』と聞くと中国人だという。想像するに、昔中国国内で修行した人が、何らかの理由でUBに流れてきて、ここで料理を作っているのであろう。UBに来てはじめて中国に触れた感じがした。

それにしてもソウルに足止めされたS先生はどうなったのか?元々我々はすれ違いの日程であったから、会うはずが無かったのだが、何となく会いそうな雰囲気。依然としてフライトが出発するとの情報は無い。結局私は寝てしまったのだが、Uさんとガンバリさんは夜中3時にS先生を空港でピックアップ。4時にチェックインしたらしい。

ウランバートル探訪記2009(3)

3月10日(火) 
(7)広場 

昨夜は疲れていたのか、よく眠れた。今日も快晴。9時半出発。アポが上手く取れなかったと言うことで午前中は観光。私にとっては願ってもないこと。

先ずは司馬遼太郎が宿泊したウランバートルホテルへ。ホテルは市内中心部にあり、ホテルの前には今もレーニンの像がある。これは極めて珍しいのではないか。思わず写真を撮る。

司馬は73年、90年の2回UBを訪問している。このホテルの印象を『県庁所在地の一等郵便局に似ている』と言っている。言い得て妙である。ホテルは60年代に中国の援助で出来たとある。因みにUBの主な建物は1954年以降にロシア風にモンゴル人の好みを入れた世界でも独自の都市景観をなしている。その中で中国の援助とは。

ホテルの中に入ると重厚なロビーがある。司馬は郵便局風と描いているのでリノベーションされたのだろう。重々しい階段が正面にある。大理石だろうか。2階に上がると、レストランがある。雰囲気が良さそうだ。朝食はここだったろうか。3階にはカシミアショップもあった。

ホテルとしてはかなり古くなっており、旅行社も勧めないらしい。歴史的建造物としての役割があるのだろうか。日本大使館が73年に開設された時もここであった。

あのツェベクマさんが勤めていたのもこのホテルの渉外係りとしてであった。中国語とロシア語、日本語が堪能ということで採用された。と言っても『草原の記』によれば、中国の反右派闘争に巻き込まれて命からがら、娘を連れて逃げてきたと言う。無国籍となった彼女を受け入れたモンゴルの懐は深い。10年後には国籍も与えた。今の日本に聞かせてやりたい。

司馬の話に出てくる中央公園は今はないようだ。その隣にいきなりオペラ座が出現した。この建物は終戦後シベリア送りとなった日本人捕虜の一部がモンゴルに送られ、彼らによって建てられた。実に複雑な思いのするビルである。隣には高層ビルが建設中で、オペラ座の姿勢のよさが目立った。

Uさんによれば、隣のスフバートル広場にある政府宮殿も捕虜の手によるらしい。近づいてみるとかなり重厚で立派な建物である。真ん中にチンギスハーンの坐像があり、ちょうど清掃員がよじ登って掃除していた。何ともユーモラスな風景であり、更に気持ちを複雑にした。

スフバートルの騎馬像が広場の真ん中にある。スフバートルは1921年のモンゴル革命の指導者で23年に若くして亡くなった英雄。像は1946年に造られた。朝から多くのモンゴル人が見学に訪れていた。モンゴルの正装をしている人もいた。

広場の反対側には証券取引所があった。これも由緒正しそうな場所。しかし殆ど人の出入りもなく、閑散としている様子。Xさんは入りたそうにしていたが、『中国人は嫌われる』ということか、いつもの行動力がなく、そのまま去る。

我々二人がふらふらしている間、待っていた車ではハプニングが。何と駐車違反で罰金を取られた。しかしそこはUさんとN先生、罰金を支払いながらも警官にインタビューを敢行。昨日学んだ革靴について、確認したとか。さすが。

(8)デパート 

ノミンデパートへ。ノミンというから農民を連想していたら、6階建てのソ連風のしっかりした建物が出現。ノミンとは大手電気店の名前でここがこのデパートを買収したとか。北京でも土産物はノミンデパートで、と言われていたので、勇んで入る。

入り口付近には車が展示されている。今車は高嶺の花ということか。その後ろに両替の表示があり、表示板は人民元もレートが出ている。試しに100元札を出すと、直ぐに22,600Tを手にした。成程、人民元は普通に流通しているのである。

このデパートはかなりレトロ。2階に上がる階段は100年前の造り。正直内容は80年代の中国の国有デパート。売り子に覇気はなく、おしゃべりに夢中。高級デパートと言うことか、客もあまりいない。

5階まで上るとCDを売っていた。家内への土産として最も流行っている音楽CD2枚をUさんの支援を仰いで購入。特に中国と違和感のないジャケット。若者は似たようなものを聞いているようだ。

そしてその向こうは所謂外貨ショップ。日本をはじめ海外から輸入した電化製品、携帯などを売っている。韓国製も多い。Uさんが突然『久しぶり』と言った感じで若い女性に声を掛ける。お洒落なめがねを掛けたその女性はどこかモンゴルっぽくない。

聞けば横浜に1年留学したとか。日本はよかったと言う。UBに戻ったもののいい仕事は見つからない。物価は昨年後半からどんどん上がっている。給与は少ない。仕事に張りはない。何だかかわいそうな気がした。先進国を一度見た人はもう元には戻れない。

結局買ったのはCDのみ。岩塩もいい土産と聞いていたが、何処にあるか分からない内に時間が来てしまった。Uさんは急いでみんなを探している。何処へ行くのか??

(9)銀行 

Uさんが11時半に銀行に予約した、と言う。銀行に行って何するんだ?予約が要るのか?半信半疑で車に乗り、ハーンバンクへ。

市内中心部に立派な本社があった。入り口にATMの機械があり、『銀聯』のマークが付いている。やはりUBでは人民元が普通に下ろせる。うーん、人民元経済の始まりだ。

立派な会議室に通される。何とこれから副頭取が出てくると言う。しかもアメリカ人。どうなるんだ?しかも聞けば、この銀行、日本のHISの澤田社長が筆頭株主とか??日本では考えられない展開。

B副頭取は米国で邦銀勤務が長く、リタイア後縁あってUBに来た。既に2年半住んでいるが、生活は悪くないと言う。銀行の方は大企業の殆どないモンゴル、昨年の金融危機後は貸出もストップ。銅価格の下落、カシミア輸出の不振など経済は深刻。個人客の延長線上で営業。

モンゴルは現在IMFからの資金援助で生き延びようとしている。その上でポーズとしてアジア開銀あたりの保証を付けた国債を海外で発行しようという動きがある。発行できればモンゴル史上初、できるかな??更には中国やロシアからも援助を引き出そうとしている。ハーンバンク自身も2007年ごろ、シンガポールあたりで債券発行を計画したが、結局出来なかった。今後はどうなるのか??米ドル金利は8.4%と高利、外貨が如何にないかが分かる。

B氏は極めて分かりやすく説明してくれた。彼は英語で話し、通訳はKさんと言う日本人がしてくれた。人民元の話題を振ってみたが、あまり反応は無かった。人民元決済がUBで出来ることは事実だという。但し思っているほどのボリュームが無いらしい。将来は大きくなる、と言う感じ。

お昼を過ぎている。B氏は西洋人とランチの約束があると言って、席を立った。この風景はモンゴルではない。如何にもウエスタンスタイル、いい感じだ。我々もモンゴルらしくない、銀行ビルの向かいにあったマルコポーロというイタリアンレストランで優雅にランチを食べた。

因みに帰国後、モンゴルを知るために読んだ『モンゴルが世界史を覆す』(杉山正明著)によれば、『マルコポーロはいなかった。マルコポーロ旅行記と称する雑駁な写本群の良い所だけを繋ぎ合わせて、あるべき理想の「完本」を作ろうと努力した人ひととが過去に幾人もいた。』とか。面白い。

(10)カシミアショップ 
午後は時間があるというので、カシミヤショップに連れて行ってもらう。N先生などは何回も行ったということで興味が無いらしく、申し訳ない。空港に行く途中にゴビショップと言う店がある。建物が垢抜けている。店内もユニクロを思わせる展示(かなりゆったり置いているが)。北京でヒアリングしたAさん、Oさん共にお勧めの店。

Uさん曰く『ここもHISの澤田社長が昨年投資しました』、なるほどそういうことか。道理で日本的。デザインもなかなかよく、買うつもりは無かったが熱心に見た。するとUさんが母親ばりに甲斐甲斐しく、品定めを始め、勧めてくれる。店員以上の熱心さだ。結局ゴルフ用のセーターと会社にも着ていけるセーターの2着を購入。カシミア100%2着で日本円1万数千円。かなり安い。満足。Xさんは必死で女性物を物色。お母様と奥さん用だとか。これが日本人と中国人の違いか。

それにしてもHISの戦略が見て取れる。モンゴル旅行を企画し旅行業で儲け、両替など銀行業も手掛け、お土産も買わせる。この店でも人民元現金、銀聯カード、クレジットカードのどれもが使えた。違和感なし。しかし一体日本人は年間何人来るのだろうか??

(11)馬の乳 

午後の企業訪問はモンゴルらしい『馬』に関連した製造業。ここも国有企業らしい工場街の一角にあった。しかし中に入るとゆったりしたオフィススペースにPCが並び、皆欧米の雰囲気で仕事をしていた。

副社長で博士という女性A女史が説明してくれる。彼女は英語も問題ないようだ。同社は出資の半分が日本人個人。特に経営に口を出すことは無く、毎年1-2度やってきて、製品を持って帰っていくだけだそうだ。

同社は遊牧民を囲い込み、馬の乳を搾ってもらい、それを集めて粉末にし、薬品やクリームを製造。抗がん作用もあるというが如何か?シベリアでは結核に効くということで需要がある。チャガ茶と言うお茶もがんに効くらしい。日本ではどうであろうか?

馬の油(たてがみの下の部分)も使う。固まり難いらしい。馬乳と馬油をあわせて塗ると効果的。馬の肉は食べないらしい(馬肉は日本だけの習慣?)。

モンゴルに馬はどれくらいいるのか?良く分からない。同社では60以上の遊牧民と契約し、乳を取りに行く。真夏は2時間に1回、一日4?程度絞ることが出来る。事業規模は小さいがモンゴルらしい業務といえる。

帰りにN先生が昔取材した繊維会社が近いというので訪ねて見た。ところが既に工場は閉鎖され、人影が無かった。社長を探したが見つからない。倒産してしまったのだろうか?モンゴルにも不況の波は確実に押し寄せている。

ホテル近くに戻り、スカイショップと言うデパートへ行く。目的は地図を買うこと。ついでにスーパーで岩塩を購入。モンゴル岩塩は質が高いということで有名。購入した物は全て日本語で書かれており日本輸出用。日本では値段も高いようだが、ここでは200gで150円程度。お土産として買い込む。後日使用してみると少し甘いが野菜炒めなどにはちょうど良い。ここでも人民元は普通に使えた。

夜は東京通りと言う名前の道にあるウクライナレストランへ。ウクライナは料理が美味い、と聞いていたが、確かに。ロシアンティーも慣れてくると何杯でも飲める。きれいな造りのレストランでリラックス。明日はどうなるのか?

ウランバートル探訪記2009(2)

3月9日(月) 
(3)ナラハ開発 

翌朝8時にホテルの食堂で朝食。入っていっても店員は誰も来ないし、チェックもない。勝手にビュッフェを取り始める。食堂内にいる客は全て日本人。それもほんの数人。冬のモンゴルに来る人が如何に少ないかが分かる。

ウエイトレスは厨房でコックたちと話し込んでおり、皆楽しそう。しかしこの光景も20年ぐらい前に中国で見られたもの。懐かしいと言うか、何と言うか?

ホテル付近に水を買いに行く。小さな店があったので入る。ホテルの数分の一の値段で水が買えた。面白かったのは、この店に湖南省で生産された團茶が売っていた事。

司馬遼太郎の『草原の記』には近代モンゴルが如何にして中国に取り込まれ、ロシアに牛耳られたかが、書かれている。元々は清朝時代にロシアの冒険商人がモンゴルに入り込み、清と交易を始める。茶も主要産品となり、中国側は大いに儲かる。

モンゴルもチベット仏教の影響で茶の風習が僅かにあったが、これが一気に広まる。ビタミンCが欠乏しているモンゴル人は茶なしでは生きられなくなる。『清国商人は茶をモンゴル人に売ることによって、遊牧民を貨幣経済に注入した』とある。茶を買うために羊を質に入れ、多くの遊牧民が財産を失った。これが社会主義に傾倒した一因ではなかろうか。

9時半にホテルを出発。Uさんが朝から元気に皆を迎える。外は寒いが快晴。実は事前情報で先発隊のN先生より『気候は北京並み。特別の防寒具は不要。』と聞いていたが、実際は相当に異なる。何しろ頭が寒い。息子から借りた薄い帽子を被ると途端に暖かくなる。やはり必需品であった。

日産のRV車に乗り込み、UB東南の郊外へ。一体これから何が始まるのか??約30km走るとナラハ区というUBの衛星都市に至る。ここは1922年に炭鉱が開かれ、それまで遊牧中心であったモンゴル人に初めて労働者という概念を植えた場所だそうだ。

最盛期には相当数の炭鉱労働者が住み、まさに炭鉱の街として栄えたが、1991年大事故の発生もあり閉山、社会主義から脱却したモンゴルの中で新しい生き方を模索しているようだ。人口は2.8万人。

ウランバートルの肥大化、一極集中に歯止めを掛けるため、近年ナラハは注目を集めており、韓国系企業による大規模開発に期待が掛かっている。そう話してくれたのは、同区の副区長。昨年の選挙で区の幹部が一斉に交替し、我々が副区長を訪ねた初めての外国人だったそうだ。

それにしても行き成り訪問して副区長が会ってくれる、これはUさんの力でもあり、モンゴルのよさでもある。昔の中国もそんなことがあったなあ。

更に副区長自らの案内で隣のビルに入っている韓国企業へ。韓国人の常駐者はいないようで、モンゴル人の代表が会ってくれた。モンゴルには6年前に進出、ナラハには3年前からいるようだ。インダストリアルパークと住宅5000戸の建設を計画中。

本国は今経済危機、話には出なかったが、当然資金繰りは厳しいだろう。計画も進むかどうかわからない。それでも韓国企業のたくましさは伝わる。韓国政府も海外進出する企業を積極的にサポートしている。日本とは大違いだ。

そして副区長を筆頭に建設予定現場へ。既に時間は午後1時、誰も昼を食べるとは言わない。中国では許されない??状況だ。車が郊外へ出る。ゲルが沢山見える。仕事があれば移り住んでくるのだと言う。一本道に羊の群れが見える。

大草原と言うわけには行かないが、モンゴルに来たら草原が見たいと思っていた。のどかな風景ではあるが、冬のせいか、やや厳しさが感じられる。薄っすら雪が被っているからかもしれない。

住宅のモデルルームのある建物は冬の間使われていないらしく、中は凍り付いていた。50-60㎡の極めてコンパクトな造り。しかし誰が買うのだろうか?Uさんによれば、最近は遊牧民もゲルではなく、資産として子供に住宅を残したいと考える人が増えているとか。

ナラハの人々とはここで別れた。とうとう昼食はなかった。我々は次のアポ先を目指して、車の中でUさんの買ったビスケットをかじった。これが意外に旨かった。腹が減っていたからだろうか??

(4)UBの建設 
午後2時半、日系建設会社を訪問。同社は数年前日系建設会社としては初めてモンゴルに進出。市内中心部に高級アパートを建設し、販売。その理念はモンゴルのお役に立つこと。

UBの大型ビルの建設は近年殆どが中国企業の請負。彼らは中国から資材を運び、労働者を連れてきて、一環建設を行う。これではモンゴル人に仕事が回ってこず、モンゴルのためにはならない。この会社では900人のモンゴル人を採用。残念ながらモンゴル人は中国人より効率は劣る。中国企業は中国人労働者のパスポートも取り上げ、賃金も工事完成後にしか払わない。この方法で労働者をこき使う。

中国人一部労働者はこのような待遇に耐え切れず、工事現場を抜け出し、市の中心スフバートル広場で鬱憤晴らしに糞尿したこともあるらしい。これにはモンゴル人が怒り、中国人排斥運動も起こった。元々モンゴル人の対中感情は歴史的背景か、極めて悪い。市内を歩いていても、漢字の看板を見ることは殆どない。

現在のモンゴルでは残念ながら外資の参入は難しい。法整備がなされておらず、法があったとしても政府幹部などが簡単に覆してしまう。何を信じて仕事をすればよいのか、と嘆く。国の為に良かれと思って、進出したこの会社としては、忸怩たる思いがあるようだ。

建設自体も冬の間は工事が出来ない(零下7度以下になるとコンクリートは使えない)。風も強く、外壁工事も出来ない。街作りの計画は沢山あるが、いずれも幹部などの利権者に利益をもたらすだけ。

この数年間でUBのマンション価格はかなり値上がりした。しかし昨年後半の金融危機はモンゴル経済も直撃、鉱山資産家の資産も目減りし、マンション需要にも陰りが見える。あまり明るい話題がない面談となった。それがモンゴルの現実であろうか。

(5)商社のつぶやき 
続いて日系大手商社の駐在員事務所を訪ねる。こちらはモンゴル初の携帯電話会社に出資するなど、事業活動は活発。携帯会社は毎年増収増益、確かにUBではかなりの人が携帯を保有。これは中国と同じで固定電話が普及する前に携帯の時代を向かえた、そして大草原に固定電話は似合わない。

ところがこの会社が配当やベンダー向け支払いを行うと、地元紙で一斉に叩かれた。外貨が殆ど底を付いたこの国で、多額の外貨送金を行ったと言う言い掛かりだ。外貨準備が5億ドルを切るというから、実質的には殆どデフォルト状態。ところが外貨借り入れがないので、国際的に支払い不能になると言う問題が起こり難い。勿論貿易決済が出来ないので、IMFからの支援を取り付けた。4月には動き始めるらしい。また人民元決済なども一つの解決方法なのだろう。

資源関係の入札、落札後の契約、税制優遇策など、全て突然変更される。利権が絡むと政治になってしまう。商売は極めて遣り難い。中国との関係も嫌っているが、中国依存度はどんどん高まってきている。ロシア、韓国、日本を織り交ぜて、上手く外交を行う、これがモンゴルの生きる道。

日本人会は登録者数450人、名簿上では200社以上が進出しているが、実態のない会社、駐在員のいない会社も多い。集まるとモンゴルでの商売の遣りにくさなどを嘆きあうことも多い。

(6)国営工場の今 

その後、皮革協会会長のオフィスへ。オフィスはアパートの1室。中国の国営企業のアパートまたはロシアのアパートを思わせる造り。

中に入るとバチャガ会長が待っていてくれた。ここは作業場。所狭しと革ジャンとミシンが置かれている。一同お話もせずにいきなり革ジャン選定に入る。デザインがなかなか良い。皮も素晴らしい(柔らかい)。

中には警察の防寒用と思われる服装もある。軍からの注文は商売上重要なようだ。Xさんは早速試着。ロングコートだ。胸元のボタンがないと言うとその場で会長さんが付けてくれた。これは面白い。私も一着購入。僅か130ドル。この革ジャン、その場では分からなかったが、ものすごく暖かい。翌日以降基本的にこれを着れば、十分であった。

モンゴルは1921年いち早く、社会主義革命が起き、ソ連の枠組みで生きてきた。ソ連崩壊後の90年には人民革命党が一党独裁を放棄。混乱の時代に入る。国営企業も96年の民主連合政権により民営化が始まる。そして今?

会長の話では、皮革業も以前は全て国営で、皆国営工場で働いていた。ところが民営化で国営工場は軒並み倒産。職人たちは自ら自立を迫られた。現在もこの会長のように、自宅を仕事場として、数人を雇い、細々と経営を行っている人が多い。(因みにバチャガ会長は98年に独立)

オフィス内にはイタリア製や旧東欧製のミシンが多く見られ、日本のブラザーの骨董品もあった。自宅を職場としており家賃支払いがなく、何とかやっていけるが、業況は厳しいと言う。

会長の案内で別の工場に行く。夕暮れ時に見るからに国営工場の残骸が並んでいた。何とも侘しい光景。これが現在の現状なのだと分かる。その中の一つに入る。

女性がにこやかに迎えてくれた。チョインドンさん、きりっとした感じで若く見えるが、40代だろうか。こちらは革靴、ブーツなどを作っている。4階建ての建物は外見と異なり、かなりきれい。

2階には作業場があり、相当広い。イタリア、ドイツ、チェコなどのミシンが並んでいた。聞けば、こちらも97年に国営工場が倒産。職人も失業し、機械は全て売却されるはずであった。それを彼女とご主人が買収。個人企業として再スタート。その際当時の国営工場会長が機械の売却を阻止してくれたらしい。この辺は一編のドラマになりそう。

現在は軍や警察など政府関係が売り上げの70%を占める。ヤクの皮を使用した防寒ブーツはモンゴルでは必須。個人向けにはネット販売なども実施。顧客の足型を保存し、電話でも注文を受けている。従業員も40名に増え、個人企業の成功例と言える。

いずれにしても、市場経済への移行期には大変な苦労があったはず。技術はあるが、職がない人も多いのであろう。改革解放で中国も混乱したが、あの大きな国を纏めたという事実は鄧小平を英雄と呼ぶに相応しいかもしれない、ふと思った。

日が暮れた工場前に月が出ていた。その道をとぼとぼ歩く人影は何とも寂しい。 夕飯はモンゴル料理を食べたが、何かに気を取られてしまい、あまり記憶がない。

因みに夕飯後、ホテルに戻り、ホテル内のマッサージに挑戦した。N先生と一緒に行ったのだが、11時までと書いてあったにもかかわらず、9時半の時点で『30分だけ』と言われる。商売っ気はまるでない。

言葉は殆ど通じない。必要最低限の英語を話した。正直あまり上手いマッサージはなかった。面白かったのはN先生に付いた女性。15分ほどでどこかへ行ってしまった。そして何とそのまま戻ってこなかった。私の担当に『何処へ行ったか?』と聞いてみたが、最初はトイレと言い、後は分からない、と答えた。

勘定の段になり、マネージャーの女性は約束の料金を要求。事情を話したが、そんなことはない、と言う。するとその横を二人のマッサージ師がお先に、といった感じですり抜けた。見ると我々に付いた二人である。これこそ国営企業である。モンゴル人はあまり働かない、と言われていたが、成る程と頷く。確かに夜も遅くなり突然客が来たので、仕方がないと対応したが、帰りのバスの時間でもあるのだろう。遠い昔の中国を思い出した。

ウランバートル探訪記2009(1)

1.ウランバートルまで 
(1)きっかけ 

中国人ながら日本の国立大学に奉職しているXさんが突然『モンゴルに行きましょう』とメールをくれた。正直茶畑のある所なら、二つ返事だがどう見てもモンゴルに茶畑はない。また大学の先生の調査団には1年前に一度同行しているものの、何となく気乗りがしない。

その時あの8年前の悪夢の?内モンゴルを思い出す。資金回収に苦しんだ日々、零下10度の冬の日に路上で倒れたあの闘争の日々。外モンゴルはどうなんだろう??ちょっと気になる。

自宅の書棚を見てもモンゴルの本などない、と思ったが、1冊あった。司馬遼太郎の『モンゴル紀行』、『街道を行く』の1篇である。何となく気になり出す。本を読み返す。Xさんから督促のメールが来る。ようし、思い切って行こう、何の目的もないけれど。

参加の返事を出すと間髪を入れずに団長のN先生よりメールが入る。『ビザを至急取れ』。え、え、ビザ入るの??仕方なく北京のモンゴル大使館に電話を入れると何と何と『今週は正月休みです』との答え。何で正月??

そう言えば、前週チベット料理を食べに行った際、チベットの正月があることを知った。そうだ、チベットとモンゴルは同じ文化圏なのだ。ある人曰く『モンゴルには3つの正月がある。元旦と旧正月とモンゴル正月』。

さてどうしよう??モンゴル大使館は来週開くというが、通常5営業日掛かるらしい。それでは出発に間に合わない。N先生にメールで状況を説明すると『Uさんに依頼するから大丈夫』との答え。何がどう大丈夫なのか?益々混迷が深まる。

しかし結果的にはこのUさんの活躍で、無事問題が解決。態々東京からくれた電話の声で『ああ、この人は司馬遼太郎におけるツェベクマさんだ』と確信。この旅の興味が一気に膨らむ。

(2)空港 
出発当日Xさんと北京空港で待ち合わせ。エアーチャイナのカウンターで並んでいると後ろからXさんに向かって『ウランバートル行くのか?俺も一緒にチェックインしてくれ』という何となく見てくれが怪しい中国人のおじさんがやってきた。非常に訛りが強くよく聞き取れない。

聞けば山西省で炭鉱をやっているとか?非常に軽装で冬のモンゴルへ行く感じもなく、手荷物のバック1つのみ。興味を持ったXさんが同意して三人でチェックイン。CA側も怪しいと思ったのかカウンターで預けた荷物が誰のものか一々確認していた??モンゴルの外貨持ち込み制限や両替事情など何くれとなく話すおじさん。ランチをご馳走するとまで言い出す。更に怪しい??

イミグレを通過後、事件発生。おじさんが荷物検査で引っ掛かる。再度手荷物をチェックしている所へXさんが様子を見に行くと、いきなりXさんを知り合いと見た検査官がXさんのかばんを指して『お前も再検査だ!!』と引っ張られる。え、・・??Xさん、一生懸命無関係を主張。おじさんは悠々とXさんに自分のかばんを押し付ける。うーん、これは大変だ!!Xさんは自分のかばん検査が終わると逃げるようにその場を離れ、何とか事なきを得る。君子危うきに近寄らず。

おじさんはとうとうOKが出ずに、係官に手を引かれ、別室へ。さて一体どうなることやら??しかし彼は何を持っていたのだろうか?もし人民元やドルの偽札、金塊・麻薬などならその場で逮捕だろう。

我々は気を取り直して、CAのラウンジへ。昼ごはんを食べる為に行ったのだが、これが大失敗。食べる物があまりない上に、麺を頼むと奥から出してくる。これが全く味がなく、醤油と酢を自分で調合。自分のホームグラウンドの空港で、しかもこんなに立派なラウンジを作ったのに、何故こんなにお粗末なのか?まるで80年代の中国ではないか?しかしこれはモンゴルへの予兆なのであった。

そうこうしている内に、搭乗時間となる。N先生から日本製のウイスキーをお土産に買うよう指示があったが、空港内には売っていなかった。これは仕方ないか?実は用心の為に自宅にあったウイスキーを荷物に入れてあったのだ。

モンゴル行きのCAのゲートは遠かった。何しろ広い空港の一番端。何とか走って間に合う。それにしてもこのゲートは偶然であろうか?いや、これは中国とモンゴルの微妙な関係を表しているのだろう。バンコックの空港でヤンゴン行きのゲートが常に一番端であったように。

機内に入る。チケットを買った時には込んでいないとのことであったが、乗ってみると7-8割埋まっている。モンゴル人が多いようだ。遠くであのおじさんが手を振る。彼は何とか通過したのだ。すると容疑は何?今度はXさんも用心しており、離陸前に彼も席を離れた為真相は謎のままになってしまった。

2.ウランバートル 
(1)空港 

フライトは順調であった。1時間40分で着くとのことであったが、窓側の席から外を覗くと薄っすらと雪が積もっている所あり、氷結している河川あり、如何にもモンゴルに相応しい風景が広がる。

ウランバートルに近づくにつれて、スピードが減速している。何故だ??雲の動きが早くなる。風が強いのだろうか?旅行前に航空会社の方から『ウランバートルの空港は一方からしか離発着できず、しかも風の影響を受けやすい』と聞いていたので、無事着陸できるか、心配になる。

最後は殆ど止まるのではないかと思えるほど、ゆっくりと機体は空港に着いた。この着陸は昔の香港空港(カイタック)を思い出させた。洗濯物の脇を通るとまで言われた低空でビルを避けて着陸する様子がそっくりだった。

空港はそれ程大きくはないようだ。ビルに入ると直ぐにイミグレがあった。そう言えば機内では入国カードが配られず、CAは『モンゴル側は我々にカードを配っていない。必要ならばその場で書くのでしょう?』と素っ気無かった。すでに大勢の人がカウンターで何か書いていた。カードを探すのに一苦労。並びながら書くことに。

見ると例のおじさんは何の問題もなくイミグレを通過し、消えていった。聞いていたところでは、イミグレのスピードが遅いというのがあったが、それ程感じなかった。入国は容易であった。空港でもビザが取れるオフィスもあったようだ。ビザで大騒ぎすのではなかったと反省。

預けた荷物が直ぐに出てくるかも心配であった。我々が到着すると既にテーブルは動いており、ピックアップしている人がいた。私の荷物にはPriorityのタッグが付いていたのだが、一向に出てこない。まさか誰が持ち去ったのでは??10分ほど待って漸くPriorityのバックが到着。この国にはその様な習慣はないようだ。

殆ど最後の方に出口を出たが、誰も待っていなかった。直ぐにタクシーの運転手が纏わり付いてきたが、それ程いやな感じは受けない。それにしても待っているはずのN先生とUさんは何処に??まさか事故ではと心配になる。

中国から持ち込んだ携帯を取り出しUさんのモンゴルの携帯番号を押すと何の障害もなく、Uさんが出た。『アレー、もう着いたの。今企業訪問中。直ぐ行く』とのこと。何と日曜日まで企業のインタビューをしているN先生には頭が下がる。

20分ほど掛かるというので、空港で待つ。先ずは銀行を探したが、見つからず。あったのはATMの機械が2台。思わず使ってみようと銀聯カードを入れたが、引き出せずに断念。しかし普通の旅行者はどうするんだろう?現地通貨を持たずに活動できるのだろうか?

次にコーヒーショップがあったので入ってみる。コーラが1200T(トゥグリグ)で確認すると1ドルでもよいとのこと。これで為替の大よそが分かる。コーヒーは2600T 。この地ではどんな水準なのだろうか??

外に出る。快晴で気持ちがよい。周囲にはなだらかな丘。雪が薄っすら。非常に気分がよい。それにしてもやはり寒い。最初はよいが、少し経つと体が冷えてくる。機内では零下8度とのアナウンスがあったが、本当の所何度なのか?北京に比べて10度は低いと思われる。

そうこうしている内にN先生が登場。日本製の車に乗り込む。この空港は丘の上にあり、道は片道一車線で、周囲に青空が広がる。少し行くと発電所がある。快晴の空に白い煙が上がる。北京に比べて空気のよさが際立つ。

市内に入る所には鉄道の線路があり、これが北京にもロシアにも繋がっていると聞く。反対側には資材置き場。土地が余っている。市内には高い建物は見当たらず、昔の中国の地方都市のような雰囲気。但し看板に全く漢字が見られない。逆にロシア語、ハングル語などは目に付く。一体どんな都市なんだ?これまで訪ねた場所とは少し異なっている。

ホテルは小山の上に斜めに建つフラワーホテル。日系の経営と聞いているが、どんなものか?Uさんがフロントに話すとパスポートも見ずにキーが出てきた。部屋はやはり中国の地方都市のローカルホテルのそれ。特に違和感はなかった。

既に時間は午後5時を過ぎていた。先ずはN先生の部屋で打ち合わせ。いきなりサッポロビールの缶を取り出し、『飲む?』と言う。見れば日本からの輸入品。中国ではこんな高価なものはあまりないが、スーパーで売っていたという。

前回同様予定は緩やかなもので、毎日埋めていくパターン。これは普通の日本人には耐え 難い所があるかもしれないが、意外性があってよい。自分の部屋でインターネットを試す。説明書通りにやったが、繋がらない。よく分からないのでフロントに電話すると『今から繋ぐ』との答え。これは昔の中国と同じ。勝手に使わせないための処置。国際電話は試していないので分からない。

(2)夕食 

夕飯はN先生のお知り合い、鉱山会社M社長夫妻のご招待との事で、アイリッシュパブに出向く。モンゴル到着後初の食事がアイリッシュパブ。これが現在のモンゴルを象徴しているのかもしれない。

実際案内されたレストランは非常にきれいであり、お洒落であった。また当日が国際婦人デーと言うこともあり、若い女性を中心に店内は満員の盛況(女性への割引があったらしい)。

我々は満員の1階を尻目に2階の豪華個室へ。そこには如何にもモンゴル人らしい体型で、非常に温和なM社長と、あでやかなドレスを纏った夫人が待っていた。これがモンゴルであろうか?これまでもっていた印象とはかなり違う。

M社長の話は国際資源価格、そして中国との交易に繋がっていく。『包頭が一番近いお得意さん』、包頭の鉄鋼と言えば、昔私が苦労して仕事をした相手であった。今や大会社、そして上海のあの宝山との合併をも噂されている。

M社長は簡単な中国語を話した。それだけでもモンゴルと中国との関係が薄っすら見えた。そして彼は『昨年末からモンゴルの銀行で人民元決済が可能となった。輸出代金は今後全て人民元建て。ドルは変動が激しすぎる』と言う。これは衝撃的だ。東南アジアでも人民元紙幣はかなり流通している。しかしこの地では既に公式の決済に発展している。更にUBのモンゴル系銀行では人民元の現金の引き出しも可能とか。完全な人民元経済圏に突入だ。

M社長の会社では今後大型プロジェクトを計画。益々中国との関係を強めていく。奥さんは『最近は中国にばかり行ってなかなか帰ってこない』とこぼす。このお店でお茶の事を聞いたが、モンゴルのお茶はなく、サージという漢方薬の生薬の一つでもある植物のお茶が出された。しかし味は頂けなかった。