「カザフスタン」カテゴリーアーカイブ

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(16)アルマトイ イミグレは進まず

街歩き2

それからまた街歩きを始めた。東の方へ向かう。立派なビルが立ち並ぶ場所がある。HSBCの看板が出ている。こんなところまでHSBCは来ているのか、やはりお金持ちは多いということだろう。海外送金を見込んでいるに違いない。トルコあたりに資金を流して、不動産を買っているとの話もあった。

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本屋もあった。入ってみると何と英語のアルマトイ地図を売っている。これが欲しかったんだ、最初に。今回は何か歯車がかみ合わなかった。更には壁に貼るような大きなカザフ全土の地図も出てきた。あるところにはある物だ。これは外国企業が資源開発用に作ったものが横に流れたらしい。

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立派なスポーツセンターもあった。字は読めないが、どうやらバレーボールのアジア選手権があり、日本代表も出場するらしい。カザフは2022年の冬のオリンピックを目指しているが、その内アジア大会、そして夏のオリンピックを開くつもりかもしれない。資金はある程度あるのだから、各競技に力が付けば可能な話だ。

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地下鉄に乗る。前回も一度乗ったが一駅だったので、今回は思い切って終点まで乗ってみる。だがホームに行っても、どちら方向に乗るのか分からない。駅員のおばさんに聞こうとホームの端に近づくといきなり怖い顔で『線を踏み越えるな』と言った、と思う。その姿に『いまだにカザフは公務員が人々を管理する』という感覚が、ソ連式が色濃く残っていることを強く感じた。

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終点で降りると、そこは郊外の駅。マンションが建ち始めているが、特に何もない。簡易バーがあったのでN教授はそこで一杯と立ち寄ったのだが、トイレに行きたいというと『ずーと向こう』と言われ、まずはトイレを探す。言われた場所はレストランだった。1階にトイレがあり、無料で使えた。面白そうなので2階へ上がると、フードコートのようになっており、午後4時だというのに大勢の人が何か食べていた。よく見るとお茶を飲んでいる人、ビールを飲んでいる人もいる。我々もここに加わり、N教授はビールにあり付く。こんな簡単で言葉が出来なくても気楽に食べられる場所があるなんて。我々はシャルハル氏らのお世話になり過ぎ、アルマトイを知らなすぎることを痛感したが、もう遅かった。

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また地下鉄に乗り、昨日行ったカフェを目指す。降りる駅は違っていなかったが、道を間違えたのか、別のところへ出てしまう。何しろ英語の表示が少ない。大きな通りだと辛うじて英語が書かれているが、普通はキリル文字。これは意外と困る。歩きやすい街並みなのだが。

 

ちょっとおしゃれなレストランに入る。何とかWIFIが通じたが、若者などが来るバーなのか、音楽がうるさい。昨日のカフェの心地よさはなかった。店員も何かやる気の無さが感じられる。大きな立派な店なのでお金持ちだけケアーしているのだろうか。風もあまり通らない。トイレは室内の地下にあり、ロシア風の重厚な造りであることが分かる。高級レストランだ。2時間ほどネットをやって過ごしたが、あたりはすっかり暗くなっていた。腹は減っていなかったので、結局アイスティ一杯で粘ったことになる。確かに良い客じゃなかった。

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遅いイミグレ

そして待ち合わせのホテルカザフスタンへ向かう。近いと思っていたが、意外と歩く。やはり道を間違えていたのだ。空には満月が掛かる。写真を撮ったが、素人には難しい。スーパームーンというのだろうか。煌々と輝いていた。月夜の散歩もまたよい。

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ホテルでは既にシャルハル氏、ララさん、Pさんが待っていた。遅れないように早く来たらしい。シャルハル氏の車は小さいので、5人乗ると満員だが、見送りは欠かせないと思ったのか、総出で来てくれた。その心は嬉しい。車は30分もしないで空港に着いてしまった。渋滞もない。早過ぎるなと思ったが、何と空港が大渋滞。小さな空港にこんなに車が来ることを想定していなかったようだ。降りるまで20分もかかる。

 

それでも早いなと思って出発階に上がり、時刻を確認して驚いた。N教授のソウル行きは時間が変更になり、午前1時、私と同じ時間になったと聞いていたが、何と0時の間違いだった。もし空港へ行く時間を1時間遅くしていたら、間に合わなかったかもしれない。すぐに見送りの人々と別れ、チェックインカウンターへ。N教授は直ぐにチェックインできるが私のフライトは3時間以上後のため、チェックインできるか心配したが、エアアスタナの係は気だるそうに手続きをしてくれた。

 

しかしそれからが大変だった。イミグレはチェックインカウンターと同じところにあったが、何と開いているゲートは一つだけ。そこに中央アジア諸国へ行く人、ソウルへ行く人などが押し掛け、物凄い時間がかかっていた。時々クルー用のゲートを開放するが、クルーが来るとそこも埋まり、動かなくなる。まあ気長に待つしかない、既にチェックインしたのだから、置いていくことはあるまい。それから50分ぐらいしてついにイミグレを抜けた。さすがにイミグレ担当者も疲れており、すぐにハンコを押してくれた。何ともソ連式の管理方法だ。日本やアメリカなど世界10か国の観光客を折角ノービザにして迎え入れようとしている政策は、ここには届いていなかった。

 

まだ少し時間のあったN教授はすかさずビールを探し、ゲットした。横では韓国人のカップルがウオッカの小瓶で何本もストレートであおっていたのが印象的。0時ごろになり、N教授のフライトは搭乗となり、別れた。それからは水を飲みながら旅行記を書いて過ごす。午前1時には私も搭乗となり、機内へ。今回はダウレンはおらず、ぐっすりと寝込んで起きるとバンコックに着いていた。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(15)アルマトイ 日本食レストランかぶと

街歩き

ダウエンが車でカザフスタンホテルに連れて行ってくれた。ちょうどその近くの科学アカデミーでまず降りる。ここは約70年前にシベリアに抑留された日本兵が強制労働で建てたと言われているビル。勿論ビルのどこにもそのような表記はないが、かなり重厚な建物で、ウランバートルのオペラハウスなどとも似ていることから、その可能性は高い。

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続いてホテルカザフスタンへ。ここは1978年に建造された由緒あるホテル。ソ連時代の重厚な造り、当時としては高層な26階建てで、今でもアルマトイのシンボルとなっている。この付近は相当に木々が茂り、実に感じが良い。ロビーの天井も高く、昔の中国のホテルを想起させる中2階がある。何とも懐かしい雰囲気のホテルだった。

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それから市庁舎前の独立記念塔へ行く。この塔の下にはナザルバイエフ大統領の手形がある。観光で訪れた人々が、自分の手をその手形に充てて、記念写真を撮っている。ここでダウエンと別れた。彼は1つ会議をキャンセルして付き合ってくれた。本当にご縁だ。

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そしてようやく自由時間が来た。シャルハル氏、Pさんとも別れてN教授と二人、街を歩き始める。シャルハル氏の車は電気系統に故障があり、窓が開かないためかなり暑いが、散歩はとても気持ちが良い。何しろアルマトイ旧市街地は緑がとても多く、そして深い。道路は計画的に碁盤の目のようであり、歩きやすい。建物は皆ソ連時代のものだが、重厚で見応えはある。

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取り敢えずの目標をガイドブックにある鉄道博物館にしてみる。その前に修理中のオペラハウスが見えてきた。だが博物館はない。バス停の地図を見ているとカザフの若者が英語で声を掛けてくれた。鉄道博物館は彼も知らなかったようで、ネットで検索してくれたがやはりなかった。それでもこれまで会ってきた人々がロシア語を話す人ばかりの中、街の若者が英語を使い、スマホを使う姿に、新世代を感じた。

 

ちょっと歩いて行くと、何だか雰囲気の良いホテルが見えた。グランドテンシャン、形の良い3階建てだ。思わず中へ入り、フロントへ行くと笑顔の女性が英語で話し掛けてきた。ルームレートを聞くと結構高かったが、『ネットで予約する方が安いです』と親切に教えてくれた。好感が持てる。次回はこういうホテルに泊まってみたい。

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そして科学アカデミーの並びの道に、お洒落なカフェがいくつもあるのが見えた。ここで休憩。ここなら英語も通じるし、ビールも飲めるし、WIFIも通じる。更には実に気持ち良い風が吹き抜けて暑さを忘れさせてくれる。私はこういうところを希望していたのだ。何故私はこれまでここに辿り着かなかったのか、とても不思議な気がした。

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しかし至極の時間は長くは続かない。20分ぐらいアイスティを飲みながらネットを繋いでいるともう約束の時間が来てしまった。名残惜しかったが、席を離れる。明日もまた来よう、と真から思う。そしてまた歩き出すと、メトロの駅があり、きれいな建物がいくつか見え、そして先ほどの独立記念塔に舞い戻った。

 

Pさんが『明日はケーブルカーで山の方へ行きましょう』というので、思わず強い口調で、『もう山はいいでしょう。明日も私はカフェへ行きます』と答えてしまい、顰蹙を買った。それでもそれが本音だった。アルマトイに10日間もいること自体がありないと言われたが、その一番いい場所にようやく今日辿り着いた訳だから、最終日は自由にさせて欲しいと思う。

 

帰りにトルコ式のドネルケバブの店に寄り、買い込み持ち帰る。かなりの大きさがあり、食べるのに難儀した。さすがにカザフにも飽きてきたのかもしれない。さて果たして明日はどうなるのか、飛行機は無事に飛ぶのだろうか、明日は明日の風しか吹かない。

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8月8日(金)

再びかぶとへ

アルマトイ最終日、ゆっくりと起き上がる。そして部屋の整理。10日もいると、色々と溜まる。荷物をバッグに詰め込み、何とか納める。今日はシャルハル氏の車で街へ行き、後は自由、夜また集合して空港へ向かう予定だ。

 

まずは日本料理屋かぶとへ。ここのおかみさんにインタビューすべく、N教授はアポを取っていた。シャルハル氏は我々を送るとすぐに帰ってしまった。2人で定食を食べる。牛すき定食を食べると、巻物が小皿についてきた。何となく懐かしい。ランチタイム、お客は結構入っており、カザフ人が日本食を楽しんでいた。ダウレンもこのようにして、定食を食べているのだろう。

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午後2時を過ぎてようやくここのおかみ、さおりさんに時間の余裕ができた。彼女は一人でこのかなり広い店を切り盛りし、偶には料理も作っている。聞いてみると何と、『海外はアルマトイが初めて。偶然ここに来てしまった。日本でも長野と富山しか住んだことがない』というので驚く。

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店を引き継いでから3年、色々なことがあったらしい。『とにかく任された店を潰さない』ことだけを考えて、懸命にやって来たという。それでもカザフ人を使うのは簡単ではない。何と1週間前に接客係を全員入れ替えたらしい。さおりさんの娘も以前から店を手伝っていたが、本格的にスタッフの一員になった。彼女は当地の大学でロシア語を勉強したので、スタッフとの会話に不自由はないが、さおりさんの指示を彼女が伝えるとスタッフは言うことを聞かないこともある。難しい。店に入ると大声で『いらっしゃいませ』と言われるが気持が良い。

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食材の仕入れはさおりさん自ら市場などへ足を運び、出来るだけ安くて良い材料を調達。ロシア方面から来るサーモンなどは極上で安いとか。調理は基本的にカザフ人のシェフがやるが、必要があれば自らさも作る。本当に何でもやってきた。カザフ人のお客さんからも徐々に認知され、お客も増えてきており、何とかやっている、それが素晴らしい。

 

日本人でアルマトイに来た人の殆どがこの店を訪れという。日本の味がして、価格も高くなく、何より日本人のおかみさんがいるのだから当然だろう。店にはスキージャンプの高梨沙羅選手や、なでしこジャパンの澤穂希選手のサインも飾られている。『色々な人が来てくれることが支え』とも言う。それはそうだろう。在カザフ日本人は200人にも満たない。

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今後かぶとがどうなって行くのか見守りたいと思っていたが、Facebookによれば9月に店のボヤ騒ぎがあり、調理ができない状態に陥ったらしい。今はどうしているだろうか?是非頑張ってほしい。

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(14)アルマトイ 豪華なランチをご馳走になる

8月7日(木)

ハシビシという村で

翌朝は7時に起き、昨日買ってきたビスケットを食べる。やはり想像通り、美味しい。少しだけチョコが入っているタイプで私の好み。勢い何枚も食べてしまい、腹は大丈夫かと思ってしまう。

 

9時にホテルを出発し、市内へ向かう。昨日のように一日を無駄にしないため、先方から連絡が無くても市内散策に出掛けることにした。そして途中まで来ると電話があり、市内東部の方へ舵を切る。ある県政府を訪問するらしい。ところがまたもや道に迷う。今回は右と左を間違えたらしく、少し遅れた程度で国旗がはためく、村役場へ到着した。

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そこにはリ・クワンユーにちょっと似たオジサンが待っていた。彼はアルマトイ市政府を退職した、経済顧問だったという。N教授がソ連時代の質問をすると、待っていました、とばかり昔話を始めた。どうやらソ連時代礼賛型の人らしい。この村は国営農場コルホーズだったが、独立後は農業・牧畜業をやる人が減っているらしいことは分かった。周囲の農耕地も荒れていた。

 

また若い書記は『政府には外国企業誘致政策もあるが、この村は土地が狭く、大規模農業をするには適さないため、投資を申し出るところはない』ときっぱり。恐らくは国内企業でも別の場所を選ぶのだろう。あとは延々とオジサンの演説を聞く。オジサンが話している間、メモを取っていたN教授は『人が話している時はちゃんと聞け』と怒られ、話をストップされた。何という権威主義。

 

『俺は大統領の下で働いた。大統領が話す時、メモを取る者などいない』と。とんでもない独裁者が出てきたものだ。彼の話を聞いても分からないから、その間にメモを取っているというのに。1時にダウエンとランチの約束をしていたので、私は早くこの場を離れたかった。シャルハル氏も運転手として時間を気にしていたが、独裁者は時間など構わず、『村の企業に連れて行ってやる』という。彼ではなく若い書記が来てくれるならよいが、ここから12㎞も離れた場所へ行っていてはランチに間に合わない可能性が高い。企業へ行って10分でさよならすることなどこれまで経験はない。ましてや田舎なのだ。それでもPさんは『こちらがお願いしたのだから仕方がない』と言い、企業訪問へ出た。

 

同じ村の企業なのかさえ分からなかったが、30分ほどで着いた。牛や馬を飼っている。建物の中には既に大勢の人が集まっており、皆じろじろと見ている。これはとても10分では許されない、と諦め、裏の工場へ。カナダから輸入された乳牛が飼われていた。専用の服を着ないと中へ入れないとまたも待つ。もう仕方がない、と諦めた時、『工場見学はしない』と誰かが言いだし、出口へ向かった。N教授が『誰か偉い人が来るらしい』と言い、ここぞとばかりに裏から逃げ出した。こんなことは初めてだが、先方も偉い人の方が余程大事なのか、あの偉そうなオジサン以外誰も追ってこなかった。オジサンは名残惜しそうだったが、それを振り切り出発した。

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豪華なランチ

既に時間がギリギリだった。それでも何とかなるような気もしていた。ダウエンはきっと外で待っているだろう、遅れると悪いな、と思いながらも楽観していた。1時ちょうどに見覚えのあるビルの前で車が停まる。先日歩いた場所だった。しかしこれまでは車が停まってから場所を探すのに苦労していた。ところが今回は道の向かい側に指定されたレストランがあるではないか。慌てて駆け寄ると、やはりダウエンが立って待っていた。

 

このレストランはかなり高級で建物の横に屋外スペースがあり、更には床が高くなっている特別に囲われた所まであった。思わずそこを希望する。そこでは床に座り、床には絨毯と布団が敷き詰められ、クッションも置かれている。実にリラックスできる場所だった。

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メインディシュはベシュパルマック。先日ララさんが作ってくれたが、今日は特別に馬肉のソーセージが入っていた。これは先日機内で話した時に馬刺しの話題になり、彼がそれを覚えていてくれ、オーダーされたもの。このような心遣いが嬉しい。これは本当に濃厚な感じで、特に脂身は絶品だった。5人で食べたが、10人前はありそうな分量でとても食べきれなかったのは残念だった。スープも出てきたが、凄く濃厚でごくごく飲んでしまい、お替りが直ぐ出て来るとまた飲んでしまう。

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更にはポロも出てきた。これはまたちょっと変わっていてチキンライスのような色をしていたが、羊の肉との味の取り合わせが絶妙だった。皆お腹が一杯となり、ぐったり。思わず横になって眠りそうになる衝動を抑えるのに苦労した。

 

ダウエンの保険会社は街の至る所に広告が出ておりそれを聞いてみると『広告の出ている場所は全て取次所』なのだそうだ。収益の半分は車の自賠責保険、これは国が加入を義務付けているため、車が増える限りは成長分野。但し1年ごとの更新を料金の安い他社に取られることがネック。医療保険などは国民の意識がまだ低く、加入率は高くない。

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またカザフスタンの統計資料を入手したいというと、『国家から出ていている統計もあるが、これは信用できない。我々は世銀かEBRDが出している経済統計を見ている』ときっぱり。先ほどの偉そうなオジサンはアスタナへ行かなければ統計年鑑は手に入らない、と言っていたが、むしろアルマトイの国際機関から入手した方が良いと私も思う。ただ残念ながら世銀事務所に勤めているダウエンの友人は休暇で海外へ行っているらしく、訪問は適わなかった。

 

尚ダウエンに『実は日本のアルマトイ領事館は昨年12月末で閉鎖した。もし日本へ行くならビザ申請をアスタナで行わなければならないだろう』というと、一瞬絶句し、『何を言っているんだ、カザフ最大の都市はアルマトイであり、日本を訪れる客もアルマトイから行くに決まっているではないか』という。私も当然そう思うし、その国の最大都市から撤退するということは、その国との外交なり通商なりを縮小する、と宣言するようなもの。中国包囲網で最重要国であるカザフに対して安倍内閣はなぜそのようなことをしたのか、理解に苦しむ。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(13)アルマトイ 待ちぼうけも楽しい

8月6日(水)

連絡待ちの一日

今日はゆっくり起きた。Pさんは恐らく朝帰りだろうから、早くても10時以降の活動となる。今日初めて知ったのだが、カザフの役所は10時開始らしい。そしてランチは2時からだという。それで先日のランチ事件の誤解も何となく分かった。

 

しかし10時を過ぎても何も起こらなかった。私はそれも想定済みで、旅行記の作成に精を出していた。何しろネットが繋がらないため、集中して書けるのが良い。人間無ければ無いで諦めが付く。あるとよくないと分かっていても、つい使ってしまう。弱さなのだろうか、それとも中毒?

 

12時前にPさんとイエルン氏が出かけたので付いて行く。イエルン氏と息子は今日の夜の列車でアスタナへ向かうため、車中で食べる物や飲むものを買いに行く。スーパーへ行くと、私はお茶コーナーへ突撃。ケニアの紅茶と煎茶のティバックを買う。ケニアは世界で4番目に茶葉が採れる国で、輸出されていても不思議はないが、日本ではコーヒーの認識はあってもケニアの紅茶というとピンと来ない。

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煎茶のティバックは三角のナイロン袋に入っており、立派なティバック。ドイツ辺りでパッキングして輸出しているのだろうか?茶葉はそれなりだが、一体どこで生産しているのだろうか?まさかトルコではあるまい。

 

クッキーも美味いに違いない。モンゴルでも体験済みだが、ロシア製、東欧製のお菓子は意外や美味しい。今回は小さいのを三種類買ってみた。ついでにカップ麺にも手を出した。ロシア製と韓国製があり、両方トライすることに。モンゴルでは箸を使わないため、麺が短くなっていたが、カザフではどうだろうか?

 

銀行にも寄った。Pさんは銀聯カードでテンゲを下ろすつもりだったが、ATMに現金がないようで、お客が何人か、現金到着を待っていた。Pさんは先日アルマトイ市内のHSBCのATMでテンゲを下ろしたばかり。空港で私が見た時は銀聯マークが無かったので使えないとばかり思っていたが、やはりここでも中国人民元パワーは健在だった。

 

因みに1996年に私が中国工商銀行の東京事務所長の通訳をした際、彼が『この度我が行はカザフスタンのアルマトイに事務所を開設し・・』と話したことを急に思い出した。昨日確かに工商銀行の立派な建物を見た。その時私は通訳のミスをした。何と『アルマトイ』を『アルマイト』と訳したようで、散々からかわれたのを覚えている。

 

ホテル近くへ来るとN教授がフラフラ歩いていた。水を買いに来たと言ったが、その顔にはビールが飲みたいと書いてあった。そして『昼ご飯を食べよう』というので、ホテルの下のレストランへ入る。Pさんも付いてきて、一緒に食べる。どうやら午後のアポに備えて、N教授がビールを飲まないように見張るつもりらしい。カザフでは酒を飲む人も多いが、敬虔なイスラム教徒もいるので要注意だ。特に役人や学校関係者は難しい。

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ラグマンとシャシリクを頼む。ところが羊肉がないという。牛でもよいということで注文したが、ラグマンを食べ終わっても出て来ない。ようやく出てきた串に刺さっていたのは牛でもなく、ガチョウだった。だがそれでもかなり美味しい。私はこの肉厚のシャシリクが本当に気にいってしまった。

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午後も動きはなさそうなので、この旅で初めて昼寝をした。気持ちよく眠ってしまい、起きたら既に4時過ぎだった。N教授がやって来て『今日の面談はないな』と念を押すように言う。ようは仕方がないのでビールでも飲もうということだが、隊長であるPさんは『役所は午後6時までやっているからまだ駄目』と突っぱねる。

 

それでも午後5時を過ぎるとさすがに今日は難しいと分かり、この旅の反省会が始まる。これまで毎日顔は合わせていても、ゆっくり話す機会はなかった。N教授が持ち込んだカザフスタンに関する本なども参照する。私は今回も特に事前調査はしていないので、参考になる。

 

そして7時前に運動を兼ねて少し離れたスーパーへ行ってみる。名前は『METRO』。昔中国でも何度か見たオランダあたりのスーパーチェーンか。交通量の多い道路沿いを歩くと、交通事故が発生しており、救急車が来ていた。倉庫群に夕日が落ちていく。歩いていると色々な光景が見える。

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METROはかなり規模の大きなスーパーだったが、お客は本当に少なかった。我々が外側で写真を撮っているといきなり警備員が撮るな、という合図をしていた。そしてマネージャーと思われる人が飛んできて『今撮った写真を消せ』と迫る。なぜいけないのか聞こうにも言葉が通じない。カメラが新しいので消去の仕方も分からず、まごまごしていると、先方の態度が急変、『中では写真を撮らないで』という感じで、丁重に入れてくれた。一体何が起こったのか。

 

ただ警備員が私たちをピッタリマークしてきた。N教授は大きな買い物車を押しており、まさかこれで何も買わない訳にはいかない。警備員はいい人で、ウオッカと言えばウオッカを探し、クッキーと言えばクッキーを探してくれた。特にカザフ産を求めると喜んで探す。ちょっと見学のつもりがかなりの買い物になってしまった。これも成り行き、仕方がないことだ。

 

夕飯はカップラーメンを食べてみた。韓国製は不味くはなかったが、特に麺が短い訳でもなく、特徴のないものだった。N教授のロシア製は、それほど美味しいとは感じられない代物。まあ我々なら韓国製になじみがあるということか。

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そうしていると、シャルハル氏とララさんがやって来て、大きなスカイを切り出した。そのスイカ、本当に大きい。日本にはないタイプ。それをシャルハル氏が羊肉を切り出すようにナイフで削ってくれた。これだけ大きいと周辺と真ん中辺では甘さが全然違う。『真ん中は甘いぞ』と何度も勧められ、ビール腹ならぬ、スイカ腹になってしまった。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(12) アルマトイ 道に迷っても字が読めない

夕食はシャシリク

シャルハル氏は疲れた体にムチ打って懸命に車を動かしていた。何とか日暮れ前にホテルに戻った。我々も疲れていたので、夜は適当に取ることになった。N教授はビールとケバブ―があればよいというので、ホテルの下の、あの煩いレストランへ行ってみる。いつも外で美味そうな肉を焼いていたから。

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可愛らしいウエートレスがやってきて注文を取った。よく見ると時々上のホテルにやってくる女の子。誰かの娘らしい。ケバブ―はここではシャシリクといい、肉のぶつ切りを豪快に串にさして焼く。羊はないというので牛肉で焼いてもらった。これは肉が柔らかくて、美味かった。

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そして言われるがままに、ボルシチ、サラダ、ラーメン、焼きそばとオーダーし、簡単に済ませるはずの夕飯で腹一杯食ってしまった。我々が去る頃に若者たちが入ってきて、ビールを飲みだし、今日も長い夜が想定された。

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8月5日(火)

言葉が通じなくても

本日は予定が決まっていなかった。私としてはネットが繋がらない状況で時間があれば、旅行記や原稿が捗るので嬉しいのだが、いつ出掛けるのか分からないのは、やはりちょっと困る。

 

結局お昼まで何も連絡はなく、N教授とランチに出る。行先はパラダイスに決まっている。今日は外ではなく、地下へ潜る。そこには実に立派なダイニングスペースがあった。だが客は我々2人のみ。ウエートレスが注文を取りに来るが、言葉が全く通じずに困る。何とかビールとコーヒーを注文できたが、食事メニューは前回ウエートレスが勧めてくれたものを目をつぶって頼んだ。『昨日と同じ』という表現すらできない。N教授は何と前回の領収書を取り出し、説明を始めた。これなら簡単に注文できた。言葉が通じなくても何とかなるものだ。それにしてもここのウエートレスも控えめでよい。カザフ人は基本的に受け身、日本人には好感が持てるタイプが多い。

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それにしてもこの鮭のグリルのワンプレートは実に美味いのだが、量も滅茶苦茶多い。それを全部食べてしまったので、午後は仕事にもならない。部屋に帰って昼寝をしていると電話があり、もうすぐ迎えの車が来るという。午後4時のアポには早いなと思ったが、指示に従う。

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道に迷う

車は山の方へ向かっていた。高級住宅街と思われる辺りで停まる。そしてシャルハル氏は待ち合わせ場所の喫茶店を探し始めた。我々も手伝いたいが、何しろ字が読めない。仕方なく彼の後ろをついて行くと、何だか迷っている。交差点を中心に南北に行き来する。その度に我々も付いて行かざるを得ない。電話で場所を何度も確認するが見付からない。本当に右往左往という感じで歩き回る。歩いている人に聞くとこっちだ、ガードマンに聞くと、いやあっちだ、となる。どうしてそうなるのか分からなかったが、最終的に分かったことはシャルハル氏が非常に方向音痴の上、道を探すのが下手だ、という事実。何しろ交差点から少し離れた大きなショッピングモールが待ち合わせ場所で、普通なら30分も迷うところではない、ということ。

 

タクシーで来ていたPさんは、30分外で立って待っていたようで既に疲れ果てていた。我々も歩き疲れていた。そのモールの3階のフードコートでは、面談の相手が待ちくたびれていた。

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医療用品メーカー

本日の面談は開発区の工業団地へ向かうと聞かされていたが、どうしてここになったのだろうか。相手は我々の目的を聞いてから工場を見せるかどうかを決めるという。だが実際に会ってみると、彼らの工場の規模は小さく、今後拡大過程で開発区へ引っ越す予定だということが分かる。毎度のことながら、面白い展開だ。

 

医科大学を出た夫婦、ご主人は大学の先生で奥さんは医療用品会社を起こした。N教授は意にも解さずにどんどん質問を始める。だがPさんがカザフ語で訳したものをシャルハルさんがロシア語にまた訳していたのには驚いた。結局はPさんのカザフ語翻訳に落ち着いたのだが、先方の話すカザフ語の30%はロシア語の単語だったようだ。

 

この会社は2004年に設立され、2011年から国家の支援を受けて、注射針や採血サンプル試験管など病院で使う使い捨て用品の製作を本格的に始めた。設備や資金も国家支援、商品も国家買い上げと、絶好の条件だった。更にビジネスを拡大するため、アメリカや中国の企業の資本参加を求め、交渉中らしい。実はこれは国家プロジェクトの一環。ロシア、ベラルーシとの関税同盟を締結したカザフは自国の工業生産向上をめざし、またロシアを一大市場のターゲットとして、重点産業を指定。その中に医療用品も含まれており、政府の後押しで、輸入代替の商品生産を行っている。10年間は税制の優遇、土地の少額提供など、メリットは大きい。

 

彼らは日本企業の技術を欲しがっていた。今中国に入っている日本の技術を持ってこられれば、例え簡単な製造工程だったとしても戦略的には価値が高い。トヨタがフォーチュナ―という車のノックダウン生産を始めたのも、これが理由だろう。最初は警戒気味だった相手も最後の方は『是非日本企業との協力を』と言ってきた。工場も見せるという。だが我々には時間がなかった。道に迷った30分は意外と大きかった。

 

日本食レストランで

そのまま車で日本食レストランへ。ホーチミンからアルマトイへ行く機内で知り合ったダウレンとの約束を果たし、アルマトイの日本レストラン『かぶと』で会うことになっていた。時間には余裕があったが、またもやレストランが見付からない。これには本当に困った。我々は自分のいる場所さえ分からず、字も読めない。さっきの経験からすぐ人に聞き始めたが、要領を得ない。店に電話をかけても、シャルハル氏の理解力では辿り着けない。最終的にはダウレンに電話をかけ、何とか場所を特定できたが、ここでも約30分ロスした。

 

ダウレンは店の前で待っていてくれた。このお店、日本的なムードを漂わせていた。中へ入ると、何と日本人のおかみさんと娘さんが元気に日本語で出迎えてくれた。これにはちょっとビックリ。すぐに部屋に通され、日本の典型的なつまみを頼む。ダウレンは車で来ており、ビールは飲めなかったが、だし巻き卵や天ぷらなどをウマイと言って食べていた。

 

ダウレンはまだ39歳、英語が堪能な新しいタイプのカザフ人だ。ソ連時代に幼少期を過ごし、英語の重要性に目覚め、上手く波に乗り、今の勤務先である保険会社に地位を得た。家も職場も直ぐこの近く、この店のいいお客になるかもしれない。因みにここの板さんはカザフ人ながら、日本的な味を出していた。

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我々はカザフ語、ロシア語、中国語、日本語、英語が飛び交う中、楽しく食事をした。WIFIも繋がり、ご機嫌になる。この店にはスキージャンプの高梨沙羅選手や女子サッカーの澤穂希選手などのサイン入り色紙が飾ってある。アルマイトに来る日本人は必ずこの店に寄る、ということだろう。この店に興味を持ったN教授は、早々におかみさんにインタビューを申し込んでいた。

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ホテルに戻ると、10時を過ぎていたが、Pさん夫婦は明日のアポイントを取り付けるために、どこかへ出かけて行った。当然ながら、今日はホテルには帰ってこないだろう。日本人に会ったことがないカザフ人は慎重に事を運んでいるようだ。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(11)コルダイ キルギス国境回族の村で

8月4日(月)

キルギス国境へ

今朝は6時に起きる。すぐにチャイを作ってもらい、昨日の疲れを癒し、目を覚ます。既にシャルハル氏は車で来ており、6時45分、打ち合わせ通りに出発する。何だか日本人の団体行動のようだ。本日よりP隊長も参加する。

 

車は一路西へ向かって行く。キルギス国境へ行くとは聞いていたが、アルマトイの南は全てキルギスとの国境であり、どこに口岸があるのかさえ不明のままだった。ただ方向からしてキルギスの首都、ビシュケクへ向かっていることは明らかだったので、今日も片道300㎞の行程となる。

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実は昨日のノルジャンが、お客をキルギス国境まで送るついでに、我々を案内しようと言いだし、今日の企画が実現した。だがノルジャンの車と合流する気配は一向になく、ただただ見事な山脈の景観と、時折見える羊の群れの間を抜けて、ひた走っていた。因みにシャルハル氏の車は電気系統が故障しており、窓が開かなくなっていた。3時間近く経った頃、突如街に入り、そして車が渋滞した。一向に車が動かないので何事かと歩いて見に行くと、そこがコルダイの国境だった。

 

コルダイ

若いにいちゃんが近づいてきて何か告げた。もし優先レーンを通過したいなら彼に言えばいいのだとか。ようするに仲介屋だった。だがよく考えてみれば我々は国境の向こうへ行くわけではないので、車はここで引き返し、駐車するために列を離れた。

 

車の列はかなり長い。だが車にはダブルプレートを付けているものはなく、カザフ-キルギスは車が自由に往来できることが分かる。運転手以外は車を降り、人が通る門に殺到し、手続きを行っていく。一昨日のコルゴスに比べて、かなり人の往来が多い。しかも貨物は別の場所を通る様でトラックの姿はないが、往来はかなり頻繁だという。

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シャルハル氏が戻ってくるのを待っていたが、なかなかやって来ない。ちょうど目の前でおばさんがお茶を売っていたので買ってみた。リプトンのアイスティの味がした。30テンゲ、クーラーボックスに入っており、非常に冷たかった。N教授は山羊の乳と麦芽飲料を飲んでいたが、それほど美味くはなかったようだ。

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シャルハル氏の代わりにノルジャンがやってきた。既にお客はキルギス側に渡って行ったという。シャルハル氏は車の中で休んでいるらしい。連日のアテンド、そして今日は300㎞の運転、私より5歳上の彼にとってはきつい旅だっただろう。

 

我々は国境のゲート近くを見学したが、特筆すべきものはなかった。日本人はキルギスもカザフもビザ免除のため、向こうへ行って帰ってくることは可能のようだったが、あまり意味はなさそうだったので早々に引き上げる。ちょうど欧米人の男女が自転車で通過しようとしており、地元のタクシー運転手らと話し込んでいるのが印象的。昨年のモンゴルでも同様の自転車旅行者を目にしたが、私などには信じられない光景だ。

 

ランチを食べにレストランへ入る。ちょっとしゃれた作りの小屋が並ぶ。ウイグル人が経営しているとかで結構繁盛していた。ジプシーの女性が近づいてきてトランプ占いをやらないか、と声を掛けてきた。この国ではジプシーがかなり認知されている。後で知ったことだが、我々のホテルで時々リビングのソファーで寝ている女性がいたが、彼女もジプシーだった。自由旅行者、私もジプシーの仲間になったような気分だ。

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カザフ風より油っぽいウイグル式ラグメンは美味かった。お茶は珍しく緑茶。角砂糖を入れているが、その甘味が心地よい。これは中央アジアで飲むからだろうか。ナンも美味しい。

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回族の村 マサンチ

そこから60㎞ほど進む。特に何の変哲もない農村に入る。1軒の家の前で停まると、若い主人が何やら作業をしていた。木にはリンゴがなっている。既にノルジャンから連絡を受けており、家の中へ招かれる。絨毯がきれいに敷き詰められ、何とオンドルが備えられていた。若い主人の他、その奥さんと19歳の息子、18歳の娘が代わる代わる、菓子やお茶を運んできた。皆顔立ちが我々と似ている。

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『我々の祖先は135年前、西安のある中国陝西省より来た回族』と5代目の主人は話す。両親は3㎞離れた場所に健在、親族一同がこの付近で暮らしている。息子は隣のキルギスの首都ビシュケクの大学に通っている。娘は看護学校、そして何と3歳になる次男がいた。『この子は奥さんがメッカ巡礼をして授かった子』だという。回族はイスラム教徒だが、この地の人々は敬虔なようだ。

 

そして食事が運ばれてくる。羊料理だったが、野菜炒めなどは中華風。回族は漢族とイスラム教徒の混血で、風習も両方に通じている。中国では元代に国際貿易の商人などで活躍し、今も中国各地に住んでいる。顔を見て、料理を見て、家を見て、どことなく中国が感じられる。因みに主人は中国語を話す。

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それから彼のお父さんの家へ行った。立派な門構え、車はベンツだった。『向かいの家にあるベンツ、あれは昔おれのものだった』と懐かしそうに、また悔しそうに主人は話す。それにしてもこんな農村にベンツとは、そして立派な家。ここの人々は何をしているのだろうか。付近にはキルギスとの国境ゲートが見える。

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村の中心地へ行く。そこには博物館があるという。ここにやって来た回族の歴史が展示されている。清末の混乱の中、立ち上がり、移動した人々。回族とはいつか中東に帰る、という意味もあるらしい。出はなぜこの地でとどまったのか、その謎は解けなかった。ただこの地がキルギスとの国境というだけではなく、中央アジアの中で非常に微妙な位置にあり、その地理的優位性を生かして、貿易などをしている、いかにも回族らしさが垣間見えた。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(10)アルマトイ 豪邸の食事騒動

ランチでひと騒動

本日は昨日の疲れもあり、午前中は休みとなった。私はかなり寝不足を感じていたので、昨晩はシャワーも浴びずにすぐに寝て、翌朝9時まで起き上がらなかった。何と携帯の電池も切れており、目覚ましも鳴らず、快適に寝てしまった。実は下のレストランでは土曜の夜ということで相当遅くまで音楽が鳴り響き、寝られなかったとPさんがこぼしていたが、私には全く関係がなかった。それからシャワーを浴び、溜まった原稿を書き始める。だが頭がボーっとして、全く進まなかった。こんな所まで来て、俗世を考えるのは良くないと思い、写真の整理などに留めた。

 

12時にN教授とランチに出掛けた。13時半に出発と聞いていたので、それまでに戻るつもりだった。先日行った近くのレストランで、全く読めないメニューに苦戦し、WIFIが繋がらないことを確認した頃、Pさんがやってきたが、食事中と分かると、ホテルで待っている、と言って帰って行った。ところがイエルン氏から2度も『早くホテルに戻って欲しい』と電話があった。まだ13時半にはほど遠く、料理も注文してしまったので、その旨を告げると、『出来るだけ早く』とだけ言い、電話は切れた。

 

ピザを頼み、後はウエートレスのお勧めに従ったのだが、大きなピザの他に、鮭のグリル、フライドポテト、サラダ、ご飯のセットが出てきて唖然とした。カザフ人はこんなに食べるものなのか?鮭は美味しかったが、量が多くて閉口した。ゆっくり食べているつもりはなかったが、出て来るのも遅く、量も多く、会計にも手間取り、いつしか13時半になっていた。

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ホテルに戻るとシャルハル氏の車が待っていた。イエルン氏は既に弟さん、ノルジャンの所へ行ったという。一体何か起こったのだろうか。車で待ち合わせの場所へ行くとノルジャンの車はなかった。敬虔なイスラム教徒の彼にはお祈りの時間があり、近くのモスクへ移動していた。

 

ようやく合流すると彼は『どうしてランチを食べに行ったんだ?』と聞いてくる。彼らはランチを食べずに我々を待っていたということだった。その件は誤解だ、ということを説明したが、腹ぺこの彼はなかなか納得しなかった。一方の車ではPさんとイエルン氏が喧嘩になったようだ。誰が悪くてこうなったのか?

 

郊外の山へ

それでも彼らは腹一杯の我々の為に、ご飯も食べずに時間潰しをしてくれた。2台の車で近くの山へ上る。上からはアルマトイ市がよく見えた。バックの山脈もきれいで、気持のよい風が吹いてくる。だが、もう1台の車はいくら待っても来なかった。戻ってみると調子が悪く、途中の路肩で停まっていた。電気系統の故障らしい。

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するとPさんとララさんがこちらのランクルに乗り込み、車はまた上へ。実は先ほどの場所よりさらに上があったと言う訳だ。もう一段上の景色を見ることが出来、感激だ。近くでハングライダーをやっている人々がいる。気持ちよさそうに飛んでいるが、高所恐怖症の私には無縁のもの。ところがN教授は『乗ってみたいな』と言い出す。冗談かと思いきや、満更でもないようで、ノルジャンが交渉に出向く。500人民元で乗せてくれる、と聞いたその瞬間、突風が吹き、ハングライダーが流される。それを見てN教授も諦めたようだ。

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車で下へ向かう途中、Pさんが『息子が乗りたがっている』というと、N教授はまた迷い出す。だが途中で待っていたもう一台の車に、ハングライダーのことを話そうとするや否や、『すぐに下へ降りる』とシャルハル氏が言い、この一件は沙汰やみとなる。シャルハル氏の車の電気系統はやばい状況になり、一刻も早く山を下りないと心配な状況になったのだ。

 

別荘住宅

それからノルジャンの家へ行った。郊外の高級住宅という感じ。高い塀に囲まれ、がっちりした門がある。中も立派で広い母屋、離れ、台所などに分かれていた。我々は庭に設えられたテントの下で食事を取った。実に気持ち良い風が吹いてきた。テーブルにはふんだんに食べ物が並んだが、N教授と私は既に昼食を食べ過ぎており、それほど食は進まない。

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この家にはノルジャンの家族、奥さんと子供が3人住んでおり、一番上の息子は現在マレーシア留学中、偶々夏休みで帰省しており、顔をそろえた。ノルジャンの母親も同居、また親類も何人か住んでいるようだったが、よく分からない、それほど広い家だった。まだ小さい娘が二人おり、とても可愛らしい。Pさんの息子にもなついており、一緒に遊んでいた。

 

 

 

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ノルジャンの奥さんも中国からの移住者で北京に住んだこともあるという。我々の為にわざわざ餃子を作ってくれていた。ミルクティと一緒に食べる水餃子、おつなものだ。それにしてノルジャンがランチの件で怒っていた理由が分かった。これだけの用意をして待っていたのだから、来ないのは勿論、来ても食べられないでは済まされない。この誤解は時間感覚にあるのだろう。我々は13時半出発といえば当然『ランチ後』と考えるから昼を済ませるが、イエルン氏からすれば13時半といえば『ランチを食べに行く』という意味が伝わると考えたのだろう。隊長であるPさんが仕切らないからこのようなことが起こったのかもしれない。グループには仕切り役が必ず必要だ。

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食後も風に吹かれていると、N教授が『ちょっと見学』といってどこかへ行く。私には『タバコ』が直ぐに浮かんだが、ノルジャンは敬虔なイスラム教徒で酒もたばこもご法度。当然この家の中では吸うことはできない。何とか門から外へ出ようとしたようだが、門は手では開かなかったらしい。あっさりノルジャンに捕まり、一緒に外の見学をしたようだ。

 

また家の中に入るとシャルハル氏がDVDを見つけた。高倉健主演の『君よ憤怒の河を渡れ』、日本人でこの作品を知っている人は余程の高倉ファンか、でなければ中国関係者といってよい。この映画は80年代中国で大ヒット、当時の中国人なら誰でも一度は見たことがあるほど有名な作品。中国語名は『追捕』といい、あまりにも違うそのタイトルに戸惑ったことを覚えている。N教授は先日、『そんな映画見たことない』といっていたので、シャルハル氏が見せてくれた。ただ中国語吹き替えだったので、雰囲気だけ味わい、早々に退散した。

 

夜は酒類販売禁止

既に暗くなりかけた。シャルハル氏の車は故障気味であり、また暗い場所の運転は避けたいとのことで、ノルジャン家を出た。が、市内まで結構遠い。また道にも迷い、少し渋滞もあり、結局市内に入った時は既に真っ暗だった。

 

まっすぐホテルへ戻らず、スーパーへ行く。色々と料理の材料などを買い込むためだ。アルマトイには車で行く大型スーパーがいくつもある。日曜日の夜なので人が多いかっと思ったがそれほどはいない。やはり人口の少ない国なのだろうか。

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N教授は先ほど飲めなかった酒類へ進む。実に沢山のお酒が売っており、気勢が上がった。ワインにしようか、ウオッカにしようか、と迷っていたが、何となく売り場が変だった。鉄のチェーンが緩く巻かれていたのだ。係員がやって来て何か言いだした。聞いてみると『酒は午後9時から翌朝までは販売禁止』だそうで、結局買うことができなかった。ロシアでもアル中が多いと聞いたことがあるが、この辺りもその影響があるのだろうか。ホテルに帰り、N教授は何を置いてもビールに手を伸ばした。彼の長い一日がようやく終わった。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(9)ジャールケント 新疆から移住したカザフ人

中国系カザフ人を訪ねる

このまま帰るのか思いきや、車は北の方へ走り出した。ジャールケントの農村を訪ねることになった。車で1時間ぐらい行き、小さな村へ入る。結構家があり、目的の家を探すのに苦労した。

 

家には奥さんがおり、ご主人は出掛けているという。早々にチャイが出る。N教授はインタビューを始める。この家は7年前に新疆のイリ県から、こちらへ移住してきたカザフ人だという。特に親戚もなかったが、この村で温かい歓迎を受け、イリでは農業だけだったが、こちらではジャガイモなどを作りながら、羊なども飼っている。

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『新疆に比べれば、こちらのほうがずっといい』と言い、その理由を聞くと『新疆では政府に全て搾取されるが、こちらでは全て自分でやり、やった分だけ収入になる』と。そして更に『カザフにきてようやく漢族とウイグル族という2つの重い荷物を下ろすことが出来た』と静かに語る。この言葉は衝撃的だった。新疆では漢族の支配が強まっているが、実はその陰でウイグル族によるカザフ族いじめ、も進行していた。新疆では事あるごとにウイグル人が『新疆はウイグル人の土地だ』と言っているが、歴史的に見れば、南新疆は確かにそうだが、イリやアルタイなど北新疆には元々ウイグル人などいなかったというのだ。少数民族同士の諍い、これも新疆問題を複雑にしている要因かもしれない。

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羊の煮込み料理が出てきた。特にこの家で作ったジャガイモが絶品。お腹は空いていなかったが、つい手が出てしまい、いつの間にか腹が膨れて動けなくなるほど食べた。羊の脂がよく染み込んでいる。カザフでは塩を入れる以外調味料などを使わないようで、実に自然な味わいがある。

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ようやく家の主人が帰ってきた。我々はどこかへ出かけていく。実に雄大な山間部の平原。その道なき道を突き進む。途中に羊や牛の放牧に出くわす。少年が馬に乗り、統率している姿は格好がよい。まるで絵に描いたような大自然の風景が圧巻だった。

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その大草原に定住している家があった。決して豊かそうには見えない作りの家。ここには80歳をこした長老がいるとのことだったが、残念ながら不在。お嫁さんが馬乳酒を振る舞ってくれた。これが目的でやってきたようだ。因みに酒を飲まない筈のノルジャンも馬乳酒は飲んでいた。この国では馬乳酒は酒に分類されないらしい。かなり酸っぱいので私は遠慮したが、皆はどんどん飲んでいる。お椀によそう際、大きなボールに入った馬乳酒をゆっくり掻き回す。その動作が実にいい。

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この家は昔アルタイ辺りを遊牧していたプロ集団だった。羊500頭、牛20頭、馬も数十頭を有する大家族。子供や孫、ひ孫も羊や馬の世話をしている。小さな可愛い女の子もいる。どう見ても冬は厳しい寒さが襲うであろうこの地に何故4年前に定住したのか、長老不在で分からなかったが、何らかの事情があるのだろう。

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帰りは少し余裕が出てきて、この草原走破を大いに楽しんだ。途中まで送電線が来ていたが、先ほど訪ねた家までは通じていない。モンゴルでは大規模ソーラー発電機を持っている遊牧民もいたが、電気なしの生活はどうだろうか。確かストーブはあったようなので、オンドルのように熱を家の中に送り込み、暖を取っているのだろう。

 

大規模農場を行く

朝来た道とは別の道でアルマトイを目指す。しばらくは山間部が続いたが、その後は大草原、いや大穀倉地帯に見える大規模農場がずーっと続いた。この辺りはソ連時代のコルホーズだったのだろうか。所々に飼料倉庫なども見える。またそれなりの集落も点在している。

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カザフの農業は独立以降衰退したと聞いていたが、この辺りではまだ健在だという印象を持つ。恐らくは国家政策で大規模農業を支援しており、昔の官僚などが上手く土地を集めて、栽培しているではないか。外国人による農業分野への参入も可能だと聞いたが、ロシアなどは入ってきていないのだろうか。

 

それから延々、この国道を走る。途中で何回も道路工事で片側車線が閉鎖されており、予想外に時間がかかった。日本でもあることだが、カザフでは夏しか道路工事が出来ないのか、あまりにも多過ぎる感じがした。

 

夕陽が落ちる頃、大きな湖が見えた。ずっと道路の左側に水が見える光景、これはカザフでは珍しいだろう。そして夜、道の片側に突如ネオンサインが出現した。それも1つや2つではない。それがカジノだと分かるまでいくつか通り過ぎていた。確か飛行機の機内誌の広告にあったカジノも登場している。こんなにカジノがあってもお客は来るのだろうか?と心配になる。ノルジャンに寄れば、客の多くは中国人で、カジノは更に作られていく予定だそうだ。1つずつの規模は小さいのだろうが、ちょっと考えられないバブルのようだ。

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4時間ほどかかって夜10時に帰還した。ララさんがラーメンを作って待っていた。スープは羊スープ、実に美味い。肉の王様は実は羊ではないか、と真剣に思う。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(8)コルゴス 中国国境へ行く

8月2日(土)

コルゴスヘ

翌朝は5時半に起きる。6時出発と言われたが、ゆっくりとチャイを飲み、洗濯をした。既に外は明るい。やはり出発は6時半だった。カザフ時間、そんなものだろう。今日はイエルン氏の弟ノルジャンが中国国境のコルゴスまでの案内を買って出てくれた。目が弱いシャルハル氏は片道350㎞の運転はしんどいということだった。ノルジャンのランドクルーザーはなぜかホテルでなく、パラディスに来ていた。我々はそこまで歩いた。意味は分からない。

 

そして朝日に向かって東へ350㎞を走り始める。市内を出ると後は一本道。車も少ないので快調に飛ばしていく。朝ごはんは途中で食べようと思っていたが、店などは殆ど無かった。真ん中頃に街があったが、そこはウイグル族の街ということでパス。やはりウイグルとカザフ、敢えて接触しようとはしない。

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ノルジャンは西安の医学大学を卒業して、医者になるべき人材だったが、当時のシステムで故郷の新疆アルタイに分配され、その後ウルムチへ出てきてしまう。そこで今の奥さんと知り合い、20年前にアルマトイにやってきた。96年頃は毎週のようにコルゴスを往復、物資を運んで稼いでいた。だからこの道には詳しいということだったが、最近10年は全く走っていないらしい。現在もお客のニーズに応じて物資を調達するなど、貿易に従事し、結構成功しているらしい。因みに彼は敬虔なイスラム教徒であり、酒、たばこはご法度。

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ジャールケントの街

ジャールケントの街に入る。ここはもう国境まで僅かな距離だ。既に時間は昼に近い。街中は落ち着いており、80年代の中国の地方の小さな街を思い出させる。ベンツやラダなどの古い古い車が闊歩している、まるでクラシックカーの街のようだ。特にアウディが至る所で目に付く。なぜこんなに多いのかと聞いてみたが、車両が頑丈でよい、などと言われ、要領を得ない。恐らくは80年代、90年代にアウディを大量購入したか、この街に車を集積したか、その名残ではないだろうか。実に面白い光景だった。

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ランチは街の食堂へ。ノルジャンは敬虔なイスラム教徒であり、食事にもウルサイ。3軒目で気に行った所があり、入っていく。周囲は市場の様で人通りが比較的多い。中はお客が殆どいない。パンとミルクティが出てきた。腹が減ったのでバクバク食べる。カザフのいいところは、とにかくパンやナンが出てきて、ミルクティに付ければ食べられるということ。それからマンティが出てきた。私が先日マンティを食べたい、と騒いだので、頼んでくれたようだ。ここのマンティ、羊肉の汁が美味い。小龍籠の大きい版、と言えばよいだろうか。いや、そもそも羊の肉が他の肉より美味い、ということだろうか。

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コルゴス

そしてついに中国との国境、コルゴスまでやってきた。行けばカザフ側のイミグレの建物があるとばかり思っていたが、そのはるか前にバリケードがあり、チェックポイントがあった。アルマトイから道を走っていて思ったことは、物資を運ぶトラックがあまり走っていなかったこと、中国製の物資は入ってこないのだろうか。バリケード前にもトラック数台しかない無い。ちょっと拍子抜けで、トラックの写真を撮る。

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ノルジャンは我々が国境を見学できるように聞いてくれたが、彼の車ではこれ以上進めないと分かる。その時バリケードの警備員がこちらを指し、何か言い始めた。どうやら写真を咎めているらしい。我々のパスポートをチェックし始めた。携帯を出せというので渡したが、写真は撮っていないのに、なぜか携帯にロックを掛けてすぐに返された。イエルン氏は居留登録カードを忘れてきたということで、御咎めはなかったが、先には進めない。

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我々3人はタクシーを雇い、国境へ向かうことにした。ところがタクシーでゲートへ行くと『昨日から中国側へ渡る人間以外は通さない』と言われ、折角乗ったタクシーも降りた。タクシーは商売あがったりだろう、と思ったが、国境にはバスで来る者、アルマトイの方へ向かう者などが次々にやってくるので問題はないのだろう。遥か向こうにカザフ、中国両国のイミグレがかすかに見えたが、とても遠い存在だった。

 

もう一つ新しい口岸が見えたのでダメもとで行ってみる。こちらはノルジャンが上手く話してくれて、中へ入れてくれた。建物が3つあり、その一つには人がいた。どうやら中国行く買い物ツアーのカザフ人らしい。もう一つはこれから使うイミグレだろうか。そして向こうには貨物用のゲートが見える。N教授によれば、ここコルゴスには中国との共同開発区が設置され、貨物輸送のワンストップ化が図られるはず。その開発区がこの場所ではないかと思われるが、どう見てもそのような様子はない。既に計画から数年経っており、日本の物流会社も倉庫を作っていると発表していたのだが。

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ノルジャンによれば、最近カザフはロシア、ベラルーシとの関税協定を締結。完全にロシア寄りの政策を取った。中国からの物資に高い関税をかけ、流入を防いでいる。これによりこの開発区は実質的に停止したとみてよい。こんな小さな場所が、国際情勢の大きなうねりの中にある、ということに妙に感動した。

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(7)アルマトイ 遊牧民は自由に往来できたのか

新市街地あり

時間があるので博物館へ行くことにした。場所は市の南側、車で通ると市庁舎や大統領官邸が見え、その先はこれまで我々が見てきたアルマトイとは別世界。広々とした近代道路の両側に近代建築のオフィスビル、外資系ホテル、ショッピングコンプレックスが並び、こんな所もあるんだ、と予想外の収穫があった。そういえばスキーのジャンプ台のようなものも見えた。アルマトイは2022年の冬季オリンピック開催地に立候補しており、北京と共に最終選考に残っている。既に冬季アジア大会は開催済み、出来るならここでオリンピックをやってもらいたいものだ。そういえば、2017年にはアスタナで万博もあるらしい。今カザフは国を挙げて、国際的な展開を図ろうとしており、その様子がオリンピックや万博を通じて良く分かる。これから急激に国際的な認知度を上げてくるのではないか。

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博物館はロシア風のドーンとした大きな建物であった。こちらは予想通りにマンモスや古代の遺跡に始まり、独立後のカザフまで一通り見ることは出来た。ただ全てがカザフ語かロシア語のため、内容は殆どわからない。歩いていても広すぎる建物なので疲れは倍加した。写真撮影も禁止。外国に向けたアピールはまだ緒に就いたばかり。英語の普及も急務になるだろう。

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イタリアンでカザフ料理

ランチは昨日で懲りたので、高級ホテルへ行くように頼む。ホテルならWIFIもあり、ハラールもあり、そしてビールもあるだろうというN教授の読みだった。その読みは見事に的中し、3つ星ホテル併設のイタリアンに落ち着いた。実は私は今日、一つの仕事を抱えており、何としてもネットを繋いで仕事を片付ける必要があった。運よくその仕事は既に送られてきており、食事もそこそこに仕上げに掛かる。ネットスピードも昨日より格段に早く、スムーズに進んだ。

 

食事はイタリアンかと思いきや、シャシリクというカザフ料理だった。やはりある程度以上の年齢の人と食べると、ピザやパスタは合わないのだろう。羊肉のミンチを串で刺して焼いていた。食べやすかった。アイスティを頼んだところ、フレーバーが入っていない物はない、と言われ、ティパックとお湯、そして氷を渡される。

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カザフ事情を聞く

1時間ほどそこでネットをしていると、カザフ人女性がやってきた。ジャナルさん、日本に10年住んでいたということで、日本語の能力は極めて高い。旅行会社をやっており、ビジネスアテンド、通訳などをこなしているという。彼女は富山で5年間学校に通い、5年間は東京で働いたという。こういう人材はカザフでは珍しいだろう。ようやくビジネス系の人が出てきて、話も分かりやすい。

 

昨日まで日本の某農業機械メーカーの担当者と一緒にアルマトイとアスタナを回っていたらしい。やはりカザフの農業政策に目を付けた日本企業はいるということ。カザフ側も中国製の機械は安いがすぐ壊れるので、日本製を希望しているらしい。ただそこには当然色々な障壁があるのだろう。

 

N教授は牧畜業に強い関心を示し始めた。明日行く予定の中国国境コルゴスに近い場所に、今も政府の支援を受けた牧民たちがいるという。是非行きたいということでアレンジを頼んだが、最終的には日程と料金が合わずに、取りやめとなってしまった。彼女は日本に行くまで、新疆のイリで外事弁公室に勤めていたので、その辺の話を含めてもっと聞きたいことが一杯あったので、とても残念だった。

 

90年初め、中国の国境は緩んでいたのか

ホテルに戻り、一休みするはずが、N教授と議論になった。争点は『90年初め、中国の国境は緩んでいたのか』。N教授はこれだけ広い国土を隣接しているので、当然カザフ人遊牧民は自由に両国を行き来できたはずだという。89年の天安門事件以降、中国は国が動揺し、国境警備も緩んだので、大量の移住者がカザフに来ることが出来たのだ、と推測した。

 

私はこの意見には少なからず違和感があり、反論した。中国は天安門事件ぐらいで国境警備が緩むはずがない、むしろソ連邦の崩壊で国境警備は厳しくなったはずだと。確かに歴史的に見れば、唐末や清末の時代、国境が緩んだ時期はあったと思うが、あの90年前後はそれとは違う、と説明したが、納得が得られない。これは『あの頃の空気を吸ったことある人なら分かる』話だが、知らない人に説明するのは難しい。

 

夕飯でシャルハル家へ行き、この疑問点を問いただした。彼らは実際に92年にカザフへやってきたのだから、どんな手続きで来たのか聞いてみた。『まずウルムチでパスポートを取り、それから汽車に揺られて北京のロシア大使館へビザを申請しに行った。えらく長い時間がかかった』との証言を得た。それでも納得しないN教授は『シャルハルさんのような知識分子は正式な手続きを取ったかもしれないが、遊牧民はそんなことしなかったでしょう?』聞く。『いや、遊牧民も基本的には北京へビザ申請に来ていた』というとどめの回答でこの議論は終了した。

 

後日ある人に『カザフへ密入国することはできるが、必ずカザフの警察に捕まる。今だって中国人の不法入国者は後を絶たないが、警察が目を光らせており、中国人とみるとパスポートの提示を求め、不法なら強制送還するか、わいろを要求する。中国側も同じ状況だったはずで、社会主義の相互監視を理解していれば、そんな議論は起こりえない』と切り捨てられた。確かに我々だって駅で尋問を受けたのだ。机上の空論はやはり空論でしかない。

 

夕飯はポロ。ララさんの作るポロは実にあっさりしていて美味い。レストランの場合作り置きを出すのかもしれない。作り立てのポロは油っこく無くて美味い。米もカザフ製らしいが、実によく合っている。