ある日の埔里日記2017その6(3)茶苗と陶芸

12月6日(水)
再び竹山へ

今日は2日前に連絡だけして、結局会わなかった劉君を訪ねる事にした。さすがに悪いと思い、早めに借りを返すことにしたのだ。一昨日と全く同じバスに乗れば、同じ時間に同じところに着く、と思ったのだが、田舎のバスはそうはいかなかった。一昨日は間一髪乗れた竹山行きバス、今日は、埔里からのバスが5分遅れたため既に行ってしまい、1時間後しかないというのだ。接続などという概念はないことは知っていたが、困った。

 

だが聞いてみると台湾好行が20分後にあり、それで竹山へは行けるという。ただ停まるバス停が違うため、劉君に確認して、工業区で降りることにした。実は彼の家は、そこからほど近かったので結果オーライになる。彼は車で迎えに来てくれ、すぐに自宅へ向かった。お父さん(松ちゃん)は不在のようだった。

 

もう一人、彼の知り合いの若者が入って来た。張君は何と私の分の弁当も買ってきてくれ、3人でランチが始まる。彼らは若いだけあって食欲も旺盛で、すぐに食べ終わってしまう。私はお茶でもスープでもよいから汁けが欲しいのだが、味噌汁とご飯を配分よく食べるというのは日本固有の習慣らしい。食べ終えてから、彼が作ったお茶を飲み始める。焙煎の効いたお茶がよい。

 

さあ、行こうと劉君が立ち上がり車に乗り込む。どこへ行くのかとみていると何と山を登り、鹿谷にやって来た。竹山-鹿谷は車で僅か15分位。いつもとは違う道を行き、1軒の家の前で車は停まる。そこは何と茶苗屋さんだった。茶旅を長くしているが、茶苗を商う家に来たのは初めてではないだろうか。

 

ここでも若者が出てきた。3代目だという。『台湾北部から南部まで、多くの茶農家が顧客』というだけあり、彼は全台湾の茶業の精通しており、各地に行くこともあり、そのお茶の歴史についてもかなりの知識があって驚いた。しかし考えてみれば、今や茶苗を売る所はそれほど多い訳ではないだろう。彼のところに注文が集中してもおかしくはない。ただ彼もまだ若いので、真の歴史を体感しているとまでは言えない。

 

茶苗の畑を見に行った。ちょっと小雨が降っていたが、何とか見学できた。本当に色々な品種が植えられており、顧客ニーズに合わせて、出荷されるらしい。同業者が減り、注文はそこそこあるとは思うが、現在台湾茶業全体が縮小傾向にあり、当然ながら茶苗業の前途も明るいとは言い切れない。まるで今日の天気のようだと思えてしまった。

 

鹿谷で他にどこへ行くのだろうかと思っていると、何と竹山に戻ってしまう。折角鹿谷に来たのだから、とちょっと残念だったが、流れに身を任せるしかない。次に向かったのは張君の家。実は彼は陶芸師であり、お父さんはこの付近では有名な陶芸作家であるという。個展なども開いている。1階の店には数々の茶壺が並んでいる。

 

お母さんがお茶を淹れながら、色々と話をしてくれた。陶芸は原料となる土が命。お父さんは元々鶯歌で修行し、中国江蘇省の宜興の土を手に入れ、創作に励んできたという。1980年代には比較的容易に手に入った宜興の土、今では中国でも手に入らない貴重な物となっており、こちらでも台湾本島の土など、様々な物を使っているようだ。

 

非常に形の良い茶壺がいくつもあり、あまり道具には興味のない私ですら、思わず写真に収め、FBで投稿した。するとお茶好きさんから、すぐに反応があり、現物は見ていないが、是非それが欲しいという。そういうものなのか?結局価格が折り合わずにこの話は流れたが、世の中とは面白いものだと思う。

 

既に夕暮れとなり、竹山を後にする。劉君に草屯まで車で送ってもらい、そこからバスで埔里に戻ることにした。バスは20分に一本ぐらいあるとのことだったが、なかなか来なかった。夕方の渋滞のせいかもしれない。ようやく乗り込んだが、バス停が多く、いつになっても埔里に着かない。この路線、田舎道だが、意外と民家が切れずに驚く。

 

結局1時間もかかって埔里の街に入った。トイレに行きたいやら、腹が減るやら大変だった。終点より前で降りて、いつも行く鶏肉飯に立ち寄り、夕飯を済ませる。相変わらず繁盛している店だ。このあっさりした鶏飯はやはり美味い。

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