「台湾」カテゴリーアーカイブ

ある日の台北日記2023その6(4)バタバタの帰国

カフェの閉店までずっと話していた。暗くなっていたので、近所で夕飯を食べようということになり、いつもの食堂へ行ったが、その横の鴨肉屋が気になっており、入ってみる。何とほぼ満席で最後の一席に飛び込む。偶には美味いものを食べようと、店の人に聞いてみると、このおじさんが勧め上手。結構いい物を選べて大満足だった。一人ではなかなか入れない店、時には相棒が必要だ。

6月7日(水)昔の上司と

いよいよ明日は東京へ帰る。これまでこの部屋に3年半預けていた荷物をどれだけ持って帰れるのか。勿論葉さんは『荷物を早く持って帰って』などとは言わないのだが、私としてはコロナ禍のような不測の事態は今後も起こると考えなければならず、出来るだけ引き揚げておくようにしたい。その為にスーツケースまで買って、何とか押し込んでいくが、これまで貯めこんだ荷物は簡単には片付かない。

更には資料も出来るだけ持ち帰りたい。台北に来るのは来年になるので、それまでのストックも欲しい。何で2か月もいたのに、こんなに慌ただしいんだろう。急いで図書館に駆け込み、最後の収集に励む。そしてその近所でサンドイッチを食べたが、残念ながら私の好みではなかった。

実は昨晩突然、その昔サラリーマン時代の上司から連絡があった。何年も連絡していないのに、なぜ私が台北にいると分かったのだろうか。彼も半信半疑でメールしたらしい。これもまた運命だ。最後の晩はTさんと会うことになった。林森北路近くのホテルで落ち合い、懐かしの梅子に入る。

梅子、30年前は50回以上ここで食べた懐かしい店だ。Tさんとも出張などで来たのかもしれない。昔は圧倒的日本人客が多かったが、今は台湾人も多い。それでもウエートレスは流ちょうな日本語を話し、何とか最後の一席を確保して座る。そして懐かしい料理を注文して美味しく頂く。Tさんは私よりだいぶん年上だが、未だに現役で、出張できているというからすごい。ご馳走様でした。

6月8日(木)東京へ

朝から2つのスーツケースに詰めに詰め込んだ。本などがかなり重いので、預けられるか心配になる。そして最後の昼ごはん、やはり刀削麺を食べに行く。2か月前より随分と暑くなっており、初めてクーラーの効いた室内で食べる。まあどこで食べても美味しいが、涼しいのは有難い。

いよいよ部屋を出た。いつもはMRTで行くのだが、スーツケースが2個あるのでタクシーを拾う。初めてかな。何と15分で松山空港に到着する。早過ぎて空港ロビーに人影もまばらだ。チェックインはスムーズで、すぐに出国審査。ここもあまり人がいない。飛行機を待つ間もそれほど混んでいる様子はなかったが、フライト自体は満席だ。

フライトは30分ぐらい遅れて出発。機内では映画を見て過ごす。因みにエバ空港は安全の案内にもお茶が登場する。流石だ。機内食もまあまあ美味しい。結局30分遅れて羽田に到着したのだが、そこから預け荷物が何と1時間以上出てこない。しかも何の説明もない。ある人たちは地方へ帰る電車が無くなり、ホテルの手配を始める。台湾人もこの対応には不満そうだ。ずっと立って待っているのはやはり納得がいかない。

ようやく荷物を受け取り、空港バスに乗る。まだ10時だから余裕だが、もう少し遅ければ大変だ。羽田はやはり人員不足で手が回らないのではないかのだろうか。新宿に着くと雨が降っている。ここでタクシーに乗ればよかったのだが、何故か息子に連絡して駅まで傘を持ってきてもらった。結局二人で荷物を引き、濡れながら帰る。なんてことだろう。

ある日の台北日記2023その6(3)リアル茶金に会う

幹事役の杜さんは元銀行員。実は廖さんもその昔は銀行員ということで、そんな話でも盛り上がる。皆さん食事をしながら、思い思いに川柳を詠んでいる。私もご飯をお願いすると、懐かしい台湾の洋食が出てきた。帰りがけに日本人の若い女性から声を掛けられた。台湾大学に留学しており、歴史を学んでいるという。

彼女は何と浜松の出身で、『藤江勝太郎について調べてみたい』と言われたので、天地がひっくり返るほど驚いた。藤江勝太郎、5年前まで地元でもほぼ知られていない名前だったが、いつの間にか大学生がその名を口にするようになったとは、何とも感慨深い。歴史とは動いていくものなのだ。

そこから今度は南機場夜市の方へ向かう。昨年末の忘年会で知り合ったKさんからお誘いがあったので行ってみることにした。そこは四川料理と書かれた食堂。既に人が集まっており、その中には旧知のBさんや作家のKさんなどもいて驚く。Kさんのこれまでの台湾での活動の広さが良く分かった。

更には大変台湾料理に詳しいAさんやベジタリアンのIさんなどもいて、非常に有意義な夜を過ごした。今月日本に来る台湾人が、ベジタリアンであったり、牛肉を食べなかったりと、食事について色々とあるのだが、その解決法なども勉強になった。Aさんからは台湾語をはじめ、言語についても色々と教えてもらう。何とも有難い。帰り際、大雨となり難儀して帰宅する。

6月5日(月)スーツケースを買いに

今日は台北駅へ行った。駅付近は以前よく泊まっていたので、知っている店が多いと思っていたが、随分と様変わりしていて、馴染みの店が無くなっていた。ちょっとショックだが、コロナ禍もあり、それは仕方がないことだ。ただ周辺はやはり安い弁当屋などが多く残っており、その意味ではあまり変わっていない。何故か新しい、きれいな店に入った。蒸し鶏に特製ソースをかけて食べるのだが、まあまあ美味しい。

それから駅の地下街に行き、スーツケースを買う。前に行ったことがある店があったのだが、残念ながら閉まっていた。仕方なく、他を探していると、ちょうどよさそうな店があったので入る。聞いてみるともう20年もここで商売しているという。コロナ禍はお客が来なくて大変だったが、最近ようやく回復してきたようだ。まあ手ごろなケースが手に入ってよかった。

6月6日(火)歴史好きの若者と

朝起きると、サンドイッチが食べたくなり出掛けるも、お目当ての店は休業しており、結局今回ここでは一度しか食べずに終了となる。仕方なく近所をフラフラすると、意麺の店があった。しかも排骨羹がプラスされているので、思わず注文した。これは予想外の旨さ。最近予想外の旨さに出会うことが何度かあったが、もう少し早く見付けるべきだった。

午後、先日出会った留学生と会った。宿泊先の近所ではあるが、待ち合わせたカフェは全く知らない場所だった。確かに近所には若者向けのカフェは沢山あるのだが、おじさんが一人で入ることはないような雰囲気で、特に気にも留めていなかった。コーヒーも高くはない。

彼女が『藤江勝太郎を調べたい』と言ってくれたことが、とても嬉しかったので、話を聞いてみることにした。彼女は湾生などをかなり調査しており、先日来台した湾生にも同行していた。リアル茶金の廖さんについても、歴史を知りたいということで川柳会に参加していたらしい。藤江勝太郎とは台湾統治時代の設立された製茶試験場の初代場長。そして静岡県森町出身で、台湾茶業の基礎を築いた男だが、その存在はそれほど知られてはいない。

ある日の台北日記2023その6(2)旧三井倉庫の講演会

5月30日(火)蘭州拉麺

そろそろ台北を離れる準備が必要となってきた。まずはいつもの図書館へ行き、必要となる資料を探し出す。かなりの成果が上がったので、満足して終了し外へ出る。ランチを食べようと店を探すと、蘭州拉麺の看板を見かけたので入ってみる。先日高雄で食べた牛肉拉麺が美味しかったので、何となく惹かれたのだ。

看板に偽りありか。蘭州拉麺と書かれていたが、メニューにはそんなものはない。結局牛肉拉麺を食べることになる。台湾の牛肉麺は蘭州拉麺が発祥ということなのだろうか。しかしあの中国にある蘭州拉麺は台湾にはないのだろうか。牛肉をいつから食べているかも絡んで興味深いテーマではあるが、残念ながら解決の糸口は一向に見えない。

6月3日(土)旧三井倉庫で

本日は旧三井倉庫で講演会があるというので、行ってみる。先日鉄道博物館を見学したついでに1階だけちょこっと覗いてみたが、2階には上がれなかったので、ちょうどよい機会だだと思い、申し込んだ。この倉庫も100年前から三井紅茶が搬入されたのだろうか。そんなことを考えながら眺めるとちょっとワクワクする。

講演のテーマは『三峡茶業文化』であり、大いに興味あり。勿論三井の茶工場がここにあったことは重要なポイントの一つではあるが、台北郊外の茶の歴史、という、地域誌はあまり確認したことがないので、じっくりと聞いてみた。三峡茶業の歴史は1700年代に始まるとの話もあったが、果たしてどうだろうか。この手の話は凍頂烏龍茶の歴史などにもみられるので、見解が分かれる所だろう。

参加者は、歴史好きの一般台湾人と講師のお知り合いという感じだろうか。日本でも偶にこのような講演会があるのかもしれないが、台湾の場合は何だか和気藹々としていてよい。日本の場合、どうしても『私は知っている』といったマウントを取るような発言をする方がいるので、あまり好まないが、本日はそのようなことはなかった。

講演後は講師を囲んで、質問が飛び交っている。一方では呈茶が行われており、三峡茶が試飲されている。まあこのようなコラボは当然のことではあるが、一般の方々は歴史のお話しだけでは満足できないのだろう。2階の空間もかなりリノベーションされており、往時の雰囲気はない。

6月4日(日)リアル茶金に会う

朝ご飯はセブンに行って、初めておにぎりを買う。葱塩焼肉30元。思ったよりは食べられる。これからは時間がない時など、このおにぎりで過ごそうかと思ったが、もう帰国まで数日しかない。合わせていつも食べているあんパンを頬張る。伝統的な、安定的な味と値段は喜ばしい。

今日は何と台湾川柳会に行く。私は川柳とは全くの無縁だが、先日会ったHさんが『リアル茶金に会いたいなら川柳会ですよ』というので、その言葉通りに訪ねてみた。南京路のホテルの2階、月に1階開催されているというこの川柳会。台湾人と日本人が十数人集まっている(中には日本から来た人たちもいた)。その中に最年長96歳の廖さんがいた。

『茶金』とは一昨年台湾で放映されたテレビドラマで、主人公は戦前戦後、紅茶生産などで財を成した新竹北埔の客家一族。台湾史がきめ細かく描かれており、かなり好評だったと聞く。突然訪ねた訳だが、幹事役の紹介で廖さんから話を聞くことが出来た。

ある日の台北日記2023その6(1)台鐵弁当とうなぎ

《ある日の台北日記2023その6》  2023年5月26日-6月8日

5月26日(金)台鐵弁当

高雄から戻り、どっと疲れた。やはり暑いのだ。朝から外へ出る気にならず、部屋にあるものを食べて過ごす。それでも昼になれば腹が減り、また弁当屋で食事を取る。お目当ては味噌汁でお替りも自由だった。暑くても食欲が出ることは前向きに考えるべきだろう。

先日頼んだ名刺を取りに板橋へ向かう。もう慣れた道なので迷いはない。こんなに沢山名刺を持ったので配りたい気分になるが、実はもう配る機会はそれほどない。なんだか不思議だ、なぜ私は名刺を作ったのか。何となく持って安心したい、という気分だけだったのだろうか。

帰りに板橋駅の地下でパンを買った。水分以外はパンが一番だと思ったのだが、何とその反対側に台鐵弁当屋を見付けてしまう。先日台鐵に乗っても弁当を食べる機会はなかったので、やはり一度は食べようと列に並ぶ。弁当は2種類で、昔安い60元弁当はもうなかった。取り敢えず標準装備の鶏腿100元弁当を買って持って帰った。容器も以前の紙ではなく、プラスチックになっている。まあコロナもあったし、当然変化するよな。

5月28日(日)林森北路を歩く

最近週末よく出かける。今日はTさんのお誘いで、ランチに出向く。場所は林森北路と聞き、少し早く出て、周囲を散策した。ここはその昔は良く出没したエリアだが、現在はかなり変化した街になっている。飲み屋街を観光客が歩き、泊まる場所になっているので驚く。

Tさん指定の店は鰻屋さんだった。この辺でうなぎと言えば肥前屋。その前を通りかかると、相変わらず行列が出来ている。30年前の倒れそうな古い店が懐かしい。かなり暑いので、歩いている人は多くないが、ここだけは人がいる。最近は本当に飲み屋が減り、各国料理、ホテルなどに変身。

Tさんと、そのお知り合い一家と食事。彼らは今度北京に転勤になるというが、小さなお子さんがいて、何となく大変そうだなと思う。今北京、いや中国は昔とは全然違う。まず入国する時からして大変だ。ビザ取得も時間が掛かるかもしれない。現地でも慣れるまでは台北とは大違いだろう。うなぎセットを美味しく頂きながら、ちょっと昔話をする。

5月29日(月)肉巻

今日は先日高雄で訪ねた鄧先生の依頼で、茶商公会に彼の本を届けた。茶商公会には本当にお世話になっており、本を届けるぐらいはお安い御用だ。更に色々と情報を集めたかったが、既に台湾滞在期間も残りわずかだったので、今回はちょっとお礼を述べてすぐに帰った。

折角なのでまた金春発で別のメニューを食べようと行ってみたが、何と月曜日定休を忘れていた。さて、どうするかと歩いていると、旧円環付近に老舗がいくつかあった。その中でどうしても食べたくなったのが、肉巻。それに魯肉飯、肉羹、鴨蛋を並べて食べまくる。もう台湾が残り少ないので、許して欲しい。

それにしてもこの肉巻、実に美味い。タレが独特だ。この店は60年以上の歴史があるようで、思い出してみれば10年以上前に、ここで食事をしていた。日本のガイドブックにも載っているのか、日本人が日本語で注文しても、店員は難なく捌いている。何というべきか。

帰りに中山駅に行くと、地下通路に誠品書店があるので、そこで涼みながら、本を眺める。細長い、広い店内に日本関連の本が目に付く。ドラッグストアーに寄ると、広告の女優さんの多くも日本人のように見えた。今や当たり前になっているが、台湾には日本が溢れている。夜はまた炒羊肉を食べる。

ある日の台北日記2023その5(3)名刺を作る

5月22日(月)名刺を作る

実は台湾に来てから予想外のことが起きていた。持ってきた名刺がほぼ底をついたのだ。最近は名刺を出すことも少なくなり、新しく作ろうなどとは思っていなかったが、Tさんの会に何度か参加し、そこにやってくる多数の企業人は必ず名刺を出すので60₋70枚を配ったことになる。

折角なので台湾で名刺を作ろうと知り合いのTさんに聞いてみると『板橋にいい所があるよ』と教えてくれたので行ってみることにした。MRTを乗り継いで板橋駅へ。数年ぶりだろうか。何だか全く知らない駅へ来たようで、出口の位置さえ分からない。何とか地上へ出たが逆側だったので、大回りして向かう。

Googleを使って細い道を行き、その店に辿り着いた。入っていくと珍しそうな顔で若い男女がこちらを見る。印刷屋というより、普通のオフィスだ。名詞というと、『どうしてここに?』と聞かれたので『日本人の友達に紹介されて』と言ったら、それだけでにっこり。後で聞いたら、ここに来る外国人はTさんしかいないらしい。

今使っている名刺を取り出してこれと同じ物を、とお願いすると、紙質を確認され、フォントが全く同じではない、と念を押された。取り敢えずあればよいので、と答え、金額を聞くと50元という。え、50元?50枚?思わず聞き返すほど安かった。100枚、50元、ただ200枚から受付。それでも100元なのですぐにお願いした。

LINEを交換して、後の連絡はLINEで行う。実際1時間後には見本が送られてきて、それにOKすると翌日には出来上がったと連絡がある。日本でこんな早くてシンプルなサービスはあるのだろうか。取りに行った時、別バージョンをさらに200枚注文した。これで当分、いや一生名刺はいらないかな。

折角なので駅近くでランチを探したが、何故か適当なところが見付からない。板橋名物があると思えない。意麺の看板に思わず反応して入ってしまった。もうすぐ台南にも行くというのになぜ。まあそこそこ美味しいので良かったが、きっと検索などすれば、板橋お勧めランチがあっただろうに。

そこからMRTを乗り継いで松山空港へ行く。先月台北に来た時に利用した航空会社のマイルが付いていなかったので確認しに行く。搭乗したエバ航空のカウンターはちょうど羽田行のチェックイン時間で混雑していたが、係員はちゃんと対応してくれた。だがなぜマイルが付いていないのかは解明できない。

続いてマイレージカードを持つ日系会社へ回る。そこでもスタッフが日本語で対応してくれたが、なかなか分からない。そしてスタッフが色々と調べてくれた結果、何と私が乗ったフライトのクラスレベルが低すぎて、マイル対象外だというのだ。これには正直驚いた。コロナ前は東京‐台北往復航空券は安ければ3万円、高くても5万円以内であり、マイルもある程度ついていた。今回の料金は約8万円。それでマイルが付かないのか。もうマイルは飛行機に乗って貯めるものではないとはっきり理解した。

何となくモヤモヤしていたので、近所の床屋に寄った。私が昭和の床屋と呼んでいるところだ。ところが同じ通りに2軒あり、3年ぶりで何と店を間違えてしまったらしい。それでもサービスも料金も変わらない。コロナ禍ではどうしていたのだろうか、これで食って行けるのかとこちらが心配するほど。まあ髪を切り、頭を洗ってもらうとかなりすっきりした。

夜はまたもやTさんの集いへ。今回は香港関係者が集まっており、会場も広東料理屋で飯も旨い。ただ個室利用は最低1万元だったらしく、10人の参加者に1000元ずつの割り当てがあった。日本円にすると大したことはないが、屋台暮らしにはちょっと堪える。そろそろこういう会はもういいかな。

ある日の台北日記2023その5(2)芝山厳事件

帰りに中山駅まで歩いて行くと、途中に横丁があり、そこに路上食堂?があった。なぜか日本のおでんやさしみ、寿司などが並んでいる。如何にも台北ならではの光景だ。駅まで来て新光三越に行く。ここの上に誠品書店がある。ここでドラマ『茶金』の原作本を探す。『茶金歳月』、これはドラマの主人公の実在の夫が書いたものだ。ネットでは300元と書かれていたが、書店では380元した。これが定価だから仕方がないが、日本との違いに戸惑う。

5月20日(土)芝山へ

小雨が降っている朝だった。それでも意外と涼しいからと出掛けることにした。MRTに乗り、降りたのは芝山駅。ここは初めて来る場所だった。歩いて10分ちょっとで芝山厳文化史跡公園に着く。そこには恵済宮がある。その横の長い階段を上っていく。雨で濡れた石段は滑る。

取り敢えず気の向くまま歩いていると、展示館に出くわす。芝山岩の採掘に関する展示のようだが、見学者はいない。そこから何とか頂上?付近まで登ると、芝山厳事件の記念碑が現れる。台湾が日本領になってすぐ、日本人教師が襲われ、6名が命を落としたと言われる事件だ。これを戦後国民党は義民の義挙としたようだが、その後学務官僚遭難之碑が再建され、教師たちの活動は肯定されている。

堂内に展示があるようだったが、閉まっており、見ることは叶わなかった。近くに六氏先生の墓が作られており、お堂も置かれている。実は私がこの事件に興味を持ったのは、犠牲者の中に楫取道明という人物がいたことだ。彼の父親は、幕末長州藩で活躍した小田村伊之助(薩長同盟などにも関与)、維新後楫取素彦と改名し、群馬県令などを務めた。しかも道明の母親はあの吉田松陰の妹寿であり、一時は久坂玄瑞の養子として久坂家を継いでいる。このような人物が台湾で客死した時代背景、もう少し知りたい。

最高点から下が良く見える。暑くないのでとても良い散歩となる。するすると階段を下りて、駅の方へ戻る。すぐそこに朝ごはん屋があったので立ち寄る。もう朝ご飯の人は皆食べ終わっており、サンドイッチだけがあるという。土曜日の午前中とはそんな感じだろう。でもこのサンド美味しかった。

結構疲れたので、部屋に戻り午後は休息する。ちょっとした山登りでも息が上がるし、その後の疲労感が半端ない。先週の水道博物館と言い、高い所へ行くのは今後控えよう。夜はまたお決まりの牛肉湯肉絲麺を食べてご機嫌となる。以前は新しいものを探して食べていたが、今やもう気に入ったものだけ食べ続けている。これもみな歳のせいだろうか。

5月21日(日)牛丼からジャージャー麵へ

昨日の疲れが残っていた。朝も起きられないし、動きも鈍い。天気もイマイチなので部屋でグダグダしている。それでも昼頃になると腹だけは減る。といっても遠くに行く気はない。こんな時は牛丼だな、と思い、吉野家まで歩いて行く。昔ここにある吉野家。1階は狭く、急な階段を牛丼を自ら運んで上がらなければならない。これもまた疲れる。しかも相変わらず店員の愛想は悪い。

日曜日なので、家族連れが大勢食べている。そんな中一人でいるとちょっと孤独になる。やはり牛丼は日本の方がうまい。これは肉の質の問題だろうか。いや米の問題かもしれない。そんなことを考えていると、更にうまくない。食後隣のパン屋が目に入る。3個100元に釣られて、パンを3つ選んだら、何と『下の段だけね』と言われ、100元では収まらなかった。何とも納得がいかない表記だ。

そんなこんなでモヤモヤの午後を送る。こういう時は妙に菓子など食べてしまい危険なので、夕方早めに夕飯を探す。昼がご飯ものだったので、麺でいいやと思い、なんと昨日の店へ行く。そしてジャージャー麺を食す。実は先日この店で注文時の間違いからこの麺が来てしまった。まあいいかと食べてみると存外の旨さに驚き、今日もまた食べることにしたのだ。偶には冒険してみるものだということか。

ある日の台北日記2023その5(1)陳悦記から鉄道博物館へ

《ある日の台北日記2023その5》  2023年5月18日-22日

5月18日(木)陳悦記から鉄道博物館へ

何だかコメダに行きたくなる。確か近所に一軒あったな、と探してみると健在だった。11時前満席で少し待っていたが、案内された席が狭すぎてモーニングを食べるのを辞めた。日本でもこんなに席が狭かっただろうか。それに台湾では当たり前も知れないが、店員の対応はいいとは言えない。

何となくそのままバスに乗って、出掛ける。先日大稲埕で訪ねた同安楽の元、陳悦記の建物が残っていると聞き、行ってみる。大稲埕よりちょっと北に位置していたその場所まで意外と時間が掛かってしまった。一部改修中だったが、そこへ入ることは出来た。如何にも100年以上前のお屋敷の一部だな、という三合院の造り、先祖を祭る廟などが見られた。この陳家は1930年代初め、ソ連人が茶の買い付けに来た際、気に入られた茶を輸出していたらしい。もっと色々と知りたいが、資料などはあるだろうか。

そんなことをしていると待ち合わせ時間がやってくる。急いでバスに乗り、大稲埕に向かう。何だか雰囲気の良い食堂、ランチ時は満員盛況の混雑だった。そこに先日も会った呉さんと、茶を商っているという郭さんが待っていた。二人とも30代の若者、郭さんは大学在学中に茶に可能性を見出し、茶業に乗り出して10年だという。今でも自らのブランドを立ち上げ、ネット通販を中心に有名になっているという。因みに奥さんは日本人、実にさわやかな青年だった。

茶の歴史などについてかなり話し込んだ。それから呉さんと大稲埕を散歩しながらまた話す。王福記の前を通りかかり、ちょっと寄ってみる。お母さんは私を覚えていなかったが、お父さんと話すとすぐに思い出してくれた。初代王泰友さんの奥様は昨年100歳を超えて亡くなっていた。

ついに北門まで歩いて来て呉さんと別れる。ふと見ると旧鉄道部の建物が博物館になっていた。コロナ前に来た時は準備中だったが、今回は中に入れた。つい先日新元鉄道部長の話を聞いたので、そんな展示を探したがなかった。それでもかなりの展示品があり、結構な時間をかけて見ていると、5時の閉館時間になってしまった。隣には旧三井の倉庫跡もある。台北はどんどん古い建物を保存している。

そこから呉さんに教えてもらい、もう一度華西街方面へ向かう。広州街、その突き当りまで歩くと、目的地が見えた。ただそこは改修中で中を見ることは出来ない。古跡学海書院、この辺りに150年前ジョンドットの宝順茶舗があったというが、今やその痕跡は何も見いだせない。まあこの付近と分かっただけでも収穫だ。

それからMRTを乗り継いで、今晩の食事会へ向かう。いつものTさんアレンジ、今晩はタイ駐在経験のある方々の集まりというので興味を持って出席したが、それほどタイに詳しい方はいなかった。そして料理もタイ料理を謳っているものの、ほぼ中国料理でちょっと残念。

5月19日(金)茶商公会で

台北滞在も1か月が過ぎ、少し行き詰ってきた。そんな時にいつもいいアドバイスをくれる茶商公会の総幹事を訪ねた。何の用事ということもないが、フラフラと訪ねていき、雑談していると、絶妙のヒントをくれるので何とも有難い存在だ。今回も訪ねていくと、早々にいくつもの情報を提供してくれた。最高のアドバイザーということだろうか。これも彼が歴史好きであり、世話好きであることに起因している。

それから先日来、なかなか行けていない金春発に向かった。今日は開いていたので、早々に座って注文する。牛雑と牛雑湯、特製のたれをつけて食べると旨い。1897年創業と書かれている。100年以上前、日本時代初期から牛肉を食べている人がいたのだろうか。これはちょっと興味深い。そしてこの料理はどこから来たのか。

ある日の台北日記2023その4(4)久しぶりに青田街へ

5月16日(火)青田街へ

今日は昼過ぎに青田街へ向かった。ここは以前時々来ていた、日本時代の建物が残る場所。今もその雰囲気は各所に残っており、更には古民家を活用したカフェなども増えており、ちょっとお茶するにはいい所かもしれない。ただ平日の午後ということもあり、歩いている人は殆どいない。

Hさんが待ち合わせで指定したカフェへ行く。ここは最近流行りの書店カフェ。聞けばオーナーは出版社をやっており、その打ち合わせなどにも使われているらしい。Hさんが来るまで本棚を眺めてみたが、何だか読みたくなってしまうような本が並んでおり、ちょっと驚く。

Hさんとはもう10年位のお付き合いになる。最近はどんどんビックになり、多方面で活躍しているので、なかなか話を聞く機会がなかったが、わざわざ時間を空けてくれたのは有難い。しかしここでも私はお茶の歴史話に余念がない。それに付き合ってもらって、しかも色々と示唆に富んだ話をしてくれて、本当に有り難かった。時間はあっと言う間に過ぎてしまったが、今後も時々はこのような時間があるといいな、と思ってしまう。

帰りはバスに乗って行く。ふと窓ガラスを見ると、セクハラ&盗難防止ベル?なるものが設置されている。私は初めて見たが、いつからこんなものがあるのだろうか。そして正直この、非常ベルと同じように囲われたベルは有効に使われているのだろうか。私は満員バスに乗ることもほぼないので、その実用性についてはつい疑ってしまう。

宿泊先に荷物を置いて、すぐにまた外出した。今晩は大稲埕で約束がある。MRTに乗り、大稲埕公園を目指した。この公園自体はどうということはないが、一応記念碑が建っており、大稲埕の沿革が紹介されているので、外せない。そこからちょろちょろと周囲を見ながら歩いて行く。

既に暗くなった6時半に、同安楽に着いた。ここは4年ほど前紹介されて一度来たことがある。実はここの先祖は茶商だったこともあり、大変興味を持っていて、現在のオーナーに連絡を取ったのだが、残念ながら不在だった。一応予約はしていたが、行ってみると他に客はなく、本当に静かな場所だった。

お茶を飲みながらゆっくり福建料理の食事をした。料理はセットなので、まとまって出てきた。食後にデザートとお茶を楽しむ。ご一緒したIさんとは北京時代の知り合いで、ちょうど彼女が台北に赴任したと聞き、声を掛けた次第だ。北京駐在時代は実に様々な人々と出会ったのだな、と話しながら思う。

5月17日(水)陳さんが来た

今日は台中の陳さんがわざわざ台北に来てくれた。彼は台湾紅茶の歴史を真剣に調べている人で、日本語も出来、私の書いた文章も読んでくれている。こういう人が現れることが茶旅活動では何より嬉しい。しかも来月は魚池の茶業者と共に来日し、一緒に東京と高知を回る予定になっていた。

私の宿泊先で話をした。まず前半は訪日スケジュールの調整だ。これが簡単なようで意外と大変。それでも台湾の人たちは日本に慣れているので、宿から交通手段まで、自分たちで何でもできて助かる。何だか来月が待ち遠しいが、果たして陳さんにとってどんな成果があるのだろうか。

途中から台湾紅茶の歴史を少しした。といってもテーマは膨大であり、とても1₋2時間で話せるような内容ではない。腹も減り、昼は近所の行きつけの食堂でランチを食べたので、余計時間は少ない。結局今日のところは陳さんの関心がある写真や資料を提供して、それに解説を加える程度で終了となる。それでもわざわざ台北まで来てくれた陳さんの熱意には感服する。歴史調査が如何に地道であるかも再度感じる1日となった。その夜、羽田‐高知便を予約するなど来月の旅が動き出した。

ある日の台北日記2023その4(3)湾生、そして伝統的潮州料理

5月14日(日)湾生の話を聞く

今日は実は誕生日だった。いつもは無関心の子供たちから、早々にLINEが来たのには驚いた。FBでは数年前に誕生日を消しており、今日が私の誕生日だと知る人はほぼいない。私はお誕生日メッセージは好きではなく、こちからも送ることはないので、何だか嬉しくなる。一人でお祝いしようととんかつを食べに行く。

それからKさん主催の講演会に行った。湾生の新元さんという方が91歳で訪台されており、背筋の伸びたお話しされていた。私はこの方が戦後明治製菓にお勤めだったと聞き、明治紅茶について情報を求めに行く。だが何と新元さんのお爺様は、あの新元鹿之助鉄道部長だと知り、かなり驚く。湾生にも色々な方がいる。日本語の講演だったが、会場は満席の盛況。知り合いもかなり来ていた。尚新元さんはあのきのこの山の開発者でもあった。

帰りにいつも食べたいと思いながら食べていなかった豚足麺を食べる。まさにコラーゲンたっぷりの豚足にかぶりつき、麺をするすると啜る。こりゃあ、美味いが、ちょっとくどい。周りのおじさん二人も同じものに食いついている。刀削麺と豚足、これはとてもよいコラボだった。これからも偶には食べることとしよう。

5月15日(月)潮州料理

何となく疲れが出ていた。やはり62歳にもなると、もう無理は出来ない。ゆっくり起きてボーッと茶を飲む。これからはそんな日が続く予感がある。そして腹が減ったら外へ出る。近所に鰻屋という名前の弁当屋があったので、入ってみた。ちょうど値上げの時期で、その弁当は100元を超えている。

店内でも食べられるので、日替わり弁当を注文すると、かなりのボリュームがあり、ビックリ。そして自分でよそえるみそ汁が、何とも昔の日式で、かつおだしが効いていて懐かしい。近所の人がひっきりなしに弁当を数個ずつ買っていく人気店。これからはたまには利用しに来よう。

夕方までジョンドットについて調べる。ドッドが150年前に開設した宝順茶舗は萬華のどのあたりにあったのだろうか。今やそれを知るすべはないのだろうか。先日李さんからもらった資料を読んでいると、どんどんと疑問が湧いてくる。これまではとにかく旅が優先だったが、歳も歳だし、もう少し資料を読み込んでみるスタイルが良いかもしれない。

夕方バスに乗って信義区へ行く。この辺は高級商業地区であり、古き良き台北もないので、あまり行くことはなく、地理が良く分からない。今晩は以前から『台湾に伝統的な潮州料理はあるのか』というお題で探していたレストランがあるというので、そこへ向かったが、何とそこは新光三越の中にあった。食前に濃いお茶は出て来るのか。

しかもこの付近に新光三越の入ったビルはいくつもあって、全く迷子になってしまった。何とか表示板を見てビルを特定したが、なぜ三越は同じ場所にこんなにあるのだろうか。これで集客はどうなっているのだろうか。疑問はどんどん湧いてくる。少し時間があったので、周囲も歩いてみたが、仕事帰りのOLさんたちが闊歩している。高層ビルと青い空はよい。

潮州料理は当然ながら三越にあるのだから高級店だった。料理も高級で、普段屋台暮らしの私には眩しいものだった。そして食前茶などもなく、高級なお茶のリストが出て来るだけだった。料理の質は高く、美味しいのだが、周囲で食べている人もその辺のおっちゃんではない。

どうやらこの店、以前他の場所で先代がやっていた頃は食前茶なども出していたらしいが、今のご時世ではそれもなくなり、潮州料理=高級料理、路線を進んで、三越に出店したのかなと思われる。まあでも誘ってくれたSさん夫妻と楽しくお話したので、良かった。もう伝統的な潮州料理は台北にはないとよくわかった。そんなことを考えながら歩いていたら、帰りのバス乗り場に迷った。

ある日の台北日記2023その4(2)自来水博物館へ

本日は先日偶然会ったUさんのオフィスに伺い、Uさんが現在進行している霧社のプロジェクトの概要を聞きに行った。霧社は私にとっても懐かしい場所であり、知ることも少なくない。コロナ前に完成していたUさんたちのプロジェクトは、コロナ禍を挟み、状況が大きく変わったようで、また一から積み上げているらしい。実に大変な作業を行っており、感服する。本来の交流とは、このような人々の努力により、成しえていくものだろう。

そこを出て懐かしい場所を歩いていく。勿論台北も大きく変わっているが、何だかそのままの古い廟が突然現れたり、懐かしい茶荘に出会ったりする。夜は松江路近くの浙江料理屋で会食があったので、その付近も散策するが、雨になり、中断。その会食は駐在員の偉い方ばかりが集まっており、何だか居場所がなかった。ただ料理自体は美味しかったので、そちらの方に集中する。

5月13日(土)自来水博物館へ

週末は出歩かない、と以前は言っていたが、あまり混んでいない場所なら良いのではと思い、出て行くことにした。まずは刀削麺を食べて精をつける。それからMRTに乗り、公館駅で下車。歩いて数分行くと、自来水博物館に到着する。ここは公園のようになっており、入場料を支払う。そこで『今日のイベントに参加しますか?』と聞かれる。どうやら週末は園内散策があるらしい。

ここは水道博物館なのにこんなに広いのかと思う。子供たちの遊ぶスペースが充実している。門から入ると向こうの方に立派な建物が見える。バロック様式の建物本体は、1908年完成した日本統治時代のポンプ室。総督府は英国人技師ウィリアム・K・バルトンの意見を入れ、台北地区への水供給のため、公館観音山に近い新店渓一帯を水源地として、取水口を設置したとある。1977年にその役目を終えたが、その後修復され、現在水道博物館になっている。

中に入ると大型の抽水機が何台も並んでおり壮観。一室には最近復元されたバルトンの胸像が置かれている。バルトンはお雇い外国人として、日本の上下水道の基本計画を策定、同時に弟子を育成。1896年に台湾に渡り、台湾の上下水道の整備を計画するも病に倒れる。その後は弟子の浜野弥四郎が引き継ぎ、台湾の上下水道は完備されていく。浜野は1919年に台湾を離れる際、バルトン像を製造したが、戦時中に供出されてしまう。初代バルトン像建立から100年、新しい胸像が作られたが、どれだけの人はバルトンを知っているだろうか。

建物を出て、観音山貯水池に向かう。ここは台北とは思えないほど自然が豊かで、ちょっとした山登りになり喘ぐ。小雨も降り始めたが何とか登り切り、貯水池跡を見る。ここからは台北市が良く見える。帰りに建物の裏に回ると、若い女性がモデルとなり、写真愛好家がカメラを向けている。写真が好きだったバルトンはここにも生きているというか。

帰り道、シャッターの閉まった店の張り紙に思わず笑ってしまった。『店主が足を怪我したので一日休み』と。笑い事ではない。日本でも台湾でもこれからこんな張り紙が増えるだろうが、ただ休む事情をこう書くのかと思ってしまう。いや、お客は近所の人なので、心配を掛けない措置かもしれない。

帰りに最近近所に出来た食堂に入ってみた。チェーン店のようだが、お客はおらず、店もやる気のなさを露骨に感じる。こうなると食べ物も美味しくは感じられない。その夜、NHKの番組を見ていると『全てのものは無常』『万物は常に変転する』と言っていたのが、なぜか心に響く。