そのわずか数年後の1935年、製茶試験場第5代場長谷村愛之助と魚池で紅茶作りを始めた持木壮造、そしてそのパートナーである廖阿霖らは、ここから(正確にはもう少し先の眉原部落)眉原山(バイバラ山)に生えている台湾原生山茶を目指して山登りを始めた。その時採取した標本が現在も台湾大学の保管されており、それを見た上で今回の山登りとなった。我々は梁さん(元茶業改良場)とスティーブ(魚池持木農場跡で紅茶作り)を加えて4人が集合。1台目の車で山を登り始めた。

30分ほど舗装された山道を行くと、そこからは徒歩。そして途中で山に分け入っていく。最初は道があったが、途中から徐々にその影が消えていく。何度もここにきているガイドの梁さんがいなければ、とても前には進めない。そしてついに台湾山茶の木に辿り着き、一同安堵して記念写真を撮る。


しかしそこからまだ先があった。しかも相当急な坂道が続き、最近降った雨の影響で道は滑りやすく、かなり危険だった。それでも前に進んでいくと、何とロープが用意されており、それを伝って這って登る場面すらあった。まさかこんなに厳しい山登りとは知らず、普通の靴で来てしまい、長靴を貸してもらっていなかったら、どうなっていたことだろうか。所々で素晴らしい風景が見られる場所があり、それが救いの旅だった。


そして歩き始めてから約1時間、標高1200mから1550mまで登って、何とか台湾山茶の林に入り込んだ。そこはもう幻想的な世界であり、疲れと同時に感動が体に心地よく触れてきた。そこへ陳さんが湯を沸かし、スティーブの紅茶が振舞われれば、もうこれまでの苦労は全て吹き飛ぶ。



眉原山に生えている茶樹は喬木であり、茶葉も大きい。山頂近くである現在地では、太陽の光がどれだけあたるかで、その生育状況に大きな違いが出る。中には既に倒れてしまった茶樹も見られる。林業研究所と共同で、ここで生育している茶樹は管理され、守られているが、大自然を前に人間は無力だと感じる雰囲気がある。

かなり体が休まり、心も整い、下山する。ところが当然ながら登る時より、降りる方が大変だ。滑らないように細心の注意を払えば、かなりの体力を要する。メンバーよりだいぶん年上のこともあり、置いていかれないように足を進めるが、一歩間違えば骨折は免れず、気を抜くことは出来ない。慣れた道のはずだが、登った時とはまるで違った風景になっている。

約1時間かかって車を停めている場所まで戻ることが出来たのは幸いだった。今日はずっと天気が良かったことも幸いしたと思う。清流部落で各車に戻り、最後に眉原部落まで行って山全体を眺めて解散した。下山さんの別荘がこの辺にあったように思ったが、見付けることは出来ず、そのまま台中まで帰って来た。

陳さんがどこかへ連れて行ってくれるという。そこは日本時代に作られた放送局だった。なぜここに、と思っていると、その敷地内に石灯篭が見えた。近寄ってみると台中軽鉄という会社が昭和5年に神社に奉納したとある。なぜそれがここにあるかは不明だが、この会社の監査役として持木壮造の名前があり、灯篭にもその名が刻まれている。私は以前神社周辺を探したことがあったが、見つからなかったものだった。さすが陳さん。

部屋に戻るとどっと疲れが出た。ただ何故か腹も減っており、台中駅まで行って台鐵弁当を購入して、部屋に持ち帰り食べた。初めて台湾に来た40年前からよく食べている台鐵弁当には、何となくホッとするような、変わらぬ美味しさがある。それは今風にいう、普通に美味しい、ということだろうか。夜は疲れからよく眠れたが、翌朝から足の筋肉痛が始まり難儀する。
