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カンボジア・タイ 国境の旅2016(5)人材育成の現場

村の教育

それから実際に過去に地雷処理が行われた場所へ向かう。雨でぬかるんだ道、そこに地雷処理の看板が建っていた。その先の道はTさんが寄付を募り、整備したのだという。確かに地雷を処理しても、それからどうするのか、どのように使うのか、も重要だ。車で数分行くと、小さな家が建っていた。だが農作業に行っているのか、誰もいない。なぜここへ来たのか。

『実はここの家の子が今愛媛に留学している。ものすごい勉強家で、中学生の時、どんなにひどい雨でも日本語学校まで通ってきていた。日本の高校に留学する時には、日本の高校生と同じ基準で受験して、見事合格した。120時間は勉強していた』というのだ。これには正直驚かざるを得ない。何しろこのぬかるみの道を歩くだけでも大変なのに、学校まで行くとは。そして毎日街灯もないこの道を歩いて帰ってきたのか。更には日本語がそれほどできないのに、頑張る、驚異の粘り。今は日本の大学に入るべく、猛勉強しているらしい。是非一度会ってみたい!その家の庭にはなんと不発弾が転がっていた。これが現実なんだ、その中で光を見出そうと努力する人々。

 

そして事務所に戻ると、学校を終わった子供たちがそこで遊んでいた。ちょうど日本語教室が始まる所だった。私もそこに混ぜてもらう。生徒は10-13歳ぐらいの子たち。自分の名前と年齢を大きな声で言ってくれる。先生は高校生。それでも日本語が相当にうまい。彼女の通訳で、一人ずつ、色々と聞いてみる。『ここから日本は相当に遠い』ということを実感する。日本語の先生になりたい、日本へ行って日本語を勉強したい、と言われるとその夢をかなえてあげたい気持ちになる。

 

この学校は日本人女性の寄付により、昨年完成したという。村を向上させていくには、『教育』が重要だとTさんは考えている。しかしただ日本語を教える、ということでない。教室に入る時に、履いてきたサンダルをきちんとそろえる、そんなところからやっている。恐らく子供たちも、煩いな、面倒だな、と思っているはずだが、このような基礎教育こそ、これからのカンボジアに必要なものだという。

 

今は小学校に通えない子供は殆どいなというが、勉強するモチベーションを上げる必要もある。一生懸命勉強した子にはご褒美が必要だ。日本側で受け入れてくれるところがあれば、留学にも送り出す。現在2人の村の子が日本に居る。先ほど家を訪ねた子の頑張りは、村でも有名なはずだ。生徒たちがきれいな日本語でアンジェラ・アキの『手紙』を歌ってくれた。先生役をしている高校生は本当の歌手のように『涙そうそう』を歌い上げた。次は誰の番だろうか。人材育成、その形を見る。

 

シャワーを浴びさせてもらう。と言ってもお湯は出ない。水シャワーを浴びるのだが、水をそのまま浴びると冷たいということで、Tさん自ら考案した、シャワーがそこにあった。確かにこれを使うと、管を通る間に少し温くなっている。とはいえ、水シャワー、私はインドやタイなどで何度も経験があるので、1-2日は問題ないが、出来ればお湯が欲しくなるはず。食事も日本食などは食べず、現地の食べ物で通しているらしい。Tさんは私より一回り以上上なのに、村人と同じ生活をしている。これは簡単なようなすごいと思う。そして泊まりに来た日本人に水シャワーを経験させることはかなり重要なことのように思えた。

 

夕飯を頂き、Tさんと話し込む。ここカンボジアで地雷処理をする意味、政府の関与、国際貢献やボランティアなどの在り方、など話は多岐に渡る。『議論ばかりしていても何も進まない。まずは実践すること』なのだろう。既に69歳という年齢のTさんがカンボジアと日本を何回も往復して、実務である地雷を処理し、村の将来を考え、そして日本にこれを伝え、寄付を募る。今回、クラウドファンディングという新しい手法を取り入れたのも、『やってみよう』という精神の表れだろう。この村の在り方とそこへの関わり方は、必ずや日本人にも参考になる。Tさんは相当に疲れているはずなのに、夜遅くまで話に付き合ってくれた。情熱が感じられる。

 

728日(木)

大きなベッドで安眠した。まだ薄暗いのに鳥のさえずりがうるさい。外に出て朝日を浴びる。犬が転がって遊んでいる脇で、デマイナーの女性が既に出勤してきて、庭の掃除をしていた。バイクで送られて出勤する人もいた。6時半過ぎには朝礼が始まる。今日やるべきことを確認。それから場所を移動して、昨日までに除去した地雷を11つ確認している。『これはソ連製』などと言いながら、カタログを見ている。地雷と言ってもその種類は予想よりはるかに多い。爆薬の有無などは勿論、その性能、処理に仕方、などの知識を共有している。

 

朝ご飯を頂くと、Tさんの部屋でコーヒーを飲む。するとPCが振動して、スカイプが始まる。日本との時差2時間、既に愛媛事務所の活動は始まっており、NPO理事長として、Tさんに色々と指示を仰いでいる。プレーイングマネージャーであるTさん、理事長が現場の第一線で活動しながら、色々な決済もするのは大変だ。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(4)村に工場が誘致されて

 2. タサエン村
いきなり現場見学

国境を出た車は田舎道を走っていく。と言ってもちゃんと舗装されており、問題はない。広々とした空間が広がっている。元ポルポト軍の司令官の住まいが立派に建っていた。そういわれて初めて、こののどかな空間が20年以上前は内戦の舞台だったと気付かされる。しかし本当にここで何かがあったのか、と思うほど、何もない静けさ。

 

車は大きな建屋に近づいた。そこはTさんの地元、四国から企業を誘致して建てられた工場だった。正直こんな田舎に日本企業の工場があることに驚く。そして日本人の駐在員も一人いた。工場を案内してもらうと、上等な和紙を使い、和服を包むための紙を作っていた。カンボジアの片田舎で和服を包む紙とは。この意外性に仰天する。工場は広々としており、その中でカンボジア人の若者が働いている。日本語の通訳をしている若者は先日バイクで事故に遭い、かなりのケガをしていた。『カンボジアではヘルメットは重要です』という。

 

次は地元のカンボジア人の家を訪問した。昼間からほろ酔い気分になっているところにちょうど行ってしまう。ここの主人は内戦で片足を失い、ここに移住。農地を広げるために危険を承知で開墾し、結果地雷でもう一つの足を失ってしまったという。だがそれにもめげずに、農地を広げ、キャッサバなどを植え、またその苗を育てて他者に分けていく、という方式で、成功を収めていったようだ。

 

義足をつけていながら、我々を快く迎え、さっさと歩いて畑を案内してくれる。Tさんの支援が如何に彼の助けになっていたかを知るに十分な笑顔で話してくれる。彼の人生を窺い知ることはできないが、内戦があり、兵士として戦い、戦後は地雷とも戦ったのだろう。突然闖入した者には計り知れない努力の結果、今があるはずだ。

 

Tさんの事務所へ行く。思ったより広い敷地、2階建ての建物と、反対側には平屋、正面には工場のようなものが建っていた。平屋は寄付により建てられた日本語学校、正面は焼酎工場だった。2階建ての2階がTさんの事務所兼住居。空いている一部屋は私が使わせてもらう。この部屋には曽野綾子さんなど、著名人も泊まったことがあるという。因みに人気俳優の向井理はハンモックに寝ていたとか。

 

既に昼近く、ご飯が用意されていた。ここには2人の若い女性が住み込みで勤務していた。ベテランが辞め、まだ来たばかりだという。20歳前だが、聞けば10歳ぐらいから畑の草むしりなどの仕事をして、その後タイに出稼ぎに出たり、戻ってきて色々な仕事をしたらしい。若いのに、かなり苦労している。でもこれがこの村では珍しくないという。

 

ご飯と、魚に甘いたれをかけて食べる。生野菜も付いている。これはかなりうまい。彼女らは小さい頃から簡単なご飯は自分で作れるようになっているらしい。ご飯も進む。カンボジアの料理は基本的に甘い。そしてアジア全体にそうだが、ご飯を食べるためにおかずがある。猫がご飯を狙っている。何だか微笑ましい光景だった。

 

ちょっと休息していると雨が降り出す。スコールというほど強くもなく、ほどなくして止む。するとTさん、ミーティングがあると言って下に降りたので、付いていく。そこには地雷除去の作業をする5人の隊員、デマイナーがちょうど作業現場から戻っていた。何と5人のうち3人が女性で驚いた。しかも皆家族を置いて、遠くの作業場まで出掛けるので、数日戻らないこともあるらしい。

 

さすがTさん、元自衛官。きちんと整列して、きちんと挨拶する。こういう光景を見ていると、『けじめ』という言葉が生きて来ると思う。特に地雷のような危険物を扱う仕事、当然慎重に行うはずなのだが、ちょっとでも気が緩むと、事故を招きかねない。作業終了報告を簡単に終えて、すぐに解散となったが、身が引き締まる中に、暖かい何かが走る。

 

雨も上がったので、外出。もう一つ誘致された工場を見る。こちらも紙関係。ご祝儀袋などを作っている。原料は全て日本から運び、形作る?作業だけ。若者が数十人、なんとも楽しそうにやっている。聞くところによれば、この作業、材料を家に持ち帰って、お母さんや妹と一緒にやってもよいらしい。いわゆる内職なのだ。日本では既に内職する人も減っており、また人件費から考えて採算も合わないのだろう。

だがこちらでは人が余っており、家族まで含めると、かなりの労働力がある。内職、実は意外と難しいようにも思うが、カンボジアなどでは有効な手段にも思える。ここでは昔Tさんのところで地雷処理に携わった人もおり、またこの工場が誘致されて仕事ができたことを感謝している人もいる。出稼ぎに行かなくてよい、家族と一緒にいられることはここでは何より重要かもしれない。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(3)不思議なバスで国境へ

727日(水)
カンボジア国境へ

翌朝3時台に起きて、410分には宿をチェックアウト。予め言ってあったので、フロントの横でスタッフが仮眠を取りながら、鍵を受け取ってくれた。そして歩いてテスコへ。道路には当然車は走っておらず、陸橋ではなく、下を渡ると、すぐに駐車場へ着いた。まだ暗かったが、そこにはすでに10人以上の先客がいた。英語で『カンボジアへ行くのか』と聞くと、きちんとした英語で『そうだ』という答えが返ってきたので、彼の横に腰を下ろして待つ。

 

その後続々と乗客が集まってきたが、その人々には1つの大きな特徴があった。非常に軽装、旅行用の荷物を持っているのは私だけなのだ。更にはタイ人らしい人が少ない。このバスはカンボジアへの帰省用かとも考えたが、土産を持っていない。担ぎ屋でもない。フィリピン人や欧米人も数人見られ、どうも違うらしい。かといっても観光用でもない。皆慣れた様子でバスの到着を落ち着いて待っている。

 

510分頃になり、ようやくバスの姿が見えると皆が一斉に立ち上がり、バスの方に向かった。タイでよくあるロットゥと呼ばれるミニバスだから、全員が乗るのは難しい。当然私も出遅れてしまい、大きなケースを持って乗り込もうとしたが、なかなか厳しい。運転手が整理するとあと一席あるというので何とか乗り込めた。残された人も慌てていないので、もう一台バスが来ることは明白だった。私の荷物は運転台に置かれた。

 

席は一番後ろの一番端。隣にフィリピン人の小柄な女性が座ったので、まだよかったが、そうでなければその狭さにとても耐えられなかっただろう。初めは見慣れたスクンビットの通りを走り、そのうち郊外に出て、それから2時間、どこを走っているのかもよくわからないまま、車は前に進んでいく。夜も完全に明け、スピードが出ていた。

 

2時間後に休憩があった。ほとんどの人はここでトイレに行き、朝ご飯を買って食べていた。私は乗り物に乗っている時は食べ物を食べないようにしているので、その辺を散歩した。足が伸ばせるのが有り難い。車もバンパーを上げ、休憩している。ここは一体どこなのだろうか。そして同乗者同士が英語で話しており、顔見知りも多いようだが、一体誰なんだろうか。

30分の休憩後、車は再び走り出し、私は眠りに就いた。そしてその2時間後、起き上がると、そこは閑散とした国境だった。時刻は9時半、休憩を入れて4時間半の旅だった。皆が車から降りて、私の荷物も運転手が下してくれた。さて、ここからどうなるのだろうか。確かTさんは国境で待っていると言ってくれていたが。携帯に電話すると、タイ側を出国するように指示がある。乗客全員がパスポートを持ち、出国手続きをしていた。やはりこの人たちはすべて外国人だった。タイ人とカンボジア人は別のゲートから簡単に出入りしていた。

 

出国するとそこにTさんが待っていてくれた。2年ぶりの再会となる。橋を渡るとそこがカンボジアだった。そして事務所のようなところへ行くと、ドイツ人が待っており、車代として400bを支払った。一緒に乗ってきた他の全員が彼の周りで、用紙に何か記入していた。それでようやく分かった。このバスはタイのビザを取るために一度国外に出るためのバスだったのだ。だからミニバスがテスコのところにやってきて、知っている人だけが乗り込んだのだ。私はそこに便乗した特別の客だったという訳だ。

 

通称ビザランと呼ばれるビザを繋ぐために一度国外に出る行為。本来はきちんとした滞在ビザを取るべきことは言うまでもないが、様々な事情でそれができない人が短期ビザを繋いでいる(日本人なら30日のノービザを繰り返す)。当然政府も取り締まりをするのだが、そこはタイ。必要悪に対しては規制が緩い。また偶に厳しくなるが、すぐに緩くなるのが実態だろう。同乗してきた人たち、バンコックで何をして、働いている人々なのだろうか。ちょっと気になるが聞けなかった。

 

Tさんが反対側の事務所に入った。そこは皆知り合いのようで握手を交わしている。そこで35ドル支払ってビザが交付された。ここがドゥーンという名の国境だと初めて知る。タイからカンボジアへ行く外国人は普通、アラヤンプラテートからポイペトに入るのだが、ここは全く知られていない、こんなことでもなければ通ることはない国境だった。

 

Tさんの車に乗り、国境を離れようとしたが、出口のところで、パスポートチェックがあり、どこかへ行けと言っている。よく考えてみたら、ビザはもらったが何と入国のスタンプを押してもらっていなかったのだ。チェックされてむしろ良かった。カンボジアを出国する時、入国スタンプがなければ、どういう扱いになるのだろうか。不法入国の疑いで捕まってしまうのだろうか。それにしても緩い国境であることに間違いはない。

カンボジアご縁の旅2015(10)プノンペン 街を歩いて気づくこと

それから橋を渡り、ダイアモンドアイランドへ。建設中の国際学校が見える。その他、いくつものの開発が見られた。私の目的地はこの中にあるホテル。実はこの橋ではなく、もう1つ上流の橋の袂にあったので、かなりの時間を歩く羽目になった。ようやくたどり着いて見ると目の前には東横インが建設中だった。1月にプサンで泊まった時、プノンペンにもできると書かれたポスターを見た記憶がある。それが今、目の前に現れた。3月にオープンの予定とか。普通のビジネスホテルの他、日本人の長期滞在を見込んでおり、料金は日本と変わらないぐらいらしい。

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さて、河沿いにお洒落な建物が並ぶ中、私が訪ねたホテルはこちらも日本人経営。屋上に風呂があるというので行ってみたが、あったのはジャグジー。しかも水は入っていなかった。部屋を見せてほしいというと『満室だ』と断られたが、『もし次回泊まってくれるなら、割引するよ』とカンボジア人スタッフは言う。どうも話がちぐはぐだ。実はその横にも新しいホテルが出来ていた。こちらはやや高級なイメージがあり、敬遠して入らなかったのだが、後で聞いてみると、こちらも日本人経営とか。日本人によるプノンペンへの投資は、大きな企業から個人べースまで、かなり進んでいることが分かったが、既に上手くいくケースとそうでないケース、明暗が分かれ始めている。

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ホテルのある建物の後ろには、4年前に観光で来た、大型結婚式場?があった。カンボジアもベトナム同様、結婚式には相当にお金を掛け、盛大に親戚や友人を呼び合う。それにしてもこんな大きな建物、誰が使うのだろうか。前回聞いた時はフンセン首相の息子の結婚式に2万人?がやってきた、と聞いたような気がする。

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また街歩き

それから炎天下の中、メコン川沿いを北上した。カジノのあるナーガホテルは改装中。その向かいには観覧車があるが、かなりスピードが速いと聞いた。今日は動いているのだろうか。王宮にたどり着くと、シハモニ国王の写真が飾られていた。4年前はシアヌーク国王の写真だった記憶があるが、国王は3年前に北京で亡くなっていた。時の流れを感じる。

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かなり北上した川べりのところに、シアヌークビルでも訪ねた日本人経営のゲストハウスがあった。中はやはりきれいで、ドミトリーのみ。ここでもロビーには欧米人がゴロゴロしており、今日も満室で泊まれない、と言われた。『日本人は金があるから、もっと高い宿に泊まるんだろう』とフロントのニーちゃんに言われる。そうなのだろうか。それにしてもこの繁盛ぶり、ロケーションがそれほどよくない中、なかなかすごい。その後疲れたのでWiFiの繋がるカフェで休憩し、ライムジュースを二杯も飲んだ。

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それからゆっくりと歩いて、宿へ帰った。途中にローカル市場があり、中を通り抜ける。熱い空気がこみ上げてくる。狭い路地、野菜・果物・魚など、買い手と売り手が和やかに会話している。中国なら、丁々発止の交渉が行われるが、ここにはそんな雰囲気はない。正月が近いので、赤い提灯などの飾りが売られている。

 

韓国系焼肉

疲れ果てたのでシャワーを浴びてぐったり寝込む。今晩は現地でフリーペーパーを発行しているKさんと、カンボジア伝承医学の復興を目指すTさんと再会する予定。Kさんがトゥクでわざわざ迎えに来てくれる。Kさんと会うのは4年ぶり。すぐ近くの焼肉屋へ向かう。ここは肉屋さんだから、肉が美味いと評判のようで、7時に行くとすでに満員状態。何とか席を確保する。

 

それにしてもカンボジア人の店員のスローテンポはなかなか、凄い。席が空いても案内しないし、既に去ったお客のテーブルを片づけることもしない。我々が何か言っても反応が鈍い。Kさんのクメール語が理解できない子もおり、ここで仕事をするのも大変だな、と痛感した。マネージャーの女性が何とか捌いて行くが、カンボジアの若い子だけでは店は回らない。これは工場でも同じだろう。この国の将来を考えると、ちょっと心配になるが、それは大きなお世話なのだろう。

 

確かに肉はウマし!そして韓国系がやっているので、キムチ以下、副菜がずらりと並ぶ。完璧な韓国焼肉をプノンペンで食べられるとは感激。遅れてきたTさんも加わり、カルビ、ロースと頼み、バクバク食べて腹を満たす。さすがフリーペーパーの編集長、いい店知っている。今やカンボジアでも日本語フリーペーパーの創刊が増え、競争が起こり、独自性を出す必要に迫られている。

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2月10日(火)

ランチ

翌朝はすごくゆっくり起きた。そして出掛けることもなく、宿に籠り、旅行記を書いて過ごした。偶にはこんな時間がないと、疲れが取れない。暑さの中、毎日歩くのはそれだけでも疲労が溜まる。12時前にチェックアウトして、荷物を預けて、またボンケンコンを歩く。ちょうど良いカフェを見つけて、一日中オーダーできるブレックファーストを頼む。WiFiは初め繋がっていたが、途中で切れ、少し休んでいるとまた繋がった。自分の体と同じだな、と思う。

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2時間ぐらいネットを触り、また宿へ歩いて帰り、荷物を持って空港へ向かう。宿の横に居たトゥクを捕まえ、乗り込んだのだが、何と途中で別のトゥクへの乗り換えをさせられる。初めからあの宿の辺で客を捕まえる係だったのか、それとも急用ができたのか、全く分からなかったが、まあ特に問題もなく。空港に着く。現在拡張工事中だ。

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空港ではちょうどエアアジアのチェックインが始まろうとしていた。2時間前しかチェックインさせないのはエアアジアの都合なのか、空港のキャパの問題なのか、いずれにしてもすでにかなりの行列が出来ている。欧米人が多い。ほぼ満席のフライトに乗り、何とかドムアン空港にたどり着く。ちょっと疲れた旅だった。

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カンボジアご縁の旅2015(9)プノンペン イオンモールのワタミにて

3.プノンペン2

Kさんとワタミ

ゲストハウスのフロントのニーちゃんたちは、相変わらずフレンドリーだった。部屋も前回の4階から、2階に移してくれたというので、大喜び。預けた荷物も持ってくれ、2階の個室へ。古びていて窓もないが、快適そうな部屋だった。エアコンを点けて、お湯の出を確認し、さあ、シャワーでも浴びようかとしていると、ドアがノックされた。ニーちゃんが血相を変えて入ってきて、『ごめん、部屋を間違えた』と部屋替えを迫る。今度は3階だというので、しぶしぶ同意すると、ニーちゃん、かなりホッとしていた。

 

今晩は大阪からプノンペンに拠点を移したKさんと会う約束になっていた。彼を待つ間、その部屋でまたテレビを見て休む。カンボジアでNHK大河ドラマが見られる、しかもこんな安いゲストハウスで。ちょっと感激。それにしても井上真央、どうなんだろうか?大河の主演女優としては華がない、ようにも思えるのだが。東出何某の久坂玄瑞もイメージ違うなあ??

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携帯が鳴り、表へ出るとKさんがすごく立派なトゥクで迎えに来てくれていた。がっちりした大型バイクに跨り、運ちゃんがポーズを取ってくれたので、思わず写真撮影。でもこの運ちゃん、田舎の人のようで、イオンモールの場所も分からない。周囲の運ちゃんに聞いて、何とか方向を理解して進む。

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日曜日の夜のイオンモール、さすがにお客が沢山いた。正直日本人としてかなりホッとした気分だった。ホーチミン、そして先日のプノンペンとも平日に来店したため、お客さんが少なく、大丈夫なのかなと危惧したのだが、週末はだいぶ様子が違っていた。家族連れがとても多い。1日遊ぶ場所、遊園地として扱われている。まあ、とにかく人がいることはいいことだ。先日訪問したWakanaショップを覗いたが、渡辺店長は不在だった。

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日本の居酒屋、ワタミに入る。ここはKさんのお気に入りのようで、日本人の店長以下、仲良しだった。ワタミ前会長の渡邉美樹さんが来店した際にも、一緒に食事をしたとか。簡単なセットメニューを頼むと、日本にはない料理が沢山出てくる。カンボジアオリジナルもあり、香港の店から持って来たメニューもあるという。カンボジアの人に如何に受け入れられるか、苦労しているのだろう。味付けも甘めで、カンボジア人好みにしているように思う。寿司も巻物で、日本にはないような具を入れている。

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午後8時前に入店したが、席は殆ど埋まっており、日本人客はあまり見られなかった。殆どがカンボジア人の家族連れ。それが結構いい物を食べており、消費力のある層がいる、増えてきていることを覗わせる。酒を飲んでいる人はあまり見られず、暑い中鍋をつつきながら食事を楽しんでいる光景が印象に残る。カンボジアも金持ちと貧乏人しかない、と言われる国。そこに中間層が出てきたのだろうか。

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Kさんは最近本格的にカンボジアに居を移した設計士さん。日本企業の進出も盛んになっており、仕事は沢山あるようだ。しかし彼は『カンボジアは海外進出の通過点だ』と言い切る。将来はアフリカあたりに行ってみたい、というのには驚くと同時にかなり飛躍があると感じたが。そういえば先日会ったバーの店長、たかやんも昨年は『将来アフリカに行きたい』と言っていた。Kさんの場合、『カンボジアには家族を呼ぼうとは思わないが、アフリカの気にいった国なら、一緒に暮らそうかと考えている』というから本気度は高い。世界はまだまだ広い。こんな発想になるのも、きっとカンボジアという国にいるからだろう。

 

イオンモールの夜は煌々と輝いている。そこに沢山の人が集い、楽しむのであれば、とても良いことだろう。これが続くことを願うのみだ。帰りもトゥクで送ってもらう。プノンペンの街は以前よりはかなり明るくなったとはいえ、まだまだ暗い。イオンの灯りはカンボジアに取って実に眩しい。

 

2月9日(月)

流行るホテル 流行らない和食

翌朝はゆっくり起きて、10時頃に散歩に出た。既にかなり暑かったが構わず、プノンペンの代官山??ボンケンコン付近を歩き回る。ここはお洒落エリアだが、店の浮き沈みも激しい。1年前にはあった日本食レストランが見付からない。早々に店じまいしたらしい。エリアはどんどん広がっている感じだが、お客がそれほどいるのだろうか?プノンペンも地価ばかりが上がり、商売繁盛とはいっていないところが多い。

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本日はダイアモンドアイランドという新興開発地区に行ってみることにした。ボンケンコンからイオンモールの方に歩いていき、橋を渡ると着く筈だったが、道を間違えてしまい、かなりのローカルエリアに踏み込んだ。これは面白いとどんどん進むと最初は市場などがあり、人通りがあったが、後は迷路。そして路地の人の目が厳しくなる。よそ者、を自覚し、すごすごと退散した。

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何とか見つけて橋の手前まで来ると日本食レストランが見えた。時間はまだ早かったが、確か美味しいとと誰かが言っていたので、食べてみることにした。店員の愛想はよいが、お客は私しかいなかった。8ドルのカツ丼を注文し、それを食べたが、最後まで客は私一人。これで経営が成り立つのだろうか。ここが美味いと言われても、これだけ誰も来ないとなあ、プノンペンの日本食屋は完全に淘汰の時代に入っていると思う。

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カンボジアご縁の旅2015(8)シアヌークビル リゾートではゆったりしたい

縁日2

宿のベッドで横になると眠気が襲う。確かに朝から歩き続けて夕方まで来てしまった。熱いシャワーを浴びるとぐったりした。寝入る。東南アジアでは、この心地よい午睡が楽しい。全てのトラブルを忘れて、グーッと深く、眠りに落ちる。その深さに爽快感があり、素晴らしい。気が付くと8時を過ぎていた。

 

腹が減ったので、またさおりさんの店へ行く。今日も忙しそうだったので、声をかけずに、イカ焼とビールを注文。それを頂いていると、さおりさんより、『さっき市場で買った魚の刺身』が届けられた。これが美味かった。やはり自分が市場で見た魚が目の前に出てくるのは面白い。そして焼きそばを食べて、早々に退散した。朝からの疲れがビールで一気にやってきた。フラフラしながら宿へ帰る。

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2月8日(日)

ソカビーチ

シアヌークビル最終日。午前中は散策に充てる。ただ昨日のように遠出すると大変なので、宿の近くを歩く。さおりさんの店と反対側にもビーチがあると聞き、行ってみる。宿のすぐ近くに日本食レストランがあったが休業していた。既にシアヌークビルでもレストランの淘汰が始まっているのだろうか。

 

ソカビーチ、きれいな浜が広がっていた。中国人観光客がパラパラといた。そこへヒジャブを被った小柄な女性たちが団体でやってきた。インドネシアあたりからの観光客だろうか。海を見て嬉しそうにしている。そこへ今度は、若い僧侶の団体がやってきた。イスラム教徒と仏教徒がこのビーチで出会う。勿論言葉を交わすわけでもなく、さりとて避けるわけでもない、お互いが海の見つめている、世界にはそんな関係が必要ではないだろうか。

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ビーチの横にホテルがあった。実に立派なリゾートホテルで、入口まで歩いていくにもかなりの時間が掛かった。かつて子供が小さかった頃、香港からアジア各地のビーチリゾートへ行ったことが思い出される。こんなホテルがあるなら、シアヌークビルにも来ればよかった、アジアはまだまだ広いな、とつくづく感じる。

 

ホテルロビーの向こうでは朝食を取る人でごった返していた。中国人が多くいたのには驚いたが、そういう時代なんだ、と痛感する。かつてはフランス人を中心とする欧米人向けのリゾートだったが、今や中国人の独壇場、それがいいとかどうとか言うつもりはないが、何だか違和感のある風景になっている。ハワイを日本人が占拠した時も、こんな感じだっただろうか。とにかく余裕がない。リゾートのゆったり感もなく、せかせかとご飯を食べ、写真を撮り、バスに乗り込んで観光に出ていく。こういうのはリゾートではない。

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帰り道をトボトボ歩いていると腹が減ってきた。カフェに入ってネットを繋ぎながら、朝食を取ろうと思う。朝昼兼用でパンケーキを食べる。カフェには殆ど人がいなくて静かで良い。実に緩い時間が流れている。シアヌークビルにはこの緩さが似合うのであって、ソカホテルのような慌ただしさは似合わない。どこに行っても同じ行動を取ってしまう中国人や日本人、少し考えたほうが良いのではないか。

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シアヌークビルを離れる

ダラダラとカフェで時間を過ごしていると、ランチの人が入ってくるようになった。そろそろここともお別れだな。宿のニーちゃんもさすがに12時に出ていけとは言わなかった。この宿が経営するバンが1時半に出るのだから、当然といえば当然だが、そんなサービスをセットにしてくれるといいのにとも思う。

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ところが1時過ぎにチェックアウトして、バンの停車場へ行ってもバンは来ていない。チケット売り場に聞いても待て、とだけ言う。乗客が集まり出したが、一向に来る気配がない。1時半を過ぎてようやくバンが乗客を乗せてやってきた。同時にもう一台もやって来て、我々が乗り込む。まあこの程度の遅れであれば、上出来だろう。

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こうしてシアヌークビルを離れた。2泊3日、滞在丸2日にしては中身の濃い旅だった。昨日歩いた道をバンがスピードを出して通り過ぎていく。郊外にはビール工場が見えた。ここはリゾートと同時に工場もあるんだな、とその時初めて思った。日本企業の誘致活動も行っているという話だったが、駐在員はそれほどいないようだ。これからこの街はどうなっていくのだろうか。

 

今回は席が一人席で、ゆったりしていた。乗客はカンボジア人が後ろに固まって乗っていた。日本人も2人いた。1時間ほど一昨日来た道を走ると急に車が止まった。あれ、休憩には早いようだが、と思ったが、やはり休憩だった。トイレを探して建物の後ろへ回る。すると洗濯物が見え、薪で湯を沸かしと、そこに住む人々の生活感が滲み出ていた。こんな光景もよい。

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今回の休憩はトイレ休憩ではなく、カンボジア人がフルーツを買い込むために停止を要求したことが分かった。如何にもカンボジアらしい。また1時間行くと、正規の休憩があったのでわかる。そこで前回同様パイナップルを食べる。その後も順調に進んだが、プノンペン郊外に来ると渋滞が始まる。そしてカンボジア人が一人また一人と降りていき、終点まで乗っていたのは外国人ばかり。合計4時間の旅が終わった。私はそこから15分ほど歩いて、懐かしのナイスゲストハウスへ戻った。都会の道は歩き難かった。

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カンボジアご縁の旅2015(7)シアヌークビル 熱いシャワーを浴びるには頭を使え

街の市場へ

その後さおりさんは忙しそうに作業しに降りていった。私はゆったりとお茶を飲みながら、この景色を満喫し、いい時間を過ごした。さて、次はどこへ行こうかと思っていると、さおりさんが『市場へ行く』というので、付いて行くことにした。ビラに通じる新しい道はかなり急な坂になっていて、歩いて降りるのも、ちょっと難儀だ。ここを登って来るのは大変だと思われる。バイタクに断られるというのも頷ける。

 

下でトゥクを拾い、街の中心地へ。先ほど歩いてきた道を戻る。当たり前だが、実に速い。あっという間に市内中心部に着いてしまう。これで2₋3ドルなら歩く人などいない。ただカンボジアの物価からすると3ドルは意外と高いし、アジアで考えても、カンボジアには公共交通機関がないため、交通費はかなり割高だと思わねばならない。

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市場は午後の気だるさに包まれていた。雑貨、日用品を売る店、野菜を売る店、そして魚を売る店。さおりさんは仕込みとして、魚屋へ向かう。結構いい魚をおじさんが捌いていたが、売ってはくれない。それは他の人が持ち込んだ魚をさばくだけの仕事だった。氷ボックスにも魚が入っており、よさそうな切り身を買う。他の店で小エビも買う。自分が食べるかもしれない魚を目の前で買う、そしてどんな料理にしようかと考えている人を見るのは、実は久しぶりだ、とこの時思った。

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油や塩もここで手に入れる。味の素が大々的に売られている光景が新鮮だ。言葉は片言の英語。クメール語はこれから勉強というさおりさん、それにしてもわずか2か月でかなり馴染んでいて、驚く。ある意味、カザフで揉まれた経験から、カンボジアあたりは容易いのかもしれないが、それにしても順応力が非常に高い。そして必要な物を目ざとく見つける技、昔中国に留学していた時のことを思い出す。欲しいものを見つける力、そして即座に判断して買う能力、これは鍛えなければ身につかない。

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市場で買い物して結構疲れたが、そのままスーパーにも行く。このスーパーは外国製品も多く、日本の醤油や麺なども売っている。お茶のコーナーを見ると、何とカンボジアの茶が売られていた。ベトナムへ一度輸出された物が、こちらに輸入されているところが、如何にもカンボジアだ。美味いのだろうか、このお茶。

 

さおりさんが『少しサボっていきましょう』と言い、市場近くのカフェに入る。ここのコーヒーが美味いというが、私は暑さに負けてライムジュースを飲む。カンボジアでもタイでも基本的にレモンというものはなく、ライムである。これが安くて美味いので、冷たいものを飲む時は大体ライムジュースにしている。当たりはずれも少ない。

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さおりさんの家はこの近くらしい。シアヌークビルでも色々なトラブルがあるが、カザフに比べればかなり楽だという。それは先ほどの市場の様子を見れば明らか。何といってもこちらのほうが断然ゆるい社会なのだ。カザフは社会主義ソ連が色濃く残った世界。かなり緩くなったとはいえ、日本人には厳しい環境だ。長野生まれで、後は富山に住んだだけで、いきなりカザフへ行った彼女にとって、ここは安住の地かもしれない。『親や兄弟もここなら呼べるような気がする』という言葉が妙に印象的だった。

 

GHで騒ぎ

さおりさんと別れて、テクテク歩いて帰る。かなりリフレッシュしたので、足取りは軽い。ただシャワーを浴びたい気分で一杯になる。結局昨日からシャワーを浴びていないのだ。宿に帰れば部屋を替わり、熱いシャワーが待っていると思いきや?あれ。フロントに顔を出すと、ニーちゃんがしれっとキーを渡す。新しい部屋のキーかと聞くと『部屋は既に満室で替われる部屋はない』というではないか。当然文句を言うと、すぐにマネージャーのカンボジア人に電話を入れたが、答えは『12時半に来なかったから部屋はない』との一点張り。何だそれ?

 

ニーちゃんもさすがに困った顔をしている。『本当に1つも部屋はないのか』と聞くと、『実は1つあるにはあるのだが…』、何だと詰め寄ると、『いやー、鍵が壊れている部屋ならあるんだけど??』、え??鍵がどう壊れているんだ?説明を聞いても当然よく分からず、頭に血が上りそうになるのを押さえて、冷静に対処しようと努力した。まあ、とにかく、その部屋へ行ってみた。

 

確かに部屋のドアの鍵が壊れていた。内鍵はかけられるが、外出時に鍵がかからない。それならここに泊まるのは無理だ。だが・・、『お湯は出るんだろう?』と聞くと出るというので出してみるとちゃんと出る。ということは・・『私はここでシャワーを浴びる。それから自分の部屋に戻る、それでどうだ』というと、『いやー、その通り。それが言いたかったんだ』と言わんばかりの顔で、ニーちゃんは満面の笑みになる。彼も色々と苦しんだな、と分かる。

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それから部屋に戻り、着替えを持って、鍵の壊れた部屋でシャワーを浴びた。疲れと汗と怒りを流し、その爽快感は格別だった。だが、いざ外に出ようとすると、何と内側から掛けたチェーンが外れなくなってしまった。どうしよう、廊下に人の気配はなく、このままでは誰か来るまで出られない。仕方なく、力任せにガチャガチャやっていると、何とか抜けたので助かった。熱いシャワーを浴びるのに、これほど苦労するとはさすがカンボジア?

カンボジアご縁の旅2015(6)シアヌークビル 同じ日本人経営のホテルと言っても

日本人経営の宿といいながら

少しお酒が入っていたので朝はスッキリ目覚める。早々にシャワーを浴びようとしたが、いくら待っても湯が出てこない。これはおかしいとフロントへ行き、事情を説明するとスタッフは部屋を見に行こうともせずに、『それは壊れたのかもしれない』という。『その内修理の人間を送るから部屋で待っていて』というので、大人しく待っていると30分ほどして電話があり、『修理は午後しかできない』と。じゃあ、お湯のシャワーを浴びるのはどうすれば?『部屋は満室だから』と素気無い。

 

仕方なくフロントまで降りて交渉するも埒開かず。ついに『この宿は日本人経営なんだろう?日本人と直接話すから電話番号教えて』というと、ちょっとたじろぎ、オーナーはここには居ないと、繰り返す。それでも詰め寄ると、しぶしぶ電話したが、出たのはカンボジア人。英語で状況を説明すると、彼の答えは『お湯は出ない、必要あれば午後部屋を変える』というもの。ニュアンスからすると、『お前の部屋は元々割引料金であり、お湯は出ないんだ』と言わんばかり。彼は一言『ソリー』と言って電話を切ろうとする。

 

あまりに不愉快になり、『日本人に連絡したい』というと、何と彼は『私はボスの電話番号を知らない。連絡も取れない』と言い出した。私はこの言葉で諦め、午後部屋を替わってもらうことで、電話を切った。しかし『日本人経営』と謳っていながら、この対応は何なのだろうか?カンボジアで発行されているフリーペーパーなどを見ると、『日本人経営』と書いてあるレストランや宿がいくつもある。これは安易に信用できないな、と強く感じる。殆ど騙された気分でシャワーも浴びずに街へ出た。

 

街歩き

シアヌークビルの街歩き。まずは海と反対に大通りを歩く。少し高くなったところに、中国系の廟が見えたので入ってみる。天后の像も見えるので、昔はこの下が海で、天后は守り神であったことが分かる。これは香港などでも見られることで、今はひっそりとしているが、ここがそれなりの港町で、中国人の出入りもかなりあった場所、と推察される。帰ろうとすると老人が『こっちも見ていけ』と本堂の方に合図してくれた。ここを訪れる人はあまり居ないのだろうか。

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更に進み、左へ曲がる。ここも広い道だ。最近出来たのかもしれない。車は少ない。侍、と書かれた日本食レストランがある。評判が良いと聞いたので、ランチに出も行ってみるかと思い、通り過ぎる。その先あたりから街の中心になっている。中国系の宿屋なども見えてくる。街はそれほど広くはない。少し歩いていくと、すぐに通り過ぎてしまった。折角なので、港へ向かって歩いていく。

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広い国道のような道をテクテク歩く。相変わらず車は少ないので、危険はない。20分ぐらい歩くとビーチ方面へ出た。そのまま進むと、漢字の看板がある大きな海辺のレストランがあった。中国人観光客を当て込んだレストランなのだろうか。その脇に腰を下ろし、海を眺める。港のクレーンが見える。規模は大きくないようだ。反対側には橋が見える。もうすぐ開通するらしい。海の水は透き通っている。

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Portと書かれた建物を見た。古びた感じでよい。横には鉄道の引き込み線があり、輸送手段になっていたようだが、今はどうだろうか?線路沿いに歩いていくと、段々トラックが道に溢れてきた。今日は日曜日だが、港へ通じる道、多くのトラック、ダンプ、輸送車が走っている。この近くには経済開発区もあるという話だったが、ちょっと歩いても着きそうもなかったので、途中で道を曲がる。

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バスターミナルがあると聞いていたので、そちらに向かう。思いの外、道が長い。というか、既に炎天下、2時間以上歩いている。かなり疲れてきた。ターミナルでバスを確認するとプノンペン行きは1日、数本あった。料金は6ドルぐらいだろうか。昨日のバンの方がやはり高いが、このバスよりは快適そうだ。

 

山の上のホテルで

このターミナルの横の山の上で、さおりさんは昼間働いていると聞いていたので、ストーカーと呼ばれることを覚悟して?電話をかけてみた。実は山は見えているのだが、道が分かりにくい。ぐるっと回って歩いていくと、途中でバイクが迎えに来てくれた。有難い。バイクの後ろに乗り、坂を駆け上がると、何と小型飛行機がはめ込まれたビルに出くわす。これには驚く。このビルは車のショールームとして使われているようだったが、元々は何のために飛行機を嵌めたのだろうか。

 

なぞと考えているとバイクは山の上に到着。さおりさんが出迎えてくれた。ビクトリーキャッスルビラ、何だかとても素晴らしいところ来てしまったことが分かる。山の上から海が一望できるプールがある。部屋は全てコテージタイプ。こんなところに泊まりたい、特に今朝の宿の対応に腹を立てた後だけに、余計にそう思う。シーズンオフなら1泊50ドルとの話もあり、次回は是非!プールだけ使う場合は5ドルだそうだ。昼間だけプールでゆったりして、夜は街に泊まり、飲んだくれる欧米人もいるとか。確かにここに帰ってくるのは、特に夜はトゥクの運ちゃんも嫌がるかもしれない。

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このホテル、オーナーは日本人だそうだ。1年前に買い取り、営業を始めたばかりで知名度は高くないので、お客はそれほど多くない。そこがまた良い。さおりさんはここにある日本食レストランのアドバイザーとしてメニューの選定や食材調達のチェックなどをしているようだ。レストランの店舗も贅沢な造りで、1階はバースペースになっている。2階からの眺めは最高に良い。知る人ぞ知る場所といえよう。ちょうど日本人がカンボジア人を連れて食事に来ていた。更には韓国人が刺身の盛り合わせを美味そうに食べている。『以前の店のレシピをそのまま使っている』とのことで、さおりさんの仕事は多そうだ。

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カンボジアご縁の旅2015(5)心地よいシアヌークビルの夜

哀愁のビーチ

2時間も話を聞いていたら、4時になり、さおりさんは仕事に行ってしまった。私は取り敢えず、ビーチに行ってみようと宿を出る。宿の前にはゴールデンライオンの像が。ただライオンと言っても、何ともユーモラスで怖さはない。カンボジアらしい雰囲気が漂っていて、とても良い。シアヌークビルの象徴、ゴールデンライオン、いいなあ。

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さおりさんが『日本人経営のゲストハウスがもう1つ直ぐ近くにある』と言っていたのを思い出す。ゴールデンライオンのすぐ裏手、我が宿のちょうど反対の狭い路地を入ったところに、そのGHはあった。実に新しそうできれい。思わず中に入ると、中庭にプールが見え、欧米人の男女がゴロゴロしながらテレビを見たり、ドリンクを飲んだり、PCをいじったりしている。ドミトリーしかなく、1泊8ドルのこのGH、いつも満員だという。私も泊まってみたかったが、あえなく満員御礼で断られた。因みに日本人客は多くないという。何故だろうか。これが本来あるべき、日本の良さを出した、日本人経営の宿だろう。

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ビーチの方に歩いていく。道が下っていくのですぐに分かる。さおりさんが働いているというバーも通り過ぎた。提灯が下がっており、ちょっと不思議な雰囲気だった。あとで行ってみることにした。この辺は完全な観光地、欧米人が多くみられる。ロシア語の表示などが珍しい。中国人も相変わらず、どこにでも来ている。

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ビーチはきれいだった。ちょうど夕陽が沈む時間帯、ただ静かに陽が落ちるのを見ていた。かなり幻想的な光景にウットリ。私はやはり夕陽好きだ。しかしビーチの後ろの道の方からは煩いざわめきが聞こえて、この光景をぶち壊す。見るとまだ随分と明るい。ビーチには表と裏があるようだ。もう少し暗くなると欧米人がビールを片手に席に着き始める。そんな光景もよく似合うビーチだった。

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桟橋が見えたので行ってみる。ここから離島へ行く船が出ているらしい。シアヌークビルに行ったら、離島を訪ねよ、と何人かの知り合いから助言されていたので、興味はあったが、今回は桟橋止まりにした。船から大勢の中国人観光客が吐き出されてきた。桟橋の横、ビーチの脇には幼い女の子が一人、砂に絵を描いていた。何故かその光景が映画の一場面のように哀愁を感じさせるものであり、少女の今の境遇に思いを馳せたりした。

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バー縁日で

まだ暮れきらないうちにビーチを後にした。余韻が少し残っていたので、そのままさおりさんのバー縁日へ行ってみることにした。このお店、日本の縁日を想定したとかで、射的あり、金魚すくいあり、実際にはやっていないが、かなりの雰囲気を出している。カウンターに座り、ビールを頼んで飲み始める。さおりさんは注文が入ると厨房で作業するので、行ってしまうのだが、代わりにカンボジア人の男女がカウンターで相手をしてくれる。男性はこの店を任されているようで、愛想がいいが、女の子はあまり働かないで、携帯をいじっている。

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2人組の女性が入ってきた。昨日も来たのだとさおりさんはいう。注文はご飯とみそ汁、みそ汁の中にご飯を入れて、美味しそうに食べている。韓国人かなと思い、英語で声を掛けたところ、中国人だった。成都から来た小学校の先生だとか。旧正月前の混まないうちに海外旅行をして、正月は実家でゆっくり過ごすのだという。味噌汁が大好きだが、成都では日本料理が高い。この店の味噌汁は本物で、しかも安いと大満足だった。中国人の海外旅行はきめが細かくなっている。恐るべし。

 

ここのおつまみの多くは1皿1ドル。さおりさんが作って、この値段だからカンボジアではお値打ちだろう。エビの皮揚げ、冷奴、アジアフライで3ドルとはすごい。これにビール1杯1ドルだから、安いとしか言いようがない。ご飯物も3ドル程度なので、夕飯を軽く食べることも出来る。

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それに釣られてか、常連のおじさんが二人、カウンターに座った。一人は北海道から、一人は鹿児島から来ているという。冬の時期は暖かいカンボジアにいる。ロングステイというより、大橋巨泉型、1年を2つか3つに分けて住むリゾートタイプだ。リタイア後の一つの典型モデルのようだ。プノンペンのように発展することもなく、物価も比較的安く、静かだが、海もあり、外国人も多く、ある程度の設備は整っている、住み易い場所だという。仲間も増えて、よくパーティーを行い、皆で飲みにも行くという。同好の士、という感じで悪くない。

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お客は入れ代わり立ち代わりやってきた。日本人ばかりでなく、欧米人もカウンターに座る。ビールを片手に、話が弾む。ここはどこなんだ、と思ってしまう。店を出て、街を歩いてみた。金曜日の夜ということもあり、外はずっとお祭りのように人が歩き、酔っ払っていた。安く飲めて楽しい街、シアヌークビルは今、注目されている。

 

宿に帰ってシャワーを浴びようと思ったが、朝からの疲れでネットもやらずに、そのままベッドに入り、寝入ってしまう。それが翌日のトラブルに繋がっていくのだが、その時はぐっすりと寝込んでいて、いい夢でも見ていたのだろう。

カンボジアご縁の旅2015(4)カザフからシアヌークビルへ

2月6日(金)

シアヌークビルまで

翌朝は早めに起きて、ホテルをチェックアウト。8時にはロビーでバス会社の迎えを待った。が、迎えは一向に来ない。8時15分になり、電話を入れたが埒が明かず、フロントの女性に電話してもらったところ、これから迎えが行く、というではないか。昨日オフィスまで行って確認したことは何だったのだろう。

 

結局8時半頃に迎えのトゥクが来た。スタッフの若者が一人乗っていた。勿論謝るでもなく、悪びれた様子もない。英語で日本について、色々と聞いてくる。『日本の給料が高いというのは本当か?英語は通じないらしいが?』など、昔中国で聞かれたことを懐かしく思い出す。『英語を使いたいなら、そして高い給料をもらいたいなら、シンガポールなど他の国を目指すべし』と思わず回答した。今の日本、なぜか悲しい。

 

5分ほどでバス会社に到着。既にバンは来ており、乗り込みは始まっていた。予め座席が決まっており、私は二列目の窓側に。まあまあ窮屈というほどではない。それにしても『日本人経営』をうたう、プノンペンの会社は多いが、ここはどう見てもローカル経営。昔は良かったのかもしれないが、経営、メンテがなっていない。まあ、それでもここはカンボジア、目くじら立てても仕方がない。

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満員のバンは空港方面へ向かい、その渋滞を抜けると、一路シアヌークビルを目指して進む。道はそれほど悪くはない。途中2時間ほどで休憩があり、食事をとる人、トイレに行く人など様々。私は長距離バスでは何も食べないことにしているが、あまりに美味しそうだったのでパイナップルを買って食べる。きれいにカットされ、串で刺す。確かに甘い。

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それからまた退屈なバンの旅。殆どの乗客は寝入っている。カンボジア人もいるが、欧米人が多い。中には黒人もいて目を惹く。アフリカから来たのだろうか。日本人は一人もいない。シアヌークビルは日本人には認知されていないのだろうか。そんな事を考えていると午後1時前に街に入った。どこで降りるのか分からないのでそのまま乗っていると、街を過ぎていき、ある所で停まった。そこが終点、バイヨンゲストハウスだった。

 

2.シアヌークビル

ゲストハウス

バンが停まった奥がゲストハウスになっている。プールもあり、よさそうな所だ。既に電話予約もしてあり、バンのチケットを見せると15ドルの部屋が一割引きの13.5ドルになった。これは嬉しい。2階にはバルコニーのある部屋もあり、欧米人が下を眺めていた。私の部屋も2階だったが、行ってみると、窓が嵌め殺しになっており、外へ出られない。バルコニーには建材が置かれており、物置として使われている。他の部屋はないのか、と聞いたが、満員だという。バルコニーのある部屋は1か月も滞在する人に占拠されているとも言う。まあ仕方がないか。部屋は広いし、それほど悪くはない。ネットも繋がる。

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明後日プノンペンへ戻るのにも、ここのバンを使おう。そうすればバスターミナルまで行く移動の手間も省ける。チケットを買いに行くと、いい座席が買えた。また10ドル。これでシアヌークビル生活も安泰かと思ったが。世の中そううまくは行かない。

 

劇的な再会

今回のシアヌークビル訪問の目的はただ一つ。さおりさんに会うことだった。彼女とは昨年8月、中央アジアのカザフスタンで出会った。当時アルマティで日本料理屋をやっていた彼女、その逞しさとダイナミックさに惹かれ、滞在中2度『かぶと』を訪れた。まさかカザフで日本の味に出会えるとは感激だった。アルマティに来た日本人は皆ここに立ち寄るようで、スキージャンプの高梨沙羅さんのサイン色紙が目を惹いた。しかし、その後ボヤ騒ぎがあり、店は閉店。そして、・・・なぜかさおりさんはカザフを出て、ここシアヌークビルに居る。これは会いに行かねば、と思う。

 

電話すると懐かしい声が響く。そして宿までやって来てくれた。まだ半年、そんなに変わっている訳はない。だが彼女の状況は劇的に変わっていた。ホテル横の軽食屋でビールを飲み、イカフライをつまみに、食べながら話す。まだシアヌークビル滞在は2か月ぐらいらしいが、既に馴染んでいる感がある。

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結局ボヤの後、改修が難しくなり、様々な問題が発生して、かぶとをたたんだ。それから娘さんとキルギスを旅した。そして娘はそのまま、キルギスに残った?え、18歳の娘をカザフではなく、キルギスに残した、なんと大胆な。それは娘の意思でもあったようだ。向こうに友達もいるので、大丈夫だと。キルギスで大学に入るという。我々も昨年アルマティからキルギス国境まで車で行ったが300㎞以上あった。しかも母親は遥か遠くのカンボジアへ去った。これはすごい。

 

スパゲッティを食べながらそんな話を聞いた。ウソのような事実、というのは妙に説得力がある。さおりさんが突然路上に走り出す。ビール会社の車が目の前に居た。『店にビールを置いておいてくれ』と頼んだのだという。ここでは注文しても忘れられてしまいこともあるという。既に様々なことを学びとっている。店とは現在働いている、ここからすぐのところにある縁日というバー。夜はそこで日本食を作り、つまみを出す。昼は別の日本食屋でアドバイザーをしているという。確かにここシアヌークビルでは『日本食が作れる、レストラン経営の経験がある』というのは、大きな価値があるのだろう。

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