ホーチミン茶旅2023(4) ビンズオンで台湾

フラフラと歩いていると一軒の茶荘が目に入った。阿里山高山茶の文字が目に留まり、興味本位で入ってみた。するとそこにいたのはやはり台湾人。オーナーは以前ここに投資して工場を作ったが、今は引退して茶荘を開いたらしい。茶を飲ませてもらうと懐かしい阿里山の烏龍茶の味がした。『ベトナム産高山茶は沢山あるが、わざわざ台湾から烏龍茶を輸入しているのはうちぐらいか』と笑っている。

1990年代台湾も変化して、南進政策が取られていた。その時期軽工業を中心に、東南アジアへ数多くの台湾企業が出て行ったが、実は政府の支援はあまりなく、皆独力で頑張ったらしい。その後他へ移る者、台湾へ帰る者など様々な進路があり、今や台湾人はそう多くはないという。これも一つの華僑だろうか。台湾の中小企業はなかなか強い。

付近をほぼ一周して腹が減り、元の店に戻って大腸米線を食べることにした。ベトナムでこれが食べられるとはちょっと感激。ほとんどの客はランチビュッフェで皿を山盛りにして、腹一杯食べている。さすがに台湾系なので、台湾人と思われる客が多く来ている。

午後は車を呼んでビンズオン省の中心へ向かう。トーゥダモートという街の真ん中には、天后廟があった。ここも華人が多そうだ。だがその横にはかなり立派な教会も見られる。ちょっと行くと、古い市場がある。建物がレトロでよい。その向こうには川が流れている。この川が物流の中心だったのだろう。いい風が吹いている。渡し船に乗ってみた気分になる。

市場には昔はお茶屋だったところがいくつか見られた。だが現在はコーヒーがメインになっている。この街にはいくつものお寺があり、華人は多そうだが、お茶は飲まれないようだ。帰りがけに台湾系の店があり、美味しい豆乳を買って飲む。なぜかパンをおまけにくれた。最後に見つけた寺はかなり由緒があるように見え、更にその向かいには相当大きな仏像が横たわっている。この街は決してホーチミンの横にある、というだけではない。

また車を呼んで、Nさんを送り、そのままホーチミンまで帰った。既に辺りは暗くなり、ちょっと腹が減る。フラフラ歩いていると、ブンチャーの店が目に入り、思わず入ってしまう。まあ味はそこそこだったが、そこの主人の態度が悪く、あまり気分の良くない夕飯となった。やはりブンチャーはハノイで食べるべし。

11月12日(日)チェンマイへ戻る

今朝も宿で朝ご飯を食べて、帰り支度をする。ホーチミンの空港は街から近いので安心して行ける。それでも随分早く車を呼んで空港に向かった。それは今回のフライトがベトジェットであり、その昔、随分とチェックインで並ばされた、苦い経験があったからだ。カウンターへ行ってみると、多少は並んでいたが、大したことはなかった。イミグレもすぐに終了する。

時間を持て余したが、この空港でやることはない。仕方なく搭乗ゲート近くへ行くと、何と前の便がオーストラリア行きとかで、その便が出るまでは他の搭乗者はそこの椅子に座ることが出来ないと、仕切りが出来ている。そんな決まりがオーストラリアにはあるのか、とちょっと驚く。同時に座る場所が無くて難渋する。昔はよく遅れが出たベトジェットだが、今やベトナム航空を上回る航空会社となり、今回遅れもなく、スムーズにチェンマイに戻った。あの制服はそのままだった。

ホーチミン茶旅2023(3) 鰻と火鍋

Kさんとは前回会おうとして叶わなかったので、久しぶりだ。外へ出てランチを探すと丸亀製麺が目に入ったが、ちょうど昼時で超満員。相変わらずベトナムでは人気のようだ。仕方なく隣を見ると宇奈とという鰻屋があったので、こちらへ入ってみることにした。日本でも格安鰻屋というイメージだ。

こちらの店はお客がまばら。日本の宇奈と同様、鰻としては安いがさすがにベトナム人のランチには高いので、ゆったりと食べられる。私は鰻唐揚げ丼、Kさんは鰻カレーを試してみたが、まあわざわざ一緒に食べなくても良い、という感じで、ベトナム人の気を引くこと、鰻単品より安くなるように設定しているのかもしれない。

それにしてもKさんとは4年ぶりだったが、その間の彼の変化は凄かった。コロナ禍により、人生が変わってしまった人は多いのかもしれないが、彼もその一人なのだろう。ベトナム社会も温かいとは言えないが、実は日本社会も温かくはない。今後何が起こるか分からないが、その時頼れるのは自分だけかなと、話を聞いていて強く思う。

夕方まで人生について考えていた。時間が来たので外へ出て歩く。張さんから指定された行き先はビジネスビル。なぜこんなところに中国の有名火鍋屋があるのだろうか。時間は午後5時だったが、店内には既にかなりの客がいて、熱気があった。この店は入り切れない客の待ち時間に、色々なサービスをして客を飽きさせない、というのがあったが、ホーチミンでもあるのだろうか。

張さんが火鍋を注文してくれ、前菜やフルーツを取り、乾杯した。その頃、店のいくつかのテーブルでは誕生会などが催され、ハッピーバースデーの歌が歌われ、店員がケーキをプレゼントして、テーブルを盛り上げている。更には途中からあの変面ショーまで行われ、大いに盛り上がっている。まるでバブル期の東京を思い出す光景だった。

火鍋の料理は決して安くはないのだが、ベトナムの若者はこういうことにはお金を使うようだ。ここの火鍋は格別美味いというわけではないが、こういうパフォーマンスが重要だ。午後8時ごろ店を出ようとしたら、店の前に長蛇の列ができていた。勿論全員の椅子が用意されていたが、ネイルなどが行われていたかは確認できなかった。歩いて帰るとホーチミンのライトアップは美しい。若い女性が着飾って街を闊歩しているのが、これまたバブルを想起させた。

11月11日(土)ビンズオンへ

今日は一昨日会ったNさんの住むビンズオンへ行くことになった。隣の省へ行くので長距離バスに乗るかと思いきや、Nさんから『Grabで来て』と言われてちょっと驚く。バスがないのかと聞くとGrabが便利で早いという。チェックしてみると料金もハノイなら空港から市内へ行く程度なので、その通りに車を呼ぶ。

市内をすり抜け、郊外へ。と言ってもずっと町が続いている感じだった。約1時間かかって、指定の場所に近くづくと、そこはなんと大きな工業団地で驚く。1990年代シンガポールとベトナムが共同プロジェクトで開発した場所らしい。工場も大きいものが多く、日の丸も見えたので日系工場もあるようだ。

団地の先にNさんの住まいがあった。そこで車を降りて歩き出す。この周辺、Nさんによれば台湾系が多く住んでいるという。この工業団地にやってきた台湾人が住み着いたのだろうか。食堂を見ると漢字が見られ、何となく台湾的な料理がメニューに並んでいるのが面白い。この地域の限られた場所だけだというが、小さな台湾村が出てきた。だが最近中国の進出も多いようで、簡体字で書かれた看板も目に付く。

ホーチミン茶旅2023(2)老舗茶荘へ再び

市場の横まで戻ると細い道にはハラール料理屋などが並んでいる。インド系だけではなく、マレー系などもいるのだろうか。それともムスリム観光客向けの店なのだろうか。よくよく見ていると謎は結構深まっていく。そして2つ目のモスクに辿り着く。こちらは中に人が結構いたので遠慮して外から眺めていると、おばさんが『中に入りなよ』という感じで招き入れてくれた。

マリアマンという名前らしい。こちらは観光客も立ち寄るようで有名な寺なのかもしれない。すぐ近くに日本のカレー屋、ココイチがあるのは関連あるのだろうか??それにしてもホーチミンにインド系がそんなに住んでいるとは思わなかった。確かにその昔の貿易都市だから、華人とインド人がいてもおかしくないが、インド系はベトナム戦争などによってどのような影響を受けたのだろうか。そんな歴史が無性に知りたくなる。

ホーチミン郊外に滞在中のNさんがやってきた。Nさんとはヨーガ繋がりで、沖縄やバンコクで知り合い、台湾で茶旅を一緒にしたこともある。取り敢えず今日も茶旅ね、ということで、前回一度行った茶荘を訪ねることにした。まずは市場の横にある松記へ。オーナーは覚えていてくれ、また女性のNさんが一緒だったこともあってか、前回よりかなり対応が柔軟になっており、歴史的な話や家族のことなど色々としてくれた。このお店、いつまで続くだろうか。

続いて、前回一度行って、もう一回来るからと言いながら、突然の帰国となり行けなかった新生茶荘に向かう。ここのオーナーも覚えていてくれ、歓迎してくれた。なぜか六堡茶を飲みながら、情報交換を進める。このお店の間取りが独特で面白い。ベトナム北部の老茶樹についても、知り合いを紹介してくれるという。何と有難いことか。ベトナム高山茶を買って帰る。

お昼はその近くの華人系食堂で食べると、何となくホッとする。そこから車を呼んでショロンへ移動した。前回の旅はショロンに泊まったが、不完全燃焼に終わったので、ちょっと覗いてみる。天后廟などを見たNさんは『こんなホーチミンがあるとは』と驚いている。ザビエル教会なんかもあるので、面白い街ではある。

だがわたしが探したいお茶屋の場所がなぜか分からなくなっていた。もしやすると閉店してしまったのかもしれない。今回はNさんと一緒なので、もう少し話が聞けるかと期待していたが、かなり歩いても見つからない。代わりに高山茶と書かれた紙を見付けたので華語で声を掛けたが、返ってきたのは広東語だった。その店も40年ほどの歴史だというが、雑貨屋さんなどもやっている。結局車で宿に戻り、Nさんと別れた。

夜は前回初めて会ったIさんと再会して、また歴史談義を始めた。場所は宿からほど近いフードコート。かなりきれいで外国人観光客を当て込んで作ったのだろうが、いまやベトナムの若者もかなり酒を飲んでいる。料金はそれなりに高いので、ベトナムの消費力向上が窺える。歴史の話しは果てしなく続き、どんどん遠くへ飛んでいく。

11月10日(金)再会

朝はさわやかなので、朝食後は散歩に出る。今日は北の方にある教会を目指した。30分ぐらい行くと、かなり立派な教会が道路沿いに見える。その建物の形が良く、周囲の目を引く。ホーチミンも本当に色々な宗教が点在している。帰りにトイレに行きたくなり、公園へ駆け込む。ホーチミンの公衆トイレも今やきれいで驚く。その周辺にはバイク配送の人々が大勢待機している。

帰りがけに郵便局に寄る。ここはフランス時代の建物で、郵便を出すというより、観光地として大いににぎわっていた。隣の大聖堂はあいかわらず改修中で姿を現さないが、写真を撮る観光客で溢れている。何とか宿に帰り着くと、意外と疲れてしまい、休む。そこへ旧知のKさんがやってきた。

ホーチミン茶旅2023(1)再びホーチミンへ

《ホーチミン茶旅2023》  2023年11月8₋12日

チェンマイ滞在中にホーチミンを再訪した。これは先月のハノイ旅が非常に簡単だったことと、7月のホーチミン訪問が途中で中断したことにより、やり残しことがあったためだった。

11月8日(水)再びホーチミンへ

先月のハノイ行はエアアジアだったが、今回はベトジェット。ほぼ同じ時間にチェンマイ空港に到着したのに、今回は1階のチェックインカウンターがかなりの行列。そして2階の出国審査、荷物検査の入り口に着いて驚いた。ものすごい大行列。まさかと思ったのは前回ほぼ人がいなかったからだ。チェンマイが乾季となり、急に観光客が増えたからだろうか。同時にタイ人の出国者も増えているのはなぜだろうか。何とも不思議な感じで行列の後ろに並ぶ。

何と荷物検査場に入るまでに40分近くかかった。これならバンコクと変わらない混雑ぶりだ。検査が済むと出国手続きはあっと言う間ではあった。少し余裕を持ってきていたからよかったが、もしギリギリに宿を出ていれば、かなり焦っただろう。待機場には中国人と韓国人の団体が多く見られた。やはり中国人が少しずつ増えているということか。次回も余裕をもって空港に来ることとしよう。

機内はそこそこ混んでいた。そしてあの制服のCAさんたちが動き回っている。前回のハノイまでは1時間ちょっとだったが、ホーチミンまでは2時間かかり、到着したら、もう日が西に傾いていた。入国審査の前にシムカードを売っていたので買っておいてよかった。入国審査も30分はかかっており、その間スマホを眺められたのは良かった。次回からはタイシムカードのローミングを使う方が良いだろうか。

空港を出るとGrabを呼ぶ。ここでは車が空港駐車場に待機しているのをすでに勉強しており、捕まえた車を探しに動いた。何とか見つかったので良かったが、大きな荷物でも持っていたらどうするんだろうか。夕方のラッシュ時に近く、バイクがすごく多く、車の窓の脇まで溢れる。

それでも市内まで近いのが良い。今回予約した宿はベンタン市場のすぐ近く。ただ改修中でちょっとわかり辛かった。ここも窓のない部屋となっている。安い部屋を予約すると最近こんなことが多い気がする。気を取り直して夕飯を探しに行く。取り敢えずベンタン市場を通ってみたが、腹をそそられる食べ物は見付からず、通り抜けただけに終わる。

そこから大通りをちょっと行き、裏通りを歩くと、何となく良さそうな店が目に入った。ちょっと覗くとおばさんが『食べていきなさいよ』と言っているように見え、そのまま席に着く。ここは華人の店だった。メニューを見ると英語があり、麺とトッピングを選ぶようになっている。フウティウ、内臓ミックスを選び、ゆっくりと待つ。何とティシュ2000ドンがメニューにあるのはご愛敬か。この麺、あまり食べたことはないが、内臓好きには堪らない。帰りに店の前をよく見ると、確かに内臓がぶら下がっている。

11月9日(木)インド系と華人

朝ご飯は宿についていたのでそこで食べた。いつものようにオムレツを作ってもらう。それから散歩に出た。昨晩ちょっと検索していたら、宿の近くに、モスクがいくつかあると出ていたので、興味を持った。ベンタン市場の向こう側に、1つ目のモスクはあった。小さな入り口を入ると、その建物はかなり立派。誰も人はいなかったのでゆっくりと見学した。しかしいつ作られたのか分からない。

チェンマイ滞在記2023その2(5)6 再びドイプーメンへ

村に着く。最初の村は赤ラフ族と前回言われた。ジャファーが住み、ドームが生まれたのは、この村だった。今はその家がどこにあったかも分からなくなっているらしい。こちらは伝統的な精霊信仰でキリスト教徒ではない。更に行くと黒ラフ村がある。こちらは後からビルマ方面よりやってきたラフ族。更にタイ国内で移動している人々らしい。

前回来て、見学だけした建物に入っていく。そこにはランチが用意されており、夢にまで見た囲炉裏の焼き鳥、そして竹筒で茹でた豚肉、新鮮な野菜、カオニャオなどが出てきて、驚喜した。これは本当に自然で、シンプル、そして美味い。焼き芋もいい。こういうご飯が食べたかった、というものだ。お茶は番茶、タマダー。囲炉裏が何とも優しい。

食後は外へ出て茶畑を見る。茶摘み体験もできるようだが遠慮して、その歴史を聞く。目の前の畑は40年ほど前、ジャファーが暗殺された後、ドームがアッサム種を他から分けてもらい、植えたという。製茶された茶葉は今日も天日干しされている。標高1300m、更にかなり上れば背の高い茶樹もあるようだった。

名残惜しいドイプーメンを離れた。帰りに滝があるというので見に行く。道路脇から300mとのことだったが、それは障害物競走のようで、非常に長かった。倒れた木の下を潜り、時に跨ぎ、狭い山道を歩いて行く。何とか辿り着くと、そこは轟然とした音が鳴り響く、実に水量が多い、勢いのある滝だった。これは素晴らしい景色だが、ここまで来る外国人は少ないだろう。立派な竹が生え、キノコが何種類も生えている。毒キノコもあるらしい。

30分ぐらいで街へ降りてくると茶工場へ行った。そこはドームの弟が経営しているという。行ってみてびっくり。かなりの規模であり、茶だけではなく、コーヒーなども扱っている。英語で挨拶するとすぐに日本茶の話になったので驚いた。彼はこの兄弟の中では最もビジネスマンであり、最大の関心事がビジネスであることはすぐに分かった。これからの時代、こういう人材がタイの茶業を引っ張っていくのだろう。

そこからファーンの街を抜けて帰路についた。同じ道を帰るのだからあまり変化はないと思ったが、途中で温泉へ寄るという。そこは幹線から少し入っただけであり、川が流れる中にあった。タイ人や白人が水着で川に入っている。その前に嵌る筒のようなものが埋まっており、そこにも温泉が流れ込んでいる。『チェンダオ土管温泉』と日本語で書かれているのは面白い。20年ほど前、日本人がこれを作ったらしいが、今や日本人の利用は少ないようだ。

夕方5時ごろ、無事にチェンマイへ戻り、ドームと別れた。急に腹が減ってしまい、少し歩いて麺を食べに行く。いつものクイッティアオではない気分だったので、思い切って豚肉乾麺すき焼きソースを頼んでみた。まあ、こんな麵もあるのか、という感じだが、とにかくタイの麺は多様で面白い。

11月5日(日)ダンバウ

ファーンの旅の疲れもあり、翌日は大人しくスポーツ観戦。その翌日もまた大学駅伝などを見て過ごす。昼ごはんに何を食べようかと歩いていると、今まで目に入らなかった店が見えてきた。よく見るとあれはミャンマーで食べたダンバウではないか。思い切って店に入り、メニューを見ると間違いない。カレー味の米と蒸し鶏。食べてみると久しぶりで美味い。この辺にもミャンマー系の人が沢山いるのだろう。昼時の店は満席で、その人気ぶりも分かる。料金的にも満足でリピート確定だ。

夜また外へ出る。朝美味い焼き鳥を焼いてみる店が、夜は人を変えてもっと大掛かりに焼いている。思わず何本か鶏を買って、カオニャオと共に持ち帰り、部屋で食べた。カオニャオの量が多過ぎて、どう見ても食べ過ぎだが、やはり美味しいのでよい。そして何より安いのがよい。

チェンマイ滞在記2023その2(5)5 ラフ族を訪ねて

少し戻るとイチゴ畑がある。私が知るイチゴ畑は平地のビニールハウスだが、ここは斜面に作られている。小ぶりで甘さはなさそうだった。その少し先がミャンマーとの国境地帯だという。ヘリコプターの着陸地点に入らせてもらうとミャンマー側が良く見える。一応柵はあるが、向こうの村までは結構遠い。トーチカなどの備えはある。ここで戦闘が起こることはあるだろうか。

近くにラフ族の村があるというので行ってみた。そこは時間が止まったような、昔ながらの山岳地帯。木造の住まいが斜面に張り付くように立っている。何とさっき芋を売っていた女性もこの村に住んでいた。家では老婆が一心にミサンガを作っていた。覗き込んでいたら、彼女は私の腕に優しくそれを巻いてくれた。何だかすごく懐かしい感覚があった。なぜだろうか。

40分ほどで山を下ると、ファーンの街。ヨックのホテルに到着してお休み。夕飯は宿で適当に頼んで食べる。ドームはさすが山岳ガイドだけあって、非常用食料を携帯しており、それも合わせて食べる。食後茶を飲んで、2階の歴史的展示物を復習してから、床に就く。ああ、今日は疲れた。

11月3日(金)再びドイプーメンへ

夜中に雨が降っていたのだろうか。朝少し空気が湿っている。さわやかな朝には、ラフ族粥が良い。漢方的なものが入っている。宿を出てすぐの家に行く。そこは何とドームの父、ジャファーがファーンに開いた店の跡だという。今は親戚が住んでいるとか。家の中にはジャファーやプミポン国王、更にドームを含めた家族の写真などが沢山張られていた。

中にこの家が出来た時に華人から贈られた記念品があり、そこにジャファーの中国語名が書かれていて、その名を初めて知る。ジャファーは元ハンターだそうで、彼が仕留めた鹿などの展示もある。そういえば昨晩ドームが、父親をドイプーメンに連れて行ったのは、アメリカ人宣教師の息子だと言っていて、非常に興味深い。

次にファーンの街から5㎞ほど離れた村へ行った。ここはジャファーが国王から与えられた土地であり、ドイプーメンからラフ族が下りてきて住んだ場所だという。立派なお寺があったが、その脇に最初にジャファーが建てた小さな廟も残っている。さらにその下には、何とジャファーと妻の墓があるではないか。ここにも中国語名、郭有禄と刻まれている。期せずしてドームと墓参りする。

今や村にはラフ族以外も住んでいるが、ジャファーと共に山から下りてきた親戚も住んでいる。その一軒を訪ねると、おばさんや親せきがドームの来訪を喜んでいるという感じだった。この辺の歴史については、まだもう少し精査が必要だが、ラフ族は色々な場所に移住していることが分かる。

そこからドイプーメンへ向かう。途中から登り路となり、最初はなめらかな道が途中から悪路となる。最初の道は30年前、途中からの道は7年前に出来たというから、新しい方が先に壊れるという不思議。まさに手抜き工事だったのだろうか。まあ私は前回も経験しているので問題ないが、ピックアップの後ろに乗ったら振り落とされかねない。

チェンマイ滞在記2023その2(5)4ドイアンカーンへ

11月2日(木)ドイアンカーンへ

先日ヨックがアレンジしてくれた旅が1泊2日で行われる。朝8時前、ヨックの兄のドームが迎えに来てくれた。彼がガイド兼ドライバーだ。今日はまずドイアンカーンへ向かうことになっていた。ファーンまでは同じ道だから寝ていればよいかと思っていたが、1時間半ほど行くと車は止まる。そこにはあのラミンティーの販売店とカフェがあった。ラミンのオーナーとドームは知り合いだったが、オーナーはチェンダオの茶工場にいるらしい。次回はこのルートで再び、チェンダオへ行こう。

更に途中で止まり、北タイで2番目に高い山をバックに写真撮影もする。ドームもガイド経験が長いので、いつもの行動なのだろう。でも朝から何だか喜ばしい旅だ。ファーンまでは3時間、ドームはこの道に精通している。途中知り合いから連絡が入ったと言って、少し違う道に踏み込む。そして広大な畑の中を突っ切り、彼の家に行った。

その人はバンコク在住の潮州人だったが、だいぶ前にここの土地を買い、ここで暮らしていたらしい。美味しいコーヒーを淹れてくれた。今は故あってバンコクにいることが多く、ここに住めないので、売りに出しているとか。とてもいい所だが、日本人が買うのはどうだろうか。タイの華人の投資活動の一端を垣間見る。

そこから30分ほど行くと、最初の目的地、標高600m弱の萬養村の入り口が見えてきた。ドームは食堂を探している。餃子屋に入ったので、てっきり昼ご飯を食べるのかと期待していたら、何とお茶だけ飲んで出て行く。違う店に入ったらしい。次の店は正解だったようで、ご主人が出てきた。

華語で話し掛けると普通に通じる。ただ奥さんはヒジャブーを被っているので雲南回族だと分かる。国民党の中にも回族は結構いたらしい。この辺の話を聞いていると面白い。その間に焼き餃子が出てきたので頬張る。店主の馬さんはミャンマー生まれの74歳。1950₋60年代にこの村に1500人の人々がやってきたというが、今は60家余りが残るだけで、若者は皆街へ行ってしまったらしい。

村には大きなモスクがあるというので馬さんの案内で見学する。清真寺と書かれており、確かにかなりの大きさ、この村には似つかわしくないほど立派だった。学校も併設されており、昔は人口が多かったのも頷ける。ただこの地では茶業は行われていないようだが、彼らはどのようにして生計を立てたのだろうか。

そのすぐ近くには最初のロイヤルプロジェクトの工場(1973年創設)が記念館となっていた。中に入ると写真が多く展示され、プミポン国王やその母などが頻繁にこの地を訪れ、山岳民族や華人に対して支援をしている様子が見られた。ミャンマーとの国境地帯であり、1970年代の反共との関わりをもう少し勉強したい。この記念館でドイアンカーン産のお茶を買うことが出来た。

そこからドイアンカーンへ登っていった。標高1500mまで登ると、そこにはきれいな庭園があった。盆栽などもあり、ちょっとビックリ。その先にはお花畑があり、おしゃれなカフェもある。山の中に来たとは思えない雰囲気。だがそこに一人、ラフ族のおばさんが地面に座り、芋などを売っている。心優しいドームはその芋を全部買い取り、車に運んでいる。彼も半分はラフ族なのだ。

車でその先の果樹園を回る。梨などいろんな果樹がある。更に行くとついに茶畑が登場した。見事に整っており、台湾を想起させる。ここは台湾の支援で茶が作られており、私の知り合いも参加しているらしい。さっき記念館で買った茶はここで作られている。今の時期製茶はなく、インスタ映えする撮影スポットだった。茶工場もあったが、閉まっていて話を聞くことは出来ない。

チェンマイ滞在記2023その2(5)3 ランパーンの疲れを癒すビルマ料理

チェンマイに戻る列車は午後5時半の一本しかない。バスターミナルを探してバスで帰れるか確認したくなる。駅からターミナルまでまたちょっと歩く。チェンマイ行は沢山出ていると思っていたが、窓口で聞いたら4時50分しかないという。列車より少し早いのでマシかとチケットを買って言われた場所で待っていた。

そろそろ時間だな、と思った頃、何と日本人から話し掛けられて驚いた。ここから1時間ぐらい行った山沿いの村に住んでいるとのことで、帰りの迎えを待っているという。茶畑のことなどで話が盛り上がってしまい、気づけばバスの時間は大分過ぎていた。しかしその間大型バスは全く来なかった。慌てて窓口へ行くと『なんで乗らなかったの』と怒られる。大型バスが来るものと待っていたが、私が乗るべきは目の前に停まっていたロットゥだった。

しかも次のロットゥは1時間後しかなく、日本人の方も迎えが来てしまい、一人取り残された。列車も行ってしまう時間でもうどうにもならない。近くのショッピングモールまで歩いて時間をつぶし、更に肉まんなどを買って食べて待つ。ようやくロットゥに乗った時には夕日がきれいだった。それから1時間半ほど走って、アーケードに着いた頃には周囲は完全に暗くなっていた。疲れ果てて車を呼んで帰る。

11月1日(水)ビルマ料理

昨日はランパーンでかなり疲れてしまい、今朝は起き上がれなかった。昼前に何とか外へ出て、飯を探す。何となく検索したら、ニーマンにとんかつ屋があるというので、そこへ向かった。ところが開店時間になっても店は開いていなかった。もう辞めてしまったのかもしれない。

仕方なくその周辺を見てみると、何とビルマ料理の文字を発見した。店を覗いてみると、実に旨そうな茄子と芋が煮込まれていたので、思わず席に座ってしまった。この店はミャンマー料理とタイ料理が両方あり、メニューも2つある。チキンマメカレーとラペソーを頼んでみる。やはり美味しい。値段もリーズナブル。これは瓢箪から駒、ということだろうか。

店で働いている人たちは英語も話し、ミャンマーから来ているようだ。白人のお客さんも来ており、この付近の人気店なのかもしれない。まあカレー中心で白人にも食べやすいのだろう。これからはこの店をご贔屓にしよう。そして次回は必ず、あの茄子と芋を食べてみようと思う。

店を出てその辺を散歩しようと思ったら、薬局があったので入ってみる。実は肘肩痛は快方に向かってはいるものの、まだ万全ではない。ここらでタイガーバームのシップでもしようと思い立ったのだが、この辺の薬局は中国人団体観光客の爆買い向けに設定されているのか、一袋の量がかなり多い。でも爆買いする人はあまり見かけないのだから、どういう商売をしているのか、ちょっと気になった。結局一番小さい袋を1つだけ買って帰る。

夜は軽く済まそうと思っていたが、ちょっと気になっていた露店の席に座った。ここは100バーツでステーキが食べられるというのだ。ポテトとパンとサラダ、そしてステーキがワンプレートで出て来る。食べているといつの間にか席がすべて埋まっていた。何となく、その昔の台湾の夜市を思い出しながら頂く。

チェンマイ滞在記2023その2(5)2 ランパーンを歩く

さて、駅前から寺までは相当距離がある。ソンテウのおじさんが近寄ってきたが、400バーツというので、一旦退けて、Grabなどで検索してみる。だが片道180バーツと出ていたので、ソンテウで行くことにした。車は郊外に向かう幹線道路を走った。交渉でもう一か所、寄ってもらうことにしていたので、まずはそちらへ向かう。

ナレースワン大王記念碑、という場所に着く。非常に新しい作りで歴史感はないが、英雄像が立っており、その周囲は鶏と象で囲まれているのが、如何にもという感じだ。検索してナレースワン大王の歴史を見ると、アユタヤ朝『救国の英雄』として、ラームカムヘーン、ラーマ5世と並び、「タイ三大王」に数えられている。説明書きは全てタイ語でよく分からず、ちょっと周りを散歩する。池の向こうは地質学院と書かれているが、この辺りで地質調査が行われているのだろうか。

そこから20分ほどで、目的地ワット・ルアタート・ランパーンルアンに到着した。思ったよりはるかに立派なお寺だった。駐車場のところに銀行のATMが3台もあったのは、お布施の用意のためだろうか。脇の方から入っていくと、敷地はかなり広く、本殿までは結構遠い。結局横から入ることになり、まずは裏へ回ると、展示館があった。タイ語だけなのでよく分からない。ただ展示品はかなり貴重な雰囲気がある。

本堂付近に進むと、かなり古めかしい仏塔があり、一周する。本堂にはいい感じの仏像が並んでおり、壁には前日博物館で見た壁画がそのまま残っていた。この寺の歴史、古さが分かってくる。やはり由緒が違うのか、このお寺には参拝者が多い。どの辺がランナー文化なのかは、不勉強でよく分からず。再度勉強して出直すべし。最後に門から荘厳な階段を下りる。そこにはランパーン名物の馬車がお客を待っていた。

運転手を起こして車が走り出すと急に雨が降ってきた。それでも運転手は『この寺も見ていけ』と車を停めるので、途中ちょっと見学する。ランパーン駅まで戻ると雨は完全に上がっていた。ソンテウと別れて、一人歩き出す。駅前の道を行くと、漢字が目に付く。古廟などもあり、この付近は完全に華人の街だった。

その辺で普通のクイッティアオを食べて腹を満たすと、街歩きを始めた。ランパーンにはランナー文化が色濃く残っていると聞いたが、どこにあるのかよく分からず適当に歩く。途中の学校は完全に中国の支援を受けている。公園も中国系で整備されてきれいだ。100年前のお寺に行ってみると、何となくビルマ系の雰囲気だった。確かに街中に木造の古い建物はいくつか見られた。

フラフラ歩いていると、家から出てきたおじさんと目があった。何と向こうから英語で話し掛けてきた。恐らく華人だろうが、中国語を使うべきか迷い、そのままちょっと英語で話して別れた。町を一人で歩いている外国人は珍しかったのだろうか。もうちょっと話を突っ込んで聞けばよかったと後悔。

それからお寺にちょっと寄り、鉄道が近くを通る市場へ行ってみたが、もう終わっていた。その先に黒橋、と書かれた鉄橋?があり、鉄道公園になっていた。どうやらこの橋は第2次大戦中、日本軍が架けたらしい。突然現代史が出てきてビックリする。戦時中ここでは一体何が行われていたのだろうか。折角なので駅の方へ向かって線路沿いを歩くと、貨物列車がやってきて、気分が出る。

チェンマイ滞在記2023その2(5)1 ワット・ムーンサーンへ

《チェンマイ滞在記2023その4》  2023年10月30₋11月7日

10月30日(月)ワット・ムーンサーンへ

チェンマイ付近の歴史をもっと知りたい、とネット検索をしていると、インパール作戦の生き残り日本兵がチェンマイまで逃げてくると野戦病院があった、との記述に出会った。確かにミャンマー北部からタイへ脱出した、という話は、その昔シャン州のカローで『従軍看護師』の手紙を見せてもらった際、記述されていたので知っていたので、その野戦病院のあった場所を訪ねてみたくなる。

朝早く起きて、歩き出す。南門を抜けて行くと、そこは先日行ったシルバーテンプルだった。そのすぐ向こうに目的地、ワット・ムーンサーンに到着した。ただ門には英語表記などもなく、本当に着いたのか、不安になる。門の横にはスッタジットー美術館と書かれた精緻な建物があり、中には銀細工が置かれ、壁にはその歴史が銀で記されていた。

更に奥に入っていくと、日本兵戦没者慰霊碑があった。日の丸が見えたので分かった。その後ろの建物は資料館で、中には日本兵の遺品などもあるようだったが、朝8時前だったので、開いてはいなかった。その反対側にはランナー・タイヤイ様式の古い仏塔が見え、その向こうの大木と合わせて、日本兵のための野戦病院を見ていたのだな、となぜか感じてしまった。

そこからふらふらと横道を歩いて行く。前回滞在したい際に何度か行った粥屋まで30分ぐらい歩いて行ってみた。ところがいつの間にか人気店になっており、お客が外まで溢れていたので、残念ではあったがパスした。仕方なくお堀まで戻ると、前回の見慣れた街が登場する。懐かしいので歩いているとクラブサンドのある店があったので、そこで朝食を取る。その後馴染みの市場でフルーツを買い、チェンマイ最古の寺院、ワット・チェンマーンにお参りして帰る。

結構歩いて疲れてしまい、日中はずっと休息する。もうチェンマイに来てから1か月も過ぎ、疲れがピークに達しているようだ。夜も近所で済ませる。チャーハンのお供に、たまご豆腐のあんかけを頼むと、これが美味い。絶妙に疲れを癒してくれた。急に明日も出掛けようと思い立つ。

10月31日(火)ランパーンへ

今日は先日博物館の展示で見た、ランパーンの寺へ行ってみたいと思う。まずは近所でカオトームの朝食を頬張り、車を呼んでチェンマイ駅へ向かう。ランパーン行きの列車はこの時間だけ続けて2本ある。元々は遅い方の列車でよいと思っていたのだが、何と発車3分前に駅に着き、窓口で『ランパーン』と叫ぶと、『エアコン車の方がいいよ』と言われ、頷いた瞬間、駅員がタイ語で何かを放送した。何と私のために列車を止めてくれたので、驚きながら、小走りでホームまで行った。

乗り込むとすぐに出発した。指定席なので、何とかそこまで辿り着く。意外なほど乗客がいた。中にはこれに乗ってバンコクまで行く人もいるらしい(夜バンコクに着く)。ボロボロの車両ではなく、結構きれいな感じだった。これでもランパーンまで僅か50バーツだから安い。この30分後の列車は鈍行?で、遅い上ファンしかない。いや、エアコンはちょっと寒いのでファンの方が良かったかな。

途中は結構林の中を通り、トンネルもあった。まあ森林地帯を行く感じではなかったが、平原を行くでもない。1時間40分ほどでランパーン駅に着いた。鈍行だと2時間半かかるらしい。何とも古めかしい駅舎、駅前には機関車も置かれている。この街のシンボルは鳥のようだ。