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NHKテレビで中国語コラム『アジアの中華メシ』2014年5月号第2回『海南島にはない海南チキンライス』

皆さんは海南チキンライス(“海南鸡饭”hǎi nán jī fàn)という食べ物をご存じでしょうか? 筆者の大好物であり、最近は屋台の専門店から一流ホテルまで東南アジアのどこへ行ってもあるので、所構わず食べています。作り方はいたって簡単、鶏肉を茹ゆ でて、その茹で汁でコメを炊くだけ。鶏ガラのスープも付く、エコノミーな一品です。特に鶏肉の脂身の食感がたまりません。

鶏肉は茹でる以外に蒸してから焼くタイプもあります。食事を簡単に済ませるのに、とても適しています。

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名前に海南、と付くので、当然中国の海南島の名物料理かと思ってしまいますが、さにあらず。海南島に行ってみても、海南チキンライスはありません。もっとも最近はこの料理が有名になり、逆上陸しているとの話はありますが。

海南チキンライスは、主にマレーシアやシンガポールで食べられています。それはこの地域は海南島出身者が比較的多く、農村などで食べられていた鶏料理を移住先で再現したものだと言われています。いつ頃から食べられているのかははっきりしませんが、恐らくは移住が増えた19世紀の中頃以降ではないかと思います。確かに出稼ぎに来て、それほど経済的な余裕もない人々が、たまに鶏肉を買って無駄なく使って食べる、いかにも華人らしい食べ物だと思います。因ちなみに海南島では「文昌鶏」を使った鶏肉料理が有名ですので、こちらからの連想もあったかもしれませんが、調理法は全く異なります。

マレーシアではイスラム教徒がマジョリティーであり、ヒンズー教徒もいることから、宗教上牛や豚の肉を敬遠する傾向があります。この点からも鶏肉を使ったシンプルな料理は華人ばかりでなく、その国の全ての人々に受け入れられ、国民食のようになったのではないでしょうか。

因みにマレーシアとシンガポールは、以前は1 つの国でした。マレーシアの観光スポット、マラッカへ行くと、ちょっと面白いチキンライスがありました。その名もチキンライスボール。作り方は基本的に海南チキンライスと同じで、違いはご飯を丸くすることです。なぜそうするのか店の人に聞いてみましたが、全く分からないようでした。が、いくつかの店はランチタイムには長蛇の列ができるほどの人気です。

海南チキンライスがタイに移りますと、「カオマンガイ」という呼び名で出されています。米は元々タイ米ですし、鶏も元は軍しゃも鶏、軍鶏の名前の由来は何と「シャム」から来ているようで、そう考えると完全なタイ素材でできているとも言えますね。

ただタイのカオマンガイは、なぜか肉の脂身を取り去って出てくることがあります。作っている人に脂身も欲しいというと、入れてくれます。それは何故なのか、不思議に思いながら食べる日々です。

皆さんも東南アジアを旅行したら、まずは何を置いても海南チキンライスを食べましょう。その虜とりこになってしまったら、毎日2 食はこれだけで十分。そして屋台やフードコートなどで、その国の人たちと一緒になって食べる、安上がりで旅の良い思い出になること請け合いです。

NHKテレビで中国語コラム『アジアの中華メシ』2014年4月号第1回『飲茶』

皆さんこんにちは。今年度は筆者がアジアを旅する中で出会った中国料理、 中でも安くて美味しい所謂B級グルメを取り上げます。皆さんにも、中国語を勉 強して、アジアを旅し、是非一度味わって頂 いただ きたいと思います。

今回は皆さんにもおなじみの「飲茶」です。この言葉、今ではパソコンに「やむ ちゃ」と打ち込めばちゃんと漢字に変換されるほど、日本語化していますが、 元々は広東語です。意味は読んで字の如 ごと し、「お茶を飲む」ですよね。しかし現 在我々が言う飲茶は「点心を食べるついでにお茶を飲む」という感じではないで すか?

飲茶の習慣はいつから始まったのか、これはハッキリしていませんが、明の 時代、塩の交易で栄えた揚州では多くの点心を食べていたとの話があります。 清の時代になると対外交易は広州に拠点が移り、朝簡単に点心をつまみ、茶を 飲んでいた忙しい商人たちの姿が記録に残されています。また商人たちの商談 の場として使われたとの記録もあるようです。 広州には清代から続く老舗のレストランがあり、今でも朝から大勢の庶民が 行列を作って席を確保しています。

実は飲茶は「朝食べる」のが一般的で、中国 では「早茶」と呼ばれているの です。因 ちな みに現在広州では夜 10時頃から「宵夜」と呼ばれる 宵っ張りの飲茶習慣もあり、 お酒を飲んだ後のシメに飲茶、 という光景もあります。

香港ではアヘン戦争後大量 の移住者が大陸からなだれ込 み、家はとても狭い、お客と 会うのは外にする、というこ とで茶楼や酒楼ができていったようです。お茶を飲むとお 茶請けが欲しくなり、蒸 せいろ 籠で 蒸した焼売や餃子が振る舞わ れました。因みに「シューマ イ」も広東語ですね。

非常に 多忙となった現代社会では悠 長にお茶を飲むことはできず、 朝の飲茶も老人たちのものに なりました。その代わり、週 末などは家族や友人同士で丸 テーブルを囲み、ランチとし て飲茶する習慣ができたと思われます。 飲茶は広東系・福建系華人が多く住む東南アジアへも広がりました。

先日、タ イのプーケットで朝ごはんを食べにローカル市場へ行ったところ、テーブルの 上に7種類もの点心がいきなり置かれ、面食らいました。小さなお皿にのった蒸 した餃子や焼売を、地元の人が辛めのスパイスをたっぷり塗って食べているの を見て、こんなところで点心に出会えるとは、と感激し全部食べてしまいまし た。実は食べた分だけ払えばよいとのこと、これは東南アジアでよく見られる 精算方式ですね。

プーケットタウンで30年以上続いている張さんの飲茶レストランを覗 のぞ いたと ころ、実にローカルな雰囲気が漂っていました。地元の華人で、朝は席が確保 できないほどの盛況ぶり。機械でどんどん蒸し上げ、やはり小皿で出していま す。「プーケット式飲茶、皿は小さいが値段も安い。点心も小さい方が味はいい よ。簡単が一番さ」。横のおじさんは何とお茶の代わりにコーヒーを注文、しか も砂糖とミルクたっぷり。その隣はアイスコーヒー? これで飲茶? アジアに広 がった中国料理はその土地の習慣で大きく変化しています。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2014年3月号第12回『ラオス』

第12回『ラオス』

周囲を中国、タイ、ベトナム、カンボジアに囲まれているラオス。あまり目立たない小国ですが、ここは時間が実にゆっくり流れており、首都ビエンチャンでも他のアジアの大都市とは異なり、交通渋滞もなく、高い建物も少ない、落ち着いた雰囲気があります。

そのビエンチャン、街のあちこちに漢字の看板が見られます。その字の大きさが以前より大きくなっていると地元の人は言っていました。中国の存在感が増しているようです。それを象徴するかのように、「中国市場」と呼ばれるマーケットが2か所もありました。大きな立派な建物で、売っている物はほぼ中国製。ラオスには大規模な産業がないため、服から日用雑貨までを中国に頼っている様子が分かります。

中国雲南省から来た商売人は「ラオスは人口も少ないし、経済的にもまだ発展段階のため、大きな商売はない」と言い、暇そうに人通りの少ない市場を眺めていました。この市場では中国から来た中国人と地元の華人が働いており、中国語は普通に通じます。外には中国各地の料理を出すレストランもあり、その多様性が見て取れます。

また市内にはチャイナタウンと呼ばれる所はありませんが、華人はかなり住んでいます。既に2代目、3代目になって現地に同化していますが、中華学校で勉強するなど、中国語はかなり通じました。「俺たちは祖先が中国からやってきたが、今やラオス人。最近来る中国人は商売の話ばかりで嫌になるよ」と中国語で語る華人の言葉には重みがありました。

世界遺産にも指定されている古都、ルアンプラバーン。メコン川が優雅に流れ、多くのお寺を有する、落ち着いた街並みが印象的です。そのメコン川沿いを何気なく歩いていると、駐車していた車がなんと中国ナンバーでした。どうしてこんな所に、と思っていると、通行人から「中国人か」と中国語で話しかけられ、「日本人だ」と中国語で答えると、「なんだ日本人か」と日本語で返されました。彼は北京生まれ、日本で働いた経験もありますが、今はルアンプラバーンの自然に魅せられ、移住したと言います。ちなみに車は雲南省からドライブに来ている中国人の物でした。

この街には中国系住民は多くないようですが、過去に雲南省などから陸路を渡ってきた人々、また福建や広東からベトナムあたりを経由してたどり着いた人々がいました。ここで生まれたあるおじいさんは「親父は広東から船でハノイへ行き、そこから陸路、カンボジアへ。そしてまた船でメコン川を遡り、ここへ着いたんだ。俺も大学はベトナムのホーチミンへ行ったよ。ベトナムは兄貴分だからな。ずいぶん昔だが」と中国語で話してくれました。

近年経済的には密接になってきた中国、もともと親密な関係にあるベトナム、更には隣国タイなど、ラオスを取り巻く環境は複雑です。前述の華人の「だから俺たちはラオス人だと言っただろう。華人は既に故郷を捨てたんだ」という言葉に、アジア各地で生き抜いてきた華人の生き様が感じられました。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2014年2月号第11回『マレーシア』

第11回『マレーシア』

マレーシアの首都クアラルンプール。その中心、KLセントラル駅のすぐ近くにチャイナタウンがあります。ここも近年の経済発展で開発が進み、急速に街がきれいになってきています。夜、服や雑貨を売る露店を見てまわると一番多く聞こえてくるのは広東語でしょうか。基本的に華人は華人学校に行っているので、中国語は問題なく通じます。ただ店員の多くはマレー系ですので、あえて華人系の店員を探して中国語での値段交渉にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。初めの言い値はかなり大胆にしてみてくださいね。

クアラルンプールからバスで2時間ほど行った所に、観光地マラッカがあります。ここは海外からの観光客が多い場所ですが、特に中国人が目立ちます。広東系華人のホテルのオーナーに聞いたところ「最近は中国人がグループではなく、個人で来るようになった」と言い、実際ロビーで遼寧省から来た一人旅の若い女性に出会いました。こういう若者たちがシンガポール人やマレーシア人、台湾・香港人と中国語で語り合う姿を見て、新しい華人ネットワークを予感させられました。

実はこのマラッカから内陸へ30㎞ほど行ったマチャバル(新村)という村へも出かけました。ここは1950年代に政府が開拓民を募り、多くの華人たちがマレーシア各地からここに移り住み、開墾をした場所だと言います。いわゆる華人村です。今車で行ってもそこそこ大変な場所、何もない土地にやってきた人々のことを思うと、そのたくましさにはいつも脱帽してしまいます。

ここに60年前に移り住み、現在レストランを経営している黄さんは「初めは大変だったがみんなで働いた。水もあり、山もあり、今や環境は本当にいいよ。でも最近若者はみんな都市へ行ってしまう。過疎化だよ」と嘆いていました。今でも村人のほとんどが華人という珍しい所でしたが、人口減少が悩みのようでした。

実はマレーシアはこの10年で人口が相当に増加しました。ただ増えているのはほとんどがマレー系であり、華人系は減少しています。人口構成でも以前はマレー6、華人3、インド1と言われていたのが、現在はマレー7、華人2、インド1に変わっているようです。これまで順調な経済発展を遂げてきたマレーシア。ある華人が「この国の経済を支えているのは我々華人なんだ。しかし人口的にはどんどんマイノリティーになってきている。この国の将来が実に心配だ」と繰り返し話をしており、少し心に残りました。

マレーシアは、クアラルンプールやマラッカ以外にもペナンやコタキナバルなど各地に華人がおり、話しかければ中国語が通じます。観光資源にも恵まれていますし、食事も日本人の口に合うものがあります。そういえば退職後を海外で暮らすロングステイ先としても注目されており、多くの日本人が各地に住んでいますよ。皆さんも一度出かけてみてはいかがでしょう。勉強した中国語を使ってみるにはよい国ではないかと思います。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2014年1月号第10回『プーケット』

第10回『プーケット』

アジア屈指のビーチリゾート、タイのプーケット。島の西側を中心にいくつものビーチが並び、欧米やオーストラリア、アジア各地から多くの観光客を惹ひきつけています。最近はロシア人、韓国人、そして中国人観光客が大挙して押し寄せており、空港は満杯状態が続いています。今回はそんなプーケットの華人の歴史に迫ってみました。

プーケットの中心街、プーケットタウン。その中でもオールドタウンと呼ばれる一角は、華人が多く暮らす場所です。ただ100年を超えるその建物群は中華の雰囲気に洋風がミックスされた独特の建物でした。なぜこのような建物が建てられたのでしょうか。

プーケットに華人が本格的に移住してきたのは、19世紀。豊富な鉱物資源、特に錫すずの採掘を行う労働者として、主にマレーシア・ペナン島の福建系華人がやって来たといいます。鉱山経営に乗り出し、成功する華人も現れました。そ
して英国領だったペナン風の建築が作られたそうです。何となくここはタイではなくマレーシアかと思ってしまう謎が解けました。この辺りの歴史はオールドタウンにある泰華博物館で見ることができます。

オールドタウンには漢字の看板も多くみられ、また中国系の顔をした人々がたくさんいますが、実は意外なほどに中国語が通じません。レストランを営む、どう見ても中国系の60代の経営者に中国語で話しかけると流暢な英語が返ってきました。「私は既に第4世代で、先祖の故郷が福建省のどこにあるのかすら知りませんし、興味もありません。私はプーケット人です」とのこと。そこにいた若い店員は、一生懸命勉強しました、といったようなたどたどしい中国語で注文を取ってくれました。

最も有名なパトンビーチへ行くと、レストランの若者がやはり中国語で「最近は中国人観光客が多く、英語ができない人も多いため、こちらが中国語を覚えて対応している。中国人はたくさんお金を使ってくれるからありがたい」とビジネス上のメリットを強調していました。

「中国語話せます」と書かれた看板を出す薬屋で、女性が流暢な中国語を話していました。彼女は第3世代でしたが、両親はペナン出身で幼い頃から中国語を習っていました。「プーケットに住む華人で中国語が話せるのは2~3割でしょう。家では福建語を話している人もいますが、世代が下がるにつれて、タイ語になっています」と解説してくれました。彼女は薬屋のほか、得意の語学を生かして旅行案内業も始めたようです。

プーケットタウンで朝早くから繁盛しているお店がありました。74歳になるオーナーは、原籍が広東省の第4世代。第5世代の息子さんと「点心」を出すレストランを経営していました。「プーケットには多くの血が混ざっているんだ。も
う華人だなんて関係ないよ」とひと言。出てきた点心も味は良いのですが、そのスタイルは既に中国を離れていました。皆さんもビーチリゾートばかりではなく、情緒漂うプーケットタウンで過ごしてみてはいかがでしょうか。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2013年12月号第9回『韓国』

第9回『韓国』

日本からすぐに行けるお隣の国、韓国。ここ数年は韓流ブームなどもあり、一層身近に感じられる国になっています。実は韓流ブームは日本だけではなく、アジア各国でドラマやK-POPなどが流行しており、韓国を訪れる観光客の増加に寄与しています。中でも中国人観光客の伸びは著しく、2013年上半期は日本人を抜いてしまったそうです。そんな韓国の、中華圏とのつながりを探してみました。

仁川空港から空港鉄道に乗ると、その行先表示と車内アナウンスはすべて韓国語、英語、中国語、日本語の4か国語が使用されており、観光客が迷わないよう配慮されていました。ソウルの観光スポット、明洞。10年前は日本語の看板が目立っていましたが、今は中国語が目立つようになりました。明洞の入り口には「欢迎来到明洞! 」という横断幕が掲げられ、奥の方には「ようこそ」という日本語が。これが今の観光業の現状でしょう。化粧品を売る若い女性店員は、客が中国人か日本人かを的確に見分けて、その言語で声をかけてきます。中国語が流り暢な女性店員に聞いてみると、何と中国東北地方出身の朝鮮族でした。ある観光関係者によると、「ここ数年の中国人観光客対応で朝鮮族の人々が大勢働いている。何しろ韓国語、中国語、そして日本語までできるんだから重宝している」とのこと。

大手デパートの免税店へ行くと、そこには多くの中国人観光客が押し寄せており、歩くのに苦労する売り場さえありました。面白いのが、高級時計のコーナーの店員は筆者(とても日本人には見えないと評判)に対して中国語を使って話しかけてきますが、韓国のりやキムチのコーナーでは日本語になるのです。時計の係は中国から派遣されたベテラン中国人店員でしたが、彼女によれば「高級腕時計を買うのはほぼ中国人」ということで、「高級時計とのり」、その消費格差にも驚かされました。

仁川にチャイナタウンがあると聞き訪ねてみると、そこは横浜中華街の小型版という感じでした。レストランに入ると店員同士が中国語で話していたり、おばあさんが孫に中国語で話しかけていたりと、まさに中華の世界がありました。聞けば、店のオーナーは台湾系の4代目、原籍は山東省だと言います。山東から台湾へ渡り、そこから更に仁川へ。戦前・戦後の複雑な国際情勢を垣かい間ま 見る思いでした。ちなみに店員さんは韓国人と結婚して仁川にやって来た中国人女性たちだそうです。また、ソウルで華人が多く住む延禧洞。高級住宅が並ぶその一角は韓国で成功した華人たちが居を構える場所であり、本格的な中国料理が食べられると評判でした。

仁川にもソウルにも華人学校があり、韓国に住む華人は中国語が基本的にできるとのことでした。韓国旅行に行く皆さん、ぜひ中国語を使ってみてください、と言いたいところですが、既に書きましたとおり、日本語が堪能な人が多いため、せっかくこのテキストで勉強した中国語を試してみる場所としては、残念ながら不向きかもしれませんね。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2013年11月号第8回『トルコ』

第8回『トルコ』

アジアとヨーロッパをつなぐ街、イスタンブールを擁する国、トルコ。そのエキゾチックな街並み、そして世界遺産カッパドキアの奇岩など、豊富な観光資源を持つこの国は、ヨーロッパ人にも、そして日本人にも極めて人気の高い観光エリアです。ギリシャ的、中東的、そして中央アジア的な顔立ちが混ざり合うまさに文明の十字路と言えますね。近年は経済成長も著しく、若手実業家が颯さっ爽そうとビジネス街を歩く姿はこの国の勢いを象徴しています。

イスタンブールのグランドバザールは、アジア最大の市場と言われ、その規模は壮大、必ず迷子になると言われるほど、店が入り組んでいます。店には絨毯、服やバッグから、チャイと呼ばれる紅茶を飲むかわいいグラスなど、実にさまざまな物が売られています。ここは中国人、台湾人観光客も多く訪れるため、中国語を使って声を掛けてくるモノ売りがいます。そして足を止めるとすぐにどこからともなく、チャイが運ばれてきて、まずは商談の前にお茶を一杯となるのがトルコ風で面白いですよ。

イスタンブールの観光の中心、スルタンアフメット地区を歩いていると、漢字の貼り紙があり、店に入ってみるとそこには広州と香港で中国語を勉強したトルコの若者がいました。彼によれば「残念ながらトルコ人は一般的に中国人を警戒している」とのことで、同胞であるウイグル人を気に掛けている様子が見えました。そんなシリアスな会話をするかと思うと二言目には「絨毯は買ったか?」と聞いてくる、これがトルコの商売でしょうか。

トルコには中国料理店がほとんど見られません。イスラム教国であり豚肉が手に入りにくいことが理由だと言われましたが、そもそもイスタンブールのような国際都市にチャイナタウンが無い、華人がほとんどいない、それは単に距離が遠いというものではなく、現在の中国とトルコの関係を物語っています。

一方中国人観光客はどんどん増えているようで、イスタンブールでも地方都市でも中国人を何度も見かけました。カッパドキアの奇岩を眺めている中国人観光客に声を掛けると「我が国にも西洋と東洋が混在した場所はあるにはあるが、これほどのスケールではない」と言い、また「実は昨年は国内旅行で新疆ウイグルへ行って虜とりこになってしまった」と、興奮気味に話していました。中国人にとっての異国情緒とはこんな場所なのかもしれませんね。

土産物は何を買うのかと聞いてみると一言「金製品」。トルコではトルコ石が宝石類としては有名ですが、中国人によれば「トルコ石はトルコでは採れない。もしかすると中国からの輸出品かもしれない」と警戒しているのです。中国産トルコ石、何だか見てみたくなりますね。どこで買っても価値がはっきりしている黄金を好む中国人、やはり実利的な人々と呼べるのではないでしょうか。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2013年10月号第7回『スリランカ』

第7回『スリランカ』

インドの南に浮かぶ島国、スリランカ。北海道より小さなこの島は2009年まで26年もの間、内戦が続いておりましたが、今は平和が戻ってきています。仏教遺跡、植民地時代の文化遺産、自然遺産など世界遺産を8つも抱えており、観光地としての魅力が満載で、主に欧米人に人気ですが、最近は日本人観光客も増えてきています。

スリランカ最大の都市コロンボを歩いていると、大きな中国料理のレストランを何軒も見かけ、中国人がたくさん来ていることが分かります。筆者がバンコクから乗ったフライトは実は北京から来ており、機内には中国人キャビンアテンダントも乗っていました。ただ中国から来る人は観光客ばかりではなく、最近急速に増えた中国政府の経済援助に伴って現地の工事現場に派遣される労働者などもおり、その中国語にも各地のなまりが感じられました。

コロンボで泊まった安宿には河南省からやって来た中国人商人が泊まっていました。彼らは英語がほとんどできないのに、果敢にも経済発展が見込まれる未開の市場へやってきました。スリランカはイギリス植民地時代の影響もあり、英語が話せる人はたくさんいますが、中国語は基本的に通じません。ホテルのロビーで偶然座っていた筆者、中国語が出来ると分かると、拝むように通訳の依頼をされ、ホテルとの交渉などに駆り出されてしまいました。まさかこんな所で中国語を使うとは。中国人商人のたくましさには脱帽でした。

市内の住宅街に「中国雑貨」と書かれた貼り紙が中国語で出ていたので寄ってみると、山東省からやって来た中国人女性が経営しており、中国食材などを売っていました。「コロンボに住む中国人はまだまだ多くはない。商売にはならないわ」と言いながら、遠い目で懐かしそうに中国語を使っていました。彼女は、故郷では日系企業に勤めていたといいます。

その彼女の紹介で訪れた近くの中国料理屋さん。コロンボに来て8年になる福建省出身の張さんが迎えてくれました。このお店には日本人駐在員もよく来るようですが、張さんは「日本人はギョーザとエビチリ、そしてチャーハンしか頼んでくれない。うちの店にはもっとうまいものがたくさんあるのに」と残念がり、数時間煮込んだ福建特製のスープなど、実においしい料理を出してくれ、筆者は大いに満足しました。

その張さん、中国語の会話の中になぜか時折、日本語の単語が混ざっていました。理由を聞くと、何と「1980年代の終わりごろは、東京浅草の天ぷら屋でバイトしていたんだ」と言うではありませんか。日本からはるかに離れたこのスリランカの地に、昔日本で働いていた中国人がレストランを経営している、これこそ中国人のダイナミズム、ではないでしょうか。

皆さんも一度スリランカへ世界遺産巡りの旅に出て、おいしいスリランカ料理を食べ、そしてそれに飽きたら当地の中国料理屋さんへ行ってみませんか。きっと日本では味わえないような深い趣のある中国料理に出会えることでしょう。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2013年9月号第6回『インド』

第6回『インド』

アジアで中国と並ぶ大国と言われ、人口が10億人を超える国インド。以前はバックパッカーが旅する国という印象がありましたが、近年はタージマハールなどを訪れる一般観光客がどんどん増えています。首都ニューデリーの中心街、コンノートプレースを歩いていると、お客を探すインド人ガイドなどがあの手この手で近づいてきます。筆者は日本人より中国人に見えるらしく、中国語で話しかけられることが多く、中国人観光客も着実に増えていることを実感します。

ニューデリーにはクラシックなタクシーが走っていて、思わず手を上げて乗り込みたくなる衝動に駆られます。実際に乗ってみるとインド人運転手がいきなり“你好!”と中国語で話しかけてきて、驚きました。聞けば「中国人もこういうタクシーに乗りたい人は多いが、英語が通じないので、こちらが中国語を勉強した」とのこと。彼が話せる中国語は「どこに行くのか」と、金額、そして“小心”(気をつけて)だけでしたが、十分に用が足りているようで、面白かったですね。ひげ面で大柄なオジサンが中国語を使うとどこかユーモラス。

中国人の観光客は増えていますが、実は「インドにはチャイナタウンがない」と言われています。デリーにもムンバイにも華人は多少住んでいますが、ひとかたまりとなって街を形成してはいません。唯一あると言われたコルカタ(旧カルカッタ)でも、街に漢字の看板はなかなか見つからず、ようやく見付けた郊外のタングラという街でも既に多くの華人が退去しており、ほとんど廃虚に見えました。

コルカタで生まれたある華人は「インドで商売するのは本当に難しいんだ。インド人と中国人はそもそも物の考え方がまるで違うし、歴史的に見ても隣国同士はいろいろあるから」と流ちょうな中国語で説明してくれました。近年、祖国の中国がこれだけ発展すれば、「インドで頑張らなくても」という気になるのもうなずけます。ただ、インドを逃げ出した華人が行く先は中国ではなく、同じ英連邦のオーストラリアやカナダ。そこで、インドで鍛えた商売手法で中国大陸からやって来る中国人移民相手に商売をする、と聞くと、「たくましいな」と思わず声を上げてしまいました。ちなみに「今の大陸中国人と我々華人はまったく考え方が違う。それはまるでインド人との違いのように大きい」とのことでした。

ところでインドの大都市には中国料理と書かれたレストランが多数存在しますが、その多くがインド人経営で華人の姿はあまり見られません。出てくる料理も野菜炒めがあんかけ風になっているなど、我々のイメージとちょっと違っていました。理由を聞くと「インド人はカレーのようにご飯に料理をかけて食べるのでドロッとした物が受け入れられやすい」のだとか。デリー在住日本人がよく行く日本料理店の人気メニューが「中華丼」であったことも笑ってしまいました。皆さんもインドでインド風中国料理にぜひトライされてはいかがでしょうか。

NHKテレビで中国語コラム『アジアで中国語を使ってみた』2013年8月号第5回『インドネシア』

第5回『インドネシア』

人口約2. 4億人を抱え、経済成長著しい東南アジアの大国、インドネシア。9割以上がイスラム教徒というこの国でも華人はたくましく生きていました。今回はインドネシアのバンドンに多くの親戚を持つ香港出身の友人に同行して、その言語事情を探ってみました。

ジャカルタからバスで約3時間、標高700mの高原都市バンドンは1955年にアジア・アフリカ会議が開催され、スカルノ、周恩来、ネルー、ホーチミンなど第三世界の指導者が一堂に会したことで歴史の教科書にも名をとどめています。

ジャカルタの高温多湿を嫌い、週末になると多くの人々がやってくる避暑地でもあり、華人も多く居住し、繊維産業など地元では経済的に大きな役割を果たしていると聞いていました。ですが、バンドンの街中を歩いていても、どこに華人が住んでいるのかまったくわかりません。漢字の看板、表示がほとんど無いのです。かろうじて見つけた中国料理店の60代のオーナーは、「親が福建省から来た華人だ」と流ちょうな中国語で話してくれました。そして「60代以上の華人は中国語がかなりできるよ、ただ30~50代はほとんどできないね。だって華人学校は閉鎖されていたから」と付け加えました。そう、スハルト政権時代の1960年代後半から2000年頃まで、政治的な理由から中国語は禁止されていたのです。漢字の看板がないのもその影響だと言われています。ちなみに現在華人学校へ行っている若者は授業で中国語を習っています。

香港出身の友人の親戚が集まった夕食会。友人は、60代の叔父さん、叔母さん達とは中国語で話し、30~40代のいとこたちとは英語で話していました。またこの一族は客家 系でしたが、家族内で客家語が使われることはなく、現地インドネシアの言葉で会話しているため、あちこちで違う言語が飛び交う実に多言語な食事会で驚きました。

首都ジャカルタのチャイナタウン、グロドッ地区。ここも漢字の看板は多くありませんが、いかにも中国人居住区、という感じの狭い路地に家がひしめき合っていました。ジャカルタ湾に近く、オランダ時代の古い建物が残るコタ地区に隣接、100年以上前にここへやってきた中国人が貿易や港湾労働に従事した様子が目に浮かびます。

最近は経済発展を見込んで中国大陸から商売にやってくる人々が増えてきました。そんな人々が泊まる宿のオーナーに話を聞くと「この国で華人が生きていくことは本当に大変だった。暴動や略奪に見舞われることもあった。それでも
ここしか生きていく場所がなかった。今の中国人にはわからないだろうね」と、苦難の歴史を切々と話してくれました。表通りには、中国人相手のレストランが大きな簡体字の看板を掲げて営業していますが、今後この国で大きな混乱がないことを祈るのみです。なお、他のアジアの国も同様ですが、くれぐれも周囲の安全を確保した上で、旅行をお楽しみいただければと思います。