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ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(3)安渓会館からティラワへ

昼ごはんは麺を食べたいと思い、シャンヌードルの店に行ったが、何と既に売り切れていた。それからヤンゴン在住の日本人、Gさんを自宅に訪ねた。Gさんは奥さんがミャンマー人で、こちらに長く住んでいる。ミャンマーの少数民族、そして茶の歴史のことなどを話しだしたら止らくなってしまい、午後中話し込んでしまった。奥さんは飽きれ果ててどこかへ行ってしまう。

 

夕飯も3人で食べることにした。連れて行ってくれた店は何とコーガン料理だった。コーガンとは中国とシャン州の国境にある、ある意味で危険地帯。メニューにケシの実スープがありオーダーしたが、特に味は分からなかった。料理全般は中華系と言えるが、コーガン料理屋を探すことは一般的には難しいだろう。

 

10月7日(日)
ヤンゴンをフラフラ

翌朝は朝飯を食べてから、散歩がてら付近を散策。近くにあるスーレーパゴダを一周回り、路地に紛れ込む。ここは昔路地ごとに紙屋とか電気屋とかに仕切られていたのかもしれない。コーヒーや紅茶と軽食を出す店には、朝からたくさんの人が座り、朝飯を食べている。

 

両替をしようと思い、探してみたが、朝はやっていないところが多い。昨日見た感じでは、1米ドルに対して1500チャット以上になっており、一昨年の1200チャット台と比べれば相当に為替が弱くなっている。これもミャンマー経済の悪化を象徴している。そういえばミャンマーでは紙幣が折れていたり、書き込みがあるとその分ディスカウントされるというとんでもないルールがあるが、今回は米ドルの旧札が大幅ディカウントされることを知り驚く。

 

昼前にTさんがまた迎えに来てくれた。まずはホテルのすぐ近くの茶屋、というか、呑み屋に入る。この付近はヤンゴン中央駅前で、映画館が並んでいたそうだが、どんどん取り壊される再開発地域だ。その茶屋はシャン州のチャウメイ出身者が経営しており、お茶も販売していた。

 

それから昨日の続き、チャイナタウンに行き、安渓会館を訪ねることにした。安渓出身者の情報があるに違いないと思い向かったが、その場所がよく分からなかった。ちょうど永定会館があったので聞いてみようと2階に上がると、二人の老人が将棋を指していた。その壁を見てびっくり。そこにはあのタイガーバームで財を成した胡文虎兄弟の肖像画が掛かっていたのだ。胡の原籍は永定であり、タイガーバームはヤンゴンで彼らの父により発明されたと初めて知る。

 

安渓会館はそこからすぐの場所にあった。事務所には老人が一人おり、聞いてみると資料はあまりないという。それでも50年以上前の会員名簿などを見せてもらうと、何人か安渓出身の茶商の名前が出てきた。住所も書かれていたので、そちらを訪ねてみようと思ったが、突然のスコールに遭う。この会館の5階には清水祖祠が祭られているというので、そちらにお参りに行く。今ではここを参拝する人も少ないらしいが、やはり安渓人の寺なのだ。歴代会長の写真が飾られている。

 

少し待つと雨は止んだので、外へ出て、先ほど見付けた茶商の跡を追う。その住所はすぐに見つかったが、そこは食堂だった。店員に聞くとオーナーがお茶屋だったらしい。3階に住んでいるというので訪ねてみたが不在で会えなかった。もう一人の茶商の住所には銀行しかなく、その上には寺があるだけで消息はつかめなかった。ご縁はなかったようだ。

 

昼ご飯、今日はシャンヌードルにありついた。1杯1200チャットは日本円にすれば決して高くはないが、シャン州なら700チャットぐらいが相場、ヤンゴンでも1000チャットはしなかったように思う。思っていた以上に物価は庶民の生活を直撃しているのかもしれない。

 

取り敢えず今日の調査は終了したので、午後はティラワ工業団地を見に行く。数年前、ここを2度ほど訪れたが、その時は土台工事をしていた。この団地は日本の肝いりプロジェクトで、日本のマスコミが大々的に宣伝していたが、最近は音沙汰もない。どうなっているのだろうか。

 

1時間ほど車で走り、道路脇をキョロキョロした。実は以前この辺に日本帰りのミャンマー人がカフェを開いていたので、その後どうしたか知りたいと思い、探してみたが、見付からなかった。商売が上手く行き、もっといい場所に引っ越したか、或いは上手く行かず店を閉じたのか。

 

ティラワの一期工事は完成しているように見えた。日本企業の名前の入った工場がいくつも並んでいた。だがそこに行くまでの道はガタガタで、とても最新鋭の工業団地を訪問する雰囲気ではなかった。日曜日で人影もなく、とても寂しく見えた。これもミャンマーの現状を表しているように思えた。

 

夜は紹介されていたピンピンの店に行ってみた。ボージョー市場のちょっと北側はおしゃれないエリアになっており、その中に雲南華僑の若い女性が作った火鍋屋は存在していた。彼女はマレーシアに出稼ぎに行き、台湾系レストランで働いた。その時の経験を生かして4年前に店を出し、今や隣の場所にまで拡大している。お客は日本人駐在員と出張者というから目の付け所が良い。手ごろな料金でうまいものを出しており、ミャンマー料理が苦手な日本人に合わせていた。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(2)大茶商の末裔を発見!

10月6日(土)
大茶商の末裔

朝の目覚めは比較的良かった。今回泊まったこの宿、何となくフランス風の作りだった。トイレとシャワールームのドアが共有で、二人で使う場合はどうするのか、と思うような遊びがあった。こういう作り、嫌いではない。ただWi-Fiの電波は弱く、結局iphoneからテザリングする羽目になる。古いホテルのインフラ、仕方あるまい。

 

朝ご飯は1階で食べる。メインの食べ物はオーダーするが、パンやコーヒー、フルーツは自分で取るスタイルとなっている。30ドルちょっとのホテル代なので、悪くない朝食だ。お客も白人が多く、中国人も少しはいるが、英語を話す人種が大半だった。

 

今回のミャンマー訪問の目的はずばり、『大茶商の末裔を探す』ということだった。ヤンゴンには何度か行ったことがあり、チャイナタウンと思しき場所も訪ねたが、お茶屋があるという印象はなかった。先日のバンコック同様、地元を知り、ミャンマー語を話す人材の助けは必須だった。以前からの知り合いであるTさんにお願いすると興味を持ってくれ、事前調査までしてくれた。

 

その事前調査とは、私が華僑誌で見つけた華人茶商の名前を挙げ、知り合いがその知り合いの華人に伝え、その人がヤンゴンの福建系寺院に問い合わせたところ、何と末裔の電話番号が得られたというのだ。その番号にTさんが電話を掛け、取り敢えずアポイントを取ることに成功したというのだ。こんなとんとん拍子に行くとは思わなかったが、さてどうなるのか。

 

Tさんが車でホテルに迎えに来てくれ、活動が始まった。とにかく指定された寺院に向かう。今やヤンゴンでも車が多過ぎて駐車スペースを探すのに苦労した。その寺院は如何にも福建系であり、入っていくと線香の煙に包まれた。その寄付金のボードに、早くも調査したい人物、張彩雲氏の名前を発見して、テンションが大いに上がる。

 

案内された事務室に入ると数人の老人がいたが、その中に、張彩雲氏の息子、張家栄さんがいた。このお寺、慶福宮の前主任をしていたという。きれいな中国語を話した。この宮も張彩雲がその管理に尽力し、それを三男の家栄氏が引き継いだということらしい。まあとにかく日本人がわざわざ自分の父親の歴史を調べに日本から来た、そして中国語を話したということで、とても喜んでくれた。

 

ひとしきり彩雲氏の話を聞いた。1920年代からヤンゴンで茶業を始め、94歳まで元気で生きており、最後は事故で亡くなったという。ただその一生はかなりの激動であり、如何にも華人という歴史だった。更にはその人生とミャンマー、中国の歴史が密接に絡んでおり、このテーマは茶商の歴史をというより、華僑史、アジア史に直結しており、意味があると思うに至った。尚家栄氏は茶業をしておらず、息子の一人がチャウメイ方面で茶を作っているということだった。

 

続いて、華人図書館に行った。Tさんが探してくれていた場所だった。細い階段を上がると、2階には漢字の本がずらりと並んでいた。係の女性も普通の中国語を話し、親切にも本を紹介してくれる。ヤンゴンの華人に関するものは限られていたが、先ほどの慶福宮の歴史などが分かるものがあり、これをコピーさせてもらうことにする。

 

だが図書室にコピー機はなく、近くのコピー屋に持ち込む。本の持ち出しを簡単に許してくれたのも驚いたが、コピー屋ではコピーが何台かあり、スタッフが1ページずつ丁寧にコピーしてくれたのはもっと驚いた。とても立派なコピーが格安で出来た。さすがヤンゴン。

 

それから彩雲氏が主席を務めたという和勝総公司にも行ってみたが、そこは会社でもなく、何だか結社のような場所だった。そして話を聞くなら、中華総商会に行くように言われる。商会は川沿いの大きなビルだった。いきなり入っていったものかとも思ったが、2階だと言われたのでエレベーターで上に上がる。

 

そこはかなり広い空間であり、時々華人が集まっているのだろう。総幹事の黄さんが対応してくれる。彼は彩雲氏も勿論知っていたし、彼の孫世代とはかなり近しい関係だという。福建系の人々はやはりかなり繋がりがあるようだ。現在ヤンゴンで茶業をしている人は殆どいないことを確認。尚黄さんは旅行社を経営しており、ミャンマー華人の台湾訪問旅などもアレンジしているが、近年は参加者が増えているという。

 

彩雲氏の茶行は五十尺路にあった。五十尺路とはどこにあったのか、その場所も分った。そして茶行の場所に古い建物は無くなっていた。今は家栄氏の息子がプラスチック会社を興し、成功しているらしい。この道、よく見ると、茶荘など色々な商店が立ち並んでいて、面白い。往時は栄えたところだったのだろう。

 

家栄氏に住所を聞いて、彩雲氏の孫も訪ねた。長男の息子さんだった。最初は怪訝そうな顔をしていたが、こちらの意図が分かると、1950年代にナムサン方面に入った時の写真などを見せてくれ、説明してくれた。長男は3年前に亡くなったが、忠実に彩雲氏の教えを守り、細々と茶業を続けており、現在はその息子が引き継いでいた。ここでは水仙茶やジャスミン茶を売っており、なかなかいいパッケージだった。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(1)変化するヤンゴン

《ミャンマーの茶商を訪ねて2018》  2018年10月5-12日

4月に福建省の安渓に行った時、地元の華僑史研究の第一人者、陳先生と出会い、その著書をもらった。その本をパラパラ見ていると、東南アジアに出て行った安渓出身者の中で、茶業に従事した者が何人か取り上げられていた。さすが安渓、茶産地らしい。

ちょうど10月からミャンマーに入るのに、日本人はビザ免除になったこともあり、まずはヤンゴンへ行ってその華人の末裔を探してみようと考えた。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。バンコックでの成功体験を胸に勢い込んで向かう。

10月5日(金)
ヤンゴンの変化

エアアジアは無事にヤンゴン空港に着いた。イミグレで日本人向けビザ免除が浸透しているのか、帰りのチケットを持たないでも本当に免除になるのか、ヤンゴンから入って、他の街から出国することは可能なのかなど、いくつかの不安があったが、それは完全に杞憂に終わる。イミグレの女性係官は笑顔で『ノービザね』と言い、あっという間に通過できた。観光目的に限り30日間免除、ということだが、これまでビザ取得にかかっていた時間、そして50ドル程度の費用が一瞬にしてなくなり、夢のようだった。

 

外へ出ると、シムカードも簡単に買える。ほんの数年前は保証金を出してシムカードを借り、帰りに空港で返していたのが何とも懐かしい。しかも料金は5500kと安い。空港内にはKFCも出来ており、どんどん変化していることがよくわかる。今までは空港にTTMなどが迎えに来てくれていたが、今回は初めて一人でダウンタウンに行くことになっていたのが唯一の不安材料。

 

タクシーも考えたが、シャトルバスがあると聞き、乗ってみる。僅か500kでさくらタワーまで行けた。何と便利になったのだろう。勿論沢山のバス停に止まるため時間はそれなりにかかり、車内アナウンスも全くなので、どこで降りてよいか分からないともいえるが、慣れている人なら大いに助かる。このバス、一般ミャンマー人も利用しているが、市内バス200kよりはかなり高いという。

 

今回はさくらタワーのすぐ横のホテルを予約していた。確か数年前は100ドル近くしたホテルのはずだが、予約した料金は僅か30ドルちょっと。行ってみると、かなり古いのだが、部屋には趣がある。Wi-Fiは弱く、繋がり難いが、それでもこの立地、朝食付きで、この料金は以前では考えられない。ヤンゴンのホテルバブルは収まったと言えるのではないか。

 

まだ日も高いので、取り敢えず周囲の散策を始めた。この付近、何度も来たことはあるが、ボージョーマーケットやさくらタワーなど、用事がある時だけ歩いているので、実はあまり馴染みがない。ボージョーの向かい側には大きな新しいビルが建ち、風景も変わってきている。だがその向こうには植民地時代の古い建物が並ぶ。病院だろうか。華人街、インド人街もその南側に広がっていた。路地には市場が立っており、柚子を買った。バナナも買いたかったが、いいものがなかった。

 

夜、一度ヤンゴンで会ったIさんと再会した。彼女はベトナムからヤンゴンに移って数年、精力的にミャンマー事情を紹介している。彼女はチャイナタウンの近くにある、ミャンマー人の若者が最近オープンしたという茶館に連れて行ってくれた。そこは賑やかな繁華街にあり、1階はバーのように見えた。

 

2階に上がるとそこは座敷のようになっており、ゆっくり座って茶を飲むことができる。こういう空間がミャンマーにも出現したのかと、ちょっと驚く。ここには数種類の中国茶が置かれており、簡単な食事もできた。お茶はポットでも3000kと決して高くはないが、ミャンマーの物価からすれば結構な値段なのだろう。

 

帰りがけに1階にいるオーナーからちょっと話を聞くことができた。まだ30歳、元々コーヒー店を経営しており、繁盛しているという。彼も親が雲南からやって来た華僑であり、中国語を普通に話す。コーヒーだけでなく中国的な茶にも目を向けたのだろう。正直酒を出すバーの方が儲かりそうに思うのだが。そんなことを考えていると、四川から来たという中国人が来店して話を始めたので、おいとました。

 

繁華街は夜10時を過ぎ、かなり盛り上がっていた。道の真ん中を占拠している果物の露店商も売り込みに懸命だ。Iさんは帰りのタクシーを探しているが、価格面でなかなか折り合いが付かない。そろそろメーターで普通に行って欲しいのだが、この辺に昔のミャンマーの名残がある。

ナムサン茶旅2016(15)一人でタチレイへ

一人になって

午後Tさんがヤンゴンに向かって出発した。夜行バスで10数時間、明日の朝にはヤンゴンに着くらしい。今回彼には大変お世話になった。そして彼の車は故障し、彼自身も九死に一生を得た。むしろ私以上にショックが強かったのは彼ではないだろうか。別れるときの彼の疲労した様子は、とても気にかかるところだった。バスではゆっくり眠れないかもしれないが、休んでほしいと思う。

 

一人になってしまうと、何もやる気が起きなかった。部屋でボーっとしながら、お茶を飲んで過ごした。これは半年前に疲弊してベッドに横たわっていたのと大差ない。私の旅には休息が必要なのだ。特に今回のようなショックな出来事があった場合、ゆっくり旅をするのがよい。そう決めていたのだが、何とそこへSさんからメールにて、指令が来た。『ミャンマー北部にいるのなら、地理的に近いのだから、ラオス北部に行ってお茶を買ってきてほしい』というのだ。

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ちょっと調べてみると、そのラオスのポンサリーという街は、飛行場もあるが、普通はバスで行くらしい。行き方はよくわからないが、一旦タチレイからタイのメーサイに入り、そこからゴールデントライアングルを抜けて、進んで行くらしい。何となく行けそうだったし、タイもラオスもビザ不要なので、気分を変えるにもいいかと思い、気楽に引き受けてしまった。取り敢えず明日飛行機でラショーからタチレイに行き、さて、その先何処まで行けるのだろうか?

 

夕方外へ出てみると、宿の周囲は露店の準備で大忙し。夜はここに衣服などの露店が大量に出ることが分かった。ちょうど腹も減ったので、食事をとることにした。麺はもう食べ飽きたので、ご飯を食べることにしたが、どうしてよいかよくわからない。屋台ではなく、ちゃんとした食堂で、おかずがずらーと並んでいるところがあり、若者たちが入っていたので、わたしもそこで指さしで注文した。焼いたチキンがうまい。野菜炒めも味が濃い目でよい。お婆さんがスープを持ってきてくれ、ご飯をお替りするように、というジェスチャーをする。何とも優しい対応で、心が和んだ。

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1月30日(土)

夜は早めに寝入る。疲れていたのだろう。翌朝は早めに起きるが、部屋でもぞもぞして過ごす。今日のフライトは13:20発だったが、『国内線のフライトだが、たまに早く飛ぶこともあるので、12時前には飛行場へ行くように』という旅行会社からの注意があった。普通フライトが遅れることがあっても早まることはないと日本人の感覚では思いがちだが、この国では十分にあり得る。11時には宿を出ようと思い、10時過ぎに食事に出た。

 

宿の前にうまそうな麺屋があった。ガイドブックにも載っていた店かも知れない。言葉は通じないので身振りで麺を指す。出てきた麺はスープの味もよく、確かにうまかったが、代金は1000kだった。これまでミャンマーの様々な場所で麺を食ってきたが、こんなに高いものは初めてだった。お釣りをくれるのかと思い待っていたが、くれないので、聞いてみると、1000kだときっぱりいう。明らかに外国人価格、それも相当にボッテいる。仕方なく諦めたが、麺がうまいだけに残念だった。

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タチレイへ

ホテルのフロントでトゥクトゥクを呼んでもらった。半年前もここから飛行場へ向かったのだが、その時はタクシーに乗った。私は無料だと思い込んでいたのだが、近い距離を6000kも請求されたので、かなり揉めたのを思い出す。今回は3000kという料金を確認して呼んでもらった。快適に走り出したが、途中で飛行場と違う方へ曲がった。ちょっと行くと、民家に入っていく。そこでやはり飛行場へ向かうお客を拾った。まあこれは仕方がないし、時間的にも余裕があったので黙認した。

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そしてあの何とも小さなラショーの飛行場へやってきた。まさかここに半年の間に2度も来るなどとは予想していなかった。誰かがやってきて、何となくチェックインの手続きが進む。荷物も預ける。さて、飛行機は早く飛んで来るのだろうか。聞いても誰もわからないという。まあこんなものだと思い、座るところがなかったので、隣の掘っ立て食堂に入り、座っていた。特に注文しなくても何も言われなかったが、隣の人が麺をすすっていたので、私も食べてしまった。この先いつ食べられるか、分らなかったからだ。さっきも食べた麺、こちらは普通だったが、代金は500k。これでも空港の脇だから少し高いのかもしれない。とすれば、さっきの1000kは何だったのだろうか。

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フラフラしていると時間が過ぎ、気が付いてみると、乗客がいなくなっていた。係員がこっちだ、と合図してくるので、急いでゲートを潜り、ターミナルへ歩いていく。やはり早く飛んできたのかと喜んだが、そんなことはなかった。そこから小さな待合室で1時間待った。結局は定刻に飛ぶことになる。待合室にはテレビがあり、仕方なくそれを眺めていると、何となく見たような顔が出てきた。それは女優の有村架純だった。映画『ビリギャル』の宣伝ビデオが流れていたのだ。ミャンマーでビリギャル、何となく面白い。有村架純はミャンマー人にも人気があるのだろうか。ミャンマーは未だに韓国ドラマが主流だと思っていたが、日本のドラマも少しは盛り返しただろうか。ビリギャルの次はハリウッド映画だったが。

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滑走路を眺めているスイス人が言った。『こんな小さな空港、今まで見たことがない』と。その小さな滑走路にゴールデンミャンマーはちゃんとやってきて、我々を乗せて、ちゃんと飛び立った。後ろから乗り込む機材で、自由席。私は一番後ろに乗った。CAはきちんとした英語を話し、サービスも悪くなかった。簡単なパンとコーヒーも出た。快適な空の旅だった。そして1時間もしないうちに、タチレイの空港に降り立った。ここから試練のラオス旅が始まることを私はまだ知らない。

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ナムサン茶旅2016(14)ラショーの変化

7.ラショー

ホテルとチケット

ラショーの郊外にバスは着いた。沢山の客引きが寄ってきたが、Tさんはそれを避け、一度よく観察してから、良さそうなトゥクトゥクを選んだ。この辺は経験だ。例のヨーロッパ人などは茶店に入り、茶を飲んでいる。相当慣れている感じだ。街まではそう遠くはない。我々はまず、バスターミナルを目指した。Tさんが今日の夜行バスでヤンゴンへ帰るためだった。

 

だが旅行代理店が見えたので、そこで降りて、私のエアチケットを買うことにした。店にはミャンマー語と中国語が書かれている。ラショーは国境の街、中国人も多く来るのだろう。試しに従業員に中国語で話しかけると、一人は対応してきた。簡単な言葉はできるようで、それで十分だった。

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チケットはやはりティボーよりこちらの方が安かったし、ティボーでは出てこなかったチケットが運良く買えたので、最終的にゴールデンミャンマーに乗ることになった。このエアラインは確かバンコック線も飛ばしていたが、今はどうなのだろうか。因みに半年前に乗ったエアウイングは運休しているという。それはどういう意味なのか、知りたいがよく分らない。

 

旅行代理店のすぐ近くに新しいショッピングセンターがあり、その横にきれいなホテルがあった。飛行場にも近いので今日はここに泊まろうと思い、聞いてみるとなんとまだ午前なのに満室だと断られた。中国人観光客の団体が泊まるのだろうか。ホテルは向かいにもあるというので行ってみたが、なんと外国人は泊められない宿だった。タクシーの運ちゃんに聞くと、『この辺で外国人が泊まれるホテルは殆どない』と言われてしまい、旧市街に向かうことになる。

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その前にTさんが新しくできたショッピングセンターを見学しようというので、行ってみたが、店はほとんど入っておらず、従って2階へ行くエスカレーターも止まっていた。なんだろうここは?すでに計画が失敗したのか、それともこれからなのか?1階入り口付近になぜかお茶屋があった。茶畑の写真などが飾られていたので興味を持った。入っていくと若い女性が一人で店番をしている。聞いてみたが、お茶のことは全く分からないらしい。なぜここにお茶屋があるのか聞くと、このセンターのオーナーの店だという。恐らくは格好付ける目的ではないかと思う。

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それでも彼女がお茶を淹れてくれ、飲んでみると台湾茶に近いような気がした。袋は台湾製で烏龍茶とか高山茶と書かれている。茶畑はどこにあるのかと聞くと、コーカン地区らしい。そこは外国人立ち入り禁止、というか、中国との間で紛争中の場所だった。ラショーから車で1日掛かるという。ぜひ行ってみたいが、その日はいつか来るだろうか。紛争地区は昨日で懲りているし。

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旧市街へいくためにトゥクトゥクを探すが、ちょうど乗り合いトゥクトゥクが来たので、私の荷物を何とか引き上げ、地元のおばさんと一緒に乗り込んだ。おばさんたちが何か話しながら、楽しそうに笑い合っている。こういう光景はなんだか心が晴れる。ミャンマー語ができるTさんがいないと難しいが、こんな流れで乗るのが好ましい。勿論料金も格安。

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旧市街は半年前にも来たので、なんとなく土地勘あり。取り敢えず近くのホテルに入ってみたが、料金の割に従業員にサービス心がない。Wi-Fiも不安定ということで、断念。仕方なく、半年前に泊まったホテルに投宿した。料金は乾季・雨期で違うと思っていたが、1泊30ドルは変わらなかった。ここは特になにか良いわけではないが、Wi-Fiが何とか部屋でもできることと、お湯が沸くのでお茶が飲めるという利点があった。ベッドの硬さが半年前を思い出させる。

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ラショー散歩

Tさんのバスの時間まで、ラショーの街を歩いた。近くに病院があった。その横では拡張工事が行われていたが、ここはJICAの援助で作られているらしい。この街で日本が支援を行うことの意味、政府はどの程度理解しているのだろうか。いや、むしろミャンマー政府が政治的な意図をもって、支援を求めたのかもしれない。外交はしたたかでなければならないはずだ。

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街にはお茶屋さんもあったが、そこの売り子も、お茶のことはほとんどわかっていなかった。第一、強い日差しの中、直射日光を茶葉にあてている。茶葉の値段もすごく安い。半年前にマンダレーの市場で見たのと同じ光景だ。これはレストランなどにて、無料で提供されるお茶だろうか。産地を聞いても分らなかった。これがミャンマーの真のお茶事情といえるだろう。

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ラショーは中国系の街。漢字も多くみられるし、ナムサンにもあったが、正月飾りやカレンダーをあちこちで売っている。対照的にランチはおしゃれなカフェ、いやベーカリーに入る。何となく気分を変えたかった、ということと、やはり食欲がそれほどなかったことからサンドイッチを注文した。更にはアイスティなどを飲んでみる。冷たくて美味しく感じられる。

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このベーカリー、ケーキ作りをガラス越しに見ることができる。パッケージもおしゃれで、お客も若い女性が多い。後で調べてみると、この街の老舗パン屋だった。きっと代替わりしたか、何かに迫られたかで、方向転換しているのだろう。本店は別のところにあり、普通にパン屋をやっていた。ミャンマー地方都市にも少しずつ変化の兆しが見える。

 

ナムサン茶旅2016(13)九死に一生を得る

1時間ぐらい走ったところで、朝も通った例の橋を越えた。そこには兵士に詰め所があったので、運転手はそこで停まる。兵士が出てきて、運ちゃんは何かを彼らに見せている。免許証か何かだろうか。暗いので懐中電灯をかざして、お互いのぞき込んでいる。すると突然運ちゃんが車から降りた。何をするのだろうかと思ったその時、車が僅かに動いたような気がした。あれ、と思っていると、今度はかなりの勢いがついたように車がバックを始めてしまう。

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何が起こったのか全く分からなかった。ミニバスは下り坂を転がり始めていた。どうするんだ、と頭が動いても何も行動はできなかった。えー、体が強張った。そこでドスンという音が響き、車の動きが止まった。まるで何事もなかったかのように。その間わずか数秒だっただろう。その音に慌てて兵士が銃をもって飛び出してきた。我々二人も助手席から飛び降りた。車の後ろへ回ると、何かにぶつかっていた。兵士がライトを照らすと、そこは橋の欄干の一番端だった。兵士は更にその横を照らしてニヤッとした。草むらがボーっと見えた。

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僅かあと50㎝バックする位置がズレていたら、このミニバスは橋の下へ落ちていただろう、とそのライトは語っていた。午前中にこの橋を通った時の事を思い出すと、橋から川までは数メートル、車が転げ落ちたら、とそこまで考えて、初めて血みどろになった自分が想像できた。同時にアクション映画では、危機一髪脱出する場面が想像できるが、現実はそうはならないことも痛感する。

 

ところが運ちゃんたちは、バスの後ろの凹みを気にしていた。橋の欄干にぶつかったのだから、それなりに凹むだろう。それでも命拾いしたという思いはないのだろうか。いや、恐らく彼もこの事態にどうしてよいか分らなかったのではないだろうか。結局Tさんが彼に一言、ミャンマー語で何か言ったが、その後は誰も一言も口を利かなかった。各人が色々なことを頭に巡らしていたに違いない。私はなぜかボーっとなってしまい、何も考えられなくなっていた。

 

この運ちゃんは実は車から降りたときにサイドブレーキを引いていなかった。停まっていた位置がほんのわずかに下っていることに気が付かなかったようだ。それがこのミスを生んでいた。彼がなぜ車を降りたのかは謎のままだった。兵士の指示でなかったことだけは確かだから、自分の意志で降りたのである。

 

黙って暗い夜道を揺られていて、徐々に実感が沸いてくる。それは『助かった』という感覚よりも、『天からもう少し生きていてもいいよ』と言われた気分だった。人間、一寸先は闇、などというが、その時が来ても、殆ど実感はなく、事故は瞬時にやってくる、頭で危険だとわかっていても、何もすることができない、ということを思い知ることになった。結局我々は何ものかによって生かされている、ということで、自ら生きているというのは間違いだと気付く。その感覚だと、この夜道の運ちゃんによる危険な運転にも怖さがなくなっている。

 

1時間半ほど車は走り、ティボーまで戻ってきた。夜9時を過ぎており、ホテルに戻る前に食事をしようということで、ミニバスを降りた。運ちゃんとは何も言わずに別れた。その時は文句を言うことは思いつかなかった。ただただ生きている、という感覚だけで、誰が悪いとか、そのような感じはなかった。だがTさんは私以上にショックを受けており、食事ものどを通らない感じだった。この旅に誘ったのは自分だ、という自責の念があったかもしれない。自分の車が故障しなければ、という思いもあったのだろうか。私の方は彼を責める気など毛ほどもなく、むしろ2人とも生きていてよかった、という微かな喜びだけがあったのだが。

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ホテルの部屋に戻り、熱いシャワーを浴びると一気に体が脱力した。どこかがものすごく緊張したままだったのだろう。それまではやはり冷静ではなかったのかもしれない。何となく自分の感覚が飛んでいたようだ。それでも疲れていたのだろうか、目をつぶるとすぐに眠れた。5年間のアジア放浪生活の1つの成果かもしれない。これからは余生だ!という気分。

 

1月29日(金)

車を失った我々は翌朝、ラショーに向かうことにした。ホテルのフロントに聞くと、比較的近くにバスが来るというが、一応乗り物で移動した。7:15発のバスがあるということだったが、ここが始発ではなく、チャウメイから来るらしい。だがチケットは売り切れ、そして席があるかどうかは、来てみないとわからない、と言われてしまう。ヨーロッパン人の男性が我々の後ろからやってきたが、彼はちゃんと予約していたようで、彼の席はあった。

 

ちょっと待っていると、日本製のバスがやってきた。皆が下りたので、席は問題ないと思ったが、降りたのは休憩、いや朝食のためで、空いている席はなかった。何とか乗り込むと補助席があり、そこに座り込む。かなりガタが来た椅子で座りにくかったが仕方がない。この道は半年前にも、列車が土砂崩れでラショーに行けず、戻ってきて車で通った道だったが、正直前回が暗かったこともあり、全く覚えていなかった。ティボーはやはり鬼門だった。

 

ナムサン茶旅2016(12)山中で事故に遭ったが

Tさんは『取り敢えず、街まで戻りましょう』と言って、車を運転し始めたが、少しスピードを出すと、また煙が上がる。これを続けていると、必ずや動かなくなる、という合図に見えたが、こんな山の中、走ってくる車もない。どうするか?悩みながらもゆっくりと車を動かし、もう少し頑張ってみると、ティボーへ降りる道と、街へ向かう道の交差路に出た。ここは少し広くなっていたので、まずはここに車を停めて、誰か来るのを待つことにした。

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果たして車は来るのだろうか。その時、思いついたのが電話で助けを呼ぶことだった(こんな山の中にいるとそんな普通の発想すらなくなってしまっていた)。Tさんが携帯を取り出してみてみると、なんとここには信号があった。後で聞いた話ではこの付近で携帯電話が使えるのはまさにこのスポットだけだった。何かに導かれていたのではないか、と今では思う。

 

そして先ほどの茶工場のマネージャーの名刺もある。電話を掛けると、マネージャーが出て、それは大変だと、すぐに街の車修理の人に連絡を取ってくれるという。これで助かった、何とか切り抜けられる。その後バイクが何台か通ったが、皆どうしたんだという顔をするだけで通り過ぎって行ったが、こちらにも余裕が生まれていたので、気にならなかった。

 

待つ時間というのは退屈である。ナムサンについて思い出してみると、そもそもこの名前を初めて聞いたのは、TTMからだったと思う。彼女が子供の頃、軍人であった父親が配給でもらってきた中に、ナムサンの紅茶があったというのだ。そして当時貴重なコンデンスミルクももらい、これを混ぜると美味かったともいう。更にカップはなく、コンデンスミルクの空き缶を使っていたという話は、妙に心に引っ掛かっていた。ミャンマーは長い間、経済が低迷しており、TTMだけでなく一般ミャンマー人は色々と苦労して生きたことだろう。

 

そんなことを考えていると、ついに修理屋さんが車でやってきた。壊れた車の下にちょっと入り、点検していたが、すぐに首を横に振った。仕方なく。彼の乗ってきた車でTさんの車を曳いて街まで行くことになる。だが山道をコントロールの利かない車を曳いていくには相当のパワーがいる。修理屋の車には残念ながら、そのパワーはなく、車はヨロヨロと蛇行しながら、アップダウンを喘いでいく。Tさんは自分の車に乗り、ハンドルを懸命に動かしていたが、相当の大変なことになっていた。一難去ってまた一難。人生のように難しい。

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そこにトラックがやってきた。追い抜いていくものと思っていると、後ろで停まり、修理屋に声を掛けていた。2人で話したのち、なんとそのトラックが壊れた車を引っ張ることになった。さすが小さな街、知り合いなのだろう。トラックが曳き始めると、かなり安定して、スピードも出てきた。何ともありがたい光景だった。それでもかなりの時間が掛かったが、何とか街外れの修理工場まで運び込んだ。ホント、トラック運ちゃんにはお礼の言葉もない。

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車はここに置かれ、修理屋が破損状況を把握後、修理可能かどうか、を連絡することになった。見た感じではすぐに直るとは思えない。Tさんは覚悟を決め、後日ここに車を取りに来ることに決めた。すでに日はかなり傾いている。正直これからどうするのだろうか。今晩は、ここに泊まることになるのだろうか。先ほどの心地よさそうなゲストハウスの部屋が頭に浮かび、このような緊急事態なら、特別許可で1晩ぐらい泊めてくれるだろうと高をくくり始めた。修理屋も『取り敢えず、ゲストハウスに行け』と車で送ってくれたのでその期待はさらに高まった。

 

ところがゲストハウスでは、マネージャーがマンダレーにいたオーナーと連絡を取ったものの、我々が泊まることは難しい、との見解を示してきた。この辺が微妙な時期、というのを反映していたのかもしれない。ではどうするか?再び修理屋の車に乗り、別の場所に連れていかれる。そこではすでに酒盛りが始まっていたが、その中から若者が探し出され、修理屋が話し始めた。彼はこの街とティボーを繋ぐ、ミニバスの運転手だった。バスは朝ナムサンを出て一往復、すでに仕事は終わっていた。もう日が暮れようというこの時間に、わざわざ山を下りたい者などいる訳がない。だが、結局かわいそうに彼が我々を送ることになる。

 

彼に8000kの運賃を支払った。我々には全く選択の余地がない。高いと思ったが、言われるままにするしか方法がなかった。運ちゃんはもう一人助手を探してきて、日が暮れようというまさにその時、勢いよく出発した。我々二人は助手席に詰め込まれ、助手は後ろの座席に乗った。後で考えると、夜は風が冷たいので、助手席の方がよいという配慮だったらしい。

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九死に一生を得る

車は暗い下り坂をかなりのスピードで降り始めた。さすがに普段から慣れた道を運転しているということだろうが、それにしても恐ろしい。もし景色が見えたら、もっと恐怖が増したかもしれない。特に前方を走るトラックを追い抜いていく時には、崖から落ちはしないか、かなりハラハラした。運ちゃんも早く帰りたい一心だったのかもしれない。明日の朝も早いのだから。

ナムサン茶旅2016(11)ナムサンの茶

ナムサンの茶

そしてもう1つ、最近ナムサンで日本人が茶作りを始めたと聞いたので、その工場へも行ってみた。ここにも誰もおらず、話も聞くことはできなかったが、日本人とミャンマー人が共同で茶を作り、日本などへの輸出を考えているらしい。面白い試みだと思うが、どんな人がやっているのだろうか。外国人が入れるようになった今、中国人も含めて、これからナムサンの茶畑には、色々な動きが出てくることだろう。

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その工場のすぐ近くではちょうど酸茶作りが行われていたので見学した。おじさんは数か月袋に詰めておいたラペソーを足で揉んでいる。茶葉を選り分けている人もいる。そして日の当たる場所に茶葉を干す。ちょっと酸っぱい香りが漂う。なんともゆったりとした、いい光景だった。こちらがカメラを向けるとおばさんたちが珍しそうに見ている。外国人などが入ってきていないからだろうか。

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このナムサンに半世紀も前に入り、調査した日本人がいた。松下智先生、昨年ベトナムにご一緒した折、この話が出た。1962年、ネウィンの社会主義革命が興る前後の混乱期に、偶然にも入ることができたというのだ。その時もラペソーを作り、酸茶も作られていたこと、ここの茶畑は栽培のための植えたものが野生化したもので、茶の原産地ではない、ということなどを確認されていた。非常に貴重な検証だったと思う。その後、公式に調査した人は恐らくいないのではないだろうか。

 

昼が過ぎていた。ランチはこの街の真ん中あたりの食堂に入ってみた。女性が数人で食事をしていた。ここは観光地ではないので、どんな人たちかと思っていると、どうやら周辺の病院の看護師さんたちらしい。研修か何かで集まったのだろう。辺境の地に送られた看護師や先生などは、色々と苦労があるだろう。きっとお互いの苦労話をしているに違いない。

 

この食堂は入り口を見れば中華系とわかる。食べ物も中華料理で、野菜炒めの野菜が新鮮で、特に美味しい。ミャンマーでは外食なら中華、という感覚があるとヤンゴンでも聞いていたが、田舎でもそうなのだろう。ご馳走という感じも中華にはあり、ヤンゴンの結婚式では中華が振る舞われるらしい。この食堂の窓からはナムサンの山がよく見える。景色もよいから言うことはない。

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茶葉を買いたいと思ったが、店を見ても売っているところがない。食堂で聞いてみると、1軒の店を教えられたが、そこは先ほどティミックスを飲んだ場所だった。そこで紅茶を買ってみる。どんな味かは分らない。紅茶が手に入ると、緑茶も手に入れたいと思う。するとTさんが、『街外れに茶工場とゲストハウスを兼ねた場所がある』というので行ってみた。

 

そこは工場になっており、茶葉は外に大量に干されていた。ここでも酸茶を作っている。職員のおばさんが倉庫のような場所を開けてくれた。そこには在庫の紅茶や緑茶があり、買うことができた。更に工場も見て、その奥のゲストハウスまで見学した。部屋もきれいで、景色は抜群。ぜひ次回は泊まってみたいと思ったが、許可がないと泊まれないのは残念だ。マネージャーは若く、英語も出来て、とても好感が持てた。Tさんは彼から名刺をもらっていた。

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そして郊外に茶畑を見に行こうということになり、車に乗る。20分ぐらい走ると小さなパゴダがあり、それを修復している人がいた。200年ぐらい前のパゴダだというが。その脇から茶畑が山の斜面に広がっていた。かなり古い茶樹のようで葉っぱが厚かった。茶葉を虫が食っており、農薬などないことが分かる。このあたりが古い茶産地であることを示しているように見えた。

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更に行くと、素晴らしく枝を横に張り出した大きな木があった。道しるべ、という感じの大木。そのあたりから、もっと大きく茶畑が広がっていた。小さい木、ヒョロヒョロとした木も多かったが、最近植えたのかもしれない。しかししっかり管理されている茶樹も多く見受けられた。このあたりがナムサンのメインの茶畑かもしれない。茶樹の栽培化ということか。

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事故

まだ日は高かった。ナムサンからティボーに戻るには少し早いということで、『かなり古い茶樹があります』というTさんの言葉に反応して、さらに山の中に車を進めた。道は平らで凸凹もなく、ドライブは快適だと思われた。ところが少しくと、突然車が大きく傾き、体が跳ね上がった。何が起こったのか全く分からなかった。なんと、道を横切るように大きな溝があったのだが、何のサインもなく、気が付くこともなく、そこに突っ込んでしまったのだ。

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初めはたいしたことはないと思っていたが、Tさんがエンジンを掛けてみるとバンパーから煙が上がった。慌てて調べてみると、車の前が大きく凹み、その凹みが中のパイプを押し込み、破損させていた。これがどういうことなのか、車音痴の私には全く分らなかったが、かなり重大な事故であることはすぐに分った。

 

ナムサン茶旅2016(10)多彩な街 ナムサン

ティボーから1時間半ぐらい行くと、立派な橋が見えてきた。この川を渡るとナムサン地区だという。橋を越えたところに兵士が銃を持って立っている。とても緊張感がある。Tさんによれば、前回来た時には誰もいなかったので、何かあったのかもしれないと。取り敢えずカメラ撮影を控え、様子を伺ってみたが、誰も車を停めるようとする動きはなく、車は山道を登り始めた。

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その後も湾曲する道をクネクネ行くと、所々に兵士の姿が見えたが、大体一人か二人で歩いており、我々に気を止める気配はない。何があったのだろうか。何しろここナムサンは何十年もの間、原則外国人の出入りが禁止されていた場所であり、少数民族と政府の戦闘があり、また少数民族同士の諍いも度々起こっていると聞く。Tさんによれば、昨年から日中の外国人立ち入りが許可なしで認められたということで、今回訪ねることになったのだが、前途多難な様相。尚ナムサンに宿泊するには今も特別の許可が必要。これが後で効いてくる。

因みに後に街で聞いたところによれば、当日の朝、少数民族同士の小競り合いが発生していたようで、その警戒のため、ミャンマー政府軍の兵士が見回りをしていたらしい。ちょうど政権が交代するこの時期は、反政府活動や利権争いなどが起こりやすい状況であり、スーチー政権も少数民族問題、シャン州問題では、前途は多難であることを身をもって感じた。

ナムサンの街

突然街が見えてきた。いや、予兆はあったのかもしれないが、突然に見えたように見えた。細い道の両側に建つ古い町並み。思わず降りて写真を撮りたかったが、Tさんは迷わず、進んでいく。声を掛ける間もなく、車は大きな建物のあたりで停まった。『道が狭いので車はここに駐車して、あとは歩いて行きましょう』と言われて、こっくり頷く。望むところだった。

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ただ歩く方向は今来た道ではなく更に先へ。そちらに更に本格的な街があった。細い道の両側にきれいな建物が並ぶ。100年ぐらいは経っていると思われるものもある。大きな棚を何人もが洗っている。よく見ると豆腐屋さんで、すでに今日の仕事は終わったのかもしれない。豆腐はこの辺の必需品。乾物屋に入って見ると、そこにはお茶が袋に入って置かれていた。店の人は片言の中国語を話した。『これは酸茶だ』という。ちょうど出来立てで、これから出荷するらしい。

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ナムサンといえば、昔は紅茶が有名だったと聞いていたが、ここでも前回訪れたミョーテイ村同様、ラペソーを食べずに乾かした酸茶が作られていたのだ。この辺の事情を聴こうと別の乾物屋に入ると、そこのおじさんが笑顔で椅子を勧めてくれ、お茶まで出してくれた。そのお茶はいわゆる緑茶だった。おじさんが言うには『この辺では季節によって作るお茶が違う。今の時期は作っておいたラペソーを干して作る酸茶、4月頃は緑茶、それが終わると紅茶の季節だ』と説明する。さすが茶処と言われるナムサンだけあり、茶の種類が豊富だ。

おじさんはナムサンの生まれ。父親が雲南省からここにやってきた華人だった。『ナムサンは全部で500戸ぐらいの街だが、その5戸の1戸は華人だろう』という。中国語は子供の頃から習っており、華人はみなある程度はできるようだ。他にはパラウン族など山の民族がおり、そしてインド系の顔をしたムスリムもいる。この山の中がなぜそんなに多彩なのか、とても不思議だ。

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売っているものを見ても中国から沢山の物資が入ってきている。ビールもあれば、お菓子もある。旧正月が近いので正月飾りもある。これがあのムセの国境を通り、ここに来るのだろうか。それとも別に彼らの秘密ルートがあるのだろうか。興味津々だが、これはすぐには分らないだろう。

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おじさんに礼を言って別れ、街を散策した。ここは特に何があるわけでもないが、外国人がほとんど入っていないことが幸いし、何か落ち着きがあり、昔の風情がある。今日は風もさわやかで気持ちがよい。それほど広いわけではないが、道はかなり長細く、端まで歩くとかなりある。少し疲れたのでティミックスを飲みに店に入った。トイレを借りるのが目的だった。

それから一旦車まで戻り、少し離れた場所にある大きな工場へ向かった。ここはプレハブが主の茶工場だったが、かなりの規模を誇っている。1月は茶作りの季節ではなく、門は閉ざされていたが、門番が一応中には入れてくれた。と言っても工場内を見学することはできず、外から眺めるだけだった。何しろこんなに広い敷地内に、誰一人いないのだから、仕方がない。

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工場の名前はロイカーンとなっていたが、貼ってあった広告を見て納得。ここはミャンマーの二大茶業者の1つ、ナガピョンというブランドを持つ企業の工場だったのだ。道理で大きいわけだ。もう一つのメーカーは南シャン州が拠点と聞いているので、ここが北シャン州最大の茶工場かもしれない。

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ナムサン茶旅2016(9)ティボーの格安ホテル

5.ティボー

安くてきれいなホテル

ティボーには半年前に来たのだが、その時は駅と街道沿いの一部しか見ておらず、街に入るのは10年ぶりだった。勿論発展はしているが、それほど大きく変わってはいない、どこかホッとする街並みだった。この街には今もソーボアハウスがあり、その子孫たちが伝統を守って暮らしているのだろうか。などと、ふと10年前に訪れたそのお屋敷とお嬢さんを思い出す。

 

そしてティボーといえば、前回泊まったゲストハウスM。ここでの大ゲンカは忘れられない。Tさんにその話をすると、せっかくだから行ってみようということになる。10年前は外国人が泊まれる宿がティボーにはほとんどなく、皆がMに向かったものだった。行ってみて驚いた。なんとゲストハウスが立派なホテルに昇格していたのだ。さすが商売上手。よく見るとその横に、昔の面影を少し残すゲストハウスも併設されており、敷地内は白人観光客で賑わっていた。因みにこの宿の娘婿は日本人だ、という話も聞いたが、どうなのだろうか。

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実はこの旅も半分が過ぎ、明日のナムサン訪問後、どこへ行くにせよ、飛行機のチケットを手配する必要があった。Mには旅行社も併設されており、そこで聞いてみたが、ラショー‐タチレイ間の航空券が半年前に買った時より1.5倍もした。これにはかなりの手数料が含まれているような気がする。英語で対応してくれる、というだけで、いまだにいい商売ができている。

 

ただ街中のほかの旅行社を訪ねても、ラショーやマンダレーからのフライトはラショーで買うより安くはならないことが何となく分った。今やネットでチケットを買う時代、どこで買っても同じだと思うのだが、ミャンマーはまだその時代に突入していない。ミャンマー人でクレジットカードを保有している人も多くはなく、ネット決済ができない、という理由もあるかもしれない。

 

先日もこの街にやってきたというTさんは、安くてきれいなホテルを見つけていた。レッドドラゴンという名前で、おそらくはアパートをホテルにしたと思われる作りだったが、何といっても1泊12ドルで、これだけきれいなら言うことはない。しかも朝食までついている。そしてネットも問題なく繋がる。この価格はプロモーションだというが、トレッキング目的のヨーロッパ人などが口コミで泊まりに来ており、英語も通じるので有り難い存在だ。

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夕飯は焼き物系のレストランに入る。やはりミャンマーの田舎、という感じで、全てがゆっくり。10年前も暗い街を歩き、満天の星を眺めたことを思い出す。自分で選んだイカや豚を焼いてもらい、食べる。なぜかチキンカツ?が日本的にウマイ。東南アジアで日本食のとんかつにブームの兆しがあるが、鳥は豚よりも安いし、身近だから、本当はチキンカツの方がよいのではないだろうか。スープとご飯を頼んでかき込む。大いに満足した夕飯だった。

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1月28日(木)

ルーフトップで朝食

夜はゆったりと寝られた。昨晩のタウンジーよりかなり暖かいという影響もあったかもしれないが、何といっても街の雰囲気とこのホテルの快適さが、眠りを深くしたに違いない。このホテルの朝食は、何と建物の一番上、ルーフトップで頂く。高い建物もなく、周囲には昔ながらの家々が見えて、眺めがとてもよい。

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1泊12ドルのホテルだから簡単な朝食ではあるが、オムレツはオーダーすると、ちゃんと焼いてきてくれる。これにパンとフルーツ、ティミックスが出れば、文句はない。食事をしているのは、ほとんどが白人。ティボーに来る外国人は欧米人が多い。目的はトレッキングなど、自然に触れることらしい。我々も自然に触れるべく、いよいよ最終目的地、ナムサンへ向かって出発する。

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取り敢えず、気に入ったこのホテルはチェックアウトせず、もう1泊する予定とした。そして軽装で車に乗り込む。街はすぐになくなり、郊外へ出た。小さな川が流れており、小さな橋が架かっている。そこは車が一台ずつしか通れない。ちょっとした交通渋滞が起こる。これがミャンマーの渋滞だ。ヤンゴンのあの渋滞は、もう昔のミャンマーには戻れないことを示しているが、ここではいつでも、いつまでもミャンマーなのである。その風景がなんとも言えない。

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6.ナムサン

道路工事で迂回

田舎の道を土ぼこりを舞い上げながら、車は進んでいく。ふと見ると、漢字の表示が見えた。よく見てみると、何と中国まで続くパイプラインがこの下を通っている。これがラカイン州の沖合から産出した天然ガスを雲南省まで運ぶために中国が作ったパイプラインか。地下を通っているため、普通目には見えないのだが、なぜか私にはピンと来るものがあった。中国とミャンマーの深い闇、軍事政権が民政に移行することになる原因の一つかもしれない、歴史を見る思いがした。

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少し行くと、十字路があり、ナムトゥへ行く道とナムサンへ行く道はここで分かれていた。我々はナムサンを目指し、左に折れた。すぐ近くに村があった。その細い道は道路工事で完全に塞がれている。仕方なく、民家が立ち並ぶ脇道に踏み込んだのだが、ここは車が走るような場所ではなかった。そこを無理に通ろうとすると、車が溝にハマりそうになる。ナムサンまでの道のりはまだかなり遠い。そして行く手のハードルは決して低くはないと感じられた。

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