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ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(7)ミャワディで

ミャワディで
予定通り12時前にミャワディに着いた。運転手は迷わずに私を国境で降ろした。ここに来る外国人は漏れなくタイに渡るのだろう。ススに迎えに来てもらうまで、やはりのどが渇いて仕方がなく、コーラなどを買って飲む。この国境は前にも来ているので既視感があり、安心して待てる。

 

車の迎えがあり、アイちゃんとも2か月ぶりの再会となる。ちょっと見ない間に大きくなっているから子供は凄い。先日高熱で入院したと聞いて心配していたが、元気そうでよかった。まずは昼ご飯を食べに行く。今回はタイのメーソット側へは行かず、ホテルもミャワディに取ってもらったので、レストランもこちらで。ただ完全復調ではないので、食べる量は極端に少なかった。

 

その後ススたちの倉庫を見学する。8月の大洪水では物資が止まり、水害の恐れさえあったというから、無事で何よりだった。それから予約してもらったホテルに連れて行ってもらった。午後は休みにしてもらい、エアコンが効いた部屋で、また夕方まで思いっきり寝る。やはり悪路のドライブも堪えているようだ。

 

辺りが暗くなった頃、迎えが来た。以前も行った頃がある国境カジノへ向かった。ここへ行く道は全く改善されておらず、すごいデコボコだ。わざと治さないという話もある。そこを通り抜けると、突然煌びやかなネオンに迎えられる。このギャップは凄い。ここにはカジノの他、ホテル、レストラン、免税店などが並んでおり、タイ人客を狙って建てられたが、ミャンマー人が多いようだ。

 

川の向こうはタイ、というロケーションで豪華な料理を食べた。スス旦那のお客さんが来ていたので一緒に食べた結果だ。残念ながら私は依然食欲がなく、アイちゃんはフライドチキンとアイスしか食べない。体力がない時に、こういう場所に来るのはちょっと堪えるかと思ったが、案外元気は出た。その夜も何もないガランとした部屋で、熟睡は出来ないながら、かなりの時間眠った。

 

10月12日(金)
バンコックへ

翌朝はすっきり目覚めた。天気も良いので、ちょっと周囲を散策する余裕が出てきた。歩けば3分で国境に出てしまう場所、それでも裏通りにはお寺があり、庶民の生活があった。国境には川が流れており、朝早くからタイ側へ向かうミャンマー人が橋を渡っていくのを下から見上げた。

 

ホテルに戻ると朝食があるというので、ちょっと食べてみることにした。温かいご飯に塩気があるのが妙に気に行ってしまい、目玉焼きと共に結構食べてしまう。水分補給のお茶も熱くてよい。ものすごく調子が悪いというより、このまま何もしなければ悪くなる、という予感がしたので、慎重に対応する。

 

迎えが来た。この時間アイちゃんは幼稚園に行くはずだが、今日は休んで見送りに来てくれた。すぐに国境ゲートにやってきて、外国人の私は個室に入る。そこには2人の係官がいたが、担当官が『ノービザ』と言い、上官が頷き、あっという間に解放された。これで今回の目的、ノービザは陸路でも使えるか、については結果が出た。

 

メーソットへやってきたが、まだ時間が早いというので、朝ご飯を食べる。タイ式モヒンガーだ。わんこそばのようになっている麺を取り、好みのたれをつけて食べる。普通ならこれはかなり美味しく感じられるはずだが、既に朝ご飯を食べていたので、ほとんど食べられなかったのは、何とも残念。

 

それから車で送ってもらい空港に着いた。アイちゃんと一緒に写真を撮ろうと思ったが、恥ずかしい、と言って逃げられてしまった。先月4歳になったばかりの彼女、写真を撮られるのが大好きなのに。会うたびに変化しているのが面白い。この空港、現在隣に新空港建設が始まっている。次回来る時にはアイちゃん同様、大きく変わっているかもしれない。

 

バンコック行のフライトはノックエアが飛ばしている。2か月前はこの便でバンコックからやってきたが、今回はバンコックへ向かう。実は南タイへ行きたいと思っていたが、フライトは基本的にバンコック行なので、一度バンコックで静養してから向かうことにした。フライトはちょっと揺れたが目をつぶっていると、すぐに旧知のドムアン空港に降り立った。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(6)モウラミュイン散策

10月10日(水)
モウラミュイン散策

昨晩の雨はいつの間にか上がっていた。部屋からはきれいなリバービューが拝めたが、船も殆ど航行しておらず、とにかく何もない、という雰囲気が強い。1階に降りて朝食を頂く。一応何でもあるビュッフェだ。意外と宿泊客は多く、何と日本人ビジネスマンも泊まっていた。私は既に少し暑くなりかけた外でゆっくりと食べた。

 

それから外へ出てみた。街という程の物かどうかわからないが、メインストリートの1つと思われるところを歩くと、やはり華人の足跡が見えた。先日訪ねた張彩雲氏兄弟も、100年前にここへ上陸して、農業労働者をしていたらしい。水運はかなりあったのかもしれないが、今や寂しい港町になっている。

 

かなり歩いていくと、川沿いに市場が見えた。魚市場とは別に生活用品も売っている。ヤンゴンの発展が急激だっただけに、他の都市の発展は完全に置いてけぼりとなっている。まあ、それは静かな街の環境を守るという意味では決して悪くはない。仏教寺院があるのは当然だが、大きなイスラム寺院もある。また1800年代に建てられた教会もある。この地は1826年にイギリスが乗り込んできたので、その時からあるのだろう。往時は相当に多国籍で活発な貿易、商売が行われていたのかもしれない、この街は。

 

この街にも博物館があったので入ってみた。外国人だけが5000チャットの入場料。これは高過ぎるだろうと思う。モン州の紹介などがされているが、あとはお決りの古い仏像が沢山飾られていた。私は仏像を見るのは嫌いではないが、さりとて研究者でもないので、こんなに沢山見る必要もない。もっとモン州の歴史について、細かく展示・説明して欲しいところだ。

 

かなり歩き回って疲れた。なぜか朝から何度も会うバイクのおじさんがいた。彼は英語で話しけて来ており、しきりに『バイクの後ろに乗れ、色々と連れて行っていってあげる』と誘ってくる。正規のバイタクはちゃんとゼッケンをつけているから、白タクなのだろうか。それにしても人は良い。もし元気なら少し付き合ったかもしれないが、そんな元気もなくなり部屋に引き上げた。

 

そしてポカリスエットを飲むとベッドに倒れ込む。明るい午後の日差しが部屋にも差し込んでくる。思わずカーテンを閉め、寝込む。気が付くともう夕暮れ時だった。夕日の写真を数枚撮ると、また眠くなって寝込む。完全に体調が悪くなっている。こんな時はひたすら寝るに限る。熱はなかったが、汗はかいた方がよい。水分だけ時々取って、食事は抜き、寝続ける。結局翌朝まで12時間以上眠ることが出来て、かなりの回復を見た。

 

10月11日(木)
ミャワディへ

朝食に麺を食べ、水分はジュースで補強した。今日はホテルで前日に手配してもらっていた乗り合いタクシーでミャワディに向かう。実は今回の旅では、ノービザ確認のため、ヤンゴン空港から入ってどこか陸路から抜けてみるつもりだったが、ミャワディは8月にも行ったばかりだし、ススたちも忙しいそうだったので、遠慮していたのだ。

 

ところがミャンマー南部、最南端から抜けるためにはヤンゴンからバスで36時間以上乗らないのと辿り着かないと知り、さすがに取りやめにした。ススたちからも『ミャワディに来い』と言ってもらえたので、モウラミュイン経由でミャワディが選択されたわけだ。ところが驚いたことに、ミャワディ行きの公共バスはここからは出ていないと分かり、愕然となる。

 

ミャワディはタイとの窓口で、ヤンゴンとの中間を為すここにバスルートがないとは信じられなかった。ホテルでも調べてもらったが、バスターミナルへ行き、乗合タクシーを探すしかないと言われて更に落ち込む。最終的にホテルまで車が迎えに来て、15000チャットという手配となった。

 

かなり寝たので体は楽になり、また助手席を与えられたので問題ないとたかをくくっていたが、現実は甘くない。モウラミュインを出るとすぐに、道はかなり凸凹になり、舗装もされていない。一部には雨水が残っており、車の行き来が滞る場所もある。これが幹線道路なのだろうか。トラックなど物資を運べる道はもう一つあると聞いたがどうだろうか。そして果たしていつミャワディに着くのか、不安が募る。

 

3時間ぐらい走った頃、ススはメールが来た。何時着くか分からない、と返事をしたところ、何と急に舗装道路に入り、車のスピードが格段に上がった。『そこから45分で着く』と言われたが、本当にそれまでが何だったのか、と思うほど、快適なドライブとなった。約100㎞の道のりを最初の3時間で60㎞、後の1時間で40㎞以上走った計算になる。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(5)モウラミュインへ

10月9日(火)
モウラミュインへ

本日はヤンゴン最後の日。いつものようにホテルで朝食を食べ、そのまま近くのGHに向かう。午前9時に洗濯物を取りに行くことになっていたが、行ってみると洗濯物はまだ届いていないという。まあ想定内ではあるが、問題はどのくらい待てばよいかということだ。フロントの若者はどこかに電話を掛け、『今軽くアイロンをかけている』と説明する。

 

20分ぐらい待つと、洗濯物が無事に到着した。これで憂いは無くなった。一度ホテルに戻り、チェックアウト前の時間に周囲を歩き回る。もう一度モヒンガーを食べて部屋で出発の準備をした。チェックアウトは12時、何とエレベーターは30分だけの修理ために停まっていた。何との間の悪いことか。ボーイが私の荷物を担いで階段を降りてくれたので助かった。

 

ホテルの清算は、米ドルを支払えばお釣りも米ドルで返す決りらしい。お釣りがなく、チャットでもいいと言ったにも拘らず、ボーイが近所に走っていく。清算が済み、ホテルの外へ出る。郊外にあるバスターミナルへ行くため、バスではなく電車を利用してみることにした。電車駅はこのホテル近くの道路を渡るだけだから、いい選択に違いない。

 

困るのは文字が読めないこと。そしてどの電車に乗ればよいか分からないことだ。ヤンゴン中央駅は勿論長距離列車もあるが、ヤンゴンを巡る環状線もあり、私が乗るのはその環状線だから始末が悪い。更には空港の名前であるミンガラドンという駅があるが、そこで降りると空港には遠いと言われてしまうと、どうしてよいか分からない。

 

一応時刻表は確認済みだったのでホームの切符売り場に行くと、若い女性が英語で話しかけてきて、切符売り場でも世話を焼こうとする。何だろうと思っていると、水を買って欲しい、言い出したので、物売りだと分かる。でも一生懸命役に立とうとしてその上で商売をしているところは悪くない。200チャットの切符を買う。だが最後は誰もケアしてくれず、危うく乗り損なうところだった。何しろ私が乗るべき電車は別のホームには入って来たのだから本当に分からない。

 

慌てて走って電車に乗り込むと、結構な人が乗っており、席が埋まっている。空いているところでは、横長のシートに、数人がミャンマー座りで乗っているから面白い。外は雲行きが怪しくなり、途中で雨が降り出した。雨は最悪だが、仕方がない。これも旅だ。約1時間の列車の旅は、その殆どの場所で民家も見られず、ヤンゴン郊外の発展ぶりがよくわかる。

 

終点の駅で降りた。パユッセゴン駅というらしいが発音も出来ない。本当に何もない駅を出るとバイタクのにいちゃんが待っており、1500チャットというのでいい値で後ろに乗る。バイクはかなりのスピードを出し、大きな通りを走り抜けた。10分ぐらいで、バスターミナルに入り、私が乗るバス会社の待合室まで送ってもらった。ところがこのバス会社、向かいにもあり、そちらに誘導される。

 

一応VIP待合室があり、大人しく待つ。ちょっと周囲を歩いて飲み物だけを買った。いつの間にか出発の時間となり、バスに乗り込むと、確かにかなり広いシートで私は一人掛けだった。しかも車掌が珈琲を持ってくるサービスまで付いている。水とスナックは座席に置かれており、スマホの充電もできるようになっていた。中国製のバス、すごい。

 

それから3時間ほど、バスは舗装道路を快適に走行していた。ミャンマーのバスと言えば、デコボコ道を行く印象だったが、今は違う。バスも道路も新品だ。思わず寝入ってしまった。そして空が暗くなった頃、バスはサービスエリア?に入り休憩した。運転手の食事時間だろう。私は余り食べたくなかったが、焼きそばを頼んでみた。白人のカップルが同乗しており、何を食べてよいか困っている感じだったが、店員はちゃんと英語が出来た。

 

モウラミュインの夜

更に3時間、バスはいくつかの田舎町を通過していく。と同時に残念ながら雨が降り出す。それもかなり強い雨だった。先ほどの電車の時のように止んでくれることを願っていたが、それも空しく、夜9時半頃、バスはモウラミュインの街道沿いにあるバスターミナルに着いた。降りて荷物を取るとかなり濡れてしまい、訳も分からず、そこに来た白タクを捕まえて乗り込む。乗ってから価格交渉をするも立場は極めて弱い。そのまま予約した宿に連れていかれる。

 

その宿は、検索する限りモウラミュインの中ではかなり良い方のホテルだったが、行ってみると、それほどでもなかった。部屋はまあまあだが、エアコンの制御が難しく、部屋を替えてもらった。唯一良い所はリバービューなのだが、夜では何も見えない。腹が減ったのでレストランに行くとギリギリ閉店に間に合ったが、クラブサンドをルームサービスにしてもらった。とにかくのどが渇いたので、氷とコーラーだけを先にもらい、部屋でごくごく飲む。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(4)ヤンゴンをフラフラ

10月8日(月)
今日もフラフラ

今朝も天気は良い。何となく洗濯したい気分となるが、ホテルに洗濯を出すのは料金の問題もあり気が進まない。東南アジアの都市には、1㎏いくらで洗濯してくれる、またはコインランドリーなどがあり、ヤンゴンはどうかと歩き回ってみたが見付からない。聞いてみると、近所にはいくつもゲストハウスがあり、そこで安くやってもらえそうだというので、泊る訳でもないのに、GH探しに切り替わる。

 

1つの通りに幾つもGHがあった。但し殆どが受付はビルの3階以上で、エレベーターなどない。しかも行ってみるとランドリーサービスがないなど、結構苦労した。ようやく見つけた1軒、スタッフは親切だったが、洗濯物は翌朝出来上がりだという。明日はヤンゴンを離れるのでちょっと不安だったが、思い切って出してみた。因みにシステムはホテルと同様だったが、非常に安くて驚いた。

 

それからスーレーの横を通り抜け、川沿いに出ていく。この付近一帯は全て植民地時代の建物が残っており、以前は汚いままだったが、最近はヤンゴン市が保存政策を打ち出したのか、かなりきれいな観光地と化している。午後にでもゆっくり散策することにして、また歩をチャイナタウンに向ける。

 

実は先日会った張さんより『チャウメイで茶業をしている息子がヤンゴンに来るので会うか』と聞かれたので、再度お寺を訪ねてみたのだ。ところが行ってみると張さんはいない。車の駐車スペースを探しているというのだ。ようやくやってきても『息子は来ない。今年はもう製茶はしないと言い出した。来年もやるかどうかは分からない』というではないか。何か事情が変わったようだ。

 

そんなことを話していると突然事務所に女性が飛び込んできた。大声で何か騒いでいる。張さんも事務所を飛び出していった。何とこの女性はひったくりに遭ったというのだ。防犯カメラもあり、画像から犯人を特定している。最近ヤンゴンも治安が悪くなったらしい。これも経済悪化の影響だろうか。

 

張さんとは収穫なく別れた。ホテルに帰る道すがら、気になったのが、ピンクの服を着た尼さんが沢山歩いていたことだ。どうやら雨安吾明けの活動があるようだ。托鉢している人々もいる。尼さんには失礼だが、とても華やかな感じがしてしまう。幼い子も尼さんになっているのが、かわいらしい。彼女らはどのようにして尼の道に進んだのだろうか。

 

昼になり、腹が減る。ホテルの近くに屋台があった。モヒンガーを出しているようだったので思わずそこの椅子に座ると、店主は身振り手振りで応対してくれた。恐らくは障害があるのだろう。こちらも手ぶりで入れて欲しいものを差し、食べる振りをすれば、モヒンガーは出てくる。この麺、スープが実にうまい。芋の天ぷら?が良い。ああ、これが食べたかった。500チャットは、やはり以前に比べて高くなっているが、それでもこれだけ旨いものがこの値段で食べられることは幸せだ。

 

それから川沿いを散歩した。郵便局やストラッドホテルなど馴染みの場所ではあるが、更に手入れがされ、いくつもの建物が輝いて見えた。ヤンゴン市が指定した保存建築の紹介がされた地図も作られており、外国人観光客誘致など、昔と比べて相当に意識改革された感じだ。暑いので、川を見ようと道路を渡ったら、そこは向こう岸に渡るフェリー乗り場。ちょっと覗いてみると『日本人は無料だから乗りな』と言われ、ビックリ。日本から寄贈された船だとか?!

 

歩き疲れたので、現代的なカフェに入ってみると、お客で混みあっており、やはり所得の向上と共に路上カフェが消え、クーラーの効いた涼しいところに集まる傾向を確認した。ドリンクは決して安くはないが、それにケーキなども合わせて食べているのを見ると、庶民のお金の余裕は実感できる。

 

カフェの横にバスチケット売り場があった。鉄道駅の前まで行かなければならないと思っていたが、英語も通じたのでここで明日のモウラミュイン行きのチケットを買う。洗濯物を午前に取るため、午後のバスにした。3列シートのVIPバスだというが、さてどうだろうか。そして問題は郊外にあるバスターミナルまで遠いということ。残念ながらここからの送迎はなく、自力で行けと言われる。

 

夜はTさんにモン州料理に連れて行ってもらった。民族色が強いかと思い行きや、非常におしゃれな店内で驚く。白人がよく利用する、英語も通じる店だった。明日行くモウラミュインもモン州らしいが、一人なのでよいものは食べないだろうと、イカ飯のようなものを食べたが、実にうまかった。オクラを揚げたものも美味。明日からのモン州が楽しみになって来た。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(3)安渓会館からティラワへ

昼ごはんは麺を食べたいと思い、シャンヌードルの店に行ったが、何と既に売り切れていた。それからヤンゴン在住の日本人、Gさんを自宅に訪ねた。Gさんは奥さんがミャンマー人で、こちらに長く住んでいる。ミャンマーの少数民族、そして茶の歴史のことなどを話しだしたら止らくなってしまい、午後中話し込んでしまった。奥さんは飽きれ果ててどこかへ行ってしまう。

 

夕飯も3人で食べることにした。連れて行ってくれた店は何とコーガン料理だった。コーガンとは中国とシャン州の国境にある、ある意味で危険地帯。メニューにケシの実スープがありオーダーしたが、特に味は分からなかった。料理全般は中華系と言えるが、コーガン料理屋を探すことは一般的には難しいだろう。

 

10月7日(日)
ヤンゴンをフラフラ

翌朝は朝飯を食べてから、散歩がてら付近を散策。近くにあるスーレーパゴダを一周回り、路地に紛れ込む。ここは昔路地ごとに紙屋とか電気屋とかに仕切られていたのかもしれない。コーヒーや紅茶と軽食を出す店には、朝からたくさんの人が座り、朝飯を食べている。

 

両替をしようと思い、探してみたが、朝はやっていないところが多い。昨日見た感じでは、1米ドルに対して1500チャット以上になっており、一昨年の1200チャット台と比べれば相当に為替が弱くなっている。これもミャンマー経済の悪化を象徴している。そういえばミャンマーでは紙幣が折れていたり、書き込みがあるとその分ディスカウントされるというとんでもないルールがあるが、今回は米ドルの旧札が大幅ディカウントされることを知り驚く。

 

昼前にTさんがまた迎えに来てくれた。まずはホテルのすぐ近くの茶屋、というか、呑み屋に入る。この付近はヤンゴン中央駅前で、映画館が並んでいたそうだが、どんどん取り壊される再開発地域だ。その茶屋はシャン州のチャウメイ出身者が経営しており、お茶も販売していた。

 

それから昨日の続き、チャイナタウンに行き、安渓会館を訪ねることにした。安渓出身者の情報があるに違いないと思い向かったが、その場所がよく分からなかった。ちょうど永定会館があったので聞いてみようと2階に上がると、二人の老人が将棋を指していた。その壁を見てびっくり。そこにはあのタイガーバームで財を成した胡文虎兄弟の肖像画が掛かっていたのだ。胡の原籍は永定であり、タイガーバームはヤンゴンで彼らの父により発明されたと初めて知る。

 

安渓会館はそこからすぐの場所にあった。事務所には老人が一人おり、聞いてみると資料はあまりないという。それでも50年以上前の会員名簿などを見せてもらうと、何人か安渓出身の茶商の名前が出てきた。住所も書かれていたので、そちらを訪ねてみようと思ったが、突然のスコールに遭う。この会館の5階には清水祖祠が祭られているというので、そちらにお参りに行く。今ではここを参拝する人も少ないらしいが、やはり安渓人の寺なのだ。歴代会長の写真が飾られている。

 

少し待つと雨は止んだので、外へ出て、先ほど見付けた茶商の跡を追う。その住所はすぐに見つかったが、そこは食堂だった。店員に聞くとオーナーがお茶屋だったらしい。3階に住んでいるというので訪ねてみたが不在で会えなかった。もう一人の茶商の住所には銀行しかなく、その上には寺があるだけで消息はつかめなかった。ご縁はなかったようだ。

 

昼ご飯、今日はシャンヌードルにありついた。1杯1200チャットは日本円にすれば決して高くはないが、シャン州なら700チャットぐらいが相場、ヤンゴンでも1000チャットはしなかったように思う。思っていた以上に物価は庶民の生活を直撃しているのかもしれない。

 

取り敢えず今日の調査は終了したので、午後はティラワ工業団地を見に行く。数年前、ここを2度ほど訪れたが、その時は土台工事をしていた。この団地は日本の肝いりプロジェクトで、日本のマスコミが大々的に宣伝していたが、最近は音沙汰もない。どうなっているのだろうか。

 

1時間ほど車で走り、道路脇をキョロキョロした。実は以前この辺に日本帰りのミャンマー人がカフェを開いていたので、その後どうしたか知りたいと思い、探してみたが、見付からなかった。商売が上手く行き、もっといい場所に引っ越したか、或いは上手く行かず店を閉じたのか。

 

ティラワの一期工事は完成しているように見えた。日本企業の名前の入った工場がいくつも並んでいた。だがそこに行くまでの道はガタガタで、とても最新鋭の工業団地を訪問する雰囲気ではなかった。日曜日で人影もなく、とても寂しく見えた。これもミャンマーの現状を表しているように思えた。

 

夜は紹介されていたピンピンの店に行ってみた。ボージョー市場のちょっと北側はおしゃれないエリアになっており、その中に雲南華僑の若い女性が作った火鍋屋は存在していた。彼女はマレーシアに出稼ぎに行き、台湾系レストランで働いた。その時の経験を生かして4年前に店を出し、今や隣の場所にまで拡大している。お客は日本人駐在員と出張者というから目の付け所が良い。手ごろな料金でうまいものを出しており、ミャンマー料理が苦手な日本人に合わせていた。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(2)大茶商の末裔を発見!

10月6日(土)
大茶商の末裔

朝の目覚めは比較的良かった。今回泊まったこの宿、何となくフランス風の作りだった。トイレとシャワールームのドアが共有で、二人で使う場合はどうするのか、と思うような遊びがあった。こういう作り、嫌いではない。ただWi-Fiの電波は弱く、結局iphoneからテザリングする羽目になる。古いホテルのインフラ、仕方あるまい。

 

朝ご飯は1階で食べる。メインの食べ物はオーダーするが、パンやコーヒー、フルーツは自分で取るスタイルとなっている。30ドルちょっとのホテル代なので、悪くない朝食だ。お客も白人が多く、中国人も少しはいるが、英語を話す人種が大半だった。

 

今回のミャンマー訪問の目的はずばり、『大茶商の末裔を探す』ということだった。ヤンゴンには何度か行ったことがあり、チャイナタウンと思しき場所も訪ねたが、お茶屋があるという印象はなかった。先日のバンコック同様、地元を知り、ミャンマー語を話す人材の助けは必須だった。以前からの知り合いであるTさんにお願いすると興味を持ってくれ、事前調査までしてくれた。

 

その事前調査とは、私が華僑誌で見つけた華人茶商の名前を挙げ、知り合いがその知り合いの華人に伝え、その人がヤンゴンの福建系寺院に問い合わせたところ、何と末裔の電話番号が得られたというのだ。その番号にTさんが電話を掛け、取り敢えずアポイントを取ることに成功したというのだ。こんなとんとん拍子に行くとは思わなかったが、さてどうなるのか。

 

Tさんが車でホテルに迎えに来てくれ、活動が始まった。とにかく指定された寺院に向かう。今やヤンゴンでも車が多過ぎて駐車スペースを探すのに苦労した。その寺院は如何にも福建系であり、入っていくと線香の煙に包まれた。その寄付金のボードに、早くも調査したい人物、張彩雲氏の名前を発見して、テンションが大いに上がる。

 

案内された事務室に入ると数人の老人がいたが、その中に、張彩雲氏の息子、張家栄さんがいた。このお寺、慶福宮の前主任をしていたという。きれいな中国語を話した。この宮も張彩雲がその管理に尽力し、それを三男の家栄氏が引き継いだということらしい。まあとにかく日本人がわざわざ自分の父親の歴史を調べに日本から来た、そして中国語を話したということで、とても喜んでくれた。

 

ひとしきり彩雲氏の話を聞いた。1920年代からヤンゴンで茶業を始め、94歳まで元気で生きており、最後は事故で亡くなったという。ただその一生はかなりの激動であり、如何にも華人という歴史だった。更にはその人生とミャンマー、中国の歴史が密接に絡んでおり、このテーマは茶商の歴史をというより、華僑史、アジア史に直結しており、意味があると思うに至った。尚家栄氏は茶業をしておらず、息子の一人がチャウメイ方面で茶を作っているということだった。

 

続いて、華人図書館に行った。Tさんが探してくれていた場所だった。細い階段を上がると、2階には漢字の本がずらりと並んでいた。係の女性も普通の中国語を話し、親切にも本を紹介してくれる。ヤンゴンの華人に関するものは限られていたが、先ほどの慶福宮の歴史などが分かるものがあり、これをコピーさせてもらうことにする。

 

だが図書室にコピー機はなく、近くのコピー屋に持ち込む。本の持ち出しを簡単に許してくれたのも驚いたが、コピー屋ではコピーが何台かあり、スタッフが1ページずつ丁寧にコピーしてくれたのはもっと驚いた。とても立派なコピーが格安で出来た。さすがヤンゴン。

 

それから彩雲氏が主席を務めたという和勝総公司にも行ってみたが、そこは会社でもなく、何だか結社のような場所だった。そして話を聞くなら、中華総商会に行くように言われる。商会は川沿いの大きなビルだった。いきなり入っていったものかとも思ったが、2階だと言われたのでエレベーターで上に上がる。

 

そこはかなり広い空間であり、時々華人が集まっているのだろう。総幹事の黄さんが対応してくれる。彼は彩雲氏も勿論知っていたし、彼の孫世代とはかなり近しい関係だという。福建系の人々はやはりかなり繋がりがあるようだ。現在ヤンゴンで茶業をしている人は殆どいないことを確認。尚黄さんは旅行社を経営しており、ミャンマー華人の台湾訪問旅などもアレンジしているが、近年は参加者が増えているという。

 

彩雲氏の茶行は五十尺路にあった。五十尺路とはどこにあったのか、その場所も分った。そして茶行の場所に古い建物は無くなっていた。今は家栄氏の息子がプラスチック会社を興し、成功しているらしい。この道、よく見ると、茶荘など色々な商店が立ち並んでいて、面白い。往時は栄えたところだったのだろう。

 

家栄氏に住所を聞いて、彩雲氏の孫も訪ねた。長男の息子さんだった。最初は怪訝そうな顔をしていたが、こちらの意図が分かると、1950年代にナムサン方面に入った時の写真などを見せてくれ、説明してくれた。長男は3年前に亡くなったが、忠実に彩雲氏の教えを守り、細々と茶業を続けており、現在はその息子が引き継いでいた。ここでは水仙茶やジャスミン茶を売っており、なかなかいいパッケージだった。

ヤンゴンの茶商を訪ねて2018(1)変化するヤンゴン

《ミャンマーの茶商を訪ねて2018》  2018年10月5-12日

4月に福建省の安渓に行った時、地元の華僑史研究の第一人者、陳先生と出会い、その著書をもらった。その本をパラパラ見ていると、東南アジアに出て行った安渓出身者の中で、茶業に従事した者が何人か取り上げられていた。さすが安渓、茶産地らしい。

ちょうど10月からミャンマーに入るのに、日本人はビザ免除になったこともあり、まずはヤンゴンへ行ってその華人の末裔を探してみようと考えた。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。バンコックでの成功体験を胸に勢い込んで向かう。

10月5日(金)
ヤンゴンの変化

エアアジアは無事にヤンゴン空港に着いた。イミグレで日本人向けビザ免除が浸透しているのか、帰りのチケットを持たないでも本当に免除になるのか、ヤンゴンから入って、他の街から出国することは可能なのかなど、いくつかの不安があったが、それは完全に杞憂に終わる。イミグレの女性係官は笑顔で『ノービザね』と言い、あっという間に通過できた。観光目的に限り30日間免除、ということだが、これまでビザ取得にかかっていた時間、そして50ドル程度の費用が一瞬にしてなくなり、夢のようだった。

 

外へ出ると、シムカードも簡単に買える。ほんの数年前は保証金を出してシムカードを借り、帰りに空港で返していたのが何とも懐かしい。しかも料金は5500kと安い。空港内にはKFCも出来ており、どんどん変化していることがよくわかる。今までは空港にTTMなどが迎えに来てくれていたが、今回は初めて一人でダウンタウンに行くことになっていたのが唯一の不安材料。

 

タクシーも考えたが、シャトルバスがあると聞き、乗ってみる。僅か500kでさくらタワーまで行けた。何と便利になったのだろう。勿論沢山のバス停に止まるため時間はそれなりにかかり、車内アナウンスも全くなので、どこで降りてよいか分からないともいえるが、慣れている人なら大いに助かる。このバス、一般ミャンマー人も利用しているが、市内バス200kよりはかなり高いという。

 

今回はさくらタワーのすぐ横のホテルを予約していた。確か数年前は100ドル近くしたホテルのはずだが、予約した料金は僅か30ドルちょっと。行ってみると、かなり古いのだが、部屋には趣がある。Wi-Fiは弱く、繋がり難いが、それでもこの立地、朝食付きで、この料金は以前では考えられない。ヤンゴンのホテルバブルは収まったと言えるのではないか。

 

まだ日も高いので、取り敢えず周囲の散策を始めた。この付近、何度も来たことはあるが、ボージョーマーケットやさくらタワーなど、用事がある時だけ歩いているので、実はあまり馴染みがない。ボージョーの向かい側には大きな新しいビルが建ち、風景も変わってきている。だがその向こうには植民地時代の古い建物が並ぶ。病院だろうか。華人街、インド人街もその南側に広がっていた。路地には市場が立っており、柚子を買った。バナナも買いたかったが、いいものがなかった。

 

夜、一度ヤンゴンで会ったIさんと再会した。彼女はベトナムからヤンゴンに移って数年、精力的にミャンマー事情を紹介している。彼女はチャイナタウンの近くにある、ミャンマー人の若者が最近オープンしたという茶館に連れて行ってくれた。そこは賑やかな繁華街にあり、1階はバーのように見えた。

 

2階に上がるとそこは座敷のようになっており、ゆっくり座って茶を飲むことができる。こういう空間がミャンマーにも出現したのかと、ちょっと驚く。ここには数種類の中国茶が置かれており、簡単な食事もできた。お茶はポットでも3000kと決して高くはないが、ミャンマーの物価からすれば結構な値段なのだろう。

 

帰りがけに1階にいるオーナーからちょっと話を聞くことができた。まだ30歳、元々コーヒー店を経営しており、繁盛しているという。彼も親が雲南からやって来た華僑であり、中国語を普通に話す。コーヒーだけでなく中国的な茶にも目を向けたのだろう。正直酒を出すバーの方が儲かりそうに思うのだが。そんなことを考えていると、四川から来たという中国人が来店して話を始めたので、おいとました。

 

繁華街は夜10時を過ぎ、かなり盛り上がっていた。道の真ん中を占拠している果物の露店商も売り込みに懸命だ。Iさんは帰りのタクシーを探しているが、価格面でなかなか折り合いが付かない。そろそろメーターで普通に行って欲しいのだが、この辺に昔のミャンマーの名残がある。

ナムサン茶旅2016(15)一人でタチレイへ

一人になって

午後Tさんがヤンゴンに向かって出発した。夜行バスで10数時間、明日の朝にはヤンゴンに着くらしい。今回彼には大変お世話になった。そして彼の車は故障し、彼自身も九死に一生を得た。むしろ私以上にショックが強かったのは彼ではないだろうか。別れるときの彼の疲労した様子は、とても気にかかるところだった。バスではゆっくり眠れないかもしれないが、休んでほしいと思う。

 

一人になってしまうと、何もやる気が起きなかった。部屋でボーっとしながら、お茶を飲んで過ごした。これは半年前に疲弊してベッドに横たわっていたのと大差ない。私の旅には休息が必要なのだ。特に今回のようなショックな出来事があった場合、ゆっくり旅をするのがよい。そう決めていたのだが、何とそこへSさんからメールにて、指令が来た。『ミャンマー北部にいるのなら、地理的に近いのだから、ラオス北部に行ってお茶を買ってきてほしい』というのだ。

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ちょっと調べてみると、そのラオスのポンサリーという街は、飛行場もあるが、普通はバスで行くらしい。行き方はよくわからないが、一旦タチレイからタイのメーサイに入り、そこからゴールデントライアングルを抜けて、進んで行くらしい。何となく行けそうだったし、タイもラオスもビザ不要なので、気分を変えるにもいいかと思い、気楽に引き受けてしまった。取り敢えず明日飛行機でラショーからタチレイに行き、さて、その先何処まで行けるのだろうか?

 

夕方外へ出てみると、宿の周囲は露店の準備で大忙し。夜はここに衣服などの露店が大量に出ることが分かった。ちょうど腹も減ったので、食事をとることにした。麺はもう食べ飽きたので、ご飯を食べることにしたが、どうしてよいかよくわからない。屋台ではなく、ちゃんとした食堂で、おかずがずらーと並んでいるところがあり、若者たちが入っていたので、わたしもそこで指さしで注文した。焼いたチキンがうまい。野菜炒めも味が濃い目でよい。お婆さんがスープを持ってきてくれ、ご飯をお替りするように、というジェスチャーをする。何とも優しい対応で、心が和んだ。

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1月30日(土)

夜は早めに寝入る。疲れていたのだろう。翌朝は早めに起きるが、部屋でもぞもぞして過ごす。今日のフライトは13:20発だったが、『国内線のフライトだが、たまに早く飛ぶこともあるので、12時前には飛行場へ行くように』という旅行会社からの注意があった。普通フライトが遅れることがあっても早まることはないと日本人の感覚では思いがちだが、この国では十分にあり得る。11時には宿を出ようと思い、10時過ぎに食事に出た。

 

宿の前にうまそうな麺屋があった。ガイドブックにも載っていた店かも知れない。言葉は通じないので身振りで麺を指す。出てきた麺はスープの味もよく、確かにうまかったが、代金は1000kだった。これまでミャンマーの様々な場所で麺を食ってきたが、こんなに高いものは初めてだった。お釣りをくれるのかと思い待っていたが、くれないので、聞いてみると、1000kだときっぱりいう。明らかに外国人価格、それも相当にボッテいる。仕方なく諦めたが、麺がうまいだけに残念だった。

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タチレイへ

ホテルのフロントでトゥクトゥクを呼んでもらった。半年前もここから飛行場へ向かったのだが、その時はタクシーに乗った。私は無料だと思い込んでいたのだが、近い距離を6000kも請求されたので、かなり揉めたのを思い出す。今回は3000kという料金を確認して呼んでもらった。快適に走り出したが、途中で飛行場と違う方へ曲がった。ちょっと行くと、民家に入っていく。そこでやはり飛行場へ向かうお客を拾った。まあこれは仕方がないし、時間的にも余裕があったので黙認した。

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そしてあの何とも小さなラショーの飛行場へやってきた。まさかここに半年の間に2度も来るなどとは予想していなかった。誰かがやってきて、何となくチェックインの手続きが進む。荷物も預ける。さて、飛行機は早く飛んで来るのだろうか。聞いても誰もわからないという。まあこんなものだと思い、座るところがなかったので、隣の掘っ立て食堂に入り、座っていた。特に注文しなくても何も言われなかったが、隣の人が麺をすすっていたので、私も食べてしまった。この先いつ食べられるか、分らなかったからだ。さっきも食べた麺、こちらは普通だったが、代金は500k。これでも空港の脇だから少し高いのかもしれない。とすれば、さっきの1000kは何だったのだろうか。

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フラフラしていると時間が過ぎ、気が付いてみると、乗客がいなくなっていた。係員がこっちだ、と合図してくるので、急いでゲートを潜り、ターミナルへ歩いていく。やはり早く飛んできたのかと喜んだが、そんなことはなかった。そこから小さな待合室で1時間待った。結局は定刻に飛ぶことになる。待合室にはテレビがあり、仕方なくそれを眺めていると、何となく見たような顔が出てきた。それは女優の有村架純だった。映画『ビリギャル』の宣伝ビデオが流れていたのだ。ミャンマーでビリギャル、何となく面白い。有村架純はミャンマー人にも人気があるのだろうか。ミャンマーは未だに韓国ドラマが主流だと思っていたが、日本のドラマも少しは盛り返しただろうか。ビリギャルの次はハリウッド映画だったが。

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滑走路を眺めているスイス人が言った。『こんな小さな空港、今まで見たことがない』と。その小さな滑走路にゴールデンミャンマーはちゃんとやってきて、我々を乗せて、ちゃんと飛び立った。後ろから乗り込む機材で、自由席。私は一番後ろに乗った。CAはきちんとした英語を話し、サービスも悪くなかった。簡単なパンとコーヒーも出た。快適な空の旅だった。そして1時間もしないうちに、タチレイの空港に降り立った。ここから試練のラオス旅が始まることを私はまだ知らない。

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ナムサン茶旅2016(14)ラショーの変化

7.ラショー

ホテルとチケット

ラショーの郊外にバスは着いた。沢山の客引きが寄ってきたが、Tさんはそれを避け、一度よく観察してから、良さそうなトゥクトゥクを選んだ。この辺は経験だ。例のヨーロッパ人などは茶店に入り、茶を飲んでいる。相当慣れている感じだ。街まではそう遠くはない。我々はまず、バスターミナルを目指した。Tさんが今日の夜行バスでヤンゴンへ帰るためだった。

 

だが旅行代理店が見えたので、そこで降りて、私のエアチケットを買うことにした。店にはミャンマー語と中国語が書かれている。ラショーは国境の街、中国人も多く来るのだろう。試しに従業員に中国語で話しかけると、一人は対応してきた。簡単な言葉はできるようで、それで十分だった。

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チケットはやはりティボーよりこちらの方が安かったし、ティボーでは出てこなかったチケットが運良く買えたので、最終的にゴールデンミャンマーに乗ることになった。このエアラインは確かバンコック線も飛ばしていたが、今はどうなのだろうか。因みに半年前に乗ったエアウイングは運休しているという。それはどういう意味なのか、知りたいがよく分らない。

 

旅行代理店のすぐ近くに新しいショッピングセンターがあり、その横にきれいなホテルがあった。飛行場にも近いので今日はここに泊まろうと思い、聞いてみるとなんとまだ午前なのに満室だと断られた。中国人観光客の団体が泊まるのだろうか。ホテルは向かいにもあるというので行ってみたが、なんと外国人は泊められない宿だった。タクシーの運ちゃんに聞くと、『この辺で外国人が泊まれるホテルは殆どない』と言われてしまい、旧市街に向かうことになる。

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その前にTさんが新しくできたショッピングセンターを見学しようというので、行ってみたが、店はほとんど入っておらず、従って2階へ行くエスカレーターも止まっていた。なんだろうここは?すでに計画が失敗したのか、それともこれからなのか?1階入り口付近になぜかお茶屋があった。茶畑の写真などが飾られていたので興味を持った。入っていくと若い女性が一人で店番をしている。聞いてみたが、お茶のことは全く分からないらしい。なぜここにお茶屋があるのか聞くと、このセンターのオーナーの店だという。恐らくは格好付ける目的ではないかと思う。

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それでも彼女がお茶を淹れてくれ、飲んでみると台湾茶に近いような気がした。袋は台湾製で烏龍茶とか高山茶と書かれている。茶畑はどこにあるのかと聞くと、コーカン地区らしい。そこは外国人立ち入り禁止、というか、中国との間で紛争中の場所だった。ラショーから車で1日掛かるという。ぜひ行ってみたいが、その日はいつか来るだろうか。紛争地区は昨日で懲りているし。

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旧市街へいくためにトゥクトゥクを探すが、ちょうど乗り合いトゥクトゥクが来たので、私の荷物を何とか引き上げ、地元のおばさんと一緒に乗り込んだ。おばさんたちが何か話しながら、楽しそうに笑い合っている。こういう光景はなんだか心が晴れる。ミャンマー語ができるTさんがいないと難しいが、こんな流れで乗るのが好ましい。勿論料金も格安。

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旧市街は半年前にも来たので、なんとなく土地勘あり。取り敢えず近くのホテルに入ってみたが、料金の割に従業員にサービス心がない。Wi-Fiも不安定ということで、断念。仕方なく、半年前に泊まったホテルに投宿した。料金は乾季・雨期で違うと思っていたが、1泊30ドルは変わらなかった。ここは特になにか良いわけではないが、Wi-Fiが何とか部屋でもできることと、お湯が沸くのでお茶が飲めるという利点があった。ベッドの硬さが半年前を思い出させる。

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ラショー散歩

Tさんのバスの時間まで、ラショーの街を歩いた。近くに病院があった。その横では拡張工事が行われていたが、ここはJICAの援助で作られているらしい。この街で日本が支援を行うことの意味、政府はどの程度理解しているのだろうか。いや、むしろミャンマー政府が政治的な意図をもって、支援を求めたのかもしれない。外交はしたたかでなければならないはずだ。

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街にはお茶屋さんもあったが、そこの売り子も、お茶のことはほとんどわかっていなかった。第一、強い日差しの中、直射日光を茶葉にあてている。茶葉の値段もすごく安い。半年前にマンダレーの市場で見たのと同じ光景だ。これはレストランなどにて、無料で提供されるお茶だろうか。産地を聞いても分らなかった。これがミャンマーの真のお茶事情といえるだろう。

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ラショーは中国系の街。漢字も多くみられるし、ナムサンにもあったが、正月飾りやカレンダーをあちこちで売っている。対照的にランチはおしゃれなカフェ、いやベーカリーに入る。何となく気分を変えたかった、ということと、やはり食欲がそれほどなかったことからサンドイッチを注文した。更にはアイスティなどを飲んでみる。冷たくて美味しく感じられる。

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このベーカリー、ケーキ作りをガラス越しに見ることができる。パッケージもおしゃれで、お客も若い女性が多い。後で調べてみると、この街の老舗パン屋だった。きっと代替わりしたか、何かに迫られたかで、方向転換しているのだろう。本店は別のところにあり、普通にパン屋をやっていた。ミャンマー地方都市にも少しずつ変化の兆しが見える。

 

ナムサン茶旅2016(13)九死に一生を得る

1時間ぐらい走ったところで、朝も通った例の橋を越えた。そこには兵士に詰め所があったので、運転手はそこで停まる。兵士が出てきて、運ちゃんは何かを彼らに見せている。免許証か何かだろうか。暗いので懐中電灯をかざして、お互いのぞき込んでいる。すると突然運ちゃんが車から降りた。何をするのだろうかと思ったその時、車が僅かに動いたような気がした。あれ、と思っていると、今度はかなりの勢いがついたように車がバックを始めてしまう。

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何が起こったのか全く分からなかった。ミニバスは下り坂を転がり始めていた。どうするんだ、と頭が動いても何も行動はできなかった。えー、体が強張った。そこでドスンという音が響き、車の動きが止まった。まるで何事もなかったかのように。その間わずか数秒だっただろう。その音に慌てて兵士が銃をもって飛び出してきた。我々二人も助手席から飛び降りた。車の後ろへ回ると、何かにぶつかっていた。兵士がライトを照らすと、そこは橋の欄干の一番端だった。兵士は更にその横を照らしてニヤッとした。草むらがボーっと見えた。

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僅かあと50㎝バックする位置がズレていたら、このミニバスは橋の下へ落ちていただろう、とそのライトは語っていた。午前中にこの橋を通った時の事を思い出すと、橋から川までは数メートル、車が転げ落ちたら、とそこまで考えて、初めて血みどろになった自分が想像できた。同時にアクション映画では、危機一髪脱出する場面が想像できるが、現実はそうはならないことも痛感する。

 

ところが運ちゃんたちは、バスの後ろの凹みを気にしていた。橋の欄干にぶつかったのだから、それなりに凹むだろう。それでも命拾いしたという思いはないのだろうか。いや、恐らく彼もこの事態にどうしてよいか分らなかったのではないだろうか。結局Tさんが彼に一言、ミャンマー語で何か言ったが、その後は誰も一言も口を利かなかった。各人が色々なことを頭に巡らしていたに違いない。私はなぜかボーっとなってしまい、何も考えられなくなっていた。

 

この運ちゃんは実は車から降りたときにサイドブレーキを引いていなかった。停まっていた位置がほんのわずかに下っていることに気が付かなかったようだ。それがこのミスを生んでいた。彼がなぜ車を降りたのかは謎のままだった。兵士の指示でなかったことだけは確かだから、自分の意志で降りたのである。

 

黙って暗い夜道を揺られていて、徐々に実感が沸いてくる。それは『助かった』という感覚よりも、『天からもう少し生きていてもいいよ』と言われた気分だった。人間、一寸先は闇、などというが、その時が来ても、殆ど実感はなく、事故は瞬時にやってくる、頭で危険だとわかっていても、何もすることができない、ということを思い知ることになった。結局我々は何ものかによって生かされている、ということで、自ら生きているというのは間違いだと気付く。その感覚だと、この夜道の運ちゃんによる危険な運転にも怖さがなくなっている。

 

1時間半ほど車は走り、ティボーまで戻ってきた。夜9時を過ぎており、ホテルに戻る前に食事をしようということで、ミニバスを降りた。運ちゃんとは何も言わずに別れた。その時は文句を言うことは思いつかなかった。ただただ生きている、という感覚だけで、誰が悪いとか、そのような感じはなかった。だがTさんは私以上にショックを受けており、食事ものどを通らない感じだった。この旅に誘ったのは自分だ、という自責の念があったかもしれない。自分の車が故障しなければ、という思いもあったのだろうか。私の方は彼を責める気など毛ほどもなく、むしろ2人とも生きていてよかった、という微かな喜びだけがあったのだが。

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ホテルの部屋に戻り、熱いシャワーを浴びると一気に体が脱力した。どこかがものすごく緊張したままだったのだろう。それまではやはり冷静ではなかったのかもしれない。何となく自分の感覚が飛んでいたようだ。それでも疲れていたのだろうか、目をつぶるとすぐに眠れた。5年間のアジア放浪生活の1つの成果かもしれない。これからは余生だ!という気分。

 

1月29日(金)

車を失った我々は翌朝、ラショーに向かうことにした。ホテルのフロントに聞くと、比較的近くにバスが来るというが、一応乗り物で移動した。7:15発のバスがあるということだったが、ここが始発ではなく、チャウメイから来るらしい。だがチケットは売り切れ、そして席があるかどうかは、来てみないとわからない、と言われてしまう。ヨーロッパン人の男性が我々の後ろからやってきたが、彼はちゃんと予約していたようで、彼の席はあった。

 

ちょっと待っていると、日本製のバスがやってきた。皆が下りたので、席は問題ないと思ったが、降りたのは休憩、いや朝食のためで、空いている席はなかった。何とか乗り込むと補助席があり、そこに座り込む。かなりガタが来た椅子で座りにくかったが仕方がない。この道は半年前にも、列車が土砂崩れでラショーに行けず、戻ってきて車で通った道だったが、正直前回が暗かったこともあり、全く覚えていなかった。ティボーはやはり鬼門だった。