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東京高知関西茶旅2023(4)佐川町から伊丹へ

その向かいにある建物、庄屋さんの家だったであろう立派なお屋敷でランチを取る。なんといつの間にかアメリカ人と日本人の夫婦が料理教室を開いており、本日は特別にベジタリアンフードが提供された。畳の立派な座敷できれいに飾られた和食を頂く。何と贅沢なランチ。ここに居れば、それだけで落ち着ける。

何だか時間はどんどん過ぎていってしまう。旧工場を離れ、Sさんの工場に寄り道する。石さんがどうしても紅茶製造機械を見たいというのだ。私とYさんが3年前にエンゼルカップで紅茶を飲ませて頂いたその場所を一同で見学する。そこからまたすぐに車に乗り、何だか山の上の方へ行く。途中見覚えがあると思ったら、それは3年前迷い込んだ道だったのだ。

小高い丘の上に建物があり、ここで試飲会が行われた。午前中の小雨が嘘のように晴れており、抜群の風景、そしていい風が吹き抜ける。石家とSさんの紅茶が並ぶ。淹れ方は石家の娘が披露する。MさんとYさんはその光景を泣きそうになりながら見つめている。石家の紅茶は持木時代に植えられ、残された木の葉を使っているものもある。まさにここで持木と魚池、そして高知が一つに繋がった。皆真剣に試飲している。

楽しい時間とはすぐに去ってしまうモノ。予定時間をオーバーして会は終了。我々は佐川の牧野富太郎記念館も酒蔵も素通りして、一路高知駅へ向かった。台湾組一行は高知駅から岡山へ電車で移動する。実は台湾に帰る直行便の良いのが四国になく、明日岡山から帰るというのだ。駅で駅弁を買い、そこで分かれた。スティーブは何と我々の分のパンを買って渡してくれた。何とも親切な人だった。

私とMさんはYさんの車で高知空港に送ってもらった。Mさんは東京へ戻り、私は伊丹へ向かう。Mさんはある程度のお歳なので、今回の旅は大変だったかと思うが、それにもまして楽しそうだった。持木家と台湾が繋がっていくのが本当に嬉しいようだ。本来であれば高知にもう少して滞在して親族と旧交を温めるかと思われたが、未だ現役で働いておられ、その暇はないようだった。

伊丹から

高知発伊丹行きの飛行機は小さかった。普通は機内に持ち込めるサイズのケースも預け荷物にされてしまった。乗客は満員御礼。フライトは僅か40分、上昇したと思ったらすぐに降下を始めた。ほぼ定刻に伊丹空港に到着。ほとんど人がいない空港、荷物もすぐに出てきて快適。恐らく初めて降りた空港だった。

今晩は難波方面に泊まる、という頭しかなく、どうやって行くのかキョロキョロしていたら、リムジンバスの難波駅前行きがあったので、すかさず並んで乗り込む。そこで初めて予約した宿を検索したら、何とバス停の目の前だと気づき、幸福感に浸る。バスは難波周辺の駅を回り、50分後にようやく南海の難波駅前に着いた。

そこから見えるビルに向かい、宿へ行くと、外国人従業員が『自動チェックインです』と案内してくれる。だがいくら名前を打ち込んでも出てこない。彼女は私のスマホを覗き込んで『ああ、予約したのは姉妹店ですよ』と言い、約1.5㎞歩かないといけないと告げる。オーマイゴッド!

ホウライ屋の前を通り、グリコの看板まで来ると、外国人観光客で溢れている。既にコロナは終わっていた。更に歩いて行くと酔っ払いのおじちゃんなどが歩いており、平和な日本が蘇っていた。何とか宿に着いたが、そこは近鉄日本橋駅の近くだった。なぜ関東系のホテルチェーンが大阪に4つもあるのだろうか。ここもまた自動チェックイン。先ほどと違い外国人宿泊客で溢れている。さっきの方が静かそうでよかったのに。部屋へ行っても、きれいではあるが、料金の割に狭い。

東京高知関西茶旅2023(3)高知城見学、そして佐川の茶工場へ

そういえば家の横に駐車場があったのだが、石さんが『月決駐車場』って何?と突然聞いてくる。確かにそう書いているのだが、彼女は続けて『東京は月極だった』というのだ。やはり漢字圏の人たちは見ているところが違うとはいつも感じることだ。『月決』はマイナーらしいが、この地域では使われている。

車は高知城まで戻ってきた。我々はここから市内を少し散策してホテルにチェックインする。面白いのはYさん、自宅に戻るという。ホテルの駐車場に停めて一緒に散歩しようと言ってみたが、『夜は酒飲むので』と。実は我々東京から来たメンバーは誰も酒を飲まないのだが、『高知人は酒を飲みます』ときっぱり言われて笑ってしまった。

高知城に入ると山内一豊と妻の像がある。ここで何と陳さんがぐっと前に出て、極めて詳細な説明を台湾華語で始めたのには、本当に驚いた。陳さんは歴史好きで、相当本を読みこんでいる。恐らく普通の高知人よりははるかに詳しいと思われ、その後は彼をガイドとしてついて行くことになった。

小雨が降ってきたので、近くのセブイレブンでビニール傘を買う。ついでにスティーブが森永のジャンボモナカアイスを食べようと言い、全員分購入してくれる。私は数年ぶりに食べてみたが、意外にも美味しい。森永との繋がりが大きくなってきているせいだろうか。Oさんからその製法の綿密さを説明されたからだろうか。

最後にひろめ市場をさっと見る。時間的に早いこともあり、お客は多くはなかった。そして彼ら一家は皆酒も飲まず、生魚を食べないので、それほど興味も沸かなかったらしい。ホテルまで歩いて行き、チェックインする。荷物を部屋に入れて少し休むとまた出掛ける。夕飯はYさんが予約してくれていた。

高知に来たらカツオのタタキなのだが、残念ながら彼らは食べない。鍋や野菜など、それぞれが食べられるものを注文して、腹一杯になるまで食べた。Yさんの酒量も相当なものだった。そしてここでも話しはかなり盛り上がり、喜ばしい夜となる。帰りにアーケードを通っていると、何とそこにマジシャンが待っていた。Yさんの教え子だと言い、わざわざ待機してくれていた。そのマジックは本格的で皆を喜ばせた。駅方面へ帰る道にはアンパンマンのキャラクターの像があり、小さな子供を持つ陳さんなどが喜んで写真に収めていた。

6月15日(木)佐川町へ

ホテルの朝ごはんは豪華だった。定食様式だが、朝から刺身、焼き魚からカツオのタタキまで食べられる。流石に昨晩堪能したので焼き魚定食にしたが、皆何だか喜んで食べている中、スティーブはトーストを注文して何とか凌ぐ。これが彼の信念ということだ。信仰と信念を考える朝となる。

Yさんが迎えに来てくれ、本日の活動がスタートする。目指すは佐川町。佐川と言えば、現在の朝ドラ『らんまん』の主人公、牧野富太郎の生誕地であり、今話題の場所である。途中こちらで紅茶作りをしている懐かしいSさん夫妻と合流し、車は山間部を走っていく。高知市内から車で約1時間、ついに茶畑が見えてくる。

ここはM園芸の茶畑。迎えてくれたMさんは高知に嫁に来てここで茶作りをしているという。緩やかなスロープにべにふうきなどが植わっており、この茶葉がSさんに渡り、美味しい紅茶が作られているらしい。台湾組も熱心に写真を撮り、質問を重ねていく。やはり茶畑に来れば茶のプロなのだ。

そこからまた車で小1時間走る。そして懐かしの旧茶工場へ着いた。ここは3年前、Yさんと二人、苦難の末に辿り着いた森永紅茶製造最後の茶工場だった。その時既に中に入れないほど痛んでいたが、その後の豪雨などでついに解体が決まったが、地元企業がここを買い取りリフォームして原型を保っていた。周囲の茶樹も健在で何となく涙する光景だった。

東京高知関西茶旅2023(2)持木家との交流が続く

そこから赤坂に地下鉄で移動。夜はMさん一家と天ぷら屋さんで会食となった。ここでもベジタリアンのスティーブが気なったのだが、お店側も野菜中心に天ぷらを作ってくれ、それを食べたスティーブが『この野菜は甘い!どこで作っているのか』などと質問攻勢に転じて、大将も大いに喜び、どんどん会話が弾んでいってこちらが驚いてしまった。彼は食べ物、飲み物に対する非常に高い意識があり、それを高い会話力で、ぐいぐい引き込んでいく。

Mさんの息子夫婦、孫たちも駆けつけ、非常に賑やかな、和気藹々の宴となった。Mさんの情熱は知っていたが、この紅茶を媒介とした一族の歴史については、皆が強い関心を持ち、台湾からやってきた客を、まるで親戚のように扱っている。ご縁というのはこうして繋がっていくのだなと思わせる夜だった。

6月14日(水)高知へ

翌日は高知へ移動した。羽田空港を11時台に出るフライトなのだが、何しろ石家の荷物が多く、無事辿り着けるのか、心配だった。一応2時間前集合としていたが、何と彼らは2時間半前には空港に到着したという。宿泊先の前から空港行バスが出ており、ラッシュにも合わず座って悠々とやってきた。Mさんも息子さんの付き添いで早々と空港に来ていた。皆気合が入っている。

ランチは機内で食べることにして、それぞれ好きな空弁を買う。皆日本に慣れているから、どれが食べられるか、美味しそうかの見分けはすぐに付く。フライトは順調で弁当を食べ終わると高知空港に着いた。今回はやはり持木家の子孫であるYさんが色々と気を使ってくれていたが、何と石家は『空港に迎えは不要です。荷物が多いのでリムジンバスに乗る』と言ってきて驚いたが、1台の車に一行6人を乗せ、更に大きな荷物は入らない、とよく分かった上での申し出だった。

取り敢えずバスが出発しないように係の人に話し、何とか荷物を引っ張ってきた彼らを乗せて行く。高知空港まで約40分、だが空港のバス停は二つあり、Yさんとは会えなかった。それでも我々は高知駅前を楽しく通過。坂本龍馬像などで記念写真を撮っていると、何と駅にはアンパンマン列車が停まっている。因みにこの日アンパンマン号は利用者100万人達成セレモニーが行われていた。

駅のすぐ横のホテルに荷物を預ける。そこにYさんが合流。Facebookでは交流はあったが、石家と会うのは初めて。ついでにYさんにとってMさんは従妹の子供になるが、すごく久しぶりの再会となる。ここでもご縁が繋がっていく。Yさんの車でYさんのご両親が住む、いの町に向かう。

Yさんのお母様はMさん同様、創業者持木壮造の孫にあたる。お母様の父は壮造の長男であり、Mさんの父は次男。この二人は若い頃は東京で会っているが、何と近年はご無沙汰で、数十年ぶりの再会となっている。もしこんなことがなかったら、一生会えなかったかもしれないとMさんはつぶやく。

ちょっとご挨拶と思って家に入ったが、そこからとても和やかな交流が始まって、また驚く。皆で昔の写真を見ながら、話が弾む。ついにはお母様が立ちあがり、何と流ちょうな英語で挨拶を始めた。因みにお母様もMさんも台湾生まれの所謂湾生であるが、幼少期に引き揚げているので、台湾の記憶はあまりないという。

もう一つ驚いたのは、お母様のご主人、Yさんのお父様は本日90歳のお誕生日だったことだ。しかも高知で植物学を収め、現在も研究を続けているという。ちょうど朝ドラの主人公が高知の牧野富太郎であり、お父様はそのひと世代下らしい。お歳を感じさせないクリアーな発言が多く、たくさん質問させて頂いた。あっという間に1時間半が過ぎ、お暇したが、とても名残惜しい感じだった。

東京高知関西茶旅2023(1)森永紅茶と魚池

《東京高知関西茶旅2023》  2023年6月13日-17日

ここ数年、森永紅茶の歴史を調べている。元々は台湾紅茶、日月潭紅茶の歴史を追っていたのだが、そこで行き着いたのが森永紅茶だった。日本統治時代の台湾で、日本人が作っていた紅茶。今回はその後継者台湾人が日本へやってきて、日本人子孫と交流することになり、その手伝いをした。

6月13日(火)持木家と森永

台湾中部魚池から石家(戦後父親が旧持木工場の工場長)の娘夫婦とその娘の3人、そして台中から陳さんが日本へやってきた。昨晩無事に成田に着いたと連絡があったが、入国にはどれくらい時間が掛かったことだろう。今朝はまず持木家の子孫であるMさんに会うため、朝の通勤時間帯にホテルから最寄り駅まで電車で来てもらった。ラッシュとは縁遠い魚池から来たのだから、さぞや戸惑うだろうと思ったが、何と彼らは何度も日本に来ており、満員電車にも慣れていた。

Mさんと石家は4年前から付き合いがあり、遠くの親戚が来たかのような打ち解け具合だった。早々に沢山のお土産(なぜかお茶と一緒にお酒も)が渡され、英語を主とした会話はどんどん盛り上がり、あっという間に時間が過ぎていく。こんな海外との民間交流、なかなかないのでは。

次にJRで鶴見に行く。昼前に駅に着いたので、駅ビルでランチを取る。実は石家のスティーブはベジタリアン。食事を心配していたが、さすがに日本慣れしており、すぐに蕎麦屋を見付けて入る。メニューをさっと見て自分が食べられるものを探して、店員に注文している(この店はアプリで注文する仕組みだが、多くの老人は口頭でやっている)。私は蕎麦を啜りながら、それを眺めるだけ。

鶴見駅からバスに乗る。娘のジョアンはお土産を入れた大型スーツケースをずっと持っていて混んでいるバスの車内では大変だ。10分ぐらいで森永鶴見工場に着いた。ここの研究所に勤務するOさんが、森永紅茶の歴史に大いに興味を抱き、社内で資料を探し、外部にもコンタクトして、何と今年『森永紅茶復活プロジェクト』を立ち上げたので、その話を聞きに行く。

とても働きやすそうな、雰囲気の良い研究所内で、色々と説明を聞く。森永の歴史、それは我々の歴史でもあった。子供の頃から親しんだ、森永チョコボールやムーンライトなどは何とも懐かしい。台湾組はチョコモナカジャンボの画期的な製造方法に大いに興味を示している。台湾ではこの商品は売られていないらしい。

森永紅茶については、既に50年前に無くなってしまった商品であり、決して大きな比重を占めていたわけでもないので、殆どの社員がその存在自体を知らない。そんな中でOさんはただ一人で資料を集め、各地に出向いて歴史を調べて、ついには紅茶復活のため、三重・奈良・高知の紅茶生産者と組んで、森永紅茶復活を目指している。

この紅茶の当初の原料は日本統治時代の台湾にあるので、今回の石家訪問がきっかけとなり、今後プロジェクトに進捗があれば、台湾産紅茶も加えて復活して欲しいという願いが私にはある。因みに森永が最初に手掛けたドリンクは宇治ほうじ茶というのも興味深いものだった。

研究所を後にして、またバスで鶴見駅まで戻る。そこから京急で銀座へ向かう予定だったが、何と事故があり、電車は止まってしまった。このままでは次の予定に間に合わない。そこでJR川崎駅へ向かい、京浜東北線で有楽町まで出て、何とか歩いて到着する。そこは石家のデニスが行きたいといった、小さな、おしゃれな茶荘だった。ここで買いたい茶器があったようだが、残念ながら在庫は無かった。それでも様々な日本茶が置かれていて、試飲も一部可能。英語でも説明してくれるので、外国人にとっては有難い茶荘だろう。

静岡茶旅2023(3)藤枝から草薙へ

私が訪ねたのは伝統的な問屋さん。ここに戦前静岡で作られた磚茶が保存されていると紹介されたからだった。ただ問屋さんでは先代社長が退き、代が変わっていたため、お知り合いの問い合わせに対して、わざわざ探してくれていた。だが見せられたお茶は皆戦後の黒茶類であり、残念ながら国産磚茶を遭遇することは叶わなかった。まあ、歴史的に見ても静岡で磚茶が作られた時期はほんの一瞬であり、磚茶自体が知られていないのも、無理からぬことだった。

日が暮れた頃、宿に帰り着き、部屋で少し休む。今晩はお知り合いのIさんとSさんと会う。二人ともお茶の専門家であり、学ぶところは大きい。お店は宿の横にあり、地元食材を使った料理がどんどん出て来て、美味しい。それにしても静岡はお茶王国、その歴史も多過ぎてとても整理できない。

4月6日(木)藤枝から草薙へ

朝はゆっくり起きる。今日は天気がイマイチ。それでも傘をさして散歩に出る。昨日と同じようなルートで30分ほど歩いて行き、蓮華寺池公園を目指した。この付近が東海道の旧藤枝宿。昔は栄えていただろうと思える場所。歴史的な雰囲気が漂うと共に、何となく雨も止んでくる。

この公園には『とんがりぼう』と呼ばれた藤枝製茶貿株式会社の建物が移築されていた。確かにきれいになっており、中は土産物屋などが入っていて、歴史的雰囲気は薄れていた。公園内は非常に気持ちよく散歩できる。さくらも満開でよい。藤枝の茶業関連の碑もここに建てられている。郷土博物館もあったが、今回は入らずに駅まで戻る。

荷物を取りだしてJRで草薙駅へ行く。図書館へ行く前にかつ丼を食べようと、駅から歩いて行くと、思ったよりずっと遠い。そして注文したかつ丼はお母さんが一からゆっくり作ってくれる。味噌汁も熱々。というわけで、美味しく頂いた頃には、既に図書館行バスは行ってしまっていた。バスは1時間一本なので、静鉄で隣駅まで行き、そこからゆるゆると登りを歩いて行く。結構疲れる。

図書館ではいつものように歴史資料を漁る。いつ来ても何か発見があるから面白い。ちょっと見たことがある人がいたが、声を掛ける前に居なくなってしまった。きっと静大のK先生に違いない。雨が止んだのでちょっと外へ出る。ドリンクを買ったのだが、それは国産烏龍茶のペット飲料。ついに日本も烏龍茶を自前で作る時代に入ったのだろうか。

裏庭に何と鈴木梅太郎の胸像があると知る。鈴木はビタミンの世界的な研究者で、東大で研究していた他、理科研の創立メンバーにも名を連ねている。牧之原の出身であり、あの山本亮の師匠でもあった。ここでお会いできるとは、何と光栄な。でもなぜここにあるのかは誰も教えてはくれない。

夕方5時を過ぎ、バスに乗って草薙駅に戻る。今晩はタイ人のA先生と待ち合わせ。A先生はティーツーリズムの研究者で、以前タイで出会い、数年前和歌山大に居た時に、シンポジウムにも参加した。彼は今静岡に移っていたので、ちょっと顔を見ようと連絡した。何とも懐かしい。

彼が連れて行ってくれたのは、駅前のタイ料理屋だった。彼の行きつけの店であり、常連さんも多く、皆知り合いのようだった。タイ人がご飯を食べに来る場所なのだろう。奥さんがタイ人でご主人は日本人。奥さんが主に料理を担当している。美味しいチェンマイソーセージなどが出てきて、ご機嫌になる。

A先生はティーツーリズムの本を出版(チェンマイで知り合ったリー先生と一緒に)するなど、精力的に活動している。タイ北部、アカ族の村の事業推進を、ピアポーンと一緒にやっているらしい。次回機会があれば、私もその村へ行ってみたいがどうだろうか。とても有意義な時間を過ごすことが出来た。再会に感謝したい。

夜8時、A先生と別れ、草薙駅から静岡駅へ引き返して、新幹線に乗る。まあ夜帰る場合は新幹線が何といっても便利でよい。窓の景色も何も見えない。ただ目を瞑っていると、あっという間に東京に着いてしまう。これでもう少し料金が安いと有難いのだが、それは無い物ねだりだろうか。

静岡茶旅2023(2)沢水加へ

大浴場で汗を流し、ゆっくりと休んだ。最近は長く歩くことが辛くなってきている。夜暗くなった頃、そばでも食べようとまた出掛けたが、検索で出てきたそば屋が2軒とも閉まっていたのでちょっと驚く。コロナはまだ続いているのだろうか。フラフラしていると開いている蕎麦屋があったので入ってみた。

磯おろしという名の花柄のような盛り付けのそばが何とも旨い。これはこの店のオリジナル商品だと後から知る。ついでにかつ丼をセットで頼んでいるので、かなり満足できる味と量だった。確か夕飯は軽く済ませるはずだったのだが、食べ始めると止まらない。これも良くない兆候だろうか。宿に戻ると、何と1階のスペースでドリンクが飲め、アイスが食べられ、更にはカレーまでセルフで食べられた。知っていれば外には出なかっただろうから、磯ちらしを食べるために伏せられていたようだ。

4月5日(水)沢水加へ

朝ご飯も思ったより充実している。これはもう完全にドーミインを意識した設定だと気が付く。もしこれで料金が安ければ今後使いたい宿だ。まずJRで藤枝駅まで行き、そこで今晩泊まる宿に荷物を預けた。なぜ藤枝に泊まるのか、は正直何かの間違いのような気がする。ちょっと頭に藤枝があったので、宿を予約してしまったが、ここからまたJRで菊川へ向かった。

昼頃菊川駅に着くと、ちょうどテレビ番組のロケをやっている。それを避けて何とかコミュニティーバスの乗り場を探す。駅前には牧之原開拓にも尽力し、初代静岡県知事になった関口隆吉の像がある。バスは以前丸尾原から乗ったことがあるが、料金は僅か100円で有難い。

やってきたバスにはやはり乗客はなく、運転手さんと話すが、私がこれから向かう沢水加の歴史については、特に知らないようだった。まあ地名があまりにも難しくて読めない、ということは誰でもわかる。そんな話をしていると上り坂になり、僅か10分で沢水加公会堂に到着した。この付近前回丸尾原まで歩いた時に通った道だと思い出す。

バスを降りると茶畑が目に入ったが、それほど多くはない。近所に大井航空隊洞窟というのがあったので、脇道を行ってみる。洞窟へは自然災害で通行できなくなっていたが、その付近には古い茶樹がかなりあり、その昔茶業が盛んだったかも、と思わせるものがある。ここは牧之原台地の入り口、道を登れば現在も広大な茶畑が広がっている。

そしてここは明治時代、茶業の先端だった時代がある。この地で活躍した山田治郎蔵という人のことが知りたくて来たが、今はその痕跡は何もない。治郎蔵は茶業を広め、機械の使用にも取り組み、佐倉産の炭を使って茶業の質を上げた人物。彼が作った茶業研究施設が、後の静岡県茶業試験場になったことを見ても、その先見性が分かるというもの。

村を歩いてみても古い家が見えるだけだった。途中に有名な洋食店があったが、残念ながら閉まっていた。その先に西宮神社がある。ここの脇に『入会地奪還記念碑』があって驚く。この地は明治初期、牧之原開拓に来た武士と地元住民が土地を巡り争った場所らしい。その中で死んだ、大谷内龍五郎という人の墓もここにある。明治という時代は、我々が思っているよりずっと複雑ではないだろうか。神社の周りをグルっと回ったが、それ以上の発見はない。

コミュニティーバスは1日数本しかなく、路線バスのバス停まで歩くとかなりある。ここはいっそ下りを利用して歩いて菊川駅まで戻ることにした。花粉症ではあるものの、気候的にはとても歩きやすい。途中所々に茶畑が見えて、何ともテンションが上がる。日本の春はさくらもあって、とても良い。

JRに乗って藤枝まで戻る。駅前の観光案内所で聞くと、藤枝にも茶町と呼ばれる場所があるというので歩いて行ってみる。徒歩約30分、途中川べりに見事なさくらが咲いている。その先は住宅街だったが、ポツンポツンと茶問屋の姿が見える。観光案内所では『Tea Seven』と呼ばれる、7つのお茶屋さんが藤枝茶を売り出していると言っていた。確かに小売り向けにお茶やお菓子が楽しめる店もあった。

静岡茶旅2023(1)相良へ

《静岡茶旅2023》  2023年4月4₋6日

ソウルから戻り、台湾へ行くまでの間にやるべきことがあった。静岡へ行かなければならない。何だかちょっと疲れ気味だが、そこは何とか張り切って行ってみる。茶歴史の宝庫、静岡!今回は何が出て来るのだろうか。楽しみだ。

4月4日(火)静岡へ

疲れていたせいだろうか。何だかすごく早く起きた。起きたらすぐに出掛けた。朝5時前に出て、小田急+JRルートで行くと午前9時台には静岡駅に着くことは分かっていた。これなら新宿発のバスよりも先着する。今回は駅から線路沿いに新しくできた宿を予約してあるので、そこまで行き、荷物を預けて駅前まで戻る。

そしてバスに乗る。今日は初めて相良へ行ってみる。バスの乗車時間は約1時間。20分に一本程度出ている静鉄バスのメインラインだ。それでも一本早く乗りたくて早足になるのは何ともおかしい。バスを降りると、小堤山公園を目指す。ここに今日のお目当て、山本平三郎の胸像があるという。

山本平三郎は相良物産の社長であり、地域にも大いに貢献した人物。茶業についても熱心で、『深蒸しの父』と称されることもある。地域の人々と茶業発展のために尽くしており、その結果この胸像がある。尚彼の弟が私の常に意識している山本亮台北帝国大学教授だということは付け加える必要がある。紅茶の香りを研究した山本教授とその実家はどのような関係にあったのだろうか。そういえば平三郎は東京農大を出ているが、戦後弟が農大教授になったのも関連があるのだろうか。

公園内はサクラが満開で美しい。胸像の向こうには10を超える記念碑が建っている。その中には森町の村松吉平のものもある。吉平は明治初期の茶業者だが、その後相良油田にも関わったことで、こちらに碑が出来たものと思われる。その他郷土の偉人や天皇関連などが一区画にまとまっているのは珍しい。

この公園の脇にトンネルがある。小堤山トンネルと呼ばれ、1970年に廃線となった静岡鉄道駿遠線がここを通っていたという。1923年頃に造られたかなり古いトンネルであり、既に無くなってしまった鉄道を知る生き証人と書かれているのが面白い。100年前のトンネルを潜ってみる。

相良物産は様々な事業を行っており、今も茶業部がある。会社の前に行ってみると、木造建築のいい感じのお店でちゃんとお茶を売っている。それから腹が減ったので定食屋で食事をして、そのまま海岸へ行ってしばしボーっとしていた。明治期は相良港から茶葉が運び出されたというが、今は実に静かだった。

帰りもまたバスに乗る。本数が多いバスに乗るのは何とも気が楽でよい。何とこのバス路線、直接渋谷に行くバスもあるという。鉄道は通っていないが、人口はそれなりに居るということか。1時間で静岡駅まで戻ったが、そのまま新静岡まで乗って行き、最近できた静岡市歴史博物館へ行ってみる。お城のところにきれいな建物が建っていたが、何故かエネルギー切れを起こし、何も見ずに宿へ戻る。

宿は出来たばかりのオープンセールで安く泊まれたが、大浴場もあり、部屋のベッドも良かった。これから静岡ではこのチェーンを使ってみようか。実はバンコクにもあると聞いていたので、1度泊まろうと思い、今回実現したのだ。サービスもいくつかの宿のいい所を取っているので良い。

静岡茶旅2022(3)磐田 赤松茶園を調べる

12月22日(木)掛川で

翌朝はゆっくり起きて、掛川城の周辺を散歩する。前回見付けていた石碑をもう一度確認する。山田治郎蔵とはどんな人物か。興味が更に沸く。そして報徳会に行ってみる。堂々とした門を入り、立派な木造建築を眺める。さて、見学しようかと踏み出すと、何と本日はイベントがあり、見学できないとある。

仕方なく、事務所へ行く。そこで『報徳会と茶』に関する資料などはないかと聞くと、親切にも冊子をくれた。更に昨日会ったMさんのことを思い出し、話に乗せてみると、更に色々と対応してくれる。実はここの社長は先日訪ねた鷲山医院の一族の方と聞いたが、あいにく不在で会えなかった。吉岡弥生と松本亀次郎について、尋ねられれば良かったが、何しろこちらが突然お邪魔したので、何ともし難い。

またお城は眺めるだけにして、駅へ向かう。前回同様コメダでモーニングでも食べて、お土産を買って、などと考えていたら、何と停電とのことで、駅の店は閉まっていた。復旧の目途も立たないという。やむを得ず、電車に乗り、磐田へ行く。前回は何と磐田駅に着いたものの、どこへ行くのかを忘れるという失態を演じた。今日はしっかり狙いが定まっている。

磐田で

駅前からバスに乗って図書館へ向かう。ところがこのバス、発車する前に運転手が威嚇的?な口調で『バスに乗り慣れていない人は早めに運賃を用意して。お釣りは出ないし、停車してからの両替は迷惑』といった感じでアナウンス。そこで出発前に『図書館まではいくらですか?』と確認したところ、『いや、それは?まあ、150円ぐらい用意しておいて』と情けない返事。勿論Suicaは使えず、不便この上ない。

15分ぐらい乗って図書館に到着する。ここには赤松則良ら赤松家の蔵書が寄贈された赤松文庫があると聞き、早々見に行ったが、蔵書を見ても、茶畑のことが分かるわけではない。そこで郷土史などの資料を探すと、かなり赤松家について調べられたものがあり、早々にコピーを取る。更に図書館の人に『赤松家の茶園の場所』などを聞いてみると、専門の方に問い合わせてくれ、何と午後その方がここへ来るので直接話が聞ける、というではないか。折角の機会なので午後まで待つことにした。

すると係の人が『この辺、ランチを食べる場所が無くて。一か所あるので聞いてみましょう』とわざわざ確認の電話をしてくれた。それではと、そこへ昼を食べに行く。結構しっかりしたお店でちょっとひるんだが、料亭と一般に分かれているようで、一般の方に入ってみた。中は天井が高い、木造で雰囲気が良い。しゃも鍋が美味しいというので、それを頼み、更に天ぷらまで注文してしまった。まあ、年の暮れ、一人忘年会だ。

しゃも鍋は赤みそ仕立ててで、非常に濃厚。そして何よりしゃも肉に歯ごたえがあり絶妙に美味い。更に揚げたての天ぷらを食えば最高だ。ふと見るとこの建物の外に何やら胸像が見える。何とここは赤松邸の敷地内に作られていたのだ。隣の旧赤松家の見学に移る。まずは門が立派。城の城壁のような煉瓦造りだ。

中に入ると先ほど見えた赤松則良の胸像がある。日本造船技術の先駆者と書かれているが、その説明書きの中にも、磐田原の茶園開拓について語られている。土蔵に入ると赤松家の詳細な家系図や資料が展示されていて興味深い。ここは戦後初代磐田市長になった則良の孫が市に寄贈したらしい。また記念館では係の方に案内して頂き、赤松茶園などの説明を見る。

そこから図書館に戻り、赤松家について研究されているKさんにお目に掛かり、赤松茶園の詳しい場所などをご教示頂いた。赤松がなぜここに茶園を作り、その後どうなったのかなど、郷土史ではかなり鮮明に調べられていてとても有難い。ただそれでも最近は磐田の方でも赤松を知る人は少なくなっているという。

磐田駅まで戻り、JRで掛川へ行く。ここから新幹線に乗って帰ろうと考えていたが、駅の停電が一部解消されており、土産物屋が1つ開いていたので、そこで買い物をする。ただ私が前回気に入った森町の蒸し栗羊羹が買えなかったのは、何とも心残りだった。それを引きずってしまったのか、新幹線に乗る所をまた在来線ホームへ行き、ちょうど来た興津行に乗ってしまった。

車内は混んでいたが、1席空いていたので座ってボーっとしていた。気が付くと日が暮れた興津駅。後続の熱海行まで、またボーっとしている。熱海まで来ると腹が減り、違うホームにある立ち食いそば屋へ駆け込む。かなり冷えてきたので、カレーうどんを食べると、何だかすっきりした。そして小田原で、急にロマンスカーに乗りたくなり、切符を購入する。だがなぜか町田までしか買わず、初の夢のロマンスカーは僅か40分で終了した。同時に今年の旅も終わりを告げた。

静岡茶旅2022(2)森町と台湾の繋がり

12月21日(水)森町へ

朝はゆっくり目覚め、静鉄で県立図書館へ向かう。先月も行ったばかりだが、やはりここで資料を漁るのが一番早いと感じる。今回は前回とは異なる資料を入手して満足。時間になり、宿へ戻り、荷物を取りだして駅へ。また腹が減ったので、ホームでそばを食べる。時間がない時、ちょっとお腹が空いた時、何とも便利な食べ物だ。

また掛川駅へ行く。先月のホテルがあんまりだったので、今回は馴染んだ宿を予約した。ただ駅から少し離れているので、荷物を持っていくのが大変。それでも掛川付近のよい散歩になり、古い建物などを見ながら楽しむ。山内一豊は掛川城主だった。チェンマイのコーヒーを出す店もあったが、今日は休みのようだった。

掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って森町へ向かう。森町に行くのは2017年以来6年ぶりだろうか。前回は掛川からでなく、豊橋に近い新所原駅から乗って、1両列車にずっと揺られたのが懐かしい。ちょうどあの年は大河ドラマ『あんな城主直虎』で、沿線が盛り上がっていたように思う。今回は掛川から約30分のみ、料金480円。

相変わらず1両列車、1時間に一本程度運行されている。乗客も多くはない。遠州森という駅で降りず、次の森町病院前で下車。ここは前回も来た役場があるが、今回はその向こうにある立派な建物、森町文化会館を訪ねた。ここで館長のMさんと、お知り合いのYさんが待っていてくれた。

Mさんとは、藤江勝太郎のご縁で知り合った。今日もその後の藤江研究の成果をご披露頂き(Mさんは各所で藤江について講演している)、その進歩に感激した。台湾製茶試験場を作り、初代場長となった藤江は森町の名家出身。森町と台湾の繋がりは尋常ではなく、台湾製糖初代社長鈴木藤三郎もここの出であり、台湾の三大輸出品の内2つのトップは森町出身だから、これは驚くしかない。台湾製糖との交流は以前より行われていたが、最近は台湾茶業改良場などとの交流も始まっているようで、何とも嬉しい。

その後Mさんの車で歴史民俗資料館に案内してもらう。ここは以前も来ており、初めて藤江の顔写真と対面した場所でよく覚えている。見てみると展示品が増えている。何と藤江が森町に設立した日本烏龍紅茶株式会社で使われた製茶道具や蘭字まで揃えられており、驚く。Mさんたちの努力には敬意を表したい。また鈴木藤三郎と藤江の交わりも何となく見えてきて面白い。

更に車で案内されたのは、前回私を案内してくれたKさんの家。Kさんは当時役場職員であったが、郷土史研究家でもあり、かなり深く歴史を調査している。今回も地元の茶商などについて教えを乞う。Kさんとお別れし、最後に日本烏龍紅茶の茶工場があったと目される川沿いの場所まで連れて行ってもらった。今や何も痕跡はないが、ここまで分かってくるとワクワクしてくる。

文化館に戻り、Mさんとお別れした。Yさんが『もう少し案内しましょう』と言ってくれ、今度はYさんの車で庵山へ向かった。ここには村松吉平の碑がある。吉平は明治初期横浜の茶貿易で活躍した森町出身の茶商。地元に紅茶製造所をいち早く作ったほか、相良油田採掘事業に取り組むなど、興味深い人物である。

そしてもう一つ。浪曲『森の石松』と遠州森の茶の碑がある。これは昭和初期の不況下、森町の茶を売り込むために、『遠州森町良い茶の出処』と人気絶頂の浪曲師広沢虎造に謳わせた名曲を記念している。更にその横には形の良い観音様がある。何と鈴木藤三郎が作らせた4体の内の1体がここにある。そしてもう1体は台湾製糖にある(残り東京の鈴木邸及び鎌倉別邸の2体は所在不明)というからすごい。こんなところにも日本と台湾の交流がさりげなくある。因みに藤三郎も明治初期は茶貿易に従事したことがあるらしい。

誠にありがたいことにYさんが掛川まで車で送ってくるという。既に周囲も暗くなっていたので、どこかで夕食でもと思い、思いついたのが先月久しぶりに訪ねた、さわやか、だった。今回は前回と別の店に行く。ちょうどタイミングが良かったのか、今日はほぼ待たずに席に着いた。

ハンバーグを食べながらお茶談義に花が咲く。Yさんも中国留学組であり、中国、台湾事情なども話題となる。何だかとても楽しくて、ついついデザートも頼む。ミカンとほうじ茶プリンを食べ、コーヒーを飲みながら、話はどんどん弾んでいく。かなり長居してしまい、気が付くと周囲にお客さんがいなくなっていた。

静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。