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ふらっと四国茶旅歴史旅2022(1)海軍の町 呉で

《ふらっと四国茶旅歴史旅2022》 2022年7月4₋15日

昨年愛媛を訪れるつもりだったが、肩痛が悪化して延期してしまったので、今年こそはと満を持して旅を計画した。日本の後発酵茶の歴史を探る旅、7年前に一度四国三県を回っているものの、あの時とは状況がだいぶん異なる。バタバタ茶も追って行かなければならない。

ついでにお知り合いのKさんが経営する広島呉の民宿にも泊まることにしていた。ところが1週間前、『隣の家の解体工事の影響で、壁に穴が開いていることが発覚』という連絡を受け、宿泊を断念する。更には突然の台風も接近しており、かなり先が思いやられる旅となってしまった。

7月4日(月)呉で

広島空港に到着した。先月山口宇部空港を使ったばかりで恐縮だが、今回は呉に泊まるつもりでフライトを予約してしまった。ところが泊まれなくなり、さりとて翌日は愛媛、ここはどうしても呉からフェリーで松山へ渡りたい。そこで広島空港から呉に行き、そこで1泊する選択となる。以前この空港を使い、尾道へ行ったことがあるが、バスが便利な印象があった。ところが今回の呉行は1時間待ち。乗客も少ない。因みに尾道行は運休になっている。これもコロナの影響か。

呉まで高速バスで約50分。どちらに向かっているのか、方向が良く分からない。呉駅前で下車すると、宿(港)は駅の反対側、歩道橋で繋がっている。途中に観光案内所があり、聞いてみると、お勧めは大和、海自、入船山の海軍オンパレード。更に食事は海軍カレーです、という。さすが軍港、呉だ。

宿に着くとフロントに人はいるのだが、チェックインは機械に自分で打ち込んでやってくれという。入力がとても面倒で嫌いだ。手書きに変更してもらったが、係員は嫌な顔をした。恐らく彼女が入力しなければならないからだろう。それなら疲れてやってきた入り口で立たせて打たせるのではなく、事前に家で入力させるシステムを導入すべきだと思うのだが。

腹が減ったので、大和ミュージアムの横、ビルの2階で潜水艦カレーを食す。がんすトッピング、1250円。鉄板カレーという名物は売り切れていた。カレー自体口当たりは甘いがどんどん辛くなるという(だから潜水艦)とても不思議な味だった。ここにいるのは団体さんか、オタク系の人々。戦艦やらの展示、ちょっと場違い感あり。

そこから見学開始。まずは海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)へ。入場無料は旭川の北鎮記念館と同じだ。機雷の掃海や潜水艦の展示が中心。横に設置されている潜水艦『あきしお』の船内を見学することもできる。潜水艦についてはこれまで考えたこともなかったので、ちょっと参考になる。こんな狭い空間で長く生活するのは、閉所恐怖症の私にはとてもできないと分かる。

大き過ぎて写真を撮るには難しい大和ミュージアム。その横には小さな『しんかい』があって微笑ましい。館内には戦艦大和の1/10模型がデーンと置かれており、また回天乗務員の遺書(肉声)を聞くことが出来て驚く。呉市の歴史についてもかなり詳しい展示がある。赤松則良が造船所建設を説くなど、見るべきものがある。軍港、造船の町として呉を学ぶ。

小雨の中を呉市美術館まで歩く。その庭園内に東郷平八郎大佐が鎮守府参謀長として呉に赴任した時に住んだ離れが移築されている。そしてその先が入船山記念館。海軍工廠塔時計に出迎えられ、高嶌大砲火薬庫と郷土館で呉の歴史を見る。更に正面には1905年建造の呉鎮守府司令長官官舎がある。加藤友三郎、鈴木貫太郎、野村吉太郎などがここに住んだ。いい感じの洋館で後ろには和室がある。歴史民俗資料館では船員が見た航海日常が展示されており、お茶がかなり消費されていた。やはり海上でお茶は脚気などに良いのだろうか。

雨も上がったので、そこから30分ぐらい歩いて、旧澤原家住宅へ行ってみる。坂を上ると旧家の趣がある家が登場する。この家の向こうに『この世界の片隅で』という映画(私は見ていない)で有名になった三つ蔵があった。かなりユニークな形状で、歴史的にも価値があると思われる。

夕方になり駅前食堂へ入ってみた。自分でおかずを取る方式で、卵焼きとイカ煮込み(チンをお願いする)、それにご飯といい味を出している熱い味噌汁で730円。昭和感ありあり。腹ごなしの散歩は、呉港の夕暮れ。明日台風が来るとは思えない夕日と夕凪に魅了されてしばし留まる。

福岡、長崎茶旅2022(7)外海、出津で

疲れたので一度宿に戻り、早めの夕飯に繰り出す。今日はロースかつに何と『角煮かつ』をトッピングして、食べてみることにする。まさか本当に角煮を揚げているとは。まあ角煮はそのまま食べる方が良いように思うが、ここのカツは美味しかった。また接客が実に丁寧で感心した。向かいには同店が出しているカツサンド専門店もあった。

6月20日(月)出津へ

長崎最後の朝、雨模様だったが降ってはいなかったので、思い切って遠出する。宿近くのバスターミナルからバスに乗る。直通は40分後と言われ、思わず桜の里バスターミナル行に飛び乗る。長崎市街地を走っていく。だが途中山を越え、漁港の方へ行く。乗り換えバスの発車時間が迫っていたので、ちょっと焦って運転手さんに聞くと『大丈夫、連絡していますから』と。

ターミナルで大瀬戸行バスに乗り換えた。乗客はほとんどいない。海が見えてくる。目的地の一つ、道の駅夕陽が丘そとめをやり過ごし、出津の村を通り抜けたところで降りた。ここに外海歴史民俗資料館があるので、まずはそこで概要を掴むことにした。ここは潜伏キリシタンの里、江戸初期のキリシタン迫害、明治初期の混乱などの歴史が綴られている。ここでどれだけの人が信仰のためにどれだけの犠牲を払ったのかは、想像もできない。

係の方から地図を貰い、村を歩いてみる。明治初期この地に赴任し、その後村の繁栄を支えたドロ神父の教会が見えるが、その前にドロ神父記念館に立ち寄る。ここはドロ神父が村の窮状を救うため、私財を投じて作った授産事業、福祉施設だという。記念館内にはこの施設で行われた様々な事業について説明されており、同時にドロ神父が如何にこの地の人々に敬愛されていたかが、語られている。残念ながら月曜日は施設がお休みで見学はできなかった。

一旦下ってまた上ると出津教会に至る。なかなか格好の良い教会だ。これもドロ神父の指導の下建てられた。外から眺めていると、そこにいた女性から声を掛けられ、教会内に案内された。そしてドロ神父と現地の人々の交流や潜伏キリシタンのことなど、丁寧に教えてくれた。何よりも『隠れキリシタンはまだいます』という言葉が衝撃的。明治になっても家族だけで信仰を継続して教会に来なかった人々を指すらしい。信仰を守ることの本質を見る思いがした。

教えられてドロ神父の墓を訪ねた。大きな目立つ墓だった。その周囲にはキリシタンの村人の墓が続いている。大平作業所という山の上では開拓も行われ、茶作りをしていたらしい。今でも紅茶などが作られているが、さすがに歩いては行けないので、終了となる。ここは歌手前川清の両親の出身地で、母親は熱心な信者だったとテレビでやっていたが、そんな話はどこにも出てこなかった。

バスを待ち、道の駅まで行く。距離的には大したことはないが、さすがに急な坂道を上る気力はない。道の駅の向こう側、海の目の前に遠藤周作文学館がある。ここ外海は遠藤の代表作『沈黙』の舞台となっており、私も最近映画で見ていた。更につい最近なぜか『深い河』も読みかえしており、どうしてもここに来て見たかった。ここで遠藤周作の生涯を顧みて、宗教とは何か、人生とは何か、などを考えさせられた。バスの時間までサンドイッチを買って、小雨の中噛みしめる。

同じバスルートで市内に戻る。大波止の港で降り、その辺を散策する。それから商店街の方へ歩き、蕎麦を食べることにした。その老舗の蕎麦屋、『そば重ね』というメニューがあり、下にかつ丼、上に蕎麦が入った1つの椀を提供していた。この店の独自のものかと思い聞いてみると、数十年前誰かが作ったものを購入しただけだというが、今このような椀を使っている蕎麦屋は全国的に見てあるのだろうか。

長崎バスターミナルから空港バスに乗る。不思議なことにこのバスの待合室はホテルのロビーとなっている。ホテル内に切符の自販機もある。どのような経緯かは知らないが、何となくゆったりと待った。今回は山口から入り、長崎から出るという、なかなか広範囲な旅、そして有意義な旅であった。

福岡、長崎茶旅2022(6)長崎の街をフラフラ

更に行くと松林飯山遭難碑がある。松林は楠本らと行動を共にしていたが、維新直前ここで暗殺された。日本全国には無念にも倒れた無数の志士たちがいたことを感じる。大村護国神社には大村藩三十七士の碑もある。ここの下には江戸時代、大村氏の円融寺庭園(徳川家光由来)があったと書かれている。

最後に図書館に寄ってみた。ミライon図書館という名でおしゃれない建物だった。後で知ったのだが、ここは長崎県立図書館が移転して、大村市と一体で運営しているようだ。土曜日ということで、かなりの人が来ており、あまり長居はできず。そしてこの建物には歴史資料館もある。こういう複合型施設は便利でよい。県立図書館が県庁所在地から遠く離れた例はあるのだろうか。

長崎

JR大村駅から電車に乗る。1時間ちょっとで長崎の手前、浦上駅で降りる。ここから路面電車に乗り、中華街を目指す。路面電車、前回何度も乗ったが、相変わらず路線図が頭に入っておらず、どれに乗ればよいか分からない。ようやく電車で中華街近くまで来た。出島の脇、ここまでくればと思ったが、何と『地図の読めない男』となって迷う。

何とか宿へ行き、荷物を置いて歩き出す。何となく中華街と反対方向へ行くと、いつの間にか思案橋、そして通りを越えると、大浦お慶居宅跡へ出た。ここは前回(2年前)お慶を調べる中で通ったところである。そのすぐ近くには孫文先生縁故之地とある。孫文は長崎を9回も訪れたといい、その度に鈴木天眼(会津出身で孫文支援者)と会うため、ここにあった東洋日の出新聞に来たらしい。因みにこの新聞の発行名義人は姿三四郎のモデル、西郷四郎とある。

ふらふら歩いていると、喫茶店が目に入る。昼ごはんを食べていなかったので、急に入ってみたくなる。土曜日の午後で店内はほぼ満員。カウンターの端に座り、珈琲セットを注文する。丁寧に淹れた珈琲の他、ハムトースト・エッグ・野菜サラダがドカンとプレートに載ってくる。このクオリティーは予想外だった。実は珈琲冨士男は1946年長崎市鍛冶屋町で創業された、70年の歴史を持つ老舗の珈琲店で、遠藤周作の『砂の城』にも登場するという。何気なく入った店で喜ばしいひと時を過ごす。

そこからまっすぐ歩くと、隠元禅師ゆかりの興福寺に出る。今回は前を通るだけで、すぐに眼鏡橋の方へ引き返す。一度宿まで戻りチェックイン。夕方急に腹が減り、また外へ飛び出す。歩いていると『バラモン食堂』という店があり、気になって入ってしまった。バラモンというからインド方面を想像してしまったが、なんと五島列島の方言だとか。

このお店は新鮮な五島の食を提供しており、天ぷら定食に刺身付をチョイス。新鮮な刺身といい感じに揚がった天ぷらを味わった。たまにはこんな食事も悪くない。因みにばらもんとは、活発な、元気がいいなどの意味をもつ五島の方言「ばらか」からきているという。新鮮な、というのがこの店の意味だろうか。

帰りにフラフラしていると、スナックの扉に『コロナ感染防止のため、県外のお客様のご来店をお断りしております』との張り紙を見た。やはりまだ歓迎はされていないようで、ちょっと悲しい。

6月19日(日)長崎フラフラ

起きるとすぐに散歩に出た。まずは唐人屋敷へ向かう。まだ早くて案内所も開いていないが概要を掴む。そこから大浦天主堂に向かって歩く。途中1865年トーマスグラバーが走らせた鉄道発祥の地跡の看板を見る。続いて1804年レザノフ上陸ロシア仮館跡がある。長崎税関跡、香港上海銀行と長崎ホテルなど、まさに長崎は歴史の宝庫。歩いているとそれだけで十分に楽しめる。

大浦天主堂、四海楼などを通り、朝ご飯を探す。昨日の喫茶店に味をしめ、二匹目のどじょうを狙ったが、今日はチェーン店のそれだった。但し店舗の雰囲気が良く、2階で一人まったりした。それから路面電車に乗る。前回も来た長崎歴史資料館で華人の歴史を少し見る。長崎県立図書館が大村に移ったと聞いたが、郷土資料センターなら市内にあると教わり、また路面電車でそちらへ行く。

長崎公園内にある資料センター。周囲にはシーボルト記念碑や上野彦馬像などがあり、訪れてよかった。ただ中に入って資料を尋ねると『基本的に長崎の資料は全て隣接する長崎歴史文化博物館に委託されており、ここにあるのはその一部だけ』と言われる。長崎歴史文化博物館は民間に委託運営されており、当日いきなり行っても問い合わせすら受け付けないのは知っていたが、長崎県の人々もそれを不満に思っていることを今回知る。それでもここで九州製茶輸出株式会社の株券などを見ることが出来、満足する。

福岡、長崎茶旅2022(5)富春庵、鄭成功、大村散歩

午後は富春庵へ向かう。ここは2回目の入宋を終えた栄西が1191年に上陸し、滞在した場所と聞いている。そして栄西がここに茶を植えた、喫茶、製茶法も教えたとの伝承も残っており、記念の茶畑もあった(一応日本最初の茶畑との表示もあるが)。だがこの地で一番重要なのは茶ではなく、栄西が禅宗を伝えたことらしい。

茶畑から下っていくと、そこには『日本禅宗発祥之地』との石碑が置かれており、『千光祖師座禅石』などもある。そして道路の反対側には江戸時代に富春庵を継いだ千光禅寺が今もそこにある。日本で初めて禅が行われたと書かれ、今も座禅会が続けられているようだ。このコロナ禍ではどうだったであろうか。

ここでOさんとは別れ、Sさんの車に乗せてもらい、鄭成功記念館を目指す。大きな門を潜ると、鄭成功が生まれ7歳まで育ったという屋敷跡に記念館があった。係の人が熱心に説明してくれ、鄭成功について日本ではどのように語られているのかを少し理解した。私自身は厦門の大きな鄭成功像や台南の廟など、各地で見ているので、あらましは知っているが、日本で鄭成功に出会うのはこれが初めてであった。古い媽祖像なども安置されている。往時は目前の岸から船で大陸へ出て行ったのだろう。折角なので、千里が浜の鄭成功記念公園にも寄ってみた。ここにある鄭成功像は厦門のそれの小型版のようだった。さわやかな海風が吹く公園で気持ち良い。

最後に街中にある蔦屋という菓子屋に入る。創業が1502年というから古い。代々松浦家に菓子を納めていたらしい。しかも現在の店舗地には、三浦按針が住んでいたとかで、按針の館と呼んでいた。珍しいポルトガルゆかりの菓子などが並んでおり、興味を持つ。店で買って奥の広い座敷で食べられるという贅沢。ここでSさんと話し込み、かなりの時間滞在した。

今晩大村へ行くという私をSさんは親切にも車で送ってくれた。結構時間が掛かり、日が暮れてしまった後、ようやくたどり着いた。Sさんには申し訳ないことをしたが、お菓子やお酒の話などでとても為になった。車中でもずっと話が続き、有難い再会だった。

今晩の宿は地方で頑張っている昔ながらのビジネスホテルだった。夜8時を過ぎており、夕飯を探しに駅まで行くと歩いて6₋7分掛かったが、ちょうど駅前に食堂があり、飛び込む。お客は誰もおらず、もう閉店かと思ったが、運よくまだやっていた。かつ丼を頼むと、予想以上にうまい物が出てきて喜んで食べた。ただ東京ではかつ丼を頼むと、漬物とみそ汁が付いてくるケースが多いが、こちらではみそ汁は出てこない。

6月18日(土)大村を歩く

翌朝宿で朝定食を食べる。ビュッフェより新鮮でよい。午後長崎へ行くまで時間があるのだが、私が大村に泊まった理由はただ『行ったことがない』だと自分で思っていた。駅には観光案内所はなく、ただ地図を眺めた。すると大村氏の居城、玖島城跡があった。更には楠本正隆邸という文字まで見えて、なぜここに来たのがその理由が分かってきた。

朝の商店街は完全に閉まっていたが、これからどれだけの店がシャッターを上げるのだろうか。『砂糖文化を広めた長崎 シュガーロード』などの説明書きが見える。大村宿の本陣跡もある。大村市役所を通り過ぎると陸上の廣中璃梨佳の名前が大きく掲げられていた。その先大村湾を背にして、玖島城跡があった。

公園から登り始めると、第1次大戦中の青島攻略戦で亡くなった佐藤少佐の碑が建っていた。これまで戦争に関する様々な石碑を見てきたが、第1次大戦のものは初めてで、貴重な歴史を学ばせてもらった。勿論近くには戊辰戦争の碑もあり、北伐戦に参加した少年鼓手の像が目を惹いた。本丸跡には大村神社があり、その向こうには大村喜前(キリシタン大名大村忠純長男)石碑と純煕(最後の藩主)の像がある。周囲にはまだ石垣も残っており、城のイメージがある。

そこから少し歩いて行くと武家屋敷街がある。その中に楠本正隆屋敷があった。楠本を知ったのは、明治初めに彼が新潟県知事となり、長岡の梅浦精一(多田元吉と一緒にインド紅茶視察に行き、渋沢栄一に請われて東京商会会議所事務局長を務めた人物)を中央に引っ張った史実からであった。屋敷は意外と広く、庭がきれいだった。

この屋敷の展示を見て、大村藩でも幕末様々な動きがあり、楠本のそれに関わって維新を迎えた経緯が分かる。更に東京府知事から最後は衆議院議長にまでなっているから只者ではない。ただ幕末を中心に彼の資料はあまりないという。討幕運動は紙に残せるような内容ではないということか。大村藩から医学の長与専斎などが出ていることを知る。

福岡、長崎茶旅2022(4)奇跡の矢部村、そして平戸へ

昼前、矢部村へ行く途中、茶寮千代乃園に寄った。お店を開いている茶農家のHさんとOさんは知り合いということで行ったが、私もイベントでお会いしていた。茶桜ご飯のだし茶漬けを頂くと、炊き込みご飯のおにぎりが浮かんでいて、何ともうまい。デザートのケーキも甘さ控えめで又うまい。そして何より川沿いの景色がとても良い。勿論お茶はおいしい。これは極楽だ。

午後は矢部村の川口米吉翁のお孫さんを訪ねた。明治30年代、川口翁は近隣や佐賀で紅茶製造法を教えていたという。家には川口翁が90歳近くで作ったという60年前の紅茶が残っていた。そして先日作ったという紅茶を飲ませて頂いた。家にある資料をみせてもらうと、何と川口翁は可徳乾三の弟子から袋踏法を習ったといい、実はその製法は今でも孫に引き継がれていた。これはもう本当に奇跡の発見であり、しかもその踏み方の華麗なステップを見せて頂き、大感激だった。また星光社の神田清吾からも製造法を習得したとあり、何とも興味深い人物だ。

それから旧校舎を利用した川口米吉資料館を訪ねる。Oさんのお知り合いが関わっており、色々と説明してくれた。ここの小学校の卒業生には、数年前に訪問したKさん兄弟なども含まれていた。何だか古い校舎が上手く使われていて、思わず展示に見入ってしまった。それにしても矢部村の紅茶の歴史、何とかもっと深く分からないだろうか。

帰る途中、木屋のお寺に寄り道する。この辺でも昔は紅茶作りが行われていたと聞いたからだ。光善寺というお寺へ行くとちょうど人がいたので聞いてみると、『昔茶畑があったとは聞いているが』という感じで、今見ても茶畑はない。ただよく見ると横に南木屋共同茶工場と書かれ建物があり、製茶が行われていることは分かる。

そこから佐賀駅前まで行く。今晩は佐賀に泊まり、明日平戸へ向かう。いつもの駅前ホテルを予約しようとしたら、すごく高い値段で驚いた。それでも仕方なく予約したのだが、何と喫煙部屋が予約されていた。満室で替えられないという。予約サイトを見ると実に曖昧な表現で驚く。次回からは気を付けよう。料金が高い理由は周辺ホテルがコロナ隔離に指定され、そこに需要が伸びてきたので、部屋が足りなくなっているらしい。夕飯はなぜかカツカレーを食べて早く休む。

6月17日(金)平戸へ 

翌朝Oさんの車で平戸へ向かった。一昨年長崎へ行った時、平戸へも行きたいと思ったが、意外に遠くて行けなかった。佐賀からも車で2時間ほどかかってようやくお城が見えてきた。その昔交易で栄えたとは思えないほど、九州の外れにあることを実感する。

駐車場に車を停めて、観光案内所で地図を貰う。ついでにあご出しちゃんぽんが食べられる場所を聞く。目の前に有名なお店があるが、コロナ禍でいつ開いているかは分からないという。まず旧オランダ商館の方へ歩いて行く。1609年平戸に2隻のオランダ船が来航し、1641年の出島へ移転するまでの短い期間、ここが貿易拠点だった。復元された洋館は博物館となり、数々の展示品を見ることが出来る。だが残念ながら茶に関連する資料は見当たらない。

オランダ塀から少し小山を登る。この辺りに400年前のオランダ商館は立っていたらしい。そのまま登り、ザビエル記念碑を探す。ザビエルは山口にも来たが平戸にも来ている。更に上ると何と三浦按針の墓(発掘でその可能性が出ている墓)があった。ウイリアムアダムスは漂流して大分に辿り着き、その後徳川家康に仕えた数奇なイギリス人。三浦に領地をもらったからそこで亡くなったとばかり思っていたら、実は晩年帰国を夢見て平戸に来ており、ここで亡くなっていた。

少し下っていくと、松浦資料館があった。松浦党は鎌倉時代から海賊のイメージで名が知られているが、実際はどうだったろうか。資料館はお屋敷に作られており、その古めかしさが良い。松浦と中国の交流などがもっと展示されているかと思っていたが、あまりなくて残念。ここで以前大分の旅をご一緒したSさんが登場して驚く。ちょうど長崎に用事があり、急遽参加したらしい。

昼ご飯はOさんが『あごちゃんぽん』というので、その店に行ってみた。あご出汁が抜群に美味く、タンメンのような野菜炒めがドカンと載っている。するすると胃に収まる。だが何しろ量が多くて食べきるのに苦戦するほど。味がいいのでまた平戸に来たら食べたい。

福岡、長崎茶旅2022(3)八女で紅茶の歴史を

6月15日(水)三潴駅へ 

いよいよ博多を離れ、今回の主目的である八女を目指す。今回も茶旅に連れて行ってくれるOさんとは、8年前ここで出会った。待ち合わせ場所は西鉄三潴駅。昨日大宰府へ行った同じ路線を走っていくので気が楽だ。特急に40分ほど乗り、大善寺で乗り換え、三潴駅に着く。何とも小さな駅だが、三潴という名は明治初期、僅か5年間だけ三潴県という県名として見える。そして明所初期の紅茶製造の場として、この三潴が歴史に登場しているのだ。

Oさんと合流して、まず向かったのは黒木。酒屋だった旧松木家住宅がまちなみ交流館となっている。広い土間と立派な梁を持つ住宅。この辺に明治後期に紅茶試験場が建てられたが、すぐに緑茶伝習所に代わったとある。裏には矢部川が流れ、川沿いにおしゃれな病院があったが、あのあたりだろうか。

木屋で江戸時代からの庄屋だったというM家を訪ねた。今も庄屋さんの家という風情を残しており、庭には簡易のお白州が開かれた際の敷石がそのまま置かれている。この家には明治期、県の物産品評会で紅茶部門3等に入賞した賞状が残されている。ただ現在お住まいの方々も、『紅茶製造』については何も聞いておらず、これが短期に終わったことを示している。

八女市役所黒木支所に聞けば何かわかるかも、ということで、訪ねてみる。だが役所が把握している黒木の紅茶作りの歴史は限られており、特に我々が追い求めている明治初期紅茶を輸出した星光社については、分からないという。それでも色々とご尽力を頂き、ついにその方面に詳しい方を紹介してもらった。何とも有難い。昼は美味しい蕎麦を食べて英気を養う。

午後星野へ行く。8年前まさにOさんが最初に連れてきてくれた場所、そこに星光社の茶工場があったというのは驚きだ。その時訪ねたお茶屋さんは既に廃業してしまっていたが、何と偶然にもそこでUさんとばったり再会した。工場は星野川のすぐ横だったと分かる。数年前の水害で、この付近も大変な被害があったそうだ。

それから紹介された専門家の家を訪ねた。さすがに郷土史に非常に詳しく、星光社についても相当調べておられ、蚊に刺されながら、かなりの情報を入手した。星光社のメンバーは広い地域から集まっており、八女出身者ばかりではないことなども分かり、さらに調査を困難にはした。先方にも可徳乾三のことなど、こちらの情報を提供した。

八女市内に戻り、予約した宿まで送ってもらった。驚いたことにこの宿、『コロナ感染者の宿泊は固くお断り』として上で、『コロナ陽性が判明した場合、消毒費用などを別途請求』と書いている。ここまで厳しい規定をこれまで見たことはなく、自分が感染した場合はどうなるのか、不安を覚えた。

夕飯を探しに外へ出た。近くには古い木造住宅や江戸から続く工場などもある。ただ食事をするところが意外となく、最後はラーメン屋に飛び込んで済ませた。留学生かなと思える店員が一生懸命働いていた。夕日が落ちていき、今日一日の成果を思いながら宿に戻る。

6月16日(木)八女許斐園

宿で朝食を食べたがロクなものはなかった。食べている人はほとんどいないが、食券回収箱には券が積み上がっている。なんかの作業する人々が泊り、朝早く出ていたのだろう。

本日は江戸時代から続く九州最古の茶商許斐園を訪ねた。さすがに店舗自体が歴史であり、文化財であった。店主の案内で作業場、そして2階の座敷を見学する。ロシア語の蘭字が張られた茶箱が目を惹く。2階では様々な客が往来したらしい。江戸後期からここで文人煎茶なども行われ、あの田能村竹田らも集ったらしい。この地は九州交通の要所だったということだ。

幕末にはグラバーやお慶がこの地から八女茶の購入、許斐園は輸出製茶問屋として発展する。輸出が不振になると国内に回帰し、九代許斐久吉は玉露の生産、品質向上に尽力し、また『八女茶』の名称に統一してブランド化を図った。いずれにしても200年近い歴史を有するお茶屋は、日本にはそんなにない。そしてその歴史が分かるとなると更に少なく貴重だ。

もう少し質問を繰り出そうしていると、そこに地元ラジオの取材がやってきた。Oさんもラジオに出演しているので、その辺で話が盛り上がり、そのまま退散することとなった。また質問を纏めてリベンジしたいと思う。紅茶についても次回聞いてみることにしたい。

そこから八女の図書館へ向かった。やはり地元には資料があるのではと探してみると、いくつかあった。私とOさんは二人で来たので、二人分のコピーを取りたいと願い出たが、『規則で1枚まで』と頑強に言われる。同じ一人が2枚取るのは問題でも、欲しい人が二人きちんとやってきているのに、1枚しか取らせないという理屈には納得しかねるところがある。仕方なく午後コンビニでもう一枚を取るという無駄な作業を行った。

福岡、長崎茶旅2022(2)謝国明、大宰府

雨を気にしながら、福岡城跡を登っていく。建物はほとんど残っていないが、石垣などは見て取れる。意外と坂がきつく、足元も滑りやすかった。天守台の見晴らしは素晴らしく、昔はここから港を眺めていたに違いない。下に降りると花菖蒲が咲いていた。更にNHK前まで来ると、廣田弘毅像が建っており、広くて、景観の良い大濠公園に続いている。

疲れたので地下鉄に乗り、博多駅へ行く。観光案内所を探したが見つからず(総合案内所で対応。パンフ・地図が置かれるのみ)。もらった地図を見ながら、駅周辺を歩いてみることにした。まず目についたのが、謝国明の墓。大きな樹木が立っており、その中に墓や記念碑が建っている。謝国明は大河ドラマなどにも登場したので知ってはいるが、特に聖一国師のスポンサーだったことに着目した。承天寺は謝の支援により国師が開山した。

そうなると承天寺にも行きたくなる。数年前に訪れた時と同じ『饂飩蕎麦発祥之地』『御饅頭所』『満田彌三右衛門の碑』の3つの石碑が建っている。国師一行が大陸より饂飩、饅頭、蕎麦、織物などを持ち帰ったことが記されている。ここに謝国明がどのようにかかわったのかは興味深い。

更に歩くと妙楽寺がある。戦国末期、博多の豪商茶人に神谷宗湛がいるが、彼の立派な石の墓がここにあった。その横には円覚寺が見える。ここは茶道の伝書『南方録』が伝わったとある。そして入宋を目指した聖一国師が最初に滞在した寺ともある。門は固く閉ざされており、中を窺うことはできない。ついでに栄西の聖福寺も再訪した。静かな境内は好ましいが、廣田弘毅の墓は何度探しても見付からない?

雨が強く振り出し、疲れも出てきたので、宿に逃げ帰り、風呂に入って休息する。夜はY夫妻と食事の予定があり、バスに乗って向かう。焼鳥屋さんと言われたが、店の位置が良く分からない。何とか辿り着くと久しぶりのカウンター席。質の高い焼き鳥をお任せで堪能する。鶏肉は本当に美味い。店は満員で酒が入ると皆大声で話し、コロナも何も関係ない。

できるだけ茶の話をしないように心掛けたが、やはり無理だった。何だか自分の視野が極めて狭くなっており、情けない。それでも10時過ぎまで楽しくお話して別れる。帰りのバスは乗客がほぼいない静けさ。まるで宴の後。150円で博多駅まで行き、そこから歩いてとぼとぼ帰る。

6月14日(火)大宰府へ 

朝から雨。宿の前のバス停から西鉄天神へ。そこから急行に乗り、途中二日市で乗り換えると大宰府に着く。何と言っても子供の頃、歴史の教科書で見て以来、一度は行かねばと思っていた場所についに来た。かなりのワクワク感で降り立った。

雨の天満宮はきれいだったが、とても歩きにくい。如水の井戸などがあり、いかにも福岡らしい。雨を避けて九州国立博物館に逃げ込む。常設展をさっと見たが、規模は思っていたほど大きくはない。係員はとても親切で色々と説明してくれた。本当はもっとゆっくり大宰府周辺も含めて廻るつもりで来たのだが、何だか雨に遮られて、その気力が萎え、電車に乗って戻ってしまった。

天神に着くと、雨は上がっていたので、また歩き出す。細い路地に『廣田弘毅生誕地』があった。その先のバス停からバスに乗る。目指すは福岡市立総合図書館。バスは湾外沿いの高架を走るので、景色が良い。そして福岡タワーがそそり立つ。図書館で昨日興味を持った謝国明などの資料を探す。しかし実はあまり資料はない。困った。

またバスに乗って宿の近所まで戻る。商店街にウエストがあったので、ひょいと入ってみた。数年ぶりにごぼう天うどんにありつく。これも国師のお導きか。相変わらず麺はフニャフニャだが、汁とのバランスが良い。宿に帰って、無料のコーヒーなどを飲みながら休息する。

そして夜8時半頃、外出する。こんな時間に一人で外へ出ることは稀だが、今晩は目的があった。その場所に近づくと、出勤途上と思われる若い女性の一団に出会い、また場違い感を募らせる。その店は夜7時半開店の蕎麦屋。知らなければ通り過ぎてしまうほどさりげなく、飲み屋街に存在していた。そして蕎麦屋なのに客のほとんどがかつ丼を注文するというので行ってみたわけだ。

午後9時前、客はそこそこ入っている。見ていると確かにとほぼ全員がかつ丼を食べており(一人だけカツカレー)、新しい客もかつ丼をオーダーした。私もオーダーした。やってくるとゆるふわたまごで閉じたカツが載っていて、いい感じだ。それに沢庵が二切。これで1100円が安いか高いか良く分からないが、博多の夜、〆はラーメンと思い込んでいると、その奥はそうとうに深そうだった。

福岡、長崎茶旅2022(1)筥崎宮と鴻臚館

《福岡、長崎茶旅2022》  2022年6月12₋20日

山口から電車で九州に渡り、博多、八女、平戸、長崎と巡った。茶旅が主ではあるが、それ以外の歴史旅もかなり充実してきて面白い。

6月12日(日)下関から博多へ

朝下関駅から小倉行に乗る。小倉で乗り換え博多へ。日曜日だからだろう、電車はかなり混んでいる。コロナ禍ももう終わったかのように感じられる。スペースワールドって、もうないんだっけ?この電車は快速なので駅をいくつも飛ばして、走っていく。博多に近づくと満員の混雑となった。

今回の宿は博多駅から歩いて10分以上かかった。意外と遠い宿を選択してしまったが、むしろ地下鉄などで簡単に行ける方が速いのだろうか。荷物を預けてすぐに中洲川端駅へ向かい、地下鉄で筥崎宮前へ。中洲川端は昨年も泊まったのに、全く方向感覚がなく、全てGoogleに頼り、フラフラ歩く。情けない。

何十回も博多に来ているのに初めて筥崎宮へ行く。ご縁がなかったのは不思議だ。筥崎宮は『はこざきぐう』と読むと思うのだが、地下鉄の駅名はなぜか『はこざきみやまえ』だった。筥崎宮は921年醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜されたとある。山門にはその文字が今もくっきりと見られる。また元寇防塁、蒙古軍船碇石などがあり、必勝祈願の八幡様ということだろうか。

だが今回ここへ来た目的は参拝ではなかった。その目的地は何と少し離れた駐車場にあるというので、行ってみる。途中茶道会館などが見られた。駐車場脇には、最近建てられた第七代台湾総督明石元二郎の顕彰碑があった。その横には李登輝さんのメッセージまで添えられている。明石といえば日露戦争の諜報活動が有名ではあるが、現役台湾総督で唯一亡くなった明石が故郷で認知されたような雰囲気である。

近くに県立図書館があるというので寄ってみる。何気なく星光社の資料を尋ねたのだが、係員の方がとても熱心に探してくれ、かなりの資料が集まった。そしてこの会社の本社が博多にあったのだが、何とその現在の位置を割り出してくれたのには驚いた。しかもその地図を見て、更に驚きが増した。

宿に戻ってまたスポーツ観戦。今回の旅は何だかテレビを見るのが一つのリズムになっている。そして夕方、Sさんが宿まで来てくれた。Sさんとは35年前、上海留学で一緒だったが、彼は大学院生、私は企業派遣生と立場も異なり、それほど親しく話したことはなかった。

だが4年前台湾でBさんを介して再会し、中国文学を専門としている彼の話が面白くて、こちらからまた連絡した。予想に違わず、いきなりタイのメーサローン話で盛り上がり、彼が非常に幅広い華人小説家を追っていることを知った。中国文学というと魯迅や老舎ばかりが目に付くが、現代文学、そして巷の作家たちにまで目を向けているのはすごい。おでんを食べながら、長い時間話を聞いて帰り難い思いだった。

6月13日(月)博多散歩

また朝ご飯を食べ過ぎた。すぐに散歩に出る。宿の近くには櫛田神社があった。博多総鎮守府、祇園山笠で有名な神社。今年は3年ぶりに山笠が行われるようで、昨日も練習の人が見られた。那珂川に架かる西中島橋までやってきた。ここは明治期、博多の中心街だったらしい。赤煉瓦文化館というレトロな建物がある。元は生保の支店だった。その横の菅原道真ゆかりの水鏡神社も古めかしい。

道を渡ると勝立寺という寺が見えた。これが目印。星光社の本社があった場所はこの寺の横であり、そこには現在日本銀行福岡支店がデーンと建っている。思わず中に入り、建物について聞いてみると、現在の位置に支店が移ったのは戦後の昭和25年。更に建物はその後建て替えていることが分かる。同時に戦前の事情については何も分からないらしい。それでも仕事中に対応してくれただけでもありがたい。少なくとも星光社は博多の一等地に事務所を構えていた期待の星だっただろうことが分かった。

小雨が降ってはいたが、涼しいので鴻臚館跡展示館まで歩いて行ってしまった。ここは福岡城跡地であり、まずは福岡城むかし探訪館に入って、その歴史を見る。名城といわれた福岡城、その城を築いた黒田官兵衛・長政父子などについての展示がある。雨は止んでおり、広い敷地を歩いて鴻臚館跡へ。2つとも入場無料で有難い。

中に入ると、発掘当時の遺構や出土品を見ることが出来る。新羅人、唐人との往来における接待所であった鴻臚館の役割などを学ぶ。平安初期までここは筑紫館と呼ばれていたこと、そして1047年の火災による焼失で歴史から消失したことなど、これまであまり考えなかった歴史を知る。この辺りの古代史は資料が乏しく、不明な点も多いが、更に学んでみたい領域だ。

山口歴史旅2022(6)いざ巌流島へ

所々に金子みすゞが見えてくる。公園には金子みすゞ碑が作られ、勤めていた書店跡までプレートが嵌っていた。みすゞの小径などという文字も見える。下関は金子みすゞを観光で売り出している。長門から下関に移り住み、ここで詩の才能を開花させたからだろうか。何と言っても2011年の東日本大震災の時のテレビコマーシャルが非常に印象に残っており、そのお陰でこのようなことになっていると思われる。その先に国分寺と書かれた寺があったが、あの奈良時代の国分寺とは無縁のようだった。

旧英国領事館の建物に入ってみる。1906年に建てられたもので、如何にも英国という感じがした。そしてついに巌流島へ向かう時間が来た。昨日門司港へ行ってしまったので、単純に巌流島往復で900円。小型フェリーで僅か10分、小雨のため乗客は僅か4人。それでも何だか気持ちは高揚する。

意外と大きな島だった。大正時代に埋め立てが行われたらしい。昭和48年に無人島になったというが、現在は観光地として草がきれいに生えている。少し歩くと関門橋をバックに武蔵と小次郎の像が置かれ、撮影スポットになっている。武蔵が渡ったのと同じような小舟が展示されている。残念ながらこの島は一周することができない。対岸に見える三菱重工の工場、そう三菱がここの一部を所有しているらしい。

それにしてもなぜ巌流島というのだろうか。古来負けた方の名前を付ける戦場などあるのだろうか。一体なぜこの島で、何のために決闘が行われたのか。1612年に行われたのは本当なのだろうか。全てが謎に満ちており、吉川英治だけが独り歩きしているように思える。しかし島に渡ってみても何一つ答えてはくれない。1時間後のフェリーで引き揚げるしかなかった。

唐戸商店街を歩く。その先には田中絹代文化館(新しい)や旧宮崎商店があった。そこからフェリー乗り場方面へ戻ると、何やら不思議な建物が見えてきた。洋館風なのに、屋上に純日本家屋の屋根が見える。ここは何だろうと急ぎ訪ねてみると、秋田商会ビルだった。大正期に建てられた洋館で、屋上に素晴らしい庭園と日本家屋が現存している、世界的にも珍しい建物であった。

入っていくと係員の人が一生懸命説明してくれ、好感が持てる。1階の展示で秋田商会のあらましを掴む。秋田寅之助という人が日清戦争後海運業などで財を成し、台湾や朝鮮、満州などに拠点を持って、木材などを中心に貿易を行っていたらしい。このような地方の会社、台湾にも色々と進出していたであろうと想像され、興味が沸く。

2,3階には畳部屋の大広間がある。部屋数もすごく多い。洋館に畳の大広間、このギャップが何となく大正を感じさせる。ここで大宴会が開かれたであろうことは想像に難くない。洋間もごく一部あるようだが、開放されていなかったので、余計に畳の印象が強くなる。屋上は現在開放されておらず、日本庭園を見ることは残念ながらできなかった。

雨は強く降らなかったので、そのまま散歩を続けた。駅の近くに大歳神社があった。ここは源義経が先勝祈願した場所、そして高杉晋作が奇兵隊を結成、旗揚げの軍旗を奉納した場所と説明されているが、階段があまりに急激で、登るのは遠慮した。下関はやはり源平と幕末が交錯する町なのだ。ついでに奇兵隊結成の地、白石正一郎邸跡にも行ってみる。やはり記念碑が建っているだけだったが、白石については司馬遼太郎情報以外にも、もっと知りたい。

さすがに疲れたので一度宿に戻り休む。夜はいかにも町の定食屋という店に入り、鯨汁定食を食べた。焼サバと大量の鯨汁で900円。汁がとてもいい味を出していて、すっかり飲み干し大満足。近所の常連さんが一人のみ、数人のみをしており、コロナのことなど忘れてしまうようなレトロな雰囲気が漂う。

山口歴史旅2022(5)門司港を行く

門司側で地上に上がり、少し歩くと海峡沿いに和布刈(めかり)神社があり、何やら人が集まっていたが、何気なく通り過ぎてしまった。実はこの神社の歴史はかなり古く、1800年ほど前、神功皇后が朝鮮征伐に乗り出し、その勝利により創建されたとある。まさに九州最北端の神社である。往時は相当広い敷地であったと想像される。

それからもらった地図を頼りに、海峡沿いを歩き、下関側を眺め、門司関址の碑がある公園を抜ける。ここから電車も走っているようだが、構わずに歩く。ここに和布刈神社の大きな鳥居があったには驚く。そこから町の中心に向かい、古い建物などを巡った。酒屋さん、NTT、門司税関などが続々と現れて楽しい。大連友好会館はその形が美しい。海峡から吹く風が心地よい。商船三井の立派な建物があったが、三井倶楽部は全面工事中で入れなかった。

商船三井ビルの斜め向かいにこじんまりしたビルが建っている。ここがホームリンガー商会。今も船舶代理業務をやっている現役のビル、現役の会社。先ほど藤原義江記念館で『リンガー商会なら何か資料があるかも』と言われたので、思い切って入って聞いてみた。社員の方も突然の訪問に驚いて『ここは観光地ではないので』と言いながら、色々と探してくれたが、結局資料はなかった。観光地ではないのだが、観光地図に載っているため、時々間違えて入ってくる人がいるようだ。

更に歩いて行くと、大連航路上屋があった。関門海峡ミュージアムの隣だ。戦前ここから大連に向かう定期船が出ていた。門司港出征の碑が港と向かい合っていた。そしてその横には出征軍馬の水飲み場もあった。日露戦争から第2次大戦まで、日本全国から集められた馬たちが、ここで最後の水を飲み、戦地に送られ、2度と帰ってこなかったという。その数は100万頭と書かれている。このような歴史はほぼ語られることがないが、全国に出征馬の碑があるのを思い出す。

下関に帰るには、フェリーか鉄道がという選択肢があった。折角なのでJR門司港駅から電車に乗ってみた。この駅舎もなかなか味がある。下関駅までならSuicaも使える。20分に一本出ているので便利だ。門司駅までは博多方面へ行く電車に乗る。かなり長い車両編成で驚く。門司での乗り換えは少し間があく。そして電車はまた何気なく九州から本州へ渡り、下関駅に着く。3駅、280円。下関駅では駅うどんといなりを食べてみたが、味が薄く感じられた。

駅前から閉まってみる店が多い商店街を通り抜け、高杉晋作終焉の地に行ってみた。今は記念碑があるだけ。高杉は27歳でこの世を去っている。何だか引かれるようにそこから坂道を登り、更に丘をダラダラと登っていき、日和山公園までやってきた。ここに建てられている高杉晋作像は何ともでかい。ここからは下関が一望できる。

疲れ果てて宿に戻り、大浴場にゆっくりと浸かる。そして今日もテレビで日本陸上選手権を見る。更にはサッカーキリンカップ、日本対ガーナも観たが、なんだかなという試合だった。そしてまた夜泣きラーメンで一日を終える。

6月11日(土)巌流島へ

本日は雨の予報。傘をさして昨日と違う道を歩いて行く。光明寺という寺が気になり、石段を登ったが門は閉ざされていた。説明によれば『久坂玄瑞が結成した有志隊が寄宿。1863年玄瑞は身分が様々な約50名からなる同士を光明寺に集め「光明寺党」を結成。彼らは海峡を通過する外国船に最初の砲撃を行い、長州藩の攘夷決行の火蓋を切って落とした。後にこの光明寺党は、高杉晋作の結成する奇兵隊の母体となる』とある。何とも重要ではないか。この道は『晋作通り』と名付けられ、胸像も置かれている。

日銀下関支店は近代的な立派な建物だった。その向こうの山口銀行旧本店のレトロな雰囲気とは対照的。そしてこの日銀西部支店(大阪以西の最初の支店)初代支店長があの高橋是清だった。是清を記念するものが最近作られたと聞いたが、それは現在の明治安田生命ビルにあった。ここが元々の日銀だったということだ。是清の数奇な歴史は、常に興味深い。