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静岡茶旅2023(1)相良へ

《静岡茶旅2023》  2023年4月4₋6日

ソウルから戻り、台湾へ行くまでの間にやるべきことがあった。静岡へ行かなければならない。何だかちょっと疲れ気味だが、そこは何とか張り切って行ってみる。茶歴史の宝庫、静岡!今回は何が出て来るのだろうか。楽しみだ。

4月4日(火)静岡へ

疲れていたせいだろうか。何だかすごく早く起きた。起きたらすぐに出掛けた。朝5時前に出て、小田急+JRルートで行くと午前9時台には静岡駅に着くことは分かっていた。これなら新宿発のバスよりも先着する。今回は駅から線路沿いに新しくできた宿を予約してあるので、そこまで行き、荷物を預けて駅前まで戻る。

そしてバスに乗る。今日は初めて相良へ行ってみる。バスの乗車時間は約1時間。20分に一本程度出ている静鉄バスのメインラインだ。それでも一本早く乗りたくて早足になるのは何ともおかしい。バスを降りると、小堤山公園を目指す。ここに今日のお目当て、山本平三郎の胸像があるという。

山本平三郎は相良物産の社長であり、地域にも大いに貢献した人物。茶業についても熱心で、『深蒸しの父』と称されることもある。地域の人々と茶業発展のために尽くしており、その結果この胸像がある。尚彼の弟が私の常に意識している山本亮台北帝国大学教授だということは付け加える必要がある。紅茶の香りを研究した山本教授とその実家はどのような関係にあったのだろうか。そういえば平三郎は東京農大を出ているが、戦後弟が農大教授になったのも関連があるのだろうか。

公園内はサクラが満開で美しい。胸像の向こうには10を超える記念碑が建っている。その中には森町の村松吉平のものもある。吉平は明治初期の茶業者だが、その後相良油田にも関わったことで、こちらに碑が出来たものと思われる。その他郷土の偉人や天皇関連などが一区画にまとまっているのは珍しい。

この公園の脇にトンネルがある。小堤山トンネルと呼ばれ、1970年に廃線となった静岡鉄道駿遠線がここを通っていたという。1923年頃に造られたかなり古いトンネルであり、既に無くなってしまった鉄道を知る生き証人と書かれているのが面白い。100年前のトンネルを潜ってみる。

相良物産は様々な事業を行っており、今も茶業部がある。会社の前に行ってみると、木造建築のいい感じのお店でちゃんとお茶を売っている。それから腹が減ったので定食屋で食事をして、そのまま海岸へ行ってしばしボーっとしていた。明治期は相良港から茶葉が運び出されたというが、今は実に静かだった。

帰りもまたバスに乗る。本数が多いバスに乗るのは何とも気が楽でよい。何とこのバス路線、直接渋谷に行くバスもあるという。鉄道は通っていないが、人口はそれなりに居るということか。1時間で静岡駅まで戻ったが、そのまま新静岡まで乗って行き、最近できた静岡市歴史博物館へ行ってみる。お城のところにきれいな建物が建っていたが、何故かエネルギー切れを起こし、何も見ずに宿へ戻る。

宿は出来たばかりのオープンセールで安く泊まれたが、大浴場もあり、部屋のベッドも良かった。これから静岡ではこのチェーンを使ってみようか。実はバンコクにもあると聞いていたので、1度泊まろうと思い、今回実現したのだ。サービスもいくつかの宿のいい所を取っているので良い。

静岡茶旅2022(3)磐田 赤松茶園を調べる

12月22日(木)掛川で

翌朝はゆっくり起きて、掛川城の周辺を散歩する。前回見付けていた石碑をもう一度確認する。山田治郎蔵とはどんな人物か。興味が更に沸く。そして報徳会に行ってみる。堂々とした門を入り、立派な木造建築を眺める。さて、見学しようかと踏み出すと、何と本日はイベントがあり、見学できないとある。

仕方なく、事務所へ行く。そこで『報徳会と茶』に関する資料などはないかと聞くと、親切にも冊子をくれた。更に昨日会ったMさんのことを思い出し、話に乗せてみると、更に色々と対応してくれる。実はここの社長は先日訪ねた鷲山医院の一族の方と聞いたが、あいにく不在で会えなかった。吉岡弥生と松本亀次郎について、尋ねられれば良かったが、何しろこちらが突然お邪魔したので、何ともし難い。

またお城は眺めるだけにして、駅へ向かう。前回同様コメダでモーニングでも食べて、お土産を買って、などと考えていたら、何と停電とのことで、駅の店は閉まっていた。復旧の目途も立たないという。やむを得ず、電車に乗り、磐田へ行く。前回は何と磐田駅に着いたものの、どこへ行くのかを忘れるという失態を演じた。今日はしっかり狙いが定まっている。

磐田で

駅前からバスに乗って図書館へ向かう。ところがこのバス、発車する前に運転手が威嚇的?な口調で『バスに乗り慣れていない人は早めに運賃を用意して。お釣りは出ないし、停車してからの両替は迷惑』といった感じでアナウンス。そこで出発前に『図書館まではいくらですか?』と確認したところ、『いや、それは?まあ、150円ぐらい用意しておいて』と情けない返事。勿論Suicaは使えず、不便この上ない。

15分ぐらい乗って図書館に到着する。ここには赤松則良ら赤松家の蔵書が寄贈された赤松文庫があると聞き、早々見に行ったが、蔵書を見ても、茶畑のことが分かるわけではない。そこで郷土史などの資料を探すと、かなり赤松家について調べられたものがあり、早々にコピーを取る。更に図書館の人に『赤松家の茶園の場所』などを聞いてみると、専門の方に問い合わせてくれ、何と午後その方がここへ来るので直接話が聞ける、というではないか。折角の機会なので午後まで待つことにした。

すると係の人が『この辺、ランチを食べる場所が無くて。一か所あるので聞いてみましょう』とわざわざ確認の電話をしてくれた。それではと、そこへ昼を食べに行く。結構しっかりしたお店でちょっとひるんだが、料亭と一般に分かれているようで、一般の方に入ってみた。中は天井が高い、木造で雰囲気が良い。しゃも鍋が美味しいというので、それを頼み、更に天ぷらまで注文してしまった。まあ、年の暮れ、一人忘年会だ。

しゃも鍋は赤みそ仕立ててで、非常に濃厚。そして何よりしゃも肉に歯ごたえがあり絶妙に美味い。更に揚げたての天ぷらを食えば最高だ。ふと見るとこの建物の外に何やら胸像が見える。何とここは赤松邸の敷地内に作られていたのだ。隣の旧赤松家の見学に移る。まずは門が立派。城の城壁のような煉瓦造りだ。

中に入ると先ほど見えた赤松則良の胸像がある。日本造船技術の先駆者と書かれているが、その説明書きの中にも、磐田原の茶園開拓について語られている。土蔵に入ると赤松家の詳細な家系図や資料が展示されていて興味深い。ここは戦後初代磐田市長になった則良の孫が市に寄贈したらしい。また記念館では係の方に案内して頂き、赤松茶園などの説明を見る。

そこから図書館に戻り、赤松家について研究されているKさんにお目に掛かり、赤松茶園の詳しい場所などをご教示頂いた。赤松がなぜここに茶園を作り、その後どうなったのかなど、郷土史ではかなり鮮明に調べられていてとても有難い。ただそれでも最近は磐田の方でも赤松を知る人は少なくなっているという。

磐田駅まで戻り、JRで掛川へ行く。ここから新幹線に乗って帰ろうと考えていたが、駅の停電が一部解消されており、土産物屋が1つ開いていたので、そこで買い物をする。ただ私が前回気に入った森町の蒸し栗羊羹が買えなかったのは、何とも心残りだった。それを引きずってしまったのか、新幹線に乗る所をまた在来線ホームへ行き、ちょうど来た興津行に乗ってしまった。

車内は混んでいたが、1席空いていたので座ってボーっとしていた。気が付くと日が暮れた興津駅。後続の熱海行まで、またボーっとしている。熱海まで来ると腹が減り、違うホームにある立ち食いそば屋へ駆け込む。かなり冷えてきたので、カレーうどんを食べると、何だかすっきりした。そして小田原で、急にロマンスカーに乗りたくなり、切符を購入する。だがなぜか町田までしか買わず、初の夢のロマンスカーは僅か40分で終了した。同時に今年の旅も終わりを告げた。

静岡茶旅2022(2)森町と台湾の繋がり

12月21日(水)森町へ

朝はゆっくり目覚め、静鉄で県立図書館へ向かう。先月も行ったばかりだが、やはりここで資料を漁るのが一番早いと感じる。今回は前回とは異なる資料を入手して満足。時間になり、宿へ戻り、荷物を取りだして駅へ。また腹が減ったので、ホームでそばを食べる。時間がない時、ちょっとお腹が空いた時、何とも便利な食べ物だ。

また掛川駅へ行く。先月のホテルがあんまりだったので、今回は馴染んだ宿を予約した。ただ駅から少し離れているので、荷物を持っていくのが大変。それでも掛川付近のよい散歩になり、古い建物などを見ながら楽しむ。山内一豊は掛川城主だった。チェンマイのコーヒーを出す店もあったが、今日は休みのようだった。

掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って森町へ向かう。森町に行くのは2017年以来6年ぶりだろうか。前回は掛川からでなく、豊橋に近い新所原駅から乗って、1両列車にずっと揺られたのが懐かしい。ちょうどあの年は大河ドラマ『あんな城主直虎』で、沿線が盛り上がっていたように思う。今回は掛川から約30分のみ、料金480円。

相変わらず1両列車、1時間に一本程度運行されている。乗客も多くはない。遠州森という駅で降りず、次の森町病院前で下車。ここは前回も来た役場があるが、今回はその向こうにある立派な建物、森町文化会館を訪ねた。ここで館長のMさんと、お知り合いのYさんが待っていてくれた。

Mさんとは、藤江勝太郎のご縁で知り合った。今日もその後の藤江研究の成果をご披露頂き(Mさんは各所で藤江について講演している)、その進歩に感激した。台湾製茶試験場を作り、初代場長となった藤江は森町の名家出身。森町と台湾の繋がりは尋常ではなく、台湾製糖初代社長鈴木藤三郎もここの出であり、台湾の三大輸出品の内2つのトップは森町出身だから、これは驚くしかない。台湾製糖との交流は以前より行われていたが、最近は台湾茶業改良場などとの交流も始まっているようで、何とも嬉しい。

その後Mさんの車で歴史民俗資料館に案内してもらう。ここは以前も来ており、初めて藤江の顔写真と対面した場所でよく覚えている。見てみると展示品が増えている。何と藤江が森町に設立した日本烏龍紅茶株式会社で使われた製茶道具や蘭字まで揃えられており、驚く。Mさんたちの努力には敬意を表したい。また鈴木藤三郎と藤江の交わりも何となく見えてきて面白い。

更に車で案内されたのは、前回私を案内してくれたKさんの家。Kさんは当時役場職員であったが、郷土史研究家でもあり、かなり深く歴史を調査している。今回も地元の茶商などについて教えを乞う。Kさんとお別れし、最後に日本烏龍紅茶の茶工場があったと目される川沿いの場所まで連れて行ってもらった。今や何も痕跡はないが、ここまで分かってくるとワクワクしてくる。

文化館に戻り、Mさんとお別れした。Yさんが『もう少し案内しましょう』と言ってくれ、今度はYさんの車で庵山へ向かった。ここには村松吉平の碑がある。吉平は明治初期横浜の茶貿易で活躍した森町出身の茶商。地元に紅茶製造所をいち早く作ったほか、相良油田採掘事業に取り組むなど、興味深い人物である。

そしてもう一つ。浪曲『森の石松』と遠州森の茶の碑がある。これは昭和初期の不況下、森町の茶を売り込むために、『遠州森町良い茶の出処』と人気絶頂の浪曲師広沢虎造に謳わせた名曲を記念している。更にその横には形の良い観音様がある。何と鈴木藤三郎が作らせた4体の内の1体がここにある。そしてもう1体は台湾製糖にある(残り東京の鈴木邸及び鎌倉別邸の2体は所在不明)というからすごい。こんなところにも日本と台湾の交流がさりげなくある。因みに藤三郎も明治初期は茶貿易に従事したことがあるらしい。

誠にありがたいことにYさんが掛川まで車で送ってくるという。既に周囲も暗くなっていたので、どこかで夕食でもと思い、思いついたのが先月久しぶりに訪ねた、さわやか、だった。今回は前回と別の店に行く。ちょうどタイミングが良かったのか、今日はほぼ待たずに席に着いた。

ハンバーグを食べながらお茶談義に花が咲く。Yさんも中国留学組であり、中国、台湾事情なども話題となる。何だかとても楽しくて、ついついデザートも頼む。ミカンとほうじ茶プリンを食べ、コーヒーを飲みながら、話はどんどん弾んでいく。かなり長居してしまい、気が付くと周囲にお客さんがいなくなっていた。

静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。

静岡歴史茶旅2022(4)袋井 松下コレクションと可睡斎

袋井駅まで行き、バスに乗る。このバスは現金のみ。小銭の用意が何とも面倒だ。しかもあいにくの雨。何とか浅羽支所に着く。週末は脇から入りエレベーターで3階の松下コレクションへ。すぐに松下先生が登場され、30分ほど懇談。先生は92歳とは思えないお元気さ。私がこの1年で立てた仮説に対して、ダメ出し連発でかなり参ってしまった。やはり単に頭を捻っただけでは分からないことが多い。

そこへ突然IJさんが登場して驚いた。しかし考えてみれば、今日は松下先生の講演がある日だから、いてもおかしくない。彼女も交えて更に話が弾む。更に松下コレクションの貴重な展示品を少し見て写真に収める。そうこうしている内に、時間になり、セミナー会場へ移動。途中に小学生が書いた『税の習字』が目を惹く。小学生の納税洗脳教育か。すごいな、日本。

松下先生のセミナー、お題は番茶。2週後に番茶大会も開かれるらしい。日本の番茶、もう一度見直して、整理した方が良いと常々感じているが、そういうムードが出てきた、ということなのだろうか。セミナーには知り合いが数人参加しており、先日のエコ茶会であった人もいた。やはり知りたい人はここまでやってくるようだ。

セミナー終了後、IJさんが『李鴻章関連の場所へ行かないか』と誘ってくれた。静岡と李鴻章、全く結び付かないので気になって行ってみる。T議員のご案内で、INさんも同行した。その場所は可睡斎。李鴻章と佐藤進ゆかりの寺と聞き、思わず佐藤進に反応したところ、T議員に『佐藤進を知っているのか』と逆に驚かれた。佐藤進は順天堂の三代目で、陸軍軍医総監、天皇の命で、暴漢に襲われた李鴻章の手当てをした。そこに活人剣の逸話が生まれ、ここ可睡斎に記念のモニュメントが作られた(可睡斎の僧侶と佐藤にご縁があったらしい)。

可睡斎は思ったより大きいお寺。聞けば曹洞宗でも相当格式が高い。先ほどの李鴻章、活人剣の逸話の他、家康ゆかりの寺としても知られるなど、その歴史を十分に感じさせる風格がある。中を見学させて頂くと、すごく広い。『日本一の東司』というのもあり、また善光寺を思わせる地下道?もある。何とキューバ出身の坊さんがいて驚く。

帰りもT議員に車で送ってもらう。議員の家に寄り、李鴻章関連の資料を頂戴する。活人剣モニュメント復活のため、募金活動を行い、わざわざ李鴻章の故郷安徽省、佐藤進の佐倉まで出向いて、彼らについて学んだというからすごい。郷土の歴史というのは、このような熱心な方に支えられて続いて行く。そして我々もそれを利用させて頂く。有難いことだ。

3人で掛川まで行く。もう夜なので夕飯を食べようとなり、駅前の居酒屋へ入る。私は酒を飲まないし、一人で居酒屋へ入る機会などなかったが、偶然入ったその店の焼き鳥は大きくてうまい。パイナップルサワーは自ら搾るという面白さ。結構新鮮な驚き。居酒屋飯は意外と野菜も取れて、定食屋より、よいかもしれないと思う。今度は一人で入ってみようか。

食べて飲んでいる間も、お茶の歴史や製法、品種などのお茶談義が続き、午後8時になってしまった。名残惜しいが私はこだま号に乗って東京へ帰る。涼しい風が何となく心地よい駅のホームだった。暇なので車内を見学していたら、変なスペースがあった。見れば『廃止された喫煙ルーム』だった。新幹線って、去年まで喫煙できたのか、すごいな、日本。さあ、これからワールドカップの連戦だ。気合を入れよう!

静岡歴史茶旅2022(3)なぜ行ったのかの磐田

バスに乗って掛川駅へ戻る途中、あの名店を見付けて思わず降りてしまった。静岡に来たらさわやかへ、とは以前より何度も聞いていた。今回は6年ぶりに、衝動的な出会い。時刻は土曜日の午後2時半、それでも5組待ちという超人気で、かなり驚く。さすがに帰り客が多くいて、そんなに待たずに入れたが、さすがさわやか、と感心しきり。ジューシーなげんこつハンバーグのセットは1260円で、十分満足した。

磐田

そこから歩いて15分で掛川駅へ到着する。何だか勢いが出て(明日の雨予報もあり)、そのまま電車に乗った。磐田までは4駅と近い。初めての磐田。駅を降りると階段にジュビロ磐田の応援が。清水と並び、来年は残念ながらJ2になったようで、こちらも駅前は実に静か。そして何とボケたことか『私は何で磐田に来たんだろう』とその目的を完全に忘れてしまって焦る。元々明日来る予定だったので、いきなり来ていきなり忘れた。そんなことってあるのだろうか。老いとの戦い、いや共生。

仕方なく、何も分からずに駅からまっすぐ歩き出す。1㎞ほど行くと、遠江国分寺跡という看板が見えた。今朝は駿河、夕方は遠江国分寺とは、なかなかすごい。静岡の広さを感じる。更に静岡県には伊豆国分寺もあったらしい。遠江国分寺は、現在鋭意発掘整理中のようで、かなりの規模を発掘し、整理していた。夕暮れ時に遺跡を眺めていると、何故か遠い昔、歴史学を勉強したいと思った自分が懐かしくなった。

道路の向かいにうっそうとした森があった。こちらも奈良時代創建の府八幡宮。かなりの格式が感じられる上、日がほぼ沈む頃のこと、何とも神妙な雰囲気が流れている。子供の頃なら肝試し会場かもしれない。そこから駅までゆっくり戻るが、残念ながら見るべきものはあまり見当たらなかった。

掛川

掛川に戻り、荷物を取りだして再度宿へ向かった。さすがにフロントがいてチェックインが進んでいた。フロントは外国人だったが、慣れた感じの日本語を普通に使い、テキパキこなしており、特に問題はなかった。彼らも全国旅行支援など、新しい制度の業務が加わり、大変だとは思うが、マニュアル通りきちんとこなしていて好感が持てる。

だがこの宿、そのサービス内容はかなりすごかった。何しろ掃除は7泊以上しないとしてくれない(必要な場合は1回1000円)。スタッフは23時以降昼までは完全不在。電話しても浜松店にかかる仕組みらしく、緊急状況に対応できるのか、かなり不安である。部屋も狭く、これで料金1万円(明らかに全国旅行支援の便乗値上げ)はないだろう。まあ部屋に電子レンジがあるなど、よい点もあるのだが、ついにこんな宿が出来たのかと、複雑な心境になる。夕飯を探しに出たが、支援クーポンが使える店もなく、何だかかなり疲れたので、コンビニでサンドイッチなどを買い込んで部屋で食べた。

11月20日(日)袋井へ

今日の予報は雨。そしてやはり雨。掛川城にでも行こうと思っていたが、宿でゆっくり待機する。10時ちょうどにチェックアウト。スタッフはいなので、単にカードを箱に返すだけ(チェックアウトしたかは誰が確認するのだろうか)。朝食を食べていなかったので、駅にあるコメダ珈琲で久しぶり(台湾以来)のモーニング。おぐらあんを選択して500円。日曜日のせいか、お客さんはかなり多い。

静岡歴史茶旅2022(2)駿河国分寺と松本亀次郎

11月19日(土)静岡で

朝早く起きる。朝食も食べずに出掛ける。宿の前付近から静岡大学方面行バスに乗る。料金をSuicaで払おうとしたら、何と『本日限り運賃無料』と書かれているではないか。一体なぜなのかはどこにも書かれていない。そして地元民が乗ってきても、この表示に戸惑っているので、余程稀なことなのだろう。すごく得した気分でバスに揺られる。

東名高速道路を潜り、静岡大学正門で下車したが、キャンパスには向かわず、駿河国分寺跡と言われている片山廃寺にやってきた。最近各地を旅する中で国分寺跡を目にすることも多く、出来る範囲で行ってみることにしている。片山廃寺は奈良時代創建の寺で、現在は大きな木がある他は何もなく、土台が復元され、高速道路の下まで続いている。近くに七重塔の跡も見つかり、国分寺跡とみられているようだ。

しかしGoogleによれば、駿河国分寺は別にあるという。そこにも行ってみようとまた無料バスに乗る。バスには静大の学生たちが乗り込んできて、結構な乗客になる。このバスで浅間神社まで行く。以前ここは見学していたが、もう一度中を通り、丸尾文六、阪本藤吉の石碑を眺める。これから彼らについて調べを進めたい。来年の大河ドラマ館の設置は進んでいる。

そこから数分歩くと、横道の中に古くはない、小さなお寺があった。確かに駿河国分寺と書かれている。ご住職が居たので『ここが国分寺跡ですか?』と聞いてみると、『いいえ、ここは奈良時代から続く国分寺で、跡ではありません』と言われ、驚く。奈良時代はこの横にある静岡高校の敷地全てが国分寺だったともいう。そして慶喜さんのお陰で明治以降も国分寺は残ったと説明されたが、何とも不思議な話だった。

そこから宿まで歩いて行くと、お城の裏に出る。すぐ近くにカフェがあり、モーニングが食べられるというので入ってみた。静かで心地よい空間だった。トーストと丁寧に入れられたコーヒー、そしてヨーグルト。ご主人が一人でやっていた。いい気分だったが、『写真撮影禁止』という張り紙で、少し心が萎えた。きっと事情はあるのだろうが、自分が食べたものを撮影できないのだろうか。忙しそうなので、聞かずに店を出た。

宿まで戻り、少し休息した後荷物を持って駅へ。今回は意外と時間がないので、昼ごはんは駅のホームでそばを食べる。これまで何度も見てきたが、ここで食べるのは10年ぶりだろうか。チーズそばなど不思議なメニューもあったが、一番人気のかき揚げそばを注文。さっきのカフェを引きずったのか、写真を撮り忘れた。来た電車に飛び乗って掛川へ向かう。

掛川

掛川駅へ着くと、まずは予約した宿に荷物を預けに行く。だがこの宿、どこかおかしい。入口が完全にブラインドになっていて中は見えない。入ってみると、何とフロント業務は12時からで、午前中は荷物を預からないとある。これで計画が狂い、駅へ戻って反対側にあるコインロッカーに荷物を入れる。何とも面倒だ。

そこからまた駅の反対側に戻り、バスに乗る。570円払って、40分行く。静岡市内は無料だったが、ここでは有料だった。バス停から10分ほど畑の間を歩いて行くと、立派な図書館が見えた。大東図書館、ここの2階に松本亀次郎記念館がある。資料の展示や亀次郎のビデオが無料で見られる。だが見学者はおらず、係員もいない。松本亀次郎とは、戦前あの魯迅や周恩来に日本語を教えた教師だったが、今は知る人は少ない。

そこからバスの時間が合わず、天気も良いので、歩いて亀次郎生家へ向かった。徒歩約40分。今は鶴峯堂という建物が出来ており、ここに亀次郎と中国人の交流が展示されている。ここは実は前回高天神城を訪れた帰りに偶然見つけた場所だった。そこで亀次郎を知り、興味を持ったので再訪することになった訳だ。

折角なのでこの付近で亀次郎の足跡を辿ろうと思ったが、お墓も見付からず、卒業した小学校も良く分からなかった。大きな道に出ると鷲山医院があり、ここから吉岡弥生が出たことは前回学んだ。

静岡歴史茶旅2022(1)清水次郎長を巡る

《静岡歴史茶旅2022》  2022年11月18₋20日

茨城から帰ってまたすぐに電車に乗る。今回は所用で静岡へ向かった。日本にいる期間が限られており、その中でワールドカップも近づく中、ちょっと強行軍ではあるが、やはり旅に出た方が楽しい。

11月18日(金)清水へ

いつも静岡へ行く場合、どの方法で行くかを迷う。ただ新幹線はつまらないので原則乗らない。電車もJRか小田急かなどと迷う。そんな中、今回は疲れないで行く、をテーマにゆっくりバスの旅を選択する。これまでもバスタ新宿からバスで行ったことはあるが、今回は渋谷から乗ってみた。新宿始発の25分後に渋谷に停まるので、こちらの方が楽だと思った。

渋谷のバス停はマークシティーにあると書かれていた。何度も行っている場所だが、こんなところにバスターミナルがあるのか。半信半疑で行ってみると確かに5階にあった。だが本当に小さな待合室、殆どいない乗客、9時台だと窓口すら開いていない。トイレも狭い。ただ逆に言えば、リラックスしてただバスを待つだけでよい。ここに来るのは羽田空港行などかなり限られているので、バスタのような忙しさは一切ない。今度ここから羽田に行って見ようかな。

バスはほぼ定刻にやってきた。乗客は2人だけ。そして乗っている客も多くはない。途中高速が渋滞したのは道路工事のせいだった。予定より40分遅れて足柄サービスエリアに入る。急ぐ旅ではないので、気楽なものだ。向こうに富士山がくっきり見える。今日は実に良い天気で風もない。観光バスはなぜ停車中ドアを開けたままなのか。泥棒はいないのか。

このバスは遅延している上、高速を降りてから静岡駅まで結構時間が掛かることを知っていたので、清水駅前で降りる。昼過ぎの駅前、人もまばらで何とも寂しい。清水エスパルスに勢いがないことも関係するだろうか。腹が減ったのでとんかつ屋に入ったのだが、なぜか名物モツカレーを食す。モツもカレーも大好きだが、別々に食べても良いかもしれない。

そこから天気も良かったので、清水次郎長巡りを始めた。まず港沿いに歩き、次郎長が明治に開いた船宿末広の跡地へ行く。本当に港の横、ここは海軍の定宿だったとかで、あの広瀬武夫なども泊まったとある。今は家があったという雰囲気はない。山本長五郎の生家も少し離れた商店街に残っており、今は次郎長の足跡を展示する資料館になっていた。

生家の近くに次郎長の墓があるというので行ってみる。梅陰寺、かなりモダンな造りに見える。階段を上ると奥に次郎長の墓があるのだが、ここで参観料300円を取られる。墓参りに入場料とは、京都の寺でもあるまいし?遺物館に展示があり、次郎長の像もあった。そしてようやく次郎長、大政、小政、お蝶などの墓が並ぶ。帰りに受付でお茶を出してくれた。コロナ前はガイドの案内で外国人も来ていたという。

次郎長と茶園開拓(富士裾野の開墾)、というテーマで調べてみるのも面白いと思い、そこから県立図書館へ向かう。ただこの付近、交通は不便でバス路線もなく、静鉄の駅までかなり歩いて行く。美術館前で降り、知った坂道を上りようやく図書館に着く。ここでは、いつも気持ち良いサービスが受けられるので大変有り難い。今回は様々な資料を出して頂いたが、『本は使われないと可哀そうです』と言われたのが印象的だった。

本日は駅前ホテルに宿を取った。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれると喜んできた。静岡のクーポンは紙もあるが、原則はアプリ使用だった。ここに支援金を入れて使うという優れもの。これだと1円単位で使えるので、悩まなくてよい。ただエキナカで夕飯を食べる所はあるが、居酒屋系が多く困る。結局前回と同じ店で同じ夕飯を食べ、ちょっとお菓子を買って帰る。 

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(11)なぜか屋島へ

なぜか屋島に行ってみたくなった。源平合戦、先日壇ノ浦に行ったことも理由だろうか。琴電屋島で降りる。実は屋島は島と書いて山だった?!小さな駅で降りてどうするのかと思っていると、ちゃんとバスが来て山頂まで連れて行ってくれた。しかも100円で。登るにつれて、眼下に海が見えてくる。

源平屋島合戦場との看板が迎えてくれたが、やはり山の上ではピンとこない。その向こうには四国88か所の一つ、屋島寺があったので、まずはそこを見学。源平合戦の遺物を展示した宝物館があるとあったが、スルーした。太子堂や千躰堂などが並び、蓑山大明神のたぬきの置物がかわいらしい。本堂も年季が入っている。

更に展望台?にも行ってみた。ここからなら屋島地域が一望でき、屋島の合戦の舞台を上から見ることが出来る。きれいに作られた施設もあるが、人は殆どいない。天気が悪いからだろうか。今日は小雨で気温も23度と肌寒いと言ってもよく、歩くにはいい気温ではある。

そこから更に歩き、屋島城という古代の遺跡を見た。663年の白村江の戦いに敗れた後、中大兄皇子がここに防御の城を築いたらしい。他にも瑠璃宝の池(血の池)など源平ゆかりの場所もあるが、那須与一や義経の故事はやはり下へ行かないと出てこないらしい。帰るバスが来たので乗り込んだが、駅まで行く前で一人だけ降りた。

バスから洋館が見えたからだ。神戸の異人館から移築され、今はカフェになっていた。その横にはテーマパークのようなきれいな施設があったが、これまたスルーした。その向こうを登ると屋島神社がある。高松藩初代は水戸家初代徳川頼房の次男で、ここに家康を祭った。讃岐東照宮という文字も見える。階段がきつい。神社の門は固く閉ざされていた。ここからは街が良く見えた。

琴電で元に戻り、瓦町駅から歩く。商店街のモールの下をずっと歩いて行くと、高松のB級グルメ、かしわバター丼を出す店に辿り着き、遅いランチを食べる。それにしてもこの店のボリュームはすごい。ご飯は茶わん3杯ぐらい。鶏肉をふんだんに焼いて乗っけてくれる。更には何とご飯が余れば、無料でカレーを掛けて食べられる。これで800円、ありえない。午後3時でも若者が何人も来ていたのは頷けるが、この量、私にはもう無理かな。

腹ごなしに歩いて行くと、歴史資料館と図書館、そして菊池寛記念館が同じビルに入っていたので、寄ってみる。歴史資料館で香川の歴史を学び、図書館で香川茶業の歴史を探す。菊池寛は時間的にパスしたが、後で中央公園に像が建っているのを見て、地元では顕彰されていると感じる。この日は宿でゆっくりして、夕飯は抜き、夜泣きラーメンで一日を終える。

7月15日(金)高松で

朝ご飯を探して町に出る。商店街の2階にモーニングがあると聞いて出掛けてみると、何と300円のコーヒーを頼めばトーストが無料で付いてくるというものだった。かなりレトロな店内は満員で、ちょうど席が空いたので、取り敢えず注文してみた。正直コーヒーは?だったが、トーストは美味しく頂いた。

東京に戻る前に時間があったので、高松駅まで散歩して、高松城跡を見ることにした。横には琴電築港駅がある。この城は基本的に松平家。天守閣は石垣だけが残っており、披雲閣庭園は手入れが行き届いており、素晴らしい。盆栽なども沢山置かれている。月見櫓も残っている。今は玉藻公園という名称の方が一般的らしい。

宿近くまで戻り、早めのランチに行く。丸亀で行けなかったので、綿屋の肉ぶっかけを食べる。システムが良く分からなかったが、社員食堂のように流れていくらしい。早い時間でもどんどん人が入ってくる。確かにこの麺はコシがあり、肉汁のうまみも感じられ、美味い。

昼頃リムジンバス乗り場を探してバスに乗り込む。高松空港は以前一度降りたことはあるが、乗るのは初めて。というか、今回私が四国を目指した真の理由、それは香川県にこれまで1泊もしたことがなかったからだった。これで残すは埼玉県のみ。いつでも泊まれると思って残ってしまったが、果たしてどこで泊まるのが良いかを考えながら、フライトを終わる。折角讃岐うどんを食べたのに、帰りに新宿でまた立ち食いうどんを食べてしまったのはなぜだろうか。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(10)仁尾、塩飽本島から高松へ

仁尾

文化会館の中に図書館があったので入って、後発酵茶や茶粥について何か資料はないか、聞いてみる。対応は非常に親切で、かなりの資料をコピーさせてもらえた。それでも地元の人も、碁石茶がここに運ばれ、仁尾商人が売り捌いた歴史についてはほとんど知らないという。茶粥も食べてはいないとか。坂出あたりでは今も食べられているのだろうか?

古い町並みを歩いてみる。旧塩田忠左衛門邸という、見るからに立派な建物が保存されている。特定日には公開もされるらしい。この付近の旧家は米酢などの製造で栄えていたのかな。その先には文豪菊池寛母の出生地の碑が建っている。海寄りには江戸時代に造られた金毘羅灯篭があり、土佐藩主が参勤交代におりにこの港を使ったこと、そして土佐茶の販売権を仁尾商人が得ていたことが説明されていた。ようやく碁石茶と仁尾の接点を見つけたが、今回はこれまでだった。

更に覚城院という寺へ行く。ここは坂がかなり急であり、横から見ると石垣が積まれている感じだった。仁尾城跡と書かれていて、何となく納得した。最後に50年前は碁石茶を扱っていたと資料に書かれていた今屋という茶屋に行ってみる。店の建物自体はまだあり、茶缶などが置かれているのは見えたが、扉は固く閉じられており、これ以上仁尾茶についての調べは受け付けられないことを悟る。

塩飽本島

仁尾からバスで詫間へ戻り、JRで丸亀までやってきた。結構疲れたのでそのまま宿で休む手もあったが、明日の天気予報が雨だったので、思い切ってそのまま塩飽本島へ向かう。歩いて数分のところに港があり、往復1070円でフェリーに乗れた。30分で到着。高見島行よりかなり大きいフェリーで、島の規模を知る。 

本島は平たんで歩きやすい。すぐに天理教の大きな建物があったのは驚いた。10分ぐらいで塩飽勤番所跡の建物が見えたが、既に見学時間は終わっていた。そのすぐ近くの家には咸臨丸水夫生家跡の表示がある。確かにこの時代、アメリカまで行ける水夫を探すのは大変で、塩飽の漁民などが駆り出されたのだろうか。

その先をずっと歩いて行くと、専称寺という寺を見た。この寺の起源は、あの法然上人が四国へ配流になった際、ここに庵が建てられたことだという。横には島のまとめ役、年寄の墓も見られる。その先が笠島伝統的建造物群保存地区であり、古い建物などがきれいに整備されて残っていた。中には何でも探偵団に伊藤若冲の絵を出品して、高額の評価を得た家もあると書かれているが、歩いている人は一人もいない。

フェリーの時間があるので、ここまでとして帰り道を急ぐ。一つ気付いたのは、家の門のように、柱が二本経っている家が多い。あれは何の印だろうか。今度はもっと時間を掛けて島を巡りたい。今回は残念ながらお茶に関する歴史は何も出てこなかったが、色々と面白い発見がありそうだ。

フェリーで丸亀に戻ると、腹が減ったので商店街の店に入った。さしみの文字に釣られたのだが、何ともうないという。仕方なくかつ丼とうどんのセットにしてみたが、これが意外にイケる。何だかこういう店のかつ丼は、卵とじが上手いような気がする。店の人は刺身がないことを何度も謝ってくれたが、とんでもない、ご馳走様でした。

7月14日(木)雨の高松へ

今朝は予報通りの雨だった。高松へ移動することにしていたのだが、荷物もあるので困った。取り敢えずチェックアウト時間に外へ出て、商店街のアーケードで雨を避ける。昨日閉まっていたカフェがやっていたので、そこへ入る。何とこの店、和朝食、洋朝食各990円という本格的なメニューがありドキッとしたが、その横にモーニングセット510円があった。ほっとしてそれを頼んだが、それでも十分の量がやってきた。お店は広く、喫煙可でもその被害はなかった。

小雨の中を駅へ行き、高松行電車に乗る。途中国分寺のあった国分駅、そして鬼無(きなし)という駅名に驚く。ここも桃太郎関連だろうか。30分弱で高松に到着。駅の案内所で地図を貰い、バスに乗って今日の宿へ向かう。荷物を預けると雨が止んでいたので、すぐに行動を開始して、琴電瓦町駅まで歩く。琴電は先日金毘羅で始発駅を見て乗りたいと思っていたローカル線だ。