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北京及び遼寧茶旅2019(1)北京にて

《北京及び遼寧茶旅2019》  2019年12月10日-22日

10月Hさんに誘われて北京に行った。それはイベント準備の手伝いだったが、そのイベント本番が12月にあり、そこにもお呼ばれした。一行は香港から北京入りするのだが、私だけ東京から向かった。更にイベント後は秦皇島、営口、瀋陽などを回る予定を立て、2年連続極寒の東北へ向かった。

 

12月10日(火)
北京へ

昨晩名古屋から戻り、荷物をまとめた。東京が寒いと言っても10度以下という程度だが、北京更には瀋陽となると、氷点下10度台は覚悟しなければならない。しかし荷物が多いのも動きにくいので、少し悩む。北京の天気予報は零度前後で温かいようで、東京も昼間は10度以上あったので、余り厚着をせずに出た。

 

空港もそれほど混んでおらず、スムーズだった。エアチャイナの食事は和のテーストでまあまあだった。北京空港に着くと、飛行機を降りたゲートの所にホテルの人が待っていた。今回はまさに特別待遇、ホテルカーで送ってもらえたのだが、まさか飛行機を降りたところから先導が始まるとは思ってもいなかった。またこのようなサービスがあることも知らなかった。そして空港の外へ出ると、車が待っており乗り込んだ。

 

さすがに渋滞があり、1時間半ほどかかってホテルに到着する。香港から来たHさん一行は団体だったこともあり、かなり予定より遅れて到着していた。ホテルに入る時、スーツケースをボーイが持ってくれたのだが、何と取っ手が壊れてしまった。バンコックで買ってわずか半年のイタリア製。壊れるにしてもちょっと早過ぎだろう。直ぐに専門の人が派遣され、修理が行われた。この辺は五つ星ホテル、手際が良い。

 

既に夜7時を過ぎており、レストランへ行くと、明日のイベントのためのミーティングを兼ねて夕食が始まる。私は立派な海南チキンライスを食べる。主催者はかなり緊張しており、色々と細かい心配をする。普段は大雑把に見える中国人だが、オーナー絡みの大イベントとなると話は俄然違ってくる。

 

その後、一行はホテルのバーに移動して、練習を兼ねてスタンダードジャズを演奏した。これが思っていたよりもずっと上手で驚く。特にインド系女性のクラリネットは目を引いていた。思わず体を揺すって聞き入ってしまった。バーの客も突然現れたバンドに拍手を送っている。自分の好きな曲をリクエストする輩まで出てきて、盛況に終わる。

 

12月11日(水)
イベントにて

翌朝朝ご飯を食べに行ったが、メンバーは誰もいなかった。若者が多く、遅くまで起きていたらしい。私はショッピングモールの茶荘へ行って茶を飲み、それからモール中心部へ向かった。そこでは昼の準備が進んでいた。ここでもジャズの練習会が行われる。折角だからと、モールに一番人が集まるランチタイムに行われた。ジャズをあまり知らない私でも知っている名曲が次々に流れ、思った以上に中国人が足を止め、聞き入っている姿があった。中には子供と踊り出すおじさんまでいた。如何にもジャズが好きなんだと思われる若者もいた。

 

昼ご飯を食べたら、すぐにイベント準備となる。今日は香港の某企業の開業50周年記念パーティーがあり、そのレセプション時に、またジャズが流れることになっていた。初めはちょっとしたパーティーかと思っていたのだが、ふたを開けてみると500人を超える参加者があり、ボールルームは大盛況。その中で、約2時間に渡り、お客さんを迎える演奏をしたバンドはエライ。というか、休みなしでこんなに長く演奏できるなんて、何ともすごいスパルタ練習会だった。

 

パーティーにも参加させてもらったが、ご馳走がどんどん出てくるが、従業員や子供たちの合唱などもあり、企業オーナーの人となり、そして企業の歩みが分かり、とても興味が沸く。ここには中国各地の企業スタッフ・関係者が多く集まってきており、82歳のオーナーは2時間余り殆ど立ったまま、一緒に記念写真を撮ったり、挨拶を受けている。この年齢でこの対応は正直凄い。経営者とは大変なのだ、きっと。

 

更には二次会もあるというので、昨晩のバーへ行ってみると、既にオーナーや親族が奥に座っていた。そこへ大勢の人々が引っ切り無しに訪れて、再度お祝いを述べ、何やら話をしている。我々は特に用事はなかったので、すぐに退散して部屋で、ふろに入り、大いにくつろいだ。

華人と行く安渓旅2019(6)元気な96歳に会う

6月18日(火)
更に歴史を知る

今朝は先日もちょっとお会いした張彩雲の親族で、張水存氏の息子さんと再会する。目的は今回紹介してもらい、無事に会うことができた大坪の張秀月さんに関する報告であった。水存氏と秀月さんはいとこに当たる。そして合わせて、5階建てビルの上に水存氏が書いた張家の歴史の碑を見たことも伝えた。

 

張一帆氏から、今回さらにこれまで知らなかったいくつかの情報を得ることができた。これは秀月さんと会って、彼女が言っていることを確認する過程で、出てきた新事実だった。勿論家族内のことであり、公にする必要はないのだが、『なぜ彼女はこう言ったのか』『なぜ大坪の秋月さんとヤンゴンの兄弟は疎遠なのか』などを理解する上では重要なことだった。やはり歴史は足で確認していくことも大切だ。

 

張源美の屋号、白毛猴についても、これはあくまで茶の品種名であり、他にもこのマークを使っていることなども分かる。張源美については、既に3回の連載を終えたが、どうしても秀月さんの現状など、歴史に翻弄され、埋もれて行った歴史を理解したいと考え、もう1回書くことにした。

 

昼ご飯に何を食べるか。以前樟州に行った際に食べた麺が美味しかったので、樟州麺を探して歩く。ようやく見つかった店の味も、私の意識している麺とはかなり違う。よく見ると隣のOLさんたちは土鍋麺などを食べている。今度はこちらを試してみたいと思う。まあ麺は、食べ過ぎないでちょうどよい。

 

午後は昨年一度訪ねた張乃英さんの家を再訪した。張さんも大坪の出身であり、前回は台湾木柵に鉄観音を持ち込んだ張乃妙についてヒアリングしたのだが、張彩雲についても知っているだろうと思い、聞きに行ったわけだ。やはり彼らは張家の資料を持っており、その中には彩雲の長男、樹根が周恩来と会っている写真などもあり、かなりの収穫があった。張さんも私が張彩雲の歴史を調べていることを喜んでくれているようだった。

 

更には中国茶業界の泰斗、張天福氏との交流についても訪ねたところ、現在も存命で一番親しかったのは、李さんだと言い、何といきなり電話を掛けてくれた。そして明日の朝会いに行く段取りまで付けてくれたのは、何とも有り難いことだ。実は李さんには会いたいと思っていたが、ここでご縁ができるとは。

 

乃英氏の息子も、歴史や文化に大変興味を持っており、張家一族の歴史を掘り起こしているほか、閩南語と日本語の相関性などについても、その研究成果を発表しているのには驚いた。日本語と台湾語は近い、それは台湾統治の影響もあるのか、などと近視眼的な感覚でいたが、その大きな流れの中では実に興味深い歴史が出てきそうだ。

 

6月19日(水)
96歳に会う

翌朝は早く起きて、昨日言われた場所を目指してバスに乗る。思ったよりスムーズにバスが動き、予定より早くバス停に着いた。李冬水さんは96歳だと言うが、何とバス停まで迎えに来てくれるという。それは申し訳ない、というより、96歳では歩くのも大変だろうと勝手な心配していたのだが、それは全くの杞憂に終わる。

 

私の前をスタスタと軽快に歩いていく老人がいたが、どう見ても80歳、いや70代にしか見えなかった。だがその人がバス停でキョロキョロと人を探していたので、思い切って声を掛けたところ、まさに李さんだったので、本当に驚いた。背筋は伸びており、腰も曲がっていない。

 

李さんは、やはり安渓の生まれで、家が貧しく、9歳から14歳までマレーシアのペナンに働きに行ったこともあるという。その後独学し、更に農業経済の勉強のため大学まで行った努力家だった。そして解放後の1952年、福建省農林庁に勤め始め、その時の同僚が張天福氏だったという。張氏はその後右派として迫害されるが、李さんは旧正月の初日は欠かさず張氏の家を訪ねて年賀を述べていたことから、張氏から『真の友人』として遇されていたらしい。

 

李さんの健康の秘訣はウオーキングや水泳などの運動だと言うが、体だけでなく、頭も気力もすごい。実は昨晩、彼は張天福氏に関する思い出や出来事などを、紙に纏めてくれ、私に渡してくれたのだ。こんな元気な96歳、考えられない。そして何よりその誠実さが素晴らしい。

 

李さんの中国語は非常に標準的だった。もし厦門や安渓で過ごしていたら、こうはならなかったと思う。長年福州で生活していたからこその中国語だろう。私にとっては、介添え者なしで、はっきりと理解できるのがなんとも嬉しい。そしてその話の内容は、苦労してきた人だからこそ、と思わせるものが随所にあった。

 

因みに李さんのお子さんは日本に留学し、日本企業で働いていたらしい。一緒に朝ご飯でも食べようという李さんのお誘いは嬉しかったが、中茶のお店で李さん持参のお茶を頂いただけで十分だった。漳平水仙、実は張氏も李さんもこのお茶が好きだという。理由は『昔の茶の味がするから』だそうだ。

 

またバスで30分ほど戻り、ホテルで休息した。このチェーンホテルの常連へのサービスは実によい。チェックアウトは午後4時でよい。フライトは午後5時だから、何とも有り難い。昼に鴨肉定食を食べに行き、更にフラフラしてからホテルを出て空港に向かった。今回は前回に懲りて、厦門航空にしたので、台湾から出るチケットを見せろなどとは言われず、さらっとチェックインして、さらっと搭乗、松山空港からフラッと宿泊先に戻れた。これだと厦門はやはり近いな、と感じられる。

華人と行く安渓旅2019(5)コロンス島で

6月17日(月)
厦門へ戻る

ついに今日は安渓を離れ、厦門に行くことになっていた。校長がまた車を出してわざわざ送ってくれた。陳さんは先日のホテルにチェックインして、明日帰国するというので、そのホテルまで同行して、そこで別れた。今回は本当に陳さんに世話になった。そして酒も飲めずに何らお役には立たなかった。

 

そこからタクシーでいつものホテルまで行く。5つ星ホテルよりこちらの方が私には落ち着く。しかしすぐに外出した。出来れば鼓浪嶼、コロンス島へ行っておこうと考えたのだ。もう何年も行っていない。聞けば、昔の船にはもう乗れず、船着き場も別の場所になったというのだ。バスでその船着き場にかなり迷いながら行ってみると、何と昔の金門行きフェリーが出ていた場所だった。色々と変化があるものだ。

 

 

しかも以前は空いていればすぐに乗れた船、今やチケットを購入して乗船時間が決まる。すぐ出ていく船は既に満員で、1時間は待たされる。そして何より昔は1元、その後10元だった船代が、何と50元になっている(35元の船もあるようだ)。船で10分の距離、どう考えても合理性はない。これは入場料ということか。待っている時間がとても暇に思えたが、よく見ると壁に100年ぐらい前の厦門やコロンス島の写真が沢山貼られており、結構楽しめた。

 

船は超満員で座る席さえない。まあわずか20分のことだからどうでもよいが、そう考えると船賃に納得がいかない。コロンス島には確か3つは船着き場があると思うが、そのうちの一つ、見覚えのあるところに到着。早々歩き出す。海辺は気持ちがよく、一体どこに来たのかと思うほどのリゾート気分。しかし途中から上り坂になり、結構疲れる。

 

今回態々ここまでして島に来た目的は1つ。先日紹介を受けた郭春秧の子孫が出演した番組によれば、郭はこの島に別荘を建てており、その別荘は今も残っているということだったので、是非見てみたいと思った次第だ。だがその別荘の場所までは意外と遠い。改めてこの島の広さを実感する。ようやくたどり着いたときにはヘロヘロだった。

 

今その別荘はホテルになっており、建物中に入ることはホテルゲスト以外できないと言われる。仕方なく外からその重厚な建物を眺めた。庭もそれなりにあり、お茶を飲んでいるお客もいた。ここ以外にも、春秧の茶荘の名称から取ったと思われる、錦祥路という狭い道もあるが、特にお茶に関連ありそうな風景は今や見当たらない。

 

しかしこの島、歩いている人が多い。静かで優美な、ピアノの音が聞こえてくる島、というイメージはもうない。人込みを避けて歩くと、旧日本領事館の建物に遭遇した。ここには往時各国の領事館が置かれていた、いわゆる租界地という面もあった。本来はもっとゆっくり昔の建物など眺めながら、歴史に浸りたいところだが、観光客の群れはそれを許さない。

 

仕方なく、近くにあった船着き場から厦門に帰ろうと思ったが、そこは厦門市民専用だった。観光客と島民、市民をここで区別して、観光客から高い料金を取りたてていたのだ。何だか釈然としないが、一方でこれだけの人が島に来てしまえば、島民の生活にも大きな支障が出たことだろうから、この処置はやむを得ないと理解し、歩いて10分ほどの観光客用に行って乗船した。帰りの料金は行きに含まれており、この船着き場から出る船は、すぐ対岸に着岸してくれたので、帰るのは楽だった。

 

バスで宿に帰る。腹が減ったので、近くの新疆料理屋でラグメンを注文する。夕方5時だというのに、漢族の若者が酒を飲み、大声で騒ぎ、そして料理の味付けに文句を言っている。それを黙って聞いているウイグル族の夫婦。もう慣れっこなのだろう。少なくとも同胞というイメージはない。若いウイグル女性はこの暑い中、冷房のない外で、串焼を焼いている。ウイグルの中にも格差社会はあるのだろうか。

 

夜はゆっくりと休んでいたが、なぜか眠れずに、ずっとテレビを点けていた。女子ワールドカップサッカー、中国チームはスペインの猛攻に耐え、何とか決勝トーナメントに進んだ。中国女子は90年代、日本などよりはるかに強く、世界の頂点に居たこともあるが、最近は成績が芳しくなかった。男子同様、奮起が期待されている。中国の監督が試合後涙しているのは特に印象的だった。

華人と行く安渓旅2019(4)大坪 張彩雲の娘

6月16日(日)
大坪で

今日は安渓滞在実質最終日。明日の朝には厦門に戻る。私は陳さんに我儘を言った。大坪に連れて行って欲しいと。陳さんは承諾し、何と校長先生夫妻が車で連れて行ってくれた。大坪、これまで張さんの茶作りを見に、何度も通った場所だったが、今回はミャンマーの大茶商、張彩雲の娘が生きているとの情報をもらい、その親戚とも連絡がついたので、どうしてもこの機会に訪ねたくなったのだ。

 

その前に一か所、寄り道した。そこは大きなビルの中。安渓県教育局の部屋に行く。陳さんは学校に寄付しているのだから、教育局に行くのは分からないでもない。しかし今日は日曜日、しかもそこに待っていたのは局長だった。実はこの局長、大坪の出身で、勿論張彩雲の名前も知っていた。校長が気を利かせてくれたのだろう。(いや、むしろうまい口実の下に、局長と陳さんを引き合わせた)

 

大坪はかなりの山の上にあり、安渓の街からはやはり1時間かかる。しかも最近新しい道路を造っているのか、車のナビと道路がマッチせず、工事中の道に突っ込むなど、ちょっとスリリングなドライブとなる。大坪に上るのに道がいくつかあることが分かる。その一本はかつて張彩雲が資金を提供したものだったはずだが。

 

その親族の工場は街外れにあった。何と茶を作っているではないか。高さんは、張彩雲の娘、秀月さんが嫁いだ高家の人間だった。すぐに小さな街の真ん中に行く。そこにはかつて栄えた古街があり、驚く。これまでこんな道を歩いたことはなかったからだ。そこには古い建物が残り、中には張彩雲が茶の商売をしたと言われる場所すら残っていた。だが今や、全く閑散としており、往時を思い起こすことは難しい。

 

その道は何本かあったが、その突き当りに家がある。その中で張秀月さんは暮らしていた。数え年94歳。お手伝いさんはいるものの、この歳で一人暮らしをしている。ご主人は早くに亡くなり、4人の子供もすでに他界、孫もすべて大坪を出ていた。手がしびれると言い、箸が持てずにスプーンで食事をとっている。

 

昔話を沢山聞いた。閩南語しか話さないとのことで、親族に通訳をお願いしたが、溢れるほどに話が出てきて、全てを理解することは不可能だった。大坪に生まれ、ヤンゴンで育ち、結婚で大坪に残り、ご主人が亡くなり4人の子を育て、文革の嵐に翻弄された。そこには全く大茶商の娘、お嬢さんという話は出てこない。彼女が大切に持っているのは、80年前彩雲から贈られたという旅行カバンに入った親族の写真。あまりに悲しい話に、親族が途中で話を打ち切るほどで、何とも言えない訪問となった。

 

ここで分かったことは、彩雲や長男の樹根は1950年代、故郷に帰ってきており、樹根などは北京で周恩来や毛沢東にも会っているという事実だった。それが1960年代、ビルマでも革命が起こり、中国も文革で往来は途絶えてしまう。その後も樹根らは秀月さんに援助をしていたようだが、彼らも皆亡くなってしまったということだ。

 

高さんに連れられて、1930年代に建てられたという張家を訪ねる。木造の古い建物だが、所々に彫刻などが残り、往時は街一番の家だった様子も分かる。この時期は土匪が横行し、この家も被害に遭ったらしい。それでもこの家が現存しているということが、張彩雲の生きた証のようにも見える。

 

その横には20年前に4兄弟の末裔が資金を出して建てた5階建てのビルがある。その屋上には張家の歴史と、既に無くなった方の写真などが飾られていた。彩雲には3人の男子がいたが、その一人は養子であったことも分かる。ここの碑に歴史を刻んだのは、あの『中国烏龍茶』を書いた、次男の息子、張水存だった。周囲には長男、次男、三男の古い家もわずかに残っている。

 

大坪からある程度降りたところで、休息だと言って、ある学校に入っていく。その校長が知り合いということで、ちょっと会いに行ったのだ。お茶を飲みながら、話題は教育になるのだが、聞いていると、陳さんたちの学校ができると、ますますこちらの過疎化が進むのでは、と思うような話になっている。確かに田舎の子もいい学校を目指して街に出てしまうからだ。大坪も鉄観音茶の産地として名高いが、昔から今でもずっと、ここで食べて行けず、外に出る人々がいる現実はある。

 

もう一軒寄り道がある。先日会食した建設関連の社長の別荘にも寄った。あの時既にこういう話になっていたのだろう。その別荘は建てたばかりで、皆に見せたくて仕方がない、という感じの豪華なものだった。裏の川の上に、屋外の茶の飲める場所があるなど、雰囲気も良い。そこで豪勢な夕飯も頂く。今日一日の出来事からかけ離れた世界に複雑な思いになる。

華人と行く安渓旅2019(3)華人の出た村で

6月15日(土)
故郷へ

今日はいよいよ陳さんの先祖の出身地に向かう。厦門から車に乗せてくれた親戚が送ってくれた。安渓県と言ってもかなり広い。その中でも山間にある村に行くのに1時間はかかった。天気は抜群に良い。山の道を上って行くと村は晴れやかだった。時折爆竹の音が聞こえる。今日は年に一度の村祭りがあるという。陳さんもそのためにここに来たわけだ。

 

彼と二人、途中で車を降りて歩いて坂を上る。所々に家があり、如何にも田舎、という雰囲気で鶏やアヒルがウロウロしている。古めかしい家もある。顔が見えると必ず『寄っていきなよ』と声がかかる。陳さんはここでも有名人だ。そして寄れば必ず、お茶が出て、お菓子か果物も出てくる。何ともお接待が行き届いている。

 

聞けば、普段は老人と子供ばかり100人程度しか住んでいないのだが、今日は数百人が祭りのために戻ってきており、1年で一番賑やからしい。中には陳さん同様、マレーシアから里帰りしている人までいた。今や故郷は近くなったものだ。100年前なら一度出て行ったら、2度と戻れないという覚悟だったのではないだろうか。

 

関帝廟がある。爆竹はそこで鳴らされており、皆がお参りに向かっている。その向こうには陳さんたちが建てた、村の集会所があった。そこでは今日の昼ご飯の用意が進んでいる。それを確認してから、更に上にある親戚の家に行く。最近建てたかなり立派な家だ。是非泊まって行けと言われる。普段は厦門に居るようだが、今日のために一家で帰省していた。商売に成功したのだろうか。

 

昼ご飯を食べるために皆が集会所に集まってきた。1卓10人として、20テーブルはあるだろうか。昨日の鉄工芸の工場をやっている人が取り仕切っている。今回の数百人分のご飯は全て彼が資金を提供したと聞き、驚いた。そしてもっと驚いたのが、その豪華なメニュー。これはいわゆるケータリングで持ちこまれた食べ物だが、魚や肉やエビやカニが、スープになり、焼かれ、煮込まれ、様々な料理となって登場した。

 

凄まじい数が出てきた。しかも食べている人は、到底食べきれないと見ると、半分も残っているのに、どんどん食べ物を捨てて、次のものに切り替えている。この壮大な無駄は一体何だろうか。これが往年貧しくて華僑を生み出した村の今日なのだろうか。本当に信じられない中国の様子に愕然となりながら、それでも箸は動いて食べていた。昼間なので酒がそれほど出なかったのがせめてもの救いだろうか。男性は大体タバコを吸っている。

 

食後、余りに腹が一体となり、陳さんと一緒に坂登をした。どこへ行くのかと思っていると、その上に家が見える。古い家は既に取り壊しかかっているが、何とここが祖先の住んでいた家だったというのだ。陳さんのお爺さんは、100年近く前にここを出て、遥かマレーシアに渡っていったらしい。今でも農作物もあまりできそうにない土地だ。厳しい生活を打開するために決意したのだろうか。そしてマレーシアで見事に成功するのだが、その具体的な内容をきちんと聞いたことはない。

 

古い家は改築して新しくなるのだろう。その横には現在の住まいがあり、そこには陳さんの親族が何人かいた。お婆さんが出てきて、陳さんが来たことをとても喜んでいる。その顔には『次に会えるという保証はないよ。今日会えてよかった』と書いてある。陳さんはひょうきんなところがあり、人気者なのだ。お茶を飲みながら、しばし話し込む。皆さん、当然閩南語で話しているから意味は分からないが、楽しそうである。帰りは安渓に戻るという親戚の車に便乗する。陳さんには一体何人の親戚がいるのだろうか。

 

昼ご飯をあれだけ食べたのに、また夕飯を食べる。陳さんには断り切れないほどのオファーが来ている。ここにいる限り、致し方ない状況なのだ。それが成功者の故郷ということがよく分かった。私などは文句を言えた義理ではない。何の関係もないのに、毎日贅沢に飲み食いしており、お金も全く払っていない。これでよいのだろうか。

 

さすがに疲れたので、夜は早めに宿に帰る。テレビをつけると、卓球だ。何と女子シングルスで、平野美宇と佐藤瞳という日本人同士の試合を、CCTVはゴールデンタイムに生中継してくれている。こんなこと、あるんだろうか。勿論そのあとの中国人同士の試合の合間だとしても、日本では絶対に見られないことだろう。他国の選手の試合を見て、初めて自国選手の実力が分かるということだ。

華人と行く安渓旅2019(2)故郷に錦を飾る学校

6月14日(金)
故郷に錦を飾る学校

さすが安渓のホテル、ちゃんとお茶淹れ道具一式が部屋に置かれており、陳さんからもらった茶を淹れて朝を迎えた。朝食はホテルのビュッフェ、既に食べ過ぎの兆候があるので、かなり抑え気味に過ごす。陳さんも元気に姿を見せたが、私に対して『なんで酒飲まなくなったんだ?』と何度も聞く。今回の旅、陳さんの作負担軽減のために私が呼ばれたらしい。その当てが外れて、かなり不満そうだ。

 

今日は陳さん一族が30年前に寄付して建てられた学校の見学に行く。陳さんのおじさんの名前が付いた学校だ。かなり広い敷地で、車を降りてから校舎まで歩くのも距離がある。現在は3000人の生徒が学んでいるという。陳さんは有名人なので、先生は皆挨拶しに来る。そして招かれて、お茶を飲む。この辺も安渓らしい。すぐにお茶なのだ。明日から中学校の統一試験があるようで、実な皆さんは忙しそうだったが、私がお茶の歴史について聞くと、さすがは先生、色々と情報を提供してくれる。

 

マレーシアで成功して財を成した陳 さんのおじさんが30年以上前に故郷にやってきた時は、大歓迎だったという。そして故郷のために何かしようと考えたが、教育が一番大切、ということで、学校建設となる。その時点では中国も貧しく、教育の機会を与える、という感じだったようだが、今や試験の成績とか、有名大学への進学とか、ポイントはかなりズレてきている。その中で陳さんは『今も貧しい田舎の子供にハイレベルの教育機会を与えたい』と訴えている。

 

そして現在建設中の新しい学校も見に行く。来年開校予定で、校舎建設が急ピッチで進んでいる。こちらは2000数百人を収容する中高一貫学校になる予定だ。今や資金も豊富になった中国だが、『お金はあるに越したことはない』ということで、陳さん一族が資金を提供したらしい。こういう学校ができることは地域にとって果たして良いことだろうか。中国ももう、自らの力で、自らの学校を建てた方がよいのでは、とふと思ってしまった。

 

昼は昨日の親戚の家に押しかけて、食べた。ここは雑貨店を営んでおり、小学生が小銭を握りしめて、ノートを買いにきたりして、何とも微笑ましいところだった。その店のテーブルに電気炊飯器がどんと置かれた。そこにはかなり煮込んだ鶏肉スープが入っている。これ、一口飲んだら、美味いと叫びたくなる。なぜ陳さんがあれほど拘ったのか、その理由は明確だった。

 

親戚としては、食べる場所もないし、大したご馳走でもない、と思っていたかもしれないが、陳さんは既にご馳走を一生分以上食べている。本当に食べたい物は、こういう素朴で、しかもマレーシアでは食べられないものなのだ。豚肉とタケノコも出てきて、ご飯をお替りする程食べてしまった。

 

午後は茶都へ行く。ここは安渓の茶市場で、過去にも来たことがある。午後はもう取引もあらかた終了しており、人影もまばらだった。一軒のお茶屋に入り、お茶を飲む。そしてその老板が立ち上がり、連れだってどこかへ向かう。茶都の本体ビルに突撃した。そこには博物館があり、鉄観音茶の歴史などが丁寧に展示されていた。これは私にとっては有難いことだったが、興味深い展示に関していくつか質問しても、案内の人は答えに窮したようで、話は進まない。インドネシア華僑から贈られたというものすごい数の急須の展示は圧巻というしかない。

 

夜は学校の先生たちと夕食会。立派なホテルの個室に向かうと、何と反対の会場では高校生の卒業記念会(謝恩会?)が行われており、若者たちが集い、かなりはしゃいでいた。これもまた現代中国の一つの現象だろう。我々の部屋にも立派なしゃぶしゃぶ、刺身などが運ばれ、美味しく頂く。陳さんは今日も酒を飲み続け、先生が連れてきた人々の陳情やら、関係づくりなどに付き合っている。これは故郷に帰るということは毎日大変なのだ、とよくわかる。

 

皆さんはカラオケに行くというので、私だけホテルに送ってもらった。今晩は女子ワールドカップの日本対スコットランド戦がCCTVで生放送されるので急いで帰ったのだ。第1戦を引き分けたため、予選突破が危ぶまれたが、今日はまあまあの出来で、何とかスコットランドを振り切った。その後、ゴルフの全米オープンの放送まで始まってしまい、寝られなくなる。

華人と行く安渓旅2019(1)安渓の伝統工芸 竹藤編

《安渓厦門茶旅2019》  2019年6月12-19日

何と驚いたことに3か月連続で福建省にやってきた。しかも3か月連続の厦門。確かに台北との行き来では厦門は便利ではあるが、これだけ続くのにはそれなりの訳がある。今回は本来KLで会おうと思っていた陳さんの里帰りに同行するという稀有な体験が目的であった。ついでに茶の歴史の一端でも見られるとよいのだが、さて、どうだろうか。

 

6月12日(水)
厦門へ

今回は厦門航空の夜便で厦門へ向かった。単純な台北-厦門の往復便だが、料金は意外と高く困った。金門経由も早い段階で売り切れており、この路線を使う人が多いことを窺わせた。松山空港発は夜便しかない、という不便さだが、桃園に行くよりはよい。まあ、今日は着いて寝るだけと諦めるしかない。

 

空港内では、なぜか日本の茶碗展示が行われている。それもかなり大規模な数で驚いた。台湾人の日本への興味はこのようなところへも波及している。夜便で短距離だからご飯も出ないだろうと思い、空港内でワンタンメンを食べてから乗ったら、機内でもちゃんとご飯が出てきた。

 

夜9時には厦門空港に到着。荷物を預けていないのでさっさとイミグレを通過して、タクシーに乗り込む。今晩は陳さんの親戚が予約してくれたホテルに宿泊するので、そこまではタクシーでないと難しい。実はよく見ると、そこは金門島から来るフェリーが着くターミナルのすぐ近く。こんなことなら、何としても金門経由を予約すべきだったと思ったが、後の祭りだ。

 

ホテルは豪華5つ星。いつもは泊まらないのだが、陳さんのお供だから仕方がない。ロビーも広くて、チェックインにもまごつく。だが、通された部屋を見てびっくり。何と若夫婦と子供が泊まるためのファミリールームだった。子供用に小さなテントまで用意されているのだが、私が必要としているデスクがない。折角広い部屋で申し訳ないけれども、デスクのある部屋と交換してもらった。一体なぜ男一人のお客をこんな部屋に通したのだろうか。翌朝陳さんの部屋に行ってみるとまさにその部屋だったので、単に広い方がよいと思った、ホテル側の配慮だったらしい。

 

6月13日(木)
安渓へ

翌朝は陳さんと朝食を一緒に取った。彼と会うのは雲南省大理以来6年ぶりだろうか。あの時はお茶の買い付けに行く陳さんに付いて行き、色々と体験させてもらった。実は陳さんには昨年久しぶりに連絡を取った。理由はマレーシア華人の大茶商を探すため。彼ならいいネットワークを持っていそうだったのだが、2月は旧正月だから難しいと言われ、8月に行くと言ったら、KLには居ないかもしれないと言われてしまう。

 

今回はそんな陳さんが祖先の故郷である安渓に行くというのを捕まえて同行することになった。これも華人が故郷に帰る、とどうなるのか、その繋がりを見る良い機会だと思っている。ついでに安渓の茶業についても何かしら得られるものがあればよい、という程度でやってきた訳だ。

 

陳さんの親戚という人が車でやってきて我々を乗せて安渓に向かう。この道はもう何度も通っているので、親しんでいる。今は高速道路のような立派な道があり、厦門-安渓間はわずか1時間ちょっとで行けるが、100年前、海を渡ろうとした人々は歩いて2-3日掛けて山の中から厦門の港に出てきたという。それだけでも大変なのに、ここから船に乗り、未知の東南アジアへ渡っていったのだから、それは物凄い覚悟だと思うし、やはりそうするしかない事情もあったのでは、と考える。

 

車は安渓の街に入った。前回は旧市街に泊まったが、今回は少し離れた街一番のホテルというところにチェックインする。また別の親戚という人が現れ、早々に外に連れだされた。街で流行っていそうなレストランで昼食をとる。結構いい料理が出てきて喜んでいたが、なぜか陳さんは不機嫌だった。『俺はお前の家でご飯が食べたいんだ』と言っている。どうして?

 

午後は学校へ向かった。華僑職業学校と書かれている。立派な建物だ。その中を行くと、陳さんの親戚で、竹藤編名人がいた。もう80歳近いというのに、伝統工芸の第一人者ということで、この学校で教えている。その作品が沢山展示されていたが、実に見事で驚く。1960年代既に彼の作品は海外要人向け土産として、送られるほど認知されていたらしい。それがここ安渓の主要物産品となっている。これまでお茶のことしか見てこなかったが、安渓には他にも色々とあるのではないか、との予感がする。

 

更には別の親戚の鉄工場にも行ってみる。鉄を使った家具、インテリアを作り、欧米にも輸出しているらしい。シンプルなデザイン、簡易な商品、こういうのがウケるのかもしれない。だが老板は『現在の米中問題が長引けば、中国での生産、輸出は難しくなる。東南アジアなどへのシフトを検討するかも』といい、陳さんに相談を持ち掛けようとしている。確かにそうだな。

 

夜は先ほどの竹藤編名人を含めて、親戚と友人が集い、宴会となる。陳さんは私に『宴会要員(酒飲み)』を期待していたようだが、私がもう酒は飲めないと言うと、かなりがっかりして、自ら相当に飲んで、酔っ払っていた。ここに昨年安渓で会った華僑史の専門家、陳克振先生がいたのには、驚いた。親戚ではないが、マレーシア華僑の陳さんの家の歴史もかなり研究してきたという。ご縁というのはすごい、そして嬉しい。

広東・厦門茶旅2019(7)厦門は休日ムード

厦門で

厦門には昨年11月、そして先月もやってきたので、かなり事情は分かっていた。厦門北駅は相当街から遠く不便なので、今日もわざわざ本数の少ない厦門駅行を選んで乗った。降りたら、後は歩いて、チェーンホテルにチェックインするだけだ。しかしこのホテル、前回も予約より当日の方が同じ部屋が安い。そしてそれを伝えると、ちゃんと安い方にしてくれる。これなら予約しない方がよいのでは、と思ってしまう。

 

バスに乗って王さんの工作室に向かう。先月も訪ねていたので、場所は分かっており、宿からバス一本で行けるので、かなり楽だった。彼は元々雑誌の記者だったのだが、お茶好きが高じて、何と本格的なお茶屋になろうとしていたので、驚いた。王さんは少しお茶を淹れてくれただけで、お茶の包装に余念がない。

 

私はここに置かれているお茶関連の本が見たくて来たのだから、特に問題ない。ここには相当昔出された本のコピーなどもあり、本当に貴重な資料が揃っているので、有り難い。今回は譲ってもらえる本があればと思いやってきたのだが、基本的に欲しいものは大体手に入れることができ、大満足。今後の調査に役立ちそうだ。

 

それから梅記の王さんのところへ行く。今日は海峡茶市場の方にいるというのでバスから地下鉄に乗り換えて向かう。確か2年前、ここを訪れた時は、未だ地下鉄工事中だったのを思い出す。確実に時は過ぎているが、王さんたちのプーアル茶の店は健在だった。ここで20年物の白茶を頂く。これはかなりうまかった。そして夕飯もご馳走になる。

 

宿に帰ってテレビを点けると、今回は卓球をやっている。深圳で行われているチャイナオープン。日本と中国の選手が大挙して出場している。ちょうど馬龍と丹羽の試合を生中継。その後は、何と伊藤美誠を特集している。中国にとっても、最大のライバルが日本だ、ということをかなり意識している証拠だ。

 

6月1日(土)
散策

今日中国は児童節の祝日。そして土曜日でもあり、パパたちは大忙しだ。私が会いたいと思っていた人々も、何かと忙しく、今日、明日は無理のようだったので、自らちょっと歩いてみることにした。昼前にいつもの店に行き、いつもの鴨肉20元の定食を食べる。このコスパはどうしても外せない。

 

そこからフラフラ歩いて、開元路へ向かう。ここは昨年も歩いてはいたが、先日香港で堯陽茶行の王さんが『1930年代に茶行を開いていたビルが開元路にまだ残っているよ』と言っていたので、確かめに来たのだ。ヒントは市場の横のビル、ということで、長いトンネルのような市場を抜けると、その四つ角に確かに古いビルがあった。勿論今は違う店が入っているのだが、ビルの横の壁を見てみると『王』という苗字が見えている。恐らくここだろう。他の大茶商のビルがほぼ消えている中で、ここは貴重な存在ではないのだろうか。

 

それから鎮邦路、中山路、水仙路と歩いていく。何度歩いてももう歴史的な物は発見できないのだが、この何とも迷路のような脇道に入るのもまた楽しい。大通りではひと際、小さい子供を連れたファミリーが多いと感じたのは、気のせいだろうか。何だかみんな楽しそうに見えるのだが、実情はどうだろうか。

 

地下鉄に乗って宿に帰る。この宿は地下鉄駅から近いという利点もある。駅を出るとショッピングモールがあり、そこでフルーツ盛り合わせをチョイスしてテイクアウトした。もう流石に食べ過ぎなので、セーブする。夜は今晩も卓球を見て過ごす。伊藤美誠と丁寧の試合は白熱している。昔『石川佳純の卓球はうまいが、体重が軽すぎるから勝てない』と言った中国の解説者が居たが、伊藤はどう見えているだろうか。

 

6月2日(日)
空港で

香港に始まった今回の旅も最終日となる。宿で朝食をとり、タクシーを呼んでもらって空港に向かった。これも何となくルーティーン化してきている。空港も2時間前にしか、チェックインカウンターが開かないことにも慣れていた。今日はぎりぎり2時間前に到着すると、既に乗客は中に入っており、長い列ができていた。

 

私の番が来ると、係員が『台湾から出国するチケットを見せて』というではないか。そんなこと、これまで一度も言われたことがない。実はすでに東京へ戻る便は予約済みであったが、何とGmailが見られるシムカードはほぼ使い切っており、画面が表示できない。係員は『空港のWi-Fiを使って』というのだが、それでは見られないと告げると、『提示できないなら、この場で購入してくれないと乗せられない』というではないか。

 

これには心底驚いてしまった。そしていつもは厦門航空だが今回乗るのが華信航空だったとようやく気が付いた。華信は中華航空の子会社となっており、元を正せば『台湾からの出国チケットルール』を昔から後生大事に守っているのは、中華だけなのだ。少なくとも中国においてチケットが提示出来ない今回のようなケースには特例があってもよいと思う。

 

だがこの件では常に乗客ともめているので、スタッフは誰一人として同情を示したりはしない。すべてこちらが悪いと言い張る。何かがおかしいこの制度、少なくとも90日ノービザの日本人に関しては、台湾政府に改善を求めたい。最後に奇跡的にGmailが開き、何事もなかったかのように搭乗ゲートへ向かった。

広東・厦門茶旅2019(6)潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

5月30日(木)
潮汕工夫茶伝承人を訪ねて

翌朝、荷物をまとめた。ついに潮州を去る日が来てしまった。何とも名残惜しい。そして去る前に矢張り朝食。張さんも昨日の店が痛く気に入ったようで、2日連続で向かう。私にも全く異存はない。今朝はシラス粥に焼き魚、そして漬物。まるで和食の朝ご飯のようなあっさりした仕立てが実によい。もっと他の物にも手を出したかったが、さすがにそれもできず、次回に持ち越すこととなる。

 

荷物を積み込み、いざ出発。今日はどこへ行くのだろうか。張さんが言うには『潮汕工夫茶の歴史について知りたいのなら、伝承人である有名な鄭さんに聞くのがよい』ということで、彼女はここ2-3日、鄭さんを探していたようだが、ようやくある山にいることが判明して、そこへ追い掛けていくことになったのだ。これまたある意味で凄い旅だ。

 

やはり山道を行き、高峰村という場所に行った。そこも周囲には何もない所だったが、茶畑が見え、茶工場があり、その中にお目当ての鄭恵豊氏がいた。彼は元々国営企業に勤めていたが、その茶の実力で独立し、今は何社もの茶作りのアドバイスをしているらしい。ここもそのうちの一社だという。ここで1時間ほど、その茶の歴史の話などを聞いた。さすがに現代史となると、話が生々しい。

 

お昼は街に降りていき、そこで食べた。またもやうまい。ここでは潮州名物のウナギが煮込まれて出てきた。海鮮系も多く、潮州料理のうまみがにじみ出ていた。食後は近くの茶荘に入り、そこで老板自慢のお茶を頂く。何だか眠気が出てくる。これは確かに極楽旅だ。ここでずっと休んでいたい。

 

何と鄭さん自ら我々を車に乗せて送ってくれるという。何とも有り難い。まずは張さんたちを潮汕駅に送る。彼女らの予約していた広州行き列車、ギリギリになったが、何とか間に合ったらしい。そこから鄭さんの自宅のある汕頭まで私も乗せてもらい、引き続き、質問を浴びせ、回答を得た。これはまた有意義な時間だった。

 

汕頭に着くと、すでに日も暮れており、予約したホテルまで送ってもらい、別れた。本当は明日も一緒に行動したかったが、鄭さんも久しぶりの自宅だというので遠慮した。紹介された汕頭のホテルはなかなか快適だった。取り敢えず外へ出て、駅に向かう。明日の厦門行きの高鉄チケットをゲットしておく必要がある。

 

汕頭に来るのも18年ぶりだが、特に高い建物もなく、非常に穏やかで、あまり変わっていない、という印象だった。潮州、汕頭、なぜここまで発展しなかったのだろうか。この2都市、お互いに競っていると聞いていたが、良い競争になっていなかったのだろうか。まあ、私個人としては、今の中国の中で、ここまで変化が乏しい街はむしろ貴重であり、懐かしむに足る。

 

駅は昨年改装されたばかりできれいであったが、駅の前は大きな道路に阻まれ、渡る所がないなど、インフラ面には問題があった。それでも駅には殆ど人もいなく、切符はすぐに買えて嬉しい。バスで帰ろうとしたが、こちらもよく分からず、結局歩いて戻る。途中の食堂で海鮮粥を食べて、何となく満足。

 

5月31日(金)
面倒な高速鉄道

朝ごはんはホテルで食べたが、料理は沢山あるのだが何とも味気ない。完全な潮州ロス状態に陥っている。これは早く脱却する必要がある。フロントでタクシーを呼んでもらい、乗り込むと、運転手が『どうして潮汕駅へ行かないんだ?』と聞いてくる。もう切符は買ってあると言うと、仕方ないな、と言い捨て走る。

 

駅にはすぐ着いたが、現金で払おうとすると『微信決済ではないのか、タクシーは誰が呼んだんだ?』と聞かれ、ホテルと答えると頭を抱える。ホテルが現金決済と言っていないので、現金は受け取れない仕組み?らしい。でもそれはこちらが困る。何と運転手はホテルへ戻るというので、勘弁してくれというと、ホテルまで戻る分もくれ、と表示以上の料金を要求。何とも良く分からない。

 

汕頭駅には、地下通路に降りるエスカレーターすらなく、何のために改装したのかと思う。皆重い荷物を持って階段を上り下りして疲れる。何と今回普通座席が売り切れていたので、一等車初めて乗ったが、座席が僅かに広いぐらいで特段良くというわけではない。でもたった一駅とはいえ、16元というのは極めて安い。ただ次の潮汕駅では、一等車両は出口から一番遠く、何の優先もないと知り、がっかり。おまけにエレベーターで降りたら、そこは出口に行けず、また荷物を持って、別の階段を探す始末。

 

更に私は切符を2枚持っていた。何故だ?私は乗り換えるのだから、改札を出る必要はないと思っていたが、中国は甘くない。列車が来るまでホームで待つことは許されておらず、一度特別改札を出て待合室へ行き、時間が来たらまた並び直して列車に乗るのだ。だから皆が潮汕駅を使えと言ったのだ。意味は分かったが、もう後の祭りだ。中国の高速鉄道は恐ろしく発展してきたが、ソフト面では不便なことが多い。それから1時間半ほどかけて、ようやく厦門駅に着いた。

広東・厦門茶旅2019(5)双髻娘山へ

5月29日(水)
双髻娘山へ

今朝も朝ごはんを求めて、古い街並みを歩く。張さんはグルメであり、グルメの周囲にはグルメの友人が集まる。彼らから様々なグルメ情報が入ってくるようで、その店を探しまくる。私は道端でお茶をすすっている老人や天秤棒で野菜を売る人などに興味を惹かれ、はぐれそうになる。

 

ようやく着いたその店は、観光客は絶対に行かないだろうと言うローカルな雰囲気。店のおばさんも『あなたたち、どこから来たの?』と聞くほど、地元民しか来ない。そこには焼き魚やつみれ、ゴーヤーなどが置かれており、好きな物を取る方式になっている。それにお粥、大腸のたっぷり入った粥は最高にうまい。これはもうしあわせに到達した域だ。私はここにずっと留まっていたいと思うようになっていた。

 

今日もまた車に乗って出かける。昨日鳳凰山へ行ってしまったのに、今日はどこへ行くのだろうか。また1時間ぐらいかけて堯平県と潮安県の境にある双髻娘山というところへ向かった。天気は小雨、そして待ち合わせ場所に責任者の劉さんが迎えに来てくれており、ここから先は細い急激な上り坂で、慣れていなければとても運転できないため、車を乗り換えて進む。生態公益林と名付けられた自然体系を守りながら、産業化していくプロジェクトのモデルになっているようだ。

 

海抜1000mのところに茶工場が作られており、ここで数年前より大学の研究と茶業を一体化させた実験的な茶が作られていた。科学的、無農薬、無化学肥料、高海抜などを売りに、茶の生産も軌道に乗ってきており、有機認定などの取り組みも行われている。これまでの鳳凰単叢をさらに進化させ、大きなブランドにしていこうという試みだと受け止めたが、果たしてどうなっていくだろうか。

 

周囲には樹齢100年を超える茶樹も植えられており、山の上に茶樹畑が広がっている。雑草がかなり生え、茶葉には蜘蛛の巣が掛かっており、その栽培法が分かる。天気が良ければ、ここを散歩していれば気持ちがよいだろう。また下までいい景色が見られるそうだが、本日はあいにくの雨。残念ながら、ほぼ視界がない状態で、景色は次回にお預けとなる。所々に大きな岩があり、そこで記念写真を撮り、足を滑らせないように注意しながら、工場に戻る。

 

そのまま車に乗り込み、下へ降りていく。堯平の街まで30分以上かかったか。そこで遅いお昼を取ることになった。自然の中で食べる、という感じで、何やら期待が持てる雰囲気だった。潮州の食は本当に期待を裏切らない。やはり地鶏の肉は歯ごたえがあり、皮がうまい。また地元で採れたイモととうもろこしを蒸かしており、これがまた甘い。既にここ数日、美味い物をたらふく食べて、お腹がパンパンなのに、頭はまた食べることを要求してくる。これって、何だか体の一部が壊れてしまったよう感覚に捕らわれる。

 

夕方宿にたどり着くと、すぐにシャワーに向かった。昨日浴びられなかったお湯、この時間なら出るのではないかと期待していたが、この期待も裏切られず、暖かいシャワーを浴びて、気分は爽快になっている。人間、お湯を浴びるとこんなにも元気になるものかと思うほど、疲れが吹っ飛んでいた。

 

夕方6時すぐには宿を出た。まだ昼ご飯を食べてから3時間ちょっとしか経っていないが、グルメの張さんにはそのようなことは関係ない。行きたい食堂が夜7時前には閉まることを知って、急いで飛び出したのだ。さすがにちょっとしか食べられないだろうと思っていたが、名物だと勧められると口にせざるを得ず、カボチャなど美味しいのでまた食べてしまう。何とここでもまた結構な量を食し、ついに腹が爆発?

 

食後、骨董屋などを冷かしながら散歩するも重たい腹は解消せず。今晩はとにかく失礼して部屋で休もうかと思っていたが、何と張さんはスタスタと茶館に入っていくではないか。『折角だから伝統的な茶館スタイルを体験しよう』ということで、テーブルに座り、お茶を淹れ始める。だが大きな舞台は暗く、茶館の出し物はまだ始まらないということで、この古い建物を散策することにした。

 

潮州は華僑の一大出生地であり、その多くが東南アジアへ移住している。その華僑と故郷を結ぶ便りや送金に関する書類が展示されているのは興味深い。この立派な洋風の建物自体が、そうした海外からの送金により建てられたものかもしれない。茶の流れについても何か資料はないかと探してみるも、何も出てこない。単叢は華僑に飲まれることはなかったのだろうか。

 

茶館の出し物は、歌と劇、そしてなぜか茶芸も入っていた。その昔の茶館で、茶を淹れることが芸になっていたとは思われず、かなり違和感はあるが、今風の分かりやすい演出だと思えばよいか。往時はもっと華やかで、やんやの喝采などもあったのだろうが、今はみな大人しく、茶をすすっている。