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香港・深圳茶旅2023(1)香港にも実名制で

《香港・深圳茶旅2023》  2023年5月5日-10日

台北に滞在中、ちょっと所用で香港へ行ってみることにした。合わせて深圳にも潜入したいと思っているが、果たしてどうなるのだろうか。

5月5日(金)4年ぶりの香港で

朝台北駅に向かった。香港行のフライトは桃園空港から出る。昔はよくここからバスに乗って桃園へ行ったものだが、最近は羽田-松山を使うことも増え、久しぶりの桃園だった。バスターミナルへ行くと、人が少ない。コロナのせいか、バスがかなり減っているように見える。以前は20分に一本あった空港行きも、30₋40分に一本となっており、かなり待つ羽目になる。途中で気が付いたのだが、空港行MRTが出来ており、そちらに乗る人が多いのだろう。

バスの運転手は相変わらず愛想が無く、運転も丁寧とは言い難い。MRTより安いとはいえ、やはり選ばれないかな。空港まで1時間、第2ターミナルは後なので、さらに時間もかかる。

空港内は静かだった。チェックインカウンターにも人はいない。朝夕はかなりいるらしいが、この時間は荷物検査も並ぶことはない。羽田空港の衝撃を体験した後なので、どこの空港も混雑していると思ってしまうが、実はそうではないと分かる。当然飛行機も空いている。台湾にGWはないが、それにしても乗客は少ない。実にゆったりと過ごす。

香港の空港もそれほど混んでいなかった。荷物も預けておらず、すぐに外へ出た。4年ぶりの香港、まずはシムカードを買おうといつものブースを探したがない。香港移動の店舗は撤退しており、シムはセブンイレブンで買えるという。確かに買えたが、カードを挿入してくれるサービスはない。ただ何か説明書のようなものを手渡された。

続いてオクトパスカードの確認。だがエアポートエクスプレスに乗る観光客で行列が出来ている。取り敢えず機械で照会してみると、やはり使えなくなっている。まあ4年も使っていなので当たり前か。鉄道駅のホームにも切符売場があることを思い出し、そちらへ行くと、すぐに対応してくれ、15ドルの手数料でカードは見事に復活した。

目の前に来たエクスプレスに飛び乗る。ゆっくり座れたのでやれやれと思っているとさっき買ったシムカードが作動していない。慌ててもらった説明書を見てびっくり。何と中国だけでなく、香港にも実名制が導入されていた。急いで車内のWi-Fiを繋ぎ、パスポートのスキャンをしたが、揺れてうまくいかない。それでも何故か『開通』通知が来た。よかったと思っていたが、やはり繋がっていなかった。

九龍駅で列車から降りるとWi-Fiが無くなり、スマホは使えない。ここから予約した宿までどうやって行くか。まさにサバイバル状態となる。昔スマホなどない時代は常にこうしていたのだが、今はスマホ無しではどこへも行けないことを知る。うろ覚えでミニバス乗り場を探す。

キレイな九龍駅と異なり、ミニバス乗り場は地下の暗い所にあった。運転手に確認すると頷いたので乗り込む。料金はオクトパスで払えるからよい。乗客は満員。皆ほぼ地元の人々らしい。次の課題はどこで降りるか。まあ成り行きだ。ネーザンロードなど慣れ親しんだ道を横切り進む。

降りる時、ミニバスは自ら合図をしなければならない。ボタンなどないのだ。私は乗客からどう見えているだろうか、と急に思ってしまった。普通話をここで使うことはあり得ない。英語でも良いが、それもなんか変だな。と言って広東語の発音には自信がない。下手に使うと、『変な中国大陸人』扱いになってしまう。結局降りる客に続いて降りたので、声を発することはなかったが、何とも窮屈な香港になっている。いや、これは自分の勝手な問題だろう。

北京及び遼寧茶旅2019(10)北京ぶらぶら

12月21日(土)
北京で

今朝はいつもより早く起きた。そしてさっさと朝食を取り、8時には宿を出た。ついに北京に戻る時が来た。瀋陽駅から北京駅まで行く列車は多くなく、普通の高鉄より時間も少しかかるが、瀋陽北駅まで行き、北京南駅で降りて戻ることを考えると、自分の選択はすぐに決まった。

 

瀋陽駅までは歩いても行けるのだが、ちょうどバスが来たのでそれに飛び乗り、あっという間に到着した。だが駅に行くには地下道を通らなければならず、エレベーターがない所もあって、荷物を持って上がるのは大変だった。瀋陽駅と言えば、確か映画ラストエンペラーの冒頭で、溥儀が連行される場面がここだったのではなかったか、と突然思い出す。

 

列車に乗り込むと、すぐに寝込む。今回の旅で列車に乗るのはこれが5回目、さすがに飽きた。しかも今回は最も長い5時間だ。この列車はこれまで来た道のりを戻っていくだけでもあり、窓の外を見ることもなく、やることはない。当然列車は満員で、居心地がよいわけでもない。

 

何とか午後2時前に北京駅に到着した。この駅から脱出するにはやはり地下鉄しかない。一駅乗って建国門で降り、歩いて宿へ向かう。瀋陽に比べればかなり暖かく、着込みすぎていて汗が出てしまう。宿に到着し、昼を食べていなかったので、前回来た時と同じ麵屋で麺を食べる。

 

その後、地下鉄駅まで歩き、一駅乗って10号線に乗り替え、また一駅乗って先日泊まった宿に行く。実は一部荷物を預けていたので引き取りに来たのだが、1週間前の荷物が見つからず、ちょっと困る。五つ星ホテルと言ってそこは北京か。最後は出てきたので事なきを得たが?

 

建国門で昔馴染みの足マッサージ屋、いまだに12年前に作ったカードが使えるのは有難い。この10年で店舗は相当きれいになり、そして料金は2-3倍になった。いつものようにマッサージお姐さんから、色々と話を聞き、中国の庶民の様子を勉強する。ついでに凝りもほぐしてもらい、一石二鳥である。中国の農村地帯、話によると激変しているらしいが、行ってみないと、実感が沸かない。

 

夕飯はKさんと食べる。今や貴重な東四の老舗北京料理屋へ向かう。ずいぶん前に来たことがあったと思うが、雰囲気はあまり変わっていない。勿論ここも料金は相当上がっているが、何となく懐かしい味がして、嬉しい。ジャージャー麺や腰花などを食べて満足する。ただ土曜日の夜なのに、凄く満員ではないところがちょっと気になる。

 

Kさんは北京B級グルメをよく知る人物だが、北京からどんどん老舗食堂が無くなっていくことに時に流れを感じているようだ。恐らく老北京人も同じ感慨を持っているだろうが、もうこの国の勢いを止めることはできず、ただただ呆然と眺めていくだけだ。古き良き北京、今や建物だけでなく、料理の味や人々の心も失われていく。

 

12月22日(日)
東京へ

ついに東京へ戻る日がやってきた。外へ出るとさほど寒くはないので、帰る前に懐かしい散歩道を歩いてみる。10年前に住んでいた建国門から二環路の内側に入り、社会科学院の脇を抜けて、川弁へ。ここの四川料理は安くてうまかったが、今はどうだろうか。そこから北へ趙家楼飯店(1919年の五四運動の現場)を通り過ぎ、灯市口の方へ歩いて行く。

 

この付近にも古い歴史的な建物がいくつも残っており、歩いているだけで歴史好きには楽しい。清末から民国時代が目の前に現れてくるようだ。ここは何度も歩いているが、何度でも歩きたい場所である。北京の胡同、開発は一応止まっているようだが、改修などの名目で古い建物が建て替えられている姿を見ると、何とも言えない。

 

宿へ帰って時間までテレビを見た。チャンネルは沢山あるのだが、日曜日の午前中は大体ドラマの再放送が多い。しかもいくつものチャンネルで、いわゆる抗日ドラマをやっている。日本軍人役の俳優が変な日本語を使っているのがおかしい。これまでじっくり抗日ドラマを見ることなどなかったが、これは日本でいえば、水戸黄門や大岡越前などの時代劇に当たるのでは、と思ってしまう。何しろストーリーは安定しており、筋は大体は読める。別に中国人も日本憎しで見ている人は多くはないだろう。

 

昼にチェックアウトすると、外にはフードデリバリーのバイクが列をなしている。今や北京も食堂に行かない時代なのだろう。地下鉄に乗り、久しぶりに空港鉄道に乗り換えて行く。車内はかなり混んでいたが、外国人と中国人が席を譲り合って、座っている姿が微笑ましい。今年に私の茶旅もこれにて終了した。来年はどうなるのだろうか。

北京及び遼寧茶旅2019(9)瀋陽故宮と張氏師府

12月20日(金)
瀋陽で

翌朝部屋から外を見ると快晴だった。それで暖かいのかとちょっと外へ出てみたら、ものすごく寒かった。気温は午前8時で零下15度。ほぼ想定したマックスの寒さだった。疲れもあるのでどうしようかと思ったが、ご飯を食べたら気合が入ったので、予定通り出掛けることにした。

 

今日は王道の故宮と張氏師府に行くことにした。ここは10年前には行ったと思うが、やはり歴史を見る上では外すことはできない。今は地下鉄もあるので、外が寒くても、道が凍結していても行くことはできる。中街という駅で降りる。道を間違えて反対に歩くとすぐに立派な建物を見る。1905年に設立された東北三省官銀号、当時東北最大の銀行だったという。だが1931年に日本軍がここも占拠し、資金を持ち去り、営業停止に追い込まれた、とプレートにはある。

 

やはり道は歩きにくかった。雪が残っているところは凍結していて危険だった。それでも何とか10分歩いて瀋陽故宮まで来た。入場料は50元にもなっている。中に入っていくつかの宮殿を見たが、特に日蔭は凍り付いており、危なくてオチオチ見学もしていられない。北京の故宮の小型版とはいっても、それなりの規模なので、途中で投げ出し、無念のリタイア、外へ出た。

 

数分歩くと瀋陽故宮博物院という文字が見えた。ここにも博物院があるようだが、一般公開はされていない。その横に見慣れた立派な建物が見えてきた。張氏師府、東北軍閥の首領、張作霖、張学良親子の官邸及び私邸だった場所だ。中国的な部分と西洋的な部分が入り混じった独特の建物だ。

 

1914年に作られた大青楼が中心の建物で、会議室では軍閥、日本軍など様々な人々が出入りしたとある。彼らの執務室や寝室もここにあった。また趙四小姐楼は側室の建物で、爆破された作霖はここに運び込まれて息絶えたという。尚張学良の弟たちは共産党に入党して新中国を生きた。更には1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した劉長春の写真がある。彼は中国初のオリンピック選手(陸上100m、200m)だが、張学良の支援があったと書かれているなど、知らないことも多く掲示されている。建物の門の前には張学良の像がスッとが建っている。

 

張氏師府を横に歩くと、辺業銀行という名のかつての銀行の建物が出てくる。今は金融博物館となっており、合わせてここも見学する。中は迷路のようになっており、思ったよりははるかに大きい。ここも清末から民国時代、そして満州事変での影響などの歴史が綴られている。

 

瀋陽にも立派な天主堂があると聞き、そこも訪ねてみた。1878年に作られた建物は大規模で荘厳。1900年の義和団事件、1960年代の文革では相当の被害を受けたようだが、今も立派にそびえている。現在信徒はどれほどいるのだろうか。教会の横にはなぜか瀋陽で一番きれいな公衆トイレがあった。

 

天気は良いのだが、昼間でも気温は氷点下。かなり疲れてきたので、宿へ戻る。そして宿の前にあった韓国料理屋で昼ご飯を取る。まあこれも東北らしくて良いかと思ったが、ボリュームはすごいのだが、料理の質はイマイチだった。中国では全体の物価も上がっているが、良いものとそうでないものの価格差がかなり開いていることを実感する。

 

ちょっと休んだだけで、また外へ出ていく。ラストスパートと言ってよいかもしれない。バスで旧日本領事館を探しに行く。結局今は瀋陽迎賓館になっており、建物も建て替えられてしまっていた。その横にはそれらしい建物があったが、こちらはどこぞの公館跡だった。

 

そこからフラフラ歩いて、中山広場の方へ向かう。途中から古い建物がチラホラ出てくる。更に行くと欧風街などと書かれている。皆大体1920年代に建てられているらしい。ということは、瀋陽の街が整備されたのはその頃だったのではないか。かなり歩いて瀋陽駅の近くまで来ると、ここは保存地区なのか、その100年前の建物がズラッと並んでいる。往時は日本人も沢山住んでいたのだろう。郵便局の中の展示室があったりもする。

 

夜はまた面倒になり、宿の近くの店に入った。何となく見覚えのあるメニューで、水餃子を頼んだのだが、何と営口で行った餃子屋と同じチェーンだった。そして同じメニュー、同じ味なのに、餃子が2元高かった。この辺りが中国の地方格差を表しているようにも思う。

北京及び遼寧茶旅2019(8)瀋陽 中山広場から九一八紀念館へ

12月19日(木)
瀋陽へ

いよいよ旅も終わりに近づいてきている。それと共に疲労が出ており、疲れていると眠りが浅くなる。今朝も6時台に目覚め、外を見ると日が昇っていく。宿の食事にも飽きてきたが、寒いので外に出る気にはならない。また茶専門チャンネルを見て過ごすことになる。過去に放送された番組も是非見てみたい内容だ。

 

時間になり、荷物を持って外へ出ると、そこにちゃんとタクシーがやって来て、寒さを感じないうちに、駅まで運ばれていった。今日は省都瀋陽を目指す。駅の中のトイレに入ると、各扉の上に『有人』『無人』を知らせる電光掲示があったので驚いた。こんなの今まで見たことがない。先進的だが、そこまで必要なのだろうか。ただその横で『禁煙』と書かれて壁に手をついてタバコを吸っている若い男がいたのは、明らかに時代に逆行していた。

 

改札時間が来て、ホームへ行くと風が冷たくて思わず引っ込みたくなる。わずか数分間だったが、耐えるのに苦労する。一昨日から東北地方では大雪が降ったと聞いていたが、これまでの暖かな冬が嘘のように寒さが堪える。瀋陽もかなり雪が降ったらしいから、さぞや寒いだろう。

 

列車は僅か1時間で瀋陽駅に着いた。瀋陽に来るのは10年ぶりだと思う。いつの間にか地下鉄が走っており、一駅だけ乗って、予約した宿に入る。ここは繁華街のど真ん中だが、上の階なので、うるさくはない。まだ12時過ぎだったので、外へ出て昼ご飯を食べるかどうか考える。

 

日差しがあるものの、気温は零度前後。おまけに2-3日前に降った雪が残っており、道は滑りやすく歩きにくい。地下鉄の駅名が太原街なのに、その太原街が見つからない。そこは満州時代、日本人が住んでいた中心的な場所だったのだが。ようやくその辺りに行くと、きれいなショッピング街になっていて、ちょっとがっかり。確か大連の天津街と同じ構図になっている。

 

 

ただ日本人町だったことを反映してか、日本食レストランがいくつか見える。スマホで見てみると、割烹清水の名前も出てきたので、ちょっと離れていたが、迷わずそこへ行ってみた。ここは昨年大連でも行った、懐かしの食堂だった。だが、午後1時半過ぎに入ると、お客は殆どおらず、店員は日本語を話して丁寧だったが、全体的には和食屋のサービスでもなく、味もちょっと。瀋陽は大連とは違うんだ、と何となく思う。

 

それからやはり中山広場に足が向く。ここの遼寧賓館(旧大和ホテル)はまだちゃんと営業していた。ここに泊まったのは32年前になる。中に入るときれいなロビーで驚く。横浜正金や三井の入っていた建物も残っているが、公安が使っている建物などもあり、写真を撮るのが憚られた。

 

結構疲れていたが、折角なのでここからバスに乗って、一気に九一八紀念館へ向かうことにした。スマホ地図ではかなり遠いとなっていたので、覚悟していく。このバス、柳条湖橋の手前で降りることになっており、なぜか歩いて橋を渡ることになる。橋の上は強風が吹き付け、気温は零下8度。下は雪が凍結しており実に歩きにくい。何だか試練を与えられたような気分で、前に進む。橋から真っ赤な夕陽が落ちていくのが見える。

 

何とか紀念館に辿り着いたが、トイレに行きたくて仕方がない。受付で聞くと、この展示をずっと行かなければない、と言われ、少しずつ見始めると、止められなくなり、しかし限界が来て?展示内容はかなり刻銘であり、残念ながら日本人が見るには厳しい。参観者のほとんどが中国人であり、あちこちで『日本は本当にひどい』などと囁きあっているのが耳に入ると、困ってしまい、結局かなりの展示を飛ばしてトイレに駆け込む。

 

そしてすっきりして出てくると、もう閉館時間が迫り、半分も見ないうちに追い出されてしまった。柳条湖事件とは何だったのか、満州とは何なのか。考えなければならないことは沢山あるが、考えて分かる話でもないかもしれない。先日登場した張学良などに更に関心が高まる。

 

帰りもバスに乗る。瀋陽駅まで渋滞もあり1時間以上かかった。駅に着くと既に暗くなっており、駅舎のライトアップが美しい。宿の周辺も古い建物にライトが当たっており、ちょっと華やかだ。疲れてしまったので、宿の前の牛肉麺の店に入る。ウイグル系の若者が一生懸命麺を打っていたが、その動作にも疲れが見える。きっと苦労して生きているのだろうな。

北京及び遼寧茶旅2019(7)営口の街を巡る

12月18日(水)
営口で

翌朝はゆっくり起き上がる。やはり疲れが出ているのかもしれない。ただ朝食は最近泊まった3つの宿の中では一番良かったので、少しテンションが上がる。正直外に出るには寒かったが、きょうは営口の全容をつかもうと思っており、勢いで川沿いへ出た。宿の横には古い建物が残されており、ここが税関だった。今は特に使われている様子はない。

 

それから川沿いにずっと歩いて行く。古い建物がポツンとある。対岸には船の修理場も見えてくる。100年前、この地は東北の玄関口として、貿易を担う港であった。3㎞近く歩くと渡口駅という名の渡し場があり、現在も船が運行されているようだが、冬は川が凍結しており、閉ざされていた。

 

少し川から離れると、遼河老街と呼ばれる古い街並みを保存した場所があった。ただ実際には新しく建てたものもあるようで、最近中国各地でよく見られる老街の一つという感じだった。午前中でもあり、寒さもありで、歩いている人は殆どなく、店も開いていなかった。老人が一人、縄のようなものを振り回して鍛錬しているのが面白い。

 

博物館があるということだったが、とうの昔の閉館しているようで、今や建物だけが残っている。仕方なく、現在の港がある所へバスで行ってみることにした。バスは1元でちょっと小型。宿へ帰る途中の道にはやはりまだ微かに古い建物が残されているが、何があった場所かはよく分からない。

 

バスは宿を越えて更に進んでいく。元々は港を中心とした街だから、港周辺には昔栄えた市場や異国風の百貨店などがあり、興味をそそられる。肝心の港には入ることもできず、何も見られなかったが、途中で焼売屋を見つけたので入っていく。モンゴルの稍麦、焼売の原型で大型だ。この店は漢族がやっているようだが、モンゴル族のものとはまた違う。とにかく寒い中を歩いてきて、あの湯気を見ると幸せを感じる。しかも内臓スープ、羊雑湯も、本当に内臓たっぷりに入っており、もう何とも言えない気分に浸り、頬張る。

 

元気になったので、またバスに乗り、今度はお寺に向かう。九重の塔があるという楞厳禅寺。中国で九重の塔はあまり見たことはなかったが、何しろ新しい。文革で荒廃後、改革開放で立て直したのだろうか。敷地は広いがお参りの人が多いとは思えない。更にフラフラと歩き始める。

 

この街にも万達広場があり、今の街の中心はこの付近になっている。更に行ってなぜかちょっと曲がると、そこに営口博物館があるではないか。しかも無料で誰でも入れる。中もまさに私が必要としていた、天津条約、開港、そして満州時代のことがかなり展示されてあり、大変参考になる。大連も港として有名だが、最初に東北で開港したのは営口であり、少なくとも第二次大戦までは、東北の中心の一つであったはず。日本人もかなり住んでおり、商人も多かった。また茶葉貿易も一時行われていた。

 

博物館で満足したが、最後に日本領事館の痕跡がないか、周囲を訪ね歩いてみた。だがどうやら今は学校になっており、何も見付けることはできなかった。日本への思いというのは、特に東北の地で複雑ではないだろうか。体が凍えてきたので、部屋へ戻った。テレビを点けると、習主席がマカオに到着。そうかマカオ返還20周年なのだ。

 

暗くなると昼間通りかかった四川料理屋が思い浮かび、どうしても回鍋肉が食べたくなって出掛けた。何故東北まで来て四川料理とは思うものの、食べたい物を食べるのが一番良いので、そうする。一人だと一品しか頼めないのは辛いが、質はまあまあだったので、良しとしよう。体も温まった。

 

部屋に戻ると茶専門チャンネルで、何と四川の茶馬古道について、かなり詳しいレクチャーが行われていた。様々なルートの紹介から、女背夫の存在まで説明しているから、相当詳しい。来年3月にはまた四川に行き、もっと詳しい歴史を学んで来ようと計画中だったので、30分ほど食い入るように見る。

 

そうこうするうちにサッカー東アジア選手権、男子の日韓戦が放送されたので見てみた。日本チーム、勿論海外組がいないなどで戦力不足かもしれないが、韓国に押されっぱなしで覇気が感じられず、あっけなく敗れてしまった。テクニックだけが妙にあっても、気迫がないプレーヤーは去るべきだろう。また監督についても、さすがに考える時期ではないだろうか。

 

茶専門チャンネルに戻すと、昨晩に続き、学生による、ストーリー性のある個性的な茶芸が繰り広げられていた。こういうのを見ていると、一つの方向性が見えるのかもしれないが、茶とは何だろうかと本気で考えてしまう。茶芸とはその動作を見せるためにあるのだろうか。私は与えられた茶葉を吟味し、いかに美味しく淹れるか、淹れられるか、そのために道具は何を使うかを考えるのが茶芸師だと思っていたが。

北京及び遼寧茶旅2019(6)レトロな街、営口へ

12月17日(火)
営口へ

翌朝は非常に良い天気になった。昨日は何だったのだろうか、と思ってしまう。朝ご飯を食べてから、外へ出た。実は数か月前にもあったことだが、銀行カードがなぜか急に使えなくなってしまったので、急いで銀行へ行く。歩いて1㎞ちょっとの所にあるのだが、道が広くて意外と遠い。

 

銀行に入ると年配の女性が寄って来て、『どうしたの?外国人なの?』と聞いてきて、窓口まで連れて行き、係員にも一生懸命状況を説明してくれた。中国の銀行ってこんなに親切だっただろうか。だが、窓口では原因がなかなか分からない。今日は営口に移動するので、列車の時間もあり、ちょっと焦る。係員はついに、再度私のデータを登録し直したらしい。すると突然使えるようになる。システム上の問題なのか、本当にこういうのは困る。お金が急に使えないのは外国では致命的なのだ。でも銀行側の対応は有難い。

 

急いで宿へ戻り、チェックアウトする。この宿、とても立派なのだが、受付の対応は残念ながら今一つ。急いでいるのに、私の作業を途中で中断して他のことを始めてしまった。何とかアウトさせてもらい、前に停まっていたタクシーに乗る。駅に着くとまだ40分もあったが、私のチケットの列車より早いのはない、とのことだった。

 

何故だろうか。本日向かう営口という街は、その手前で瀋陽と大連方面に分れるのだ。だから葫蘆島を通る列車は沢山あるのだが、私は大連方面行にしか乗れない。このようにして、街の位置関係を理解することも重要だ。大連行きに乗れば1時間ちょっとで営口東駅に到着する。もう列車の旅も慣れてしまい、目をつぶっていると着いてしまう。

 

営口東駅も新しい感じだった。ここから街までは相当に遠い。またバスなども乗り換えないと予約した宿に行けないため、タクシーを使う。日本に比べれば決して高くはないので、つい使ってしまうのだ。営口の街はかなり古びており、歴史好きの私としては、秦皇島、葫蘆島よりはワクワクする。

 

宿も老舗ホテルだった。予約した時は気が付かなかったが、この付近が往時営口の貿易の中心であり、この宿の位置も元々は税関の横であった。裏は川が流れている。天気は良いのだが、川風はかなり冷たい。思えば北京からどんどん北に向かっている。そしていつの間にか遼寧省に入っている。

 

宿の向かいに由緒正しそうなビルがあった。1930年代にできた銀行の営口支店だった。その隣は郵便局の跡、中国赤十字発祥の地とも書かれている。更に道を渡ると珍しい建物が見える。何と旧ロシア領事館だった。実はこの両側にはイギリス領事館と日本領事館もあったらしいが、今はその姿は見えない。ただ更に行くと、立派な教会が今もどんと存在している。往時の営口とはどんな街だったのだろうか。

 

零下の街を歩いていると、実はかなりの疲労感がある。そして腹が減るが、この周辺にはあまり食堂がなく、たまたま見かけた包子の店に入っていく。ドアも2重になっており、急に北国を実感する。包子以外にも豆腐脳も注文し、更にはキムチも出てきてちょっとカオス。だが体は温まってよい。

 

そのまままた歩き出し、宿の裏の川沿いを少し歩いてみたが、残念ながら風が強くて、宿へ戻ってしまった。ベッドに潜り込んで体を温める。テレビを点けると女子サッカー東アジア選手権、中国対台湾をやっている。本来なら北朝鮮が出るべき試合だが、代わりに台湾が招待された。日本にはぼろ負けしたが、今日はかなり頑張って1点差の惜敗。監督も日本人であり、今後向上が見込まれる。

 

夜になると腹が減りまた外へ出た。先ほど見た古い建物はきれいにライトアップされていた。今回は歩いて15分ほどかかる、街の中心部まで行ってみた。小さな街だが、重厚感ある建物も残っている。なぜか水餃子が食べたくなり、チェーン店らしき店に入る。かなりきれいで雰囲気も良く、ここだけお客が多い。

 

餃子は冬至に食べようと思っていたが、今回は冬至の日に帰国するので、東北にいる間に食す。ここの餃子は餡がしっかりしており美味だ。一種類なので飽きてしまわないように、キュウリの和え物も頼んであるので、快調に箸が進む。家族連れもいるが一人客も多く、特に女性が目立つ。これからはこんな店が地方にもどんどんできるのだろう。

 

部屋に帰ってテレビを回していると、何と『茶番組』専門チャンネルを発見した。茶の歴史番組もあり、かなり本格的で一流の先生が講義しており、真剣に見入る。学生の茶芸コンテストはどうかとも思うが、取り敢えずこんなチャンネルがあることに中国の凄さを感じる。日本ではとても成り立たないだろう。

北京及び遼寧茶旅2019(5)氷雨の葫蘆島で

 

夕飯は結局面倒になり、宿の横のウイグルレストランに入って、ラグマンを頼む。出て来た麺、二人分はありそうだ。具も沢山で、自ら麺にかけて食べる。久しぶりに堪能する。小学生の女の子は宿題をしながら、店の手伝いをしており、何となくウイグルを思い出す。もう一度行きたいのだが、今は少し不自由だ。

 

宿へ帰り、またテレビ。もう旅をしているのか、スポーツを見に来ているのか分からなくなるが、年末のグランドファイナルを生中継で見られるのだから、つい見てしまう。バド女子は台湾の戴と中国の陳の戦いとなり、予想を覆して、陳が優勝した。彼女のスマッシュ、コースが独特で実に拾いにくい。

 

併せてサッカー東アジア選手権男子、中国対韓国の試合も見た。どちらも動きはイマイチだが、そこは試合好者の韓国が上手だった。目を引いたのは、中国の監督代理があの李鉄だったことか。彼は中国初のプレミアリーグ選手だったことをよく覚えている。現在中国選手でイングランドに所属している人はいるのだろうか。李の頃は中国ももう少し強かったような気がする。

 

12月16日(月)
葫蘆島へ

翌朝もダラダラ起きる。午前中は休息に当てる。11時前にチェックアウトして、駅へ向かう。今日は高鉄で葫蘆島北駅まで進む。途中昨日行った山海関を通り過ぎ、約1時間で葫蘆島北までやってくる。駅は畑の真ん中に作られた感じが強く、周囲には特に何もない。タクシーで市内中心部へ向かうも、30分ほどかかる。予約した宿に入ると、見かけはかなり立派。区画整理がよくできており、新市街地にいることが分かる。

 

残念ながら葫蘆島で雨が降り出し、かなり肌寒い。昼を過ぎていたが、ちょっと外に出て、麵屋に駆け込み、熱い麺をすする。落ち着いたところで、外へ出るとちょうどタクシーが来たので、港の方へ走ってもらう。港は街から10㎞も離れており、予想以上に遠く感じられた。運転手も『なんでそんなところへ行くんだ』と怪訝そうな顔をする。

 

目的地をスマホ地図で示して、30分ぐらいかけて何とかそこに辿り着く。そこ、とは、第二次大戦後、旧満州などか命からがら逃げてきた100万人の日本人が、海を渡って引き揚げた場所だった。『日本僑俘遣返地』という石碑が建っているが、これは最近地元政府が建てた新しいものだった。

 

いつかは一度、この地に来ようと思っていたが、その日は突然にやってきた。だがこの石碑以外、この地の歴史が感じられるものは何もない。1945年から46年にかけて、着の身着のまま満州から逃げてきた開拓民がここに集められ、寒さの中、日本への帰国を待っていた。それは今日の零下の気温と小雨の中で見ると、恐怖でしかない。日本人は満州で一体何をして、何を得て何を失ったのか、私などには想像もできない。ただただ茫然と佇むのみである。

 

ここを訪れたことを後日、何人かの日本人に話したところ、『実は自分の母親もここから引き揚げたと聞いている』『一度父を連れて行きたかったが、もうそれは叶わない』など、思った以上に反響があり驚いた。そして満州引き揚げの規模の大きさ、身近さがひしひしと感じられた。もし当時の引揚者が今の葫蘆島を見たら、一体どう思うだろうか。懐かしくはあるかもしれないが、決して良い思い出がある場所ではないはずだ。

 

この石碑の海側にも何かあるというので、小山を登ってみた。ここからは現在の港が一望できるはずだったが、霧でほぼ何も見えない。上には『葫蘆島港開工記念碑』が建っていた。1930年とあり、張学良の名前も見える。この時代、東北軍閥の雄、張学良は父張作霖の爆死後、この辺りまでを勢力圏に置いていたことが分かる。そして僅か6年後、西安事件で幽閉され、次に歴史上に登場するのは、1990年の台北だから、あまりに劇的である。

 

帰りのタクシー内で『ほかに古い町並みが見られるところはないか』と聞いてみると、葫蘆島市内は、戦後の建物ばかりだが、もう少し遠くで良ければ明代の建物が残っている、というので、そちらにも行ってみることにした。何しろ雨で動きは取れないので、今日はこのタクシーを使うしかない。

 

遠くとは言ったが、本当に遠かった。一度葫蘆島市内を通り過ぎ、反対方向へ30㎞も進んだ。もう葫蘆島ではなく、隣の市ではないか。興城古城、という名の城壁に四方を囲まれた観光地がそこに出現した。だが冬で雨のせいもあり、観光客は全くおらず、既に切符売り場も閉鎖されていた。仕方なく場内を散歩したが、確かに古い建物はあるものの、現在も人が住んでいるため、その古さが今一つ感じられず、半分ほどで引き返した。

 

これまでタクシーを使って観光地に行くなど、殆どなかったのである意味新鮮ではあるが、ずっと雨に降られたので、何をしに来たのか、よく分からずに終わった。宿へ帰るともう外へ出る気力もなく、ルームサービスで済ませる。色々な意味でぐったりと疲れが出たのかもしれない。気持ちは非常に重かった。

北京及び遼寧茶旅2019(4)山海関と秦皇島

すぐ近くに立派な門があった。今や観光地の秦皇島だから、テーマパークのような公園でもあるのだろう。だが今日は日曜日だというのに、門は固く閉ざされていた。秦皇島の冬は完全なオフシーズンであり、開門しても採算が取れないのだろう。仕方なくその向こうをぐるっと回って何とか海に出た。

 

ビーチがあったが人影はまばら。夏は沢山の海水浴客が訪れるらしいが、本当に冬は誰も来ない。気温はそれほど低くはないが、今日は曇り空。そこへちょうどいい具合に薄日が射してくる。何となく秦皇島の雰囲気になってきているようだ。海から突き出して橋が架かっており、その先に石碑のようなものが見える。そこを渡るのに2元支払う。おばさんが『釣りの人かい』と聞いてくる。

 

渡っていくと、何となく始皇帝が不老長寿の秘薬を求めて渡海する気分になれる。釣り用のボートが横付けされているが、これに乗れば海の向こうへ行けるのだろうか。日差しが少しずつ強くなり、視界が開けてくる感じもある。だがそれ以上は特に何も起こらない。そしてトボトボと引き返すのみ。2200年前、始皇帝は本当に海を渡ろうとしたのだろうか。

 

バス停に戻り、来たバスに乗り込み、街の中心部でバスを乗り換える。ここでスマホ修理屋が空くのを待とうかとも考えたが山海関に行くバスは分かっているので、取り敢えず行ける所まで行ってしまおうと思う。最近の行動としてはかなり無謀だな。33番のバスは、先ほど乗ったバス停も過ぎ、秦皇島駅も通過して、一路山海関を目指す。路線バスなので何十ものバス停で乗客が乗り降りし、かなりの混み具合の中、1時間後ようやく山海関の街に入る。

 

ここは秦皇島とは別の街であり、電車の駅も別にあるようだ。山海関という文字が見える場所でバスを降り、そのまま中に入っていく。かなり歩くと入り口があり、15元を払って入場する。ここの料金も冬季割引があり、50元のところが15元らしい。まばらながらここには観光客がいた。登っていくと、なかなか眺めがよい。建物があり、天下第一関と書かれており、ここから万里の長城が始まるのだな、と思える。

 

関をずっと歩いて行くと、ここを守った人などゆかりの人の展示もあり、興味深い。元々は明末、万歴年間に建てられた建物が多く、それを1980年代に修復している。異民族の侵入を守る砦、明が滅んだときも、ここから満族が侵入してきている。万里の長城の端を見学するには、ここから更に行かねばならないようだが、私は天気の良いここでの散歩で大いに満足した。

 

更には長城博物館にも立ち寄り、長城が2600年も前から作られ始め、各時代の長城の範囲などが地図で示されているのは参考になった。我々が思う長城はごく一部だったということだ。そして抗日戦争中の長城の写真が展示してあり、日本軍が一部を破壊した様子も見られた。

 

またバスで帰ろうとしたところ、ちょうど屋台が出ており、いい匂いをさせていたので菓子餅が食べたくなる。おばさんに注文すると、『微信支払いできるか』と言われ、現金でというと見せろと言う。10元を見せると、何と10元分、ぎっちり詰め込まれた餅が出てきてビックリ。お釣りはないので現物支給だ、と言わんばかりに10元を取り上げられた。今回北京でも、ここまではっきり現金ノーを突き付けられたことはなく、驚くばかりだ。これも観光地での新手の商売戦略の一環かもしれない。

 

バスでまた市内中心部へ戻る。僅か2元でこんなに長い距離を走れるのはうれしい。だがスマホが使えないので正直退屈でもある。バスを降り、見つけたスマホ修理屋に駆け込んだ。おばさんが『どこが壊れたんだ』と聞いてきたので、画面が真っ暗だと告げると、ほんのボタンを1-2押して、あっという間に解決してしまった。ようやく私が何かで操作を誤り、画面の明るさを0にしてしまっただけで、壊れてはいなかったのだと分かる。おばさんも呆れてしまい、『早く帰って、商売の邪魔だ』という顔をしたが、私としてはホッと胸を撫でおろした。

 

バスで宿へ戻ると、またCCTVを点ける。今日は日曜日だから各種目の決勝が行われている。バド男子はシングルスで桃田が優勝。最近の彼の強さは際立っている。女子ダブルスは期待の永原/松本が精彩を欠く試合内容でがっかり。中国ペアの良さだけが目立つ試合となった。卓球も女子シングルスは世界ナンバーワンの陳夢が貫録勝ち。

 

あっという間に外は暗くなり、また夕飯を探す旅を始める。すると向こうの方に鉄道チケットを売る店があるではないか。最近は皆がスマホで予約するため、このような店はどんどん減っているのだが、折角あったので、明日の葫蘆島行きだけでなく、営口、瀋陽、北京と回るチケットを全てここで買ってしまった。日程は固定されてしまったが、もうこれでチケット窓口に並ぶ必要はない。外国人にとってはこういう店に残って欲しい。チケット代も全部で400元ちょっと、やはり中国は日本に比べて相当と安い。

北京及び遼寧茶旅2019(3)秦皇島で、壊れる?!

12月14日(土)
秦皇島へ

今朝はゆっくりと起きて、ゆっくりと朝食を食べて、一行と別れ、北京駅へ向かった。チケットは持っているので悠々と駅舎に入る。本日向かう秦皇島行きの列車は1階の古い改札口から出るらしい。レトロ感満載。久しぶりに、昔の北京駅を思い出させる場所に来た感じだ。まだこんな場所が残っていたとは。改札も自動ではなく、係員が切符を切っている。

 

北京発の列車はどんな時でも混んでいると思う。常に満員、やはり人が多いのだ。列車は冬枯れの田畑を縫って走る。何となく北に向かう感じが出ている。約2時間半の道のり、淡々と過ぎていく。秦皇島駅に着くとそのまま地下からタクシーに乗り、予約している宿へ直行した。

 

ちょうど宿の部屋に入ると、女子サッカー東アジア選手権、日本対中国の中継があったので、取り敢えずそれを見た。日本は日テレベレーザのメンバー中心に、上手い試合運びで勝利した。サッカーでは男女とも日本が中国を上回っている現状が続いているが、中国女子は確実に力を盛り返してきているので要注意だ。

 

実は先日北京のホテルで応急修理したスーツケース、残念ながらまた同じ場所が壊れてしまった。今回は修理不能と診断され、新しいのを買わなければならない羽目になる。こんな時は、いくら1年間の保証がついていても、何の役にも立たないことを知る。壊れた物を運ぶこともできないし、旅は継続しなければならい。何とこのホテルには独自ブランドのケースが売っており、サイズもぴったりだったので、思い切ってそれを買う。

 

そして溜まった洗濯物を洗濯機に突っ込んで、街に出た。既に暗くなっており、観光地巡りもできないので、少し早いが夕飯を探す。近所には食堂が少なかったが、麵屋を見つけて入ってみた。ここで出た麺、いわゆる日本の中華そばによく似ており、あっさりしたしょうゆ味だ。こういうものを食べると、戦後引き揚げてきた人が日本でこのようなラーメンを作ったのではないか、と勝手に想像してしまう。

 

部屋に帰ると、今度は卓球が始まっている。水谷/伊藤の混合ダブルス。決勝の相手は許/劉の中国最強コンビ。初めに2ゲーム取ったが逆転負け。中国選手を追い詰めるが、最後に躱されてしまうの、何とかならないのだろうか。これが中国の底力さ、といつまで言っていても始まらない。

 

洗濯物の乾燥が終わった頃、今度は女子シングル準決勝、陳夢と伊藤の試合が始まる。陳は伊藤対策が万全で、やはり届かなかった。中国女子の層は極めて厚い。若手はこの大会で決勝に進んでも、オリンピック代表に手が届かない。日本のマスコミは取り敢えず『金メダル候補』をやたらに持ち上げるが、本当にメダルが取れる選手は簡単に負けないはずだ。

 

すると今後はバドミント女子シングルが始まり、山口茜と陳雨非が対戦した。この日の陳はいつもより動きがよく、期待の山口も疲れが出たのか、最後は力尽きて破れてしまう。バドでは中国が圧倒的に強いという状況はなく、女子シングルは日本の2人、タイ、台湾、インド、スペインが優勝候補。その中で中国も少し盛り返しているのが不気味である。

 

12月15日(日)
秦皇島と山海関

翌朝はゆっくりと宿の朝食を食べてから、外へ出た。秦皇島に特に用事はなかったが、初めて来たので、河北の守り山海関と秦の始皇帝所縁の秦皇島港は見てみたいと思っていた。まずは宿を出ると公園があったので覗いてみる。そこには石碑が建っており、1893年に中国初の通常軌道鉄道が開通したとある。ここの位置付けは当時一体どんなものだったのだろうか。

 

山海関へ行こうと思い、スマホでバスを検索して、バス停に行くとちょうどその番号がやってきたので慌てて乗り込む。ところが発車して少しすると、どうやら逆向きに乗ってしまったことが分かる。バスは市内中心部へ入ったので、仕方なくそのまま乗って行き、途中でバスを乗り換えて、秦皇島港へ向かうルートに変更した。

 

港が見え、鉄道まで敷設されているのをみたところでバスを降りた。そしてここからどう進もうかとスマホを取り出すと、なぜか突然画面が真っ暗になってしまった。再起動しても動かない。こんなところでスマホが壊れるとは、と愕然となる。しかし時刻はまだ朝9時台であり、スマホ修理屋も閉まっているだろう。取り敢えずここ辺の見学はスマホなしで行けるだろうと思い、歩き始めた。

北京及び遼寧茶旅2019(2)久しぶりに

12月12日(木)
久しぶりに

今日は休養日だった。一行はこの寒いのに、万里の長城と故宮観光に出かけていく。周囲からは『凍え死なないように』などと冷やかしの声が掛かるが、皆意気揚々と出掛けていく。今日は氷点下ではないようだ。後で聞いてみると、長城は風がなく、スカイブルーで楽しかったらしい。私は一行と別れて、一人で行動することにしていたので、寒さは気にならない。

 

まずは地下鉄で北京駅へ行き、明後日北京を離れる際の列車の切符を手に入れる。予約はスマホだが、窓口の混み具合が分からないため、事前に取りに来た。15分程度で受け取れたので良かった。それからまた地下鉄に乗ったが、すぐに前門駅で降りてしまい、その付近を何ということもなく歩き回った。老舎茶館など懐かしい建物がある。この辺りは名もなき古い建物が多く保存されている。

 

そのままずっと歩いて行くと、いつの間にか瑠璃廠まで来てしまった。昔はアテンドでよく来たものだが、今や観光客を含め、歩いている人もほとんどいない。骨董や文具などを買う人もいなくなったのだろうか。そこから更に西単まで行き、いつもの図書城で、お茶関係の本を数冊購入する。

 

なぜか地下鉄を建国門で降り、22日の帰国前日に泊まる予定の宿の場所を確認した。ずっと食事をしないで歩き疲れていたので、ここで麵屋に入った。すると出てきた伝統麺というのが、カレー味で驚いた。回族系の経営だろうか。これが意外とうまく、『最近はご馳走ばかりだったけど、こういうのが食べたかった』と思わずつぶやく。

 

一旦ホテルに帰り休息。実は現在韓国で卓球のグランドファイナルが行われており、CCTVで見ることが出来た。女子ダブルス準々決勝には、平野/芝田組と若い長崎/木原組が登場。勢いのある長崎/木原は見事に準決勝に進んだ。中国は一組しか準々決勝に進んでおらず、中国の弱点はダブルスか、と思わせる。

 

夕方、亮馬橋まで地下鉄で行き、懐かしい三全公寓へ向かう。ここは20年前近所にオフィスがあり、よくランチに来た場所で、その和食屋で故邱永漢氏に出会ったりしたのを思い出す。ここには現在知り合いのTさんの和食屋があり、今日は実に久しぶりに彼と再会すべく訪ねた。

 

5年ぶりに会ったTさんは今日本及びアジアを駆け巡っており、北京にいることは少ないらしく、ちょうど良いタイミングだった。体調が悪い中、カッピングをして、無理して出てきてくれた。何とも有り難い。彼との話は尽きることはなく、開店から閉店まで話し続けてしまった。ご飯もウナギをご馳走になり、とても美味しく頂いた。帰りにトイレに行こうとすると全て電気は消されており、スマホの光で見送られた。

 

12月13日(金)
講座で

中国でも近年クリスマスムードは高まっている。今日はクリスマスツリーも用意され、クリスマスバザーが行われているショッピングモールで演奏が行われた。先日よりも更に人が多く、興味を持って聞き入る人の数も増えていた。人が増えると、演奏者もノッテ来て相乗効果がある。

 

演奏が終わるとすぐに公寓に移動した。午後はここの茶室でお話会がある。ランチはここの1階で取る。この公寓に住んでいる日本人向けに1時間ほど簡単なお茶の話をすることになっていた。ここの住人の3割が日本人だという。折角なので、日本茶と中国の繋がりを説明してみるが、内容的にはどうだったろうか。

 

1時間ほど経つと、下の階から音楽が聞こえてくる。何と今回は茶とジャズのコラボとして、1階でジャズの演奏が行われたのだ。こちらは言葉の問題がないので、日本人以外にもたくさんの参加者があり、子供たちも興味津々で聞き入っている。やはり音楽というものはいいものだ、と実感する。

 

夜はショッピングモール内の杭州料理を頂く。店内の様子が実にユニークで興味をそそられる。そして出てくる料理もビジュアル的に良い。いわゆるインスタ映えを狙っている。ここで今回参加したインド系アメリカ人と南アフリカ人の女性と楽しく話をしながら食べた。彼女らはいずれも医学部の博士課程に在籍しており、趣味でジャズバンドに参加していた。まさに多才ということだろう。

 

部屋に帰ると再び卓球。女子準々決勝で伊藤美誠対佐藤瞳の日本人対決があった。佐藤は中国の丁寧を破って上がってきたが、やはり伊藤には敵わない。CCTVの放送でも、日本チームでマークすべきは伊藤のみといった印象で、かなり詳しく彼女について放送していた。更に広州で開催されているバドミントンのグランドファイナルも見る。日本の有力選手が順当に勝ち上がっていた。