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広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(6)順徳散歩

昼過ぎに外へ出て、ご飯を探す。飲食店が多い道を歩いていると、陳村麺という文字が見え、何だろうと思っていると、老板娘が「これ美味しいよ、入って」というので、釣り込まれる。店は繁盛しており、まあ安心かな。牛腩蒸陳村麺を注文すると老板娘が「麺と一緒に魚皮も食べるといいよ」というので、「一人では多過ぎる」というと、「順徳名物魚皮はサラダみたいなものだから大丈夫」というので食べてみることに。

確かに魚の皮とピーナッツなどを混ぜて食べる、かなりあっさりした食べ物で美味しい。麺は想像通りボリュームがあったが、それでも何とか食べられてしまった。この老板娘、かなりの勧め上手、商売上手。他のお客にも巧みに色々と売り込んでいるが、決して嫌みが無く、素晴らしい接客と言える。最近こういう人を見かけることは日本でも中国でも少なくなった。

腹が一杯になり、散歩が必要だと痛感する。宿のはす向かいには、順徳慈善会という洋風の建物が立っていたが、その裏山に革命烈士記念碑があるというので、登ってみる。これがかなり急な坂道、階段の連続でバテル。息が上がった状態のまま記念碑の写真を撮ると、またすぐ下へ降りた。実は下に古そうな建物群が見えたので、気になってしまう。

そこはお寺だった。西山廟は明代創建で、元は関帝廟だった。桃園の誓いなど、関羽絡みのモニュメントも壁に付いている。境内には道光年間に作られたという大砲も飾られている。アヘン戦争などでこの地が戦乱に巻き込まれたことが想起される。恐らくはこの寺は文革で破壊され、改革開放後現在の姿になったのだろう。

何だかそのまま観光に行きたくなり、車を呼んだらすぐ近くにいた車がぐるりと周辺を回ってきたので、ちょっと驚く。恐らくナビの指示通りに運転しているのだろうが、客が見えているのに通り過ぎるのはどうだろうか。ルートを外れると会社から怒られるのかもしれないが。

30分ほど車に乗る。昨日降りた高鉄順徳駅をさらに越えて行ったから、かなり遠かった。そこは「碧江金楼」と呼ばれる大邸宅だった。ただ遠いこともあり、昨日の清暉園と同様の規模を誇る素晴らしい庭園もあったが、観光客の姿はまばらだった。ここも科挙合格者を出していたようで、教育の重要性が現れていた。メインの金楼、確かに2階の扉などはかなり金で覆われていたが、何となくしっくりこない雰囲気は何だったんだろう。

金楼を出て、大通りを端から端まで歩き、周囲を散策してみたが、観光地に人は殆どいなかった。店の人たちも手持無沙汰で、眠ったような場所だった。今の中国の観光地は二極分化しているのかもしれない。入口の門まで歩き、車を呼んだ。このまま宿に帰るのも何なので、地図で見付けた天后宮へ寄ってみた。ところが午後3時過ぎで門は既に閉まっていた。

横に古い建物があったのでそちらを見ていたら、横から天后宮に入れた。中では数人が集まって何か話していたので、静かに拝んで退散した。ここも明末に創建されたようだが、幾多の混乱の後、現在の姿になっているようだ。そこから歩いて宿まで帰るつもりが、チェーンホテルのもう一つ方に歩いて行ってしまったことに気が付いたが既に遅い。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(5)順徳は華人のふるさと

何となく疲れが出てしまい、部屋に戻って休息する。クーラーがかなり部屋を冷やしており、寒くて仕方がないが、どこを押したら止まるのかも分からない。電話するとすぐに係員が来て、ベッドの横を指す。古い設備を一部変えると、どこがどうなっているのかさっぱり分からない。

夜の早い時間に2階のレストランへ行く。シャワーを浴びて、今日はもう外へ出る気がなかった。お客はまだ誰も来ていない。一人でメニューを見ながら「順徳の名物はどれか?』とスタッフに聞いてみると「炒牛乳が美味しいよ」と教えてくれたが、さすがに牛乳を炒めるという文字に恐れをなして注文せず。

結局魚球と焼きそばを頼んだのだが、非常に美味しかった。そしてそれ以上頼もうとするとスタッフが「一人だと食べ切れないよ」と親切にアドバイスをくれる。こんなところが、売上重視ではなく、何となくよい。そしてお茶はプーアルを頼んだが、一体いくらするんだろうと気にしていると、何と僅か2元だった。一応それなりのホテルのレストランでこの料金は凄い。大満足の夕飯だった。

3月13日(木)順徳博物館で

昨晩はかなり早く寝たので、早めに起床。体調を考えて朝ご飯を抜こうかと考えたが、何となく回復基調だったので、朝粥を食べに行く。ホテル代に朝食が含まれていたので、ちょっと食べるつもりが、そこは広東、飲茶の点心があり、揚げ牛乳まであって、ついたくさん食べてしまう。

腹がくちたので、そのまま散歩に行く。近所に市場があり、人がかなりいる。ご飯が食べられる店は殆ど開いていなかったが、活気はある。その裏側に回ると、所謂老街が広がっており、古めの建物がずらっと並ぶ街並みが出現した。ここは観光客が歩く場所であるようで、老舗と書かれているが店は新しい。

一度宿に戻り、車を呼んで出掛ける。取り敢えず順徳を知るために博物館へ行ってみる。車は20分ほど走り、かなり郊外の新しい街?にやってくる。新しいオフィスや住宅がそこにあり、博物館もまた新しい。ただそこには地元中学生が社会科見学?に来ており、大混雑で中に入れない。そもそも登録とかどうするのか分からなかったので保安に聞いてみたら、そのまま通してくれた。無料。

すぐに目に付いた華人の歴史展示へ。順徳人は香港にも沢山いるが、もっと昔から海外移民していた様子が分かる。具体的にシンガポールなど東南アジアへ移民した人の歴史が細かく書かれていて面白い。ペナンの順徳会館は1838年設立となっているが、随分と早い。バンコク、スクンビットであった上海大酒楼も順徳人がオーナーだった。

更に目を惹いたのは、マダガスカル、モーリシャス、セーシェルなど、南洋、アフリカ沿岸の島々に渡った人々が多くいたことだ。モールシャスの南順会館は1819年設立というのは本当だろうか。また最近大注目のレユニオン島にも同郷会館があり、あの謎の焼売は順徳人がもたらした可能性もある。

そして香港には英領となって以降、多くの順徳人が移住し、李兆基(恒基兆業)、鄭裕[丹彡](新世界)など、香港で世界的な富豪になった人物・一族も輩出している。私としては個々の料理や料理人の紹介なども欲しかったが、それは意外と難しいのかもしれない。他の展示も沢山あったが、中学生がとてもうるさいのですごすごと退散した。

周囲を歩いても面白くなさそうだったので、車で宿へ戻り、荷物を纏めて宿を変更した。近所にあった新しい宿はチェーンホテルの定宿なので、何があるか、どこにあるかなどほぼ分かっている。室内は機能的で、昨日の宿よりかなり現代風。ただ何となく、昔風を懐かしむ気持ちもある。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(4)珠海から順徳へ

何とか山を下りて、そこで車を呼ぶ。取り敢えず辺境へ戻って広場を歩くと、鄧小平の言葉が掲げられていた。珠海も4つの経済特区の1つだったが、深圳ほどは発展しなかった。今の私にとってはホッとする場所だが、ここに住む人々にとってはどうだろうか。その横に珠海駅と書かれた建物がある。行ってみると、何と高鉄の駅だった。

だが切符売場は自販機ばかりで身分証が無いので買えない。聞いてみると外側に窓口があることが分かり、そこへ行って並んだ。昔のような混雑はなく、すぐに順徳行きの切符が買えた。後は部屋に戻り荷物を取ってここへ戻るだけだったが、少し腹も減った。珠海名物はあまりなさそうだったので、気になっていた広西の螺蛳粉を食べてみる。タニシが入っているらしいが、あまり感じられない。少しスパイシーだが十分に旨い。体調も問題はない。

荷物を引きずって駅に戻った。高鉄に乗るには中国人は身分証をかざせば機械を通れるが、パスポートの人は人工入口を通らなければならない。ただ人は多くなく、すんなり入る。更に改札口でも同じことだが、老人のための端のゲートは人工なので問題ない。しかもよく見ていると、機械の真ん中の方にはパスポートでも通れる、との表示が見えたが、どうなんだろうか。

車内は、何と1両の後ろの方に席が無く(臨時の予備席のみ)、荷物が沢山置けそうだ。こういう設備に慣れていると、日本の新幹線は本当に狭くて荷物が置けないと感じるだろう。席は窓側だと思っていたが、そこは窓のない窓側。まあ1時間なので特に問題はないが、周囲の景色を写真に撮るのは難しい。

田舎を走り抜け、高鉄は順徳駅に着いた。ここは中国によくある高鉄駅で、周囲には何もない。出口に白タクが沢山いたが、それを無視して車を呼ぶ。本当に人が少ないので、すぐに見つかる。途中までは田んぼの横を走り、それから街中へ入る。何となく昔の中国旅を思い出す。

今日の宿は敢えてチェーンホテルではなく、香港系老舗ホテルにした。何しろ安いのだ。よくあるパターンだが、30数年前に作られ、既に老朽化は進んでいるが、部屋は広く、眺めがよく、居心地は悪くない。フロントの年配女性もちゃんと英語を話し、サービスも悪くない。何となく昔の香港を思い出す。以前は日本人も良く泊まったのだろう。

その部屋の窓から周囲を見ていると、古い建物が目に入ってくる。ああ、ここが清暉園か、ということは、順徳旧市街の中心に私はいるのだとようやく認識する。取り敢えず下に降りて清暉園を覗いてみる。門のところへ行くと、中国でよくある微信登録が必要だと書かれており、ちょっと面倒だなと思う。だがよく見てみると、「65歳以上は無料、60₋64歳は半額なので窓口へ」とあるではないか。

保安員に聞いてみると、ここは出口で、入り口は向こうだと言われ、行ってみると荷物検査後、さっき見えた切符売場へ。確かにパスポートを見せると半額の切符をくれた。中国の定年は今も男60歳、女55歳が標準らしいが、この60₋64歳の微妙な扱いは経過措置なのだろうか。そういえば珠海に入る時もそう言われたな。

清暉園は清代に栄えた龍家の広大な邸宅だった。観光客もかなりおり、順徳一の観光地のようだった。蘇州などでも見た、池を拝し、石山を築く豪華な庭園、そして立派な建築物。この地域で最も財を成した一族に相応しい邸宅だった。龍家は科挙合格者を多く出し、状元も輩出している。ここには日本の絵馬のような、試験合格を祈った御札が沢山下がっていた。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(3)珠海 宝順洋行の買弁

辺境を抜けると懐かしい拱北口岸の建物を眺める。こんなにスムーズにここを越えたのは初めてだろうか。最後に越えたのは10年前だろうか。何となく広場で休む。そこから歩いてチェーンホテルへ向かうが、思ったより遠い。その間、実に多くの食堂があり、目移りしてしまう。

宿の会員になっているが、全てはアプリ。しばらく使っていなかったので何故か会員カードが出て来ない。既に失効したのかと思ったが、スタッフがすぐに復旧してくれ(私が中国シムを入れ直してパスワードをゲットできた)、安く予約も取れた。本当に中国はアプリ社会になっており、もうついて行けない。

腹が減ったので宿の外へ出たら、横にお粥屋があったので思わず入ってしまった。大腸、たまご、そして野菜を頼むと白粥が付いてくる。現金を出すとちゃんとお釣りをくれた。これはいいと食べ始めたが、野菜がかなりしょっぱい。まあ粥にはいいかと食べ続けたが、どうにも耐えられなくなり、食事は終了となる。それから近所を散策したが、公園まで行ったところで体調不良が襲ってきて、慌てて宿へ逃げ戻る。完全にお粥で体調を崩してしまったらしい。

部屋に戻り、取り敢えず寝る。何となく3カ月も海外に行っていなかったせいか、東京暮らしに疲れが出ていたのかもしれない。寝込んでしまい、気が付くともう夜になっていた。ご飯を食べる気もなく、ただひたすら静かにしていた。何のために珠海に来たのか、などとは考えず、とにかく休む。

3月12日(水)珠海 宝順洋行の買弁

翌朝は体調が回復していたが、念のため宿で粥だけ啜って朝食を済ます。外は雨模様。前途多難だ。少し小降りになったので車を呼んだ。どこへ行くというあてもなかったが、清真寺が珠海にもあると分かり、そこへ行ってみた。しかし寺院は見付からず、シャッターが閉まっているところに清真寺と書かれている。掃除している人に聞いても、よく分からない。その隣にはウイグル料理店があったが、こちらも時間が早くて開店していない。

何も得られず、フラフラ歩いていると、愚園と書かれた場所があった。レストラン街かと思って入ってみると、その奥は公園になっており、誰かの像があった。その説明書きを読んでビックリ。彼は徐潤、清末の実業家だった。そして彼もまた買弁から成り上がり、宝順洋行で茶貿易をしていた。その後は招商局に入り・・。あれ、先日マカオで見た鄭観応とほぼ同じ経歴ではないか。何と彼らは晩清の4大買弁と呼ばれていたらしい。

ここは徐潤の邸宅があった場所だったが、文革中に徹底的に破壊されたという。マカオの邸宅は残っていたが、こちらは政治の荒波を潜っている。今も立派な池はあるが、建物などは一部復元されただけで、林の中に遺跡のように建物の一部が木に寄りかかっている。この徐潤についても鄭と同様、ちょっと調べてみたい人物だ。

何だか突然のことに気分が晴れて歩きたくなる。かなり歩いて行くと将軍山に出た。何となく遺跡でもあるかと登り始めたら、ものすごく急な階段がいくつもあり、途中から引き返すことも出来ず、疲労困憊した。頂上付近に行っても景色すらよく見えない、最悪の山登りとなってしまった。別ルートで降りていくと体操していた女性が「あれ、山頂は雨が降ったの?」と笑っている。確かに私の衣服は汗でずぶぬれ状態だ。でもこんな気楽な会話は好ましい。珠海にいくつか丘があり、自然がある。ちょっと住んでみたい街だ。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(2)マカオ 宝順洋行の買弁

3月11日(火)マカオ 宝順洋行の買弁

翌朝は快晴で散歩に出た。ネット検索で探した朝食屋が見付からない。遠くにマカオタワーが見えた。そこから何故か丘を登ってしまう。ずっと進んでいくとリラウ広場(亞婆井戸)という井戸がある公園に出る。ここはポルトガル人が最初に住み始めた地区の象徴的な井戸と言われているが、何とも気持ちの良い場所だ。そのすぐ近くに鄭家大屋という屋敷が見えたが、まだ開いていなかった。

その坂を下っていくと裏道へ出た。そこには活気があり、その昔を彷彿とさせる雰囲気が漂っていた。いい湯気が立っている食堂に想わず吸い込まれたが、店員は「ここで食べるの?」という顔をした。周囲は大声で広東語を話し、酒を飲んでいるおじさんばかりだったが、なぜかそこで食べたかった。勇気を振り絞って焼売と焼き豚を注文する。お茶も出てきたのでゆっくりと飲む。この店、近所の人は弁当を買う場所のようで、多くの総菜が並んでいた。

その周辺に観光客はいない、地元民溢れる場所だった。その先にはきれいな街市があり、その2階には店が並んでいる。ご飯は食べたのだが、ミルクティーは飲みたかったので注文した。香港ではこんな風にして淹れただろうか。店のおばさんが丁寧に教えてくれたが、美味しくは淹れられなかった。

そこからバスに乗り、媽祖閣へ向かった。地理が良く分かっておらず、僅か数駅で着いてしまった。ここには観光客が大勢来ていて、登りもきついので、途中で断念した。媽祖閣はマカオという地名に繋がる重要な場所だが、訪ねたのは20年ぶりだろうか。懐かしいというか、なんかポカンとしてしまう。

ポカンとしたまま、また歩き出した。緩やかな坂を上っていくと、何とさっきの井戸に出た。そしてさっきは開いていなかった華人屋敷の扉は開いていたので、思わず吸い込まれた。まさかマカオにこんなに大きな中国人の屋敷が残っているとは意外だった。広々とした空間、きちんと修繕された家屋、一体ここは誰の邸宅だったのだろうか。

それを知るには向かいにあった記念館に入る必要がある。鄭観応は清末民初の実業家・思想家。ただ私が何より目を引かれたのは、彼は宝順洋行の買弁からのし上がったということだ。当然茶貿易も行っていただろう。全く同じような買弁として、台湾茶の李春生がいるが、何か関連はあったろうか。その後鄭は招商局に入り、李鴻章との関係も深く、多くの事業を手掛け、財を成している。この邸宅は1869年に建てられたというから、招商局の前からかなり儲けていたということか。まあ、とにかく鄭観応については今後も調べてみたい。

そこからまた歩いているとマカオらしいきれいな教会があった。更に行くとついにセナド広場まで歩いてしまった。さすがに疲れが出る。宿に戻って少し休み、チェックアウトしてバス停に向かう。すぐにバスが来て、珠海とのボーダーまで運ばれていく。今やバスも地下駐車場に入り、そこから辺境へ向かう。

懐かしい門が見えた。そこは1987年初めてマカオに来た時に見た門だった。マカオ出境はいとも簡単だったが、中国側も思っていたよりはるかに人が少なかった。外国人ゲートは1つしか開いていない。ただその横に優先ゲートが開いていたのでそちらに回ったら、係員が「あなた、60歳以上なんだから、最初からここに並びなさい」と言われて驚いた。中国の定年は今も60歳なんだ、そして外国人も優先されるんだ、とふと思い至る。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(1)初めてのマカオ航空でマカオ空港へ

《広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025》  2025年3月10日‐14日

中国行きにビザが不要となったので、2025年の旅の主要テーマは必然的に中国になった。おまけに最近は茶の歴史をそろそろ引退し、食の歴史に転換したいと考えるようになっている。天津飯は天津にあるのか、と同様に、広東麺は広東にあるのか、など、ちょっと気になるテーマを持って広東へ向かう。

3月10日(月)マカオ航空でマカオへ

折角自由に広東に入れるので、どこから入ろうかと検索してみたら、ちょうどマカオ航空の成田‐マカオ線が目に入った。これまでマカオに空港があることは知っていたが、使ったことはないし、マカオ航空など考えてもしなかった。料金も手ごろなので、久しぶりに成田に向かった。

電車で安くいくには本八幡から京成八幡で乗り換えるのだが、この2つの駅の中間に日高屋がある。最近はほぼ行かないのだが、急に食べたくなることもある。五目あんかけラーメンと餃子のセットを注文したが、ある意味で今回の広東行きの目的の一つはこのあんかけ麺(広東麺)が広東にあるのか、という謎解きにあるので、まずは東京で食べる。

成田空港は久しぶりで慣れが無い。更にマカオ航空は初めてだったので早めに到着したが、何とチェックイン開始は2時間前からだったので、時間を持て余して店などを見て回る。2時間前にカウンター付近に行くと大混雑。だが係員からANAメンバーですか、と声を掛けられ、ちょっといいカードを持っていたら、すぐに横からチェックインさせてくれ、ANAと提携しているとのことで、マイルも付いた。税関も優先レーンを通り、初めて行くラウンジには人があまりおらず、ゆったりと過ごした。

飛行機は中型機で、8割程度の乗客だった。その多くはマカオパスポートを持っていたが、広東語ではなく普通話を話す人が多いと感じられた。日本人は多くはないが、子供を連れた日本人女性がいたので、珠海あたりの駐在家族かとみた。機内サービスは悪くなく、何と今時新聞が配られたので、思わずもらった。フライトは5時間近くかかり、夜のマカオに降りた。

マカオ空港に初めて降りた。日本人母子はすぐに中国方面のルートへ向かった。私は普通に入境に並んだが、進むスピードは速くスムーズに入れた。ここから路線バスに乗ろうとしたが、乗り場が見つからず、聞いてみたら、リズボア行きのバスに乗ればと言われたので、そちらに向かった。すると上の方を電車が走っているではないか。なんだ軌道車もあったのか。更にはカジノ行きのバスは無料で運んでくれたが、途中で一度乗り換え、その乗り換えが意外と大変だった。乗客は広東語を話す中国人が多い。マカオ空港から市内は意外と遠い。

何とかリスボアまで辿り着き、直前に予約した古いホテルにチェックインした。部屋は広くてよいのだが、機能性はあまりない。とにかく腹が減ったのだが、元気もない。見るとホテルの前に昔よく行ったポルトガル料理屋があるではないか。午後9時過ぎで客はいなかったが入ってみた。やる気のない従業員が面倒くさそうに対応してくれた。ここのスープは美味しかった記憶があるが、今日はそれほどとは感じない。料金だけは20年前の数倍になっているが、サービスはがた落ちだった。勿論カジノなどへは行かず、すぐに寝た。

極寒北京旅2023(4)寂しい茶城

北三環の北側にある茶城へ行く。昔馴染みのお茶屋さんがあったので顔を出してみたのだが、そこはかなり寂しい状況になっていた。午前中とはいえ、半分以上の店は閉まっていた。馴染みの店も移転して小さくなっていた。コロナがそんなに大変だったのかと聞いてみると『コロナ中はまだよかったが、今年は本当に景気が悪くて、お茶が売れない』と嘆いている。日本の報道でも中国経済の低迷は言われていたが、ここでそれを実感した。いや、思っていた以上に深刻なような気がした。

それでも馴染みというのは有難い。美味しいお茶を淹れてくれ、スマホアプリで食事を取って、ご飯を炊いて、もてなしてくれる。出会った頃に生まれた長男は今や高校生になっているという。月日の経つのは早いものだ、と思うと同時に、彼らの将来がちょっと不安になる。まあ日本も同じような状況ではあるので、大きなお世話というものか。

そこからバスに乗り、西直門へ向かった。交通カードがあるので思い切ってバスに乗れた。バス代は市内中心なら1元と地下鉄より安い。そのせいか、寒い中を老人が沢山乗っている。数日前に降った雪も解けておらず、道は滑りやすくなっていたが、何とか目的地まで辿り着く。まあ北京では昔からこうだったのだ。

西直門をちょっとフラフラすると、胡同と書かれた場所があったが、既にすっかりきれいになっていて、私が思う胡同ではなかった。駅のところには大きなショッピングモールがそびえており、これがどこにでもある日常風景となってしまっている。その中に入ると、なぜか日本のアニメキャラクターなどが登場して驚く。

待ち合わせに指定された書店へ行く。うわさでは聞いていたが、本屋へ入ると三島由紀夫や川端康成など、日本人の作品が目を引く。そしてこの本屋、奥にカフェが併設されており、多くの若者が本を読んでいる。友達とお茶しながらしゃべっている人などいない。店内に静寂が走る。これが今の北京か。

待ち合わせたが、とてもこのカフェでは話が出来ないので、別の店へ入る。こちらは、携帯で通話しているおじさんもいて、普通に話が出来る。Sさんとは以前1₋2度会ったことはあるが、それほど多く話をした記憶はない。先日ベトナムへ行き、以前北京に住んでいた方と会った時に名前が出たので、懐かしいと思い、連絡してみた。最近は新刊本も出版して、順調のようでよかった。色々と北京の内輪話も聞けて楽しかった。

帰りは2号線で東直門へ行き、そこからバスに乗る。バス停近くから見上げると、空が何ともいい感じだった。以前の北京はスモッグが酷かったが、今や空が澄んでいる。少し腹が減ったので、羊湯を飲んで温まる。しかしこの辺はどこもかしこもチェーン店ばかりで面白みはない。

11月28日(火)東京へ

北京最終日の朝。寒さの中、散歩に出る。風が強いと寒さが増す。三元橋付近はオフィス街なので、面白そうなところはない。ちょっと行くと北朝鮮レストランがあったぐらいか。早めに宿を出て、車を呼び、空港へ向かう。空港タクシーは100元近くかかったが、今回は時間的にも早いし、代金が50元代と半額近かった。やっぱりボラれたんだ。

チェックインも東京へ帰るだけなので至極簡単。緊張感はまるでない。今回は日系の航空会社で楽ちんと思ったが、まずは冷たいドリンクしか出て来ず、機内食は選択できず、最後にはこの寒いのにハーゲンダッツのアイスが出る。まるでお腹が痛くなってしまうようなラインナップに閉口した。まあ昔からそうだが、とうとう乗客の主体が中国人に移ってもサービスは変えない。素晴らしい持続性だった。私も心を穏やかに持続して機内で過ごした。

極寒北京旅2023(3)寒い日は鍋

11月26日(日)寒い日は鍋

昨日は久しぶりの北京で張りつめていたのか、疲れを感じなかったが、さすがにチェンマイからの移動とこの寒さでかなり長い時間寝た。そして朝飯は宿についていたので、昼前まで外へは出なかった。シャワーを浴びるのも、部屋は十分暖かいはずなのに、意外と寒い。これが北京の冬だなと何となく思い出す。

昼前に宿を出て近所を歩く。何だか立派なビルが沢山建っている。その反対側には小さな食堂が軒を連ねている。いい湯気が上がっているところもあるので、ちょっと食べたい気分になる。だが約束があった。Sさんが予約してくれたお店も、また石鍋だった。やはり冬の北京は鍋が定番、ということなのだ。しかもこの鍋、最近流行っていると言い、選んだ立派な魚をぶつ切りにして、鍋にぶち込む。確かにこれは旨い。そしてスープもいい感じだ。湯気が上がるパフォーマンスも人気のようだ。

Sさんとも久しぶりなので、話がどんどん進んでいく。最近の中国の話しから、仏教の話など、話題は多岐に渡り、止めどなく発展していく。気が付けば、周囲にいたお客は皆帰ってしまい、3時間も話し続けていた。2人ともおしゃべりなのは当然だが、コロナ禍の長い期間を経た上での会話だった。中国の店は、何時間居ても、出て行けとは言わない。

店を出て三元橋駅まで歩いて行く。意外と遠い。その上工事中で入口が分かり難い。そこから地下鉄で西単へ向かった。昨晩Iさんに交通カードをもらったので、今日からは切符を買う必要がなくなり、何とも快適になって嬉しい。西単には大きな本屋があり、以前も良く行っていた。だが行ってみると、図書大厦の中はかなり変わっており、おしゃれな本屋のようになっている。お茶関係専用コーナーも何とか見つけたが、最近の流行り、傾向をよく表していて、私が探している本はなかった。

宿近くまで戻ってくると、既に夜の帳が下りていた。月はほぼ満月。シンとした北京の夜だった。昼が食べ過ぎだったので軽く麺でも食べようと思い、山西刀削麺の店に入ったが、その量は南の物ではなかった。味はまあまあだったが、もっと美味しい所があったのでは、と思ってしまった。何となく物足りなくて、帰りに清真の売店で煎餅を焼いてもらい、持ち帰って食べる。何とも温かく、懐かしい。

11月27日(月)久しぶりに茶城へ行くと

今朝は天気が良いようだ。ダラダラしながら、朝ご飯を宿で食べる。まあここの食事はどこでも同じようなものなので、お粥とフルーツを中心に頂く。部屋に戻ろうとすると、何とお掃除ロボットが、私の後に来たおじさんについて動き、何とエレベーターにまで乗り込んできて驚く。何と可愛げのあるロボットだろうか。後で聞けば、これはお掃除だはなく、配送ロボットだったか。

朝ご飯を食べると出掛けることになっていた。バスで行くには面倒な場所。ついに車を呼んでみる。アプリも入れてみたが、ちゃんと起動しないので困ったが、フロントで聞くと、支払いアプリからそのまま呼べると聞き、やってみるとちゃんと車が来た。そして支払いは勝手に引かれるので、何も考えなくてよい。これは本当に楽だった。Grabの上をいっている。

極寒北京旅2023(2)懐かしい北京

取り敢えず空港タクシーに乗る。本当はアプリで呼びたかったが、待ち合わせが難しいと聞いていたので、仕方なく乗る。年配の女性運転手だったが、訛りが酷くて半分も分からなかった。真っ暗な中、車は何となくいつもと違う道を進んでいるような気がする。コロナで4年ぶりの入国だから景色も変わっただろうか。予約した宿に着くと、料金は100元近くなっており、更に運転手はチップをくれてせがむ。もうこういう時代遅れな運転手は空港ぐらいしか商売できないのだろう。

宿に入ると、『昨日は金曜日で本当に満室だったので、まだ部屋の準備が出来ていない。午前9時にもう一度来て欲しい』と言われる。日本だったら午後3時に来てくれだから、やはり中国のサービスは良い。荷物を預けてカフェにでも行って待つことにしようと外へ出た。まだ零下6度の表示、夜明け前の街だが、何故かそれほど寒さを感じない。

懐かしい亮馬橋までやってきた。この辺にマックがあるのだが、何となく地下鉄に乗りたくなり、駅へ降りていく。自販機で切符を買おうとしたが、何と身分証をかざさないと買うことが出来ない。仕方なく窓口を探して買う。駅名を言わないといけないので、思いつくまま国貿と言ってしまう。北京市民はQRコードで乗車しているらしい。

さすがに土曜日の午前7時前。地下鉄は空いていた。老人が多い気がしたが、彼らはほぼマスクをしていた。コロナに加えてインフルも流行しているとの話があったが、チェンマイでマスクをしなかった私はそのままにしていた。国貿で降りて、中国大飯店のロビーを通り、懐かしいその辺の道を歩いてみた。勿論ビルは変わっていないが、店などは大きく変わったように思われる。

歩いていると少し寒さを感じてきたので、急いでマックに入った。朝食セットとして、お粥とマフィンがあったので、それを注文してゆっくりと食べた。ダラダラしていると宿に戻る時間となり、また地下鉄に乗って戻る。何と小雪が降り出した午前9時過ぎ、無事にチェックインして部屋に入り、とにかく疲れたので寝ることにした。

11時半に部屋を出てまた亮馬橋方面へ向かう。燕沙から歩き、光明飯店まで。25年の昔毎日のように歩いた道だった。勿論今や立派なビルが並んでいるが、その道自体それほど変化はない。光明飯店は当時オフィスがあった場所であり、私が中国を学んだ辛く厳しい学校だった。3階に行ってみると、全く雰囲気は変わっていたが、建物の構造は一緒なので、何となく懐かしい。

地下1階に何軒かの日本料理屋が入っている。その中の一軒でTさんと会った。そこにはMさんも同席していた。この店はTさん経営であるが、コロナ禍を潜り抜けるのはさぞや大変だっただろう。そんな話やら、旅の話しやらを長々としてしまった。立派な天丼もご馳走になった。

夕方の北京は風も出てきて、寒くなっていた。また地下鉄に乗り、10号線、1号線、4号線と乗り継いで、西四駅で地上に上がると、既に暮れかかっていた。何だか懐かしい北京の下町風景が蘇る。高層ビルやきれいなショッピングモールではなく、20₋30年前の古き良き北京がそこにはあった。

今晩はKさん、Iさんと砂鍋居で食事となった。この店に来たのは10数年ぶりだろうか。以前から西側にはあまり来ないので随分とご無沙汰した。砂鍋白肉など美味い食べ物がいくつも出てきて嬉しい。やはりこの濃い味付けが無性に食べたくなる時があるのだ。白菜と辛し、ナス炒め等、何気ない物が特に美味いと感じられるのは、少し感傷的になっていたからだろう。

Kさんはコロナ禍の4年ほど、北京から動かなかったようで、さすが北京好きとは思ったが、その実は相当大変だっただろう。Iさんはコロナ禍に北京に復帰していたので、これはちょっと驚いた。私は南方人なので、決して北京が好きだとは言わないが、北京に良い所がいくつもあるのは知っている。帰りはKさんに車を呼んでもらい、宿へ戻る。

極寒北京旅2023(1)緊張の北京入国

《北京2023》  2023年11月25₋28日

チェンマイからどのルートで帰ろうかと検討した。バンコク経由を避けると、北京経由が浮上した。しかも中国に行くにはビザ取得が必要になった中、何故かトランジット入国という制度があることを知り、試してみることにした。しかし30度を越えるチェンマイから零下の北京へ(日本を出る時は想定していなかったので冬服は持っていなかった)。果たして入国できるのか、そして寒さに耐えられるのか。

11月25日(土)緊張の北京入国

ちょうど北京時間午前零時、エアチャイナはチェンマイ空港を飛び立った。お客はたぶん半分もいなかった。やはり中国人観光客が戻っていない、は本当だったということか。離陸前、CAがあたふたとやってきた。何と私の通路の反対側の席で雨漏りが発生した模様だ。どうやら乗客が荷物に液体を入れており、それが漏れたらしい。

私はもう眠くて仕方がない。飛び上がるとそのまま寝てしまった。2時間ぐらい経ってトイレに起きると、既に食事は配られ、皆食べ終わっていた。フライト時間はわずか4時間ちょっと、1時間前になると機内が明るくなる、するとCAが飛んできて『あなた、ご飯食べなかったでしょう?今食べる?』と聞いてくる。

それを断ったが、2分後にはもう一人がまたやってきて食事を勧める。更には男性がやってきて『大丈夫ですか?北京は零下8度ですよ』と声を掛けてきた。こういうおせっかいはある意味ではうっとうしいのだが、決して嫌いではない。某国航空会社のルール重視のサービスよりは余程好感が持てる。

午前4時に北京空港に到着した。チェンマイの夜との気温差は約35度。空港内はしんと静まり返えっていたが、寒さはあまり感じない(ウルトラライトダウンの下にヒートテックなどを重ね着している)。とにかくトランジット入国の許可をもらわなければならないが、その表示があるものの、場所が分からず、入国審査場まで行ってしまう。実のその前を右に行ったところにちゃんとしたカウンターがあったのだが、気が付かない。

カウンターにはヨーロッパ系の観光客が数人並んでいた。既にこの入国方法は144時間ルールとして、知られているようだ。一人一人意外と時間が掛かる。よく見ると私の前には日本人もいたが、何と宿泊先を答えられずに、バッグの中を懸命に探している。私の番が近づき、緊張が高まる。

20分ぐらいで私の番が来た。東京行きのチケットとパスポートを渡すと、『北京の滞在先は』と聞かれ、スマホアプリで予約画面を提示したが、予約だけで支払いがまだだった。『なぜ支払わないのか』と聞かれたので喉元まで『入国できるか分からないから』と出かったが飲み込み、支払いを行う。ところが支払いが出来ない。これには焦ったが、その後何とか出来て、無事に臨時入境証シールが貼られた。

そこから入国審査に進み、午前6時前には無事北京の地を踏んだ。まずは預け荷物を回収したが、完全に1つだけポツンと放置されていた。外へ出たが、荷物も大きく、電車に乗る勇気もない。飲み物が欲しくてローソンを見付けて、ポカリスエットを買って飲んだ。ようやくホッとした。

周囲を見渡すと以前は沢山あった銀行の両替所が一つも見当たらない。インフォメーションで聞いてみると、何とこの入国フロアーには両替所は全くなく、1階上の出国フロアーに僅かにあるだけだという。これは中国国内では現金がほぼ使えない状態であり、中国人が海外へ行く場合の両替だけが必要だと暗に言われているようなものだった。