チェンマイ滞在記2023(2)清真寺とベトナム料理

またバイクを呼んで宿に戻る。今度はメーサローンビラの娘、JuJuが車で来てくれた。彼女には昨年お母さんから借りた本を返したくて連絡した。女子大生だった彼女とメーサローンであったのはもう11年前。当たり前だが、随分と大人になり、今や2人の子供の母親だという。

車で城内の麺屋に連れて行ってもらい、麺を食べる。不思議な色で汁も甘い麺、イエンターフォー(インスタ映えするのか、日本人も注目の麺)を注文する。コーヒーを飲みながら食べるというのが如何にもタイだと感じる。彼女は少し不動産関連の仕事をしていたらしい。チェンマイには大量の中国人が不動産を買いに来ており、定住者が増加しているが、その目的は子供をインターに入れるためだとか。勿論不動産価格は中国の半分以下だから、結構な需要があるらしい。

その後行きたいところに送ると言われたので、リンピンスーパーまで送ってもらって別れた。ただここは高級スーパーで買いたいものはなし。それから歩いて橋を渡ると、雲南回族エリアに出た。王和清真寺というモスクがその中心。近所でムスリムカオソイを食べる。麺が独特で、味もチェンマイカオソイとはちょっと違うように思う。

その向かいで餅を焼いていたおじさんがいた。雲南回族だが、台湾に出稼ぎ経験があり、華語を普通に話す。なぜかミャンマーロイヤル(ティミックス)を売っているのが面白く、思わず購入。物流の回族、その歴史は今も続いているのか。モスクはかなり立派だが新しい。学校も併設されている。このモスクは元々1915年に鄭という人が中心となって建てたらしい。あの鄭和の子孫かな。

ターペー通りまで出た。ラミンカフェを見てみようと立ち寄る。100年以上前のランナー様式のビル。中はきれいなカフェとなっており、庭まで続いている。手前ではセラミックが売られている。絵に描いたような女性向けカフェで、その歴史には大いに興味はあるが、私の居場所はない。

そのままランドリーを探して歩く。昔は1㎏30バーツ程度で洗濯してくれたのだが、今はどこを見ても50バーツになっている。コインランドリーもあるのだろうが、今のところ見付からず。疲れたので宿で休息する。東京の寒さから解放されたと喜んでいたが、やはり疲れが出たらしい。夕飯を食べる気力がない。さっき買ったパンをかじって休む。だが夜9時、急に腹が減り、隣にバーガーキングに駆け込み、安いバーガーを1個買って部屋で食べる。

1月20日(金)日本語の先生と

疲れが残ったのか、朝も起きられず、昨日歩いた回族市場で開かれている金曜朝市に行けなかった。とても残念だ。そうこうしている内に、紹介されていたチェンマイ大のPさんが会いに来てくれた。彼女はチェンマイ大学卒で、日本に留学して、修士、博士を取ったというからすごい。もちろん日本語は完璧。

博士論文は『佐渡島と観光』だったとか。何とどんよりした日本海が好き、魚とお酒が好きというまるで日本人のような女性だった。現在偶然サバティカルで時間が自由になると言い、近所のカフェでコーヒーを飲みながら話す。その後ホテルのロビーに場を移して話し続ける。

Pさんはチェンマイ生まれではなく、バンコクの福建華人(曾祖父と祖父が福建から)。父親は医者だという。華人ながら華語は全く出来ない。何と日本語を勉強してから漢字の意味が分かるようになったというから驚いた。北タイ料理は全般的に口に合うが甘いのは嫌い、 辛いのが好きらしい。

観光業中心のチェンマイはコロナ禍で大きな影響を受けた。ただ外国人は来なかったがタイ人国内旅行を政府が支援して、全体的な損害は思ったよりは少なかったという。ランチは地元民が行く広い店舗で、ベトナム料理を食べる。ライスペーパーが懐かしく、美味しく頂く。お客が多いのは何となく新鮮。

チェンマイ滞在記2023(1)チェンマイ滞在スタート

《チェンマイ滞在記2023》  2023年1月18₋1月24日

昨年はポストコロナ、バンコクベースで3か月動いた。その中でたった1泊、チェンマイにも滞在した。何だかここに逗留したい、という思いが募り、後輩Uさんのアレンジで、新年早々やってきた。初めてのチェンマイ1か月滞在、果たしてどうなるのだろうか。

1月18日(水)チェンマイへ

バンコクに到着して、2日ほどルーティーンのような日々を過ごし、いよいよチェンマイに向かう。午後のフライトだが少し早めに行こうと、Grabで車を呼んだところ、何と到着まで30分もかかる。バンコクの渋滞も本格化し、同時にGrabでは車が捕まらない現実に出会う。更には車代、高速代で600バーツもかかると、いくら30分で着いたとはいえ、これもご時世と感じる。

ドムアン空港も以前より混んできているが、私の乗るタイライオンエアーのカウンターはいつも空いているので有難い。今日は荷物を預ける必要があったが、重量は全く問題がない。搭乗には早過ぎるので、ランチを食べる。これも前回同様の食堂へ行き、焼きそばにした。意外と旨い。荷物検査もそれほど混んでいない。ただフライトはかなり混んでいた。さすがチェンマイ行だ。

チェンマイ空港に降りたのは10年ぶりだろうか。まずは実験として、空港から宿までの交通手段を確認する。空港タクシー150b、Grab200b、Bolt78bで完全にBoltに軍配が上がる。しかも自家用車ながら、空港に普通に迎えに来てくれたので、全く普通のタクシーと同じ。次に車を待っている間に、1月から解禁となった中国人観光客を探すも、全く発見できず。ただ旧正月の飾りだけが空港にあった。個人客が解禁になっても団体は来ないので目立たないのだろうか。

ターペー門の真裏の宿まではすぐに着いた。古い建物だが場所は便利で、意外と快適。さすがUサン推薦の宿だけのことはある。長期滞在しても、水、お茶、コーヒーも毎日支給され、電気代、水道代などは宿の料金に含まれていて不要。バンコクの定宿より安い。プールが見える部屋に入ると、ゾウさん(タオル)がお出迎え。NHKは映るが、テレビは見ない。

チェンマイの夕方はバンコクより涼しくて気持ちよい。ちょっと疲れたので、夕飯まで休み、前回も食べた牛肉麺屋へ行く。昨年と比べればかなり観光客が増えており、店はほぼ満員状態だった。夕食後、セブンへ。チェンマイの旧市街地にはコンビニはあるがスーパーが無いのが難点。ドリンクを買って部屋に戻る。

1月19日(木)懐かしい人々

朝ご飯を買いに、ネットで検索したパン屋へ向かう。朝はかなり涼しく上着を着て出て行く。散歩が何とも気持ちよい。店はカフェも併設しており、白人がパンを食べながらコーヒーを飲んでいる。中に入るとクロワッサンなどが並んでいたが、値段が付いておらずよく分からない。適当に選んでテイクアウエーする。バンコクより安く、クロワッサンが旨い。

帰りにターペー通りを歩いていたら、薬局で薬草茶を売っている。1杯5バーツ。戦前からある華人薬局だとなぜか日本語でも書かれている。そこに如何にも様子の良い華人老人が茶を飲んでいるのが絵になっていると思い話し掛けたら、何と日本人のおじさんだったので驚く。毎年冬だけチェンマイに来て13年(コロナ禍は除く)になるとか。

宿に戻り、もう一度外出する。Tea galleryを再訪する予定だが、何とBoltなどのアプリでは車が捕まらない。仕方なくバイクを呼んでみる。バイクはスイスイ走るし、料金も安いのだが、結構寒い(1月のチェンマイの最低気温は15度前後)し、何と言っても飛ばすのでかなり怖い。

馬さんとJ博士に3年ぶりに会う。ミアンの歴史について色々と教わる。こちらからは日本の四国にある黒茶について紹介した。こういう交流は意外と重要に感じられた。日本とミアンの繋がり、実に興味深い。ミアン産地は、チェンマイ郊外にいくつかあり、ランパーンの山間部にもあるらしいが、今は生産の季節ではないという。どうやったら、ミアンの村へ行けるだろうか。何だかどうしても行きたくなる。

静岡茶旅2022(3)磐田 赤松茶園を調べる

12月22日(木)掛川で

翌朝はゆっくり起きて、掛川城の周辺を散歩する。前回見付けていた石碑をもう一度確認する。山田治郎蔵とはどんな人物か。興味が更に沸く。そして報徳会に行ってみる。堂々とした門を入り、立派な木造建築を眺める。さて、見学しようかと踏み出すと、何と本日はイベントがあり、見学できないとある。

仕方なく、事務所へ行く。そこで『報徳会と茶』に関する資料などはないかと聞くと、親切にも冊子をくれた。更に昨日会ったMさんのことを思い出し、話に乗せてみると、更に色々と対応してくれる。実はここの社長は先日訪ねた鷲山医院の一族の方と聞いたが、あいにく不在で会えなかった。吉岡弥生と松本亀次郎について、尋ねられれば良かったが、何しろこちらが突然お邪魔したので、何ともし難い。

またお城は眺めるだけにして、駅へ向かう。前回同様コメダでモーニングでも食べて、お土産を買って、などと考えていたら、何と停電とのことで、駅の店は閉まっていた。復旧の目途も立たないという。やむを得ず、電車に乗り、磐田へ行く。前回は何と磐田駅に着いたものの、どこへ行くのかを忘れるという失態を演じた。今日はしっかり狙いが定まっている。

磐田で

駅前からバスに乗って図書館へ向かう。ところがこのバス、発車する前に運転手が威嚇的?な口調で『バスに乗り慣れていない人は早めに運賃を用意して。お釣りは出ないし、停車してからの両替は迷惑』といった感じでアナウンス。そこで出発前に『図書館まではいくらですか?』と確認したところ、『いや、それは?まあ、150円ぐらい用意しておいて』と情けない返事。勿論Suicaは使えず、不便この上ない。

15分ぐらい乗って図書館に到着する。ここには赤松則良ら赤松家の蔵書が寄贈された赤松文庫があると聞き、早々見に行ったが、蔵書を見ても、茶畑のことが分かるわけではない。そこで郷土史などの資料を探すと、かなり赤松家について調べられたものがあり、早々にコピーを取る。更に図書館の人に『赤松家の茶園の場所』などを聞いてみると、専門の方に問い合わせてくれ、何と午後その方がここへ来るので直接話が聞ける、というではないか。折角の機会なので午後まで待つことにした。

すると係の人が『この辺、ランチを食べる場所が無くて。一か所あるので聞いてみましょう』とわざわざ確認の電話をしてくれた。それではと、そこへ昼を食べに行く。結構しっかりしたお店でちょっとひるんだが、料亭と一般に分かれているようで、一般の方に入ってみた。中は天井が高い、木造で雰囲気が良い。しゃも鍋が美味しいというので、それを頼み、更に天ぷらまで注文してしまった。まあ、年の暮れ、一人忘年会だ。

しゃも鍋は赤みそ仕立ててで、非常に濃厚。そして何よりしゃも肉に歯ごたえがあり絶妙に美味い。更に揚げたての天ぷらを食えば最高だ。ふと見るとこの建物の外に何やら胸像が見える。何とここは赤松邸の敷地内に作られていたのだ。隣の旧赤松家の見学に移る。まずは門が立派。城の城壁のような煉瓦造りだ。

中に入ると先ほど見えた赤松則良の胸像がある。日本造船技術の先駆者と書かれているが、その説明書きの中にも、磐田原の茶園開拓について語られている。土蔵に入ると赤松家の詳細な家系図や資料が展示されていて興味深い。ここは戦後初代磐田市長になった則良の孫が市に寄贈したらしい。また記念館では係の方に案内して頂き、赤松茶園などの説明を見る。

そこから図書館に戻り、赤松家について研究されているKさんにお目に掛かり、赤松茶園の詳しい場所などをご教示頂いた。赤松がなぜここに茶園を作り、その後どうなったのかなど、郷土史ではかなり鮮明に調べられていてとても有難い。ただそれでも最近は磐田の方でも赤松を知る人は少なくなっているという。

磐田駅まで戻り、JRで掛川へ行く。ここから新幹線に乗って帰ろうと考えていたが、駅の停電が一部解消されており、土産物屋が1つ開いていたので、そこで買い物をする。ただ私が前回気に入った森町の蒸し栗羊羹が買えなかったのは、何とも心残りだった。それを引きずってしまったのか、新幹線に乗る所をまた在来線ホームへ行き、ちょうど来た興津行に乗ってしまった。

車内は混んでいたが、1席空いていたので座ってボーっとしていた。気が付くと日が暮れた興津駅。後続の熱海行まで、またボーっとしている。熱海まで来ると腹が減り、違うホームにある立ち食いそば屋へ駆け込む。かなり冷えてきたので、カレーうどんを食べると、何だかすっきりした。そして小田原で、急にロマンスカーに乗りたくなり、切符を購入する。だがなぜか町田までしか買わず、初の夢のロマンスカーは僅か40分で終了した。同時に今年の旅も終わりを告げた。

静岡茶旅2022(2)森町と台湾の繋がり

12月21日(水)森町へ

朝はゆっくり目覚め、静鉄で県立図書館へ向かう。先月も行ったばかりだが、やはりここで資料を漁るのが一番早いと感じる。今回は前回とは異なる資料を入手して満足。時間になり、宿へ戻り、荷物を取りだして駅へ。また腹が減ったので、ホームでそばを食べる。時間がない時、ちょっとお腹が空いた時、何とも便利な食べ物だ。

また掛川駅へ行く。先月のホテルがあんまりだったので、今回は馴染んだ宿を予約した。ただ駅から少し離れているので、荷物を持っていくのが大変。それでも掛川付近のよい散歩になり、古い建物などを見ながら楽しむ。山内一豊は掛川城主だった。チェンマイのコーヒーを出す店もあったが、今日は休みのようだった。

掛川駅に戻り、天竜浜名湖鉄道に乗って森町へ向かう。森町に行くのは2017年以来6年ぶりだろうか。前回は掛川からでなく、豊橋に近い新所原駅から乗って、1両列車にずっと揺られたのが懐かしい。ちょうどあの年は大河ドラマ『あんな城主直虎』で、沿線が盛り上がっていたように思う。今回は掛川から約30分のみ、料金480円。

相変わらず1両列車、1時間に一本程度運行されている。乗客も多くはない。遠州森という駅で降りず、次の森町病院前で下車。ここは前回も来た役場があるが、今回はその向こうにある立派な建物、森町文化会館を訪ねた。ここで館長のMさんと、お知り合いのYさんが待っていてくれた。

Mさんとは、藤江勝太郎のご縁で知り合った。今日もその後の藤江研究の成果をご披露頂き(Mさんは各所で藤江について講演している)、その進歩に感激した。台湾製茶試験場を作り、初代場長となった藤江は森町の名家出身。森町と台湾の繋がりは尋常ではなく、台湾製糖初代社長鈴木藤三郎もここの出であり、台湾の三大輸出品の内2つのトップは森町出身だから、これは驚くしかない。台湾製糖との交流は以前より行われていたが、最近は台湾茶業改良場などとの交流も始まっているようで、何とも嬉しい。

その後Mさんの車で歴史民俗資料館に案内してもらう。ここは以前も来ており、初めて藤江の顔写真と対面した場所でよく覚えている。見てみると展示品が増えている。何と藤江が森町に設立した日本烏龍紅茶株式会社で使われた製茶道具や蘭字まで揃えられており、驚く。Mさんたちの努力には敬意を表したい。また鈴木藤三郎と藤江の交わりも何となく見えてきて面白い。

更に車で案内されたのは、前回私を案内してくれたKさんの家。Kさんは当時役場職員であったが、郷土史研究家でもあり、かなり深く歴史を調査している。今回も地元の茶商などについて教えを乞う。Kさんとお別れし、最後に日本烏龍紅茶の茶工場があったと目される川沿いの場所まで連れて行ってもらった。今や何も痕跡はないが、ここまで分かってくるとワクワクしてくる。

文化館に戻り、Mさんとお別れした。Yさんが『もう少し案内しましょう』と言ってくれ、今度はYさんの車で庵山へ向かった。ここには村松吉平の碑がある。吉平は明治初期横浜の茶貿易で活躍した森町出身の茶商。地元に紅茶製造所をいち早く作ったほか、相良油田採掘事業に取り組むなど、興味深い人物である。

そしてもう一つ。浪曲『森の石松』と遠州森の茶の碑がある。これは昭和初期の不況下、森町の茶を売り込むために、『遠州森町良い茶の出処』と人気絶頂の浪曲師広沢虎造に謳わせた名曲を記念している。更にその横には形の良い観音様がある。何と鈴木藤三郎が作らせた4体の内の1体がここにある。そしてもう1体は台湾製糖にある(残り東京の鈴木邸及び鎌倉別邸の2体は所在不明)というからすごい。こんなところにも日本と台湾の交流がさりげなくある。因みに藤三郎も明治初期は茶貿易に従事したことがあるらしい。

誠にありがたいことにYさんが掛川まで車で送ってくるという。既に周囲も暗くなっていたので、どこかで夕食でもと思い、思いついたのが先月久しぶりに訪ねた、さわやか、だった。今回は前回と別の店に行く。ちょうどタイミングが良かったのか、今日はほぼ待たずに席に着いた。

ハンバーグを食べながらお茶談義に花が咲く。Yさんも中国留学組であり、中国、台湾事情なども話題となる。何だかとても楽しくて、ついついデザートも頼む。ミカンとほうじ茶プリンを食べ、コーヒーを飲みながら、話はどんどん弾んでいく。かなり長居してしまい、気が付くと周囲にお客さんがいなくなっていた。

静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。

佐原旅2022(2)成田で、そして電車遅延で

12月17日(土)成田へ

朝6時に起きたが、大浴場に行く気にはなれず、朝ご飯も頼んでいなかったので、部屋でボーっと過ごす。このご時世、体に異変があると困るので、取り敢えずジッとしておく。そして9時になったのでチェックアウトして、昨日の観光案内所へ行く。そこで残った旅行支援クーポンを美味しそうなご当地お菓子と交換する。

伊能忠敬記念館への思いが馳せたが、意を決して駅へ戻り、電車を待つ。結局佐原では歩きたいところへ行きつけず、後悔が残るが仕方がない。楽しみを次回に残したと思って、また来よう。駅舎からホームへ行くと、何とこの駅にはゼロ番線があるというアナウンス。ここを使う電車は鹿島神宮まで行くらしい。ちょうど電車がやってきて、こちらの電車に乗り換える。いつか鹿島神宮にも行ってみよう。

また昨日来た路線をただただ戻る。今日は土曜日だからなのか、乗客が多いが何とか座っていく。40分で成田駅へ戻る。今日は逆に京成駅へ行く。イオンモールへ行く電車があるのかと勘違いして駅で聞くと、前のバスに乗れ、と言われたので、そちらを向くと、既に結構な行列が出来ている。

このバスはイオンモール直通バス。最後の一人として何とか乗り込み、立っていく。道はそれほど遠くないはずだが、意外と時間が掛かる。20分で何とか到着。なぜここへ来たのか。それは先日知り合いのTさんと連絡を取り合い、久しぶりに会おうということになったのだが、何と彼は知らない内に成田に引っ越していた。折角なので都内にある彼の会社ではなく、成田へ来て見た(そのついでに佐原に寄った)というわけだ。

イオンモールは結構広いので会うのに手間取ったが何とか落ち合った。そしてモールの向かいにあるカフェでサンドイッチなどを頬張り、ゆっくりした時間を過ごす。すきっ腹のサンドイッチは何とも旨い。Tさんとは6年ぶりらしい。その間彼の周辺は激変し、彼は着々と日本定住を進めている。一方彼の両親の故郷である広東省にも、家を建て、そちらに両親を住まわせる計画もあった。私としてはその場所と茶に大いに関連があるため、準備が出来たところで、そちらに調査に行きたいと考えている。

因みに彼は私のIT周りをいつも手伝ってくれていた人。以前はPCの購入からソフトやデータの移設まで、全部やってもらっていた恩人だ。今回も何気なく『中国の決済システムが使えなくて』と話したところ、取り敢えず最低限の処置をしてくれた。実はこの時やってもらった処置がその後大きな意味を持つ。持つべきものは友、何とも有難いお知り合いだ。

3時間ほど話して、また成田駅へ向かった。それから昨日来たルートを淡々と戻っていく。ところが笹塚まで来た時、京王線で人身事故があったことが初めてアナウンスされる。明大前まで来ると、一度電車を下ろされる。振替輸送があるというので行列して駅員に尋ねると『Suicaでは振替できません。目的地を明確にするため、きっぷを買ってください』という。それも面倒だと思い、そこで駅そばを食べながら待つ。1時間で回復予定と出ていていたので、日本なら1時間以内に動き出すだろうと高を括っていた。1時間が近くづくと来た電車に乗り桜上水まで進んだ。

皆考えることは同じだ。復旧したら一番最寄りの駅ら乗るのが一番近道と。何と桜上水駅のホームは人で溢れていた。しかも動くはずの電車は全く来ず、後から後から乗客がここに送り込まれてきて、大混乱になる。もうアナウンスも当てにはならない。そしてこの日は非常に寒い。体感温度は零度に近いのではと思う中、約1時間吹きっさらしのホームに立たされていた。それでも文句を言う人がいないのはやはり日本人、すごいなと感心する。ようやく電車が動き出し、家に帰ると昨日の疲れがどっとぶり返し、本当に病気になりそうだったので、急いで寝入る。

佐原旅2022(1)初めて佐原へ

《佐原旅2022》  2022年12月16₋17日

日本に帰国し、茨城、静岡に行った後は、ずっと家にいた。そして毎日サッカーを見ていた。日本がこれだけやれるとは正直思っておらず、予想外に盛り上がったワールドカップだった。決勝戦後に今年最後の旅に出ようと思っていたが、その前にちょうど成田へ行くことになったので、ついでに前から興味のあった佐原へ行って見ることにした。

12月16日(金)佐原へ

まずは京王線、都営新宿線で本八幡へ行き、京成線に乗り換える。そして京成成田駅で降りる。これは久しく使っていない成田空港への一番安く行ける道である。何となく懐かしい。京成からJRに乗り換えるには数分歩かなければならない。JR成田駅まで来ると、乗る予定の電車が少し遅れているという。

それならばと近くでランチを探すと、駅の横に駅そばがあったので、何気なく入ってみる。そして何気なく普通にかき揚げそばを頼み、するすると食べて、外へ出た。そこには張り紙があった。『閉店のお知らせ』、その日付はまさに今日だった。初めて入った店が今日でお仕舞だ何て、何となく悲しいのだが、お客さんも従業員も、とても普通な雰囲気でちょっと不思議だった。まあ、10日後には新しいチェーン店がそのまま入って、何事もなかったように営業するらしい。

駅の前には観光案内所もあったので、成田山新勝寺の案内を貰う。そこで『ちょうどすぐ近くで歌舞伎浮世絵展やっています』と言われたので、トイレに行くついでに?ちょっと覗いてみることにした。市川團十郎が浮世絵に描かれており、新勝寺詣でをするなどの場面が展示されていた。

駅まで戻ると電車はそれほど遅れず、発車した。この時間帯に乗っているのは高校生。銚子行の電車は快調に走っていき、40分も乗ると佐原まで着いてしまう。何だかもっと遠い所へ行くつもりでいたので、少し拍子抜けする。

佐原で

佐原駅の駅舎は結構クラシックで様子が良い。駅前に出ると、さっそく郷土の偉人、伊能忠敬像が迎えてくれる。精緻な日本地図を作った男はここで生まれた。そして本日の宿は駅のすぐ横、まずは荷物を預かってもらうべく、そちらへ向かう。フロントの対応が実に親切で嬉しい。

外へ出て、観光案内所へ向かう。そこで説明を聞き、地図を貰う。その地図に沿って歩き出す。10分もしない内に、川へ出て、その両脇に古い店舗や倉庫が見えてくれる。川には遊覧船も浮かんでいる。この風景には既視感がある。私が育った栃木市も『蔵の街』として売り出しており、同じような風景を見てきた。もう長く行っていない栃木、今はどうなっているだろうか。

こちらの街並みでは、商店なども多く保存されており、今も店舗として活用されている。ただ12月の寒空、今日は日差しが暖かいと言っても、平日に歩いている観光客は多くはないのが、少し寂しい。ただゆったりと歩けるのは自分にとっては有難い。正上醤油店は何かの番組で取り上げられており、見た記憶があった。川から少し外れると川崎銀行佐原支店という洋風建築があり、中は観光案内所、展示スペースになっており、休息がてら勉強する。

勿論この街には中心がある。伊能忠敬である。その旧宅は開放されており、酒造業を営んだ家が残っている。忠敬は養子で、50歳まで家業を行い、隠居後全国を歩き始めた。全く環境や志は異なるものの、私も50歳で会社を辞め、本格的に茶旅を始めた。一方的に親近感を持っている。

伊能忠敬記念館に行けば、詳しい説明があるだろうと思っていたが、何故か急に疲れが出てしまい、集中力もなくなったので、ここは明日に回して帰ることにした。帰りは別の道を通り、諏訪神社の先の公園内にあった、もう一つの伊能忠敬像だけ見て帰る。こちらの像は駅前よりかなり大きく、佐原の街が以前より伊能忠敬に向けていた尊敬が伝わってきた。

宿に戻りチェックインする。まだ早い時間なのに、結構人が並んでいた。どうやら全国旅行支援でゆっくりしようという人々らしい。この宿には大浴場もあるし、ちょうどよいのかもしれない。私も早々に風呂に入ろうと考えたが、何とも疲労感がすごい。まさか病ではないだろうな、とちょっと心配になるほどだが、熱などの症状は全くない。

夕方になっても回復しない。腹だけが少し減ったので、近所の定食屋を探したが、残念ながら閉店していた。平日は開いていない店も多いらしい。仕方なく旅行支援クーポンをコンビニで使用して、食べ物を確保。部屋で食べた。そしてふっとベッドに入ると、何とそのまま朝まで寝込んでしまう。丸12時間、一度も起きずに寝ていることなど近年稀。本当に疲れがピークになっていたようだ。

横浜歴史旅2022(2)掃部山公園と音楽堂

中華街をよく見ながら歩くと、かなり古い建物が見られる。そういえば半年前に閉店した老舗の聘珍楼、既に店があったことも分からないようになっていた。賃料が高額で負担できなかったとの話もあるが、本日見る限りかなりの人出があり、コロナがもう少し早く収束していれば、あるいは生き残れたかもしれない。これも中華街の栄枯盛衰か。最近はレストランではなく、占いコーナーがすごく増えたと感じるが、これもまた世の流れだろうか。

お昼はお知り合いのKさんと食べる。Kさんが選んでくれた店は、まさかの東北料理。いや、これまで中華街のイメージは広東中心の南方系が主流だったが、最近は中国人のための中華ニーズからか、東北系の進出が目立っているようだ。午後1時頃でも店は満員。店員は勿論お客も中国人が多く、中国語がそこかしこで飛び交う。これもまた新たな中華街だろうか。中華街は食べ放題の店が増えてしまい、観光客向け。ここで働く人などの食事も必要だ。

そこからKさんと散歩がてら、桜木町駅方面へ向かう。横浜公園を通り掛かったので、横浜開港初期の功労者の一人、英国人土木技師ブラントンの胸像を紹介する。長く横浜界隈に住んでいても、公園を散歩することがあっても、この胸像には気が付かなかったと。歴史とはそういうものだろう。

桜木町駅でKさんと別れた。この駅の横に操車場?があり、その跡地で中国鉄道展が開かれ、30日間東京の王子から毎日バイトで駆り出されたのは、あれはちょうど40年前の夏休みだった。懐かしいというか、あれは何だったのだろうかと思ってしまう。初めて中国人民(運転手さん)と中国語で言葉を交わした思い出の地。

そこから少し坂を上っていくと、神奈川県立音楽堂がある。この付近に横浜の大茶商、大谷嘉兵衛の屋敷があったらしいが、今やその痕跡は全く見付けられない。音楽堂の裏は掃部山公園と書かれている。掃部山というぐらいだから、日米修好通商条約の井伊直弼ゆかりだろうか。直弼も幕末の大茶人だから、茶の歴史とは深い関係にあるが、今日はこの公園をパスした。因みにここは明治5年の鉄道開業に際して、外国人技師の官舎などが建てられていたらしい。今年は鉄道開業150年、何かしらの因縁を感じる。

更には立派な能楽堂という建物もある。ここは旧前田家の敷地だったらしい。その横に目的地の県立図書館があった。この図書館が出来た経緯なども知りたいと思い、入ってみたら、何と月に一度の特別休館日。何と間の悪い日に来てしまったのだろうか。後悔先に立たず、だな。

仕方なく市立図書館へ回ってみる。所在地は野毛山。戦前は原善三郎や茂木惣兵衛など、大物の屋敷があったと書かれている。今は動物園か。こちらは普通に開いていたので、調べ物をする。少しのつもりが意外と時間を取り、外へ出たら既に真っ暗。トボトボ桜木町駅方面へ歩いて行くと、その辺は野毛の飲み屋街。何だかなあ、と思いながら、電車ですぐに帰った。

ところが東横線で渋谷まで来るうちに、すごく腹が減ってしまい、渋谷で夕飯を探す。ふらふらと川沿いを歩いていると、『とん汁定食』という文字が見えたので、古い定食屋かと思い入ってみた。その文字とは裏腹に、かなりおしゃれなお店で、店員も若者、お客も若者という、イメージとは違う店だった。

何だか旨そうなアジフライもあるというので、セットにして食べる。豚汁は野菜がゴロゴロ入っており、意外といける。ご飯も選べるし、雰囲気も良い。何だかよくできているなあと思って調べてみたら、かつやの系列店だった。なるほどと妙に納得して帰路に着く。まあ1000円は決して安くはない。

横浜歴史旅2022(1)中華義荘から中華街へ

《横浜歴史旅2022》  2022年12月8日

これまでも横浜には何度も来た。中華街にも時々来ている。だが私は中華街がどのような過程で発展し、どのような経緯で華人が今日を迎えたのかをよく知らない。偶には港横浜で華人巡りをしてみようと思い立ち、珍しく?日帰りで出掛けた。

12月8日(木)

東横線で横浜駅まで来て、根岸線に乗り換えた。ところが電車が遅れているという。ホームに行くと電車は停まっており、表示では55分遅れとなっていた。どうしたものだろうかと考えていたところ、突然ホームのベルが鳴り、慌てて乗り込むと走り出した。約1時間止まっていた電車がちょうど動き出したところだったらしい。何という幸運。

山手、という駅で初めて降りる。山手と言えばユーミンの『山手のドルフィンは』ぐらいしか思いつかない。駅から目的地までGoogleで調べた通り歩き出すと、何とかなり急な坂道だった。更には道も入り組んでおり、意外と面倒な行程となる。何とか喘ぎながら到着したのは中華義荘というところ。

ここは横浜華人たちのお墓がある所だった。19世紀後半に出来た墓地、1892年に華人たちの手によって建てられた地蔵王廟もここにあり、立派な菩薩像も安置されている。華人たちがここを手に入れるまでも色々と苦労があったようだが、今やそれも良く分からない。近所で日向ぼっこしていた老婆もどこか華人の雰囲気があった。

裏手の墓地、墓石が整然と並ぶ。広東、福建、浙江など大陸各地の他、台湾などの地名が墓碑に刻まれている。墓の形、様子も年代により少しずつ異なっている。徐々に日本化しているのだろうか。奥の方には関東大震災で亡くなった華人の慰霊碑なども見られる。あの100年前の震災が横浜にどれだけの被害をもたらしたのか、その一端が分かるようだ。

お墓の横にはモダンな建物が建っている。中華会館。葬儀など、恐らく何かある時はここに集まるのだろう。館内には整備中の展示物があった。そこには中華学校など、華人の歴史のパネルが置かれていた。現在中華学校は二つあると言い、そこには歴史のみならず、外交問題なども絡んで複雑なようだが、取り敢えず私は初期の中華街の華人史を追いたい。

そこから20分ぐらい歩いてJR石川町駅前まで来た。さっきは登りだったが、今度はゆっくり下ったのでかなり楽に感じられた。この駅前にあるのが山手中華学校。2010年に山手からここに移転したらしい。幼稚園も併設されている。昔はこの駅からとぼとぼ歩いて中華街へ行ったなあ、などと思い出す。

そこから更に歩いて関帝廟まで。その横には横浜中華学院がある。ここは最近校舎が新築されたようで、非常に新しい。この周囲には中華会館など、各地の同郷会もあり、中華街の中心を感じさせる。付近は修学旅行生が大勢歩いている。そのまま歩いて行くと山下町公園に着く。

ここは明治初期、会芳亭という劇場があり、その後は中華民国総領事館があった場所だった。今は会芳亭と書かれた東屋が建っているが、それ以外で往時を偲ぶものはない。何と最近ラグビーワールドカップアが開かれたのを記念して、『日本で最初のラグビー発祥地』なる記念碑が建てられている。

そこから中華街を突き抜け、神奈川芸術劇場へ向かう。ここは山下居留地遺跡の発掘が行われた場所であり、基本的に欧米商会が軒を連ねたところ。ただ一軒だけ華人経営の印刷所があったと聞き、ここの店主が中華街の歴史に大きく関与していることを学ぶ。更にその裏側には居留地48番館の建物が少し残っており、その風情を感じさせる。

再び中華街へ戻ると、そこにはツタが絡まった古い工場が見えた。同發菓子工場、月餅などを作っていたのだろうか。同發と言えば、もう40年近く前、下宿先の家族に伴われて初めて中華街で食事をした場所だったような微かな記憶がある。福満園というレストランのビル、すごいY字路で見事。

静岡歴史茶旅2022(4)袋井 松下コレクションと可睡斎

袋井駅まで行き、バスに乗る。このバスは現金のみ。小銭の用意が何とも面倒だ。しかもあいにくの雨。何とか浅羽支所に着く。週末は脇から入りエレベーターで3階の松下コレクションへ。すぐに松下先生が登場され、30分ほど懇談。先生は92歳とは思えないお元気さ。私がこの1年で立てた仮説に対して、ダメ出し連発でかなり参ってしまった。やはり単に頭を捻っただけでは分からないことが多い。

そこへ突然IJさんが登場して驚いた。しかし考えてみれば、今日は松下先生の講演がある日だから、いてもおかしくない。彼女も交えて更に話が弾む。更に松下コレクションの貴重な展示品を少し見て写真に収める。そうこうしている内に、時間になり、セミナー会場へ移動。途中に小学生が書いた『税の習字』が目を惹く。小学生の納税洗脳教育か。すごいな、日本。

松下先生のセミナー、お題は番茶。2週後に番茶大会も開かれるらしい。日本の番茶、もう一度見直して、整理した方が良いと常々感じているが、そういうムードが出てきた、ということなのだろうか。セミナーには知り合いが数人参加しており、先日のエコ茶会であった人もいた。やはり知りたい人はここまでやってくるようだ。

セミナー終了後、IJさんが『李鴻章関連の場所へ行かないか』と誘ってくれた。静岡と李鴻章、全く結び付かないので気になって行ってみる。T議員のご案内で、INさんも同行した。その場所は可睡斎。李鴻章と佐藤進ゆかりの寺と聞き、思わず佐藤進に反応したところ、T議員に『佐藤進を知っているのか』と逆に驚かれた。佐藤進は順天堂の三代目で、陸軍軍医総監、天皇の命で、暴漢に襲われた李鴻章の手当てをした。そこに活人剣の逸話が生まれ、ここ可睡斎に記念のモニュメントが作られた(可睡斎の僧侶と佐藤にご縁があったらしい)。

可睡斎は思ったより大きいお寺。聞けば曹洞宗でも相当格式が高い。先ほどの李鴻章、活人剣の逸話の他、家康ゆかりの寺としても知られるなど、その歴史を十分に感じさせる風格がある。中を見学させて頂くと、すごく広い。『日本一の東司』というのもあり、また善光寺を思わせる地下道?もある。何とキューバ出身の坊さんがいて驚く。

帰りもT議員に車で送ってもらう。議員の家に寄り、李鴻章関連の資料を頂戴する。活人剣モニュメント復活のため、募金活動を行い、わざわざ李鴻章の故郷安徽省、佐藤進の佐倉まで出向いて、彼らについて学んだというからすごい。郷土の歴史というのは、このような熱心な方に支えられて続いて行く。そして我々もそれを利用させて頂く。有難いことだ。

3人で掛川まで行く。もう夜なので夕飯を食べようとなり、駅前の居酒屋へ入る。私は酒を飲まないし、一人で居酒屋へ入る機会などなかったが、偶然入ったその店の焼き鳥は大きくてうまい。パイナップルサワーは自ら搾るという面白さ。結構新鮮な驚き。居酒屋飯は意外と野菜も取れて、定食屋より、よいかもしれないと思う。今度は一人で入ってみようか。

食べて飲んでいる間も、お茶の歴史や製法、品種などのお茶談義が続き、午後8時になってしまった。名残惜しいが私はこだま号に乗って東京へ帰る。涼しい風が何となく心地よい駅のホームだった。暇なので車内を見学していたら、変なスペースがあった。見れば『廃止された喫煙ルーム』だった。新幹線って、去年まで喫煙できたのか、すごいな、日本。さあ、これからワールドカップの連戦だ。気合を入れよう!