バンコク・ハジャイ旅2024(2)スクンビットをうろうろ

Mさんが待っていてくれた。こんな場所を指定するとはさすがバンコクを知り尽くした男、Mさんと唸る。それからタイの中国系料理について、色々と尋ねる。実に面白いし、これまで誰もスポットを当てていない部分ではないだろうか。特に潮州系の多いタイにおいては、従来日本では見られない潮州料理に特徴が見いだされるので興味深い。

夕方になったので、カフェを出て夕飯を探す。話の流れ上、やはりタイ中華にしようと、トンローまでBTSで移動。行くべき店に6時前に到着したが、何と6時半開店と知ってショック。Mさんは開店まで待とうと言い、周囲の散歩を始める。そしてその辺の麵屋に入り、いきなりコーラだけを頼んで席に着き、時間をつぶす。この時間に麺を頼まないのは迷惑かと思ったが、店側も全然気にせず、氷なども出してくれる。こういうことは超人Mさんにしかできない技だ。

6時半過ぎに店に戻ると既にかなりの客がいる。何とか席を確保したが、後から後から客が入って来てすぐに満席となる。トンローということもあり、日本人客も結構いる。ここの料理、味付けがすごくいい。豚肉とキャベツ、タケノコ、小魚など甘くてうまい。これはやはり潮州系だとMさんは解説する。そう、この味だ。とても勉強になる。タイ人も日本人は潮州料理が好きなのだ。帰りにGrabで車を呼んだが、何故か来ない。空車は沢山通り過ぎるので、結果キャンセルして車を拾って帰る。何だか面倒だな。

1月23日(火)スクンビットをうろうろ

今朝はゆっくり起きて、Yさんとコーヒーを飲む。明日のフライト手配も終わる。昼前にまた赤バスに乗ってスクンビットへ向かう。なぜか今日の昼もトンローで待ち合わせ。Mさんとはずいぶん長い付き合いだが、とうとうバンコクを離れるらしい。それで最後のランチとなる。

ランチはなぜか韓国料理となった。昨晩も歩いたトンローの道を行く。この店にイカ炒めがあったので、すぐに注文する。韓国料理には副菜が沢山付いてくるのが良い(日本を除く)。Mさんとこの10年余りのお茶会の思い出などについて話が弾んだが、何となく寂しくなった。

夜もまたプロンポーンで約束がある。一度宿に戻るのも面倒なので、この辺をフラフラする。まずはプロンポーンまで歩いて、ユニクロへ行く。どうしてだか冬の北京の服はちゃんと持って来たのだが、夏のバンコクの服を少し忘れていたのだ。2000バーツ以上買ったら、消費税が戻るというので、初めて還付手続してみる。

そこからバンコクの60バーツ均(日本の100均)の店へ行き、耳かきを買う。これを忘れると、ちょっと困るのだが、こういうものが簡単に買えるのは、やはりバンコクだ。更には北京で余った人民元の両替をしてみようかと考え、周辺の数軒の両替所を回り、レートを比較した。

以前はあった両替所がいくつも無くなっていた。コロナで無くなったのだろうが、その後も復活しないのはやはりキャッシュレスの進行だろうか。一番レートがいいのは、ショッピングモールの地下だったので、そこで両替を終えた。それにしても、北京でも感じたことだが、中国国内で実質使えない人民元現金が、海外では普通に両替できる、というのは、何となく違和感がある。

バンコク・ハジャイ旅2024(1)30度のバンコクに到着して

《バンコク・ハジャイ旅2024》  2024年1月21₋27日

極寒の北京から暑いバンコクへ。そこから南下して久々のハジャイを経由して、ペナンを目指すことになった。ただ通常ルートは面白くないと思い、初めてサトゥーンへ行くが、そこからのルートはかなり限られてしまい、袋小路にはまり込む。さて、どうなるのか。

1月21日(日)バンコク到着

快適なフライトでバンコクに着いた。入国審査は思ったほど時間はかからなかった。荷物は預けていないので、一目散にAISにブースに向かい、3か所目でようやく無料シムをゲットする。取り敢えずこれでスマホは繋がった。またタクシー乗り場から車に乗る。今回はいい運転手?で、メーター通りの料金で済んだ。これが普通だろうに。

いつもの宿にチェックイン。ここには随分と泊まったが、料金はどんどん上がっていく。円安もあって、もうリーズナブルな料金とは言いにくい状況だ。部屋もコロナ後は何となく格下げされた。これまでの部屋はもっと高くなっているのだろう。慣れているので居心地は良いのだが、これからどうするか、考えないといけない時期に来ている。

腹が減ったので外へ出た。まずは一食、と思うと、なぜかパッタイ屋に足が向いてしまう。おじさんとは顔が合うと挨拶する仲だ。何となくパッタイを食べてコーラを飲むとかなり落ち着く。日本人町でいつものパンを買ってから、暗い夜道を歩いて帰る。チェンマイに比べて車の多さが際立つバンコク。

1月22日(月)タイ中華の夜

朝はいつものルーティーンでコムヤーンを食べに行く。だが何と既にコムヤーンの姿はない。おばさんは『あの人が全部買って行ったよ』と指を指す。そのおじさんは大きな袋にコムヤーンサラダを詰め込んでいた。おばさんもサラダ作りに大忙しだったはずだ。それでも諦めきれない私。じっと空の籠を見ていると、コムヤーンのきれっぱしでサラダを作ってくれた。初めて食べるが、かなりスパイシーだった。それでも有り難い。

当たり前だが、北京の零下からバンコクの30度は体に堪える。部屋で休息していたが、シムカードをゲットする必要があり、外へ出る。Yさんのスタッフにタイ語で『シムカードの再発行』と書いてもらって行く。これがあれば、恐らく問題ないはずだが緊張はする。ロータスのAISブースに行って紙を見せると、担当者が流暢な英語で対応したので驚いた。そして実にスムーズにシムが再発行され、おまけに1か月200バーツの特別価格への設定までしてくれた。こういうサービスは実に有り難い。

昼はYさんといつもの食堂へ行き、いつもの物を食べる。これまで同様普通に美味しい。料金も変わらない。変化が無いのはここだけか。午後は赤バスに乗り、アソークまで出る。このバス、前より少なくなっているのか、なかなか来ない。まあ来れば速いからよいが。料金は8バーツだ。

アソークで降りると、ナナ方向に少し歩く。指定されたビルに入り、カフェアメゾンを探す。だがどこにあるのか分からない。インフォメーションの女性に尋ねると『そうですよね、分かり難いですね』と言いながら、自ら案内してくれた。それは1階の奥深く、階段の陰に隠れるように存在しており、このビルに来た人でも気が付かないだろうと思われる場所にあった。これからは隠れ家的カフェとして、使わせてもらおう。

北京・天津旅2024(4)魚祭りの夜

今日は房山線という初めて乗る路線へ向かう。何度か乗り換えが必要であり、また最後の房山線は運転間隔が空いていて、約束の時間に遅れてしまった。それにしても、北京の交通網の発達はすさまじく、またそれに合わせて発展する郊外もかなり伸びているようだ。駅を3つほど行くと、全く知らない駅で降りる。そこにも街が形成されている。

久しぶりに会うCさんは、以前は中関村にいたが、コロナ中にこの付近に引っ越していた。その昔は本当に何もない所だったというが、今やマンションが立ち並び、それに合わせてきれいなレストランも並んでいた。その一軒でランチをご馳走になったが、この料理もまた広東系で美味かった。やはり皆さん、歳をとると健康への関心度が高まり、北京の料理ではなくなるのだろうか。中国経済や日中関係の話しをしたが、あまり明るい話題にはならず、ちょっと盛り上がりに欠けてしまうのは、残念でならない。

疲れたので一度宿に帰り、休息する。テレビを点けるとテニスのオーストラリアンオープンがライブで中継されている。3回戦で中国女子選手同士が試合をしている。今やテニスも日本より中国だろうか。それから東京から持って来たお酒を下げて、宿を出て、またもや光明飯店に向かう。

昨年11月にも訪ねた日本料理屋。本日は貸し切りで『魚祭り』が開催されていた。以前お世話になったMさんが私の北京滞在に合わせてアレンジしてくれたのは何とも有難い。参加者は20名強で、懐かしい方々と色々とお話しできてよかった。また初めての方ともすぐに打ち解けるのが北京の良さだろう。

スーパーで鮮魚を扱っている日本人の方がセレクトした極上の魚を、その場でさばいて食べる会。それは想像以上にすごいものだった。日本に居てもこんなものは食べられない。さしみから煮つけ、寿司からいかめしまで、どんどん出てきてどんどん食べる。お酒もどんどん進んでいく。気が付いたら5時間も経っていた。こんなに楽しい時間なら、次回もまたやって欲しいな。興奮冷めやらぬ中、零下10度の北京を歩いて帰る。

1月21日(日)バンコクへ

昨晩食べ過ぎたので、今朝は軽く食べて、散歩に出た。気温とは関係なく、今日は風が強くて歩くのは大変だった。これもまた北京の冬だ。部屋に逃げ帰り、タイの無料シムカードの手続きをしてみた。たった1日だけ使用できるカードだが、北京空港でシムを落とした私としては、それは有難いものだった。

空港へ行こうと車を呼んだが、何故かネット回線が悪くてうまく繋がらない。フロントの若者に言うと、すぐに自分のスマホから呼んでくれた。この辺のサービスは実に有り難い。車もすぐにやってきて乗り込んだのだが、『誰が予約したんだ』と運転手に言われる。何だかスマホ番号が必要のようで、フロントに戻り、何とか事なきを得た。それにしてもちょっと面倒だな。

空港までは順調に進んだが、降りる時の決済で『アリペイで』と言ったら、『微信ペイにしてくれ』と言われた。昨晩暇だったので、初めて微信ペイを繋いでみたが、本当に使えるのかどうか自信がなかった。一応やってみると見事に支払えたので、運転手も笑顔になり別れた。今どき北京で微信ペイが使えて喜んでいるなど、人間ではないな、と思う。

空港はなぜか混んでいた。そして私が乗るバンコク行きも満員だという。搭乗ゲートでチケットを見せると係員は『アップステアー』と英語で言った。この飛行機には2階席があるのかと思い機内に入ると『なんとビジネスクラスにアップグレード』されていた。これは意外な喜び。乗客はどんどん乗り込んでくるが、その半数は白人でビックリ。恐らくは冬休みが始まり、寒い北京から南へ避難する人々らしい。私の隣にはロシア系の若い女性が座っている。

まあビジネスクラスといって食事は少し良い程度。それでも席が広くて有り難い。食べ終わると、すぐに寝入ってしまい、そのまま夢見心地でバンコクまで来てしまった。偶には良いこともあるようだ。この先も良いことがあるといいなと思うが、ここで運を使い切っただろうか。

北京・天津旅2024(3)冷え込む天津で広東鍋

降りたのは周鄧紀念館という駅。さすがに周恩来・鄧穎超夫妻の偉大な功績が通路に多数展示されている。地上に上がると5年ぶりのXさんが待っていてくれた。今回天津に来たのはXさんと会うためだった。まずはそこにあった水上公園を歩きながら、お互いの近況を報告し合う。更に公園内にある博物館で、天津の歴史を詳細に学ぶ。

天津は先日かなりの雪が降ったようで、公園内には雪が残っているが、今日の天気は抜群。そして北京より寒さを感じる。それは景気が低迷していることとも関連あるだろうか。Xさんの車で市内を少し走る。5年前、天津を茶旅した時、色々とお世話になったことを思い出す。当然ながら天津には歴史関連のスポットが多い。

お昼ご飯に行く。Xさん行きつけのカフェ、と思ったが、実に奥が深く、個室がいくつもあった。元々はXさんの学生も同席予定だったので個室を取ってあったが、インフルが流行っており、結局2人で広い個室を占領することとなる。このお店、コロナの時は大変だったようで、色々と工夫をして凌いだらしい。その結果生まれたのが広東系の鍋料理だったというから驚きだ。

この鍋、打辺炉はスープが絶品だった。まあ広東系はスープが命、というところがあるが、この鍋は広西のチワン族が起源とも言われているようで、少し独特だった。そこへ野菜やキノコをぶち込んで煮込む。最後に新鮮な鶏肉を入れれば、完璧な鍋が出来上がった。天津でこんな旨い物が食べられるとは思いもよらない幸せ。

Xさんとの付き合いは長いので、昔話や故人になった方の思い出話しでいくらでも続けられる。娘さんは今や大学を卒業して、京都で茶業関係の会社に勤めているらしい。チャンスがあれば京都に会いに行こうと思う。中国経済の話しはほんの少しだけ。非常に状況が良くないことだけは理解できた。これから中国はどちらの方向へ向かっていくのだろうか。Xさんも新たな展開を模索しているようだ。

話しは尽きなかったが、予約した高鉄の時間があったので、来た道を戻り、天津駅へ。帰りも至極順調で、何事もなく北京に帰還する。今回臨時入境の範囲に河北省と天津が含まれていたのは、実に幸運だった。まあ日本で見た報道でも天津経済は中国内でもかなり悪いと聞いていたが、それは事実のように見えた。

宿近くに戻り、コンビニを探したが、なかなか見つからない。日本のようにその辺に路面店があるというより、オフィスビルの中に入っているので、歩いていても見つからない。オフィスビルも昔とは随分イメージが変わっており、1階ロビーはおしゃれな空間が広がり、若者がネットで作業などをしている。

京城大廈は何とも懐かしい。昔仕事で何度もここへ来た。あの頃は燦然と輝く50階建てのビルだったが、今でも異彩を放っている。中に入りATMを探すと、創業者栄毅仁の像が暗闇に浮かび上がる。中国の変化を彼はどう見ているのだろうか。なぜかATMカードが使えなくなっていて焦る。宿へ帰るとアジアカップ、日本対イラク戦が生中継されている。こういうところが中国は素晴らしい。日本では中継すらままならないのだから。しかし負けては何もならない。

1月20日(土)魚祭りの夜

朝起きると急に銀行カードが心配になる。もしこれが使えないと大変面倒だと思い、銀行へ向かった。だが日曜日のオフィス街、支店は閉まっており、聞くことは出来なかった。仕方なく試しにもう一度ATMにカードを入れてみると、何と普通に作動したので、どっと疲れた。この辺が不安定な中国だ。

今日は昼に約束があるが、時間が出来たので、ちょっと南羅古巷へ行ってみた。ここは15年前の私のお気に入りの場所。だがその後観光地化が進み、今や胡同の面影もかなり変化してしまった。更にコロナ禍の影響もあり、記念館なども閉鎖され、道はきれいになり、説明板は充実してきているが、古き良き時代は過ぎ去っていた。

北京・天津旅2024(2)天津へ向かう

すぐに気分を変えるため外へ出た。気温は零下だがそれほど寒さを感じない。東直門までフラフラ歩いて行くと、路肩に雪が積まれている。その横には大型マンションが建設中だが、このエリアなら相当の値段になるだろう。現在の中国不動産の状況を考えると、果たしてこれは売れるのだろうか、とちょっと心配になる。

2号線に乗り、北京駅へ向かった。地上へ出ようとすると、人が多くて進めない。よく見ると検問があり、身分証の提示を求められて、機械でチェックしている。私はどうするのかと取り敢えずパスポートを出したら、そのまま通されて地上に出た。実に久しぶりの北京駅だった。切符売場までの距離が長い。

ようやく中に入り、温まる。昔の切符売場は長蛇の列で、しかも一人ずつの交渉?が長いので、列はいつになっても流れず、窓口に客が殺到するような状況もあった。だが今は違う。薄暗かった室内は明るくなり、列も短い。殆どの人がネットで購入し、ここに来るのは訳ありの人か、外国人ぐらいだろう。外国人旅行者はかなり少ないはずだから、列は短くて当然だ。10分もかからず順番が回ってきて、切符も簡単に買える。天津行は南駅から出るが、ここで切符が変えるのは有難い。そして現金が使えたのは、何とも嬉しい。

北京駅から建国門まで歩く。昔は何度も歩いた道だが、何だか思い出せない。建国門には15年ほど前に住んでいた家がある。そこを見上げると昔のままだった。その近辺もコロナ前とあまり変わってはいない。更に亮馬橋まで戻り、好運街へ向かう。25年ほど前、この辺に住んでいた。その公寓はまだ名前はそのままだったが、当時の日本人村は全く無くなったようだ。

好運街は15年位前に出来たと思うが、以前は日本人街のようだった気がする。今も居酒屋や和食系は多いが、オーナーは中国人に変わっているのかもしれない。その一番端にある山西料理の店に入った。今晩は北京在住のHさんと会うことになっていた。Hさんと会うのは初めてだが、実は彼の奥さんは15年位前から知っている。しかも驚いたことに、Hさんはうちの奥さんの高校同期だという。そんなご縁もあるんだな、と。

Hさんは中国ビジネスのプロだが、北京に住み始めたのはここ3年ほどらしい。だから奥さんと会ってもご主人の姿を見ることはなかった、ということか。ここの鍋は美味しかった。特に肉団子、そしてスープが美味い。留学時代の話をしながら、食べていると、昔とは隔世の感がある。ご馳走になってしまったが、楽しい夜だった。帰りも歩いて宿へ戻る。途中に京城大廈が聳え立っていた。懐かしい。

1月19日(金)天津へ

朝早く起きて朝食を食べる。それからゆっくりして宿を出る。今日は天津へ向かう。天津行列車は基本的に南駅から出る。三元橋から南駅まで行くのはちょっと面倒だ。10号線でかなり走り、そこから4号線に乗り換える。まあ、1時間はかかる。運よく座れたので、何となく寝ていけた。以前に比べて出勤ラッシュも少し収まっているようだ。

南駅は久しぶりだった。時間が余ったのでちょっと歩き回ったが、実に広い。吉野家などの食堂も充実している。天津行は専用ゲートがあり、シャトルのような感じで15₋20分に一本出ている。私が乗った電車はそれほど混んでいなかったので、ゆったりと座っていけてよかった。まあ時速300㎞で僅か40分程度なので、外を見ていたら着いてしまった。なぜか車内の動画広告がお茶関連だった。

外へ出ると地下鉄の表示がある。コロナ前と比べて路線が増えているように感じられる。待ち合わせ場所を指定されていたので、その指示通りの路線を探す。天津も切符は基本スマホ決済。私は自販機でQR決済。北京と違い身分証をかざす必要はなく、すぐに買えたのは助かった。時間帯の問題なのか、天候が寒すぎるのか、天津駅も地下鉄も人は多くない。

北京・天津旅2024(1)北京再入国

《北京天津2024》  2024年1月18₋21日

昨年11月、チェンマイからの帰途、北京に立ち寄った。そして今回、その折り返しのチケットで、また北京に降り立つことになっていた。なぜ上海経由にしなかったのか、と聞かれても、その答えは自分の中にはない。と言って北京にどうしても行きたい訳でもない。それでも行ってしまう北京とは。今回は日帰りで天津まで足を延ばす。

1月18日(木)北京再入国

朝4時前に起きた。すぐに羽田へ向かって始発電車に乗る。今日は北京へ向かうのだが、羽田空港出国の大行列を想像すると夜も眠れない。それなら始発で行ってゆっくりしようかと考える。始発電車にも結構乗客がいて、座れない。まあ混んでいる訳ではないので、ゆったりと構えて向かう。

6時頃羽田空港に到着したが、人は殆どいない。何とまだチェックインカウンターも開いていない。普通はWebチェックインで、そのまま保安検査場へ行けるのだが、中国行きには特別カウンターが用意されている。ちょっと待つとチェックインが始まり、臨時入境のため、書類チェックが入念に行われた。

それが終わると保安検査場へ。もう少し遅い時間だと長蛇の列だったが、この時間だと人は少なく、10分で通過可能とある。ところが何と荷物検査で引っかかる。知り合いから頼まれていた日本酒を機内持ち込みしようとしたが(預け荷物無し)、なんと持ち込み不可で没収だという。私は酒を飲まないので、長年海外に酒を持っていったことがなく、そのルールに疎かった。

どうしても酒を持っていかねばならず、一度カウンターに戻って荷物に入れて預ける必要があった。特別ルートで戻され、預けてまた特別ルートから再検査となった。まあこれもいい経験だろう。出国が完了してお土産を少しだけ買う。その頃ようやく朝日が昇り始める。早く来ればそれだけ早く出国できることを実感する。次回からいつも始発にしようか。

フライトは順調だった。やはり乗客は多くはなく、日本人より中国人の方が多いのは変わらない。食事は前回とほぼ同じで選択権なし。もう期待はしない。映画を見ながらウトウトする。ちょうど12時頃、北京空港に到着した。前回も行ったので臨時入境手続きの場所は分かっていたし、書類も事前に書いていたが、何と20人以上の列が出来ていて、窓口まで辿り着けない。

仕方なく、シムカードの交換などをしていると、何とタイのシムを落としてしまう。あの小さいシムカード、一度落ちるとどこにあるのか分からない。バッグの中に落ちたのか、と探すのを断念する(結局紛失)。タイのシムでよかったが、これが中国や日本だと再発行が想像するだけでも大変だ。

結局40分以上かかってシールを貰い入国。預け荷物のレーンは既になく、荷物を探して右往左往。だから預けたくなかったのに荷物。今回は昼まで荷物も少ないので、地下鉄で市内へ向かう。ここはさすがに現金でも切符が自販機で買える。だが地方から来た老人たちが切符を買えずに困っており、私が教える羽目になる。不親切にも職員はいないのだ。

今回はチェーンホテルの前回とは別の宿を予約してみる。駅から地図上では遠くないのだが、実は道が限られており、意外と歩くのは大変だった。そしてチェックインしようとしたが、スタッフは私のパスポートを持ったまま、他の中国人の対応に追われ、私の順番は全く進まない。20分ぐらいして、ようやくお客が途切れ、『私のチェックインは』と聞いたら、『あなたは誰?』と聞かれたので、さすがに頭に来た。

その後上級スタッフが平謝りしていたが、同じチェーンでも対応がかなり違うことを実感。また中国人の横入りは普通だが、いくら何でももう少し配慮が欲しいところ。まあ、こういう時は間が悪く、前回に比べて部屋も良くなく、更に落ち込む。スタッフが部屋まで来てきてしきりに『微信で繋がりましょう。こちらでご意見を承ります』というのも、少し気に障る。

熊本・福岡茶旅2023(4) 博多の日本茶カフェ

外へ出るとかなり強い雨になっていた。歩けないので博多駅まで戻り、地下鉄に乗る。この路線、以前は見たことがない。コロナ中に開設された新路線。この線の開通によって、博多駅まで出るのが非常に便利になったとの声を聴いた。私はこれで渡辺通を目指す。今日は日本茶カフェでYさんと待ち合わせ。

ビルの2階、看板が無ければ通り過ぎてしまうようなところにそのカフェはあった。店主のIさんとは以前一度会ったことがある。そのカフェが最近人気だと聞き、訪ねてみたのだが、カウンターとテーブル合わせて8人を相手にIさんは一人でお茶を淹れている。それも冷たいお茶から淹れ方を変えて4煎ぐらいまで、様々な茶の魅力を見せ、解説してお客を楽しませている。

これは新しいスタイルの日本茶カフェだ。お客も台湾人が来ると、すぐに中国版のガイドブックなどを出してこの店のスタイル、システムを知らせて、あまり違和感なく対応している。これならお茶に興味のある外国人もやってくるのだろう。どうしても質問したければ、Google翻訳なども使える。お茶は静岡辺りの煎茶が多く、ちょっと意外だったが、自分が良いと思う茶を選んだ結果、というから、地域ではなくこだわりで選ぶ時代なのだろう。

2時間もお店にいた。お茶を飲んですっきりして宿へ戻ると腹が減る。近所にその昔行った店があったので、覗いてみるとおやじさんが一人で営業していた。ちょっと昭和感がある店なのか、フランス人カップルがかつ丼を食べていた。こんなところまでインバウンドはやってくるのか、と驚く。私もかつ丼とうどんのセットを食べて何となく昔を懐かしむ。

宿はちょっと面白い。部屋には洗面台しかなく、トイレは各階共用。最近トイレが近いのでちょっと心配したが、あまり人と会うこともない。シャワーは1階に行かないと浴びられない。1階のカフェ部分には本も置かれていて、コーヒーを飲む人、待ち合わせの人などがいる。スタッフは親切でよい。夜は大きめのベッドに横たわり、本を読んだり、テレビを見て過ごす。最近博多も宿代の値上がりが激しい中、駅にも近くちょっと助かる。

12月15日(金)東京へ

朝はさわやかに目覚め、外へ出た。目指すは以前小倉で行ったことがある「資さんうどん」。何と近くには以前訪ねた聖一国師ゆかりの承天寺などがあり、思わず寄り道。朝飯は肉うどんセットを食べて満足。どうも博多に来るとうどんばかり食べてしまうのは、やはり聖一国師のお陰だろうか。更に散歩を続けて、聖福寺界隈を歩く。何だか得した気分の朝。

午前に宿をチェックアウトしたが、フライトまで時間があったので、あまり歩いたことがなく地域に足が向く。さっき朝飯食べたのに、なぜか650円の定食に目を引かれ、早めのランチを食べる。チキ南メンチ定食、チキン南蛮とメンチカツのセットを頂く。コスパはいいのだが、何となくカレーのにおい?味?があるような。何と隣はインド料理屋で、しかも厨房を覗くとインド系の人が料理している。あれ、厨房を共有しているのだろうか。

最後に博多塀のある楽水園を通り、宿で荷物をピックアップ。博多駅から地下鉄に乗れば、すぐに空港に着いてしまうのは、何とも有難い。今回は珍しく、スカイマークに乗る。チェックインカウンターが分からずまごまごする。今やカウンターへ行く人は多くはない。土産に明太子を買おうと思ったが、何となく止めてしまい、後で後悔する。

熊本・福岡茶旅2023(3)出水にあった栄西ゆかりの寺

12月13日(水)出水で

今朝も温泉に浸かりパンを食べてから、荷物を整える。Aさんが迎えに来てくれ、名残惜しいこの地を離れた。そして車で山越えして30分。鹿児島県に入っていた。出水市、そこには若者Kさんが待っていた。Aさんは用事で福岡へ行くというのでお別れ。今回は実にお世話になった。感謝しかない。Kさんは地域おこし協力隊に属しているが、茶業を目指しているという。

Kさんの車で感応禅寺という寺へやってきた。ここは栄西が開山ということで案内されたのだが、何とあの島津氏の初代から5代目までの墓がある、菩提寺だったのでびっくりした。いつもは静かなお寺らしいが、今日は暮れの大掃除の日だったようで、檀家さん総出で庭を掃き、本堂をきれいにしている。

そこには普段は見られない仏像があり、ちょうどお掃除で拝むことが出来、何とも感激。ただ栄西に関しても、特に資料は残されていないという。栄西がここにも茶を植えた可能性はあるということか、最近茶業者がこの周囲にお茶を植えて作っているという話もあった。まあ、何ともご縁だな。栄西はこの地にやってきたのだろうか。

続いて、出水茶業の歴史として知られる、小木原三楽翁が江戸後期に宇治製法を導入した場所へ向かう。今は説明板が作られており、その付近に少し茶畑が残されていた。ご近所の人に聞いてみると、昔は茶業が盛んだったらしいが、あまりよく分からない。やはり歴史は埋もれていく。

お昼をKさんと食べる。彼は以前有名なお茶ショップで働いており、奥さんの実家があるこちらに移住して茶業を目指していた。昔の品種を探して植えてみたとのことだったので、ちょっと調べのお手伝いをした。こういう人たちが出て来ると、茶業界も徐々に変わっていくだろうか。

駅まで送ってもらい、新幹線を待つ。駅周辺は歴史感を出しているが、お客さんは多いのだろうか。そこから僅かな時間で熊本駅まで行く。更に路面電車に乗り、宿へ。更にまた路面電車に乗り、県立図書館で調べ物をしていたら、日が暮れた。夕飯にいつものとんかつ屋へ行くと、何と台湾人が行列している。これに中国人と韓国人を合わせると実に9割が外国人客になっており、大いに驚く。これもTSMC効果だろうか。ポストコロナだな。まあとんかつは美味しく頂き、すぐに退散する。

12月14日(木)博多で日本茶

朝ご飯は宿で美味しく頂く。それからバスで武蔵塚公園へ行ってみる。ここは勿論宮本武蔵関連の場所。園内には武蔵の像が立っており、墓もある。武蔵に憧れ、西南戦争で亡くなった人物の碑まである。武蔵はなぜ晩年をこの地で過ごしたのだろうか。何度来ても熊本は興味深い。

宿へ戻り、熊本駅へ向かう。また新幹線に乗り博多へ。新幹線はつまらないが、とにかく速い。あっという間に博多に着く。そして予約した宿を探して歩く。今日の宿はちょっと不思議。書店ホテルというらしい。看板はほぼ出ておらず、1階はカフェなので、通り過ぎてしまう。フロントも外国人が担当(日本語で会話)。そしてエレベーターの前には本が置かれている。部屋にもある。ここに潜り込んで本を読み耽る、というコンセプトだろうか。

熊本・福岡茶旅2023(2)水俣の山中で

12月12日(火)水俣で

朝は明るくなると川の音で目覚めた。階段の軋みの音が何とも良い。また温泉にゆったりと浸かる。何だか疲れるが取れる。朝飯はパンが置かれており、適当に食べるらしい。みかんもあったので簡単に済ませる。それが健康的でよい。宿では宿泊客同士の交流もあり、和やかだ。

散歩に出ると雨も上がっており、何とも気持ちが良い。この宿、明るくなって見てみると、かなり色々と飾りや置物があり、何とも風情がある。昔は立派な旅館だったのだろうか。6年前に今のオーナーが、いい温泉が出るのでもったいないと、借り受けて温泉重視で再開したらしい。

今日はまずは水俣図書館でお茶の歴史調査を開始する。以前も来たことがあったので簡単に済ませる。その後地元の銘菓、美貴もなかを買いに行く。餡がぎっしり詰まっていて美味しい。有名な店だが、店に行かないと買えないらく、地元民の行列が出来るという。隠れた銘菓、いいね。

水俣城跡をちょっと見る。相良氏が島津に攻められて落城したとある。関ケ原後は加藤清正の支城となったが、すぐに破却された。ここ水俣は国境、常に島津を警戒していたようだ。相良と島津の関係、それは江戸期の沖縄の茶に繋がっていく。なぜかお寺があり、そこに豆腐の行商が来ている。城付近の地名は陳内という。やはり国内だけでなく、中国などとの繋がりもあっただろうか。

車は徐々に山を登っていく。途中いい感じのヤマチャが見られ、思わず車を降りた。この茶葉でお茶を作ったら、美味しそうだと思う。Aさんも頷いている。林の中を分け入ると、そこには昭和3年に茶園が開拓された時の記念碑が建っている。今や完全に埋もれてしまった茶の歴史、実に興味深い。地元でこの歴史を発掘して欲しいなと思う。

標高約500m付近まで行くと、戦前にアメリカ帰りの入植者が茶の栽培を始めた場所があった。石飛という集落で、旧石器時代の遺跡も確認されている。ここに南畝(のうねん)正之助翁顕彰碑が建っている。お名前も独特だが、ここで一体どんな茶業が展開されたのだろうか。残念ながら戦時に茶業は衰退してしまったようで、戦後改めて入植したのがAさんのご先祖たちだということだ。さっき買ったもなかを持って、Aさんの家へ行く。この奥深い土地で丁寧な茶作りが行われている。なぜかイタリア人の若者が研修?している。お父さんから簡単にお話を聞く。

近くの家にシイタケを取りに行く。そこの方は猟師もやっており、最近は大忙しらしい。イノシシなどが沢山出るようだ。昼はラーメンを頂き、宿に戻った。午後は私がちょっと国産紅茶の歴史をお話しする会を開いて頂いたが、お役に立っただろうか。旧知のKさんもわざわざ聞きに来てくれた。この宿にこんなレトロな広間があるとは。これもまた楽しい。

ここ湯の鶴温泉を散歩してみる。この付近にもやはり平家の落人伝説があった。やや鄙びた感じの温泉街、細い川を挟んで両側に建つ温泉宿、その風情が如何にも昭和な日本だった。また温泉に浸かり、夜はまたおでんを頬張り、畳の部屋で寝る。これはなかなかいい生活だ、と強く意識して寝る。

熊本・福岡茶旅2023(1)山中でヤマチャを見る

《熊本・福岡茶旅2023》  2023年12月11₋15日

チェンマイから北京経由で東京に戻ると、何だか寒かった。零下の北京より東京が寒いはずはない、と思ったが、体調不良に見舞われ、4日ほど休息した。それから1週間して今年最後の旅、熊本へ向かった。

12月11日(月)水俣へ

羽田空港で熊本行きのフライトを待っていた。搭乗する飛行機を撮影しようと、一番端に移動して、何とか収めた。ふと振り返ると、何とそこにバドミントンの山口茜選手が座っていた。仲間と一緒にスマホゲームに興じていた。所属する再春館製薬は熊本にあるのだから帰る途中なのだろうか。同じチームの志田松山は世界選手権に出ているが、彼女は怪我のために離脱中。日本リーグの試合に帯同していたらしい。

そんなこんなで、ほぼ満席のフライトで熊本に着いた。出口には今回お世話になる、Aさんが迎えに来てくれた。同道するお仲間お二人も一緒だ。実はAさんも(奥さんも)バドミントン部だったそうで、山口選手が見たかったらしい(熊本に居ても会えるものではない)。もう少し待っていればよかったか。

車は小雨の中、ずんずんと進んでいく。1時間近く乗っていると、山道に入っていく。ちょっと上り始め、川が流れているとテンションが上がってくる。五家荘の標高1000mあたりで車は止まる。ここに峠のレストランがある。まずはランチを頂く。名物やまめそば、更におにぎりと辛子レンコン。外は霧雨が降る寒い日にこれは絶品だった。このお店の人も山仕事をしており、この付近の歴史などを聞いてみたかったが、時間もなく先に進む。

30分ほど山の中を走ると、そこに茶畑があるという。行ってみると、それは我々が想像する茶畑ではなく、ヤマチャの木が集められ、斜面の植えられている場所だった。ちょっと違うが、これは雲南やシャン州で見た茶畑の光景のようだった。基本的にこの辺の山の中には、所謂ヤマチャがたくさん生えており、最近利便性から一か所に纏めたらしい。山に入っていくと、足元がおぼつかなくなり、滑りそうだ。そんな山の中が心地よい。

五木村の方へ向かった。途中に立派な学校の校舎があったが、既に廃校になっているらしい。ほんの少し前まで人が結構住んでいたのだな、と分かるが、今やほぼ消えてしまった。山仕事が先細り、若者は都会へ出て行った。川沿いの斜面に茶畑が少し見えた。この辺でお茶を作っている人はいまだいるようだ。この付近には平家の落人伝説がかなり濃厚に残っている。四国から逃げてきたルートなども示されており、興味深い。

今日は天気が悪いのでここまで。道の駅でちょっと買い物をして、水俣方面へ向かう。暗くなった頃、今日の宿に着いた。細い川沿いに数軒宿が建っている如何にも温泉場という雰囲気だ。部屋も畳で何となく鄙びた感じが良い。温泉が出ているようで、入ってみると、これは誠に気持ちが良かった。かなりの効能が見込めそうなお湯だった。近隣の人たちが温泉に入りに来ている。

夕飯はみんなで向かいの小屋に入っておでんなどを食べる。実は宿の人たちが夜7時になると、この小屋を開き、宿泊客のために食事や酒を提供している。ジンジャーエールを飲みながら、だし巻き卵と焼きそばを食べて満足。後はずっとお茶の話をしてしまった。水俣のお茶の歴史はどんなだろうか。