静岡・和歌山茶旅2024(3)高野山の宿坊生活は

この寺は奥が深く、しかも私の部屋は一番奥の更に2階の端。入口から一番遠いと言ってよい。スーツケースを廊下で引きずらないように持ちながら行くとシンドイ。そして部屋は一人で使う畳部屋。広さに問題はないが、勿論鍵などはなく、プライバシーはない。しかもトイレは1階にしかないので、夜中は大変だ。ただ中庭はとても美しく、まさにインスタ映えの世界で、外国人もしきりに写真(動画)を撮っている。

実はこのお寺、何故か六文銭が目に付く。何と真田家の菩提寺、との表現もある。その辺を聞いてみると、『裏に真田信之の墓がある』というではないか。真田といえば関ケ原後、昌幸、信繁親子が幽閉された九度山とも近い。寺の建物の脇を入っていくと出口があり、その先は細い路地。そして反対側、向こう側は別のお寺の敷地らしく、注意書きが書かれている。その向こうに墓石が見える。確かに真田信正と信之の名がある。かなり立派な墓だった。ただここから外の道路へ出ることは出来ず、完全に囲まれていて、一般人は参拝できない。この辺は高野山の闇だろうか。

寺の部屋にあったパンフの説明によれば、『関ケ原後、真田昌幸、信繁親子は高野山に蟄居を命じられたが、妻子が居住できないため、寺が九度山に場所を与えた』とあり、『信繁は高野山と九度山を往復、この寺で得度した』のだそうだ。大阪の陣後、兄信之と寺は繋がり、真田家菩提寺、真田坊として六文銭の使用が許されたとある。

夕方5時の瞑想まで時間があるので散歩してみる。まずは明日バスに乗るバス停を確認する。金剛峯寺の脇を通り、比較的賑やかな通り出る。この辺も歩いているのは外国人。日本人はお店の人などが多いように見える。以前泊った時も歩いた道をずっと行く。何となく懐かしい。ビルマ関連の展示がある寺もあった。最後は元に戻り高野山の入り口、女人堂まで歩くと、かなり疲れる。

本堂へ行くと既に数人の年配外国人が椅子に座っていた。後から来た若者たちは、興味津々に前の方の床に座る。住職が流暢な英語で、瞑想の仕方を教え、呼吸法を伝授する。それから約40分、久しぶりに目を瞑ってジッとしていた。住職は早口の英語で法話をされ、『日本人には後で日本語やります』と言い、外国人は先に退出して夕飯に向かう。何と残ったのは、私と女性が一人だけ。

夕飯の場所へ行くと、既に皆が畳に座り、何とか箸を使って精進料理を食べている。高野豆腐やてんぷらなどが中心で品数はある。ご飯は自由にお替りでき、若者たちは恐る恐る御櫃に近づく。宿坊体験をエンジョイしているだろうか。もう一間では、VIP用に住職も交じって会話がされている。こちらに座るには特別料金を支払い、特別室に泊まる必要があるらしい。私の部屋は1泊100ドルちょっとだが、彼らはその3倍は払っているようだ。彼らの部屋には鍵がかかる。

食事が終わるとすぐに風呂に向かった。ここは6時半から入れるので、ちょうど始まった時間に行ったら、なんと住職が一人で浴びていた。ちょっと話し掛けると『外国人の宿泊が多いのは歓迎だが、本当でこれでいいのか』と少し悩んでいる様子が見られた。『宿泊代が日本人価格ではないと言われることも多く』とは、正直私も感じる所だ。風呂は数人が入れるのだが、寺の方から『早めに入った方が良い。外国人は風呂で長話などするので』とアドバイスを受けていた。色々と大変だな、宿坊。

部屋にはWi-Fiが飛んでおり、明日の処理などをしていると消灯時間の9時になる。皆さん、意外と真面目に就寝したようだが、隣のフランス人のいびきと寝言がうるさい。もうドミトリーなどにも泊まらないので、実に久しぶりに人の寝息を感じながら夜を過ごす。夜中に2回ほどトイレに起きたが、その度、誰かを起こしてしまうかも、とひやひやした。

静岡・和歌山茶旅2024(2)静岡から高野山へ

さっき降りたバスがこの先の終点で折り返してきた。これに乗らないと2₋3時間は来ないので、すぐに乗り込んでまた約1時間かけて静岡駅に戻った。しかしまだ午後3時、宿に戻るには早すぎる。そこで今度は尾崎伊兵衛の屋敷があったという小鹿という場所へ行ってみることにして、バスを乗り換える。

小鹿と言っても広いらしい。少しでも高台がありそうなところを探してバスを降りると、何とそこは静岡大学の裏手だった。そこをずっと上っていくと、なんとも涼しくて気持ちがよい。街中とは全く違う風景が出てきて嬉しい。小鹿の森公園まで辿り着いたが、疲れてしまい、そこで休む。茶畑などは全く見られない。

そのまま道を歩いて行くと、西敬寺があり、何とそこには山田長政の菩提寺という碑が建っている。長政が静岡の人だとは知っていたが、この付近の出身だったのか。アユタヤなどタイの長政については活動には関心があったが、彼はどんな境遇でタイに渡り、その死後遺骨はどこに行ったかなどは全く考えたこともなかった。残念ながらここにも何も説明はないので分からない。

静岡駅に戻るバスに乗るには、結局来た道を戻るしかなく、坂道を随分と歩いた。そして何とかバスを見付けて無事に生還した。今回は何も分からず、見つからず、だったが、やはりもっと事前準備をしっかりやりべきだったということか。勉強は地道な一歩からだろう、と思う。

晩御飯はどうするかと検索して、定食屋を見付けたので、また歩く。午後5時半営業開始ということで、35分に行ってみると、ご主人が暖簾を出していたのだが、中には既に数人のお客がいる。カウンターしかない小さなお店、常連さんはプロ野球中継を見ながらビールを飲んで待つ。完全にご主人のワンオペなので、注文してから料理が出て来るまで30分はかかったが、勿論文句などでない。ボリューム満点のかつ煮定食を食す。

6月13日(木)いざ高野山

今日は移動日だった。9時前の新幹線に乗り、高野山へ向かった。高野山は9年ぶりか。今やどうやって行くかも分からず、検索を重ねて移動する。まずは京都まで新幹線に乗る。ふと外を見ると浜名湖がきれいに見えた。途中の名古屋で降りてきしめんを食べるのを忘れた。

1時間半で京都到着。ここから在来線で大阪駅へ。何だか妙なところで新幹線代を浮かせる。いや大阪駅から環状線で新今宮駅へ行くにはこの方が良いということか。ところが何故かフラフラしてしまい、大阪駅ではなく、西梅田駅へ行き、そこから地下鉄で南海なんば駅へ行ってしまう。12時発の橋本行に乗るための時間調整として、ここでうどんを食べる。ああ、ちょっと失敗。

橋本行車内にはバックパックを担いだ外国人が何人も乗っていた。橋本で乗り換え高野山へ。この電車の外国人比率はかなり高くて驚く。こんなに外国人が行くのだろうか、高野山。そしてケーブルカーに乗ったのはほぼ外国人。自分が日本人なのを、ここが日本なのを忘れてしまいそうな勢い。更に高野山駅からバスに乗ると超満員。外国人旅行者もSuica持っていて、混乱はなし。

私は何とかバスから這い出して、今日のお宿へ向かう。門を潜ると、見事な庭がある。お寺の方がにこやかに声を掛けてくれる。チェックインをしていると、周囲は英語ばかりが聞こえてくる。係の方々は私に実に優しい。これまで日本でこんな扱いを受けることは少ないので戸惑う。その理由を推測すると『私が日本人だから』になる。聞けば今日の宿泊者約40名中、日本人はたった3人だった。

静岡・和歌山茶旅2024(1)小沢渡へ行くも

《静岡・和歌山茶旅2024》  2024年6月11‐17日

台北から戻って10日ほどが過ぎた。やはり疲労が出ており、静かに休む。そして満を持して龍神村へ出掛けた。9年ぶりの龍神村、どんなご縁が繋がっていっただろうか。ついでに静岡から高野山、和歌山から大垣、名古屋を転戦した。

6月11日(火)静岡で

まずはちょっと調べ物があり、静岡へ向かった。いつものように渋谷からゆっくりバスで行く。もうこれが一番楽という感じだろうか。静岡駅まで約3時間半、慣れというものは恐ろしい。新幹線の半額に惹かれてしまうのも正直なところだ。いつもは寝てすごしており、足柄SAに泊まってもトイレに行くだけだが、今回はついに思い切って吉野家に入ってみる。

肉だくそばを注文するが、PayPayが機能しないので、現金払いとなる。実は帰国後ずっとシムカードの調子が悪く、Google Mapも開きが悪い。と言っても完全に開かないわけでもないのが厄介だが、この先山道などで検索不能になるのは恐ろしい。吉野家とは、あの牛丼の吉野家がやっている蕎麦屋らしい。よく見ると牛丼などもある。この肉だくそばの肉、牛丼のそれに近い。そして意外にも旨い。次回からこれを食べよう。

少し遅れて静岡駅に到着。今回は定宿がまさかの大幅値上げ?で、予算オーバーしたため、最近お気に入りのアパホテルに入る。こちらは朝食もなく浴場もないのだが、まあ利便性はあるか。近所は繁華街なので、コンビニもすぐにあるし。ただいつものルーティン、新静岡駅から電車に乗るために歩く時間が倍になる。

いつものように坂道を上り、県立図書館へ行く。もう慣れているのだが、今回は思ったほど資料が集まらず、ちょっと集中力を欠いた感がある。現在書いている連載に使う歴史だが、なかなかいい物が出て来ない。書きたいものは資料がない。どうするんだろうと思いながら、図書館を後にする。

既に暗くなりかけており、これまたいつものそば屋に入ってかつ丼セットを頼んで、黙々と食べる。まあ日本に居る幸せを感じながら食べるのは何とも良い。部屋に帰るとかなりコンパクトなサイズであり、ベッドに潜ってテレビを見ている内に寝てしまう。

6月12日(水)尾沢渡から小鹿へ

朝、外へ出てみた。近所に朝ご飯を食べるに良い場所は見付からない。10年位前は駅の南側に渋いおにぎり屋さんがあったのが何とも懐かしい。今日はコンビニで我慢する。それから何故か午前中はサッカーなどを見て過ごす。今日の訪問地までちょうどよいバスが無いので時間をつぶす。

11時になってサッカーが終わると早めのランチに出る。近くの食堂を探したところ出てきたのが、JR新幹線食堂。何と新幹線の高架下にある社員食堂のような場所。ほぼ表示もないので、知らなければ絶対に入れない。小鉢などは勝手にとり、主食を頼んでお会計という昔の食堂方式。私は小皿3つとご飯、味噌汁を頼んで510円。お客さんはやはりJRの人々が多く、慣れた感じでカレーやうどんを頼んでいた。ここは朝から来られるので良い。

新静岡駅のバスターミナルへ行き、尾沢渡という場所へいうバスを待つ。一日数本しかないので逃すわけにはいかない。何とか乗り込むと街中を走っていたバスは途中から田舎道へ入る。乗客はどんどん降りていき、ついに私だけになる。50分後、尾沢渡に着いた。このバス停『おさわど』と読むらしい。

私がここに来た理由だが、それは尾崎伊兵衛という人物を調べていて、ここに尾崎家の屋敷があった、と書かれていたからだ。だが残念ながら、屋敷跡と思われる場所はあったが、そこは更地になっている。その向こうには城跡もあるはずだが、こちらからは登れない。その辺を歩いてみたが、茶畑などもないようだ。少し離れた場所に僅かに茶畑はあったが、尾崎家の物かも分からない。唯一あったのは倉庫。そこに尾崎の屋号が入っていたので、ここに半世紀前まで、茶業があったことが何となく知れる。

ある日の台北日記2024その7(5)早朝東京へ戻る!

今晩は一大イベントが待っている。ゴミ出しをしなければならない。台湾はいい所も多いが、一般家庭ゴミは、ごみ収集車の到来を待って出すルールだから、これはかなり困る。何しろ帰国直前でゴミも溜まっているが、今晩出せないと、もうチャンスがない。午後9時前のあの音楽を今か今かと待っている訳だ。近所の人々がぞろぞろと集まり、ごみ収集車にゴミを投げ入れ、そして出し終わるとどっと疲れて寝る。

6月2日(日)広東語の世界

朝から大雨で洗濯も出来ない。取り敢えず真下のセブンまで行って、おにぎりとサンドイッチという朝ご飯を確保した。今日は月に一度のオンラインがあり、時間が迫ってくる。時差1時間といえども、なかなか厳しい。まあ何とかこなして話し終えてると、午前中は終わってしまう。

昼ごはんは雨も止んでいたので外へ出る。珍しく日曜なのに、広東系の店が開いていた。その店先で、シェフとお客がたばこを吸っていたのだが、その会話が耳に入る。広東語だった。これまで外省人の存在については何度も認識してきたのだが、今回の台北で、この街に広東語の世界があるのを知ったのは何とも大きい。

店に入って広東料理らしいものを頼もうと思ったが、結局いつもの三宝飯になってしまうのはなぜだろうか。香港に10年も住んで、もうちょっと気の利いた選択肢はないのだろうか、と我ながら思う。店内での従業員の会話は華語であり、広東語はお父さん世代で共有しているのだろうか。来年があれば、奥深い台湾の広東語の世界をもっと覗いてみたい。

6月4日(火)早朝東京へ

結局バタバタ、にバタバタを重ねて何とか荷物を押し込み、帰国の日を迎えた。チケットを取った数か月前は、『何でも新しいことにチャレンジしよう』などと思っており、これまでの午後4時発の帰国便を改め、何と午前7時20分発にしてしまっていた。さすがにそれは早いだろうとは思ったが、宿から松山空港までは、車で15分ほどの距離であり、何とか行ってみることになった。

5時半頃道路に出て、タクシーを待てばよいとは思ったが、重い荷物を抱えていて、万が一車が来ない場合の代替案が無い。MRTの始発も6時過ぎだから、難しい。バス停まで引っ張って行ってくるかどうかわからない。結局配車アプリで車を呼ぶことにした。だが事前練習は出来ず、いきなり午前4時に起きて、5時過ぎには車を頼んだ。

ちょっとしたハプニングはあったものの、車は見付かったが、なんと3分で来てしまった。確かにこんな時間に走っている車はなかったから早い訳だ。そしてあっという間に空港まで行ってしまい、名残を惜しむ余裕もなかった。とても便利だったが、現金払いが出来ないのはちょっと不便かな。

チェックインカウンターも開いておりスムーズかと思われたが、大きな荷物を2つ出すと『1個の荷物は23㎏以下』と厳しく言われてしまう。一つからもう一つに移すにしても、大きさの関係もあり、結構大変だったが、眠い目をこすりながら、なんとかこなした。後は夢見心地で搭乗して、眠っていると成田に着いてしまった。

成田から重い荷物を持って帰るのが面倒で、10年ぶりに宅配に頼んでみた。随分色々と手続きも変わっていて驚く。初めて日本に来る外国人の心境で指示通り行い預ける。料金を安いと考えるかどうかは人に寄るだろう。まあ今回は資料や本が多かったから、宅配は正解だったろうが、翌日運んで来た人は大変だったのではないだろうか。

ある日の台北日記2024その7(4)突然木柵春茶品評会へ

5月31日(金)突然木柵コンテスト見学

今朝は松山空港へ行く。今日は帰国日ではないが、使っているSimカードが切れてしまうので、購入する。これまで30日有効を使ってきたが、今回は後5日なのでだいぶん安い。いや、コスパから言えば随分と高いということか。円安も響いて、Sim料金は高すぎるので、次回は色々と見なおす必要がありそうだ。

今回の台北滞在の前半で大いにお世話になったMさん。日本に一時帰国していたが、ちょうど戻られたので、最後の食事を食べに行く。場所はずっと行きたかったが、今回イケていなかった金春發。11時半開店ということで待ち合わせたが、その時間にもう食べている客がいた。本当は何時開店?

いつもは一人で来るので注文は限られるが、今日は2人なので思いっきり頼んでみた。牛肉カレー麺やら、ホルモン系が並んでいくのは爽快で、食べまくって腹パンパンという状態に陥る。まあこれも台湾最後の贅沢だろうか。これからどこへ行こうかという話になり、木柵へ向かった。1時間に一本しかないバスにも奇跡的に乗れた。

実は1か月前張協興を訪ねた際、炭焙煎を見るか、と聞かれたので見たいと答えたのだが、昨日聞いてみると今年は少し開始が遅れるとのことで見学は叶わなかった。まあそれでもMさんに紹介しようと思い、店まで行ってみた訳だ。だが、先日もそうだったが、我々は決してウエルカムという雰囲気で迎えられてはいない。何故かはわからない。

何だか話も繋がらないし、お茶も出て来ないので帰ろうかと思っていたら、ちょうど老板が出てきて、俄かに茶を飲み始める。少し話していると『じゃあ行くか』と声が掛かり、車で連れ出される。ついたところは木柵の農会。何でここへ来たんだろうかとエレベータを降りると、何とそこは春茶品評会の会場だった。

木柵鉄観音がずらっと並んでいる。勿論評茶の場には入れないが、かなり近くで見ることが出来、茶業試験場の職員が評茶している。更には老板の影響力なのか、評茶後のお茶がこちらに回ってきて、飲ませてもらえるという破格の待遇。しかも専門家である老板の説明付きだからたまらない。周囲の若手茶農家もよってきて、皆で老板のご高説を賜っていた。こういう形式もまた人を育てるということだろう。我々はいい物を見ることが出来た。

帰りは雨が降っており、急いでバスに乗る。だがこのバスは反対方向へ向かい、またUターンして、木柵駅まで何とか来た。台北のバスも分かりにくのがあって時々迷う。何とか近所まで戻り、最後に餃子を食べて〆る。この焼き餃子とスープももう食べ納めだろうな。次回はあるか。

6月1日(土)ああ、炒飯

いよいよ帰国準備に熱が入る。食べ物も食べたい物を探す。やはり大腸麺線か、ということで、昼ご飯は近所で終わる。部屋に残った食べ物もボチボチ処理しなければならないから大変だ。午後も原稿の処理などに追われてしまい、あまり動けず終了。

そして夕方、勇んで牛雑屋へ行く。土曜日は開いているが、日と月は休みだからラストチャンスだ。本来はここで牛雑を食べるべきなのだが、先日6年ぶりに禁を破って他のメニューを注文して感激されたこともあり、今日も別メニューで行きたい。そう思うとテイクアウトの人のほとんどが炒飯を注文していることに気が付いた。

勇んで注文すると、老板娘が『おや、今日も別のメニュー』という顔でちょっと喜んでいる。出てきた牛肉炒飯、その何とも言えない味わい。これは言葉に表現しにくいが、昔ながらのラードの効いた炒飯だろうか。これなら皆が気軽に食べられてよい。料金も80元かな、安い、の一言。名残は尽きないが、後は来年まで待つしかない。

ある日の台北日記2024その7(3)チベット料理と炒牛雑

夜は今回の滞在で大いに支援してもらったAさん、Uさんとチベット料理屋へ行く。やはり皆さん、こういう地域には関心が高い。私がチベットへ行ったのは37年前、インド側のラダックでももう13年前になるから、チベット関連とはかなり離れてしまっているが、台湾では近年お茶屋などでもチベット仏教信仰者を見掛けるし、これが単なる政治的志向なのか、深い宗教的な考えなのか、などとは思っている。

この店には恐らく10年位前に来たような気がするが、店内はキレイになっており、メニューも洗練されていた。オーナーは亡命チベット人らしい。カレーやサモサなどのインド系料理と、チベット料理の両方が出て来るというのが、ある意味で今のチベットの現状かもしれない。とにかく料理の味は良く、話も盛り上がり、閉店時間までいた。来年もしまた台湾に来られるのなら、また色々と学んでいきたいと思った夜。

5月30日(木)花茶を受け取る

今週一番気になっているのが、宿の下の屋外でいつもバナナを売っている夫妻が現れないことだ。お陰でバナナも買いそびれて食べられない。単なる一週間休みなのだろうか、それとも商売を止めてしまったのだろうか。ここにお世話になってからもう6年にもなるが、何とも親近感が沸くだけに、会えないのは寂しい。

今日もまた大稲埕へ行く。MRT北門から歩いて行くと、これまで歩きてきた茶歴史が浮かび上がる。花茶の全祥の茶工場は売りに出ているのだろうか。陳天来故居の改修工事は順調なのだろうか。そしていつもの廟のところで郭さんが待っていた。彼とは先日三重で花を摘んだのだが、その花を使った紅茶が出来たというので、少し貰った。

ランチに彼が連れて行ってくれたのは、一本裏通りに入った店。台南出身の彼らしく、台南料理の蚵嗲。これは揚げ物だが、私は初めて食べたような気がする。甘いたれ。元々はお婆さんが屋台でやっていたらしいが、そのお婆さんが亡くなり、最近移転したという。牡蠣のスープを飲むと、何となく台南感覚になる。台北では珍しいのでまた来よう。

そこからワトソンズと書かれたビルに移動した。そこの2階におしゃれなカフェ(夜はバーかな)があった。そこへ前回も同行した蔡さんがやってきた。彼は何とお茶のゲームを作った人で、その中に台湾茶業の歴史的人物をかなり入れていて驚いた。更に彼は『今後改定する時、入れるべき人物を紹介して欲しい』というので、私の好みをいくつかお話しした。勿論全然一般的ではないので、取り上げられるとは思えないが、改定は待ち遠しい。因みにこのゲームは日本でも買えるが、かなり難しいらしい。

帰りがけに、あの牛雑屋にどうしても行きたくなり、そしてついに禁断の?他メニューに挑戦することにした。といっても炒牛雑を炒什锦に変えただけだったが、これを告げると老板娘が、一瞬驚いた顔をした後、にこにこになり厨房に伝えた。出てきた料理を食べていると2回も『美味しいか』と聞いてきて、美味しいと答えると、そうだろうという顔で喜んでいる。私はなぜ6年もの間、1つのメニューにこだわっていたのだろうか。そして彼女は6年間、お勧めメニューをいい続けたその本当の理由を知りたい。とにかくうまい。また来たいがもう日がない。

ある日の台北日記2024その7(2)林馥泉の子孫に会う

広大な敷地には、検問所もあり、事前に連絡していないと入れないシステム。そしていくつもある別荘を抜けて何とか辿り着く。小雨が降る中、そこで待っていてくれたのが林仰峰さん。林馥泉の息子だった。立派な家に招き入れられると、奥さんとお孫さん(連絡をくれた女性)にも歓迎された。お孫さんは学校の先生のようだが、わざわざ休みを取って駆け付けていた。何とも有難い。

実は5年前に林馥泉について書いた際、一生懸命資料を集めたものの、分からないことがいくつもあったので、今日の面談で『間違っている』と怒られはしないかとビクビクしてやってきた。それでも、もしや新たな事実を知ることが出来るのでは、との好奇心が勝ってしまい、参上した訳だが、それは正解だった。

林さんは茶業とは関係ない仕事をしていたようだが、80代になり、最近病気をしてから、父親の資料を整理し、その偉業を知ろうとしていた。当然この家には相当の資料が眠っており、私が初めて見るものも多かった。また子供の頃、有名な茶業関係者をまじかに見ていたことなど、貴重な証言も得られた。私が書いた物に多くの補足が必要だったが、その機会はあるだろうか。

今や残念ながら忘れられてしまっている林馥泉について、日本人が何かを書いたというだけで、評価を頂けたのは何とも有難い。そして初めて会ったのに、何とも打ち解けた雰囲気となり、話が尽きなかったのは、やはり茶のご縁であろう。このような機会が一度でもあれば、何かを書いて行く張り合いがあるというものだ、と大いに感じ入った。

名残惜しかったがお暇し、トミーの車で帰る。彼も台中に帰るというので、新店駅で降ろして、とお願いしたら、まさかの小碧潭駅に着いた。全く初めての駅で面白い。この駅はたった一駅で松山線に接続するのだが、なぜここに駅が出来たのだろうか、と首を傾げながらMRTに乗る。次の七張駅では退勤ラッシュに遭い、満員電車に揺られて帰る。

5月29日(水)大稲埕グルメ散歩2

Uさんと行く台北グルメ散歩。ついに今回の最終回を迎えた。場所はやはり大稲埕となり、前回も行った行列食堂へリベンジに行く。朝の大橋は、三重の方へ行く、また市内へ向かいバイクの渦で混沌としていた。午前9時頃に食堂に着くと、なんと行列が見当たらない。奇跡的にすぐに席に着く。

Uさんが台湾語で色々と頼んでくれた。前回は腹が減っていなかったが、今回は準備万端だ。やはり鶏肉は見立て通りプリプリで美味かった。腰花のスープも久しぶりで美味い。Uさんは豚の脳みそを頼んで、一生懸命撮影している。食べている間にだんだん客が入って来てすぐにまた満席になった。なぜかこの店の箸入れはタイティーの缶だった。何かタイとゆかりでもあるのだろうか。それからまたセブンでグルメ話などを続けた。来年もグルメ散歩があることを切に期待する。

午後はいよいよ帰国準備で整理を始めた。今回はいつもより沢山のお茶を購入しているが、既にどこで買ったか分からない、どんな茶が入っているか忘れてしまった物もあり、今後の混乱が予想される。本などの資料も出来る限り持ち帰ろうとスーツケースに詰めてみるが、なかなか入り切るものではない。どうしようか。

ある日の台北日記2024その7(1)回族の墓地を訪ねて

《ある日の台北日記2024その7》  2024年5月26日₋6月4日

今年の台湾滞在も終盤を迎え、やり残したことなどをボチボチ処理していく。台湾茶の歴史に触れ始めてから10数年。色々と刈り取りの時期に来ているのかもしれない。そして名残惜しい台湾の食事、あまり食べられなかったなあ。

5月27日(月)回族の墓を探して

台北も結構雨が降っている。洗濯をどのタイミングですかが重要な季節だ。出かけようと張り切って部屋を出ると雨に見舞われ、引き返すこともある。今回台北のモスクなどを訪ねていたので、どうしても行きたいところがあったのだが、ついに夕方晴れていたので、足を踏み出す。

バスに乗って指定の場所で降りるとそこは下町風情が残っていた。Googleの言う通りに坂を上って行ったが、最後に上る階段が見当たらない。近所の人に聞いてみたが、『ああ、そこは昔通れたようだが、今はぐるっと回った方が良い』と言われてしまう。そのグルっとが車なら大したことはないのだが、歩きだと坂を下り、また上りで、結局3㎞以上余計に歩く羽目になる。

もうクタクタだと足が止まりかけた頃、ついに回族墓地に辿り着く。相当に上ったようで、風景が素晴らしい。そして山側の斜面を見ると、回族のお墓が上までずらっと並んでいる。漢字部分しか読めないが、中国全土から来た回族がここに埋葬されているのは分かる。蒋介石と共にやってきた国民党軍の中に、回族が多くいたということだが、その1つ1つを見ていくには疲れがピークに来ていた。これはあまり知られていない歴史だろう。

蒋介石と一緒に戦った戦略家、回族として一番有名なのは白崇禧だろう。彼の墓は実に立派に回族墓の一番上に建っている。広西回族の彼は蒋介石とも仲たがいがあるなど、その一生は実に興味深い。勿論回族のために、台北の清真寺をはじめ、様々なイスラム関連の支援もしている。墓には奥さんや子供たちも並んで埋葬されている。ここからだと台北の反対側が良く見える。

夕日がかなり傾く中、坂を降りていき、MRT駅の方へ向かおうとしたが、意外と駅が離れており、寧ろ歩いて宿の方へ行ったが早いことを知り、また歩く。何でこんなに歩くんだろうか、今日は。結局ちょっとレトロな道でご飯を食べようとの目論見は砕かれ、近所の麺屋まで戻ってきてしまい、いつもの夕飯となる。だがこれがいつもの夕飯と言えるのもあと1週間かと思うと、ちょっと寂しい。

5月28日(火)林馥泉の子孫を訪ねて

先日驚いたことがあった。5年ほど前に交流協会の雑誌に書いていた連載記事。『光復後の台湾茶業を支えた福建人たち』という題だったが、そこで取り上げた林馥泉という人の息子さんから連絡があり、ぜひ会いたいと言われたのだ。茶旅に驚きや意外性はつきものだが、このように言われたのは初めての経験であり、書き手冥利に尽きると思い、お邪魔することにした。

その連絡自体は、林さんのお孫さんから、我がパートナーのトミーのところに寄せられていたので、忙しいトミーにお願いして、同行してもらった。新店にお住まいだとは聞いていたが、車は新店の山の中に入っていき、こんなところに家があるの、と思う感じだった。ただ道路は立派なので安心はしていたが、進んでいくと高級な別荘地が出てきてビックリ。

ある日の台北日記2024その6(7)潮州へ行ってみたが

潮州駅に着くと観光案内所があったので『この辺に潮州人はいるか?』と聞いてみたが、今はそれほどいない、との回答。一通り潮州の観光名所を教えてもらい、地図をもらって歩き出す。潮州日式歴史建築文化園区に辿り着く。ここは日本時代の建物が残り、それを起点に観光名所を作っている。ここも戦後は眷村として使われていたようだ。

日本が台湾の領有を始めた1895年以降、南部の抵抗勢力を日本軍が鎮圧した、と聞いているが、この地でも戦いが行われたようだ。後藤松次郎という巡査がここで殉職した、という記念碑が保存されているのはなぜだろうか。この辺の歴史を再度見つめる必要性を強く感じる。

そこから屏東戯曲故事館へ移動した。ここは元々郵便局や役場だったらしい。結構頑強な建物である。今は屏東で有名な戯曲の展示館となっており、予想以上に充実した展示となっている。潮州の街中には日本時代の建物がいくつか残っており、それを活用した町おこしが行われている。

しかし潮州という名の街ではあるが、潮州ゆかりの物にはなかなか出会えない。廟などもいくつかあったが、最後に行った三山国王廟が、いかにも潮州という感じで残されているぐらいだった。食べ物なども潮州を意識できるものは多くはなく、かなり歩き回ったものの、疲れてしまい、屏東へ帰ることにした。

屏東駅へ戻り、荷物を取りだし、近くの宿へ引っ越した。こちらも料金はあまり変わらなかったが、机があったので、ここにした。やはり相当に古い建物で、しかも電気ポットが無く、廊下の一番端に、給湯器が備えられていて、お茶を飲むのも大変だった。まあ疲れたので休息。

昼ご飯を食べていなかったので、夕方外へ出た。昨日食べた食堂の先の道を行くと、かなり大きな夜市を発見した。ここでうなぎ麺を食べる。鰻といえば潮州も有名だったのだが、出てきたのはタウナギでハズレ。おまけに肉圓を食べようと店のおばさんに言うと、全て台湾語で帰ってきて、途中からは身振りで対応された。まだこんなことがあるんだな。まあ最後は笑顔だったので敵意はないとは思うのだが。

5月25日(土)屏東から戻る

翌朝は早めに起きて、屏東朝散歩。ここも潮州同様意外と日本時代の建物が残っており、しかも新しく日本的な建物まで建てて、カフェや雑貨店などを展開、新名所を築いている。その規模はかなり大きく、行政がかかわっている。孔子廟や日本時代からある公園なども整備されており、歩きやすい、気持ちの良い街だと言える。

昨日とは違う市場、地元民が次々に吸い込まれていく肉圓屋。昨晩も食べたばかりだが、何となく入ってしまう。完全にオープンな店で、店員もきびきびしており、華語でも問題はない。肉圓もかなり美味しい。食べ終わったら、スープは自分でよそい、それを飲む。確かにこの店は繁盛するわけだ。

随分グルグルと歩き、いつの間にか昼になっていた。ちょうどあった食堂に入り、米糕と鴨肉湯を食べる。日本式建築の店はちょっと高級感があり、入りにくいが、こちらは庶民的でよい。最後にかなり歩いて屏東原住民文化会館へ行ってみたが、何と既に移転しており、もぬけの殻。屏東の原住民の歴史を知りたかったが、まあ偶にはそんなこともあるさ。ただただ歩き疲れた。

屏東駅へ戻ると、何とエキナカに丸亀製麺があった。腹が一杯で食べずにパンを少し買って自強号に乗り込む。私は自強号の旅が好きで、わざわざ乗り込んだのだが、何となく昔の風情は無くなり、車窓の風景も心なしか寂しい。何より台鐵弁当も売りに来ないし、そもそも座席前にテーブルが無い。乗客も週末でもそれほど多くはない。5時間以上かけて台北まで戻ってきたが、何となく苦痛な旅になってしまった。

ある日の台北日記2024その6(6)里港の藍氏と劇的に出会う

里港の藍氏の家は想像よりはるかに立派だった。実は台北の藍先生から電話番号と住所を貰っていたが、電話を掛けても出なかった(これは台中と同様)。しかも今ここへ来て分かったことは住所も少し違っていた。そして現在の当主はここには住んでいないようで、もしここまでは辿り着いても、会えない可能性の方が高かった。朝温先生と会ったことは全てを解決していて驚くしかなかった。もし明日以降一人でバスに乗ってきてもむなしく帰るだけだったはずだ。

先生の教え子の女性とは会えたが、彼女はちょっと困っていた。実は現当主は今日の午後は高雄に用事があり、出掛けていたのだ。ところが彼女が私に『紹介されたのは誰?』と聞いてきたので、それを伝えていると、彼女の顔が変わった。『あなたが会いたかった人が向こうから歩いて来るよ』というではないか。何と高雄の用事を終わり、当主の藍さんがちょうど到着したのだった。温先生が道に迷ったことで会うことが出来た。これは不思議な力が働いたと皆が驚く。

藍氏夫妻の案内で、藍氏邸を見学する。中央に建つ立派な建物は1923年時の皇太子(のちの昭和天皇)が台湾巡行で立ち寄るとのことで作られたが、実際に来られることはなかったらしい。ただ100年前にこの立派な建物を建て、皇太子を迎えるかもしれない栄誉を得ていた藍氏。この地域での名士としての地位が窺われる。当時の当主藍高川は日本時代貴族院議員にもなっている。

藍氏夫人が『建物の上に建つ避雷針は総督府と同様の作りで、台湾には2つしかない(総統府には現存していない)』と説明してくれた。因みに彼女は何と満州族だという。畲族と満州族が結婚、何とも不思議な世界であり、もっともっと話を聞きたかったが、私にはもう一つ行きたいところがあったので、泣く泣くお別れした。

温先生の教え子に先導されて向かったのは、眷村だった。信国社区と書かれたその場所には文物館があったが、残念ながら平日は閉められているようだった。中が見られれば、この村の歴史が分かるはずだったが、結局何も分からない。1954年に泰緬から移住してきた人々が住む村。その壁には漢人だけでなく山岳少数民族の名前が沢山描かれており、ここに移住したのは多様な人々だったことを窺わせる。

お話しによれば、移住後の人々の生活はかなり過酷だったらしい。小学校は藍氏の住む地域にしかなく、川が氾濫すると家に帰れない子供もいたという。現在は眷村が見直されてきたようだが、若者は村を離れ、寂しい地域になりつつある。比較的近くには客家の街として有名な美濃があり、そこにも寄ってみたかったが、既に夕暮れ。温先生は私を屏東駅まで送ってくれ、台南に帰っていった。今回はお世話になり、かつ奇跡のような出会いを頂き、何とも有り難い。

屏東駅前で宿を探した。疲れていたので一番近くに見えたホテルに飛び込む。何だかとても懐かしい感じのにおいがした。日本人にも何だか慣れている。料金も高くなかったのでそこに決めて部屋に行ってみると、かなり昔風でラブホだったのだろうか。快適ではあるのだが、残念ながら机が無く、床に座ってPCを操作するのは大変だった。

腹が減ったので外へ出た。駅前だが食堂などは見当たらない。大きなゲームセンターはあるのだが。ようやく見つけた食堂は超満員。何とか席を確保して、普通のご飯を食べる。屏東の名物がなにかも理解せず、予定外に早くここに着いてしまった動揺があっただろうか。ただ田舎は台北並みの料金だと量が格段に多いことを忘れており、腹一杯食べた。

5月24日(金)潮州へ

朝屏東駅の反対側へ行ってみる。確か市場があったと記憶していた。バナナなどフルーツが安い。そこを過ぎると、きれいな公園がある。ちょっと戻ってクラブサンドの朝食を食べる。何とも屏東へ来た感覚はない。周辺には台湾系の廟もあるが、一方駅前にはベトナムやタイの言葉が書かれた看板も多く、混沌とした世界が広がっていた。

今日は潮州へ行くことにした。屏東から潮州までは台鐵で僅か20分ほど。取り敢えずチェックアウトはしたが、荷物は宿に預けて電車に乗る。実は明日台北に帰る自強号の切符を買ったら、屏東が始発だったので、潮州は日帰りにして、明日屏東から帰るという選択に至る。ただ潮州に何があるのかはほぼ分かっていない。