シンガポールで老舗茶商を探す2019(1)6年ぶりのシンガポール

《シンガポールで老舗茶商を探す2019》2019年7月29日-8月4日

確か3年前にシンガポールの空港に降り立ったことはあった。だがそのまますぐにジョホールバルに抜けてしまい、シンガポールに泊まったのは、もう6年も前になる。そしてその時の物価の高さ、特にホテルのコスパの悪さに嫌気がさしてこの街を敬遠してきたのだ。だが今回は東南アジアに渡った華僑の中で、大茶商になった人々の調査という目的があった。取り敢えず1冊の本を頼りに、どこまで調べることができるのか。

 

7月29日(月)
シンガポールで

シンガポール航空のサービスはやはりきびきびしていてよいと思った。日系航空会社のほっこり系とは異なり、ビジネスライクで気持ちがよい。業務をサクサクこなす姿勢はシンガポールを象徴しているともいえる。それでも料金的には、預け荷物代なども考慮するとそれほど高くはないので、LCCではなく、こちらを選んでしまう。これは厳しい競争に晒されているともいえるが、このようなサービスを求めている乗客にとっては有難いことだ。

 

バンコックからシンガポールは2時間ちょっとの旅だった。空港に降り立つと、まずはシムカードを探す。実は6年前は何も調べずにシムを買ったらかなり高かったので、今回はちゃんと事前調査していた。安いシムを買うには、普通のブースではなく、むしろ両替所へ行くのがよいと聞いていたが、それは正解だった。S$15で手に入る。

 

次は交通カードだ。6年前に買ったカードは既に失効していたので、これも新調する。カード代S$10を支払っても、シンガポールではこのカードは役に立つ。料金も割引になるので、頻繁に使えば十分に元は取れる。この辺はあまり変わっていないようだ。今回はバンコックで会ったSさんから『シンガポールの安い宿はゲイラン』と言われたので、地下鉄でゲイランに向かう。

 

ゲイラン、初めてシンガポールへ行った頃、その地名は聞いていた。川向う、などとも呼ばれ、正直いかがわしい場所、というイメージが強く、行ったことはなかった。もしSさんに紹介されなければ、今回も行くことはなかっただろう。ゲイランは空港からも比較的近いので、タクシーを使う手もあるが、折角交通カードを買ったこともあり、また荷物も少ないので地下鉄で向かう。

 

何となく記憶のある乗り換えをして、ゲイラン近くの駅に到着した。まだ日も高く、正直暑い。その中スマホ地図を頼りに歩き出す。周囲には四川料理など、中国料理屋がいくつもあり、大陸中国人観光客が多く来る場所、というイメージを持った。同時にいかがわしいという印象はなく、むしろ郊外のさわやかな住宅地と言った雰囲気も漂う。

 

Sさんが紹介してくれたホテルはすぐに見つかった。その周辺には同じようなホテルがいくつもあり、価格帯もほぼ同じようだった。昔はいわゆるラブホとして使っていたところを、観光客用に改装した感じだ。平日はS$50で泊まれる。部屋は6年前のチャイナタウンよりかなりゆったりしており、デスクや冷蔵庫もあり、装備としては特に問題ない。周囲も静かそうだ。

 

既に夕暮れが近づいていた。今晩は北京つながりのNさんと会うことになっていたが、彼女は3週間前に香港から転勤でシンガポールへ来たと言い、取り敢えず家が決まるまでの滞在先は何とゲイランだった。優良企業で働く人材がゲイランに住む、そういう時代なのだろうか。

 

というわけで、歩いて15分ぐらいのところにあるホーカーで待ち合わせた。物価の高いシンガポールで、一人で気軽に食べられる場所と言えば、ホーカーが一番だ。行ってみると、料金は6年前とそれほど変わっていない。他のアジア諸国の物価が上がる中、シンガポールはちょっと立ち止まった、ということだろうか。

 

焼きクイッティアオなどを食べながら、Nさんと近況を話し合う。外資系に転職した彼女の職場は、香港から完全撤退したらしい。そして東京も縮小、シンガポールへの統合が進んでいくようだ。これが今の世の流れだろうか。マネーもそうだが、企業も東京から去り、そして中国系を除いては香港からも離れていく。

 

北京を知っている彼女にとっては、香港には慣れやすいが、シンガポールとはちょっと心理的な距離もあるらしい。確かに人のマインドも異なるし、他民族により社会習慣もかなり違っている。同じ華人中心社会でも、香港とは違うし、英語ができるのであれば、慣れればむしろシンガポールの方が住みやすいのではないだろうか。1年後の彼女の動向が見てみたい。

タイ北部・中部を旅する2019(16)突然の停電で

7月27日(土)
突然停電

朝は天気が良かった。いつものランドリーに洗濯物を預けて、外へ出る。まだ暑くなかったので、歩いてプロンポーンまで出た。昔時々行った和食屋でランチに焼き魚定食を食べたが、料金は30-50バーツぐらい高くなっている。以前はバンコックの和食はコスパがよいと思っていたが、もうそういう時代ではないようだ。

 

そこから歩いてアソークまで行き、地下鉄でラマ9まで乗って行く。実はカメラが少し壊れているので、治せないかと思い、電脳街に行ってみた。ところがスマホ屋などはいくらでもあるが、カメラ屋は殆どないのだ。これも世の中の流れだろう。ようやく1軒見つけて聞いてみたが、修理するのに1週間はかかるという。

 

旅行者だからどうしてもすぐにと言ってみても、今日の夕方、だという。料金は500バーツ、そして治るかどうかは分からないと言われ、預けるのを止めてしまった。うちには数台の壊れたデジカメがあるのだが、デジカメは高級品以外売られなくなってきているので、何とか治して使いたいと思ったが、難しいだろうか。

 

地下鉄で宿に戻った。今日の午後は溜まっている書き物をしようと思っていたが、部屋に入るなり、突然大きな音がした。そして電気が点かなくなる。停電だ。少し経っても治らないので、下で聞いてみると、外の電柱に何かがぶつかったという。これではいつ治るか全くわからない。さすがにエアコンなしは少し暑いので、どこかのカフェに避難するつもりでPCを持って出掛ける。既に復旧工事は行われていたので、2-3時間で戻るつもりで出た。

 

近くの店が集まる一帯には数軒のカフェがある。その中で、PCを使え、充電も可能な場所、勿論涼しくて、静か、そしてあまり高くないドリンクを提供している店を探す。意外と条件が多くて、どこも当てはまらないという悲劇。これまでこの辺にはかなり長く滞在しているが、実際カフェで作業をすることなどなかったのだ。

 

だが、実際PCで作業が始まってみると、ネットをちらちら見ることもなく、かなり集中して出来たので、今後も集中したいときにはカフェだな、とは思った。ある意味で新鮮な体験だった。3時間後に近くのフードコートでいつものカオマンガイを食べてから宿に戻ると、何事もなかったように電気が通じており正直ホッとした。

 

7月28日(日)
お茶会2

翌日はお茶会の2回目があった。平日は来られない人々が集まってくれた。話の内容は金曜日と同じだが、参加者によって、感じ方、受け取り方がかなり違うのだ、ということを発見する。問題意識の差、ということかもしれないが、タイで如何にお茶が飲まれてきたのか、タイ人は元々お茶を飲むのか、タイ茶とは何かなど、テーマは尽きることがない。普段はあまり考えない話題でもあり、その答えを持ち合わせている人は多くはない。お茶をテーマに旅する醍醐味はそこにある、ともいえる。

 

会が終了すると、近所の立派なタイ料理屋さんでご飯を食べた。お茶よりビール、という方もおり、お酒が入って更に話が弾む。タイ在住が長い人が多く、タイ人とはそもそも誰なのか、どんな特徴があるのか、など、興味深い話に発展していく。私にとっては、タイ人は本当に分かりにくい人々なので参考になる。

 

食後、皆さんと別れて、タクシーで宿に戻る。既に20日以上タイ国内を旅してきたが、明日にはここを離れると思うと、やり忘れたことがいくつも思われるが、また次回にするしかない。今回はマッサージなどもほとんどせず、体に結構無理が来ていたので、今日は早めに休み、これからの旅に備える。何しろこれで旅は終わりというわけではなく、まだ半分以上残っているのだから。

 

7月29日(月)
シンガポールへ

ついにタイ最後の日がやってきた。朝いつものルーティーンでYさんとコーヒーを飲むと、タクシーを呼んでもらい、空港に向かう。これから実質6年ぶりのシンガポールに向かうのに、今回は7年ぶりのシンガポール航空を使うことにした。一体シンガポールとこの航空会社にはどんな変化がみられるのだろうか。興味津々。

 

それにしても、夏休みなのだろうか。出国手続きの外国人枠はいつにもまして長蛇の列だった。早めに出てきているので、焦ることはないものの、もう少し早くならないものだろうか。他国のように、常時この空港を使う者には、優遇するとか、そんな政策はないのだろうか。確かドムアンは中国人を別枠にしていたように思うのだが、ここは違うのだろうか。開業して10数年だが、スワナンプームは既にキャパオーバーではないかと思いながら、バンコックを後にした。

タイ北部・中部を旅する2019(15)バンコックでタイの茶の歴史を

7月25日(木)
バンコックへ戻るが

翌朝は、昨日も行った大学前のバス乗り場へ荷物をコロコロと引いて出掛けた。『バンコック』と一言いうと、誰かが『これに乗れ』と指示してくれ、乗り込む。料金も40バーツととても安い。これならあっと言う間にバンコックに着くのだ、と思われた。だが昨日フロントの女性が言っていた『ピンカラ』という地名が気になる。このバスの終点はピンカラか、と聞くと運転手も大きく頷くので間違いはない。

 

満員の乗客を乗せてバスは出発する。最初はスイスイ、バンコックが近づくと、渋滞にはまる。それでも2時間弱でピンカラに着いた。ピンカラ、それはピンクラオ、というショッピングモールだった。ここからどうやって定宿まで行くのだろうか。仕方なくYさんに連絡すると『その近くにフェリー乗り場があるから、そこからフェリーでサパンタクシンまでくれば、後は何とかなる』と言われたので、まずはフェリー乗り場を目指した。

 

と言っても歩ける距離でもなく、タクシーを捕まえるしかない。運転手に何とか場所を理解してもらい、2㎞ちょっと進むと川に出たので降りた。フェリー乗り場と思われる方に進むとおばさんがいきなり『ノー』と手を横にして制止する。どうやらここからは乗れないらしい。そしておばさんは『バス』と叫ぶ。何とフェリーにはこの付近からは乗れない?じゃあ、どっから乗るんだ?

 

バスと言われてバス停に行ったがいつ来るかも分からないし、どこへ行くバスかも分からない。仕方なくまたタクシーを捕まえて乗り込んだが、川を渡ることすらできないほどの渋滞が待っていた。これでは本当に何時着くか分からないほどだったので、BTSと叫んでみると、運転手もホッとしたような顔をしていた。そこから20分ぐらいで何とかBTSの駅に着き、更に途中でMRTに乗り換えて、何とか定宿に帰った。今回分かったことは、川向うとの往来はやはり基本的に避けるべき、ということだ。

 

タイ国内旅を2回もしたので、疲れが出ており、また雨も降っていたので、午後は完全休息に充てる。雨が止み、夕飯を食べようと外へ出た瞬間、またもや激しい雨が降り出す。この季節、タイは雨期ではあるが、このように断続的に雨に降られると何もできずに困ってしまう。

 

7月26日(金)
お茶会&ヤワラー

今朝は良く晴れていてホッとする。宿でタクシーを頼み、いつものお茶会会場へ向かう。今回はついに地元タイで『タイ茶の歴史』をお話しすることになっている。思えばタイに初めて来てから30年以上が過ぎたが、タイ茶の歴史を話すようになろうとは思いもよらず、何とも感慨深い。

 

主催者Mさんは、今回パワーポイントを映すためにわざわざ新しいPCを買って用意してくれていた。これまで使っていたPCは、就職したお嬢さんと共に日本へ行ってしまったらしい。1年ぶりの茶会、色々と変化があるものだ。参加メンバーも何年も来てくれている人もいるが、新しく加わってくれる人もおり、少しずつ入れ替わっている。

 

タイの茶の歴史、それはこれまで誰も書いたことがない、とタイの大学教授に言われ、つい自分が、という思いで書いてみたのだが、それがどれだけ困難なことか、やってみてよく分かった。そもそも文献もないし、タイと言ってもその歴史、定義自体が難しい。仕方がないので私が茶旅した内容を報告する、という程度に留まってしまい、しっかりとした分析や発見などはとてもできない。完全な寄せ集めだが、それでも無いよりはマシか、という出来だった。

 

会場近くで皆さんとお昼ご飯を食べて、それからヤワラーへ向かった。Mさんのアレンジで1台のタクシーに5人が乗る。意外とスイスイ進む。今日ヤワラーへ行くのは、4-5年ぶりにDouble Dogというお茶屋さんを訪ねるためだった。ここのオーナー、ジョンラック氏は宇治に住んだことがあり、その後ここに茶荘を開いた潮州系タイ人だ。

 

お店の作りは特に変わってはいなかったが、メニューは豊富になり、日本茶や急須などもかなり充実していた。普通海外でこんなお茶扱わないでしょう、というものがあるなど、やはり店主のこだわりは相当強い。5人でお茶を2つぐらい頼んで自ら淹れて飲む。お菓子も付いてくる。

 

そのうち店主に声を掛け、お茶談議が始まる。タイ茶の歴史、それは彼にとっても興味深いテーマだったようだ。更には仏教と茶、タイ華人と茶などについても、彼の見解を聞き、勉強した。タイにおいて日本語でこのような会話が成り立つのは何とも有り難いことであり、今後も交流を続けていきたい。因みにヤワラーに地下鉄の駅ができ、試運転が始まっていた。これからはどんどん便利になっていく。

タイ北部・中部を旅する2019(14)ナコン・パトム散策

7月24日(水)
ナコン・パトムを歩く

翌朝は宿に付いていた朝ごはんを食べる。トーストやカオトームなど、簡単な物ばかりで、余り満足は出来ない。今晩もここに泊まることにしたが、聞いてみると、朝食を付けなければ100バーツ安いと言われ、そちらを選択した。タイの田舎では100バーツあれば、色々な物が食べられる。

 

フロントの女性に『バンコックに行くにはどこからバスに乗ればよいか』と尋ねてみると、彼女は『私の卒業した大学の前から乗ればすぐよ』というので、まずはその大学へ行ってみることにした。歩いて1㎞ちょっとなので、駅へ行くよりだいぶ近い。これはいい、と思ったのだが、ミニバスは沢山停まっているものの、一体どれに乗れば良いか分からず、しかも言葉が通じないので情報が得られず、困ってしまった。

 

その学校の脇をもう少し歩いて行くと、サナーム・チャン宮殿がある。門のところには警備員がいたが、すんなり中へ入れてくれた。そこは公園のように、緑が広がっている。だがあまりに敷地が広いので、どう歩いてよいかよくわからない。適当に歩いて行くと、突然向こうの方でホイッスルの音がした。見ると私の方に向かい、警備員が手を振っている。

 

その先に行ってはいけない、という合図だった。私はタイ語が全く読めないので、立ち入り禁止の場所すら分からない。警備員がやって来て『どこへ行くのか』と聞かれたが、どこに行けばよいのか分からず、コミュニケーションも取れないので、『トイレ』と言ってみた。すると親切に教えてくれた。取り敢えずトイレで用を足す。

 

その先を見てみると、橋と池があり、きれいな建物が建っていた。どうやらそこが宮殿のようだ。ただ中に入ってみることは出来ず、外から写真を撮るだけだった。その他の場所も、その多くが立ち入り禁止になっており、一般市民はここを公園として、散歩などに使っているように思えた。入場料も取られなかった。

 

宮殿を後にして、東の方向に歩いていく。やはりこの街は、あの仏塔の方に吸い寄せられてしまうもののようだ。どこからでも見えるというのはすごい。今日は寺の横にあるという国立博物館を訪ねてみることにした。ところが行ってみると、建物はあるものの、扉は固く閉じられており、既にその機能を果たしていないことが分かる。建物の外には僅かに石碑などの展示があり、やはりここが博物館だとはわかる。何故閉鎖してしまったのだろうか。残念だ。また寺に入ってフラフラする。

 

何だか疲れてしまったので、トボトボ歩いて宿に戻った。後で昼ご飯を食べようと思っていたが、かなり激しい雨に降られて外出できなくなる。部屋の窓からも、あの仏塔がよく見えることに気が付いた。基本的に午後はお休みとして、手持ちのクッキーなどを食べながら、コーヒーを飲んで過ごす。

 

夕方、ようやく雨が上がったので、外へ出た。でも特に行くべきところもなく、フラフラ彷徨っていると、寺があるので入っていく。するともうお約束のように犬が数匹飛び出してきて吠えられる。寺を追い出されると、おかずを選んでたべる食堂があった。そこのおばさんはちゃんとした英語を話したし、皆親切だった。食べ物はうまいし、安い。これは有り難い。

 

また当てもなく歩き出す。少し行くと繁盛している麵屋があった。さっきのご飯の量が少なかったこともあり、軽く麺を食べてみる気になる。まあ、昼ご飯を抜いているので、いいかと思う。そこの主人、実にリズミカルに麺を捌いて行く。従業員も私が外国人と気が付くとすぐに英語ができる人が注文を取りに来た。客が多いだけにここの麺、特にスープがうまかった。意外と麺の量も多く、これが人気の秘密かもしれないが、こちらは本当に腹が膨れてしまい困った。

 

暗くなった道をヨレヨレと歩く。特にこれと言って見るべきものもない街だが、ここに住んでいる人々は親切で人柄がよい。もっと居てもよいような気になるが、さすがにやることはなく、またバンコックの用事が迫っていたので、今回は明日離れることにした。

タイ北部、中部を旅する2019(13)ナコン・パトムへ

7月23日(火)
ナコン・パトムへ

翌朝はどんより曇っていた。宿を出てロットゥ乗り場へ行き、またカンチャナブリへ引き返した。他に行く当て(ルート)がなかったので、3時間半かけて戻ったのだ。早々に助手席に乗り込み、特に疲れも感じずに、到着する。昼ご飯でも食べようかと思ったが、もうこの街には用事もなかったので、まずはナコン・パトム行きバスを探す。

 

ターミナルで聞くと、すぐにおばさんが出てきて、『ついてきて』と言われたので付いていく。何とターミナルを出て道路へ出るではないか。なんでなんだ?その先には大型バスが停まっていた。すぐに出発するバスがあるというので、乗り込む。あのおばさんはなんだったのだろうか。

 

バスはしばらくして出発した。それから途中で何か所も停まり、乗客の乗り降りがあって、余り長距離バスという感じはしなかった。2時間ぐらいかかって、ようやくナコン・パトム近郊までやってきた。ただスマホで確認していたが、バスはあっさり街の外側を通り過ぎてしまった。どうなっているんだ。車掌に聞くと、もうすぐ停まると言い、何とロードサイドで降ろされてしまった。

 

ここはどこなんだ。目の前にはビックCがあったので、取り敢えず中に入る。ちょうど腹も減ったので、腹ごしらえしようと思い周囲を見回すと、マクドナルドがそこにあり、マックチキンがセール中だった。だがこれを注文しようとすると、売切れだ、と言われてしまう。マックにも売り切れってあるんだ?何だかツイてない。仕方なく隣のタイスキ店MKで、ワンタンメンを食べたが、あまりおいしいとは思えない。どうも空回りだ。

 

スマホで近くのホテルを検索するも、歩いて行けるところはなく、外でバイタクを拾って向かった。そこは新しいビジネスホテルで、朝食付き900バーツ。結構リーズナブルな設定になっていた。フロントの若い女性は、大学で日本語を習ったと言い、そこそこの日本語を話したので、気に入ってここに投宿した。

 

すぐに外へ出た。スマホ地図を頼りに駅に向かって歩いた。2㎞以上あったが、何とか着いた。宿は郊外にあり、駅は旧市街地にあると言った感じだった。駅ではバンコック、ファランポーン駅行の列車の時間を確認したが、何と朝7時以外は全てトンブリ行きであり、不便なため、列車移動は早々に諦めた。トンブリに到着しても、そこからの交通手段がないので、ファランポーンへ行きたかったのだが。バスはどうなんだろうか。

 

ナコン・パトムの街の中心、それは間違いなくプラ・パトム・チェーダーという寺だ。旧市街地ならどこからでも見える。駅からも一直線で繋がっている。高さ120mの仏塔は、世界で最も高いらしい。原型は3世紀にインドのアショカ王によって建てられたというから、この街の歴史、そして重要性はよくわかる。現在の建物でも150年以上の歴史がある。入口は四方にあるが、入場料は南の正門で支払うらしく、私の入ったところには何もなかった。この辺もタイらしい。

 

中はかなり広く、仏塔を中心に、伽藍には仏像が多数あり、小さな仏塔も無数に建てられている。もう夕方で、門も閉まる時間だが、それでもたくさんの人がお祈りしていた。これだけわかりやすい街の中心があるのは、珍しいといえるだろう。この小さなナコン・パトムは意外と面白いのかもしれない。

 

一度部屋に戻り、暗くなってから夕飯を食べに行こうとしたところ、突然激しい雨に見舞われた。雨を押してまで外へ行く気にはなれず、そのまま宿の下のレストランの席に着く。ホテルのレストランと言っても、数十バーツの食べ物が並んでおり、屋台よりちょっと高いだけだ。盛り付けがきれいでよいが、ちょっと辛かった。

 

因みに向かいにはコーヒーショップもあり、庶民的で使い勝手の良い宿となっている。また道の向かいにはセブンイレブンもあり、役者は揃っている感がある。そのセブンで、最近お気に入りのオレンジジュースを買うと、何とセール中らしく(タイ語が読めないので分からないが)値段は確実に安いので、ちょっと嬉しくなる。

タイ北部、中部を旅する2019(12)国境の街 サンクラブリー

今日は昨日のカンチャナブリと違い、暑くないので有難い。やはり山沿いだからだろうか。1㎞ぐらい歩いて行くと比較的大きな川があり、そこに見事な橋が架かっていた。なんでも30年以上前に川向うに住むモン族が自力で作った橋だという。それにしては立派な木造の橋で、芸術的でもあり、一見の価値がある。

 

その橋を渡っていくといい風が吹いては来るが、下もよく見えるので、高所恐怖症には少し辛い。橋を渡りきると、そこには観光客向けの土産物屋などが並んでいる。そこを抜けてさらに2㎞以上歩いていくと、左右に寺があるらしい。まずは右に行くと、立派な建物が何棟もあった。タイ式でもあり、ビルマ式にも見える。モン族の高僧、ウッタマ師が建立したという。仏像を拝む。

 

もう一つの寺もウッタマ師の建立らしい。こちらはインド式の高い仏塔で、獅子が鎮座している。ちょうど工事中で中に入るのは躊躇われた。更にもう少し離れた寺へも行こうとしたが、道を間違え、近隣の村に紛れ込む。ここには妙に懐かしい風景がある。こちらが笑顔で少し頭を下げれば、誰も怪しまない。不思議な心地よさがあった。

 

歩いて橋まで戻ってくると、雲行きが急に怪しくなり、ぽつりぽつりと雨が降り出した。慌てて橋を渡るが、意外と長さがあり、途中でかなり濡れてしまった。橋の袂に休憩用の茶店(食堂)があり、そこで飲み物を飲みながら止むのを待つ。雨に降られる木造の橋は絵になっていた。

 

雨が止んでから、別の道を歩いて帰る。サンクラブリーは本当に小さな街だと分かる。こういう場所では夕飯を食べ損ねる恐れがあるので、まだ明るかったが、市場の横の店に入る。ここではタイ語が使われているのか、ミャンマー語なのかもわからないが、いずれにしてもできないので、身振りで豚肉野菜炒めを注文する。これが意外や美味い。

 

部屋はきれいなのだが、ミャンマー式なのか、テーブルや椅子はなく、床に座ってPCを使う羽目になる。腰が痛くならないように注意が必要だった。バストイレは広いのだが、使い勝手は良くない。それでも熱いお湯が出るので良しとしよう。夜は本当に静かな街なので、ぐっすりと眠れてうれしい。

 

7月22日(月)
国境へ

今日は朝からミャンマー国境へ行くことにしていた。タクシーなどを使うとかなりの費用が掛かるらしく、宿の横のターミナルから出るソンテウで向かうことにした。これなら僅か30バーツで済む。ソンテウは40分に一本ぐらい出ているというから、それなりに往来はある。

 

乗客は見る感じ、ミャンマー人だな。満員のソンテウはすぐに出発し、20㎞ほどきれいな道を走っていく。特に山越えもなく、30分程度で終点まで来た。運転手は私の方を見て、スリーパゴダパスはあっちだ、と指さした。だが私以外の乗客で国境方面に向かう人はいなかった。皆この辺で働いているのだろう。

 

スリーパゴダパスとは、小さなパゴダが3つ並んでいる場所であり、そこが国境のイミグレになっていた。タイ側のイミグレで聞いてみたが『第3国人は通行できない』とあっさりと言われてしまう。以前はパスポートを預けて日帰りでミャンマーへ渡れたようだが、何か事件でもあっただろうか。周辺には国境を往来する人を当て込んだ、服や雑貨を売る店、そして食堂などがあったが、お客は全くいなかった。

 

帰りのソンテウまで時間を持て余していた。道路沿いを歩いていると屋台が見えた。麺を食べている人がいる。よく見るとそれはミャンマーの朝ごはん、モヒンガーだった。味もまあまあで懐かしい。1杯20バーツ。それを食べ終わると、先ほど乗客たちが歩いて行った方に行ってみる。そこは完全にミャンマーの街であり、懐かしい路地の風景だった。縫製工場などがあり、ミャンマー人が働いている。

 

女性がその先の小川をひょいと渡ったので私も後をついて行ったら、子供が何か言っていたが言葉が分からない。周囲の大人は特に何も言わず、制止もしなかったが、ただ何となく、『ここはミャンマーだよ』と言われているような気になり、引き返した。確かにそこにあった看板にはミャンマービールと書かれていた。この付近の人々は正式な国境を通過することなどなく、路地の道を渡っていることがよく分かった。陸路の国境とはそのようなものだろう。

 

帰りのソンテウは、乗客も少なく、あっという間に街に戻ってきた。疲れたので、部屋で休み、昼にはまた昨日の店で麺を食べて過ごした。既にこの街にいる理由は無くなっていたが、何となく涼しいし、人も少ないので気に入ってはいた。街から一歩出ると、そこにも寺があり、大きな涅槃像などが安置されている。それを眺めているとまた雨になり、部屋で休む。夕飯もまた同じところで食べて、すぐに寝入る。

タイ北部、中部を旅する2019(11)泰緬鉄道に乗る

列車が発車するとすぐに昨日の橋が見え、そこを渡った。車掌がやって来てチケットを確認すると、冷たいコーラと水、それにお菓子を置いて行った。後ろの車両を見るとそれなりに人が乗っているので、なぜここだけ人がいないのか不思議だった。また車掌がやって来て、乗車記念証を渡される。こういうのが欲しい人もいるのだろうか。

 

列車の窓に吹き込む風は気持ちがよい。だがなんといっても退屈ではある。2015年にSさんとNさんと行ったカンチャナブリを思い出していた。あの時はトンブリから出たが、工事中でカンチャナブリより前の駅で降ろされ、振替輸送されてしまったのだ。ただその駅に『泰緬鉄道の起点』という石碑があったことはよく覚えている。あの時から、いつかはここを訪れ、泰緬鉄道に乗ろうとは思っていた。例え既にミャンマーまで繋がっていなくても、また往時の線路がなかったとしても。

 

そんなことを考えていると、景色が時々変わっており、途中いくつかの撮影スポットはあった。それでも基本的にずっと田舎の田園風景が続いて行くだけだ。多くの乗客はトレッキングや宿泊の目的で乗っており、途中で降りていく者もいて、私のようなものは少ない。結局2時間ぐらい乗って終点に着いた。

 

だが特にやることもなく、次の列車までは3時間ぐらい間があったので、今来た列車に飛び乗って折り返し戻ることにした。急いでチケット売り場に並び、今度は100バーツを払った。特に席は変わらず、乗っている人も多くはないので、特別列車に乗る意味は全くなかったことになってしまった。そして何事もなかったように2時間かけて同じコースもただただ戻った。

 

 

カンチャナブリ駅に着くと、まずは腹が減ったので、その辺で炒飯を食べた。それからさっきの博物館へ行き、展示の続きを見た。そして無料のコーヒーを飲んで休む。窓から見ると共同墓地の横には中国人墓地もみえた。そこへ行ってみるとこちらは戦後に亡くなった人の墓が中心だった。それからまた歩き出す。

 

立派なお寺があったので入ろうとしたが、犬に吠えられてやめにした。タイの寺は犬が鬼門だ。本気で噛まれたら面倒だ。更に進んでいくと、古い町並みが出てきた。ここはなかなか風情があり、一部には表示もされていて、100年以上前のお金持ちの立派な家が並び、栄えた歴史などが垣間見えた。相当古い建物が残っており、華人が活躍した雰囲気もあった。その端にはお城のようなところが見える。

 

その先に、戦争博物館があった。日本人が資金を出して作ったという。川沿いに建てられていたが、見学している人はいなかった。恐らく戦争にかかわった人がある思いで作ったのだろうが、日本人は戦争の歴史を見ようとしない人が多いので、風化してしまうのではないかと危惧される。これはアジア各地で見られる光景だ。

 

相当消耗してしまったが、宿に戻る交通手段を見つけられなかった。夕方夜市の準備をしているところなどもあるが、まだ始まってもいない。何とか昨日到着したバスターミナルまで行き、またバイタクのお世話になって宿へ戻った。疲れ果ててしまい、何をする気力も起こらなかった。夜遅く、またあのレストランへ行き、今度はパスタを食べたが、味はイマイチだった。

 

7月21日(日)
サンクラブリーへ

ゆっくり起きて朝食を食べると、宿をチェックアウトした。結局眺めの良いプールに入ることもなかった。フロントでトゥクトゥクを呼んでもらい、またバスターミナルへ向かう。ロットゥに席があり、国境の街サンクラブリー行きに何とか乗れた。9時半に出て、比較的平坦な道を走る。

 

2時間ぐらい行ったところで、休憩が入る。ここで多くの人が降りていく。近くに宿泊施設でもあるのだろうか。ソンテウが迎えに来ている。我々はそこから山道を1時間ほど進んだ。そしてついにサンクラブリーに着いた。まずは腹ごしらえとばかりに、麺を食べたがうまかった。しかもそこの女性が流ちょうな英語を話したので驚いた。タイ人は基本的に英語を話さないが、やはりここは国境だからだろうか。

 

宿を決めるにあたり、ここでGoogle Mapを使ってみた。Agodaなどはここから1㎞以上離れた宿をいくつか紹介しているが、私はこの付近に泊まりたかった。ちょうどよい宿はないか。Googleで引っかかったその宿は300mほど歩いたバスターミナルの横にあった。とてもきれいで、1階がカフェで、2階の数部屋を貸していた。民宿というのだろうか。経営者の女性は英語を話したのでここに決めた。ただ部屋の掃除が終わっていなかったので、着替えだけをして、早々に外へ出た。

タイ北部、中部を旅する2019(10)戦場にかける橋

取り敢えずカンチャナブリと言えば『戦場にかける橋』だから、そちらの方へ歩いてみる。1㎞程度で橋の近くまでやってくる。そこには慰霊の碑が建っていた。昭和19年に日本軍鉄道隊が、泰緬鉄道建設で亡くなった人々を弔うために建てたと書かれている。毎年3月、ここで在タイ日本人有志が慰霊祭を行っているともある。

 

その横には博物館があったので、まずはそこでお勉強、と思ったが、展示物は多いが核心は突いていないように思えた。諦めて出てくると、ドリンクを売るおじさんが『下も見に行け』という。横に川が見えた。慰霊の塔も建っている。日差しがかなり強い。

 

階段を下りてみると、そこには古い木造の橋の一部が残されていた。これが1942年頃に作られた最初の橋らしい。ここから現在の鉄橋もよく見え、ちょうど列車が通過している。博物館の下に本当の歴史があるように思われた。歴史というのはどのように見るのが良いのだろうか、と考えてしまう。

 

博物館を出て、実際の橋に行ってみた。川の袂に駅があり、ちょうど列車が入ってきたところで、列車を降りる人、写真を撮る人、などでごったがいしていた。多くが橋を渡り始める。私も橋を渡り、その景色を眺めた。橋はとても頑強に見え、景色も良いのだが、この橋が作られた際の過酷な労働、そしてそれを日本軍が強いた、という歴史を考えると楽しめるものではなかった。僅かに来ていた日本人の若い女性たちが、橋でポーズを取り、僧侶をバックに写真を撮ろうとしている姿には、思わず嫌悪感が出てしまった。

 

橋を渡りきると寺が見えたので、そちらへ降りていく。寺の裏側には、中国からやってきた遠征軍を慰霊する場所があった。戦場にかける橋では、欧米人捕虜の悲劇だけがクローズアップされているが、中国人や東南アジア人も沢山犠牲になっていることを伝えていた。こういう歴史は誰かが維持し、語り継いでいかないと、どんどん埋もれていってしまう。

 

寺の方は最近できたものらしく、規模が大きくきれいだったが、特にみるべきものはなかった。川沿いにはレストランなどもあったが、今は誰もいない。お茶を飲むこともできない。暑かったので、また橋を渡り、トボトボと宿へ帰った。ただ明日は電車に乗ってみようと思うようになった。

 

思ったよりずっと暑くて消耗した。部屋でゆっくりと休み、夕方夕飯を探しに出た。すぐ近くにレストランがあった。まだ客はなく、子供がテーブルで学校の宿題をしていた。何となく洋食の気分だったので、簡単なステーキを食べた。そこの料金は本当に良心的で、コーラも20バーツしか取らない。我が宿もそうだが欧米人が多く来るところなので、英語も通じる、こういう店ができるのだろう。

 

7月20日(土)
泰緬鉄道で

フロントの愛想はとても良かった。実はこの宿には日本人の長期滞在者が一人いるというのだが、今はちょうど日本に帰っており、明日帰ってくるらしい。仕事での駐在のようだが、観光客と違い、常駐するとなるとやはり大変だ。朝食は宿に付いており、簡単に食べた。既に多くの宿泊者はツアーなどに出かけたのだろうか、食堂は閑散としていた。

 

取り敢えずカンチャナブリ駅まで歩いてみることにした。2㎞以上あり、ちょっと辛かった。列車の出発は10時半だと確認して、まだ時間があるので付近を散策した。すぐ近くに連合軍の共同墓地があった。イギリス、オランダ、オーストラリアなどの捕虜がここで労働して、命を落とした。一人ずつの墓石があり、名前や年齢がしっかりと刻まれていた。悲しいくらいに日差しが強かった。

 

その横には泰緬鉄道博物館があったので、入ってみた。ここにはその関連の展示がかなり多くあった。一番驚いたのは、この鉄道敷設で最も多く亡くなったのは、マレーシアやビルマから徴用された労働者で、欧米人の何十倍もいたことだった。こういう歴史はやはり語られないのだろうか。時間が来たので、駅へ戻る。

 

駅ではチケットの販売は始まっていなかった。その横にデスクがあるので覗くと、『特別チケットを買わないか』と誘われた。特別車両で、座席指定、ドリンクなども出るのだという。この鉄道の料金は、観光用ということか、外国人はなぜか一律100バーツなのだが、特別チケットは300バーツもする。でもどんなものか知りたくてつい買ってしまった。

 

バンコックのトンブリから来るはずの列車はなかなか来なかった。さすがにタイの鉄道らしい。でもなぜか一部車両は既に停まっている。遅れて来た列車とその車両は何とここで連結された。その作業を見ていると、手でワイヤーを繋いでいたので驚いた。私は特別車両に乗り込んだが、私以外に乗ってくる人はおらず、何と一両貸し切りとなった。こんなことは生まれて初めてだろう。