広東・海南大茶旅2017(3)沙面から海口へ

8月24日(木)
沙面散歩

翌朝はかなりゆっくり起き上がる。天気は極めて良く、昨晩の雨は嘘のようだった。ホテルのロビーに行くと、昔使われていたものが展示されていた。建物は新しくなってもやはり老舗ホテルだったのだ。外へ出ると、相変わらず古い建物のオンパレード。まあ、昔の租界をそのまま残しているのだから、いくらでもある訳だ。確か2008年頃にもこの付近に泊まったことがあるが、その頃よりもより商業的になっているのは仕方がないことだろう。

 

腹が減ったが、一人で簡単に食べる店はそれほどなさそうだった。ホテルの横にちょうど麺屋があったので簡単に済ませた。観光地というのは庶民的な食べ物屋がないのが困りものだが、灯台下暗しということか。その後も周囲を散策し続けた。教会などもあり、やはり当時の租界、という雰囲気があった。

 

それから橋を渡って地下鉄の駅へ向かった。今日は昨年紹介されて気に入ってしまった老茶客というお店を訪ねることになっていた。前回はタクシーで連れて行ってもらったので、場所がよく分からず、ちょっと迷ったが、何とか到着した。お店にお客はおらず、柯さんが待っていてくれた。ただ上の階の美容院がが改修工事中で、工事の音が煩かった。

 

それでも彼は丁寧にお茶を淹れてくれた。かなり暑い日だったのだが、そのお茶は濃厚な味わいでありながら、何となく涼やか。さすがに有名な淹れ手が入れるとこうなるのか、と感心した。相変わらず茶器も清代の骨とう品で見事だった。やはり彼と一緒に汕頭辺りを旅してみた気分になる。実はこの辺の茶文化が素晴らしいと何度も聞いていたのだが、一人で行っても今は見られないだろうと思っている。次回は潮州料理を一緒に食べようと言って別れた。

 

地下鉄で戻り、ホリデーインに向かった。ちょうどここにIさん夫妻がチェックインしているはずだった。フロントでIさんは、と聞くと、すぐに部屋に電話を掛けてくれた。ここでは彼女は有名人なのだ。部屋に行ってみるとちょうど今着いたばかりだという。空港から近くまでバスに乗り、そこからタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらず、ようやく捕まえた運転手は道を知らなかったらしい。今や中国でよくある光景だ。

 

Iさんと外へ出て、いつもの店で夕飯を食べる。この付近、まだ古い店が残っているのだが、徐々に新しい店、チェーン店に押されてきているようだ。数年後には無くなってしまうのではないかと寂しく思う。部屋に戻り、プーアル茶を淹れてもらい、何となく落ち着いて話す。このホテル、以前はVPNなしで簡単にネットが繋がっていたが、今や難しくなっているようだ。私のホテルで繋がらないのも当然だ。これからどうなるのだろうか。

 

8月25日(金)
海南島へ

翌朝は早く起きて、空港へ向かう。地下鉄はラッシュ時で混んではいたが、何とか乗れた。広州空港で国内線を利用するのは実に久しぶりかもしれない。なんだかすごくきれいに見える。時間があったので朝食にケンタッキーの粥セットを食べてみる。30元以上とかなり高い。支払いはアリペイで。

 

飛行機は海南航空。思い出すのは今から8年ぐらい前、息子と二人で海南島に遊びに行き、帰りが北京の大雪に遭遇。フライトが飛ばない中、海南航空はホテルの部屋と夕飯を提供してくれ、プチリゾート気分を味わったことだ。30度の海南島から夜中の3時に零下4度の北京に降り立った時の寒さと言ったらなかった。海南航空の印象は良い。

 

今回のフライトは海口まで1時間ちょっとだから、機内サービスも何もない。あっという間に海口空港に降り立った。何と海口に来るのは2000年以来、17年ぶり2度目。前回は仕事で、天安門事件の際に趙紫陽の懐刀の一人であったと言われる人物に会いに行ったことが何とも懐かしい。

 

空港には陳さんの部下が迎えに来てくれていた。空港から市内までは約60㎞、1時間ほどかかるという。天気は良く、空はすこぶる青い。途中まで建物もあまりなく、昔の中国を思い出させた。だが市内近くには、既に高速鉄道の駅さえ見られ、海南島も他の中国と同じようになっていることを予感させた。

 

ホテルも予約しておいてくれ、すんなりチェックインした。海口のホテルだから安いだろうと思っていたが、そんなことはなかった。ホテルの周囲には食べ物屋などもなく、ちょっと歩いて見る。広州より暑い。これでは長くは歩けないと思い、横道にあった食堂に入る。海南島には海南チキンライスはないが、文昌鶏がある。これはこれで十分に美味い。値段も流石に安い。

 

午後迎えの人が来て、歩いて10分ぐらいのところにある陳さんのオフィスに案内された。陳さんの会社は茶葉の輸出入を行っており、当然ながら茶の輸出の歴史には詳しい。ここで紅茶を頂きながら、ひとしきり海南紅茶の歴史を聞く。流れとしては先日の英徳とほぼ同じだが、その担い手が違っていた。こちらは中国の屯田兵、兵団の開拓者たちだったのだ。

広東・海南大茶旅2017(2)英徳紅茶の歴史を学ぶ

8月23日(水)
英徳へ

翌日午前8時にチェックアウトした。今日は英徳に連れて行ってもらえるので、広州茶文化協会の張さんを待った。車で来るというので、荷物をそこに乗せ、今晩広州に帰った時に、ホテルを移るのにちょうどよいと思っていた。車は広州市内の渋滞を抜け、高速道路に入った。思っていたよりも交通量が少なく順調で、拍子抜けだ。

 

英徳は市であり、その中にまた英徳村があった。英徳市までは約2時間、そこから更に30分ほど走り、目的地に着いた。そこは農村と言った感じだったが、立派な建物があった。広東省農業科学院茶葉研究所だ。広東省の研究機関がこんなところにある、それは英徳が広東省の茶業中心であることを雄弁に物語っていた。

 

中に招き入れられ、色々と説明をしてもらった。1960年前後に作られたこの研究所では、当初から現在流行りの紅茶、英紅9号という品種が開発されていたらしい。ただ当時の紅茶はほぼ輸出用であり、すぐにCTCが採用され、リーフはごく一部だったようだ。そしてこの英徳という地は客家が多く住み、昔から緑茶は作られていたことなども分る。昼ご飯も研究所の食堂で、新鮮な野菜、ここで飼育された豚や鳥を頂く。当然美味しい!乗ってきた車は返してしまい、また帰る時に呼ぶというのが今の中国らしいが、私の大きな荷物は結構邪魔で大変だった。

 

それから研究所のすぐ近くにある茶工場を見学した。1957年に建設されたという紅旗茶廠、何と文革中のスローガンがレンガの壁に残されており、古めかしさを感じさせる。建物内部は天井が高く、当時の製茶機械も多く残されていた。歴史を感じさせる場所で、70年代からこの工場で働いていたという人に話を聞いた。話していると声がこだまする。英徳市の茶業協会の人たちも来てくれ、色々と便宜を図ってくれた。

 

事務所でお茶を頂いていると、目の前に華僑茶場と書かれたペナントが掲げられていた。何と中越戦争で帰国したベトナム華僑がこの農場に配置され、茶作りをしていたというのだ。ただ90年代には中国紅茶の輸出は厳しくなり、生産は減っていく。そしてつい最近、英紅9号というブランドが知られるようになり、英徳紅茶は復活した。因みにこの農場は1950年代には右派、60年代には文革の知青、そして80年代には華僑と、実に様々な人々が働いており、まさに現代中国史の一つの縮図のような場所であった。

 

次に向かったのは小さな村の中にある茶工場だった。老一隊、という如何にも軍隊の名前がついている。生産第一大隊、ということだろうか。紅旗茶廠同様、五七幹部学校、文革中は知識青年の下放の場でもあったという。今は民営化しているようだが、やはりその歴史はすさまじいと言える。

 

ここは何と中国の航空宇宙方面と合作して、英紅9号を30株、宇宙に持っていくという実験を行ったことで知られていた。そしてうち4株が見事に生育しているその現場を見ることができたのは何とも幸運。葉っぱは通常の物より大きくなっており、これは宇宙と地球の環境の差から生まれるもの、なのかもしれない。それにして茶が宇宙に行く時代とは驚きだ。

 

最後に郊外の観光茶園に向かった。山の中にきれいな建物があり、小雨の中、テラスで優雅に茶を飲むことができた。近くには茶工場もあり、紅茶生産の現場を見ることもできる。近くの宿泊施設に泊まり、自然環境の中で過すというコンセプトのリゾートとしての開発が行われている。近場では温泉も出るらしい。

 

その後雨が止み、茶畑へ行くと、茶の葉が元気に伸びてきていた。ここには中国企業の看板が多く見られる。各社がお金を出して自社の宣伝を兼ねて、茶園を保有する形態をとっていた。エコとかCSRとかいう言葉が中国でも聞かれて久しい。自社のイメージアップ、そして実際に収穫・生産された茶葉をお客などに配る、如何にも中国老板が考えそうな手法をうまく取り入れている。

 

帰りはまた高速道路に乗る。広州市内まで来るとさすがにかなりの渋滞、しかも雨。それでも何とか今日の宿、沙面の勝利賓館に辿り着く。ここは前のホテルよりはかなり格が上で、料金も高い。有名なホテルだった。ただ昔の面影はなく、90年代に全面改装されているので、歴史的ホテルと言った雰囲気はあまりない。

 

夕飯はホテルの近くで張さんたちと食べる。沙面もどんどんオシャレになり、きれいなホテルやレストランが出来ている、ライトアップもきれいで、観光客も多い。部屋に戻ったが、何とここでもFBに繋がらずお手上げ。ついにトミーに泣きつくと、彼が別のアプローチを教えてくれ、その夜3日ぶりに下界と連絡がついた。何と面倒なことだろうか。何とも面倒でやり切れないが、フカフカのベッドで寝ることができたのは幸せ。

広東・海南大茶旅2017(1)広州の茶空間へ

《広東・海南大茶旅2017》 2017年8月21-29日

 

紅茶産地の旅を続けているが、そろそろネタも尽きてきた。ちょうど連載は1年で終了と言われたのでホッとしながら、最後の2か所をどこにしようかと迷った。広州に行きたいと思っていたので、広州から近い英徳、更には海南島へ渡ることを考えた。どちらも4月に貴州省へ行った時、出会った人々がいたので、行きやすい、ということもあったのは事実だ。

 

広州は毎年のように来ているが、海南島は2009年以来だろうか。しかも海口となれば、2000年以来かもしれない。いずれにしても随分と変っていることだろう。その変化も楽しみに旅を進めることにした。

 

8月21日(月)
広州の宿

広州東駅は相変わらず混みあっていた。そこから地下鉄に乗り、東山口駅で6号線に乗り継いで、文化公園で下車して、本日の宿に向かう。何となく蒸し暑い中、荷物を引いて道路を歩くのは大変だ。道も狭い。最後には陸橋まであり、難儀した。その陸橋の上を高架道路が走り、その横にへばりつくように、その宿は建っていた。

 

新亜飯店の入り口は何となく薄暗い。フロントまでも薄っぺらい感じ。ここは1926年に労働学院があった場所と書かれているが、当時の共産党は何をしていたのだろうか。予約はしてあったものの、最近ではパスポートを出すと断られるケースもあったので警戒したが、すんなりチェックイン出来た。横では中東系と思われる男が相当訛りのある英語でバスの乗り場を聞いていたが、フロントの女性も非常に上手い英語対応をしており、相当慣れている感じだった。

 

4階まで上がると廊下も広く、80年代のにおいがした。部屋はかなり広く、ベッドが二つ、昔風なので驚いた。クーラーの効きもよく、特に問題はないと思っていたが、ネットは繋がるもののなぜかFBなどへのアクセスが出来なかった。まあ時間が経てば治るかと思い、夕飯を食べに外へ出た。

 

今や中国有数の大都市となっている広州だが、この付近はまだかなり庶民的な店が残っていた。おまけにうちの宿も含め、この付近には中東やアフリカ系のバイヤーが多く宿泊するらしく、インド料理やムスリム料理の店まで並んでいた。ここが雑貨市場に近い、とはそういうことだったのだ。だが結局チェーン店の定食を食べてしまう私。暑かったので、クーラーを求めてしまう!

 

8月22日(火)
茶空間へ

翌朝はゆっくり起きる。天気は良いようだ。地下鉄に乗り、東湖駅で下車。そこから歩いて行くと越秀公園がある。とても爽やかな朝だったので散歩がてら、公園内を歩いて見る。木々が生い茂る中で、太極拳などをしている人々がいた。何とも優雅な雰囲気がある。その先が目的地だったが、場所はよく分からない。

 

ようやく探し当てたそこは喫茶去という茶荘。中には貴州で出会った鄧さんが待っていてくれた。連絡を取ってくれたのは前回もお世話になったKさん。この辺は皆何らかの繋がりを持っている。ここはお店というよりは、茶空間。ゆっくり入れて頂いた茶を味わい、その空間を楽しむ場だった。茶機も豊富に置かれている。鄧さんは広東の出身ではないけれど、お茶のことはよくわかっており、私がお世話になっている広州茶文化協会の副会長も務めている。

 

まずはゆったりとプーアル茶などを頂いていると、そこに人が入って来た。彼も4月に貴州であったコロンビア人で、既に広州に10年以上住み、お茶の勉強をしているという。ただ普段はコロンビア系の貿易会社で働いているというので、平日は来られないかと思っていたが、時間をやりくりしてきてくれた。やはり茶の歴史に非常に関心を持っている。

 

何となく話しているとすぐにお昼になってしまい、鄧さんが近くのレストランに案内してくれた。非常に独特なスープが美味しかった。とにかく広東に来たらスープを飲まないと始まらない。最近中流以上の中国人に多いようだが、彼女もやはり食べる物には色々と気を使っている。

 

午後はKさんがもう一軒連れて行ってくれるというので、出掛けた。完全に団地の中の家、そこが立然茶舎だった。非常にラフなスタイルで先程とは雰囲気が一変する。この多様性がまた素晴らしい。中では山茶、在来種から作った茶を頂く。かなりワイルドだが、味は悪くない。更には貴州省の知り合いが作っているという緑茶も飲ませてもらった。これからは大規模茶業なのか、それとも小規模在来なのか?

 

Kさんと別れて、何とか一人で宿まで地下鉄で帰る。広州もご多分に漏れず、ラッシュの込み具合がどんどんひどくなる。部屋では相変わらずFBやGoogleに接続が出来ずに困ってしまった。明日は宿を変えざるを得ず、宿探しに入る。結構気に入っていたのに残念だ。夕飯も又、定食屋で済ませる。これが一番安上がりだし、何より飯がうまいのがよい。

ある日の埔里日記2017その5(9)鹿谷で勉強

10月31日(火)
鹿谷へ

翌朝は鹿谷へ向かった。これもいつものように高鐵台中駅までバスで行き、そこで台湾好行に乗り換える。今日は平日であり、天気もそれほど良くないので、空いていると思って行ったが、それでも渓頭へ行く観光客はいた。大体は年配者で、トレッキング目的のようだ。私のように途中下車する者は2-3の地元民以外いない。

 

9時半頃には鹿谷農会前に到着した。そこでUさんに電話を掛けたが、また寝ていた。昨晩は夜中の3時まで製茶していたらしい。ちょっと待っていると彼ら3人は2台のバイクでやって来た。ここではバイクは必須アイテムだ。農会にショップがあり、お茶などを販売している。まずはお土産として、Uさんお勧め筍クッキーを購入した。そこへ観光バスから大勢が降りて来たので、退散する。

 

今日は農会の林さんを訪ねることになっていた。林さんには先般、凍頂烏龍茶の歴史をご教授頂き、それらをまとめて雑誌に投稿した経緯があり、そのお礼及び献本のための訪問だった。と言いながら、私には次の目的がある。高山茶の歴史についても、また聞いてしまった。よいヒントが得られたので、これからそれらを検証していこう。

 

それから一軒の茶農家を訪れると、ちょうどお茶を作っていた。そこでも又、高山茶について聞いてみる。私は歴史を追っていくので、いつ始まったが重要なのだが、基本的に茶農家にとっては、いつ商業生産が始まったか、いつ儲かったかが重要のようだ。ただ何処が先に始めたのかは、やはり各地で論争があるのかもしれない。

 

昼ご飯を食べに行く。4人いるとそれなりのものが食べられる。久しぶりに竹筒飯を食べ、炒め物やスープなど、数種類を注文し満足する。これまで鹿谷に来ても、このような観光客が来る店に寄ることはあまりなかった。この店も裏には宿泊施設を持っているが、週末などは泊り客もいるのだろうか。

 

午後はUさんの用事で、茶業改良場の鹿谷工作站に赴く。これまで何度も話には聞いていたが、実際に行くのは初めてで興味津々だった。到着してみると、思っていたよりもはるかに立派な建物で驚いた。てっきり2-3人でやっているのかと勘違いしていたのだ。さすが政府の施設だ。目の前には茶畑が広がっている。

 

ここに先日魚池分場の場長になった黄さんがたまたま来ていたので、Uさんが会いに来たのだ。私も6年前からご縁のある人で、何とも懐かしい。ここでまた、高山茶のこと、緑茶のことなど、様々な歴史について、教えてもらった。これは何とも有り難いことだった。もっと聞きたいことがあったのだが、残念ながら私にはバスの時間が迫っていた。鹿谷は便利な場所だが、夜山を降りるバスは無くなるのが欠点だ。泣く泣くバス停まで送ってもらう。

 

台中駅に戻ると、埔里行バスまで時間があったので、とても気になっていた丸亀製麺に入ってみる。この丸亀製麺、中国でも香港でも見かけており、チェーン展開が非常に早いので注目している。入ってみると、日替わりのようなものもある。どれが一番人気かと聞くと『豚骨うどん』というから驚く。試しに豚骨うどんとお稲荷さん、唐揚げのセットを注文する。

 

豚骨うどんの味をちょっと心配したが、どっこいスープがいい味出していた。麺は心持ち柔らかめだが、ほぼ日本に近い。お稲荷さんだけでなく唐揚げも付くところがいかにも台湾的でよい。これで159元、大盛りでも200元はしないので、日本よりも安く感じられる。メニューも色々と工夫し、麺の硬さも地元に合わせる、この手法、今後どこまで伸びるだろうか。

 

11月2日(木)
東京へ

今日は東京へ戻る日。いつものようにバスで台中、高速鉄道で桃園、MRTで桃園空港に着く。桃園空港でもカウンターは開いておらず待つ。およそ2時間前にチェックインが始まり、早目に済んだ。何しろ成田のカウンターより処理速度がかなり速いのだ。これは有り難い、というか、日本は丁寧にやればよいと思っており、もう少し相手を見た対応を考えるべきだ。

 

今回は往復日系LCCに乗る。座席は予め予約しておいた通路側。確かに予約する時、『この座席はリクライニング出来ない』と書いてあった。私は普段リクライニングしないので問題ないと思っていたが、どうしてその席だけ空いていたのか、搭乗してみてよくわかった。

 

前の人が大きくリクライニングしたので、私のスペースは相当に狭くなってしまったのだ。これではたまらないとリクライニングのボタンを探したがない。それをCAに訴えると『その席はお客様が選んだ』と言われてしまう。確かにそうなのだが、広い座席を売っているこの会社からすれば、狭い座席は割引すべきだろうというと黙ってしまう。

 

まあ3時間のことなので、眠っていればよいと思ったが、ついでに行きの出来事も説明してみた。そのCAは状況をよく理解できたと見え、『家族を引き離してしまったのは申し訳ない』と言い出した。ではなぜそんなことが起こるのかと尋ねたが、彼女はそこをはっきりさせられないようだった。いずれにしてもLCCは安いから不便でも仕方ない、と言ってきたが、既に通常の航空会社がかなり料金を下げてきており、これからはかなり厳しくなるだろうな、と勝手に思ってしまった。

ある日の埔里日記2017その5(8)清境農場へ

10月30日(月)
清境農場へ

天気が悪かった埔里だが、今日は快晴だった。ご近所のIさんから声が掛かり、清境農場の方面へ出掛ける。清境農場の横は何度も通ったし、今年の初めにはそこでバスまで降りたのだが、結局下の茶畑を見ただけで帰ってきてしまったので、今回はちょっと楽しみにしていた。

 

車は霧社を越えて更に登っていく。清境農場を過ぎてもまだ止まらない。今日の目的地は農場ではなく、その付近にある民宿だった。Iさんの親戚が年末台湾にやってくるので、どこに泊まるか、その下見に来ていたのだ。その民宿はやはり埔里在住の日本人Yさんの紹介だという。Yさんの日本語の生徒さんが経営しているらしい。

 

その民宿は実に眺めの良い場所にあった。正面に山々が見える。中に招かれたが、取り敢えずその景色を眺めていた。日差しは強いが、風は爽やか。標高は1800mぐらいだろうか。高原のリゾートという感じだ。建物は4階建てで1階はリビング、2-4階は宿泊できる様だ。部屋はきれいで申し分はない。

 

だが、どう考えても今でも涼しいのだから、12月末は相当寒いだろう。この辺では年越しのカウントダウンも行われるようだが、それを見に来る人々ですごい渋滞にもなるという。折角静かな山間で年越し、とはならない。しかも既に12月31日の部屋はすべて埋まっていた。

 

こちらは姉弟が経営しており、両親も一緒に住んでいるのだという。お姉さんは週に2回は埔里の街まで車を飛ばし、日本語とヨーガを習っている。往復3時間の道のり、大変だと思うのだが、やはり山の中では飽きてしまうのだろうか。まあ、確かに、景色や空気がよいとは言っても何もない所ではあるが。

 

皆で昼ご飯を食べに行こうと言われ、着いて行く。そこは農場の入り口近くの坂を少し下ったところで、団体さんも利用するようなレストランだった。勿論地元であり、親戚が経営しているらしく、美味しそうなものがどんどん出てきた。特に豚肉、鶏肉は絶品、一人で来ても味わえないものばかりで感謝感激。

 

因みに原住民料理かと思ったが、そうではなかった。ご馳走になってしまい、申し訳ない。これも先生であるYさんのお陰だ。先生に対する対応は日本とはかなり違う。このレストランも、外の席があり、行ってみると絶景だった。既にここでは団体さんの食事が終わり、皆が席を立った後だった。

 

植物も色々と植えられており、目に楽しい。よく見るとこのレストランの看板に、高山中草薬園と書かれているではないか。ここでは山の中の薬草を集め、漢方薬作りの実験をしているらしい。大学とも連携しており、かなり本格的なので驚いた。そういえばさっき体に良い酒を飲め、と言われたが、あれも漢方薬だったか。

 

農場には入らずに、遊歩道を歩くことになる。この最近作られたスカイウオーク、遊歩道は絶景だと評判をとっているらしい。ただ私は高所恐怖症であり、あまり好ましい場所ではない。車で上の入り口まで送ってもらい、入場料を払う。私以外の2人は埔里在住者で割引があり、何となく私も割引料金になった。

 

確かにこの道路の脇に作られた遊歩道、かなり雄大だ。今日は天気も本当に良いから、絶好の散歩日和なのだろう。私のような高所恐怖症の者でも、何とか歩くことができ、楽しい。下の方には羊の群れが見える。台湾のアルプスを標榜する清境農場だけのことはある。台湾各地、中国や香港からも大勢の観光客が散歩を楽しんでいる。

 

約30分、ゆっくりと下まで降りた。そこには観光センターがあったはずだが、全面改装中で見る影もない。連絡して車で迎えに来てもらい、民宿に戻る。自分たちの車で行くと駐車場もなく、またかなり歩かないと車にたどり着けないので、このような措置となる。大変お世話になってしまった。

 

帰りは下り、途中霧社事件後の日本人墓地の場所を確認して埔里に戻る。同行したSさんの家が郊外にあり、Sさんを送りがてら、ちょっと寄る。彼はコーヒーを栽培しており、ちょうど天日で干しているところだった。コーヒーの皮むき、初めて見た。やはり茶とコーヒーではその製造法はかなり違うようだ。

 

埔里に帰ると、北京時代に一緒だったKさんがやってきていた。彼は今、岡山にいるはずだが、フットワークは相変わらず相当に軽い。古月軒で夕飯を一緒に食べる。美味しいと言って麺を食べていたのだが、よく聞いてみると、昼ご飯も、この店の本店で同じものを食べていたらしく、失礼してしまった。雰囲気がまるで違うので気が付かなかったらしい。昔の知り合いが訪ねてきてくれることも稀なので、何となくうれしい。

ある日の埔里日記2017その5(7)大稲埕散歩

夜は宿泊先へ戻り、隣の葉さんの家で夕飯をご馳走になる。タイ料理のデリバリー、折角台湾に来たS君にはどうか分らないが、私とUさんには有り難いチョイスだった。久々にタイカレーを食べて満足する。台湾もデリバリービジネスが飛躍的に伸びており、電話一本、いやネット注文で、何でも運ばれてくるようだ。有り難いことだ。

 

夕飯後、台湾の珍しいお茶を並べた品茶会が始まる。葉さん夫妻はお茶全般への興味と業務上から、実に様々な茶を集めており、初台湾のS君のために何種類も淹れてくれた。このダイニングは品茶が出来るような高さになっている。勿論料理教室などにも使える台だ。面白い。お茶も台湾最南端の港口茶から、蜜香紅茶、緑茶など、あまりお目に掛かれない台湾茶が続出。夜更けまで茶を飲み続けることになる。

 

更には葉さん夫妻の現在作っている茶葉入りアイスクリームの試食まで行った。本当に茶葉を混ぜ込んでおり、全部で12種類もある。抹茶や緑茶などお馴染みのモノもあれば、鉄観音や紅玉などの品種モノもあり、食べてみると微かにその品種の味がするという趣向だ。しかも甘さは相当控えめ。これは日本に持っていっても、少なくともお茶好きにはウケるのではないだろうか。台湾では観光地の日月潭などで、既に順調に売り上げを伸ばしているという。

 

10月28日(土)
大稲埕へ

翌朝は台北を離れる前にS君と大稲埕へ行ってみる。S君は昼からUさんと一緒に南投の鹿谷へ行くことになっていた。私は埔里へ帰る。その前に、ここ数日話に出ていた昔の輸出拠点、大稲埕を歩いて見る。MRTで双連駅まで行き、そこから歩きだす。途中にお粥の屋台があったので朝ご飯を食べる。お粥というより、昨日のスープの残りに米を入れたおじやかな。出汁が効いており、何だかとても懐かしい味がした。

 

それから有記茶荘に行く。まだ午前9時過ぎだったが、店主の王さんは既に店にいて、中の焙煎室を見せてもらった。焙煎は行われていなかったが、ほのかに残る茶の香りがいい。大稲埕の茶の輸出、その往時を偲ぶものはもうほとんどないが、ここに微かな残影があった。焙煎包種茶を淹れてもらうと、昨日、一昨日とはまた違った味わいがある。王さんとS君、ほぼ同じ世代の若者たちは、茶業をどうしていくだろうか。

 

それから大稲埕の門まで行ってみる。もうあまり時間が無いので、川を見ることはなく、そこから李春生の教会の脇を抜け、観光客向けの道を少し歩いた。今日は天気があまりよくない。そして最後に林茂森へ行く。ここは林華泰の分家だというがやけにきれいな店になっていた。ここも代替わりし、若者が経営しているという。観光客が大きな缶に入った茶葉を選んでいた。雰囲気は以前と様変わりだ。

 

その店の番頭さんに教わり、ちょっと北に歩くとMRTの駅があった。台北にはいつの間にか駅はどんどんできており、私の頭では追い付かない。ただその路線はちょっと遠回りになっており、私は途中の台北駅でS君と別れ、一人部屋に戻った。S君は指定された駅まで乗って行ったが、Uさんとの待ち合わせに遅れてしまったようで、申し訳ない。

 

荷物を持ちだして台北バスターミナルへ戻る。午後2時のバスは空いていた。そのままバスで眠っていると、もうすぐ埔里というところまで来ていた。やはり結構疲れてしまったようだ。若者と一緒に行動していると、自分がもう若くないことを改めて実感してしまうは悲しい。

 

疲れが出ている時に食べる物、それはニンニクの効いたこってり排骨スープと魯肉飯。これを食べると本当に体がポカポカ温まり、気力が湧いてくる。昼ご飯が何となくなく食べられなかったこともあり、凄い勢いで平らげてしまった。まだ10月末だというのに、何となく涼しい埔里であった。

ある日の埔里日記2017その5(6)南港の包種茶

10月27日(金)
南港へ

本当は一昨日の午後行くはずだった南港に向かう。S君と一緒に泊まっているので、まずは朝飯をと思ったが、ちょうどよいところがなく、サンドイッチでも食べようと駅近くの店に入った。ホットドッグがあったのでそのセットを頼んだが、いつになってもパンが来ない。忘れたのかと思って聞くと、『パン?ホットドッグはそれだ!』と言われたのは、ソーセージ。台湾では熱狗と書いて、ソーセージと読むのだな。初めて知ったぞ。

 

それからMRTに乗り、先月も行った昆陽駅に向かう。ここから前回同様、ミニバスに乗る。U夫妻も合流し、U夫人はスマホを駆使して、行先をチェックしてくれた。前回は黙っていた運転手も可愛らしい女性が行き先を尋ねると、ちゃんと答えていたのでビックリした!10時半には余さんの家に前で降りられたのでよかった。

 

家に上がっていく短い坂の途中から、いい香りがしてきた。何と茶作りをしていたのだ。前回はいなかった奥さんと二人、作業に勤しんでいるところにお邪魔した。もう一人女性がいたが、近所の人かと思っていたら、後で聞くとお茶の研究者だったらしい。名刺交換していくべきだったと悔やむがもう遅い。

 

前日我々は製茶作業を体験済み。設備は馮君のところとほぼ変わらない感じだ。更に機械には年季が入っている。作業内容もちょうど揉捻から乾燥をやっていたが、それほど変わっているようには見えない。二人は昨日の延長でちょっと作業を手伝ったりしているのが面白い。ただ淹れてもらって飲んでみた茶は、ちょっと違っていた。品種の違いもあるだろうが、いい味出している茶があった。

 

余さんはどちらかというと口下手だが、奥さんの方が販売を担当しているのか、色々と話をしてくれた。ただ製茶技術の話しだけは余さんに口を挟まない。何だかとてもいい雰囲気の茶工場だと、Uさんなどは気に入ってしまい、午前中だけの予定を勝手に延長することにした。

 

道路の向かいの茶畑にも降りていき、茶樹や土壌を確認したりもした。やはり今日は昨日と比べると天気は良くない。気候の変化が重要だ。更に家に戻って桂花茶を飲む。この仄かな香りがなかなか良い。この花はちょうど今がシーズンだという。ただ手摘みは梯子を掛けて小さな花を取る重労働。一人が1日で600gしか採れないというから大変高級な花だと知る。

 

昼になると、奥さんが麺を煮てくれた。初めは大鍋に単に麺を煮ただけだと思っていたが、非常に出汁が出たいいスープで驚く。何と中には肉や海鮮などがふんだんに入っているご馳走麺だったのだ。出てきた漬物もうまい。突然やって来たのに、何とも申し訳ないが、喜んでご馳走になった。

 

かなり楽しい時間を過ごし、ミニバスが登っていった時間に外へ出て降りてきたところを捕まえて、帰った。結局4時間ぐらいお邪魔していたことになる。製茶作業中なのに申し訳ない。そのままバスで南港駅へ向かい、そこから動物園まで端から端までMRTに乗っていた。午後の日差しを浴びて寝入る。

 

木柵へ
当初、午後の予定がなかったので、葉さんに『木柵に知り合いはいないか』と聞いてみると、適当な茶荘を探してくれていたので、ちょっと遅くなったが、訪ねることにした。何しろ私などは木柵自体に行ったこともない。どうやって行くのかさえ、知らなかった。動物園駅からバスに乗る。この辺になるとU夫人が活躍する。

 

10分ほどバスに乗ると大きな大学があり、そこで降りる。すぐそこに目指す張協興というお店があった。中にいると、カウンターがあり、そこに座ると向こうからお茶が出てくる。ここは喫茶店ではないが、昔からこのスタイルのようだ。カウンター越しの商売の交渉をしていたのだろうか。さすが木柵、焙煎の効いた私好みのお茶が出てくる。

 

木柵鉄観音茶の歴史を知りたいというと、オーナーの張さんが語り出す。ただその話は鉄観音に留まらない。何と見せてもらった資料には包種茶も出てくる。『実はこの木柵も鉄観音より前から包種茶を作っていた』と言い、更には坪林などとの商売の様子を記す60年前の出納帳が出てくるに及び、当時の包種茶や鉄観音の価格から、お茶だけでなく、日用品まで売買していた記録を見た。往時茶葉を売った金で油などを買っていたのだ。坪林が交通不便な場所にあったことを示す資料ともいえる。

 

鉄観音茶の生産はどんどん減っているようだ。品種としての鉄観音もあまり見られなくなっており、近年は別品種を他の産地から持ち込み、作らざるを得ない状況だという。この鉄観音の歴史及びその製法などにはとても興味があり、次回機会があれば張さんの焙煎室などを見せてもらうことを約した。

ある日の埔里日記2017その5(5)突然坪林で製茶する

突然の坪林

黄さんに坪林の駅まで送ってもらい、台北へ引き返そうとしていた。台北駅では初めて台湾にやって来た静岡のS君と、台湾に仕事で来ているUさんとの待ち合わせがうまくいかずに悪戦苦闘していた。その様子をSNSでみていたので、何とか合流して、皆で南港へ行こうと考えた。

 

そこへ坪林の馮さんから連絡が入って来た。『今日は天気がいいので茶摘みが行われている。明日は雨の可能性もあるので、今日来てくれないか』というのだ。これには驚いた。確かにここ数日天気が悪く、お願いしていた製茶が出来るのか心配はしていた。だがまさかこんな展開になろうとは。

 

どうするか、今晩は茶工場に泊まりこむのにその用意は何もしていない。お土産は勿論、資料も全て部屋に置いて来てしまっている。これでも行くべきなのか。しかしもし明日茶摘みが無ければ製茶を見る、することは出来ない。結局製茶を優先するため、急いでUさんに連絡を入れ、S君も探して連れてきてもらうことにした。

 

新店から坪林へ行くバスは1時間に一本。ちょうど1時間待って彼らはなんとかやって来た。そしてバスに乗り込み、坪林へ向かう。Uさんの奥さんも一緒だが、何も持っていなのも一緒。申し訳ないが、何とも致し方ない。3時過ぎには坪林の祥泰茶荘に到着したが、やはり天気は良かった。

 

ところが馮君は悠々としている。茶作りするなら忙しい時間のはずだが、お茶など淹れてくれている。30分ぐらいして、どこからか連絡が入り、ようやく工場の方へ移動した。ここは以前、間違って製茶体験に参加してしまった場所なのでよく覚えている。我々が到着後、誰かが生葉を持ち込んできた。既に時刻は4時、日は西に傾き、日光萎凋のタイミングはギリギリだ。

 

いや、日光萎凋はなかった。そのまま室内に持ち込まれた茶葉は萎凋槽に放り込まれ、堆積されていく。それからは馮君の温度管理が始まり、いわゆる熱風萎凋が行われている。時々温度を見ながらかき混ぜている。S君も自分の機械を持ち込み、色々と調査をしている。2時間後には茶葉を笊に移す作業があった。この辺の手作業はかなりしんどい。ついでに攪拌作業も行われる。

 

夜7時ごろ、夕飯になる。労働の後の飯は旨い!と言っても私は殆ど何もしていない。麺と卵焼きだ。でもゆっくり食べている時間はない。かなり作業がせわしない。その後も断続的に攪拌、揺青が続き、かなり夜も更けていく。S君は『お茶を飲まないと眠れない』と言い、自分の茶を取り出して、台所で飲み始める。確かにお茶を飲むとホッとする。でも製茶している時に悠長にお茶を飲んでいる人などいるのだろうか。

 

一体どこで寝るのかと思っていると、何と茶作りをしているその部屋に寝袋が持ち込まれている。さすがにこの季節に寝袋かと思ったが、何と室内では空調が使われており、寝袋から出た頭が寒いのだ。風邪ひきそうだと思いながら、12時頃に一番乗りで寝入ったらしい。さすがやはり、どこでも寝られるタイプ。

 

10月26日(木)
製茶2日目

夜中12時に寝たのだが、午前3時に目覚ましが鳴る。ここでまた揺青の作業が始まる。茶葉を笊から揺青機に移し、機械を回したらまた茶葉を笊に戻すという何とも原始的な作業だ。ただ意外と力がいる。寝ぼけ眼でやる作業ではない。体がかなり温まる。そしてまた寝袋へ収まる。更に朝方トイレに起きる。その後はもう眠れなかった。でも6時にはまた作業が始まる。そういえばスマホの充電器だけはバックに入れておいたので、充電できてよかった。これからも何があるかわからないのだから、常に充電器は持ち歩くようにしよう。これがないと時間も分らず、連絡も取れず、大変なことになるのだ。

 

朝ご飯を食べ、バタバタ過ごしていると、馮君のお爺さんがやって来た。85歳、足が少し悪いので杖をついているが、元気だ。お爺さんはここに住んでいる。昔の話を聞くと、実に面白い。体の大きなその老人は、若い頃は自ら茶葉を担いで商売に精を出していたのだろうと見受けられた。

 

午前9時過ぎについに殺青が始まった。ここからは流れ作業で殺青された茶葉は揉捻され、その後乾燥する。この作業は人数がいた方がスムーズだった。結局3時間弱これが続き、一応の終息を見た。尚乾燥の機械はとてもユニークで子供の遊びのようで、リズミカルに茶葉を下へ落としていく。

 

軽く昼ご飯を頂いて作業は終了した。店に戻って、お茶を飲んでいると、トミーがやって来た。忙しい中、時間を作ってくれ、我々をもう一軒の茶工場に連れて行ってくれるというのだ。何とも有り難い。ただ近いと思っていたその場所は坪林の街から山道を車で20分以上入ったので驚いた。

 

こちらもちょうど夕方に茶葉が運び込まれ、熱風萎凋の最中だった。ここのオーナーも代替わりして、30歳ちょっとの若者兄弟が茶作りに励んでいた。機械設備はかなり新しく、量産する方向なのだろうか。最近いいお茶を作っていると評判だという。青農とも呼ばれる若手農業家、これからが楽しみだ。茶畑を見に行くと手で茶葉を摘んでいた。今やごく一部らしいが、機械摘みよりよい風景だ。

 

トミーの車で台北まで送ってもらった。取り敢えずS君の荷物を部屋に置き、4人で夕飯を食べに出る。腹が減っており、近くの餃子チェーン店に入った。S君は初の台湾で、昨日、今日とほぼ普通では味わえない体験をしており、今晩も焼き餃子中心。なかなか凄い台湾体験だ。

ある日の埔里日記2017その5(4)新店の包種茶

10月24日(火)
台北へ

昨日台北の近くまで行きながら、埔里に帰った。しかし今日から数日は台北に滞在することになっている。これなら昨日のうちに台北へ行けば楽だったはずだが、まあ旅とはそんなものだ。効率的な動きをすればよいというものでもない。包種茶の歴史を調べる為の準備も必要になる。結局午前中はその準備に追われ、慌ただしく荷物をまとめてバスターミナルに向かった。

 

午後3時発の台北行きバスに乗り込む。週末に比べてバス代が少し安いのがよい。ただ夕方の到着なので、渋滞などでの遅れが気にかかる。特に新竹あたりが込み合うらしいが、この日はそれほどひどい状況はなく、6時過ぎには台北に入ってしまった。今晩も葉さんのところに厄介になる予定なのだが、LINEしてみると『まだ会社にいる』というのだ。

 

取り敢えず最寄り駅まで行き、どこかで食事でもして暇をつぶそうかと考えた。駅を上がるとふと思い当たることがあった。確かこの近くに茶荘があったはずだ。探すとその店はすぐに見つかった。茗心坊、ソロっと入っていくと、林さんがそこにいた。FBではお互い見ているので、1年ぶりとは思えない。

 

ここに荷物を置いて、お茶を飲みながら、葉さんの帰りを待つことになった。何とも有り難いことだ。おまけにお茶のヒントももらえるし、お茶の本まで頂戴してしまった。林さんが得意の高密度焙煎によって作られたお茶、これを球形にして保存する活動も更に進んでいた。何年経っても飲めるお茶、面白い。

 

約1時間お邪魔して、帰って来たとの連絡を受け、葉さんの家へ行く。鍵を受け取り、それから食事に出た。この付近にはレストランは沢山あるが、なぜか吉野家へ向かう。日本ではまず行くことはないのだが、なぜか台湾だとたまに行きたくなるのだ。それはきっと28年前、単身赴任していた時、良くタクシーに乗って吉野家に行ったことが頭から離れないのかもしれない。牛丼とコーラ、このあり得ない組み合わせに嵌ってしまい、その後苦労した。だが今では台湾の吉野家にもこの組み合わせはない。

 

10月25日(水)
新店の山の上

翌朝は9時前に宿を出て、近くの銀行に向かう。9時ちょうどに銀行が開き、両替を行う。どうも埔里の両替レートは低いのではないかと思い、台北で行ったのだが、結果はあまり変わらない。台湾ドルが強くなっているだけなのだろう。ビル内のトイレに入ると、禁止事項が絵で示されていたが、何と便座で逆立ちしている絵を見て、思わず『台湾人凄い!』と思ってしまった。

 

それからMRTに乗り、新店駅へ向かう。今日は先日紹介された黄さんに会いに行く。彼は『実は包種茶は新店が発祥だという先生がいる』と言い、その先生とは何と家のゴミ出しで知り合ったというのだから、いかにも台湾的だ。その先生に話しを聞きたいとお願いした訳だ。

 

黄さんが迎えに来てくれ、山道を走る。彼の家も駅から4㎞離れているというが、すぐに山になる。そのままドンドン山の中へ。聞けば先生のところではなく、別の場所を訪ねるというのだ。着いた場所は、完全に山の中の一軒家。そこからは台北が一望できるほど、景色は良い。

 

ここに高さんが居た。高さんの家は代々お茶を作ってきたが、今も細々と続けているらしい。この家はお客がくれば、お茶を出し、食事も出す、レストランにもなっている。ここで高さんから新店の包種茶の歴史を聞き、大いに勉強する。包種茶の発祥は南港なのは間違いないが、そこから皆が学んでいき、新店では素晴らしい作り手が出たという。だが1960年代には、既に茶畑は無くなり始め、包種茶も見られなくなったらしい。

 

昼時になり、ご飯をご馳走になった。肉団子のスープに麺を付けて食べるつけ麺、台湾で初めて食べたがうまい。野菜も新鮮でよい。思わぬご馳走に唸る。このいい景色で、美味しい料理、黄さんも初めて来たと言い、今度は新店在住者で再訪したいと言っていた。これも茶旅の副産物だろう。

 

高さんが『文山農場に行こう』と言い、車2台で出かけた。山をだいぶ下ったところに、農場はあった。ただ今は農場というより、キャンプ場、BBQ場として使われているらしい。その中に古い製茶場が残されている。今は観光用として、簡単な展示が行われている。ここが昔の茶業伝達場だったというから、包種茶の講習会も行われたのではないだろうか。

 

因みに農場の入り口付近には石碑が建っていた。そこには1916年に道路が修繕されたとあり、大稲埕の会社が資金を出したらしい。これはこの付近に当時人がかなり住んでおり、且つ何らかの産業が営まれていたことを示している。これが茶業である可能性も高いのではないだろうか。