広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(6)順徳散歩

昼過ぎに外へ出て、ご飯を探す。飲食店が多い道を歩いていると、陳村麺という文字が見え、何だろうと思っていると、老板娘が「これ美味しいよ、入って」というので、釣り込まれる。店は繁盛しており、まあ安心かな。牛腩蒸陳村麺を注文すると老板娘が「麺と一緒に魚皮も食べるといいよ」というので、「一人では多過ぎる」というと、「順徳名物魚皮はサラダみたいなものだから大丈夫」というので食べてみることに。

確かに魚の皮とピーナッツなどを混ぜて食べる、かなりあっさりした食べ物で美味しい。麺は想像通りボリュームがあったが、それでも何とか食べられてしまった。この老板娘、かなりの勧め上手、商売上手。他のお客にも巧みに色々と売り込んでいるが、決して嫌みが無く、素晴らしい接客と言える。最近こういう人を見かけることは日本でも中国でも少なくなった。

腹が一杯になり、散歩が必要だと痛感する。宿のはす向かいには、順徳慈善会という洋風の建物が立っていたが、その裏山に革命烈士記念碑があるというので、登ってみる。これがかなり急な坂道、階段の連続でバテル。息が上がった状態のまま記念碑の写真を撮ると、またすぐ下へ降りた。実は下に古そうな建物群が見えたので、気になってしまう。

そこはお寺だった。西山廟は明代創建で、元は関帝廟だった。桃園の誓いなど、関羽絡みのモニュメントも壁に付いている。境内には道光年間に作られたという大砲も飾られている。アヘン戦争などでこの地が戦乱に巻き込まれたことが想起される。恐らくはこの寺は文革で破壊され、改革開放後現在の姿になったのだろう。

何だかそのまま観光に行きたくなり、車を呼んだらすぐ近くにいた車がぐるりと周辺を回ってきたので、ちょっと驚く。恐らくナビの指示通りに運転しているのだろうが、客が見えているのに通り過ぎるのはどうだろうか。ルートを外れると会社から怒られるのかもしれないが。

30分ほど車に乗る。昨日降りた高鉄順徳駅をさらに越えて行ったから、かなり遠かった。そこは「碧江金楼」と呼ばれる大邸宅だった。ただ遠いこともあり、昨日の清暉園と同様の規模を誇る素晴らしい庭園もあったが、観光客の姿はまばらだった。ここも科挙合格者を出していたようで、教育の重要性が現れていた。メインの金楼、確かに2階の扉などはかなり金で覆われていたが、何となくしっくりこない雰囲気は何だったんだろう。

金楼を出て、大通りを端から端まで歩き、周囲を散策してみたが、観光地に人は殆どいなかった。店の人たちも手持無沙汰で、眠ったような場所だった。今の中国の観光地は二極分化しているのかもしれない。入口の門まで歩き、車を呼んだ。このまま宿に帰るのも何なので、地図で見付けた天后宮へ寄ってみた。ところが午後3時過ぎで門は既に閉まっていた。

横に古い建物があったのでそちらを見ていたら、横から天后宮に入れた。中では数人が集まって何か話していたので、静かに拝んで退散した。ここも明末に創建されたようだが、幾多の混乱の後、現在の姿になっているようだ。そこから歩いて宿まで帰るつもりが、チェーンホテルのもう一つ方に歩いて行ってしまったことに気が付いたが既に遅い。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(5)順徳は華人のふるさと

何となく疲れが出てしまい、部屋に戻って休息する。クーラーがかなり部屋を冷やしており、寒くて仕方がないが、どこを押したら止まるのかも分からない。電話するとすぐに係員が来て、ベッドの横を指す。古い設備を一部変えると、どこがどうなっているのかさっぱり分からない。

夜の早い時間に2階のレストランへ行く。シャワーを浴びて、今日はもう外へ出る気がなかった。お客はまだ誰も来ていない。一人でメニューを見ながら「順徳の名物はどれか?』とスタッフに聞いてみると「炒牛乳が美味しいよ」と教えてくれたが、さすがに牛乳を炒めるという文字に恐れをなして注文せず。

結局魚球と焼きそばを頼んだのだが、非常に美味しかった。そしてそれ以上頼もうとするとスタッフが「一人だと食べ切れないよ」と親切にアドバイスをくれる。こんなところが、売上重視ではなく、何となくよい。そしてお茶はプーアルを頼んだが、一体いくらするんだろうと気にしていると、何と僅か2元だった。一応それなりのホテルのレストランでこの料金は凄い。大満足の夕飯だった。

3月13日(木)順徳博物館で

昨晩はかなり早く寝たので、早めに起床。体調を考えて朝ご飯を抜こうかと考えたが、何となく回復基調だったので、朝粥を食べに行く。ホテル代に朝食が含まれていたので、ちょっと食べるつもりが、そこは広東、飲茶の点心があり、揚げ牛乳まであって、ついたくさん食べてしまう。

腹がくちたので、そのまま散歩に行く。近所に市場があり、人がかなりいる。ご飯が食べられる店は殆ど開いていなかったが、活気はある。その裏側に回ると、所謂老街が広がっており、古めの建物がずらっと並ぶ街並みが出現した。ここは観光客が歩く場所であるようで、老舗と書かれているが店は新しい。

一度宿に戻り、車を呼んで出掛ける。取り敢えず順徳を知るために博物館へ行ってみる。車は20分ほど走り、かなり郊外の新しい街?にやってくる。新しいオフィスや住宅がそこにあり、博物館もまた新しい。ただそこには地元中学生が社会科見学?に来ており、大混雑で中に入れない。そもそも登録とかどうするのか分からなかったので保安に聞いてみたら、そのまま通してくれた。無料。

すぐに目に付いた華人の歴史展示へ。順徳人は香港にも沢山いるが、もっと昔から海外移民していた様子が分かる。具体的にシンガポールなど東南アジアへ移民した人の歴史が細かく書かれていて面白い。ペナンの順徳会館は1838年設立となっているが、随分と早い。バンコク、スクンビットであった上海大酒楼も順徳人がオーナーだった。

更に目を惹いたのは、マダガスカル、モーリシャス、セーシェルなど、南洋、アフリカ沿岸の島々に渡った人々が多くいたことだ。モールシャスの南順会館は1819年設立というのは本当だろうか。また最近大注目のレユニオン島にも同郷会館があり、あの謎の焼売は順徳人がもたらした可能性もある。

そして香港には英領となって以降、多くの順徳人が移住し、李兆基(恒基兆業)、鄭裕[丹彡](新世界)など、香港で世界的な富豪になった人物・一族も輩出している。私としては個々の料理や料理人の紹介なども欲しかったが、それは意外と難しいのかもしれない。他の展示も沢山あったが、中学生がとてもうるさいのですごすごと退散した。

周囲を歩いても面白くなさそうだったので、車で宿へ戻り、荷物を纏めて宿を変更した。近所にあった新しい宿はチェーンホテルの定宿なので、何があるか、どこにあるかなどほぼ分かっている。室内は機能的で、昨日の宿よりかなり現代風。ただ何となく、昔風を懐かしむ気持ちもある。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(4)珠海から順徳へ

何とか山を下りて、そこで車を呼ぶ。取り敢えず辺境へ戻って広場を歩くと、鄧小平の言葉が掲げられていた。珠海も4つの経済特区の1つだったが、深圳ほどは発展しなかった。今の私にとってはホッとする場所だが、ここに住む人々にとってはどうだろうか。その横に珠海駅と書かれた建物がある。行ってみると、何と高鉄の駅だった。

だが切符売場は自販機ばかりで身分証が無いので買えない。聞いてみると外側に窓口があることが分かり、そこへ行って並んだ。昔のような混雑はなく、すぐに順徳行きの切符が買えた。後は部屋に戻り荷物を取ってここへ戻るだけだったが、少し腹も減った。珠海名物はあまりなさそうだったので、気になっていた広西の螺蛳粉を食べてみる。タニシが入っているらしいが、あまり感じられない。少しスパイシーだが十分に旨い。体調も問題はない。

荷物を引きずって駅に戻った。高鉄に乗るには中国人は身分証をかざせば機械を通れるが、パスポートの人は人工入口を通らなければならない。ただ人は多くなく、すんなり入る。更に改札口でも同じことだが、老人のための端のゲートは人工なので問題ない。しかもよく見ていると、機械の真ん中の方にはパスポートでも通れる、との表示が見えたが、どうなんだろうか。

車内は、何と1両の後ろの方に席が無く(臨時の予備席のみ)、荷物が沢山置けそうだ。こういう設備に慣れていると、日本の新幹線は本当に狭くて荷物が置けないと感じるだろう。席は窓側だと思っていたが、そこは窓のない窓側。まあ1時間なので特に問題はないが、周囲の景色を写真に撮るのは難しい。

田舎を走り抜け、高鉄は順徳駅に着いた。ここは中国によくある高鉄駅で、周囲には何もない。出口に白タクが沢山いたが、それを無視して車を呼ぶ。本当に人が少ないので、すぐに見つかる。途中までは田んぼの横を走り、それから街中へ入る。何となく昔の中国旅を思い出す。

今日の宿は敢えてチェーンホテルではなく、香港系老舗ホテルにした。何しろ安いのだ。よくあるパターンだが、30数年前に作られ、既に老朽化は進んでいるが、部屋は広く、眺めがよく、居心地は悪くない。フロントの年配女性もちゃんと英語を話し、サービスも悪くない。何となく昔の香港を思い出す。以前は日本人も良く泊まったのだろう。

その部屋の窓から周囲を見ていると、古い建物が目に入ってくる。ああ、ここが清暉園か、ということは、順徳旧市街の中心に私はいるのだとようやく認識する。取り敢えず下に降りて清暉園を覗いてみる。門のところへ行くと、中国でよくある微信登録が必要だと書かれており、ちょっと面倒だなと思う。だがよく見てみると、「65歳以上は無料、60₋64歳は半額なので窓口へ」とあるではないか。

保安員に聞いてみると、ここは出口で、入り口は向こうだと言われ、行ってみると荷物検査後、さっき見えた切符売場へ。確かにパスポートを見せると半額の切符をくれた。中国の定年は今も男60歳、女55歳が標準らしいが、この60₋64歳の微妙な扱いは経過措置なのだろうか。そういえば珠海に入る時もそう言われたな。

清暉園は清代に栄えた龍家の広大な邸宅だった。観光客もかなりおり、順徳一の観光地のようだった。蘇州などでも見た、池を拝し、石山を築く豪華な庭園、そして立派な建築物。この地域で最も財を成した一族に相応しい邸宅だった。龍家は科挙合格者を多く出し、状元も輩出している。ここには日本の絵馬のような、試験合格を祈った御札が沢山下がっていた。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(3)珠海 宝順洋行の買弁

辺境を抜けると懐かしい拱北口岸の建物を眺める。こんなにスムーズにここを越えたのは初めてだろうか。最後に越えたのは10年前だろうか。何となく広場で休む。そこから歩いてチェーンホテルへ向かうが、思ったより遠い。その間、実に多くの食堂があり、目移りしてしまう。

宿の会員になっているが、全てはアプリ。しばらく使っていなかったので何故か会員カードが出て来ない。既に失効したのかと思ったが、スタッフがすぐに復旧してくれ(私が中国シムを入れ直してパスワードをゲットできた)、安く予約も取れた。本当に中国はアプリ社会になっており、もうついて行けない。

腹が減ったので宿の外へ出たら、横にお粥屋があったので思わず入ってしまった。大腸、たまご、そして野菜を頼むと白粥が付いてくる。現金を出すとちゃんとお釣りをくれた。これはいいと食べ始めたが、野菜がかなりしょっぱい。まあ粥にはいいかと食べ続けたが、どうにも耐えられなくなり、食事は終了となる。それから近所を散策したが、公園まで行ったところで体調不良が襲ってきて、慌てて宿へ逃げ戻る。完全にお粥で体調を崩してしまったらしい。

部屋に戻り、取り敢えず寝る。何となく3カ月も海外に行っていなかったせいか、東京暮らしに疲れが出ていたのかもしれない。寝込んでしまい、気が付くともう夜になっていた。ご飯を食べる気もなく、ただひたすら静かにしていた。何のために珠海に来たのか、などとは考えず、とにかく休む。

3月12日(水)珠海 宝順洋行の買弁

翌朝は体調が回復していたが、念のため宿で粥だけ啜って朝食を済ます。外は雨模様。前途多難だ。少し小降りになったので車を呼んだ。どこへ行くというあてもなかったが、清真寺が珠海にもあると分かり、そこへ行ってみた。しかし寺院は見付からず、シャッターが閉まっているところに清真寺と書かれている。掃除している人に聞いても、よく分からない。その隣にはウイグル料理店があったが、こちらも時間が早くて開店していない。

何も得られず、フラフラ歩いていると、愚園と書かれた場所があった。レストラン街かと思って入ってみると、その奥は公園になっており、誰かの像があった。その説明書きを読んでビックリ。彼は徐潤、清末の実業家だった。そして彼もまた買弁から成り上がり、宝順洋行で茶貿易をしていた。その後は招商局に入り・・。あれ、先日マカオで見た鄭観応とほぼ同じ経歴ではないか。何と彼らは晩清の4大買弁と呼ばれていたらしい。

ここは徐潤の邸宅があった場所だったが、文革中に徹底的に破壊されたという。マカオの邸宅は残っていたが、こちらは政治の荒波を潜っている。今も立派な池はあるが、建物などは一部復元されただけで、林の中に遺跡のように建物の一部が木に寄りかかっている。この徐潤についても鄭と同様、ちょっと調べてみたい人物だ。

何だか突然のことに気分が晴れて歩きたくなる。かなり歩いて行くと将軍山に出た。何となく遺跡でもあるかと登り始めたら、ものすごく急な階段がいくつもあり、途中から引き返すことも出来ず、疲労困憊した。頂上付近に行っても景色すらよく見えない、最悪の山登りとなってしまった。別ルートで降りていくと体操していた女性が「あれ、山頂は雨が降ったの?」と笑っている。確かに私の衣服は汗でずぶぬれ状態だ。でもこんな気楽な会話は好ましい。珠海にいくつか丘があり、自然がある。ちょっと住んでみたい街だ。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(2)マカオ 宝順洋行の買弁

3月11日(火)マカオ 宝順洋行の買弁

翌朝は快晴で散歩に出た。ネット検索で探した朝食屋が見付からない。遠くにマカオタワーが見えた。そこから何故か丘を登ってしまう。ずっと進んでいくとリラウ広場(亞婆井戸)という井戸がある公園に出る。ここはポルトガル人が最初に住み始めた地区の象徴的な井戸と言われているが、何とも気持ちの良い場所だ。そのすぐ近くに鄭家大屋という屋敷が見えたが、まだ開いていなかった。

その坂を下っていくと裏道へ出た。そこには活気があり、その昔を彷彿とさせる雰囲気が漂っていた。いい湯気が立っている食堂に想わず吸い込まれたが、店員は「ここで食べるの?」という顔をした。周囲は大声で広東語を話し、酒を飲んでいるおじさんばかりだったが、なぜかそこで食べたかった。勇気を振り絞って焼売と焼き豚を注文する。お茶も出てきたのでゆっくりと飲む。この店、近所の人は弁当を買う場所のようで、多くの総菜が並んでいた。

その周辺に観光客はいない、地元民溢れる場所だった。その先にはきれいな街市があり、その2階には店が並んでいる。ご飯は食べたのだが、ミルクティーは飲みたかったので注文した。香港ではこんな風にして淹れただろうか。店のおばさんが丁寧に教えてくれたが、美味しくは淹れられなかった。

そこからバスに乗り、媽祖閣へ向かった。地理が良く分かっておらず、僅か数駅で着いてしまった。ここには観光客が大勢来ていて、登りもきついので、途中で断念した。媽祖閣はマカオという地名に繋がる重要な場所だが、訪ねたのは20年ぶりだろうか。懐かしいというか、なんかポカンとしてしまう。

ポカンとしたまま、また歩き出した。緩やかな坂を上っていくと、何とさっきの井戸に出た。そしてさっきは開いていなかった華人屋敷の扉は開いていたので、思わず吸い込まれた。まさかマカオにこんなに大きな中国人の屋敷が残っているとは意外だった。広々とした空間、きちんと修繕された家屋、一体ここは誰の邸宅だったのだろうか。

それを知るには向かいにあった記念館に入る必要がある。鄭観応は清末民初の実業家・思想家。ただ私が何より目を引かれたのは、彼は宝順洋行の買弁からのし上がったということだ。当然茶貿易も行っていただろう。全く同じような買弁として、台湾茶の李春生がいるが、何か関連はあったろうか。その後鄭は招商局に入り、李鴻章との関係も深く、多くの事業を手掛け、財を成している。この邸宅は1869年に建てられたというから、招商局の前からかなり儲けていたということか。まあ、とにかく鄭観応については今後も調べてみたい。

そこからまた歩いているとマカオらしいきれいな教会があった。更に行くとついにセナド広場まで歩いてしまった。さすがに疲れが出る。宿に戻って少し休み、チェックアウトしてバス停に向かう。すぐにバスが来て、珠海とのボーダーまで運ばれていく。今やバスも地下駐車場に入り、そこから辺境へ向かう。

懐かしい門が見えた。そこは1987年初めてマカオに来た時に見た門だった。マカオ出境はいとも簡単だったが、中国側も思っていたよりはるかに人が少なかった。外国人ゲートは1つしか開いていない。ただその横に優先ゲートが開いていたのでそちらに回ったら、係員が「あなた、60歳以上なんだから、最初からここに並びなさい」と言われて驚いた。中国の定年は今も60歳なんだ、そして外国人も優先されるんだ、とふと思い至る。

広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025(1)初めてのマカオ航空でマカオ空港へ

《広東茶食旅(マカオ・珠海・順徳)2025》  2025年3月10日‐14日

中国行きにビザが不要となったので、2025年の旅の主要テーマは必然的に中国になった。おまけに最近は茶の歴史をそろそろ引退し、食の歴史に転換したいと考えるようになっている。天津飯は天津にあるのか、と同様に、広東麺は広東にあるのか、など、ちょっと気になるテーマを持って広東へ向かう。

3月10日(月)マカオ航空でマカオへ

折角自由に広東に入れるので、どこから入ろうかと検索してみたら、ちょうどマカオ航空の成田‐マカオ線が目に入った。これまでマカオに空港があることは知っていたが、使ったことはないし、マカオ航空など考えてもしなかった。料金も手ごろなので、久しぶりに成田に向かった。

電車で安くいくには本八幡から京成八幡で乗り換えるのだが、この2つの駅の中間に日高屋がある。最近はほぼ行かないのだが、急に食べたくなることもある。五目あんかけラーメンと餃子のセットを注文したが、ある意味で今回の広東行きの目的の一つはこのあんかけ麺(広東麺)が広東にあるのか、という謎解きにあるので、まずは東京で食べる。

成田空港は久しぶりで慣れが無い。更にマカオ航空は初めてだったので早めに到着したが、何とチェックイン開始は2時間前からだったので、時間を持て余して店などを見て回る。2時間前にカウンター付近に行くと大混雑。だが係員からANAメンバーですか、と声を掛けられ、ちょっといいカードを持っていたら、すぐに横からチェックインさせてくれ、ANAと提携しているとのことで、マイルも付いた。税関も優先レーンを通り、初めて行くラウンジには人があまりおらず、ゆったりと過ごした。

飛行機は中型機で、8割程度の乗客だった。その多くはマカオパスポートを持っていたが、広東語ではなく普通話を話す人が多いと感じられた。日本人は多くはないが、子供を連れた日本人女性がいたので、珠海あたりの駐在家族かとみた。機内サービスは悪くなく、何と今時新聞が配られたので、思わずもらった。フライトは5時間近くかかり、夜のマカオに降りた。

マカオ空港に初めて降りた。日本人母子はすぐに中国方面のルートへ向かった。私は普通に入境に並んだが、進むスピードは速くスムーズに入れた。ここから路線バスに乗ろうとしたが、乗り場が見つからず、聞いてみたら、リズボア行きのバスに乗ればと言われたので、そちらに向かった。すると上の方を電車が走っているではないか。なんだ軌道車もあったのか。更にはカジノ行きのバスは無料で運んでくれたが、途中で一度乗り換え、その乗り換えが意外と大変だった。乗客は広東語を話す中国人が多い。マカオ空港から市内は意外と遠い。

何とかリスボアまで辿り着き、直前に予約した古いホテルにチェックインした。部屋は広くてよいのだが、機能性はあまりない。とにかく腹が減ったのだが、元気もない。見るとホテルの前に昔よく行ったポルトガル料理屋があるではないか。午後9時過ぎで客はいなかったが入ってみた。やる気のない従業員が面倒くさそうに対応してくれた。ここのスープは美味しかった記憶があるが、今日はそれほどとは感じない。料金だけは20年前の数倍になっているが、サービスはがた落ちだった。勿論カジノなどへは行かず、すぐに寝た。

静岡茶旅2025(4)静岡を散歩する

宿に荷物を置いて、県立図書館へ向かう。ただ既に沼津で調べはほぼ付いており、何となく気の抜けた滞在となってしまった。宿に戻ったが、いつもと同じホテルチェーンに泊ったのに、色々と勝手が違って驚く。あまりチェーンの意味がないようだ。しかも外国人の団体客を受け入れているため、大混雑、大混乱なロビーとなっている。

夕飯もまた町中華に向かう。安くてうまい、という評判を基に行ってみると、古めかしく、確かに安いので常連さんが沢山来ているが、料理の提供がやたらと遅い。しかもカウンターの目の前で年配者が一生懸命鍋を振っているので文句も言えないが、さすがに30分経っても出て来ないのにはびっくりした。隣のおじさんはずっと本を読んでいたが、料理が来ても顔を上げず、明らかに怒っていて怖かった。お姐さんたちも気を使ってくれ、漬物を沢山くれたが、料理の味は覚えていない。多分天津丼には味が無いのだろう。

2月17日(月)静岡で

本当は今日図書館へ行くつもりだったが、また休館日を選んでしまった。もうどうにもならない。取り敢えず外国人を押しのけて朝ご飯を食べる。それから荷物を整理して、外へ出る。天気も良いので散歩することにした。宿の近くを歩いて行くと、府中宿と書かれている。久能山への道もある。華陽院というお寺には、家康の祖母と五女の墓があった。その他家臣の墓もある。

フラフラしていると床屋が見えた。髪は伸びていたが、床屋へ行っていなかったので、興味本位でそこへ入っていく。1780円という金額も魅力的か。だが若い店員の対応はちょっとお粗末だった。きっと気分の悪いことでもあったのだろう。まあ様子を眺めているとそれほど雑でもないので、順番を待つ。

来ているのは老人ばかり。65歳以上は散髪の上、髭剃り、シャンプーも入れて1780円だからであろう。私も久しぶりに髭を当たってもらい、何となく気持ちは良い。ただ年齢を正直に伝えたので2080円だった。ここは有名な全国チェーンだと後で知る。すぐ近所の床屋は60歳以上で散髪のみ1100円と出ていた。これからは地方散髪巡りも面白いかもしれない。

そのまま散歩を続けた。浅間通りという昔ながらの通りを歩くと中間ぐらいのところに、新しい山田長政像が出来ている。なぜここにあるのかは分からない。その向かいには名前だけ知っている、お茶の旅を演出する旅行会社があった。静岡おでんなどの文字も見られ、ちょっとお腹が減ってくる。そのまま駅の方へ歩いて行くと東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九の家跡がある。山田も1十返も静岡の生まれなのに、日タイ貿易にも膝栗毛にも茶が出て来ないのはなぜだろうか。

駅を越えて老舗中華店を探した。1963年と書かれている店にはちょっと行列が出来ていたが、サラリーマンたちはすぐに中に吸収されたので、一緒に入ってみた。かなり混んでいたが相席で確保。ついに広東麺を注文する。ここにはちゃんぽん麵もあるが、どうなんだろうか。広東麺は八宝菜をラーメンの上にかけたようなもので、広東にはあるかどうかわからない。

宿で荷物受け取り、今回はJR在来線で帰る。何だか三島で降りて立ち食いそばを食べたかったが、残念ながら腹が一杯で通り過ぎた。小田原でもそばを食べなかった。ちょうどよい時間に最寄り駅で停まるロマンスカーが無かったので、急行で帰る。千歳船橋まで来て、また腹が減り、久しぶりに丸亀製麺に入ってみる。何とうどんが丼ぶりに入ってきたが、汁はサーバーから自分で出すのだと聞き、ちょっと食べる気が失せた。何だか日本がおかしくなった気分であるが、これもまたご時世だろうか。

静岡茶旅2025(3)原宿から島田紅茶フェスへ

2月15日(土)原宿から金谷へ

朝ご飯を食べた後、散歩に出た。沼津城跡へ行き、川沿いを歩き、沼津本陣跡から駅の方まで進んでいった。朝の散歩は本当に気持ちが良かった。途中で行列が出来ているパン屋もあった。既に沼津はもう一度来たい場所リストに追加されていた。10時に予定通りチェックアウトした。

駅のホームへ行く。立ち食いそばの店があると聞いていたので、そこで食べようと考えていたが、何と開いていなかった。そういえば同じ店が三島駅にもあったような気がしたので、JRで逆方向へ行ってみた。ところが何と三島駅のも閉まっていた。潰れてしまったのだろうか。今日は島田へ行くのだが、その電車は30分後だったので、駅の外へ出て、そこにあったそば屋できしめんを食べた。

ホームへ戻ってみると、何とそば屋は開いていた。11時開店だったらしい。何ということだ。仕方なく今回は諦めて、JRで原駅まで行く。原駅で荷物をコインロッカーに入れようと思っていたが、小さな駅なのでロッカーはなく、スーツケースを引っ張ってお寺巡りに出掛けた。

原駅周辺には江戸時代の僧、白隠和尚が生まれ、修行した場所だった。徳源寺から白隠の生誕地へ歩き、松陰寺には白隠の墓がある。長興寺には全国から集まっていた僧たちの宿坊があったという。その付近を白隠の道と呼んで整備もされていた。あまり知られていないが、白隠は大きな影響力を持った僧であり、茶にも関連していたので、一度は歩いてみたかったのだ。

荷物が重かったので、早歩きで駆け抜け、原駅に戻った。そう、ここは元々原宿だった。そこから1時間半ほどJRに揺られると島田駅に着いた。駅から歩いて行くと、島田宿や代官所跡を通り抜けて、今日の宿に荷物を置く。そしてまた歩き出す。日本三大奇祭の1つ、帯祭りがある大井神社は初めて来たが、かなり興味深い場所だった。

島田の街で気が付くのは、とにかく和菓子屋が多いことだろう。あまりに目に付くのでそのうちの一軒に入り、宿で食べる菓子を購入してみる。そしてなぜ島田に和菓子が多いのか聞くと「江戸時代の川止めの際、お殿様たちが菓子を食べたがったから」と言われているらしい。大井川、なるほど。いずれにしても菓子は美味しかった。

夕方ご飯を食べに行く。また町中華だ。住宅街にあるお店。早過ぎてお客はいなかった。名物とネット情報にあったレバーチャーハンと焼売を注文する。土曜日のせいか、お客が来るというより、家で食べる弁当などが出ていく。レバーチャーンは確かに旨い。ただ普通のチャーンでも美味いのではないか。焼売は日本でほとんど食べないのですごく新鮮な感じした。帰りがけに田子重というスーパーで買い物して帰る。

2月16日(日)島田紅茶フェス

朝ご飯を思いっきり食べて出掛けた。宿の横の道に市が立っており、果物から本まで、勿論茶も売られていた。だが私が目指したのは、もう少し先。そこには既に長い行列が出来ていた。島田紅茶フェス、昨年も参加したが、会場はかなり広くなったのに会場入り口付近は人で溢れていた。紅茶人気は凄い。

私はまっすぐ3階へ行き、昨年亡くなった村松二六さんの回顧展を見学し、奥様にもご挨拶した。写真が沢山貼られ、多くの人が来ていた。1階に戻ると、相変わらず大勢の人が試飲や茶葉を買っていた。ブースも沢山出ており、顔見知りもいたが、挨拶するにも近づけない。何とか数人と言葉を交わしていると2時間ぐらい経ってしまった。

時間に限りがあり、ここで退散した、荷物を引いて駅に向かっていると、向こうから声を掛けられた。対馬のOさんだった。いつか行きたいな、対馬。JRで静岡駅まで行く。駅に着くと昼飯を食べに清見そばへ向かう。ここはちびまる子ちゃんにも登場しているらしい。そば屋だがラーメンが有名らしいが、何故かかつ丼を注文。お客は引っ切り無しにやって来た。

静岡茶旅2025(2)沼津散歩

夜ご飯は今年から始めた町中華巡り。沼津に現存する老舗中華で調べたところへ行く。確かに店構えは年季が入っており、なかなかいい雰囲気だ。五目焼きそばには「硬」と「軟」とあり、硬を注文する。ついでにギョウザもお願いする。天津メンという名前にも惹かれたが、今回は断念。豚肉中心で海鮮などはあまり入っていなかったが、正当な感じの焼きそばだった。昭和25年頃、先代が始めたという。

2月14日(金)沼津散歩

今回の宿の空調は難しい。「適温にならなければ電源を切れ」と書かれているが、それなら寒くて寝られないだろう。と思ったが、電源を切ると意外と快適だった。なんじゃ、これは。朝ご飯は宿に付いているのだが、その食堂の人が外国人ですごく一生懸命日本語で応対している。「おはようございます」「ありがとうございます」、彼の声が1日耳から離れない。

今日は港の方に行ってみることにしたところ、港より先に沼津御用邸跡があることが分かり、バスに乗り込んで向かう。30分ほど乗っていると御用邸記念公園に着く。御用邸というと那須のイメージばかりだったが沼津にもあったのか(1969年にその役目を終えたとあるから記憶が無くても当然か)。

西附属邸に入ってみた。ここは昭和天皇ら親王が使用したところとある。何と昭和天皇の養育係は薩摩出身の海軍大将川村伯爵と書かれており、意外感がある。部屋は沢山あったが、昭和20年の空襲で焼けてしまったらしい。ひな祭りが近いので、お雛様が沢山飾られており、そこだけ昔お嬢様だった方々が歓声を上げていた。

そこから郷土資料館を目指して歩いたが、途中で海の方へ向かってしまい、海を眺める。防風林が何となく懐かしい。史料館は沼津の民間道具などの展示が多かった。更に行くと仕切りがあり、その先は東御用邸の区域になっている。こちらには利休の待庵を模した茶室などがあり、また学習院の遊泳場もあって、昭和天皇はよく利用していたらしい。そこから海べりを歩いて行くと気持ちが良い。

御用邸を離れて、歩いて港方面へ向かう。途中に日緬寺という名前が見えたので、ミャンマー関連かと思ったら、動物のお墓もある寺で、ミャンマーとは無縁のようだった。30分ぐらい歩くと突然観光客が道を歩き、店に列をなしている。沼津は魚が美味しいだろうと思ってきたが、ネットに載っているような有名店はかなり混んでいて驚く。

ちょうど目に入ったのが、いわし専門店。いわしは好きなので入ってみるとなかなか感じのよいお店だった。刺身とフライのセットを注文すると、ちょうどいわしが入ってね、と言われて喜ぶ。確かに旨い。最近は回転すしのイワシもあまり食べる機会が無かったので、ここに来てよかった。

そこから港周辺を見学し、また海沿いに出て気持ちよく歩く。若山牧水の記念館や記念碑などがあり、この付近には文化の香りもする。そして駅の方へ戻っていくと、ちょうど図書館があることが分かり、立ち寄ってみる。昨日調べたかった江原素六について尋ねてみると、係員の人たちが極めて熱心で、様々な資料を探してくれ、予想以上の成果を得て驚いた。江原だけでなく紅茶作りをしていた人についても少し分かってきて面白い。

午前から歩き回り、午後は図書館で頭を使ったせいで、非常に疲れた。そして腹が猛烈に減った。宿の近くにそば屋があったのでそこへ飛び込んだ。カレー南蛮の文字が見えたので、即座に注文した。腹が減っていたこともあり、あっという間に食べてしまった。料金は安かった。急に何で「南蛮」っていうんだろうと思い、店の人に聞いたら、「ネギが入っているから」と言われ、ちょっと驚いた。要調査項目が増えた。

静岡茶旅2025(1)沼津の江原素六

《静岡茶旅2025》  2025年2月13日‐17日

2月は海外に行こうと考えていたが、またお預けになる。それなら昨年もちょっと寄った島田へ行こうと考えた。連載もいよいよ最終回、こちらも折角なので新しい展開で沼津へ向かった。

2月13日(木)沼津の江原素六

何となくいつものルートで静岡へ行く気分ではなかった。今回はバスで小田急線に出ようと思ったが、ボーっと歩いていると何と近所のバス停ではなく、駅の方に向かってしまった。しかもバスはちょうど出たばかりで、空白を生む。今回はとにかくゆっくり行こうと思う。それが安全だ。

小田急線を何と3回乗り換えて、新松田という駅で降りる。普通であれば早い電車で小田原へ行けば済むのだが、JR御殿場線に乗り換えて、ゆっくりと富士山でも見ながら、考え事でもしようと思う。小田急の新松田駅からJR松田駅は少し離れており、駅前を歩くとレトロ感がある。

電車はちょっと遅れていたが、ホームには人がかなりいて驚いた。その多くが外国人観光客であり、富士山の写真を撮っていた。遅れた電車が到着し、何とか席を確保する。途中から富士山が大きく見えてくる。御殿場駅では10数分停車しており、そこでも写真を撮る。更に進むと本当に富士山がくっきり見える駅があり、プロ級のカメラを持った台湾人はそこで降りてカメラを構えた。

約1時間半で終点沼津に到着する。予約したホテルに荷物を置き、まずは昼ごはん。港の方まで歩く気力が無く、近所で三食丼を食す。まあ普通かな。それで元気が出て、地図を貰い、明治史料館という名前を見付けて港と反対方向に歩き出す。地図ではよく分からなかったが、何と歩くと30分もかかった。史料館近くの交差点には「江原公園」という表示があり、史料館にも「江原素六記念館」の文字が見える。

史料館を見学すると、沼津は明治維新前後に兵学校や医療機関が出来るなど、徳川家の静岡移転に伴い、多くの優秀な幕臣が移動してきた場所だった。その中でも江原素六の活動は後世まで語り継がれ、地名に残っていた。2階には江原が住んだ家まで再現されている。優秀な旧幕臣は中央に呼び戻される中、沼津のために尽くした姿勢は評価されている。

そんな江原の活動にとても興味を持ったので、史料館内の図書室で彼について調べてみた。以前より気になっていた積信社という、日本でほぼ最初の茶葉直輸出会社も江原が社長となっている。これは狭山製茶や佐倉茶の輸出と同じ時期だからかなり早い。だがより詳細な資料をここで得ることは出来なかった。

折角なので、江原の墓に行ってみた。さっきの交差点を曲がると、高尾山古墳がある。そこに「スルガ最初の王、ここに眠る」と気を惹かれるような文言に出会う。坂をずっと上っていくと左手に墓地があった。キリスト教系の墓が並んでいたが、クリスチャンだと聞いていた江原の墓は勿論立派ではあったが、意外にも普通の日本式だった。

更に登っていくと、江原素六先生記念公園がある。元々史料館近くになった公園をここに移転したらしい。周囲には茶畑があり、少し高くなったところに江原の立像が天を突くように建っている。思ったより随分歩いてしまい、かなり疲れたが、バスはあと1時間来ないので、歩いて沼津駅まで行くことにした。初日からかなりの難行となってしまい、少し後悔する。

宿に戻ってチェックインすると、フロントの若いにーちゃんが「明日10時までに鍵をフロントに持ってきてください」というので、私は連泊します、と答えると、何と「掃除するので」というではないか。最近の言葉遣いにあれこれ言う気は既に失せてはいる。それでもさすがに「掃除を希望する方は10時までに鍵をお戻しください、でしょう」と言いたかったが、歩き疲れていたので「嫌です」と言って去る。