富山から静岡まで茶旅2017(1)富山でお話し

《富山から静岡まで茶旅2017》  2017年7月4日-7日

4年前に行った富山。魚がうまかったな、環境がよかったな、という印象が強い。また行きたいな、と思っていると、北京時代のお知り合い、前回も世話を焼いてくれたYさんから『ぜひ来てね』と声がかかる。そしてあのバタバタ茶の朝日町で、セミナーをさせてもらうことになる。地元のお茶について、地元の方に何を話せばよいのだろうかという迷いはあったが、それより、『また富山に行きたい』という思いが勝ってしまった。

 

更にはついでに静岡を再訪しようと思い立つ。だが日本は広い。日本海側から太平洋側へ、どうやってもそれなりの時間が掛かる。台湾に行くより遠いなと思いながら、なぜか無理して、しかも飛騨高山、愛知を経由して行ってしまった。無謀だが、まあこんな旅もあってよいか。

 

7月4日(火)
1. 富山
北陸新幹線で

朝から小雨が降っている。富山への行き方は飛行機、バスなどいくつかあったが、一番安直でつまらない新幹線に乗ってしまう。いよいよ私の旅も歳老いてきたのだろうか。勿論4年前はなかった、一昨年開業した北陸新幹線を一度は体感しようという狙いはあるのだが、新幹線はどれも同じだろう。新鮮味は特にない。

 

大宮まで在来線で行き、はくたかに乗車した。かがやきというのはもっと速いらしいが、そこまで急ぐ必要もない。列車は軽井沢などを通り長野まで行く。天気の悪い平日、基本的には出張のサラリーマン中心で自由席もかなり空いている。数人、山登りの格好の人がいるのはちょっと気の毒だ。

 

黒部川あたりではかなり雨が降っており、川が相当に増水している。台風が近づいているとの話があったが、それは逸れているのではなかったのか。車内ニュースでは福井あたりで大雨のため列車が止まっているとの情報も流れている。私は何という時に来てしまったのだろうか。まあそれも私の旅なのだが。

 

富山駅には定刻1時過ぎに着いた。僅か2時間ちょっと。確かに速いが費用もそれなりに掛かる。あまり食欲はなかったが、一応腹に何か入れようと駅のそばを食べた。駅前を眺めてみると、4年前は新幹線の工事をやっていたが、今はすっきりしている。時の流れの速さを感じる。

 

Yさんが予約してくれたホテルは駅前にあり、雨でも便利。まだチェックインの時間には早かったが、荷物を預けに行ってみると『本日は雨なのでお部屋へどうぞ』と嬉しいご案内。更には雨に濡れていたのでタオルまで差し出されてちょっと感激。これぞおもてなし、ではないだろうか。

 

富山でお話
ホテルの部屋はコンパクトだが居心地は悪くない。さすがに旅慣れた女性が選ぶ宿はどこか良い。午後4時近くまでゆっくりと休み、今日、明日の準備を少しした。ロビーには無料のドリンクサービスもあり、そちらに移動してコーヒーを飲みながら最後の仕上げを行う。そこへ雨の中、Yさんが登場した。

 

そして車に乗り、富山県民会館に移動した。ここの一階のカフェで打ち合わせ。今晩は、富山のビジネスマンの集まりでお話をさせて頂くことになっている。これもYさんの人脈のお陰だ。伝票の代わりに小さな人形が置かれているのも面白い。もしこれが中国なら、この人形にQRコードでもつけてスマホ決済にすれば受けるだろうな、と考えてしまう。日本ではいずれにしても無理だな。

 

このカフェには、富山産の和紅茶が置いてあったので、オーダーしてみた。販売もしているようだ。今や日本のどこでも紅茶が作られている。富山紅茶の会が生産しているとあるが、どんな団体だろうか。くれは紅茶とあさひ紅茶という2種類がある。あさひとはやはり朝日町のことだろうか。あそこで紅茶?

 

会場はこの会館の上だった。行ってみるとすでに主催者が来られていたが、私のPCとプロジェクターの相性が悪く、接続できずに慌てる。これからはPCだけではなく、コードも持参すべきと痛感。参加者は10数人だが、志のある官庁や有力企業の方々が中心の会でちょっと驚く。事前に参加者も聞かずに勝手な話をするのは悪い癖だ。

 

今回は『お茶を通して見るアジア事情』ということで、富山には何にも関係ないし、特にビジネスに繋がるようは話でもなかったが、皆さんきちんと聞いておられ、ホッと一息。お茶というのは意外と様々な側面があるということを理解して頂ければ十分だろうか。それにしてもこのような勉強会が定期的に開かれているというのは素晴らしい。

 

夜は皆さんに連れられて、新鮮な魚介類など富山の料理を堪能した。またかなり幅広い富山情報を聞くことができ、楽しく過ごした。私もセミナーとは違って、こぼれ話をいくつか話し、いつものように『セミナーより2次会の方が面白い』という不名誉なお言葉を頂戴する羽目になる。まあ仕方がないか。ホテルに帰る頃には雨はほぼ上がっていた。

 

静岡フラフラ茶旅2017(2)台湾で活躍した茶業関係者を調べる

3. 藤枝
幸之松の夜

実は幸之松さんにはちょうど1年前に呼んで頂き、セミナーを開催してもらっていた。満員盛況のお客さんだったが、ごく一部のお茶農家、お茶好きの方を除いて、お目当ては私の話ではなく、こちらの料理だったと思う。まあ話の内容も、お茶に相当関心がないと興味を引かない黒茶だったからだろうか。そして驚くほどおいしい料理が続々運ばれてきて、皆さん大満足だったのを覚えている。

 

その時は牧之原のSさんの紹介だった。結局その夜は彼の家に泊めてもらったのだが、『次回静岡に来ることがあれば泊まっていいよ』と言われていたので、お言葉に甘えることにしたのだ。このお店、何しろ風情があってよい。外国人などは必ず喜ぶ日本的な作りだと思う。

 

お店に入るとすぐに料理が運ばれてきた。お刺身、てんぷら、鍋物、どれも美味しく頂いたが、中でも静岡名物黒はんぺんの揚げ物。何と5枚も食べてしまう。これまで食べた物とは別次元の美味しさだった。『今日は家庭料理だ』とのことだったが、大将の料理は実に食べ甲斐がある。

 

Sさんがお茶関係者として呼んでくれていた人がいた。ここ藤枝には、あの日東紅茶の工場がある。そこに勤務するHさん。仕事で世界中の茶産地に行くそうで、今時のお茶事情を聞く。当たり前だが、世界は我々の目の前で起こっていること以上に、動いているようだ。そして日東紅茶の歴史についても、得るものがあった。

 

そんな話をしていると、東京にいるはずのI夫妻が入って来た。一昨日は京都の茶会に出て、昨日の夜、帰り際にここに寄って食事をしたらしい。そこで今日私が来ることを知り、何と実家のある山梨から戻って来たらしい。神出鬼没とは私がよく言われることだが、I夫妻は私の上を行っている。驚くべし。しかも食事が終わると東京へ帰っていたからすごい。何時に着いたのだろうか。

 

私はHさんとのお茶談義に没頭し、気が付けば12時を回ってしまう。酒も飲まずに、実に6時間近くも話をしていたことになる。これは楽しかった。それからお風呂にも入らず、そのまま寝てしまう。Sさん夫妻はさぞや呆れたことだろう。私の旅スタイルはどこでも自由奔放だ。

 

6月7日(水)
翌朝は鳥のさえずりで目覚める。散歩でもしようかと思ったが、もうご飯が出来ていると御呼ばれした。まるで旅館の朝ご飯を頂くようで、何とお替りまでしてしまう。昨晩から食べ過ぎだ。申し訳なかったのはSさんご夫妻の方は、私のはるか前に起きて、犬の散歩も済ませ、朝食もすでに済んでいたこと。居候がのこのこ起きてきて、大飯ぐらいだとは、落語のような展開となる。

 

4. 金谷
野茶研へ

今日は朝から金谷の試験場へ行くことになっており、藤枝駅まで車で送ってもらう。なんとも迷惑な客だっただろうが、また機会があれば泊まりに行きたい。でも断られるかもな。藤枝から電車で金谷まで行く。駅で降りてバスの時間を聞くと30分後しかなかった。しかももしそれを逃せば、午前中はもうないらしい。ちゃんと調べもせずに来たのは無謀だった。取り敢えず駅付近を散策。高台に上がり、旧東海道の石畳の道の入り口まで歩いたところでバスの時間となる。

 

バスの乗客は殆どなく、10分ほどで目的地に着いた。通称野茶研と呼ばれる場所、今日はお知り合いのIさんのお陰で、ここの図書館で調べ物をさせてもらえることになっていた。ここの歴史を見てみると、何と明治時代は東京の西ヶ原にあったらしい。私の母校も西ヶ原にあったのだが、ここの跡地、ということはないのだろうか。試験場だから広々としており、周囲には茶畑もある。

 

Iさんと一緒に図書館に行くと、既に話が通っており、何と私が調べたかった人物に関連する本を選んでくれていた。何とも申し訳ないことだが、時間の短縮となる。藤江勝太郎、中村円一郎など、台湾茶業で活躍した静岡出身者は多いが、茶処静岡のこと歴史に埋もれてはいないだろうか、と思うのだ。静岡でも彼らの名前を知る人が多くないのは残念だ。資料もそれほどない。出身地の町役場などに問い合わせた方がよい、とのアドバイスは貴重だった。

 

お昼はIさんの研究室で一緒に食べ、またお茶の話をした。Iさんとは昨年のお茶祭りセミナーで初めて会ったのだが、偉い研究員の先生とは知らなかった。私は品種や育種のことは何もわからないのだが、お茶の話題が全く尽きないのが不思議だ。やはり世界の茶産地を旅している人とは、話のテーマが合うのかもしれない。

 

午後は、何と偶然にもここで、黒茶の試飲が行われるというので、飛び入り参加した。集まったメンバーもすごい。近世茶歴史を研究するYさん、江戸文化を研究するK先生、尖ったお茶屋のIさんなどが、黒茶を持ち寄り、勉強している。私もプーアル茶などいくつかの黒茶を持っていき、飲んでみる。色々と専門的な意見や疑問が出てきて面白い。更には研究室でトルコのチャイなども飲んでみる。皆さん、お茶に向き合う姿勢が半端ない。私は場違いだな。

 

それから図書館に戻り、お借りした資料を整理してから、バスで金谷に戻った。バスの本数が少ないのでちょっとドキドキしたが、何とかたどり着く。そして名残惜しかったが、そのまま在来線で東京へ戻った。本当は1泊ぐらいして、お茶屋さんや農家を回りたかったが、時間が許さなかった。まあまたすぐに来るだろう。

静岡フラフラ茶旅2017(1)松下コレクションを見学する

《静岡フラフラ茶旅2017》  2017年6月6日-7日

パスポートの有効期限が6か月を切っていた。そうなると入国拒否される国があると警告され、本当かなと思いながらも、パスポートの更新に踏み切った。台湾で更新しようと思ったが、2週間もかかると言われ、さすがに異国で2週間パスポートなしは不安だったので、東京へ行った。その間は日本に居なければならず、旅も日本国内に限られる。そこで静岡へお茶の歴史調査に赴くことにした。果たしてどんな成果があるだろうか。

 

6月6日(火)
1. 袋井まで

いつものように朝早く起きて、在来線で静岡を目指す。小田原まで小田急線、そしてここで普通乗車券を袋井まで別途購入して乗車する。スイカは熱海を跨げない。ちょうど中村羊一郎氏の『お茶王国しずおかの誕生』という本を読んでいると、鎌倉初期、径山寺の修行を終えて帰国した聖一国師が興津の清見寺に立ち寄り、その際中国から持ち帰った茶の種を足久保に蒔いたとの話があると書かれていた。その真偽はよくわからないが、ちょうど興津の近くに来ていたので、思い切って降りてみることにした。

 

駅で切符の有効性を確認のうえ、清見寺への行き方を聞く。線路沿いに歩いて行くだけなので、難なく到着した。そこは門と寺が線路で仕切られている珍しいロケーション。鉄道ファンにはいい撮影スポットではないだろうか。線路を跨ぎ、本堂を見学。きれいな庭が見られた。ただ聖一国師に関する記述や茶の木などはほぼ見られない。仕方なく庭を掃除している人に聞いてみたが、『お茶の歴史については全く知らない』と言われて拍子抜けした。

 

本によれば室町時代には清見寺は都にも知られた銘茶を産出していたとある。聖一国師が足久保に茶の種を蒔いたという文献はどこにもないが、もしそれが本当ならば、当然清見寺にも蒔いたであろうと推測している。それにも拘らず、現代の寺には茶の痕跡すらないのはなぜだろうか。実に不思議だ。やはりこの話は眉唾物だろうか。

 

来た道をとぼとぼ帰る。途中にスーパーがあったので昼ごはんとしてパンを購入した。そこにはレジもあったがかなりの人が並んでおり、私のように買い物数が少ない客は自動決済に誘導される。初めて緊張したが、自分でバーコードを読み込ませ、現金を入れるだけ。意外と簡単で便利だと分かる。東京の近所のスーパーにはないのだが、静岡は進んでいるのだろうか。

 

2. 袋井
松下コレクション

それからまた東海道線に乗り、静岡を過ぎ、藤枝、金谷、掛川と馴染みの駅を全て通り過ぎ、70分かかって袋井に到着した。そこから浅羽支所へ向かうバスを待つ。意外にもバスは1時間に3本程度あり、比較的早く乗れた。10分ちょっとで目的地には着いたが、目指す浅羽支所が分からず迷う。

 

思ったより立派な建物の3階に目指す松下コレクションの部屋があった。ここで茶旅の先達、松下智先生の60年に渡るコレクションが最近公開されたと聞き、どうしても行ってみたいと思ったのだ。火曜日と水曜日の公開と聞き、ちょうどよかった。先日その確認は小泊先生にお電話していたが、会場には松下先生ご本人がおられて驚いた。

 

コレクションは意外にも、黒茶などが多く展示されている。トワイニングの周年記念のブロック茶まである。その辺がいかにも松下先生らしい。お茶の歴史を福建や広東、台湾などを中心に語ることはない。少数民族と茶、更にはビンロウの関係まで展示されている。このような展示は今までになかった物ではないだろうか。少数民族のお茶研究、実に興味深い。

 

また一方には書棚があり、大量の参考資料、本が並べられている。それを見ると中国や台湾が中心ではあるが、よくぞここまで行かれたものだ、という奥地の物もあり、また日本各地の地方誌なども沢山ある。思わず手に取り、見入ってしまうほど、貴重な物がいくつもあった。

 

先生によれば、『ここにある資料は一部だ。現在本の執筆をしており、多くに資料は使用中だ』という。ご自宅には一体どれだけのお茶や資料が眠っているのだろうか。いずれにしても整理するのは大変だったことだろう。そしてこのようなコレクションの展示館が日本にはこれまでなかったことが残念でならない。

 

松下先生には『ぜひ茶寿までお元気でご活躍ください』とお伝えした。茶寿とは108歳のことで、中国茶業界の泰斗、張天福氏をイメージした。先生からは『今のところ体はどこも悪くない。90歳でインドのダージリンに行こうと思っている』という力強いお言葉があった。コレクションの見学者は平日にもかかわらず、かなりいた。勿論先生のこれまでの活動と研究成果の結果であり、また茶の歴史への関心の高まりを感じた。これからはお茶の歴史に興味を持つ人が増えてくれればよいと思う。

 

帰りもバスで袋井駅に戻る。それほど待たずに乗れるのがよい。袋井から藤枝までJRで行く。今晩は、藤枝の幸之松さんにお世話になることになっていた。藤枝駅に着くと、Sさんが車で迎えに来てくれた。何とも有り難い。

ある日の埔里日記その3(12)千客万来

5月27日(土)
Mさんがやってきた

埔里のゲストハウスにYさんに連れられて泊まりに来たのは昨年の5月。その時、お手伝いをしていたのがMさんだった。何となくMさんの話を聞いているときわめて個性的な女性で面白いなと思った。その後オーストラリアへ行っていると思っていたが、いつの間にか岡山に住んでいるらしい。そのMさんから連絡があり、埔里に数日滞在するという。

 

GHに会いに行ってみる。このGHの常連、Iさんという女性もいた。この人も個性的で、埔里によく来るらしいが、特にやることもないという。何となく3人で夕飯を食べに行くことになった。と言っても、埔里で一人ご飯以外は殆ど知らない私。Mさんの後ろをついていくだけだ。

 

埔里にもこぎれいな食堂があった。だがそこは何と満員で入れなかった。仕方なくその辺をふらつくと、ビヤホールかと思うようなレストランがあった。よくわからないが原住民が経営しているらしい。ちょっと興味を惹かれ、入ってみる。店の中ではギターの生演奏をやっている。原住民仲間の集まりなのかもしれない。生ビールを飲んでワイワイやっている。

 

オーナーは勿論国語は話すが英語もうまい。名物は牛肉麺だというので、頼んでみた。この麺はこしがあり、なかなかうまい。山豚肉の炒め物もうまい。原住民の中に日本人が3人紛れ込んだので、先方も興味津々。こちらも彼らの歌を聞きながら、興味津々。何だかもっと両者が出会える場があればよいのに、と勝手に思ってしまった。Mさんといると何かが起こる気がする。

 

5月28日(日)
茶酔いさんがやって来た

今年三回目の埔里滞在もあとわずかだが、ラストスパートとばかりに、お客さんが来る。今日は夕方茶酔いさんがバスでやって来た。彼は台湾茶好きの人で、年に数回茶を求めて台湾に来るという。こちらもMさんの宿泊するGHへ投宿。ここへ来た目的は李さんに会うためらしい。中国語が殆どできないのに、台湾の茶農家と交流する茶酔いさんのバイタリティには敬服する。

 

茶酔いさんが到着すると、李さんが魚池からすぐにやって来た。この2人の関係はよくわからないが、李さんは何とも親切な人である。今は茶農家だが、昔はコックだった人で、何とGHから歩いて3分のところに、昔のオーナーが店を出していると言って連れて行ってくれた。ここは海鮮料理と書かれているが、日曜日のせいか、お客が多く、席はない。だが李さんは事前に連絡していたのか、ちゃんと席が設けられる。

 

注文をさばききれずに少し待ったが、李さんは自ら厨房の方に出向いていき、焼き魚やイカ、貝などの料理がどんどん出てきた。埔里で海鮮なんて初めてだ。我々は酒を飲まないので黙々と食べた。そしてお茶の話はまた明日、と約束して別れる。茶酔いさんは魚池に行くつもりはなかったようだが、流れ上そうなる。

 

5月29日(月)
茶摘み見学

翌朝は7時半にGHに行き、茶酔いさんと朝ご飯を探す。すぐ近くに古びた食堂があり、米粉を食べさせるというので寄ってみる。米粉は埔里名物と言われているが、埔里の街で食べられるところは多くない。何とも不思議だ。周りの人でも米粉を食べている人は多くない。まあ確かにすごく旨いということはない。

 

李さんが迎えに来て、魚池に向かう。天気が良く、ちょうど茶摘みが始まった茶園に直行した。地元のおばさんたちが手摘みしている姿を写真に撮る。既に気温はかなり上がっており、茶摘みは辛い作業になっている。完全防備のおばさんたちが手に刃を付けて起用に摘んでいく。

 

それから李さんのお兄さんの家でお茶を飲む。ここにも2度ほどお邪魔しているのでもう慣れたものだ。李さんは作業があるので我々はここで待機している。少しすると李さんが摘まれた茶葉を運んできて、茶工場へ向かうというので同行する。彼は道路沿いの茶工場を借りていた。生葉を2階に上げ、すぐに萎凋槽に入れる。

 

ここは博物館にもなっており、台湾紅茶の初心者や観光客が訪れ、土産を買う場所となっている。ここのオーナーが最初に日月潭紅茶をブランド化したということらしい。古い製茶機械が展示され、日本時代以降の歴史が語られている(一部に誤りあり)。そして2階では製茶の実演が一部見られるという訳だ。

 

もう昼時だというので魚池の牛肉麺屋へ行く。埔里でもあまり牛肉麺を食べないので久しぶり。上品というは店の名前だろうか。その後、李さんが埔里まで送ってくれ、茶酔いさんはバスターミナルからバスに乗って台中の方へ去っていく。何とも慌ただしい旅だが、普通の人の旅はそんなものか。

 

夜はまたMさんと食事をした。先日満員だった店に行ってみると、今晩は空いている。かなり波があるのだろう。そこで色々と話していて、ふと思い出した。私も明後日埔里を離れるのだが、部屋にはゴミが残っており、ごみ収集車は今晩来るということを。これを逃してはまずい。取りものも取り敢えず、Mさんを残して走り出したが、何と無情にも収集車はエリーゼのために、の音楽を鳴らしながら去って行ってしまった。ボー然と立ち尽くすのみ。最近ボケが進んでいるようだ。

ある日の埔里日記その3(11)廬山温泉へ

5月24日(水)
廬山温泉へ

昨晩宿へ帰ると、近所のおばさんから『早くシャワーを浴びなさい。今晩9時から丸一日断水だから、トイレに水を溜めておいて』と急に言われる。後で見ると確かに張り紙があったが見落としていたようで、おばさんに感謝してすぐに言われた通りにした。寝る前に歯をみがいたが、水は普通に出ており、且つトイレの水も問題なかった。まあ台湾だから時間のズレもあるだろうと思って寝た。

 

だが翌朝も何の問題もない。しかも下の店は通常通り開いている。朝飯を食べながら聞いてみると、『ああ、屋上に貯水槽があるから1日ぐらいは問題ないよ』と言われて唖然。天気が怪しげだったので、昼間はどこへ行こうかと考えていたが、その必要は無くなっていた。ただ急に晴れ間が見えたので、思い立って廬山温泉を目指してみる。

 

いつものようにバスターミナルへ行き、バスを探すが、平日の午後廬山温泉へ行く人などいない。地元の老人が数人乗り込んだが、すぐに降りてしまい、霧社までに中国から来たスーツケースを持った女性3人組だけになる。ただ霧社では学校帰りの子供たちが乗り込んできて賑やかになる。霧社からは山道をくねくね。バスを降りた子供2人がけんかをはじめ、お互いを叩き合っているのに、ちょっとビックリ。

 

1時間半で廬山温泉に到着したが、バス停近くの商店街は余りにもひっそりしていて寂しい。実は私は1989年の暮れ、廬山温泉に1泊したことがある。当時はお客も多く、賑わいがあったと覚えている。その時泊まった温泉旅館を経営していたのが、あの霧社事件で逃れた高山初子さん(花岡次郎夫人)とそのご長男(事件当時初子さんのお腹の中にいた)だった。そこで初めて霧社事件について、彼女の口から出る流ちょうな、そして淡々とした日本語で聞いたわけだが、その時までこの事件の存在すら知らず、全く理解できなかったのを覚えている。

 

その時の旅館はもうないようだ。既に初子さん、ご長男とも他界されたと聞く。私はないとは分っているが、何となく当時の面影を求めて彷徨う。だが、川には吊り橋?が掛かり、高所恐怖症の私の前途を遮った。この橋には見覚えがある。ずっと回り道すると、普通の橋があり、そこから登ってみる。

 

その先にはいくつか温泉宿が開いてはいたが、もう風前の灯。ここは2008年、2012年に起きた台風・洪水で大きな被害が出ており、政府としては安全面からこの温泉郷全体の閉鎖を促しているが、まだ一部が応じていないのだ、という話もあった。その先はもう何もなさそうだったが、バスの時間まで間があったので散歩してみる。天仁銘茶のホテルなどがあるが、やはり既に閉鎖されている。少し古い建物が見えるが、そこはこの地を好んだ蒋介石ゆかりの蒋公行館。今は特に使われていない。

 

そこから山を登っていくと、マヘボ社という石碑に出くわす。ここが霧社事件の首謀者、モーナルーダオの部落であった。その上に記念碑があるというので上って行くとかなり時間が掛かってしまう。何とか碑を見つけたが、そこには抗日英雄、莫那魯道という文字。何となく違和感あり。廟に入っても、中国式の構えになっており、どう見ても原住民が作ったとは思えない。不満はあるだろう。僅かに香炉にタバコがさしているのが、ささやかな抵抗なのだろうか。

 

ふと気が付くと雨が降り出し、その雨は次第に強くなり始める。私は帰るタイミングを逸してしまい、ただ廟の脇にたたずんでいる。そして先日初めて見たセデックバレという映画を思い起こしている。原住民を単に可哀そうだとか、英雄視するとか、それはどうも違うように思う。彼らはこの山の中で昔から受け継がれた生活をしたかっただけだろうが、時代がそれを許さなかった。それは罪なのか。モーナルーダオが私に考える時間を与えてくれたのだろうか。

 

小雨になったので急いで山を下りた。バスの時間が迫っていたのだ。ところが温泉街まで来るとまた雨が強くなる。強くなるどころか、豪雨になってしまったが、雨宿りしていては、次にバスは1時間半以上ない。あたりも暗くなる。道は濁流のようになり、足はずぶ濡れとなったが、それでも傘を差して前に進んだ。何とかバス停に到着したが、お客は誰もいなかった。私が乗りこむとすぐに発車したが、車内は冷え込んでおり、風邪をひきそうになる。これは何か啓示なのだろうか。

 

埔里に戻ると、雨がすっかり止んでいる。異常に腹が減り、終点まで行かずにバスを降り、ワンタンの店に飛び込む。ちょっと冷えた体にワンタンスープがしみいる。何となく夢を見ているような1日だった。

ある日の埔里日記その3(10)鹿谷の歴史を勉強する

5月21日(日)
鹿谷へ

新竹、羅東、台北、三峡、桃園と回ってようやく埔里に帰り着いたが、翌日の朝はゆっくり起きたものの、また昼前からバスに乗り鹿谷へ向かった。鹿谷へはいくつか行く方法があったが、面倒なので高鐵台中経由台湾好行バスにした。まずは腹ごしらえで、いつもの店でサンドイッチをつまんだが、ちょっと足りないので蛋餅まで注文してしまった。少し気持ちが高ぶっていただろうか。

 

2時過ぎに鹿谷に着き、Uさんと合流。実は彼は明日の朝ここを引き払う予定で何かと忙しい。取り敢えずは彼の用事を済ませる。まずは昨年実に美味しいお茶をお土産にもらった張さんのところへ行く。また美味しい烏龍茶があればぜひ購入したと思ったが、なかなかそうはいかない。あれはよほどの当たりのお茶だったのだろう。もっと大切に飲めばよかった。

 

それから鹿谷の下の方へ向かった。ここに凍頂のお茶の元祖、林鳳池の生家があるという。その家は中心の道から少し入った所にあり、表示などもないので普通には分らない。Uさんに連れて行ってもらい、初めて行ける場所だった。その廟にお参りすると、確かによく見掛ける林鳳池の絵が額に入っておかれている。この家が古いことも分る。だが家に前にある茶畑の茶樹は林さんが持ち帰ったものではないという。末裔の人々も、1855年に先祖が福建から36株の苗木を持ち帰ったという話を懐疑的に見ているのではないか、と思えてしまった。

 

それから焙煎で有名な人のところへ行ったが、ちょうどお客が来ており、Uさんが渡すものを渡して退散した。ここでちょっとお茶を買いたいなと思ったがそうはいかない。もう一軒農会の会長をしている人のところへ行く。彼は福寿山で高山茶を作っているというので、次回機会があれば茶作りの時期に訪ねてみたいと思う。ここには30年前に鹿谷で作られた烏龍茶があったので、写真に撮る。彼が子供の頃(1950-60年代)はこの付近にそれほど沢山の茶畑はなく、70年代以降急激に増えたらしい。それも99年の地震でほぼ姿を消したようだ。

 

夕飯に粥を食べた後、鹿谷の茶の歴史に一番詳しいという林さんのところへ勉強に行く。ちょうど外国人も訪ねて来ており、注目度の高い人だ。林さんは農会の秘書という立場であるが、率直に色々と教えてくれた。お茶の歴史というのは文献、記載がない物が多いので、そう簡単に言えるものではないとしながら、手元にある資料を見せてくれ、丁寧に答えてくれた。またよく言われる伝説がそのまま歴史になることもあるという。凍頂烏龍茶の歴史と現在、取り敢えずしっかりとメモした。

 

今日はもう帰る手立てがないので、鹿谷に泊まることになる。前回はUさんの家に泊めてもらったが、彼は明日早朝ここを出るので、今晩は偉信のところに泊めてもらうことになった。彼はちょうど近所の知り合いと飲み会中とのことで、そこへ向かう。鹿谷の夜は早く、楽しいこともあまりないようで、知り合い同士で飲むことが多いらしい。

 

Uさんは10時頃先に帰ったが、飲み会は延々と続く。鹿谷は何となく裕福な街だと感じる。これも80年代のお茶バブルの恩恵だろうか。12時すぐにようやく偉信の家に辿り着く。勿論家族は寝ているので、そっと部屋に入り、シャワーを借りて、すぐに寝入ってしまった。さすがに疲れていたのかもしれない。

 

5月22日(月)
埔里へ戻る

翌朝8時頃目が覚めた。皆さん、何時に起きるのかよくわからず、部屋から出てみる。ちょうど子供が学校に行く準備をしていた。何だか夜中にやってきて、奥さんにも申し訳ない。まあ、顔は知っているので、突然知らない男が出てきたわけでもなく、笑顔で迎えられる。偉信のご両親も隣の家からやってきて、孫と戯れている。奥さんは朝ご飯を買ってきてくれ、有り難く頂く。

 

それからボーっとお茶を飲んでいたが、偉信は最近大陸に茶を売り込んでいるとの話を聞く。紹興だ、広東だ、武漢だという話が出てくる。台湾経済の現状なども考えると、中国は無視できないということだろうか。ただ以前大陸に支店などを出して台湾茶を売っていた人々は結構苦戦していると聞いているのがちょっと心配。

 

今日は日月潭経由のバスで帰ろうと思い、バス停に向かった。台湾好行の台中行が来た後に、そのバスは緩々とやって来た。竹山から日月潭へ向かう。地元の老人などが多く、そこそこ乗り降りがある。こんな道を通るんだとワクワクしながら見ている。新しい路線は何となく楽しい。

 

ただ水社に着いたのは1時間半後だった。しかも埔里行きバスは今出たばかり。次まで50分も待つことになる。これでは台中経由で帰っても時間的には変わらない。やはり田舎のバスは難しい。仕方なくここで昼ご飯を食べたが、観光地価格で安くはない。食後はゆっくり散歩をしてからバスを待つ。バスは何種類も出ており、台北行きなど、埔里に停まるのに、埔里で下車する人間は乗せないという。どうなっているんだ。何となく釈然とせずに埔里に辿り着く。

ある日の埔里日記その3(9)三峡、桃園の茶農家へ

5月19日(金)
交流協会へ

翌朝は9時前に荷物をフロントに預けてチェックアウトした。今日は交流協会の図書室で調べ物をしようと思っていた。今年1月に初めて現在の交流協会の建物に足を踏み入れた際、2階にかなりの本が置かれている図書室を見て、一度訪ねたいと思っていた。当然台湾関連の日本語の本が多数所蔵されているから、参考になるものもあるだろう。

 

林森と南京路の交差点からバスに乗ると10分ほどで交流協会に着いてしまった。もしMRTに乗っていれば、駅まで歩いて行き、電車を待つので、こうはいかない。台北ももう少しバスを有効活用できれば、時間が短縮できる。しかもバス代は高くない。少し勉強してみようか。

 

やはり図書室には沢山の本があり、参考になりそうなものをピックアップした。特に日本統治時代に日本語で書かれた本が目を惹く。ただ図書室にはコピー機がなく、この本を借りて行き、コピーしなければならない。それでも借りるのはパスポートがあれば簡単だったし、コピーは一番近いコンビニで出来るので、確かにそれほど不便ではない。

 

昼前には作業を終え、交流協会にいる知り合いのHさんを訪ねた。彼とは香港で知り合い、当時中国国内の同じような場所によく行っていたので、何となく気が合っていた。その後彼は台北転勤となり、2年前に一度会っていたが、今回ご縁があり、また会うことになった。近くの客家料理の店で昼飯をご馳走になってしまう。彼はもうすぐ台北を離れることになっていると聞いた。次に会うのはどこだろうか。

 

三峡へ
それからバスで宿に戻り、荷物を受けだして台北駅へ。これから鶯歌駅を目指すため、台鉄の鈍行に乗る。鶯歌と言えば陶器の街であり、お茶関係者はここに茶道具などを買いに来るようだが、興味のない私はご縁がない。鶯歌までは小1時間かかるが、約束の時間より早く着いてしまった。なぜか富山県高岡の陶芸家の展示会がここで開かれるとポスターが言っている。今度富山を再訪するのでちょっと気になる。

 

駅で待っていると谷芳の李夫妻が車で迎えに来てくれた。3月に一度訪ねているので、気軽に迎えをお願いした。ところが道中、突如腹痛に襲われる。理由は全く思い当たらないが、車に乗っていることが出来ない。こういう時、台湾には田舎でもセブンイレブンがある。そこでトイレを借りると収まったので助かった。こんなことは滅多にないので自分でも驚いた。

 

工場に着くと、すぐに生葉が運ばれてきた。若者がバイクで持ってきたが、彼はUターン組。お茶で食べていけるなら、田舎に戻りたい人はいるだろう。李さんは生葉を処理しながら私に色々と説明してくれた。戦前の写真なども探し出し、かなり昔から茶作りしていたことを証明してくれた。

 

それから場所を上のお店に移して、お茶を飲む。Gaba茶なども作っており、興味深い。何でも新しいことに挑戦する李さんらしい。お母さんはここで50年近く商売しているので、どのお茶が売れるかに詳しい。双子の息子、高校生も帰ってきて、一緒に茶を飲む。彼らは既に親の仕事を継ぐことを決めているから真剣だ。奥さんはパンなどを作るライセンスを取得、これからお茶に合う食品を見据えていく。実に面白いファミリーだ。

 

帰りは暗くなる中、駅まで送ってもらった。今晩は桃園駅近くのホテルに泊まる予定。桃園駅に着くと、何だかかなりの疲れを覚えた。そんな中、歩いてホテルに入る。結構いい料金、ここはビジネスマンが出張で泊まるところだと思っていたが、部屋はかなり広く、なぜかダブルベッドが2つ置かれていた。ファミリータイプの部屋だろうか。ちょっと雨も降っており、体調もすぐれないので早々に寝込む。

 

5月20日(土)
桃園

翌朝は体調を考慮して、宿代に入っている朝食を食べずにチェックアウトした。林口方面行きのバスは、駅の反対側から出ているという。まずは駅で荷物をコインロッカーに預ける。バス停に行ってみると長蛇の列がちょうど動いており、乗るべきバスが来ていることを知る。土曜日の朝、なんでこんなに混んでいるんだろうか。

 

バスで40分ぐらい行くと、既に見慣れたバス停があり、降りる。そこから緩やかな上り坂を歩く。到着してみると以前はなかったコンテナが置かれている。事務所を作ったという。林さんとはここで会うのが三回目。彼は今や若手茶農家のホープとして、神農賞を受賞するほど、注目された存在だ。何しろアイデアマンである。

 

林さんのお父さんは東方美人茶作りの名人と言われており、日本語もうまいので、話を聞く。それから林さんと台湾茶業の将来について、延々と話し続けた。これは日本茶業にも繋がる話だと思う。伝統的な茶業を守ること、しかし時流をきちんと読まないと滅んでしまうこと、何とも難しい。あっという間に3時間ほど過ぎ、弁当をご馳走になって退散した。日本語で話しているので理解度が高いことも事実だが、林さんと話していると、ちょっと違った視点で物が考えられるような気がする。

 

帰りがけに茶畑を見せてもらったが、今年の春は天候が悪く、新芽の出も悪く、茶作りが思うように進まないという。雨が降りそうだったので、そのままバス停に送ってもらう。元来た道を帰り、桃園駅で荷物を取り出す。30元と書いてあったが、これは3時間までで、追加料金を取られる。それでも日本のように一日いくら、というよりよほど合理的にできている。

 

桃園駅で台中までの自強号の切符を買うと『新竹で席を代わって』と言われ、2枚の切符を渡される。これはシステムの問題なのだろうか。日本でもこんなことあるのだろうか。乗り込んでみると老夫婦も同じ問題で困っていた。大きな荷物を持って車内を移動するのは大変だ。しかし訴える相手がいない。しかも立っている人も沢山いるから文句も言えない。かなり疲れた状態で埔里まで戻った。

ある日の埔里日記その3(8)関西から羅東へ

5月18日(木)
関西から羅東へ

以前訪れた新竹の関西。連載の締め切りが迫る中、いくつかの疑問を確認するために、もう一度訪問させてもらった。関西には鉄道は通っていないのでバスで行こうかと思ったが、羅さんが高鐵新竹駅まで迎えに来てくれるというのでお言葉に甘えた。埔里からバスで台中高鉄駅へ行き、そこから高鐵に乗った。新竹までは僅か30分ちょっと。思ったより早く着いた。

 

高鐵新竹駅の周囲には何もないように見えたが、後ろ側には高い建物がいくつもあった。トイレから出てくるとちょうど羅さんが駅に着いたとの知らせがある。羅さんは実は台北に住んでおり、今日のためにわざわざ高速を飛ばしてやってきてくれたのだ。申し訳ない。駅前でさらっと拾ってもらい、関西へ向かう。羅さんは日本で15年暮らしていたと言い、日本語に問題はないので、色々と話を伺う。

 

先日も訪ねた台湾紅茶公司。今日も現在の社長、3代目の羅慶士さん(羅さんのおじさん)から、様々な茶の歴史を教えてもらう。特に紅茶から緑茶への流れ、客家人の精神とお茶について、また新たな発見があった。このような80年の歴史の流れは、とても1回のコラムで書ききれるものではない。何回かに分けて、もう少し資料を集めて書いていこうと思う。

 

羅さんが台北に戻るというので、その車に乗せてもらい、台北に向かった。高速だとあっという間に市内に入る。常々感じることだが、台湾も以前比べて渋滞が少ない。新たな道路が出来たりしているからだろうが、非常にスムーズに移動できるのは何とも有り難いことだ。

 

市政府前で降ろしてもらい、羅東行のバスを探した。台北発のバスというとつい慣れた台北駅前出発のバスを思い浮かべてしまうが、実はいたる所からバスが出ている。羅東は初めて行く場所なので、言われた通りに切符を買い、バスに乗ってみた。結構きれいなバスで、頻繁に出ているらしい。

 

1時間ちょっとで羅東のバスターミナルに着く。横には台鉄の駅もある。今日はここに葉さんを訪ね、台湾茶の歴史の教えを乞う予定だ。電話するとすぐに葉さんが車で迎えに来てくれ、自宅へ向かった。だが突然すべての通行が遮断されてしまった。何と台湾には今でも防空訓練があったのだ。最近台湾に来ても出会うことがなかったので、もうなくなったと思っていたのだが、私のスマホにすら訓練の知らせが出てきた。未だに中華民国は戦闘状態なのだ。ただ緊張感はまるでない。

 

この間は車の運転はできない。葉さんは途中のお店に入り、椅子に座り、私の時間を惜しむかのように台湾茶の講義を始めた。店の人も訓練中は仕方ないと思っているのか、なにも文句は言わない。お茶の壮大な?歴史の一端が幕を開けた。20分後に訓練は解除されたが、まだ講義はほとんど進んでいなかった。

 

それから自宅で延々話を聞き、資料をもらった。実はすでに彼からは郵送で膨大な資料が送られてきており、手が痛くなるまで全てコンビニでコピーしていた。今回はこれを返すのが目的だったのだが、更に多くの知識と資料を頂戴した。何よりも想像ではなく、文献などの一次資料に基づいて説明してくれるのが有り難い。勿論すべてを一度に消化するのは難しいが、まずは基礎を頭に叩き込む。

 

夕方まで話し込み、車で出かけた。宜蘭で奥さんが働いているのでそちらでピックアップし、夕飯に向かった。その食堂は宜蘭の地元料理を出すとのことで、わざわざ葉さんが連れて行って、ご馳走してくれたようだ。料理は普段あまりお目に掛からないような食材で作られ、とても美味しかった。宜蘭というのは、よほど裕福な土地だったのだろうか。

 

食後、宜蘭のバスターミナルまで送ってもらい、バスに乗り込んだ。行きと帰り、乗る場所は違うのだが、同じバス会社が運行している。実は台北と宜蘭は極めて密接に結びついている。特に新しい国道が出来た後、その便利さは格段に上がり、週末には台北から多くの観光客が温泉に浸かり、食事を楽しんでいるという。台北市政府前まで1時間で到着した。

 

それからMRTに乗り、予約した宿へ向かう。そこは林森北路と長安東路の角にあった。かなりきれいなに改装された宿で、個室は5階にあり、広いリビングがあった。今晩はお客が少なく、ほぼ独占できたのは嬉しい。ただシャワーとトイレが4階にしかないのはかなり残念。またタオルを借りると40元取られた。まあ静かだったので良しとして、シャワーを浴びてから寝込んだ。