上海・浙江美食旅2025(4)上虞に呉覚農を訪ねる

昼を過ぎていたので腹は減る。宿近くのチェーンレストランで鶏肉を食べようと入っていくと、何とキャフェテリア方式で食べたい物を取る。何だかよく分からないが、最後に無料ドリンクがあって、好感度高し!周囲で食べている人は従業員か宅配バイクの人ばかり、というのがかなり疑問だった。まあ鶏スープが飲めれば何でもよかった。

かなり疲れてしまい、午後は部屋で休息した。早めの夕食をとろうと思っていたが、午後5時頃激しい雨が降り出す。もう寧波で食事しなくてよい、というお告げかとは思ったが、最後にどうしても食べたいものがあり、雨の中、傘をさして一番近くの食堂へ向かう。何とその食堂はかなり込み合っており驚く。

私が頼んだもの、それは魚羹だった。ついでに紅焼肉も頼んで席に着く。メニューなどない、その場で素材を見て調理法で注文するシステムだった。予想はしていたのだが、当然一人では食べ切れない量だったが、食べたいのだから仕方がない。いやー、このとろみのある優しいスープが好きだ。小碗で何杯もお替りしたが、結局残した。それでも悔いはない。

5月17日(土)上虞に呉覚農を訪ねる

翌朝は晴れていた。宿の朝飯を軽く取り、宿を出て地下鉄で寧波駅まで行った。もう高鉄に乗るのも慣れてしまい、緊張感はない。今日は紹興東駅まで僅か40分の旅だ。まあ週末なので乗客は多いかと思っていたが、空席が結構あった。降りる時大量に人が乗って来たから、紹興や杭州から上海に行く人々がチケットを買ったのかもしれない。

紹興東駅で車を呼んだのだが、一向に見つけられず困った。ほぼスマホに表示された位置にいるのに車はいない。もしやと思い地下へ行ってみたが駐車場だった。結構困って上を見上げたら、駅の入り口は2階、行ってみるとちゃんと車が待っている。私の問題は登録している電話番号のシムを使っていないため、運転手が電話しても出られないことだと気づく。

車は郊外の何もない地帯を走っていく。そしてほぼ何も無いところに予約した宿があった。今日は田舎だからか、米系有名ホテルが意外と安かったので、泊まってみることにしただ。さすがに立派な宿で、しかもお客は多くないらしく、アップグレードされた部屋は相当立派で嬉しくなる。何より眺めが抜群。バスタブもあり、そこからの眺望もよい。勿論部屋は広い。スタッフがお菓子やフルーツまで持ってきてくれてテンション上がる。

そこで車を呼び、呉覚農故居へ向かう。かなり遠いようで車が来るか心配だったが、すぐにやって来た。そしてこの旅で初めて運転手から話し掛けられた。「日本から来た」と言うとすごく驚いて「私の車に外国人が乗ったのは初めてだ」と喜んでくれた。そしてこの上虞という街が「意外と消費レベルも不動産価格も高い。杭州などより静かでいいらしい」という。

呉覚農故居まで車で1時間弱かかった。さすがにここで車を返して良いか迷ったが、行ってみると豊恵古鎮という老街が出来ており、心配は杞憂だった。車が入れるギリギリで降りると住民がこちらを見ていたので「呉覚農故居」と言ってみると、すぐに向こうを指した。その先から老街が左右に広がっており、私はなぜか左に行った。そこから運河沿いに長い老街を歩いた。

予想外に雰囲気のある道、歴史的な橋などもあり、純粋に楽しめた。結局端まで行ってまた戻り、ようやく故居に辿り着く。家自体は閉まっており参観できないが、隣に記念館が建っており、時間外ながら開いていたので見学した。展示は先日上海で見たものとほぼ同じだった。ただなぜ呉覚農がこの街から出て全国的な指導者になったのか、その一端を垣間見たような気はした。この付近は100年以上前、紹興や杭州に繋がるこの川でかなり栄えていたのだ。

上海・浙江美食旅2025(3)寧波のお寺巡り

夜7時前に昨日とほぼ同じ場所にある海鮮麺屋に行ってみた。ところが店内は満員、ふと一席空いたのでそこへ座ろうと思って入ったが、店員から「まずは注文」と言われ、ボードを見て「精緻黄魚麺」にしてみる。豪華という更に上もあったが、どんなものか分からないので、まずは中から。席は相席で、若者がエビの皮を飛ばしながら、懸命に食べていた。

この麺、凄く具材が詰まっていて、椀からはみ出している。魚以外にエビ、貝、白菜などがのり、スープは白湯かな。とにかく海鮮の味がしみ込んでいて実に美味しい。全部食べられないだろうと思っていたが、何と完食してしまう。まあこれだけ混んでいるんだから美味いのは間違いない。寧波で海鮮は鉄板なのだろう。

5月16日(金)寧波のお寺巡り

朝から雨の予報だった。それでも私には行きたいところがあった。天童禅寺。実は39年前寧波で3日待ったが車が手配できずに行けなかった寺だった。あの頃は郊外に行くのに車しかなかった(いや実はバスはあったのかもしれないが、外国人が乗る感じはなかった)。ところが今や車は呼べばすぐに来る。しかしそれでは詰まらないと思っていたら、何と途中までは地下鉄が通っているではないか。

鼓楼駅から1号線に30分ほど乗って宝幢駅まで行く。昨日もそうだったが、寧波の地下鉄は空いている。空いているのだが、何と若い女性が床にしゃがみ込み、座席にバッグを置いて入念に化粧を始めたのには驚いた。周囲の女性も驚いていたから、これは特殊なケースだとは思うが、東京の車内で化粧が始まったのはいつだったろうかと記憶を巡る。

宝幢駅に到着。かなり郊外の駅だった。ここで車が来るかと呼んでみるとすぐに来た。そして天童禅寺まで20分ぐらいかかったろうか。最後の方で山路を入り、気分が出てくる。確かにここにバスで来るのは少し難儀かもしれない。何となく小雨が降る中、天童禅寺に到着した。そこから少し歩くと、入り口があり、観光客は観光車に乗って寺へ登るらしい。

私は傘をさして歩いて上り坂を行く。ゆっくりと味わいたかったのだ。涼しい風がほのかに吹く中、人が少なく静かな参道を上るのは何とも良い。傘で手がふさがっており、写真も撮らないのが尚よい。39年前、もしここに来ていたなら、どんな風景だったろうかと想像するのが良い。

約20分で、仏塔が見えてきて何とか寺までやって来た。今から1700年ほど前に出来たという寺の紹介には日中の有名な僧侶の名前が沢山出てきた。雨がしとしと降る中、まばらな観光客に交じり、雨を避けながら歩いていると静かに僧侶がやってくる。その静けさがたまらなく良い。久しぶりにお寺に来た、という感覚になる。山に囲まれた古びた建屋、大仏殿を拝みながら奥へと進む。如何にも禅寺といった趣がある。

寺から離れて、仏塔に向かう。ここに来る観光客はいなかった。千仏塔の説明には栄西が59名の僧と共に日本から巨木を運び建てたとある。その塔は明代に消失してしまったが、この辺にも日本との関係が窺われる。本当に山の中にある寺、そして塔。修行の場に相応しい佇まいと言える。

帰りは雨もやみ、ゆるゆると下っていく。途中にこの地域から排出された状元の人々の説明がある。往時この地はかなりの文化水準を誇り、中国でも一流の地だったことだろう。下まで降りていき、また車を呼ぶ。車はすぐに来たのでホッとして乗り込む。次は阿育王寺に向かう。ここは39年前にどうした訳か連れて行ってもらった場所だ。

阿育王寺は大きく変貌しており、寺の入り口すら分からなかった。とてもきれいになっており、私の記憶とはまるで違っていた。2000年頃大改修があったらしい。僅かに仏塔が80年代にあったとある。文革から10年ほどでは、多くの寺が破壊に遭い、修復もままならない時期だったことに思い至る。折角やって来たのだが、サラッと見学して横の門から車で地下鉄駅へ戻り、宿の方へ帰る。

上海・浙江美食旅2025(2)寧波散策

5月15日(木)寧波散策

朝は気持ちよく目覚め、全自動でカーテンを開けると、そこには素晴らしい風景があってテンションが上がる。外へ出て、川沿いを散歩している内に、橋を越えて向こう側に行ってみた。寧波の外灘と呼ばれるエリアで、租界地もあり、古い建物、立派な教会も建っていた。ここはアヘン戦争後、五大通商港のひとつとして開港され、そこにイギリスやフランスが居住した場所だった。

寧波は元々海運の街、寧波商人は海運の他、銭荘などで財を成し、新興の上海へ流れていって一大商人集団を作る。川沿いには銭業会館も保存されていた。これが上海の繁栄にも大きく寄与し、更に食の世界でも上海料理の原型に寧波料理が強く影響していると思われるのは、興味深い。宿の方に戻ってくると途中に「海上茶路啓航地」という大きな碑があった。明州(寧波)より、茶が東南アジアへ輸出されていった、と書かれているが、これはいつの時代の話しなのだろうか。

一方この碑の説明には、唐代に最澄がこの港から茶種を日本に持ち帰ったともある。その確たる資料は存在するのだろうか。その先を歩いて行くと、「道元禅寺入宋記念碑」という碑も置かれている。鑑真も唐代にここから日本へ渡っている。寧波と日本の繋がりは深いが、その実態を勉強していなかった不明を恥じる。

ここから車を呼んで「寧波菜博物館」へ行ってみる。そこは「南塘老街」という作られた観光地の中にあり、非常に簡単な展示内容で、寧波菜について深く知ることは出来なかった。仕方なく老街を歩いていると「袁牧之故居」と表示があったので、その隨園別単を書いた袁牧の生家かと喜んで行ってみると、何と袁牧之という映画監督・俳優の家で非常に驚いて退散した。

宿に戻ってチェックアウトしてホテルを替わった。歩いてすぐの定宿、しかしやはり冷蔵庫が無い。一応訴えると部屋を変えてくれたが、いちいち面倒くさいの、私の中で定宿認定を取り消さざるを得ない。まあ部屋自体は外が良く見えて申し分はないのだが、スタッフは「とにかくホテル評価を最高にして」と何度も言う。

昼ご飯は近くのチェーン店へ行く。紅焼魚飯という文字に惹かれて入ったが、やはりファーストフード感満載。ただスタッフの感じも良く、静かで清潔、特に問題はない。米にこだわっているとの表示が何となく日本人には嬉しいし、実際他のチェーン店よりは米の質が良いように思われた。

午後は寧波博物館へ行く。ちょっと郊外にあり、意外と遠い。そしてご多分に漏れず、建屋はデカい。寧波の歴史に絞って見ようと2階へ行くが、それでもかなりの展示があり、驚く。しかも鑑真から始まり、最澄、栄西、道元、雪舟、朱瞬水など、日本ゆかりの展示がふんだんにあり、勉強になる。円覚寺の無学祖元、建長寺の蘭渓道隆などの名もある。これだけいれば、日本との関係が浅いはずもなく、明治期に日本に渡った人々も少なくはないだろう。日本に留学後アメリカで医者になった中国人女性もいたとある。

さすがに疲れたが、近くに地下鉄駅があると分かり、歩いて向かった。10分ほど爽やかな風に吹かれていたら駅に到着した。この付近は立派な市役所などがある新興地帯のようで、歩いている人はほぼいない。地下鉄はキレイで乗り心地も良い。乗客も多くはない。一度乗り換えて天一閣へ向かう。この付近は旧市街地の古い建物が残っており、38年前の雰囲気を残していそうだったが、残念ながら記憶には全く引っかからなかった。

天一閣にも観光客が多くいて、広い敷地を一周してすぐに出てきてしまった。ただ周辺を散策すると、古い仏塔や倉庫など、ちょっと写真を撮りたくなる風景が広がり、楽しい。宿の方に戻ると、繁華街も見られ、観光客と地元民でごった返すエリアもあった。ただ寧波ご飯を食べるためには出掛けなければならない。

上海・浙江美食旅2025(1)39年ぶりの寧波で

《上海・浙江美食旅2025》  2025年5月14-22日

前編は「上海・江蘇美食の旅2025」。後半は浙江省に入り、寧波、上虞、杭州、上海を旅していく。ちょっと刺激があり、またちょっと疲れてゆっくりした旅となる。食事は麺が中心となり、胃袋の疲労感は半端ない。またいいホテルに宿泊して何とか凌いでいく。

5月14日(水)寧波で

寧波駅は実に39年ぶり。勿論全てが変わっており、キョロキョロするしかない。まずは地下鉄があるというのでその乗り場を探すが、表示が上手く読み取れず、まごつく。何とか地下に行くと切符売場に路線が5つぐらい書かれていたから、結構発展していることが分かる。ただ見覚えのある地名などは出て来ない。

取り敢えず2駅行く。そこから歩いて10分ほど、川にほど近い所の宿を予約していた。ホテル名からして昔からあると思っていたが、39年前にこの宿はあったのだろうか。かなりの高層ホテルだ。今日はちょっと広めの部屋を予約していたが、行ってみるとかなり広かった。よく表示を見ると25㎡ではなく、55㎡となっており驚く。ただ広いのだが無駄なスペースが多い。そして最近改修したのか、トイレが全自動であったり、湯沸かしが上手く使えなかったりと、なかなか厄介だった。

夕方寧波の街に飛び出した。まずは近所の天一広場を歩き、その近くにあるペルシャ関連の史跡を探した。だがなかなか見つからず、何とか石碑を探し当てるも、ほぼ文字が読めなくなっていて、歴史が埋もれていることを感じる。広場からちょっと見えた古めの教会へ行ってみたら、かなり荘厳で素晴らしい。だがここまで歩いてみても、私の中にあるはずの記憶は全く作動しなかった。

とにかく寧波に来たら、焼きそばを食べてみようと思っていた。それは東京で戦前、神田神保町付近に中国人が多く、中国料理店も多かったらしいが、その多くは寧波出身の料理人、経営者だったと「あんかけ焼きそばの謎」という本で読んだからだ。今も神保町に残る老舗数店は寧波人経営らしいし、そのあんかけ焼きそばも神保町で食べられていたようだが、私は中国で揚げ麺にあんかけが乗った焼きそばを食べた記憶はなかった。

ネット検索で海鮮麺などの店が集中している地区まで歩いてみた。古びた店舗で美味そうに鉄板で炒飯を作っている店があり、そこの焼きそばは美味いだろうな、想像したが、何となく海鮮麺の店に入ってしまった。メニューを見ると炒麺類に、鶏蛋肥腸があったのでそれを頼もうとしたが、何と麺の代わりに年糕でも作れると聞き、喜ぶ。昔上海留学中に餅が食べられると喜んだことが蘇る。勿論それは日本の餅とは少し違うが、それでもないよりはかなりマシである。出来上がった焼き年糕は、実に美味そうに見え、実際にその味付けが美味かった。日本人好みの麺類?ということだ。

食後もまだ明るいので散策。近所に国医堂という建物があり、薬関連の名前の道もあり、ここが中医薬などでも栄えたと分かる。川沿いに出ると、古い建物が並んでいる。その先には米系大型ホテルがひときわ高く聳えていた。川の流れがきれいで空も青く、写真写りがすごく良い。部屋に帰って暗くなると、夜景がきれいでこれもよい。ただ部屋が広過ぎて落ち着いて眠れない。

上海・江蘇美食旅2025(9)鎮江 西津渡を歩く

取り敢えず外へ出てみた。曇りでそれほど暑く感じられないので歩き始めた。すぐに古い列車の車両が見えてきた。なんだろう、この一帯はかなり整備された観光地のように見える。西津渡という古代からある鎮江の港が今、きれいに改修され、観光地化されていた。何となくフラフラっと入っていくと、なかなか面白いので進んでしまう。観光客も意外といて、食べ物屋なども開いている。

元代の石塔があるかと思えば、近代の教会もある。そしてずっと奥まで行くと、何と英国総領事館跡が開放されていた。10元払って中に入ると、思いの外多くの建物がきれいに残っていて驚く。これらの建物は少なくとも1876年には既にあったらしい。鎮江の地理的重要性が分かる。

実はこの建物群は全て鎮江博物館になっていて、一番端には現代的なモダンな建物も建っており、そこに展示がある。こんな大掛かりな博物館は恐らく見たことはない。外へ出て更に回り込むと、博物館の全容が見えたが、私の関心はその道の反対側になった広肇会館だった。中国国内でも同郷会館を見たことはあるが、ここに広東商人が来ていたことは、食文化的には重要なような気がするが、会館内に基本的に孫文中心なのは仕方がない。

何だか急に腹が減った。道で何度も見た鍋蓋麺を食べてみることにした。麺に何を入れるか、1つか2つかで値段が分かれるという。折角なので長魚と肥腸を選んでみる。出てきた碗にはかなり黒いスープに細い魚と腸、そしてコシのあるちじれ麺が入っていた。これが思いの外うまい。地元の酢が独特なのだろうか。38元、いい感じだ。

更に所謂老街が続いていたが、途中で川の方に行ってみる。38年前、上海から鉄道で鎮江に着いた後、昼ご飯を食べられずにそのままバスで長江を渡って揚州に入ったことは忘れられない。その渡し船はどうなったのかを見たいと思ったのだ。川沿いはキレイになっており、私が覚えている風景は見当たらない。川に船が浮いている感じもない。

遊覧船が出ており、そこにいたおじさんに聞いてみると、「よくそんなことを覚えているな」という感じで、「ずいぶん昔になくなったよ。今ホテルになっているところが渡しの場所だった」と懐かしそうに言う。そのホテルは結婚式などの大型宴会が出来ると書いているが、どれほど活用されているのだろう。とにかく川沿いの公園にはいい風が吹いているが、渡し船にバスまで乗って川を渡るなんて、やはり夢だったのかと思ってしまう。

宿へ帰って休む。休むというか、今日の目的は洗濯。1階のランドリーに行くとスタッフがサポートしてくれ、非常にスムーズに洗濯が進んだ。こういうサービスは私にとって実に有り難い。衣服はすっきりしたが、私の腹はすっきりせず、夕飯を食べに行くことはなく、ドリンクだけを買いに夕方外に出た。しかしやはり少し腹が減り、夜9時半に宿で提供される粥を食べた。意外と食べてしまい、また腹が重い。

5月14日(水)鎮江から寧波へ

翌朝、何となく腹が重かったのに、宿に付いている朝飯を食べてしまった。何とか体調をよくするため、また散歩に出た。最初は観光地区を歩き、庭園などを見ていたが、その内、中山路に出たので、昔の面影を求めて、広い道を歩いた。ただ特に目に付くものもなく、グルっと回っただけで宿に戻る。

車を呼んで駅に向かった。昨日は北口を見たので、今日は南口に回ってみた。こちらは更に発展していて、38年前の姿はみじんもない。駅自体は大きくなく、入り口で身分証チェックが無く、荷物検査だけで中に入ってしまった。中国も様々な改正が行われており、少しずつリーズナブルな対応になっている。

鎮江駅から列車に乗り、僅か30分で南京南駅に着く。ここで乗り換え口から出て、40分後の寧波行きに乗り換えた。駅にはランチに良さそうなファーストフード的な食事が並んでいたが、結局食べずに乗り込んだ。この列車はGの二けたで速い。停まったのは杭州東駅だけで2時間かからずに寧波に着いてしまった。

上海・江蘇美食旅2025(8)揚州から鎮江へ

5月13日(火)揚州から鎮江へ

今日もいい天気だ。部屋から外が良く見えるので、暑くなりそうだと分かる。揚州を離れる日なので、やっておくべきことを考えてみたが、まあ早茶を食べることぐらいしか思いつかない。所謂飲茶は明代の揚州が起源だと聞いたことがあったのだが、この地に来てもそういう話しは出ていない。ただ早茶、の文字はよく見かける。

揚州大学の門の前にあった早茶屋に入ってみた。何とものんびりした店内で、お客は多くない。おばさんは実に気のいい感じで好感度は高い。点心として五丁包(前回は三丁包)を頼み、主食を考えていると、麺にしろ、という。そこで目に着いたのが腰花煨麺で、思わずそれを注文した。

五丁包は三丁より何が二つ多いのかよく分からなかった。というか、皮が厚いので、食材の味がどうも口に伝わらない。一方煨麺の麺を一口食べてスープを飲んですぐに気が付いた。この麺のふにゃふにゃ度合、鶏のいい感じの出汁が出たスープ、これは香港などで食べていた麺だ。何でこんなところにあるんだろう。いや、元はこちらから香港や広州へ伝わったのでは、と頭が忙しくなる。まあご多分に漏れず麺の量は非常に多いので苦労する。

そこから車を呼んで大運河博物館に行ってみる。どうも気乗りがしなかったのだが、ちょうど時間があったので訪ねてみたのだが、これは完全な箱物行政で、郊外の広大な敷地にバカでかい博物館が建っている。車を降りてから5分以上歩かないと建物にも近づけない。そして何と入り口を見ると長蛇の列。まあゆうに40‐50分待ちだろうと思い、一気に萎える。周辺をちょっと散策して、また車を呼んで宿に戻ってしまった。

12時前にチェックアウトして車を呼ぶ。駅は先日の揚州駅ではなく、揚州東駅という反対側だった。鎮江まではすぐだったので、切符は手数料をケチってネットで買わなかった。ところが駅に切符売場が無い(正確には売り場はあるが人はいない)。慌てているとその辺のおじさんが「駅の中へ入れ」というので荷物検査を受けて入ると、何とインフォメーションで売っていた。いよいよ駅で切符を買う時代は終わり、小さな駅では効率化が始まったらしい。実際にはここで切符を買う人も稀で、その多くは変更などで立ち寄っていた。

高鉄はスムーズにやってきてスムーズに私を運んだ。日本の新幹線とほぼ同じような時間管理になっている。40分後に鎮江の駅に着いた。南口が中心のようだが、敢えて北口から出た。それは38年前上海から乗った列車を降りたのが北口だったのでは、と思ったからだ。北口周辺も当然きれいになり、完全に面影はなかったが、何となくここで腹を空かせて国営食堂を茫然と眺めている自分がいたような気になる。

当時の国営食堂の昼は11₋13時と決まっており、13時5分に着いた我々は完全に飯を食べ損ねた。そしてそのままバスに乗り?船に乗って川を渡って、揚州まで行ったのだ。今回はその川の近くに宿をとったが、車はあっと言う間にやってきて、あっという間に川近くに置いていかれた。

その宿は定宿チェーンだったが、入り口で猫が迎えてくれた。そして何となく猫が付き添ってくれている。眠そうにしているが、置物のように座っているかと思えば、ちょこちょこ動き回っている。よく見たら2匹いた。そして何とここの飼い猫だと分かる。チェーンホテルで猫を飼っているなんて、何となく家族経営の宿のようだ。

実は部屋に行くと冷蔵庫が無かった。暑さが増していたので困ったな、とフロントに行くと、すぐに部屋を変えてくれた。元のカギを持って部屋で荷物を整理していると、何とロボットが新しい鍵を持ってやってきた。新しい部屋はかなりアップグレードされており、広くて有り難い。

上海・江蘇美食旅2025(7)揚州 大明寺と東関街散策

5月12日(月)揚州散策2

朝はさわやかに鳥の鳴き声で目覚めた。朝飯は部屋についていないが、まだ腹は減らない。老化は本当に激しい。また園内を散歩する。そのまま外へ出て行き、大明寺を目指して歩き出す。約3㎞、38年前朝から何も食べずに、この寺を歩いて目指した光景が微かに思い出される。今は道も良く、木々が茂っていて日差しも遮られ、快適な散歩となる。この一帯も観光地としてかなり開発されている。

ゆっくり1時間ほど歩くと何とか大明寺に着いた。入場料が必要だが、全てスマホ(微信)で購入するシステムで人はいない。これまでは何度かトライして途中で断念、係員を探していたが、ついに一人で買うことが出来た。しかも半額券とは嬉しい。微信の使い方に慣れないと本当に中国では不便なので勉強しよう。

大明寺といえば鑑真和上。鑑真を祭る建物を建てたのは梁啓超の息子、梁思成というから、やはり日本とのご縁は深い。大きな塔も建っている。鑑真戒壇院という建物の中には回廊に多くの風鈴?が置かれ、風が吹くと何ともいい音を出している。38年前はどんな光景だったか、ボケが始まっている今やほぼ覚えがない。

帰りに唐代の遺跡を見て行こうと思ったが、ボーっと歩いていると反対に行っており、帰る方が近いからとそのまま宿に向かった。何とか11時に辿り着いたので、そのままレストランへ行き、念願の揚州炒飯を揚州賓館で食べられた。ここも量は多かったが、何とか完食。とろみのある豆腐スープも好みの味で感激。

12時に部屋を出て、また元の宿に引っ越した。揚州賓館は落ち着ける場所だったのだが、何だかちょっと寂しい。一方米系の宿は何となくネットが繋がりそうでもあり、バスタブもあったので(料金も比較すると安い)、面倒ながら引っ越した。38年前の回顧は一晩で十分だろう。

でもまだ元気だったので暑いのに外へ出た。少し歩くと交差点に文昌閣という古い建物がある。何だかタイなどにあるクロックタワーのように見える。更に進むと東関街という観光地で食わす。急に人が増え、にぎやかな通りで、両側には土産物屋や食べ物屋が並んでいる。今の中国、どこにでもある観光地だ。その中にいくつか古くて大きなお屋敷があり、塩商人などの邸宅が有料で開放されていた。

途中に門があり、謝馥春と書かれている。ここは老舗の化粧品屋さんらしい。その名前が如何にも良い。奥まで歩くと博物館のようにもなっており、揚州の老舗商店として現代でも存在感を放っている。道を川まで歩くと東関があり、そこで観光は終了した。ただ折角なので江沢民故居を探してみる。意外と分かり難い所にあり、探すのに苦労した。おまけに入り口が分からない。何と今日は月曜日で休館日と分かる。更に朱自清という人の故居にも行ったがやはりお休みだった。

横の細い道にはモスクがあるというので探してみたが、清真寺と書かれた場所はあったが、一般開放はされていないようだった。その道の名前が馬家巷だったので、もしやここは回族商人が住んでいた場所で、塩の取引等をしていたのではないかと思い当たる。ちょっと散策のつもりが気が付けば2時間以上歩いてしまい、陽が西に傾く頃、ようやく宿に戻った。

夜はさっき散策中に見つけたチェーン店へ。いい所でばかり食べていると量的にも厳しいし、何より揚州の人が何を食べているかよく分からないので、入ってみた。注文は微信だが何とかクリアーした。獅子頭はやはり美味しい。揚州湯包は薄い皮に豚肉と蟹味噌がとろけて、肉汁がたっぷり包まれている食べ物。これは台湾で食べる小籠包より美味いかも。でもうまく食べないと蟹味噌はすぐに外へ出てしまう。もう一つはエビワンタン。ワンタンが小さくていくつも入っている。スープがちょっと辛くて意外な感じが良い。ちょっとだけ夜景を眺めながら帰る。

上海・江蘇美食旅2025(6)茶社で食事 懐かしの揚州賓館へ

昼までの時間、部屋で休んでからチェックアウト。今日は朝から何も食べていなかったので、宿の2階の「茶社」で揚州名物を食べてみる。実は街中でも茶社という文字をよく見かけた。これは揚州独特の「茶楼」なのだろうか。歴史もかなり古そうで、メニューを見ると、本格的なレストランだった。スタッフの対応は実に良く、心地よい。

料理を頼むとお茶は自動的についてきた。花茶だろうか。料理は焼売と三丁包という点心、そして主食に淮揚煮干絲にしてみた。いずれも揚州料理だという。焼売は肉が入っていないタイプ、形は火口型。三丁とは鶏肉や筍の角切りを入れて蒸した包子。特に美味しいと感じたのは煮干絲。豆腐の細切りをスープで煮たようなものだが、このスープが実に味わい深い。淮揚菜はスープが良い。どんな風に作るのか、いつか勉強してみたい。

そのまま車を呼び、今日の宿へ移動した。揚州賓館!38年前、腹を空かせて辿り着いた宿だったはずだ。今回の目的はずばりここで炒飯を食べるという一点だったのだ。揚州賓館は1985年開業となっているから、私がここに来た1987年5月は確実に存在していた。ただスタッフによれば、本日宿泊する建物「万芳園」は1997年に建てられ、現在の揚州賓館では一番古いという。ということは全面改装されてしまい、もはや面影はない。ただ極めて広い敷地にちょっと思い出せるところがあるかもしれない。

部屋は一階で、広いが何もない感じは昔のような雰囲気でよい。冷蔵庫に無料のドリンクが入っており、更に無料のスナックがテーブルに置かれていた。スタッフの対応もかなりよく、38年前からの進化がが感じられた。まずは車を呼んで揚州博物館に行ってみる。ここは揚州駅に近いので5㎞ほど離れているが、日曜日でも車はスイスイ走るので良い。

何処もそうだが、ここの博物館も建物がデカい。揚州の歴史に絞って見ていくが、展示はかなりある。隋代の運河開通、そして明清代の塩業、南北貿易で栄えた街ということだろうか。勿論それにより食もかなり発達している。淮揚菜は長江流域の広い範囲を指すようだが、宋代には既に北方、四川と並んで中国三大料理に挙げられていたらしい。

博物館の横には湖があり、湖畔を散策する。ランニングする人、ショートトラックの練習をする人など、思い思いの週末だ。それにしても今日はかなり暑い。私も疲れが相当に出てきたので、車を呼んで宿へ帰る。宿で少し休息後、宿の敷地散策をした。とにかく昼ごはんから腹が減らないのだ。だが暑さのために途中で歩くのも大変になり、車を呼んで帰還してしまう。

宿で休息。夕方宿の敷地内を何気なく散策。ところがこれが驚くほど広い。途中からは痩西湖が登場し、趣園という歴史的な場所と一体となっているので、全部歩いていたら2時間ほどかかってしまった。恐らく38年前もこの湖のほとりで時間をつぶし、食堂が開くと同時に炒飯を食べたのだろうが、今やその面影は全くない。

結局この日は腹が減らず、夕飯を断念。レストランには行ってみたが、炒飯300gと書かれていては、とても食べる気にはなれない。明日は何とかトライしよう。夜日記などを書いていると少し腹が空いたので、部屋にあったお菓子を食べて寝る。庭園ホテルなので、蚊がいるようで何だかかゆい。

上海・江蘇美食旅2025(5)揚州菜博物館

かなりきれいなところで、かつ新淮揚菜だ。だが何となく美味しそうだったので入ってみる。スタッフの対応が実によく、スキャンで注文できない私のためにちゃんとメニューをもってきて説明してくれた。隣では老夫婦が食事をしていたが、色々と注文しており、やはり一人よりは二人の方がいいな、とは思う。

獅子頭はそのあっさりしたスープが予想以上に美味であり、これをスープ代わりにした。量もちょうど一人分で何とも有難い。だが最大の目的、炒飯はやはり難敵だった。スタッフも「さすがに一人では食べ切れない」と言っていた量。見れば日本の二人前以上はある。揚州炒飯は五目炒飯であり、更に創作料理の傾向もあるので、彩が良く何とも旨そうである。

揚州炒飯は一般的にパラパラ系。卵(ここのはかなり細かくしてある)、エビ、ハム、キノコ、鶏肉、干し大根、グリーンピースなどで構成されている。メニューにはちゃんと米350gと書かれている。非常になめらかな炒飯という印象。塩気も抑えめながら、味はしっかりしていて、旨い。日本の町中華より上品な印象だ。

満足して外へ出て川沿いを歩く。今やよくある川沿いにおしゃれなレストランが並んでいる。その先まで行くと、庶民の道が出てくる。色々な料理屋が並んでいたが、既に腹はパンパンで何も入らない。ローソンでドリンクだけを買う。揚州城跡もあり、この辺が昔の中心だったようだ。少し行くと揚州大学もあり、食堂が並んでいた。

部屋は快適で、バスタブもあるのでゆったり過ごす。テレビでは陸上の世界リレー予選が放送されていた。広州で開催されているようで、中国チームも男子4X400mで奮闘して決勝に残ったが、なぜか日本チームは登場しなかった。代わりに4X100mリレーでは今季世界最高で予選を通過した。

5月11日(日)揚州散策

朝はまた腹一杯状態だった。朝食抜きの予約でよかった。取り敢えず淮揚菜博物館というのを見付けたので車で行ってみた。揚州は運河がいくつもあり、その大きな一つに沿って車は行く。着いてみると完全な観光地で驚く。今日は日曜日で、かなりの人が見学に来ている。広い敷地にはレストランなどもあるようだ。この博物館は塩商人として活躍した蘆氏一族の住居などの跡に作られたらしい。

揚州や淮揚菜の歴史がかなり詳しく展示されており、見ごたえがあった。揚州の歴史は古く、よって料理の歴史も古い。ただ最盛期は明、清代であり、それは塩業によってもたらされている。また大運河があり、交通の要所であるから、各地の人々が行き交い、各地の料理が流入している。飲茶の起源も揚州と言われていたが、ここにはその展示はなかった。

博物館を離れ、運河沿いを歩いてみる。公園になっており、気持ちの良い風が吹く。その先を曲がると店が並んでいる。揚州の茶、「緑揚春」などという文字も見える。そこには「何園」という、やはり塩で財を成した一族の屋敷跡があった。当然ながら財を成すと子女教育に力を入れ、洋務運動後は上海への投資なども行っていたらしい。こういう家が揚州にはいくつもあったはずだ。敷地は相当の広さがあり、観光客も多く、疲れてきて回り切れずに外へ出た。もう歩く気力もなく、車を呼んで宿へ避難した。

上海・江蘇美食旅2025(4)上海人民公園から揚州へ

5月10日(土)体調不良で揚州へ

朝は起き上がれなかった。何とか立ち上がったが、今日揚州まで行けるのか心配になった。朝食もパスして寝ていた。ただ消化が追い付かなかったというだけだったので、その後何と立ち上がり外へ出てみたら、いい天気で少し暑さを感じるほどだった。天津路を西に行く。旧上海エリアには今も横丁が残されているが、いくつかの道は封鎖されており、入れなかった。

南京路は相変わらず観光客が多く歩いている。今日は土曜日だから上海人の子供連れもいたかもしれない。まあ30数年前の喧騒に比べれば今は歩きやすい。人民公園も懐かしい。ここで留学中ボーリングをしたのを思い出した。昔は競馬場、戦後も娯楽施設があったのだろう。その前に国際飯店があった。ここには北京料理があったはずだが、入り口のボーイは知らなかったので、自ら2階に上がり確認したところ、北京の豊沢園と提携した店がそのまま残っていた。次回はここで食べてみたい。

上海博物館に行った。建物はジョッキークラブの物を使っていた。博物館はかなり広く、時間があまりないので上海の近代史だけを見た。休日で多くの人が来ており、なかなか見るのが大変だった。上海開港から茶貿易、洋行といったテーマの展示はあまりなく、必要な情報は得られなかったが、何となく楽しい。

12時前に宿に帰り、チェックアウトして地下鉄に乗り、上海駅に向かった。勿論駅は変わっていたが、前の広場を見ていると、あの夜中3時に寧波から戻った時の暗い様子や66時間乗って昆明に行った時のことなど、40年近く前の光景がつぶさに思い出されてきて、自分でも驚いてしまう。今や高鉄は虹橋が中心だと聞いた。ホームへ降りると、反対側には懐かしい旧式の寝台列車が停まっており、何となくあっちに乗りたい気分に襲われる。

列車は超満員で立ち席まで売られていた。私はネット購入したら、真ん中のB席でやだなと思っていたが、仕方がない。そこへ夫婦が乗り込んできて私の両側に座ったので、通路側の席と交換出来てラッキーだった。といっても旦那の方はスマホで音を出して何かを見ており、貧乏ゆすりもあり、更にはヒマワリの種をボロボロこぼしながら食べるのでいい迷惑だったが、これまた仕方がない。

列車は38年前に走った蘇州、無錫、というルートではなく、北側の新しい?ルートだったので、張家港や常熟など知ってはいるが行ったことがない都市をいくつも通過していく。結局かなりの田園地帯を走り、時々川を越えて、何とか揚州駅まで辿り着いた。前回は鎮江駅まで行き、そこからバスに乗り、船で川を渡った旅だったので、かなりの変化だった。

駅前で車を呼び、予約した宿へスムーズに行けた。最近定宿も飽きたので、今回は米系の宿を使ってみる。米系といっても、お客の多くは中国人なので英語を話すわけでもないが、部屋もきれいでバスタブもあり、居心地は良さそうだ。もう夕方5時を過ぎており、朝から何も食べていない。

まあとにかく腹が減っていた。これは38年前と全く同じだった。そして食べたいものはやはり揚州炒飯だ。宿を出て周囲を見渡すと大きなショッピングモールがあったが、こういうところは地元民が地元以外の料理を食べる所なのでパスしてその向こうへ出ると、川が流れている。階段を下りて川レベルに来ると、ちょうど淮揚菜と書かれたよさそうなレストランがあった。