極寒北京旅2023(2)懐かしい北京

取り敢えず空港タクシーに乗る。本当はアプリで呼びたかったが、待ち合わせが難しいと聞いていたので、仕方なく乗る。年配の女性運転手だったが、訛りが酷くて半分も分からなかった。真っ暗な中、車は何となくいつもと違う道を進んでいるような気がする。コロナで4年ぶりの入国だから景色も変わっただろうか。予約した宿に着くと、料金は100元近くなっており、更に運転手はチップをくれてせがむ。もうこういう時代遅れな運転手は空港ぐらいしか商売できないのだろう。

宿に入ると、『昨日は金曜日で本当に満室だったので、まだ部屋の準備が出来ていない。午前9時にもう一度来て欲しい』と言われる。日本だったら午後3時に来てくれだから、やはり中国のサービスは良い。荷物を預けてカフェにでも行って待つことにしようと外へ出た。まだ零下6度の表示、夜明け前の街だが、何故かそれほど寒さを感じない。

懐かしい亮馬橋までやってきた。この辺にマックがあるのだが、何となく地下鉄に乗りたくなり、駅へ降りていく。自販機で切符を買おうとしたが、何と身分証をかざさないと買うことが出来ない。仕方なく窓口を探して買う。駅名を言わないといけないので、思いつくまま国貿と言ってしまう。北京市民はQRコードで乗車しているらしい。

さすがに土曜日の午前7時前。地下鉄は空いていた。老人が多い気がしたが、彼らはほぼマスクをしていた。コロナに加えてインフルも流行しているとの話があったが、チェンマイでマスクをしなかった私はそのままにしていた。国貿で降りて、中国大飯店のロビーを通り、懐かしいその辺の道を歩いてみた。勿論ビルは変わっていないが、店などは大きく変わったように思われる。

歩いていると少し寒さを感じてきたので、急いでマックに入った。朝食セットとして、お粥とマフィンがあったので、それを注文してゆっくりと食べた。ダラダラしていると宿に戻る時間となり、また地下鉄に乗って戻る。何と小雪が降り出した午前9時過ぎ、無事にチェックインして部屋に入り、とにかく疲れたので寝ることにした。

11時半に部屋を出てまた亮馬橋方面へ向かう。燕沙から歩き、光明飯店まで。25年の昔毎日のように歩いた道だった。勿論今や立派なビルが並んでいるが、その道自体それほど変化はない。光明飯店は当時オフィスがあった場所であり、私が中国を学んだ辛く厳しい学校だった。3階に行ってみると、全く雰囲気は変わっていたが、建物の構造は一緒なので、何となく懐かしい。

地下1階に何軒かの日本料理屋が入っている。その中の一軒でTさんと会った。そこにはMさんも同席していた。この店はTさん経営であるが、コロナ禍を潜り抜けるのはさぞや大変だっただろう。そんな話やら、旅の話しやらを長々としてしまった。立派な天丼もご馳走になった。

夕方の北京は風も出てきて、寒くなっていた。また地下鉄に乗り、10号線、1号線、4号線と乗り継いで、西四駅で地上に上がると、既に暮れかかっていた。何だか懐かしい北京の下町風景が蘇る。高層ビルやきれいなショッピングモールではなく、20₋30年前の古き良き北京がそこにはあった。

今晩はKさん、Iさんと砂鍋居で食事となった。この店に来たのは10数年ぶりだろうか。以前から西側にはあまり来ないので随分とご無沙汰した。砂鍋白肉など美味い食べ物がいくつも出てきて嬉しい。やはりこの濃い味付けが無性に食べたくなる時があるのだ。白菜と辛し、ナス炒め等、何気ない物が特に美味いと感じられるのは、少し感傷的になっていたからだろう。

Kさんはコロナ禍の4年ほど、北京から動かなかったようで、さすが北京好きとは思ったが、その実は相当大変だっただろう。Iさんはコロナ禍に北京に復帰していたので、これはちょっと驚いた。私は南方人なので、決して北京が好きだとは言わないが、北京に良い所がいくつもあるのは知っている。帰りはKさんに車を呼んでもらい、宿へ戻る。

極寒北京旅2023(1)緊張の北京入国

《北京2023》  2023年11月25₋28日

チェンマイからどのルートで帰ろうかと検討した。バンコク経由を避けると、北京経由が浮上した。しかも中国に行くにはビザ取得が必要になった中、何故かトランジット入国という制度があることを知り、試してみることにした。しかし30度を越えるチェンマイから零下の北京へ(日本を出る時は想定していなかったので冬服は持っていなかった)。果たして入国できるのか、そして寒さに耐えられるのか。

11月25日(土)緊張の北京入国

ちょうど北京時間午前零時、エアチャイナはチェンマイ空港を飛び立った。お客はたぶん半分もいなかった。やはり中国人観光客が戻っていない、は本当だったということか。離陸前、CAがあたふたとやってきた。何と私の通路の反対側の席で雨漏りが発生した模様だ。どうやら乗客が荷物に液体を入れており、それが漏れたらしい。

私はもう眠くて仕方がない。飛び上がるとそのまま寝てしまった。2時間ぐらい経ってトイレに起きると、既に食事は配られ、皆食べ終わっていた。フライト時間はわずか4時間ちょっと、1時間前になると機内が明るくなる、するとCAが飛んできて『あなた、ご飯食べなかったでしょう?今食べる?』と聞いてくる。

それを断ったが、2分後にはもう一人がまたやってきて食事を勧める。更には男性がやってきて『大丈夫ですか?北京は零下8度ですよ』と声を掛けてきた。こういうおせっかいはある意味ではうっとうしいのだが、決して嫌いではない。某国航空会社のルール重視のサービスよりは余程好感が持てる。

午前4時に北京空港に到着した。チェンマイの夜との気温差は約35度。空港内はしんと静まり返えっていたが、寒さはあまり感じない(ウルトラライトダウンの下にヒートテックなどを重ね着している)。とにかくトランジット入国の許可をもらわなければならないが、その表示があるものの、場所が分からず、入国審査場まで行ってしまう。実のその前を右に行ったところにちゃんとしたカウンターがあったのだが、気が付かない。

カウンターにはヨーロッパ系の観光客が数人並んでいた。既にこの入国方法は144時間ルールとして、知られているようだ。一人一人意外と時間が掛かる。よく見ると私の前には日本人もいたが、何と宿泊先を答えられずに、バッグの中を懸命に探している。私の番が近づき、緊張が高まる。

20分ぐらいで私の番が来た。東京行きのチケットとパスポートを渡すと、『北京の滞在先は』と聞かれ、スマホアプリで予約画面を提示したが、予約だけで支払いがまだだった。『なぜ支払わないのか』と聞かれたので喉元まで『入国できるか分からないから』と出かったが飲み込み、支払いを行う。ところが支払いが出来ない。これには焦ったが、その後何とか出来て、無事に臨時入境証シールが貼られた。

そこから入国審査に進み、午前6時前には無事北京の地を踏んだ。まずは預け荷物を回収したが、完全に1つだけポツンと放置されていた。外へ出たが、荷物も大きく、電車に乗る勇気もない。飲み物が欲しくてローソンを見付けて、ポカリスエットを買って飲んだ。ようやくホッとした。

周囲を見渡すと以前は沢山あった銀行の両替所が一つも見当たらない。インフォメーションで聞いてみると、何とこの入国フロアーには両替所は全くなく、1階上の出国フロアーに僅かにあるだけだという。これは中国国内では現金がほぼ使えない状態であり、中国人が海外へ行く場合の両替だけが必要だと暗に言われているようなものだった。

チェンマイ滞在記2023その2(6)7 劇的な再会、そしてチェンマイを離れる

そこから何故かトボトボと歩いて、セントラルデパートまで行く。道は一本だが、思ったより遠くて疲れた。どうしても寒さ対策が不足と考え、再度ユニクロでパーカーなどを購入した。きっとどれだけあっても不安は解消できないが、ないよりかなりマシ、という感じだろうか。帰りがけにはちばんラーメンに寄り、久しぶりのラーメンを食べる。ちょっと体調が不安な時に一番いい食事だが、チェンマイでは食べる機会にあまり恵まれない。

ちょうど帰宅ラッシュ時に当たってしまい、初めてGrabもBoltも呼んでも来てくれなかった。仕方なく、さっき来た道を歩いて帰ることにした。少し行くと、日本領事館の看板が見えた。今後もお世話になることはないと思っているが、初めてその位置を確認する。夕日が落ちる中、ゆっくりと歩いたが、それでも足が痛くなる。もう明日はチェンマイを離れるのだから、夜は荷物の整理に勤しむ。

11月24日(金)

チェンマイを離れる直前 劇的再会

ついに2か月の滞在を終え、チェンマイ最終日を迎えた。部屋の片付けを完了し、残ったクッキーなどで朝食を取る。荷物のパッキングは意外と簡単で、どんどん進んでいく。そして昼にチェンマイ大学へ向かった。入院中だったPさんが復帰しているというので帰国前に挨拶に行った。色々な話が出来、元気そうでよかった。

夕方宿の人に精算を頼むとこれまた至極簡単に終わった。そして来年の予約も行ってしまった。来年はここでもっと長く過ごしたいと考えている。最後の晩餐はジョークだった。やはり体調が万全ではないため、体に優しい物を選ぶ。ボリュームたっぷり、美味しいジョークには本当に助けられた。

何と空港に向かう直前、ジュジュから連絡があり、彼女のお父さんと会うことが出来た。お母さんが腰痛で来られなかったのは残念だったが、まさかこのタイミングで話が聞けるとは何とも有難い。時間もないので、国民党軍の動きと、ワーウィの李さんの話などを掻い摘んで聞いてみた。当然ながらその辺の歴史は良く知っているので、明快な答えが聞けて喜ばしい。これでまた来年、更に調べを進めることが出来そうだ。奇跡的な再会に感謝する。

すぐに宿に戻り、荷物を整え部屋を出た。鍵は中に置いておけばよい、というのは何と有り難い。これで午後8時過ぎまで部屋が使えた。車を呼び、慣れた感じで空港へ向かう。夜の空港は初めてだったが、韓国のLCCの乗客が溢れていた。その横のエアチャイナへ行き、緊張のチェックイン。スタッフも何度も書類を確認していたが、何とかトランジットOKが出た。

それからシムカードを購入。今回まさか北京に寄るとは思っておらず、シムを用意してこなかった。それでもAISのカードが使えるというので試してみることにする。出国審査には誰も並んでおらず、すぐに通過できたのは良かった。もうあとはフライトを待つばかりとなり、寂しさが増す。それにしても極寒の北京を思うと、身震いする。

チェンマイ滞在記2023その2(6)6 新しいカフェ

11月22日(水)ミアンと観光2

今日はSさんの授業が終わる頃、チェンマイ大学で待ち合わせた。語学系の校舎まで歩く。何しろチェンマイ大学のキャンパスは広い。私がいつも行く校舎からも随分と離れている。折角なので歩いて行ってみると、途中に懐かしい風景が広がる。以前の滞在で訳も分からず歩いていた道だった。その向こうにキャンパスが見え、そこが正門だと初めて知る。

そこから歩いて5分ほどで目的地に到着した。この校舎には孔子学院の文字が見える。通っている外国人も、普通話があちこちで聞こえ、中国系が多いように思われた。Sさんと合流し、更にお知り合いのタイ人の先生とも会い、彼の車でキャンパスを出た。それにしてもSさんは一体どれだけの人を知っているのだろう。

車は何とワンニーマンの近くに戻り、ガイヤーンやソムタムを食べた。こんな近くにいい店があるのを知り嬉しい。有名店らしく、外国人も含めて満席状態だった。そこからまた車に乗り、少し郊外のカフェへ行く。大きな木の下にカフェがある感じが良い。チェンマイは少し郊外に出れば自然が味わえる。

ここでコーヒー入りのレモネードを飲む。最近カフェも色々と工夫がある。そして観光学が専門の先生から色々と教えてもらう。ミアンについても『タークではミアンの消費が多く、砂糖を入れて食べる』など貴重な情報を得た。是非彼と一緒にタークへ行きたいが、何と来週彼はチェンマイを離れ、中部の大学に転勤するという。一期一会かな。

11月23日(木)新しいカフェへ

今朝は早めに目覚めたので、早めに散歩に出た。お堀の周辺を歩き、教えられたタイヤイ人(シャン人)のお寺へ向かう。私にとっては、どれがタイ人の寺で、どれがタイヤイ人の寺かなど、皆目見当がつかず、いつも通り過ぎていたところだった。中は意外に広く、古めかしい仏塔がなかなか良い。幼稚園が併設されており、朝から元気な声が聞こえてくる。

更に進み、ターペー門を曲がり、懐かしのカフェへ行く。ここは1年前の滞在でクラブサンドイッチを食べた店だった。看板のメニューを見ると、軒並み料金が値上げされており、クラブサンドイッチのモーニングも20バーツ上がっていた。まあ、居心地の良い店なのでよいが、何だか朝から散財した、という感覚だ。

チェンマイの朝は20度台でとても涼しく、いい気候だ。これから行く北京を検索してみると、零下の寒さ。何とか寒さを凌がなければと思いながら、散歩を続ける。チェンマイの街中もロイクラトーンの祭りの準備で徐々に盛り上がっている。私はその祭りの3日前にこの地を離れる。何で、とよく聞かれたが、実はあまり興味がないだけなのだ。

午後またお堀端を歩く。今度は宿にかなり近い。そこに、あのメーサローンビラの娘、ジュジュがカフェを開いたと聞き、訪ねてみた。彼女とは今回の滞在では会っていなかったが、着々と準備を進めていた。そのカフェは大通りからちょっと入ったスペースで、お茶を飲めるし、テイクアウトも出来るし、しかも茶葉も販売していた。

ここでお茶を淹れてもらって飲んでいると、シンガポールから来たというお茶好きが立ち寄り、自ら蓋碗で茶を淹れて味わっている。ジュジュも華語が普通にできるので会話もスムーズだ。メーサローンのお茶の味も随分向上しており、日本のコンテストにも出品して賞を取ったと聞くと、何となく嬉しくなる。

チェンマイ滞在記2023その2(6)5 ランプーンへ

11月20日(月)ミアンと観光

昼までグダグダ。外へ出ると日差しが強い。今日は気になっていたミャンマー系料理を食べに行く。おかずを適当に選び、ご飯と共に皿に乗せてもらい、一気に掻っ込むスタイルだ。スパイシーな物を避けると料理は限られるが、これで50バーツは安い。店員の少女は顔にタナカを塗っているので、ミャンマーから来たのは間違いない。

午後はSさんの紹介で、元チェンマイ大学の観光学の先生と会った。ここもまたおしゃれなカフェだった。ミアンの話を持ち出すと、大変興味を持たれ、『観光の観点からもミアンの歴史を掘り起こし、現代に繋げることには意義がある。何しろミアンはランナー王朝を象徴する食べ物の一つだから』と言われ、勇気づけられた。確かに今やタイ人も知らないミアン、そしてその歴史について、それほど研究されていないのであれば、それは損失だろうと感じる。

夕方、今回チェンマイに来て最初に入った食堂の前を通りかかり、フラっと入ってしまった。チャーハンと空心菜炒め、何とシンプルな夕食だろう。そしてこういう食事が簡単にできる日も残りわずかとなり、少し悲しい気分になる。チェンマイに居ると次に踏み出す勇気が薄れていく。

11月21日(火)ランプーンへ

今日はSさんのアレンジで、チェンマイ郊外の旅へ向かう。車はSさんの知り合いのタイ人が運転してくれる。彼は留学経験があるようで、日本語を解するので有難い。向かった場所はランプーン郊外。実は私が検索して見付けた変なお寺へ行ってみることになっていた。北タイでは珍しいヒンズー寺院との触れ込みだったが。

車は1時間ちょっと走る。かなりの田舎へ来た感じ、更に坂を上ると入口が見えた。しかし中へ入ってビックリ。まるでテーマパークかと思うような、千手観音などの仏像などが並んでおり、思わず写真を撮る。ネットで話題だったのは、この風景だったのだ。お寺の本堂はどこにあるのか。

長い階段を上っていくと、そこにヒンズー寺院にしては少し奇妙な建物がある。その横には仏教の仏像も鎮座している。女人禁制の文字も見え、ここが仏教寺院であると判断できる。一応事務所で聞こうと思ったら、案内人の僧侶が来てくれ、室内を見学した。本堂はかなり広く、そこに多くの仏像が安置されている。聞けば20年前に出来た新しいお寺で、宗派といったものはなく、国際的に宗教の枠を超えた活動をしているとか。こういうのを新興宗教というのだろうか。

お寺を離れてランチへ。運転手君はランプーンの日系企業で働いていたこともあり、日本人に好まれるカオソイの店に連れて行ってくれた。確かにスパイシーではない、ラムヤイ入りカオソイで美味しく頂く。それにしても天気はいいし、外は気持ちが良い。ついでにランプーンをちょっと散歩することになる。ランプーンには以前2度ほど来たことがあるが、それはSさんの花園があったからだが、そのSさんももういない。

街中に入るのは初めてかもしれない。ワットパタタリプンチャイという古い、とても立派なお寺へ行くと、ロイクラトーンの飾りがきれいされている。お参りするタイ人も多くいる。いい天気の中に仏塔が映える。寺の前にはきれいな公園もセットされており、女性像が中心にある。

チェンマイ滞在記2023その2(6)4 アカ族の現代的な結婚式

そこから車で少し行くと教会の施設があった。今日はここで結婚式がある。既に施設の外にはたくさんの人が集まっており、奥さんとお母さんは、民族衣装を着たアカ族の親族を見付けて、抱き合ってすごく喜んでいる。今日は普段出歩かないお母さんのために、ここに来たのだとよく分かった。

それにしても現代的な雰囲気の結婚式で、山岳民族的な要素は少なかったと思う。当たり前だが、今の若者が好みそうな演出、式も日本の結婚式とそんな違和感がない。食事も所謂タイ中華で、民族色は特になかった。時間的も意外とあっさり終了する。これからは伝統的な村の結婚式ではなく、都会で式を挙げ、タイ人らと同じようになっていくのだろうと強く感じる。こういうのが『同化』ということだろうかと思ったが、まあそれでよいのかもしれない。外にアカ族の大ブランコがあり、子供たちが楽しそうに乗っていた。

チェンラーイの有名なカフェがあるというので、帰りに寄ってみる。入場料が60バーツ掛かるが、ドリンクを飲めばほぼ無料な感じ。何といっても植物がふんだんに植えられ、如何にもインスタ映えする演出のある園内。外国人を含めて実に多くの観光客が訪れていた。こういう観光スポットがどんどんできているタイ。帰りも3時間かかったが、チェンマイまで送ってもらったので、楽に戻り、あまり疲れはない。

11月19日(日)Sさん登場

先日静岡でお世話になったSさんがチェンマイにやってきた。彼女は旅行者ではなく、何と留学生として1年滞在予定だという。既に住居と車の手配を終え、さっそうと車を運転してやってきたので驚いた。誰とでも仲良くなれる、すぐにサポートしてくれる人が見付けられる、実に羨ましい人だった。

車でちょっと郊外へ行く。そこにはSさんがお世話になっている人の実家があり、そこで食事をした。その際、東京へ帰るフライトチケットの印刷をする必要性を思い出し、尋ねてみると、『この家で印刷すればよい』と言われ、プリンターを動かしてみるも、なぜかできなかった。ここからSさんの機動力が発揮され、大きな道路沿いにコピー屋があるとの情報で、その店へ行ってみたが、閉まっていた。

実はそのすぐ横にセラドン焼きの店があり、Sさんは常連であるかのように入っていき、印刷を頼んでいる。店員も親身になってくれたが、印刷は実現せず。その間セラドン焼きを眺めていたが、家で使いたいようなカップや皿が並んでおり、如何にも日本人好みだった。ガレージセールのようなお値打ち品もあった。

仕方なくセントラルデパートへ行く。ここにSさんの知り合いがやっている印刷ショップがあった。何という幅広いネットワーク、僅か30バーツでついに印刷が完了した。今はスマホ表示の時代、印刷は流行らないようだ。ついでにユニクロへ行き、極寒北京用にウルトラライトダウンなど冬服も買い込み、任務完了。

最後に自然に囲まれたおしゃれなカフェで、心地よい風に吹かれながらお茶を飲み、久しぶりに濃厚なチョコレートケーキを食べる。チェンマイに住んでいても、こういうカフェに入ることはない私。これもひとえにSさんのお陰。チェンマイに来てくれたことに感謝だ。もう少し早く来てくれればよかったのに。

チェンマイ滞在記2023その2(6)3 再びアカ族村へ

さあ、帰ろうと思ったが、車はまた別の山へ登っていく。コーヒーで有名なドイチャーンだった。ワーウィはコーヒーチェーンの名前に使われているのだが、実は一度もコーヒーの木を見なかった。全てはドイチャーンのコーヒーを使っているというのだが本当だろうか。取り敢えず上に登り景色の良いカフェでコーヒーを頂く。それからドイチャーン珈琲の工場へ行ってみる。何となくここは以前来た記憶があった。

更にドームは車を走らせ、夕日がとてもきれいな場所へ連れて行ってくれた。確かに天気も良く、インスタ映えしそうな別荘地帯だった。今タイではこういう場所に宿泊して写真を撮るのが流行っているらしく、若者が車やバイクでやってきていた。陽がとっぷりと落ちていく中を車は帰路に就く。途中のメーカチャンに老舗茶荘があったのだが、勿論既に閉まっていて、行くことは出来なかった。そこから約2時間、何とかチェンマイに帰り着く。ああ、疲れたが、楽しかった。

11月16日(木)再びアカ族村へ

昨日は日帰り旅で大いに疲れた。午前は休息してから、ランチに出て行く。ちょっと気になっていた店、そこにパスタのようなものがあったので入ってみた。するとセットメニューがあり、何だかオムライスととんかつのようなものが見えたので、それを指さす。僅か99バーツだったのでてっきり少量のセットだと思い込んでいたが、出てきてビックリ。これはとても食べ切れない、学生用のような量だ。それを無理して完食してしまう。もうこれは夕飯もいらない状況だった。

そんな午後、今日も出掛けていく。一度訪ねたアカ族の村へ向かう。前回はメージョー大学まで苦心してソンテウで行ったが、今回はBoltを呼んでみる。勿論ソンテウに比べれば料金は高いが、目的地まで難なく行ってくれるので、何とも有難い。村へ行くのではなく、メージョー大学の横で下車した。

そこにはHさんの奥さんがやっているカオソイ屋があった。午後3時頃でお客はいなかったが、久しぶりのHさん夫妻が迎えてくれた。更にプラーオからKさんも来られて、3人で隣のドリンク屋からドリンクを調達して話を始める。途中でカオソイが登場、スパイシーではなく、予想以上の美味しさで、先ほどの満腹を忘れてまた完食する。

夕暮れ時、近くの市場へ出掛けた。お寺の境内を使ったかなり大きな市場で驚いた。野菜や果物、総菜から服や靴、果てはペットまで何でも売っている。我々は今晩のご飯として、Hさんお勧めの、エビのかき揚げなど何品かを買い込んで帰る。Hさんの家に着くと、それを食べながら、また話を続けるが、明日は早朝4時半起きということで、シャワーを浴びて早々に寝入る。

11月17日(金)アカ族の結婚式にチェンラーイへ

翌朝は4時過ぎには目覚めた。勿論辺りは真っ暗だ。5時には家を出発。奥さんのお母さんも乗っている。我々男三人は、仲良く後ろで揺られていく。すぐにセブンに寄り、ドリンクを調達すると、その後はまっすぐにチェンラーイを目指す。この道は一昨日走った道だったが、ノンストップで進む。

午前8時にはチェンラーイ市内の少し先まで走って、車は止まった。今日は天気が曇っており、20度ほどしかなく、肌寒いと感じるほどだった。朝ご飯として、クイッティアオを頂く。温かくて実にうまい。この麺屋もアカ族経営で親戚のようだった。幼い女の子は既に結婚式に行く服装ではしゃいでいる。なぜか店から向こうに大きな大仏が見える。

チェンマイ滞在記2023その2(6)2 ドイワーウィへ

11月15日(水)ドイワーウィへ

今日は先日のドームにお願いして、ワーウィに連れて行ってもらうことにした。ここも国民党残党の村の一つ。そして珈琲チェーン店で有名?だが、烏龍茶作りも行われていると聞いていた。朝迎えに来てもらい、車に乗り、チェンラーイ方面へ向かう。1時間半ぐらい行くと、道路脇に温泉がある。

この温泉には寄ったことがあるが、私がトイレに行っている間に、ドームは卵を買い、温泉たまごを作り始めていた。周囲にはかなりの観光客が来ており、朝のこの時間は多くのツアーがここに寄り道することを知る。ドームは何と20個もの卵を茹でていた。実は温泉は道路脇だけではなく、奥にも続いていることを発見。横にはミニアンコールワット。

チェンマイから3時間ほど行くと、山に登る道に入る。そのあたりに大きな池があり、極めて景色が良いので、写真を撮る。メイスワイダム、と書かれている。メイスワイも時々聞く地名だったが、茶畑はあるだろうか。きれいな花は咲いている。そこから20分ほど登っていくと、突然茶工場が現れた。表には茶葉が干されている。そして中では製茶機械が勢いよく回っている。台湾辺りで見かけた製茶作業だった。

ここで製茶を見学するのかと思ったが、また車に乗り30分、ようやくワーウィ村に入った。万偉というのが中国語名のようだ。村の入り口には高級中学(高校)もあるから、かなり大きな村なのだろう。だが車は村には止まらず、更に4㎞ほど登っていく。そこにもう一つの老李村があった。

そこはリゾートホテルといった感じで、広い庭があり、花が咲き乱れていた。更に進むと、一面の茶畑を見下ろすことが出来、何やら文字も見えている。茶畑の横にはコテージもあり、まさに観光茶園だった。標高は約900m。そこで昼ごはんに、豚足や烏骨鶏スープを頼むと、気分はもう完全に雲南になってしまった。腹一杯食べて満足する。

デザートに美味しいバナナを食べていると、ここの老板が帰ってきた。早速お茶を飲みながら、お話を聞く。お茶は烏龍茶ではなく、何とプーアル茶だった。老板の李開明さんによれば、あの幻のタイ北部のプーアル茶、鴻泰昌の権利を2000年代に引き継いだというから、驚いた。李さんが三代目と名乗っている。

李さんの父は国民党軍と共にタイにやってきたが、1960年代の初めには軍を離脱して、古くからアッサム種が多く生えている茶房と呼ばれる地域だったワーウィに拠点を置き、1962年に明利茶業を設立。烏龍茶などより随分早く、プーアル茶の原料などを作っていたというから、興味深い。

もっと話を聞きたかったが、別のお客さんが来てしまい、ドームと一緒に茶畑を回って写真を撮ると、次回の再会を期して今回は退散することにした。それからこの近くに住むドームの同級生を訪ねると、その家の裏にも大葉種の茶樹が植わっており、確かにこの地域は古い茶の世界があったことを示していた。

そこから一応ワーウィの街中を車で走ってみる。やはり漢字がそこかしこで見られる。セブンイレブンもあるので、ある程度の規模の街だといえるだろうが、戸数は思ったほどない。やはり他の山岳地帯同様、都会へ出てしまったのだろうか。帰り道の途中にパゴダが見えたので行ってみる。何と途中でアカ族が茶摘みをしていた。本当に賃金が安いと嘆いている。パゴダはかなり立派だが、なぜここに建っているのかなどは不明。

チェンマイ滞在記2023その2(6)1 Hさんがやってきて

《チェンマイ滞在記2023その2》  2023年11月12₋11月24日

11月13日(月)Hさんがやってきた

ホーチミンから戻った翌朝、いつものようにパンを買い、フルーツを買って宿に戻ると、もう疲れてしまい、後はダラダラと過ごす。最近はちょっと旅に出ると疲れてしまう。茶旅も限界が近づいていることを自覚し始めている。昼間は暑いので、今後の予定を手配するなど、屋内で過ごす。

夕方外へ出て、ソンテウを拾う。ターペー門まで行くので問題はない。ちょっと早く着いたので、そこにあったアウトドアの店に入る。もうすぐ極寒の北京へ行かねばならず、その準備を開始する必要に迫られていた。だが私の希望にちょうど沿うような服は残念ながら見つからない。

すぐ近くのホテルで、静岡からやってきたSさん、いや旧姓Hさんと再会した。彼女は休暇を取って一人でチェンマイにやってきた。実は私がチェンマイにいることを知らずに、色々とアレンジをしていたようで、後から日程を聞き、取り敢えず会うことになった。まあお茶関係の人なので、いくつか紹介したいところはある。

今晩は彼女の希望もあり、近くのシャン料理屋へ行くことになった。一応食べるお茶、ラペソーもあるので、ミャンマーに入れない今、チェンマイで体験してもらおうというものだ。ただ初めてタイに来た彼女にとっては、少し辛過ぎたようで、あまり食は進まなかった。残念。

折角なのでと、車を呼んで、ナイトバザールを覗いてみる。私も6年ぶりになるので興味津々だったが、昔の賑わいは感じられない。そして売っているものは相変わらずかなり安い。お茶を売る店はかなり増えているように見えるが、果たして売れているのだろうか。何となくアイスを食べて帰る。

11月14日(火)Hさんとぶらぶら

今日もHさんと出掛ける予定になっており、ソンテウを拾った。だがソンテウは堀の周囲を回らず、道を外れたので驚いた。ワーロット市場辺りまで行き、人を下ろして、またターペー方面に向かったので、途中で降りて、10年ほど前泊ったことがある宿がやっているかチェックした。そこはそのままあったが、日本人が今も経営しているのかは分からなかった。

昨日のホテルでHさんをピックアップして、Monsoon Cafeへ向かった。ケネスは1時間だけ時間があるとのことだったが、結局昼ごはんまでご馳走してくれ、大いに語ってくれた。Hさんは英語ができるので、直接色々な話になって、面白かったのではないだろうか。ミアンをお土産にくれるとまで言い出したから、いい出会いだっただろう。最後は現在建造中の川沿い博物館まで見せてくれた。

そしてケネスが車を出して、Tea Galleryまで送ってくれた。ケネスは向こうでイタリア人のジョンと何か話している。こちらは馬さんとミアンの歴史などについて話を進めていく。Hさんはまた英語で色々と聞いている。私は相変わらず、冷たいKombuchaを飲みながら、話を聞いている。

Hさんをホテルに送り、一度宿へ帰る。夜またHさんと約束したので、今回は美味しいタイ料理を食べようと、早めにワンニーマンの有名店を目指す。だが既に人が並んでおり、予約もできないらしい。少しその辺ぶらぶらしてまた店に戻ると、『今なら席があるけど』と言われたので、約束時間より30分早かったが席に座り、Hさんに連絡してきてもらった。

トムカーガイや焼き鳥などを注文する。やはりそれなりに旨い。辛い物は苦手の人でも十分に食べられる優しい味だ。食後はMayaの地下でお茶などを見ながら、買い物に付き合う。こういうスーパーのチェックは意外と重要だ。それからHさんがホテルをこの付近に移していたので、そこまで送っていく。やはり今の観光客はニーマン付近に泊まるのだろう。横道はホテルだらけだった。

ホーチミン茶旅2023(4) ビンズオンで台湾

フラフラと歩いていると一軒の茶荘が目に入った。阿里山高山茶の文字が目に留まり、興味本位で入ってみた。するとそこにいたのはやはり台湾人。オーナーは以前ここに投資して工場を作ったが、今は引退して茶荘を開いたらしい。茶を飲ませてもらうと懐かしい阿里山の烏龍茶の味がした。『ベトナム産高山茶は沢山あるが、わざわざ台湾から烏龍茶を輸入しているのはうちぐらいか』と笑っている。

1990年代台湾も変化して、南進政策が取られていた。その時期軽工業を中心に、東南アジアへ数多くの台湾企業が出て行ったが、実は政府の支援はあまりなく、皆独力で頑張ったらしい。その後他へ移る者、台湾へ帰る者など様々な進路があり、今や台湾人はそう多くはないという。これも一つの華僑だろうか。台湾の中小企業はなかなか強い。

付近をほぼ一周して腹が減り、元の店に戻って大腸米線を食べることにした。ベトナムでこれが食べられるとはちょっと感激。ほとんどの客はランチビュッフェで皿を山盛りにして、腹一杯食べている。さすがに台湾系なので、台湾人と思われる客が多く来ている。

午後は車を呼んでビンズオン省の中心へ向かう。トーゥダモートという街の真ん中には、天后廟があった。ここも華人が多そうだ。だがその横にはかなり立派な教会も見られる。ちょっと行くと、古い市場がある。建物がレトロでよい。その向こうには川が流れている。この川が物流の中心だったのだろう。いい風が吹いている。渡し船に乗ってみた気分になる。

市場には昔はお茶屋だったところがいくつか見られた。だが現在はコーヒーがメインになっている。この街にはいくつものお寺があり、華人は多そうだが、お茶は飲まれないようだ。帰りがけに台湾系の店があり、美味しい豆乳を買って飲む。なぜかパンをおまけにくれた。最後に見つけた寺はかなり由緒があるように見え、更にその向かいには相当大きな仏像が横たわっている。この街は決してホーチミンの横にある、というだけではない。

また車を呼んで、Nさんを送り、そのままホーチミンまで帰った。既に辺りは暗くなり、ちょっと腹が減る。フラフラ歩いていると、ブンチャーの店が目に入り、思わず入ってしまう。まあ味はそこそこだったが、そこの主人の態度が悪く、あまり気分の良くない夕飯となった。やはりブンチャーはハノイで食べるべし。

11月12日(日)チェンマイへ戻る

今朝も宿で朝ご飯を食べて、帰り支度をする。ホーチミンの空港は街から近いので安心して行ける。それでも随分早く車を呼んで空港に向かった。それは今回のフライトがベトジェットであり、その昔、随分とチェックインで並ばされた、苦い経験があったからだ。カウンターへ行ってみると、多少は並んでいたが、大したことはなかった。イミグレもすぐに終了する。

時間を持て余したが、この空港でやることはない。仕方なく搭乗ゲート近くへ行くと、何と前の便がオーストラリア行きとかで、その便が出るまでは他の搭乗者はそこの椅子に座ることが出来ないと、仕切りが出来ている。そんな決まりがオーストラリアにはあるのか、とちょっと驚く。同時に座る場所が無くて難渋する。昔はよく遅れが出たベトジェットだが、今やベトナム航空を上回る航空会社となり、今回遅れもなく、スムーズにチェンマイに戻った。あの制服はそのままだった。