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ハノイ茶旅2023 その2(1)ハノイに華人の痕跡を探すも

《ハノイ茶旅2023 その2》  2023年3月4₋6日

3月4日(土)ハノイ街歩き

ラオカイから無事に戻った朝。また駅の横のホテルに入り、そこでNさんと別れた。今回Nさんには本当にお世話になり、実に実りある旅が出来た。持つべきものはやはり友(特にアレンジ力があり、語学に堪能)である。早朝ながらホテルは何の問題もなくチェックインできたのだが、朝ご飯を食べていいかと聞くと、『ちょっと待て、確認する』と言ったきり、何の返事もない。

こちらはひと眠りしたいので、また降りて行って『いいよね』と念押しして食事を始める。まあ確かに普通朝6時にチェックインとか、あり得ない世界かもしれないが、私はミャンマーで経験済みだったので違和感はない。いや、ここは鉄道ホテルだから、本来それに対応すべきだろう。そういえば部屋は道路側から反対側に替わったので、音は随分と和らいだ。そこで少し仮眠をとる。

昼前に起き上がり、旧市街地に散歩に出掛けた。ハノイには昔はかなりの華人がいたが、1970年代末の中越戦争前に殆どの華人が退去したとのことで、現在ハノイにはチャイナタウンはない(ホーチミンにはショロンがある)。それでちょっと歩いてみて、少しでも華人の痕跡を探してみたくなる。

ホアンキエム湖まで20分ほど歩いて、そこを起点に北にハンガン通りを歩いて行く。植民地時代の建物だろうか、ほんのチラチラ漢字表記が見えるが、今や観光客が行き交う通りになっている。そこからハンボー通りに進む。元々広東系が多かったといい、その歴史もかなり古い。布屋や雑貨屋などが多く並んでいる。骨董屋で工夫茶のセットを見たが、それほど古いものはない。

ランオン通りにやってくると、昔の店舗の名残がそこかしこに見えた。基本的にベトナムは漢字禁止とも聞いていたので、これはそのまま放置して黙認されているのだろうか。漢方薬屋などが今も営業している。そんな中に埋もれるように福建会館があった。現在は小学校で中には入れない。ここが今回唯一見付けた同郷会館跡だったが、普通のベトナム人にとっては何の意味もない場所なのだろう。周囲はバイクで埋め尽くされていた。

少し腹が減った。見ていると腸粉を蒸している店があり、そこに粥と書かれているような文字があった。そして鍋を探して指をさすと何とか粥が食べられた。肉まんも一つ加えた。お茶が欲しいと思っていると、向こうで茶碗に何か入れていたので、私にも頂戴と言うと手を振って断られる。なんとそれは腸粉に掛けるタレだった。言葉が通じないのは何とも愉快だ。

それからどこの道だか分からないが、適当に歩いてみる。立派な門を入ると奥にお屋敷があったが、そこは恐らく数家族が住んでいるだろう。中国でも見られたが、金持ちから取り上げた家を人民で分けたようだ。その金持ちはほぼ間違いなく華人だっただろう。近所には立派な寺もあった。

更にずっと歩いて行くと、レーニン像がある公園まで出た。ここまで来たらホーチミン廟にも寄ってみる。その周辺はフランス時代の建物、教会などが色濃く残り、また仏教寺院などもある風景区。外国人はまだ少ないとはいえ、カフェでコーヒーなどを飲みながら、寛いでいる。私は湖を突っ切り、仏塔がある寺へ行ったが、ちょうど時間が悪く閉まっていた。仕方なくまたフラフラと歩いて宿まで戻る。

滇越鉄道で茶旅2023(5)モン族の村の茶園

娘は薪で火を興している。窓際には干し肉が下がっている。如何にも旨そうだ。何人かでランチの準備が進む。お父さんは水たばこで一服する。運転手君はエプロンまで付けて張り切って調理に参加する。あっという間に数品の料理がテーブルに並ぶ。特にあの干し肉を炒めたものは絶品だった。何だか中国の湖北や湖南を思い出す。そういえばヤオ族は湖南あたりが発祥とも聞く。

いつの間にか隣家のおじさんが乱入する。しかも自分で作ったという酒を持ってきて、飲めと勧める。俺の酒が飲めないのか、状態だ。そしてこのおじさん、何と中国語を話し始める。そこで語られたことは驚愕の一言。『俺は10年位前、サウジアラビアへ出稼ぎに行き、そこからリビアに送られて、傭兵として戦った』というのだが、俄かには信じられない。ただおじさんとは書いたが、年齢は40歳代だろうから、10年前は十分兵士として機能しただろう。

この村から4人の男がリビアへ行き、みな生きて帰ってきたと胸を張られると、そうかもしれないと思ってしまう。確かに2010年以降、アラブの春の混乱があった時期とも重なる。モン族と言えば、ベトナム戦争後も紛争などに巻き込まれたと伝えられる民族だから、おじさんも若い頃から実は軍事訓練を受けていたのかもしれない。そんなことを思うと、このおじさんが果てしなく、すごい人に見えてしまう。

おじさんに連れられて隣家に入る。そこでは確かに醸造が行われており、樽から酒がほとばしり出ていた。聞けば何とおじさん、醸造の前は茶業をしていたという。そこでおじさんの元茶園に案内してもらって、また驚いた。斜面に数十本の大きな茶の木が植わっているではないか。

かなり整備されており、恐らくは中国資本が買い取ったのではないだろうか。こういったいわゆる古茶樹はプーアル茶の原料として、非常に高値で取引されている。おじさんが梯子をかけて茶摘みしようとしたが、少し酔っているので落ちそうになり、皆の笑いを誘う。代わりに女性が見事な茶摘みを披露してくれ、摘んだ茶葉はお土産に持たせてくれた。こんな茶園がこの辺にいくつかあるらしい。

村を回るときれいな幼稚園などもあり、子供たちはいるが、やはり若者の姿はない。これが今のベトナムの田舎の現状だろう。ラオカイに戻る途中、もう一つきれいな烏龍茶の茶園を見ることも出来た。ここも台湾資本の可能性はあるが、詳細は全く何も分からない。

ついに車はラオカイまで帰ってきた。この2日間予想を遥かに上回る、いや恐ろしいほどの成果を挙げた?のは、まさに運転手君のお陰だった。テレビ番組コーディネーターも務めるNさんをして、『この旅は仕込み、無いんですよね』と言わしめた(ドライバーをアレンジしたのはNさんでしょうに)恐るべき茶旅。運転手君との別れはちょっと辛かった。将来は旅行会社をやりたいという彼の前途に大いに期待しよう。

列車は夜9時半発なので、それまで夕飯を食べてゆっくり休むことに。だが駅前なのに、あまり食堂もなく、ちょっと歩いてみても、暗いエリアばかりが目立つ。仕方なく駅前のカフェに入る。この駅は外国人、特にヨーロッパ人などの利用が多いので、カフェがいくつかある。そこで紅茶を飲み、パスタを食べると眠くなる。

9時頃、駅のホームへ行き、また個室に入る。もう慣れたもので、すぐに定位置も決まり、寝る体制を取る。9時半定刻に車両は動き出す。室内の飾りはちょっと前とは違っているが、大筋同じ。すぐに飲み物販売などがあり、その後はもう寝るだけ。夜なかに一度トイレに起きたが、朝5時までぐっすり。さすがに疲れは出ていた。5時20分頃、列車は無事ハノイ駅に到着し、今回の濃密な旅は、あのけたたましいアザーンのような音声と共に終わりを告げた。

滇越鉄道で茶旅2023(4)冷たいサパを歩く

名残惜しい家を出て、皆と別れ、車でサパに行く。かなり霧が濃くかかっており、前が見えないほど。しかも気温が相当に低い。標高は1500m前後だろうか。もしハノイでヒートテックを買っていなかったら、本当に凍え死にそうな雨の夜だった。宿はきれいだったが、外は全く見えなかった。

夕飯を食べるべく外へ出た。濡れた坂道に足を取られる。この季節に観光客は多くなく、どの店も手持無沙汰の様子が何となく可哀そうだった。ただNさんが連れて行ってくれた鍋の店だけが千客万来、不思議なほど人がいた。寒さの中で食べる温かい鍋は格別の味がした。食後周囲を見渡すと、実に立派な建物がいくつもあった。もし夏に来たなら、ホテルも満員なのだろう。

3月3日(金)サパの街で

朝も小雨が降り相当寒いサパ。朝ご飯を食べる気力もなく、下に降りるとNさんがコーヒーを飲んでいたので、一緒に紅茶を飲みながら簡単に抓む。まあこんな天気だし、今日はどうしようかと相談しても仕方がない。取り敢えず車で街中へ行き、有名なサパ教会の前で写真を撮る。裏に回ってみると、初期の宣教師たちの記念プレートなどがあり、ここが1920年代に建てられたカトリック教会だと分かる。

この教会が観光の中心のようで、付近には山岳民族の女性が沢山おり、お土産を売ったり、トレッキングツアーに誘ったりしているが、この雨だから一向に成果は上がらない。我々も彼女らから離れ、道を歩くと古い建物が目に入る。フランス時代の別荘だろうか。その奥にはがっしりした建物があり、今は気象台らしい。その後ろの建物などを見ていると、中国で言う専科楼に酷似していた。第2次大戦後、ソ連の専門家・技術者らがここに入り、宿泊したのだろうか。

その裏にはホテルがあり、軍人用の保養施設なども見られた。そこから階段を上っていくことが出来る。夏は観光客が上っていくのだろうが、この雨では足も滑るので上るのを諦めた。保養施設はホテルになっており、かなり古い建物がいくつか残されていた。フランス時代に開発され、その後社会主義時代にソ連が流用したのだろうか。

バクハ モン族の村へ

運転手と話すと『もし行くところが無ければ、今日はモン族の村へ行かないか』と言い出す。これまた願ってもないことなので、それに乗っかることにした。それにてもヤオ族の彼にモン族の親戚がいるとは。山の中のことは良く分からない。サパからラオカイの方に戻る道に大きな橋が建設中だった。なぜか歩いて渡るのはOKということで、早々に景色を楽しむ。こういうのは日本ではありえないが、昔中国でもあったことを思い出す。

ラオカイ近くで女性を一人乗せた。彼女がモン族だというが、同時に妹だともいうので混乱する。恐らく中国的言い方と同じく、従兄弟なども妹と表現するのだろう。そして彼の親族の女性がモン族の男性に嫁いで生まれた娘なのだろう。まずは病院に寄る。親戚が入院しているとかで、見舞いを運ぶ。それからまた市場で買い出し、更に鶏屋で鶏肉を受け取り、一路バクハ方面へ車は疾走する。

途中トイレ休憩があり、洗車が行われた。雨は止んでいるが、オーナーの車なので、運転手君も気を遣うらしい。それからまた1時間ほど行くと、バクハを越えて、山道を行きそのモン族の村へ入った。昨日の村よりは家はあったが人影はない。山沿いにその家はあった。この家は誰も住んでいないのか、と思うと突然お父さんが現れ、料理が始まる。

滇越鉄道で茶旅2023(3)もう一つのヤオ族村で

もう一つのヤオ族村へ

名残惜しかったが、村を離れた。それから舗装道路を1時間ほど走る。途中山も越えた。本日は観光地のサパに宿泊予定だが、サパの少し前の村に寄り道する。そこは4年前Nさんがテレビ番組のコーディネーターとして訪れたと言い、郊外には修道院の跡が残されているというので興味を持った。

今日はずっと曇りだったが、小雨も降り出し、肌寒くなる。その修道院はかなり大きかったが、今や中は空洞で、随分前に使われなくなり、放置されたようだ。聞くところによると、第2次大戦中、日本の北海道にいた外国人シスターたちが、日本に居られなくなり、ここへやってきたという。日本とベトナムの間にはこんな歴史的秘話もあるのかと、ちょっと驚く。周囲には観光客に土産物を売る山の人たちが何人かいたが、我々にちょっと声を掛け、買わないと見るとすぐに諦めた様子で、子守をしたり、縫物に精を出している。これが彼女らの日常なのだろう。

そしてその先へ進むときれいな棚田が広がっていた。ここは雲南などでも見られる風景区だったが、今は冬で作物はない上に、モヤっていて写真もうまく撮れない。Nさんが知る村へ入り、車から降りると、何人もの女性が我々に近づいてくる。土産物を売るヤオ族の女性だった。Nさんはその中の一人を見付けて、親しげに話している。4年間の取材の時、彼女と出会った(番組にも登場した)のだという。

彼女らと一緒に村の道を歩く。皆籠を担ぎ、中には商品である土産物が入っているようだ。村の中には立派な家も見られ、ここが観光村としてホームステイなどでヨーロッパ人などを受け入れてきたことが分かる。村はずれの洞窟まで行き、折り返すが、特に見るべきものはない。そこで『家に茶の木がある人?』と聞いてみたら、一人がさっと手を挙げた。

その家へ行って見るとかなり立派なさっき見た家だった。コロナ前はここのお母さんが外国人のホームステイを受け入れ、かなり賑わっていたらしいが、そのお母さんが亡くなってしまい、言葉の問題とコロナで現在は閉鎖状態だという。彼女はお嫁さんだが、ご主人の祖父は村の代表だったこともある家柄だった。

お茶を缶から取り出すのかと待っていると、彼女は外へ出て行く。庭に一本、茶樹が見えた。あれはタリエンシスだろうか。すると彼女は物干し竿のような物に釜が付いた棒を茶樹に向け、上の方にある茶葉を枝ごと見事に切り落とした。すばらしい技だった。そこから茶葉をむしり取り、両手で大きく揉みこみ、何とそのまま大きなやかんの中に放り込んだ。やかんには既に薪で火が起こされており、その茶葉が煮込まれていく感じだった。

生葉を火であぶってから揉んで、という話は聞いたことがあるが、生葉をそのまま揉んで、煎じるとは、何と言うことだろうか。ある意味でこれは極めて初期の原始的な茶の飲み方ではないのだろうか。こういうものが目の前で見られるのが茶旅だろう。かなりワクワクする。入れられたお茶は、時間の関係もあり、かなり淡白な、そしてすっきりした味わいだった。彼らはこれを飲料としてではなく、薬として病気の時などの飲んでいるとのことであり、まさに茶の歴史の教科書に出てきそうな光景を目撃した。

私がヤオ族の歴史に興味を持っていると知ると、彼女は家にあったご主人のノートなどを持ち出してきた。そこにはまさに漢字が書かれている。私は2015年に松下先生に同行してベトナム山中に入り、そこでヤオ族の家系図を見せられたことが忘れられない。ヤオは漢字を使う数少ない少数民族なのだ。ここのご主人も当主となるべく、漢字の勉強に励んだのだろう。

滇越鉄道で茶旅2023(2)突然ヤオ族村を訪ねて

少し離れた場所に古いお寺があるというので行ってみる。ここに祀られていたのは、あのフビライハンによる元寇で、モンゴル軍を撃退したチャン・フン・ダオ(陳興道)。彼はまさにベトナムの英雄であり、その名が付いた場所はいくつもある。またフビライが3回目の日本遠征に来なかった理由としてベトナムでの敗戦があったとも言われており、そうであれば、日本もチャン・フン・ダオには感謝すべきかもしれない。

また小高くなった場所には樹齢数百年という大木が枝を張り出している。ここにも精霊信仰があるようで、この地は元々この大樹を祭っており、そこにチャン・フン・ダオの廟が組み合わされた可能性もあるらしい。今や一大観光地として、ベトナム人が多くお参りに来ていた。

街中に戻り市場を訪ねる。勿論国境だから国を越えて持ち出される商品が並んでいるところもあるが、コロナ禍の今は往来も少なく、商売も低調に違いない。昔の国営市場かなと思える立派な建物が2つもあったが、お客は殆どいなかった。私は何となく地元の茶葉を探したが、売っていたのはタイグエンの緑茶ぐらい。地元の茶が欲しいなら家から持ってくるというおばさんもいたが、遠慮しておいた。

まだ朝なのにどこへ行けばよいのか。Nさんと運転手が会話を始めると驚くべきことが分かる。彼は24歳の若者だが、ヤオ族だというのだ。私がヤオに関心を持っている、近所に茶畑はないか、と聞くと『ある』といい、『折角だから昼ご飯は家で食べよう』と言い出す。そして決め手は『鶏を絞めよう』だった。これはもうこの話に乗るしかない。

彼はまず郊外の市場で野菜や豆腐を買った。ベトナムでは固い豆腐を『ドウフ』、柔らかい豆腐を『トーフ』ということに気づいてちょっと興奮する。市場で買い物について行くのは何とも楽しい。それから知り合いのところへ行き、既に絞められた新鮮な鶏を受け取り、準備が完了する。

突然ヤオ族村へ

車で30分ほど行った山の中。突然向こうからバイクに乗った女性がやってくる。何と彼の母親で食材を取りに来て、これから料理に取り掛かるらしい。我々はそこから山に入ると、本当にきれいな茶畑があって驚く。ここで作られている茶が烏龍茶だと聞き、ここは台湾系が植えたのかと思ったが、どうやらベトナム企業の持ち物らしい。そしてさっきのお母さんや彼のおばあちゃんは、昔からここで茶摘みをして、小遣いを稼いでいたようだ。だから彼も幼い頃から茶畑で遊んで育った。

そして運転手君の家に行った。山の斜面の狭い道を入っていくと、そこにあった。既に食材を持ち買ったお母さんが準備をほぼ終えていた。見ると、薪で火をおこし、スープが旨そうに煮えている。テーブルにはさっきの鶏をメインに、ご馳走が並んでいる。何とも旨そうな鶏だ。塩をつけて食べる。

運転手君のお婆さんという人が出てきた。私より4つ年下だが、何とひ孫がいるというから驚いた。それが横で遊んでいた運転手君の娘だった。運転手君の母親は、お姐さんにしか見えないが、40歳ぐらいということになる。お婆さんが『主人はもう亡くなったので、家の当主として、一献傾けたい』と言い出し、地酒をぐいぐいやりだした。Nさんが応戦するも、とても敵わない。

誰だか分からない人々が数人参加して、いつの間にか大宴会になっている。私はひたすら難を逃れながら、鶏肉を食いまくり、スープを飲み干していた。お婆さんは『私が若かったら日本に嫁に行きたかった』と言い出す。この山の中で一体どんな苦労があったのだろうか。私のような者には計り知れない歴史を持っている。

茶畑について聞いてみると、随分前に茶樹が植えられ、お婆さんもお母さんも茶摘みは何度もしていたという。お婆さんは『最近は足が痛くて辞めたが、いい小遣い稼ぎになった』と笑う。茶畑が村にやってきたことは、村人にとって良いことだったと分かり何となくホッとする。ただ彼ら自身に喫茶の習慣はないように見え、食後に出された茶も、茶葉ではなく、薬草のようなものだった。食後のミカンを頂き、周囲を散歩する。大きな池がある。水も大事だろう。

滇越鉄道で茶旅2023(1)夜行列車でラオカイへ

《滇越鉄道茶旅2023》  2023年3月1₋4日

ハノイ滞在から2日、今回のメインテーマである滇越鉄道に乗るため、ハノイ駅へ向かった。100年以上前フランスがレールを敷いたその意味はこの旅で分かるのだろうか。何となくワクワクする。

3月1日(水)夜行列車でラオカイへ

いよいよラオカイ行きの列車に乗る時間が来た。Nさんに迎えられ、隣のハノイ駅に入る。1階に改札があるように見えたが、そこは閉まっていた。中国のように15分前にならないと開かないのだろうと思い、駅舎内の見学を始める。多くの外国人がバックパックなどを担いで、エスカレーターで2階に上がっていくので、それについて行く。

するとそこからホームへ続く通路があり、階段を降りるといきなりホームまで来てしまった。そこには既に列車が停まっており、車内に人の気配さえある。自分の乗る車両まで来ると車掌がチケットを確認して、簡単に乗車できてしまった。まだ発車45分前である。車両内は全部コンパートメント、一等は2人部屋、我々普通は4人部屋だった。

その部屋は意外とおしゃれで、ランプなどもあり、寝るには十分だった。何しろこの旅は夜行(夜10時発、朝6時着)なので、車窓の景色もなく、途中下車することもない、何と寝るだけの旅なのだから、寝床は大事になる。Nさんが事前予約してくれたので、下の2つを抑え、ゆっくり寛げた。同室の白人とベトナム人は早々に上に上がり、思い思いに過ごしている。何だか中国の軟臥を思い出す。

けたたましい音が響き、アナウンスが繰り返される。この音が私の宿の部屋まで響いていたのだ。10時ちょうどに列車は動き出す。我々二人は歴史談義でかなり盛り上がり、12時前まで話し込む。トイレもきれいで、洗面台で顔だけ洗う。完璧な支度で寝に入る。夜は軽い揺れが続いたが、トイレに一度起きただけですぐに朝を迎えた。周囲は真っ暗で何も見えない。

3月2日(木)ラオカイの朝

午前6時、列車はラオカイ駅に入った。意外とよく眠れ、爽快感がある。気温は16度と少し涼しい。まだ陽は上っていない(というか、この日はずっと曇っていた)。ホーム脇の線路はかなり広めでゆったりとした駅であるが、駅舎は大きくはない。団体さんはガイドに伴われてバスに乗り、外国人などの個人客はサパ行バスの切符を買っている。

我々はNさんのアレンジで、運転手が迎えに来ており、取り敢えず車に乗り込み、朝飯を食いに行く。ちょっと郊外に出ると、道路脇に麺屋がある。バラック小屋のような店内には、いい感じの湯気が上がり、学校に行く前の小学生が親と一緒に麺を啜っている。ああ、こういう雰囲気の朝ごはんが食べたかったんだ。温かいブンボーに大満足。

それからラオカイに戻り、まずは中国国境を眺める。橋の向こうは河口(雲南省河口ヤオ族自治県)と書かれており、付近に建築中の高い建物が見える。さっき我々が乗ってきた鉄道は、100年以上前のフランス時代の産物で、橋を越え雲南側、昆明までに続いて行くようだが、戦後は分断され、現在中国側では貨物輸送しか行われていないと聞く。

国境付近にはかなり立派なお寺があったが、これは中国人観光客向けに造られたのだろうか?念のため国境の出入国管理ビルへ行き、『日本のパスポートで中国に入れるか』と聞いてみたが、『ビザを持っていなければダメ』と想定通りの答えだった。その付近のビザ代行業者に中国語で聞いてみても『ダメダメ』とはっきりした中国語で回答された。

ハノイ茶旅2023 その1(4)ハノイ初のメトロに乗る

どこの都市でも最初に鉄道が敷かれても、その駅まで行く交通手段に苦労する。私は歩いて行くことにしたが、宿から最寄り駅(始発駅)まで約3㎞の道のり。折角なのでふらふら散歩しながら行く。すぐ近くにその昔泊まったゲストハウスの場所を見つけた。勿論今はもうやっていないが、この付近は妙に懐かしい。

更に行くと孔子廟がある。今日は特別な日なのだろうか。卒業する幼稚園生?小学生などが記念写真を撮っている。中に入っても子供たちが多い。そこに紛れて外国人観光客も写真を撮っている。ここの展示を見ると、ベトナムの歴史の一端が分かってくるので、何とか頭に入れようとするが入らない。

途中メトロ路線の工事現場が出て来る。いくつもの路線が準備されているようだが、開通までにはかなりの時間が掛かっている。ようやく2A線の始発駅、カトリンまで辿り着く。この路線は2021年11月に開通したらしいが、周囲は雑然としており、乗客も多くはなかった。

駅のシステムなどはどこかの国と同じようであり、何となく機械で切符は買えてしまう。初乗りは8000ドンか。メトロだけれど、道路の上を走るのも、車両を見ても、近年のバンコクMRTとほぼ変わらない。これは中国が建設したらしい。小学生が社会科見学?で乗ってくる。出発すると道路沿いの建物がかなり近づく。モノレールを思い出す。

僅か2駅で降りた。そこからまた歩き出す。途中にHSBCの看板が見えたので、ここでタイの銀行カードを使ってドンを引き出してみる。ところがATM、最初は英語表示だったのに、なぜか途中からすべてタイ語になってしまう。タイ語が読めない私は困り果て、窓口の人にその旨伝えると、彼女もベトナム人だから首を傾げてしまう。ただ彼女は自分のスマホを持ってきて、Google翻訳を当てて、すぐに読み取り、作業は完了する。そして『外国に来るのだから翻訳アプリぐらい入れてね』と言われて、思わず恐縮した。確かに言うとおりだが、なぜタイ語になったのかは釈然としない。

ユニクロまではかなりの距離があり、しかもちょっと風情がある横道に入ると行き止まりが多く、なかなか進まない。立派なお寺などもあるが、漢字が書かれているのはどこか別の国の人が建てたのだろうか。何だかタイ語のような文字が見えたり、仏歴だけが読めたりする。

ユニクロの入っているビル前は道路工事中で、なかなか近づけないというおまけ付き。ようやくビルの中に入ったが、ユニクロ店舗にほぼお客はいなかった(平日の午前中だからだろうか)。そしてヒートテックは恐らくベトナム製なのだが、日本より高い。まあ凍え死ぬより良いと、先ほど引き出したドンで支払う。

そこから宿まで引き返したが、かなり疲れてしまい、また道に迷う。迷い込んだ道を抜けると、そこはさっき歩き始めた付近。確かこの辺にブンチャー屋があったはずと、探してみると、ちゃんとあるではないか。しかしお客が押し寄せており、席が見付からない。それでも店の人が何とか一席空けてくれ、ようやくブンチャーにありつく。この店、昔は外国人が多かったが、今やベトナム人が来るらしい。これが食べたかったんだ!美味しく頂き、大満足。

宿に帰って完全休息。普通チェックアウトは12時だが、Nさんが更に半日分を払ってくれており、『ここは鉄道ホテルだから、列車の出発までは居て大丈夫』というので、ゆっくり過ごす。何だか日本人の大家族(祖父母、父母、孫たち)が3部屋ほどを使っており、ドアを開けたまま、大声で話しているのはちょっと気になる。煩いのは中国人だけではない。

夜になるとやはり腹が減る。列車に乗ってもすぐに寝てしまうはずだから、腹ごしらえは必要だ。外に出て食堂を探すと、ちょうど総菜が出ている食堂があり、料理を手で指して注文する。何だかキャベツが柔らかくてうまい。見ているとスープを飲んでいる人もいたので、それを指さすと『大丈夫か?』という表情で提供された。これはちょっと酸っぱい、タイ北部にもありそうなスープ。美味しく全部平らげても、ブンチャーと同じ値段だった。

ハノイ茶旅2023 その1(3)ハイフォンを歩く

実はこの鉄道は、1902年にフランスが建設を始めたもので、昆明までの全線が開通したのは1910年らしい。滇越鉄道と呼ばれ、フランスの中国侵略、貿易などの目的をもって作られた植民地時代の産物だった。ただ残念ながら、現在はハノイで分断され、フランス時代の名残は、到着したハイフォン駅に僅かに見られるだけだった。

駅前から、タクシー運転手の勧誘を振り切って、街に歩き出す。まずは腹ごしらえとばかりに、名物の麺の店を目指す。「バインダークア」、さとうきびで色付けした茶色く平たい麺と海鮮風味のスープが特徴。もう一つの名物、大きくてカニ肉たっぷりな四角い揚げ春巻きを同時に食す。これは美味い。そして店は満席、超人気店だった。

ハイフォンには古い町並みが残り、その規模も歩くのにちょうどよい。フランス統治下時代に建てられたコロニアル建築、ハイフォン市民劇場は、何となくホーチミン廟の小型版のように見える。1912年建造。その前の広場では、反仏運動なども行われていただろう。そこから港までは1㎞ほど。古い建物がいくつも残っている。

だが案内された港の横には、螺旋状の新しい橋が架かっており、周囲を見ても古い港感はまるでない。川沿いに少し歩くと港湾管理局が見え、税関もあったが、フランス時代を想起させるものではなかった。その前には広場があり、市民の憩いの場となっていた。その向こうには近代的な高い建物も見えるが、近くにはフランス時代の建物が今も銀行などに利用されている。

歴史博物館にも寄ってみた。ここの展示は、ハイフォンの歴史が良く分かり、興味深い。ハイフォンの歴史的重要性が示され、今回私が興味を持っている滇越鉄道についても触れられ、100年以上前のハイフォン駅の写真も掲示されている。港町らしく、指導者らの往来も激しくあり、ベトナム現代史が身近に感じられた。入場無料は嬉しい。

どうやってハノイに戻るか。また鉄道に乗っても良いが夕方6時台しかない。ズンさんが『自宅まで送ってくれるバスサービスがある』というので、予約してもらった。料金は鉄道の2倍以上だが、ロンビエン駅から宿まで行く手間などを考えると存外安いのかもしれない。ピックアップの時間まで近所のカフェでマンゴージュースを飲んで待つ。

待ち合わせ場所に車が迎えてきた。その車でハイフォン郊外まで連れていかれ、そこでまた9人乗りのバンに乗る。このバンは車体がかなり良く、座席も快適だった。これで高速道路に乗ると1時間ちょっとでハノイ郊外まで来てしまう。車窓からは、旧市街地とは違い、高層ビルが建つハノイ郊外の発展ぶりが見られた。

高速を降りると、多くの車が停車している場所で停まる。ここに集められた乗客は、各自の家の方角により、また車を振り分けられていく。私とズンさんは同じ方向なので助かる。さすがにこのバスサービスを利用するにはベトナム語が必要だ。昔台湾の田舎へ行く時に乗った村人専用タクシーを思い出す。かなり効率の良いサービスだ。

午後6時台だが、ハノイは思いの外渋滞もなく、無事宿に着いた。一度宿に落ち着いたら、急に腹が減ったので近所で麺屋を探す。路地にひっそりと営業していた麺屋で、チキンフォーを食べる。ハノイの旧市街、どう見てもここを再開発することは難しいだろうから、この街はずっと私の思うハノイのまま残りそうだ。

3月1日(水)ハノイ初のメトロに乗る

本日はいよいよラオカイ行の列車に乗る日だが、その出発は夜の10時。それまでハノイの散策を続けることにした。そしてラオカイから山へ入るためには、ある程度の防寒装備がいるとNさんに言われたので、ヒートテックを買いにユニクロへ行くことにした。ただ歩いて行くのも詰らないので、ハノイ市内で初めてできた鉄道に乗ってみる。

ハノイ茶旅2023 その1(2)ハイフォンへ

すぐに外へ出た。宿を出たところに、おじさんたちが屯しており、皆で茶を飲んでいる。この光景、特に変わりはない。どうやら駅で客待ちしているタクシー運転手のようだ。そこから適当に歩いてみたが、そこかしこでお風呂椅子に座り、茶やコーヒーを飲んでいる人々に出会う。昔と変わらない風景が何だか嬉しく、そして懐かしい。

変わらないと言えば、交通事情。所々に信号はあるものの、道を渡るのは大変だ。横断歩道で待っていても、車が止まってくれることは稀であり、自力で車の間を縫って向こう側へ行かなければならないのは、安全に慣れた日本人には辛いだろう。だが中国で昔鍛えた私などは、返ってこの状況は好ましい。交通ルール無視で、自らの感覚を信じて、相手との呼吸を合わせて渡るのは、実は慣れていれば意外と爽快である。

ふらふら散歩していると、ホアンキエム湖までやってきた。このあたりの風景もさほど変わっていない。20年前家族旅行で来た時に見たパペットショー、今もやっているようだ。違うのは料金だろうな。観光客が多く歩く道に出ると、そこも昔とあまり変わった様子はない。古い町並みは残り、まるでコロナ禍などなかったかのようだが、どうなのだろうか。

一旦宿に帰る。午後6時に今回アレンジをお願いしたNさんが来てくれて、近くのレストランで食事をした。このレストランは結構凝っていて、そして新しい。今晩は冷えるので、鍋を頼んだ。昼間外へ出た時、私だけが半袖シャツを着ており、ハノイ人は皆、冬の装いだったのは、衝撃的だった。20度を越えていれば少なくとも冬ではないと思うのだが、ハノイは今、冬なのである。

切った生野菜を皿に入れ、ドレッシングをかけて手でかき混ぜたサラダ。鍋もスープが濃厚でなかなかのお味だった。内装なども凝っていて、料金も手ごろということで、ハノイの若者が多く出入りしている。Nさんとは歴史の話などで大いに盛り上がり、今後のラオカイ行がどんどん楽しみになってきた。帰りにコンビニを探したが見つからず、その辺の店でコーラを買って帰る。

2月28日(火)ハイフォンへ

朝4時、けたたましい音で起こされた。何と隣の駅で大音響のテープが繰り返し回り、うるさくて眠れない。まるでイスラム圏の朝、モスクから響くアザーンのような響きだ。鉄道オタクの人にはこれもまた一興かもしれないが、私は困る。そして断続的にホーチミンから列車が到着し、この騒音は6時のハイフォン行まで続く。少し眠い目をこすりながら、宿の朝食を食べる。粥と目玉焼きでよい。

ハイフォン行の列車は先ほど6時発がハノイ駅から出て行ってしまった。その次の列車は9時30分だが、何とこれはハノイ駅のお隣、ロンビエン駅から出るという。折角駅の隣の宿に泊まり、朝の騒音にも耐えたのに、とは思ったが、これもまた旅。面白がって歩いてロンビエン駅へ向かう。

ロンビエン駅までは3㎞以上あり、意外と歩く。途中には鉄道の線路があり、ハノイの写真スポットになっている。また葬儀の現場にも出くわし、立派な黒塗りの車の上に、観音様が立っているのにちょっと驚く。駅の周囲は城壁があり、少し高くなっている。フランス時代の小さな駅舎が見え、その先には紅河に有名なロンビエン橋が架かっている。

ここで旧知のズンさんと待ち合わせた。ズンさんは少し太ったようだが、元気そうだった。もう一人日本人女性が合流するというが姿を見せない。ズンさんに切符を買ってもらう。列車の車両はあるが、直前まで写真が撮れない。10分前にようやく乗車が許され、乗客がどんどん乗って行く。車両は思ったよりきれいで、広い。外国人も結構乗っている。一日4本しかないので通勤用ではない。

ほぼ満員の乗客を乗せて、定刻に出発。すぐに橋を渡る。車窓からは田舎の風景が続いて行く。時々駅で停車し、多少人の乗り降りがある。水が一本貰え、スマホの充電もできるので快適ではある。外気温は22度で暑くもなく、ちょうどよい。結局2時間半ほどで、目的地ハイフォンに到着する。

ハノイ茶旅2023 その1(1)閑散とするスワナンプームとノイバイ

《ハノイ茶旅2023 その1》  2023年2月27₋3月1日

昨年中国の習近平が3期目の政権運営を決めた。その後最初に習に会った外国要人はベトナム共産党のグエン・フー・チョン書記長だった。この会談の中で『滇越鉄道』という言葉が出たと聞き、非常に興味が沸く。フランスが100年以上前に建設したハイフォン‐昆明間の鉄道、どうしても乗ってみたくなり、ハノイへ行くことになった。

2月27日(月)ハノイ到着

そもそも今回のハノイ行は、昨年11月頃に一度計画した。ところがベトナム入国に際して、海外旅行保険加入が義務付けられているとの情報があり、断念した経緯がある。今年に入って、いつの間にか加入義務が緩和??(いや、昨年から規定上にはあったが、確認はされていなかったらしい)と分かり、計画を練り直す。

ところがチェンマイでバンコクーハノイ行の航空券をネットで購入しようとしたら、何故かクレジットカード決済が出来ずに困る。3日間、カードを変えてやってみても出来ないので、仕方なくバンコクのYさんにお願いして、購入してもらった。最近は決済できないと表示されて、実際は3回も同じ航空券を買わされ、しかも払い戻しされないケースもあると聞いている。私の場合は最悪のケースではなかった。PCの問題ではないかと思うのだが、原因ははっきりしない。

昼過ぎのハノイ行に乗るのに、朝8時台に宿を出たのは、最近乗客が異常に増えて空港が大混雑していると聞いたからだった。朝は道路も混んでいるためタクシーには乗らず、MRT+空港線を使うと簡単に着いてしまった。ベトナム航空のカウンターは3時間前しか開かないが、預け荷物無し、Webチェックイン済みだと、出国手続きに進めたのは何とも有難い。

覚悟して臨んだ出国手続きだったが、荷物検査がすんなり通り、イミグレにもそれほど人は並んでいなかった。何と合計20分ちょっとで出国完了。フライトの出発時間までまだ3時間以上あるという異常事態になってしまった。仕方なくトイレに行こうとしたら、かなりのトイレが閉まっており、トイレ探しで右往左往した。それから椅子に座ってじっとしていたが、午前中の空港は驚くほどに閑散としていた。

ようやく搭乗。何となく広東語が多く聞こえてくる。どうやら香港人がハノイ経由で帰国する便らしい。80%以上埋まっていたのは、そういう乗客を集めたからだろうか。2時間のフライトだが国際線なので、ちゃんと食事も出る。あのハノイの渋い緑茶が出てきて、更には機内誌に茶畑の写真を見るとテンションが上がる。

フライトは順調に到着。入国審査も混んではおらず、何も聞かれず、昔と同じ2週間の滞在が許された。両替所を探すと、10か所以上あり、近頃は目も悪いので、どこのレートが良いのかよく分からない。適当に選んで両替し、更にシムカードも購入しようとしたが、お姉さんの対応がとても悪くてびっくり。止めて他へ行くというと、途端に愛想よくなりまたビックリ。

空港は以前と変わっていない。6年前はタクシーを探したが、いまやGrabの時代だ。運転手らしい人々が次々に声を掛けて来るが、すべて無視してGrabの配車を待つ。30分、32万ドンが安いか高いかは分からないが、安心安全な雰囲気がよい。以前のベトナムでは、タクシートラブルが何度もあり、それがないだけでもあり難い。Kiaの小型車が来たのは、如何にもベトナムらしい。

ベトナムの経済成長という話が良く出ていたが、コロナ中は止まっていたのか、道路工事が各所で行われていた。旧市街地に入ると見慣れた光景が出てきてホッとする。宿はハノイ駅の横、何の問題もなく到着した。今回の旅は基本的に同窓のNさんにアレンジしてもらっており、このホテルもこれからラオカイまで列車に乗るのに好都合ということで選ばれた。部屋は広くて快適そうだが、さすがベトナム、外の騒音はかなりある。