「ベトナム」カテゴリーアーカイブ

ベトナム南部茶旅2023その1(6)ダラットを歩く

呉さんが山羊肉を食べようという。出てきた物は焼山羊だったが、これを野菜に巻いて食べると旨い。でもこれインド料理?と思っていると次にカレーが出てきた。これも濃厚で美味い。更には鍋も出てきたとても食べ切れない。彼は『残った物は従業員が食べるからいいんだ』という。それにしてもインド料理とは思えないものが旨いとは。流石30年以上この地で店を構えているだけのことはある。店内もいつの間にか満席だった。

呉さんに宿まで送ってもらい別れる。今日の宿はちょっといい感じのはずだったが、団体さん向け宿だった。部屋は広く、外も見えるので良かったが、何と突如雨が降り出し、部屋に押し込められた。何気なく見ると、ホテルインフォメーションが英語と韓国語で書かれている。やはり韓国人は来るんだ。そして中国語が無いのは、中国人は来ないということか。当然ながら今や日本語はない。

夕方小雨になったので、飲み物を買いに外へ出た。ロビーは団体さんで溢れていたが、彼らはベトナム人だった。そういう時代が来たんだ。その辺の店でドリンクを買ったが、ちょっと疲れが出ていたので、夜はご飯を食べずに、ゆっくり休息した。特にうるさいこともなくよく眠れた。

6月30日(金)ダラットを歩く

朝はホテルの朝食を食べる。クロワッサンが美味しい。でも食欲はあまりない。最近本当に疲れやすくなっている。室内プールで朝から泳いでいる人がいる。ここダラットはフランス植民地代の避暑地であり、風光明媚で人気の観光地。今日は散歩がてら、教会を巡ってみることにした。

まずは歩いて15分のところにあるダラット大聖堂。ちょうど工事中で、入り難かったが、中にはベトナム人観光客が結構いた。1942年に完成したローマ・カトリック様式の建物で、象徴的な鐘楼は47mの高さを誇る。楼の上の十字架が印象的だ。中には入れなかったので、すぐに立ち去る。

そこからもう一つの教会へ行こうとしたが、道を間違えて、坂を下ってしまった。その底の方にも人々の暮らしがあったが、元の道路の先へ戻るには、かなり複雑なルートを辿り、相当の疲労感を覚える。毎日坂を上っている人には気にならないのだろうか。途中には漢字が書かれた廟もあり、この付近は華人が多いのかと思ったが、そんな顔の人は見当たらなかった。

それからかなり歩いて山の上の教会に行った。そこには廟もあったようだが、良く分からない。ダラットが見渡せる立地。ここまで歩いて来るのは大変だったが、気持ちは良い。宿に戻り、チェックアウトして、Grabを呼んでみる。すぐ捕まったが電話が来て、言葉が通じず対応に困る。ちょうど宿のおじさんがいたので何とか対応でき、無事車に乗る。

空港まではかなり遠い。途中道路脇に、和風の建物が見えたり、ティーリゾートがあったりと、降りてみたい衝動に駆られるも、大人しく揺られていく。空港はそれほど大きくなく、フライトも国内線が中心。結構待っていたが、フライトがディレーしてしまい、更に待つ羽目に。アナウンスがほぼないので状況が分からない。30分遅れで何とか飛ぶ。

フライトはほぼ満員。ベトナム航空は水一本のみ。近いと思ったが、2時間弱かかって何とかホーチミンに到着する。何とホーチミンは雨だった。Grabで車を呼ぶも、ホテルが空港に近すぎて儲からないため、誰もやって来ない。どうするか。結局先日同様歩いて行くことにした。幸い雨も小降りで、荷物もないので、何とか宿まで辿り着く。

部屋はK社長が予約したものを使わせてもらった(K社長は他のホテルに移っていた)。有難い。先日の向かいの部屋で静かだ。腹が減ったので、見付けておいたフォーの店へ行くと意外や満員。何とか席を得てフォーを掻き込む。この前よりはだいぶ美味かった。料金は同じ。

ベトナム南部茶旅2023その1(5)ダラット郊外の茶園で

バスが来たと係員が教えてくれて、乗り込むと、やはり先ほどと同じ型のバスで、全く同じ場所をあてがわれた。ここなら一番前なのですぐに降りられるという配慮だろうか。外が暗いということは、これほど怖いものだろうか。やはり行き先が分からない不安は大きい。私はどこに向かっていくのだろうか。

劉さんからは2時間で着くと言われていたが、何と1時間半ほどした所で、突然車掌が下りろという。しかもそこはバスターミナルでもなく、ガソリンスタンドの前だった。本当にここかと尋ねる間もなく、バスは私を残して走り去る。さっき一度連絡した呉さんに電話を入れると迎えに行くと一言。

もし違う場所で降りてしまったらどうなるのだろうか。不安な5分間だったが、車はやってきた。しかも運転手は6年前ダラット空港に迎えに来てくれたベトナム人だったので、一気安堵した。呉さんは夕飯を一緒に食べようと待っていてくれたが、不要だと知り、すぐに事務所へ向かった。

私は6年前確かに呉さんの家に一泊したのだが、ここはちょっと違うような気がする。彼はすぐに茶を淹れて飲ませてくれたが、そのまま寝てしまったので、私もシャワーを浴びてすぐに寝てしまう。やはり今日1日は長く色濃いものだったので、疲れが出ており、ここがどこかも分からないままぐっすりと寝入る。

6月29日(木)ダラット郊外の茶園で

朝早く目が覚めた。周囲は既に明るく、鳥のさえずりが聞こえる。呉さんの姿はなかったが、お茶を淹れた形跡があり、起きていることは分かる。外へ出ると建屋の裏には茶畑が広がっており、牛がのんびり歩いていた。何だかこの茶畑風景、台湾東部でも見たような気がする。

ここは呉さんの会社の事務所。そこから車に乗り、約1時間かかる山の茶畑と茶工場を目指す。その前に腹ごしらえ。ブンボーの店だったが、無料で付いてくる野菜が新鮮で美味い。ホーチミンの野菜の多くはこの付近から来ているらしく、当然鮮度が全く違う。スープもとても美味しい。いい朝だ。

それから車は徐々に山道を行く。途中までは舗装道路で、6年前の印象はなかった。前に車が停まっている。よく見ると軽トラが道に嵌って動けない。どうするのかとみていると、呉さんが率先して降りていき、周囲の車の運転手らに声を掛け、一緒に車を押して、何とか道路上へ持ち上げた。言葉はあまり通じていなかったが、この統率力が、20年もの間、この地で茶業を指揮してきた経験から出ていることは間違いない。

その先は土の道。だんだんと昔が蘇ってくる。当たり前だが6年の間に、大いに進歩があった訳だが、私的には土の道が恋しい。ようやく見慣れた茶工場が見てきた。茶畑はこんなに広かったかなあ。何とも懐かしい。今週茶作りはお休みとのことで、作業している人はいない。従業員もここの宿舎に寝泊まりしているが、どこかへ遊びに行ったのだろうか。静けさが漂う。

茶工場を見学すると、以前と同様の台湾製製茶機械が並んでいたが、その中のいくつかはもう使われていなかった。より自動化を図るため、新たな機械を導入しているという。また現在台湾向け輸出が厳しいこともあり、ベトナム人向けの茶の開発も行っている。更にはちょうど前回訪れた時から始まった茶飲料向け茶葉の生産量が増えている。

呉さんは疲れてしまったようで、寝てしまう。こんなのどかなところにいれば眠たくなる。私は茶畑見学に出た。広々として茶畑、斜面にきれいな風景が広がっている。一部では、数人が作業している。彼らは当番なのだろうか。ここは標高1000mを越えており、ホーチミンの暑さは全くない。ずっとここを散歩していたい気分だった。

昼前に茶畑を離れた。呉さんの車でダラットの街へ向かう。呉さんもしばらくダラットに行っていないと言い、喜んで送ってくれた。6年前も1泊したダラットだが、今回も1泊してからホーチミンに戻ることにした。呉さんが昼ご飯を食べようと言い、以前よく行ったというカレー屋を探した。何とインド人経営らしい。

ベトナム南部茶旅2023その1(4)バイリンの茶畑で

劉さんは私を車に乗せて走り出す。劉さんは台湾人で、バオロック(正確には隣のバイリン)に来て15年になる茶師だった。しかも出身は南投の鹿谷というから驚いた。共通の知り合いの名が何人も出て来る。この田舎町で初めて会ったのに5分で打ち解けてしまった。これこそ茶縁の成せる業。

車はバオロックの街を抜けて20分ほど走り、茶工場に着いた。ここが現在の劉さんの仕事場。結構大きな工場で、敷地も広い。空気が旨い。今日は天候の関係で製茶はない。ベトナム人がオーナーでちょっと挨拶したが、地元の名士といった感じの紳士だった。近年この付近の茶園はベトナム人オーナーに代わったところがいくつもあるという。

劉さんは以前近所の台湾系の茶工場で茶を作っていたが、2年ほど前ここへ移ってきたらしい。ここに住み、ここの物を食べて生活している。『慣れてしまえば、ここの生活は悪くないよ』という。勿論製茶時期が終われば台湾に帰り、鹿谷で奥さんと暮らすというが、コロナ禍の3年近く、台湾には帰れなかったというから大変だった、と話しながら高山茶を試飲させてくれた。

私が15年前にバオロックで台湾系茶園を訪問したことがあると告げると劉さんが車を走らせて、『ここじゃないか』という場所に連れていく。残念ながらここではなかったが、そこに台湾人女性がいて、高山茶を淹れてくれた。何だかベトナムの山中とは思えない出会いだ。だが台湾系茶園はどんどん減っているらしい。

『台湾ではベトナム産烏龍茶に対する規制が厳しくなり、また誹謗中傷もあって、茶作りを辞める台湾人が増えている』というのが理由らしい。確かに台湾に行った時も『コンテスト茶にベトナム産が混ざり、混乱している』などの話は何度も出ていた。だが私としてはベトナム産茶の品質がそこまで良くなったのか、と喜びたい気分だった。それにしても『ベトナム戦争時に米軍が枯葉剤を撒いた土地で烏龍茶を作っている』など言う噂は誰が流したのだろうか。いずれにしても需要が無くなれば淘汰される、ということだろうか。

劉さんはバオロックの街まで送ってくれた。途中の山中、道路脇に古い茶樹が見られた。『これがフランス時代、紅茶を作っていた名残だと聞いている』と劉さんは説明してくれた。確かにフランスは1920₋30年代にこの付近で紅茶を作っていたと聞いている。というか、そのような素地、土壌や気候があって、1990年代に烏龍茶造りが始まったということだろうか。

更に山中でちょっと見晴らしがある場所へ行くと、何と不思議な形の建物が見えた。その前には提灯がぶら下がっている。この付近は最近別荘建設が盛んだという。ホーチミン‐ダラット間の高速道路建設が進んでおり、数年後に完成すれば、ホーチミンから週末来られる避暑地として注目されているというのだ。実は茶園を辞めた台湾人の中には、土地を建設会社に売って資金を回収し、台湾に持ち帰った人もいるらしい。約20‐30年前二束三文だった土地の値段は今や1000倍にもなっているとも聞く。

バオロックの街で劉さんがワンタン麺をご馳走してくれた。そこは華人系の店で、味もなかなかのものだった。劉さんは時々街に出るとここで麺を啜って帰るらしい。見ているとそこで作られたお菓子も買っている。いくらこの地の環境が良いと言っても、やはり慣れ親しんだ味がある。

先ほどとは別のバスターミナルへ行き、切符を買ってもらい別れた。私はこれからどこへ行くのか、全く分からない。行き先の地名すら読めない。張さんがアレンジし、その指示で劉さんが買ってくれた切符なので、問題はないと思うがどうだろう。日が暮れていき、何とも不安にかられる。

ベトナム南部茶旅2023その1(3)バオロック行きの長距離バス

6月28日(水)いざバオロックへ

朝6時に起床。7時にはチェックアウトしてGrabタクシーを呼んだ。今日は久しぶりの冒険旅だと思うと、ちょっと緊張する。とにかく言われた通りのバスターミナルに無事に着けるのか。それは杞憂だった。Grabは正確に私をそこへ連れて行ってくれた。午前9時発のバスなのに、7時半にはターミナルに入った。ここは意外と大きな場所だったが、チケットブースにあまり人はおらず、乗客も見かけない。何よりバスがない。

なんとか張さんが予約してくれたバス会社のカウンターを見付けたが、チケットを見せると、『そこに座って待て』という。30分座っているとアナウンスがあり、何人かがどこかへ消える。私はまたカウンターへ行くが、また待てと言われるだけ。仕方なく周囲を一周してみたが、ここは旧バスターミナルではないかと思われる。

何と8時半になっても呼ばれない。というか、乗客らしい人がいなくなる。不安で張さんに連絡するも良く分からない。それから10分してついに呼ばれた。ところが目の前にあったのはミニバン。ああ、これで新バスターミナルへ向かうんだな、と安心していたら、もう9時になってしまった。バスは一体いつ出るんだ。

しかもミニバンには2人しか乗っておらず、更に途中の小さなバスステーションで降ろされてしまう。さすがにまずいと思ったが、カウンターの女性は英語が出来、長距離バスがここへ来るというので待つ。10分後、どういう仕組みか分からないが、本当に立派なバスが来た。

車掌の若者は私とチケットを見て、『一番前の下』を指した。何とこのバス、全部が座席ではなく、リクライニングブース?ゆっくり寝ていける上、プライバシーも保たれる優れモノ。ちょっと狭いが十分だ。充電ソケットが壊れていなければ完璧だ。韓国製のバス。乗客はほぼベトナム人らしい。

バスは市内の渋滞を抜けると、後はスイスイと走っていく。すぐに田畑など田舎の風景が続いていくものと思っていたが、意外と道路沿いには民家や商店が多く見られる。朝早かったのでちょっとウトウトしていたら、すぐに2時間ぐらい経ってしまった。バスはサービスエリアに入り休息。運転手もランチを取っているので、私も肉まんを買って食べてみる。

そこを出てからは長く感じられた。一体いつ目的地バオロックに着くのだろうか。聞いてみたいが、車掌とは言葉が通じない。ここは耐えるしかない。途中教会がいくつもある街を通過した。その近くには中国寺もあった。この付近はどんな歴史背景を持っているか知りたいが、その地名すら分からない。

乗車から4時間が経過した。張さんの話だとそろそろ到着するはずだったが、何と又サービスエリアで休息する。このバスはダラット行だから、このペースで2時間に一度休息が義務付けられているのかもしれないが、何も分からず揺られていくのはかなり緊張感がある。皆トイレに行くとさっさとバスに戻る。因みにバスに乗る時は靴をビニール袋に入れるが、降りる所にはちゃんとサンダルが用意されており、それを履いてトイレに行く。

そこから更に1時間、ついにバオロックのバスターミナルに入った。車掌も笑顔で降りろ、と合図してくれる。何人かが下りていく。私は周囲を見渡したが、張さんがアレンジしてくれた迎えは来ていない。仕方なく電話してみると、何と後ろに停まっている車の人が手を振っている。ああ、何とかなったと安堵する。

ベトナム南部茶旅2023その1(2)ホーチミンでイタリアンを食べながら

交渉してみたが頑強なので疲れてしまい、お金を支払って部屋に入り、3時間ほど寝た。まあ、ベトナムのサービスは東南アジア型ではないのを忘れていたということだ。部屋は料金の割にはよかった。K社長のお知り合いの紹介だというが、なぜここに泊まっているのかは分からなかった。

昼にまたK社長と落ち合い、近所にランチに出た。よく分からないので適当な店には入ると、『バインクオン』という料理があり、それを注文する。ライスペーパーにひき肉やきくらげを入れて食べる物。それにベトナムハムが添えられており、野菜を混ぜて食べると、意外と旨い。

その後街へ行こうということなり、Grabで車を呼んで、ベンダイン市場へ行った。K社長は早々に店員と交渉して、楽しそうにTシャツを買っている。残念ながら客は少なく、私にも方々から声が掛かるが、買うべきものはない。コロナ禍はまだ終わっていないのだろうか。インド系観光客が目に付く。市場の向かいのホテルのカフェでお茶を飲みながら休息する。K社長は疲れてしまったようで、早々にまた車を呼んで宿へ戻った。

私は飲み物が欲しかったのでコンビニへ向かった。少し離れた場所にサークルKがあり、無事に買い物ができた。夜はK社長のお知り合い夫妻と夕食を取った。Hさんは以前北京にも勤務しており、共通の友人は沢山いて驚く。また奥様は中国茶を習っていたこともあり、お茶の話題でも盛り上がる。ちょっとびっくりの展開だった。

我々の宿はHさんの住まいのすぐ近くにあり、食事場所である雰囲気のあるレストランにも近い。料理はベジタリアン系で、盛り付けがきれい。上品で食べやすく、お茶もきちんと淹れられていた。ベトナム人もべジを好むのだろうか。こんなに話が弾む夕飯も珍しいかもしれない。K社長の人徳だろうか。

6月27日(火)張さんに会いに

翌朝も早く起きて、K社長と朝食を食べた。この宿はかなり静かなので助かる。その後ダラダラして、昼前にGrabを呼んで、出掛ける。今日は張さんに会いに行く。元々今回のホーチミン行はお茶好きの台湾人、張さんにダラット方面の茶畑に連れて行ってもらう予定だったのだが、新婚の張さんの奥さんの体調が悪く、同行できなくなったというので、私一人で行くためのレクチャーを受けに行く。

指定されたショッピングモールは思ったより多くてびっくり。それでもGrabだから安心して乗っていれられる。45分ぐらいかかって何とか到着。そのモールは結構大きくて、ユニクロなどの店舗が多く入っていた。張さんは迷わず、レストランへ入っていく。そこはイタリアンだという。かなりいいデザインの店で、ランチ時でかなり賑わっている。

何とここを経営しているのは日本人だという。日本のイタリアンを持ち込み、ベトナムで何店舗も出店しているらしい。カンボジアにも進出し、何と今後東京へも逆上陸するらしい。出てきたピザもパスタも美味しい。寿司まで出てきたのには驚いた。これからの時代、日本人は和食屋、という発想は古いのかもしれない。東京には世界の旨いものが集まり、外国人もそれを求めてくる時代なのだから。

料金が手ごろ。ベトナムに勃興している中間層にとっては和食より寧ろ手が出しやすい感じかもしれない。張さんからバスの乗り方、アポの状況などの説明を受けたが、やはり一人旅で言葉が通じないのは心配だ。まあ、最悪張さんに電話することで気持ちを整理する。でも張さんと一緒に行けなかったのは、何とも残念だが、これも茶旅だろう。イタリアンを食べながら、お茶の歴史話で盛り上がる。また宿まで車で戻る。

夕方、腹が減ったので、近所で麺を探す。チキンフォーの店があったので、食べてみるとまあまあの味。5万ドンはこの地としては安くないようにも思えるが、ホーチミンはハノイより物価が高いのかもしれない。また店員の対応は決して良いとは言えない。帰りにバインミーが食べたくて、道路沿いの屋台で買う。2万ドン。更にコンビニを探すと、実は宿のすぐそばにあることが分かる。明日は長距離バスに乗るので、一応非常食のパンを買う。

ベトナム南部茶旅2023その1(1)早朝ホーチミンに到着して

《ベトナム南部茶旅2023(1)》  2023年6月25日-6月30日

3月にハノイから鉄道でラオカイへ行き、思いがけない展開で山岳民族の村へ入った。その旅があまりにも刺激的で、どうしてもホーチミンへ行きたくなった。少し長めに滞在し、折角なので6年ぶりにダラット付近にも足を延ばしたいと考えた。

6月25日(日)早朝ホーチミンに到着して

夜の羽田空港に来たのはいつ以来だろうか。朝とは違ってそこまでは混んでいなかったが、それでもかなり人がいた。今回はサラリーマンを辞めてから恐らく初めて日本航空の国際線に乗ることにした。3月にもう一社のいつも乗る航空会社のサービスがあまりにもひどかったので、2社ともサービスが落ちているのか、見てみたかったのだ。

チェックインは順調、そして顔認証が使える(これは日系2社のみ)ので、すぐに登録が出来、保安検査場へ簡単に入れる仕組みとなっていた。僅か10分で保安検査場を潜り抜け、出国も簡単に終わった。その先には深夜便に乗る乗客がかなり席に座って待っている。飲み物でも買おうと探したら、何とセブンイレブンが夜10時過ぎには閉まっており、外国人が珍しそうに写真を撮っていた。24時間営業が普通のセブンで、何とイレブン迄開いていないとは。まあドリンクは自販機で買えるので、問題はない。

機内はきれいで座り心地も良い。深夜なので、すぐに寝入る。ところが3時間後、全ての灯りが点灯して、朝食?が配られた。僅か5時間ちょっとのフライトで、まさか着陸2時間前に食事とは。しかも全員を起こしているからびっくりする。タイ航空やエアチャイナでは考えられない仕打ちに遭う。それでも食事を受けとって食べてしまうこちらが悪いのだろう。

そしてフライトは定刻より早く午前5時にはホーチミン空港に到着してしまった。まだ夜明け前であり、他に到着したフライトもなく、イミグレもちょうど開き始めたところだった。今回は預け荷物もなく、さっと外へ出た。一番気がかりだったのは、スマホのシムと両替。羽田空港なら当然開いていないだろう。事前のネット検索でも8時頃からしか開いていないと書かれていた。

ところが行ってみると、ちゃんと両替ができ、SIMを買うことが出来た。観光客にこのようなニーズがあるのに、商売をしない(出来ない)、日本の空港はもう完全に負けていると思ってしまう。それにしてもあっと言う間にホーチミンに放り出されたが、ここからどうするか。

実は今回は韓国在住のK社長と待ち合わせていた。そのホテルは何と空港の近所だったので、朝日を見ながら歩いて向かうことにした。空港から徒歩で出てきたのは、タイのメーホーンソンや先日の山口宇部空港以来だろうか。暑さもなく、気持ちは良いが、空港の周りは道路で囲まれており、歩いて行くようにはなっていない。

何とか道路を渡り、広い道でケースを引いて行くと、これは結構辛い。やはり歩道の整備は良くない。1㎞以上歩いて何とかホテルに辿り着く。まだ朝の6時前だが、K社長は起きていた。私はフロントで『今日予約したのだが』というと、『今から掃除をするので2時間後に来て』と言われたので、K社長と共に上に上がり朝食を食べ始めた。

K社長には3月ソウルでかなりお世話になったが、またホーチミンで会えるとは感謝しかない。2時間後にフロントへ戻ると、女性が立っていて『あなたの部屋は用意できたので、これだけ支払って』と言われて面食らう。東南アジアでは、部屋が空いていればいつでもチェックインできると思っていたのだが、半日料金を取るというのだ。

ハノイ茶旅2023 その2(3)Grabで空港へ

因みにお店の方は、ベトナム人の若者を中心に、かなり繁盛しており、ベトナムの新しい茶文化が根付きつつあることを感じた。ベトナムと言えば路上のお茶であり、それがおしゃれで冷房が効いたカフェに転じていき、更には茶文化を語る場にまでなってきている。勿論まだごく一部だが、スオンさんの店が引き継がれたのを見ても、良い方向に来ていると思う。

ご縁により、一緒に夕飯を食べに行くことになる。近くの食堂だが、オーナー夫妻と子供の3人でバイク1台、私は蔡君の後ろに乗せてもらい向かう。そこは宿から直ぐ近く。見るからにおいしそうな鶏肉が置かれていたが、名物鶏飯はもう一椀しか残っていなかったので、何と年長者の私が頂くことになった。誠に恐縮だったが実に旨い飯だった。おまけにチキンフォーまで注文してもらい、至福の時を過ごす。ご馳走様。

3月6日(月)ハノイを去る

ハノイ最後の朝。もう駅の大音響で起きることもなくなった。毎日食べた宿の朝食、お粥が忘れられない。空港に向かうまでに時間があったので、最後の散歩に出る。ハノイ駅の前の道は、やはり地下鉄工事中だった。この付近もかなり古い建物が残っているが、電車が通れば様変わりするだろう。

クアンスーと言う名の大きな寺にも入った。他に比べて漢字が多く見られたが、寺の成り立ちなどは全く分からない。ただ華人がお参りしているように見えたので、ハノイにも僅かながら華人が残っているでは、と思ってしまう。だが真相は全く分からないまま、ハノイを去ることになった。寺の境内にバイクを停めている。そういえば、昔に比べるとハノイのバイクはかなり減ったのではないか。

午前10時前、宿をチェックアウトしてGrabを呼ぶ。すぐに捕まったので安心していたが、車はいつになっても来ない。というか、スマホ上では目の前にいるはずなのに、そのナンバーと車種はここにない状況。すると若者が近づいてきて、いきなりスマホを見せて、『あなたですね』と聞いてくる。確かに私がオーダーしたのだが、ナンバーなどが違うので実に怪しい。

それでもそんなに悪い人には見えなかったので車に乗り込む。すると運転しながらまたスマホを見せる。そこには中国語翻訳で『Grabのオーダーをキャンセルして欲しい』と書かれていてちょっと迷う。ここでGrabと切れてしまうと、もし何かあった場合面倒だ。だがその時Grabから『車は来たか』と質問が来た。確かにこのまま放置するとオーダーした私としても具合が悪い。

結局決断してGrabをキャンセル。まあ何事もなく30分後には空港に到着。何と支払いはGrabの手数料が差し引かれ、割安になっていて、運転手共々にっこり。Grabは車と契約しているのではなく、運転手と契約しているのだと分かるが、急に車自体が変わるのはやはり困るな、とは思う。

空港に入ると、それほど人はいない。預け荷物もないので簡単にチェックインも済み、出国もあっと言う間に終了した。暇なので土産物を見ると、コーヒーと並んでお茶もかなり売られている。結局今回は殆どお茶を買わなかったが、空港でも買うのもなんだと思い、次回に回した。

空港内を歩いていると、昔夜行便に乗る時、この辺で食事をしたとか、ここで飲み物を買ったなどが急に思い出されてくる。やはりそれほど変わっていないということか。まあハノイの旧市街もそれほど変わってはいなかったのだが、ノイバイ空港は拡張工事をしているのか、横に大きな工事スペースが見えた。次回来る時は大きく変わっているかもしれない。そんなことを考えていると搭乗時間となる。フライトは順調で、牛肉フォーを食べているとバンコクはすぐだった。

ハノイ茶旅2023 その2(2)思い掛けない再会

夜までゆっくり休んでいたが、あまり腹も減らない。まあ何かちょっと食べておこうと外へ出ると、ちょうどバインミーが見えた。しかしそこで皆が食べていたのはバインミーとスープのセット。あまりに美味しそうだったので思わず注文して座り込む。出てきたスープは牛筋が入っているようで、まるで洋食のオックステールスープのように濃厚で美味かった。

バインミーを一つしか頼まなかったので、寧ろ胃が刺激され、別にサンドイッチまで注文して、テイクアウトしてしまった。でもやはりベトナムに来たらこれを食べないと、と言うことで宿にて美味しく頂く。因みに料金は6年前と比べると1.5倍にはなっていた。

3月5日(日)思い掛けない場所で再会

やはり疲れたのか、昨晩はよく眠れた。揺れないベッドは有難い。何とか這い出し、宿の朝食の粥は食べた。そして昼前まで、いつものオンラインセミナーを部屋から行った。さすがにWifiの弱さが心配だったが、サポーターのKさんに色々と工夫してもらい、無事に乗り切れた。これでどこからでもできるという妙な自信が付く。

昼にちょっと外へ出た。ふらふら歩いて路地に入ると、そこにいたおばさんから『ブンチャー』と声が掛かり、思わず立ち止まる。しかし路地に座っているおばさん、どうやってブンチャーを出すのだろうかと興味が沸き、注文してみる。するとどこからか麺が出てきて、どこからか焼肉が出てきて、保温していたスープまで登場、あっという間にお手軽ブンチャーが出来上がる。これで3万ドンは安いのかな。

ハノイ駅の裏側に出た。ここは昔のハノイ駅だったのだろうか。正面入り口は立派で中には切符売場が見えたが、鍵がかかっていて入れない。ここから宿へ駅を突き抜けようとしたが、それも出来なかった。ふと駅の前を見ると茶葉を売っているところがあったので、声を掛けた。だが言葉は通じない。何とかタイグエンの緑茶が欲しいと理解してもらった頃、英語ができる人がやってきて一件落着。まあ何となく面白かった。

午後3時、お知り合いのIさんと茶荘で待ち合わせ。その時間に行って見るとそこにいたのはIさんではなく、旧知の台湾人蔡君だった。彼とは6年前ハノイで会ったのが最後であったが、彼はその後又ハノイに留学し、博士課程でIさんと一緒になったというご縁だった。彼はベトナムの茶文化や歴史も研究しており、ベトナム語も堪能なので有難い存在だ。

Iさんもやってきて、蔡君の持ってきたお茶を飲みながら歴史談義が始まる。Iさんは現在華人を研究していると言い、ベトナム華人、ハノイの華人街などについていくつも質問させてもらった。これから華人関連をやるなら、やはりちゃんと研究している人の意見を取り入れ、茶旅を進めたいと思った。

そしてこのお店、オーナーがやってきて分かったのだが、何と私が10年ほど前に2‐3度お邪魔してベトナム茶の歴史を尋ねたスオンさんの店だった。数年前に現在のオーナー(スオンさんの姪)が店を引き継ぎ、改装したため、かなり新しくなり、雰囲気も変わっていたが、何となくその面影があった。しかもオーナー夫妻は現在中国語を習っており、その先生は何と蔡君だというから驚く。

ハノイ茶旅2023 その2(1)ハノイに華人の痕跡を探すも

《ハノイ茶旅2023 その2》  2023年3月4₋6日

3月4日(土)ハノイ街歩き

ラオカイから無事に戻った朝。また駅の横のホテルに入り、そこでNさんと別れた。今回Nさんには本当にお世話になり、実に実りある旅が出来た。持つべきものはやはり友(特にアレンジ力があり、語学に堪能)である。早朝ながらホテルは何の問題もなくチェックインできたのだが、朝ご飯を食べていいかと聞くと、『ちょっと待て、確認する』と言ったきり、何の返事もない。

こちらはひと眠りしたいので、また降りて行って『いいよね』と念押しして食事を始める。まあ確かに普通朝6時にチェックインとか、あり得ない世界かもしれないが、私はミャンマーで経験済みだったので違和感はない。いや、ここは鉄道ホテルだから、本来それに対応すべきだろう。そういえば部屋は道路側から反対側に替わったので、音は随分と和らいだ。そこで少し仮眠をとる。

昼前に起き上がり、旧市街地に散歩に出掛けた。ハノイには昔はかなりの華人がいたが、1970年代末の中越戦争前に殆どの華人が退去したとのことで、現在ハノイにはチャイナタウンはない(ホーチミンにはショロンがある)。それでちょっと歩いてみて、少しでも華人の痕跡を探してみたくなる。

ホアンキエム湖まで20分ほど歩いて、そこを起点に北にハンガン通りを歩いて行く。植民地時代の建物だろうか、ほんのチラチラ漢字表記が見えるが、今や観光客が行き交う通りになっている。そこからハンボー通りに進む。元々広東系が多かったといい、その歴史もかなり古い。布屋や雑貨屋などが多く並んでいる。骨董屋で工夫茶のセットを見たが、それほど古いものはない。

ランオン通りにやってくると、昔の店舗の名残がそこかしこに見えた。基本的にベトナムは漢字禁止とも聞いていたので、これはそのまま放置して黙認されているのだろうか。漢方薬屋などが今も営業している。そんな中に埋もれるように福建会館があった。現在は小学校で中には入れない。ここが今回唯一見付けた同郷会館跡だったが、普通のベトナム人にとっては何の意味もない場所なのだろう。周囲はバイクで埋め尽くされていた。

少し腹が減った。見ていると腸粉を蒸している店があり、そこに粥と書かれているような文字があった。そして鍋を探して指をさすと何とか粥が食べられた。肉まんも一つ加えた。お茶が欲しいと思っていると、向こうで茶碗に何か入れていたので、私にも頂戴と言うと手を振って断られる。なんとそれは腸粉に掛けるタレだった。言葉が通じないのは何とも愉快だ。

それからどこの道だか分からないが、適当に歩いてみる。立派な門を入ると奥にお屋敷があったが、そこは恐らく数家族が住んでいるだろう。中国でも見られたが、金持ちから取り上げた家を人民で分けたようだ。その金持ちはほぼ間違いなく華人だっただろう。近所には立派な寺もあった。

更にずっと歩いて行くと、レーニン像がある公園まで出た。ここまで来たらホーチミン廟にも寄ってみる。その周辺はフランス時代の建物、教会などが色濃く残り、また仏教寺院などもある風景区。外国人はまだ少ないとはいえ、カフェでコーヒーなどを飲みながら、寛いでいる。私は湖を突っ切り、仏塔がある寺へ行ったが、ちょうど時間が悪く閉まっていた。仕方なくまたフラフラと歩いて宿まで戻る。

滇越鉄道で茶旅2023(5)モン族の村の茶園

娘は薪で火を興している。窓際には干し肉が下がっている。如何にも旨そうだ。何人かでランチの準備が進む。お父さんは水たばこで一服する。運転手君はエプロンまで付けて張り切って調理に参加する。あっという間に数品の料理がテーブルに並ぶ。特にあの干し肉を炒めたものは絶品だった。何だか中国の湖北や湖南を思い出す。そういえばヤオ族は湖南あたりが発祥とも聞く。

いつの間にか隣家のおじさんが乱入する。しかも自分で作ったという酒を持ってきて、飲めと勧める。俺の酒が飲めないのか、状態だ。そしてこのおじさん、何と中国語を話し始める。そこで語られたことは驚愕の一言。『俺は10年位前、サウジアラビアへ出稼ぎに行き、そこからリビアに送られて、傭兵として戦った』というのだが、俄かには信じられない。ただおじさんとは書いたが、年齢は40歳代だろうから、10年前は十分兵士として機能しただろう。

この村から4人の男がリビアへ行き、みな生きて帰ってきたと胸を張られると、そうかもしれないと思ってしまう。確かに2010年以降、アラブの春の混乱があった時期とも重なる。モン族と言えば、ベトナム戦争後も紛争などに巻き込まれたと伝えられる民族だから、おじさんも若い頃から実は軍事訓練を受けていたのかもしれない。そんなことを思うと、このおじさんが果てしなく、すごい人に見えてしまう。

おじさんに連れられて隣家に入る。そこでは確かに醸造が行われており、樽から酒がほとばしり出ていた。聞けば何とおじさん、醸造の前は茶業をしていたという。そこでおじさんの元茶園に案内してもらって、また驚いた。斜面に数十本の大きな茶の木が植わっているではないか。

かなり整備されており、恐らくは中国資本が買い取ったのではないだろうか。こういったいわゆる古茶樹はプーアル茶の原料として、非常に高値で取引されている。おじさんが梯子をかけて茶摘みしようとしたが、少し酔っているので落ちそうになり、皆の笑いを誘う。代わりに女性が見事な茶摘みを披露してくれ、摘んだ茶葉はお土産に持たせてくれた。こんな茶園がこの辺にいくつかあるらしい。

村を回るときれいな幼稚園などもあり、子供たちはいるが、やはり若者の姿はない。これが今のベトナムの田舎の現状だろう。ラオカイに戻る途中、もう一つきれいな烏龍茶の茶園を見ることも出来た。ここも台湾資本の可能性はあるが、詳細は全く何も分からない。

ついに車はラオカイまで帰ってきた。この2日間予想を遥かに上回る、いや恐ろしいほどの成果を挙げた?のは、まさに運転手君のお陰だった。テレビ番組コーディネーターも務めるNさんをして、『この旅は仕込み、無いんですよね』と言わしめた(ドライバーをアレンジしたのはNさんでしょうに)恐るべき茶旅。運転手君との別れはちょっと辛かった。将来は旅行会社をやりたいという彼の前途に大いに期待しよう。

列車は夜9時半発なので、それまで夕飯を食べてゆっくり休むことに。だが駅前なのに、あまり食堂もなく、ちょっと歩いてみても、暗いエリアばかりが目立つ。仕方なく駅前のカフェに入る。この駅は外国人、特にヨーロッパ人などの利用が多いので、カフェがいくつかある。そこで紅茶を飲み、パスタを食べると眠くなる。

9時頃、駅のホームへ行き、また個室に入る。もう慣れたもので、すぐに定位置も決まり、寝る体制を取る。9時半定刻に車両は動き出す。室内の飾りはちょっと前とは違っているが、大筋同じ。すぐに飲み物販売などがあり、その後はもう寝るだけ。夜なかに一度トイレに起きたが、朝5時までぐっすり。さすがに疲れは出ていた。5時20分頃、列車は無事ハノイ駅に到着し、今回の濃密な旅は、あのけたたましいアザーンのような音声と共に終わりを告げた。