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マレーシア茶旅2024(6)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

1月31日(水)イポーで六堡茶の歴史を学ぶ

朝はまた宿で朝食。今日はマレー系のナシレマッを食す。普通に美味い。全部腹に収めてまた湖を散策。ちょうど反対側付近に動物園があった。地元民によれば『夜は真っ暗で何も見えないナイトサファリ』があるそうだ。その先を歩いて行くと、墓地があった。ここは第二次大戦中に亡くなった、マレーシア、オーストラリア、インドなどの兵士の墓が並んでいる。よく見ると年齢は若く、半分ぐらいは氏名不詳だった。戦った相手は日本軍であろう。

この付近は初期のタイピンでイギリス人などが居住した場所のようで、古い建物やクラブなどが残されている。更には教会なども見え、その先には立派な刑務所があった。その向かいにはもっと立派な博物館まである。1883年に作られたという博物館の展示は豊富で見応えがあった。実は刑務所はそれより早い1879年に出来ているというから、ちょっと面白い。

昨日もちょっと寄った嶺南古廟に今日は入ってみた。意外と色々なものがあった。そこから30分ぐらい歩いて戻る途中にフードコートがあり、美味そうな海南チキンライスを見掛けた。思わず座って食べると旨い。店員はマレー系の若い女性で英語が通じない。取り敢えず5リンギ札を渡したら、0.5リンギのお釣りをくれた。まさかと思ったが、僅か日本円130円だった。これなら毎日くるよ。

11時半頃柯さんが迎えに来てくれ、駅まで送ってくれた。何から何までお世話になった。そして鉄道に乗り、イポーを目指した。意外と乗客が多い。イポーまでは僅か40分だが、何となく列車の旅は良い。イポーには過去2回来ており、駅舎はレトロでとても懐かしい。ここに柯さんから連絡してもらった会長が車で迎えに来てくれていた。

彼はマレーシア六堡茶協会の会長だという。協会は昨年できたばかりらしい。やはりここ数年の六堡茶ブームを反映している。まずは昼ごはんとして、麵屋に連れて行ってくれた。イポーも美食の街であり、食べ物は何でもうまい。その後会長の執務室へ向かう。そこで貴重なお茶を飲みながらゆっくりと話した。その話の内容は驚きの連続であり、私の20年以上の茶旅人生で得られたものが、何の役に立つのかをはっきりと明示してくれた。大変有意義な午後だった。おまけに貴重な本を2冊もらい、感謝感激。

車でホテルに送ってもらった。初めは別のホテルを予約しようと思ったのだが、うまくいかず、結局前回泊まったところに落ち着く。だがなぜかネットが繋がらない。結局部屋を替わることで何とか切り抜けた。ホテル自体は落ち着けるいい感じなので、他を探さす必要がなく助かる。

この付近、意外と夕飯を食べる所に困った。昔の記憶で歩いて行くとレストランがあり、なんと夜も飲茶をやっていた。点心を3つほど頼み、お茶も持ってきてもらって、ちょっと変則な夕飯となる。ちゃんとした点心で実は美味しい。何だかゆったりとお茶を飲む。帰りは既に暗くなっており、足早に戻る。

2月1日(木)イポーをフラフラ

朝ご飯は宿で食べた。意外と混んでいる。外へ出て、どんどん郊外の方へ歩いて行く。街中はやはり漢字が目立つ。旨そうな店も途中に何軒か見掛けたので、こちらで食べればよかったと後悔する。橋を渡ると華人地区と思われるいい感じの通りがあった。だがそのすぐ横は何とインド系の店が並ぶ。なかなか複雑だが、その昔はやはり川を中心に貿易などが行われていたのだろう。

鉄道の線路も越えて辿り着いたのは日本人墓地。こちらもペナン同様鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石の文字はいくつか見える。やはり日本人女性の名前のようだ。からゆきさんはここにも来ていた。何といえばよいのだろうか、言葉が無い。向かいには立派なヒンズー寺院もある。

マレーシア茶旅2024(5)タイピン散歩 十八丁にも

そこから別の道を歩いてみる。モスクやヒンズー寺院が目に入る。更に行くと福建会館など華人系の建物が見えるが、その先にはまたモスクがあり、かなり混沌とした雰囲気がある。大きな学校もあり、その向こうの教会が立派だ。100年以上前、この街は今より賑やかで、更に混とんとしていたのではないだろうか。

かなりの距離を歩いて疲れたので、宿で休息する。それでも腹は減り、昼にまた外へ出た。一番近いフードコートでミーレブスというマレー系の麺を食べてみる。かなりスパイシーなカレー麺。中国語では吉霊麺と書かれていて、ちょっと神秘的だ。コーラを飲みながら流し込む。

暑いのに何となく散歩する。湖の裏道を通ると、周辺には古い家が並んでいる。昔の別荘のような木造家屋もあるが、今やだれも住まず、手入れもしていないので、荒れ果てていた。何だかもったいないな、私がここに住もうかな、などと思ってしまう。タイピンが思いの外気に入ってしまったと感じる。

午後は柯さんが迎えに来てくれて、彼の店で茶を飲みながら、六堡茶の歴史などについて聞いた。1930年代の六堡茶も残されていると言い、その歴史が予想外に古いことに興味が沸く。すると柯さんが『それならイポーの人を紹介しよう』と繋げてくれた。折角なので、急に茶旅となり、六堡茶を追うことにした。それにしても柯さんも収蔵家であり、相当に色々な茶や茶器を持っていて驚く。

夕方柯さんが『さあ、いこう』と言って車に乗る。どこへ行くのかと思っていると途中でいきなり炭焼き工場に入っていく。何でもここで作られた炭を日本企業が購入して、日本へ運んでいるのだとか。それでわざわざ寄り道してくれたらしい。150年前、森林を開拓して炭坑が掘られたことと関連があるのだろうか。

それから30分ほど行くと、なんと海に出た。クアラセペタ、中国名十八丁というらしい。何とここはミニ観光地になっており、簡単な宿泊施設やレストランがある。週末はここからボートクルーズ(鷹に餌をやる、ホタルを見るなど)などが出ており、結構賑わうらしい。ただいまは平日の夕暮れ時、人影はほぼない。

柯さんの知り合いの店へ行き、名物だという甘い飲み物を飲む。そして店の人にある場所を聞いている。そこは何とマレーシアで最初に鉄道が敷かれた駅。ということは、午前中に見たタイピン駅はここと繋がっていたのだ。炭坑から出た物を鉄道でここへ運び、船で外へ出していたということだ。

今は誰も顧みない駅の名残。そこには『PORT WELD 1885』と刻まれていた。更に近くに媽祖廟があるというので探したが、見つからなかった。近隣の人は皆親切で、色々と教えてくれた。どうやら個人の家の中にあるらしい。これが潮州系華人の証のように思われたが、果たしてどうだろうか。

雨が降り始めたので帰る。途中に古いお寺があり、その横に比較的新しい船の模型が飾られていた。何となく鄭和を祭っているように見える。まさかここまで来たのだろうか。最後にタイピンまで戻り、古廟を一つ拝見して、見学は終了した。今日も日はとっぷりと暮れていた。柯さんがベジタリアンなので気を使って私をフードコートで降ろしてくれた。好きなものを食べて、という配慮だ。

賑やかなフードコートで、カレー麺があったので、注文してみる。思った以上にスパイシーだ。それに食べたいなと思っていたのはスープ麵ではなく、汁なし麺だったのでちょっと残念。また明日以降探そう。他にも色々と食べる物はあったのだが、何となく腹が一杯で、散歩して帰る。

マレーシア茶旅2024(4)ペナンからタイピンへ

それから町中の薬局に立ち寄る。80代のお爺さんが迎えてくれた。元は潮州から船で来たという。薬局ではあるが、六堡茶は商っていたと言い、美味しいお茶を淹れてくれた。急須などの茶道具にも凝っており、面白い。ここ数年、六堡茶がブームになり、中国や香港、台湾から茶商が古い六堡茶を買い付けに来たというが、こういうところに眠っていたのだろうか。

もう一軒、昨日は日曜日でお休みだったペナン一の茶荘、天一銘茶へも行く。老舗らしい建物の中で、オーナーとお茶を飲みながら話していると、この店が1983年開業であり、当初は台湾の天仁銘茶の代理店として烏龍茶を売っていたことなど、興味深い歴史を聞く。向こうの方には白人が数人来ており、彼らは取材だという。オーナー夫人はもっと詳しいらしいので、次回は話を聞いてみよう。

ようやく快晴の中、橋を渡り、ペナンを離れた。これからタイピンへ向かうと思っていたが、車はなぜか反対方向へ走る。高速を30㎞以上走ってスンガイパタニという場所に着いた。ここにローカルな茶荘があった。柯さんがここに来たのは、古い急須に出物があるとの情報からだったが、この店には六堡茶など相当古い茶が沢山置かれており、どんどん飲ませてくれた。こんなところに簡単には来られないな、と柯さんに感謝する。

そしていよいよ車はタイピンへ向かう。既に日が暮れかかっている。ケルビンがなぜ柯さんを紹介してくれたのか、その意味が分かる。もしバスでペナンから向かっていたら、10㎞以上街から離れたバス停で降ろされ、そこからまた自力で街へ行かないといけないのだ。タイピンの街に入ると、既に周囲は暗くなっていた。

まずは腹ごしらえ。柯さんは仏教徒でベジタリアンなのだが、なぜか海鮮料理屋へ入っていく。おかしいなと思っていると、店の中が仕切られており、奥にベジレストランが併設されている。ここで美味い豆腐と野菜を食べた。ベジは疲れた体に優しいのでとても良い。勿論オーナーも華人だ。

そのオーナーが経営しているという湖畔の宿へ向かった。タイピンといえば湖、その景色を楽しむリゾート地として、知られている。宿代はそれほど高くなかったので、シンプルな部屋を取って落ち着く。夜のタイピン湖を柯さんと少し散策したが、涼しい風が吹き、今日の疲れが癒える。

周囲にコンビニはあるかと聞くと、街の方へ行けばある、というので、歩き出す。10分もせずに街の真ん中に来たが、コンビニは遠い。フードコートやホテルがある先を行くと、古い町並みが登場した。広東会館などと書かれ建物もある。さすがに華人の街タイピン。今年で街が開かれて150周年だという。

1月30日(火)気持ちの良いタイピンで

翌朝は気持ちよい朝を迎えた。1階で朝食のサンドイッチを食べて、すぐに湖へ出掛けた。徒歩1分で湖周回路へ。多くの人が朝の散歩を楽しんでいる。このゆったり感、何とも言えないリゾート感。道路に大木が倒れ掛かり、その間を抜けて行くのは楽しい。さすが、マレーシアで一番住みたい街に選ばれるだけのことはある。

取り敢えず駅に向かう。この地ではバスは役に立たないと分かったので、次の訪問地、イポーには列車で行くことにした。街中を通ると、漢字が非常に目に付く。古びたいい感じの建物も多い。ちょっと時間が止まったような雰囲気もある。駅に近づくと1915年に建てられた立派な英国式学校もあった。タイピンは1874年に炭坑開発で街が出来、華人が労働者として大量に入植したと聞いた。その先に駅があり、何とここがマレーシア初の鉄道であり、鉄道駅であると書かれていて驚く。駅舎は新しくなっているが、その横に今や食堂となっている旧駅舎が残っている。新駅舎でイポー行きのチケットを手に入れた。

マレーシア茶旅2024(3)ペナンで食べる

宿に戻って休息していると、ケルビンが迎えに来てくれた。今回は茶旅ではないのだが、4年前にお世話になったので、何となく会いたくなって連絡した。彼は車で来たが、おじさんが一人横に乗っていた。取り敢えず郊外の茶荘へ向かう。雰囲気の良いお店で、茶芸を見る。ここのオーナーは1990年頃から台湾茶芸を習って今があるのだと説明される。飲んでいるお茶はやはり黒茶だった。マレーシア茶復活の歴史の一端を見る。生徒は華人が殆どらしい。

それからペナンの美味しい食べ物を食べに行く。日曜日ということもあり、昼下がりの市場は人が多い。焼きそばが特に美味い。こういうものが食べたかった。ケルビン、ありがとう。おじさんと話していると、何と1960年代に台湾の大学に行ったという。当時マレーシアには大学が少なく、簡単に入れる台湾へ行った、というのだが、その頃は反共政策で、東南アジアの若者華人を台湾で教育する、という歴史もあったようだ。これは思わぬところで貴重な話を聞く。

一度宿へ戻り、夕方また外へ出た。宿の裏にはユダヤ人墓地があった。ペナンも色々な人種を受けて入れてきた歴史を持つ。街中を歩くと、本当に様々な顔が見られる。そして様々な建物も建っている。30分ぐらい歩くと、中国人街が見えた。華人の建物も見え、チャイナロードと書かれていたが、その先に踏み込むと何とインド人街だった。

今晩はここにあるカレー屋でJさんと会う約束になっている。前回は確かKLで会った。彼女は色々と動き回っており、ここで再会となった。この店の面白い所は、竹筒に入ったライスが出されて、ルーをつけて食べる。これは意外と旨い。Jさんはもうすぐペナンを離れて、また放浪するらしい。ペナンはかなりいい所だと思うのだが、それでも放浪するのだから、放浪が好きなのだろう。またフラフラと宿に帰る。

1月29日(月)ペナンからタイピンへ

今日はペナンを離れることになっており、当初は朝バスに乗るつもりだったが、何とケルビンがタイピン在住の茶商を紹介してくれた。その人は午前中にペナンに来て仕事をこなした後、私をタイピンまで乗せてくるという、何とも有り難い話に乗った。それで午前中が自由時間となる。昨日ちょっと通った日本人街の方へ足を向ける。

日本人墓地にも関連するが、この道は戦前の日本人が多く住んでいた場所らしい。その面影はあまりないが、日本好きのマレーシアらしい感じはある。その付近で朝ご飯を探すと、また麺が目に入る。暑いからだろうか、マレーシアではとにかく汁なし麺が食べたくなる。甘めの味も好みである。更に猪腸粥が目に入ってしまい、そちらの店でも食べてしまう。本当に安くてうまい。

宿に戻り、柯さんの到着を待つ.ちょうど12時、チェックアウト前に柯さんは迎えに来てくれた。何とも有難い。まずはランチに行こうと連れていかれたのが、和食屋さん。メニューを見ると、何と抹茶があり、更にきつねラーメンが目に入る。この意外性が面白くて注文してみる。和といえば抹茶、というのは絵に描いたような日本イメージ。これは世界で繰り広げられている日本文化紹介で、『お茶といえば抹茶』を広げた結果だろう。

きつねラーメンについては日本にも殆どないと思う。ただその中身はラーメンにお揚げを乗せただけかな。実は帰国後近所に一軒あったので、訪ねてみたが、すごく精緻なきつねラーメンで、店主によれば『日本にはほぼないと思う』とのこと。マレー人はうどんが嫌いなのか、店の仕入れの関係でラーメンが良かったのかは分からないが、これが世界に広がっていく和食の一つではないだろうか。

マレーシア茶旅2024(2)ペナンに辿り着く

午後5時半、クアラパリス港に着いた。ネット検索によれば、この付近から午後6時にペナン方面へ行くバスが出ているらしい。一応一番先頭でフェリーを降り、早足にバス停を探すが見付からない。何とかフェリーターミナルを抜け、人に聞いてみると、バスターミナルはその向こうにあることが分かり一安心。

5時40分、バスターミナルのチケット売場で『ペナン』と叫ぶと、今出るところだ、とチケットを渡される。何とかドリンクだけを確保してバスに乗り込むと、あっという間に出発した。もし6時だと思ってゆっくり来ていたら、今日はこの街止まりだったかもしれない。これはもう運が良いとかいう問題はなく、何かに導かれた旅となっている。

バスにはほぼ乗客はいなかった。ゆったりとした気分でいると、すぐにバスは停まり、客を拾い始める。今日は土曜日、その夕方だから、街中は渋滞していて車の動きは悪い。しかも何か所にも停まり、クアラパリスの次の大きな街、アロースターまで何と2時間もかかってしまった。既にとっぷりと日は暮れている。

一体何時にペナンに着くのだろうかと心配し始めた頃、バスは高速道路に乗り、かなりのスピードで走り出した。結局ペナン島の対岸、ペナンセントラルのバスターミナルまで、4時間弱で到着した。思ったほどのロスはなくてよかった。しかしまだペナン島ではない。ここからGrabを呼ぶ手もあったが、折角なので本日三度目のフェリーに乗ることにした。

バスターミナルからフェリーターミナルは繋がっているので、歩いて行く。フェリーはこの時間、1時間に一本だった。何と支払いはKLで使っていたタッチアンドゴーというカードで支払えた。2リンギ。このフェリーの乗客の半分はバイクに乗っていた。対岸が近づくと明かりが見える。香港スターフェリーをちょっと思い出す。

フェリーは僅か10分で対岸に着いた。ついにペナンに入った。サトゥーンの宿で出てから13時間が経過していた。ここでGrabを呼んで、予約した宿へ向かった。ジョージタウンも大きな街ではないので、10分もかからずに宿に着いた。ここは新しいが客はほぼ中国人という感じだった。

部屋も中国的。そこではたと思い出す。腹が減ったと。何と朝から何も食べていなかったが、時刻は夜の11時。外へ出てみたが、多くの店は閉まっていた。ただ向こうの方に明かりが見え、行ってみると24時間営業のインド系の店があった。その店頭でおじちゃんが焼いている物が実に旨そうで、それを注文した。モットバと教えられたので、そのまま発音するとウエイターも了解した。まあ、お好み焼きみたいなものだが、今日一日の大冒険、久しぶりに旅らしい旅をした気分に実に合う食事だった。

1月28日(日)ペナンに遊ぶ

何だか気持ちが高ぶって眠りが浅い。それでも天気が良さそうなので外へ出る。ペナンは散歩に適した街だ。車の量はそれほど多くはなく、そして何より歴史が感じられる。古い建物が並ぶ一角はなかなかいい。寺院や同郷会館も見られる。その先には4年前に訪ねた老舗茶荘、老翁茶の店があった。朝早くてまだ開いていないが、コロナ禍を生き抜いていて嬉しい。

今朝訪ねたのは、日本人共同墓地。ペナンにあると聞き、来てみたが、残念ながら鍵がかかっていて中には入れない。それでも墓石に日本語が見える。からゆきさんの墓が多いようだが、確認はできない。隣にはマレーシアの有名歌手の博物館があったが、こちらも時間的に早くて開いていなかった。帰りに古い建物の1階にあった食堂で汁なしワンタンメンを食べた。いい感じだった。

バスターミナル付近まで歩き、タイピン行きバスを探したが、よく分からなかった。銀行のATMでお金をおろした。ペナンではなぜかATMをあまり見かけず、探すのにかなり苦労した。宿の近くにはパキスタンモスクがあった。ペナンにはパキスタン人が多くいるのだろうか。

マレーシア茶旅2024(1)奇跡のランカウイ脱出劇

《マレーシア茶旅2024》  2024年1月27日₋2月5日

1月27日(土)ランカウイからクアラパリス、そしてペナンへ

タマラン港を出たフェリーは、ずっと陸地を見ながら進んでいく。途中少し波が荒い場所はあったが、順調に航行して、約1時間半でランカウイ島に到着した。ここで入国審査を受けるのだが、乗客が多く、列が長い。私は係のおじさんに『日本人は早く通れないか』と聞いてみたが、首を横に振る。だが彼は親切にも私の問いに答え『ペナンへ行く直行フェリーはない。ネット検索したら、今日のクアラパリス行きフェリーのチケットはすべて売り切れているぞ』と教えてくれた。

この情報は衝撃的だった。何とか入国するとすぐにフェリーチケット売場へ走ったが、既に窓口に『Sold Out』の文字が貼り出されていた。もう一つの半島の街、クアラケダー行きも同様だった。ということは、ペナンはおろか、半島側にも渡れず、ここで一夜を過ごすしかないのだ。思い余って飛行機のフライトを見てみると夕方5時にペナン行きが1便ある。当然チケットは高いが、それに乗るしかないと覚悟を決めた。

なぜそれほどまでにランカウイを嫌うのか。勿論明日ペナンで知り合いと約束があるからだが、もう一つの理由は、20年以上前にこの島に家族旅行に来た時の印象があまりよくなかったこともある。高級リゾートばかりで、つまらなかった、という思いが20年経っても消えていない。人の記憶とは一度刷り込まれると容易に消えない。

すると、背後から声が掛かった。『クアラパリスへ行く別のルートがあるよ』とその男は言う。どう見ても胡散臭いし、人の足元を見ているようでもある。だが彼は『実はここと別の港からカーフェリーが出る。そちらはネット販売もしていないから、チケットは買える』と言い切るのだ。フェリーの出発は午後3時らしい。

今は1時半だと思っていたら、何とマレーシアとタイには時差が1時間あり、既に2時半。ここから別の港まで車で約20分だという。瞬時の決断が必要だった。私はこの男に賭けることにした。タクシー運転手だと名乗っていたが、どうやら元締めのようで、私をタクシー乗り場へ連れていき、一番前に並んでいた若者に私を託した。

ランカウイの道はきれいで、実にスムーズだった。建物も洗練されていて、ここに一泊するのも良かったのではと思うぐらいだった。だが私はリスクを抱えて車に乗っている。20分後タクシーは港に着いた。運転手は私をチケットオフィスに連れていき、無事にチケットが買えた。タクシー代が30リンギで、フェリー代は25リンギだったが、これは仕方がない。

あと10分で出航だったが、何と私の前に税関が立ちはだかった。一人でスーツケースを抱えて慌てている男は怪しく見えたようで、ケースの中を全部開けられ、チェック(主に酒類らしい)された。それでも何とか船に乗り込み、事なきを得た。いや、あの状況から考えて、奇跡が起こったというべきだろう。

船は大型船。席は8割がた埋まっており、マレーシア人の家族連れやカップルが乗っている。一時は拉致されて貨物船にでも乗せられるかと心配した??のだが、全くの杞憂に終わる。彼らは恐らく半島側から遊びに来て、帰るところではないか。車社会のマレーシアで、船を降りても車が必要なはずだ。だが、カーフェリーの速度は遅い。先ほどの港から出るフェリーなら1時間ほどで到着するはずだが、こちらは2時間半もかかってしまった。その間ボッーとしていたが、水分補給が必要となり、売店でドリンクを買おうとしたが、何とミロしか売っていない。ミロ、懐かしい。

クアラルンプール茶旅2023(4)2つの天后宮へ

7月7日(金)ホーチミンに戻る前に

今朝はお目当ての朝食屋がまさか閉まっていた。仕方なく、MRTに乗り2駅行く。KLセントラルの隣の駅とは思えない閑散とした、未開発の空間に驚く。きっと何かいわくがあるのだろう。とぼとぼ歩いていき、坂道を登る。高級住宅はあるが、大都会とは無縁の静けさだ。

その先にお目当ての天后宮があった。思っていたよりはるかにデカい。観光バスがやってきて、大勢の華人観光客を下ろしている。そこには海南会館もあり、海南人が建てたものらしい。階段を上がると観音がいくつもある。外へ出ると、街が一望できる。結構高いところまで来たとの実感が沸く。

帰りは途中でバスに乗ろうと待っていたが、その付近は何だか工事中で、バスは一向に来なかった。仕方なくまた駅まで歩き、MRTに乗る。チャイナタウン付近で降りて、ランチに向かう。昨晩聞いていた、最近KLで流行りという蘭州拉麺の店に行ってみた。確かに昼時、店はかなり混雑していた。お客は中国系もいるが、何とマレー系女子もいる。蘭州拉麺は豚肉を食べないマレー系にうってつけの料理と言える。串羊肉も合わせて頼み、美味しく頂く。

今度は別の駅から別の路線に乗うろとGoogleの言う通り歩くと、何とキリスト教系の学校の中を突き抜けた。なぜだろうと思っていると、何と駅が学校の入り口に直結していたのだ。更にこの駅から2駅行こうと乗り込むと、何とひと駅で列車は止まり、反対側のホームまで階段を上り下りした。何と不便なのだろう。

何とか目的の駅に着き、歩き出す。そしてもう一つの天后宮へ行ってみた。こちらは午前のそれより規模がかなり小さく、庶民的だった。数十年前にここに移築されたようだが、そのいわれや歴史はよく分からない。そろそろ時間が来たので、バスで帰ろうとしたが、バス停というものが無く、どこで待てばよいか分からない。ちょうどお坊さんが立っていたので、その横にいるとバスが通り過ぎ、お坊さんが走り出したので驚いた。

何とか乗り込み、終点まで来ると、またチャイナタウンだった。この街を一周してみたが、特に面白い所はない。まあ観光地だから仕方がない。最後に初日の夜に外から見ただけの関帝廟に寄る。ここは広肇会館とも書かれており、KLに多い広東系の根拠地のようだった。宿に戻り、荷物を持ってKLセントラルを目指した。

KLセントラルからバスで空港に向かう。昔はよくこれに乗っていたのに、乗り場すら忘れてしまう。1階降りて何とかバス乗り場を見付け、チケットを買う。以前は10リンギだったと思うが、今や15リンギになっている。まあそれでも鉄道の50リンギに比べれば安いか。バスは満員の乗客を乗せて走り出す。

約1時間かかって空港に着いた。私が乗るベトナム航空はどっちのターミナルだろうか。何とかチェックインカウンターへ行き、チケットを貰う。出国審査は入国時よりかなり空いてはいたが、時々審査が滞り、列がなかなか進まない。それはミャンマーやバングラあたりの労働者が、不法滞在などを疑われてのことらしい。結構な確率で別室へ向かう。日本もこんな感じなのだろうか。

広いKLIAで時間を持て余す。LCCターミナルの方が楽しそうだったなと思い出す。KLはかなり多民族が行き交う場であり、彼らを眺めて過ごす。搭乗のコールがなかなかかからず、本当に時間を持て余す。何とか飛行機に乗り込み、機内食を完食するとホーチミンまで戻ってきた。今回のKL旅は何だったのだろうか、と思う間もなく、ホーチミンのイミグレはあっという間に通過できた。

クアラルンプール茶旅2023(3)高級茶荘で

7月6日(木)散歩するだけで楽しいKL

今朝はゆっくりと起き上がる。朝食は付いていないので、外で食べようと出掛ける。すぐ近くに元氷室の食堂があった。いくつの店が入っていたが、迷わず牛肉麺をチョイスした。ただここは観光客向けのようで味は今一つ。おまけに頼んでいないのに大盛りだと言って料金をプラスで取られた。これもまたKL。華人は油断できない。

そこから北上してみる。川沿いに潮州会館、永春会館、安渓会館が並んでいたのは、やはり初期のKLに流れてきた人々の構図だろうか。橋を渡り、川の反対へ行くと、急に景色はインドになる。マスジット・インディアという古いヒンズー寺院がそびえていた。1863年、インド系イスラム教徒貿易商により建てられたとある。華人の横にはインド商人あり、という構図は変わらない。

そこから川沿いを歩くと、 クアラルンプール最古のモスク と言われるマスジット・ジャメクが見える。ここは美しいイスラム寺院として知られ、10時から観光客に無料開放していたので、見学する。確かにきれいな寺院だが、観光客はまばらで、マレー人が敬虔な祈りを捧げている姿が美しい。ムルデカ広場方面の建物もきれいに見え、またそちらへ向かって歩いてしまう。この辺がKL発祥の地、ということだろうか。

昨日素通りしてしまったテクスタイル博物館へ寄る。ここは旧鉄道局の建物を利用している。民族衣装などが展示されているが、特に華人に注目してみてみる。ババニョニャスタイルなどが興味深いが、この辺は知識を埋めないと理解が難しいような気がする。マイノリティである華人は、マレー人から見えれば、興味の対象だろう。

昨日と前を通った南洲茶室で海南鶏飯を食べる。料金もリーズナブルで味も手堅い。そこからMRTに乗る。途中乗り換えがあったが、駅が離れており、一度地上に出て歩くことになる。駅中にはファミマがあって安心?何とか辿り着いた駅はかなり郊外の印象だ。それにしても郊外の新しい駅は見事に先端を行っている。

今日訪ねたのは国立図書館。ここに来ればお茶の資料もあるだろうと勇んできたのだが、何と古い方の図書館は改修中で、半分しか使えない。それでもレファレンスで事情を話すと、色々と資料を探してくれた。しかしやはり茶関係の本は殆どない。マレーシアは茶産地がほぼないので仕方がないか。

ようやく見つけた資料は20年前のKLで開催されたお茶のシンポジウムの記録。私が知っている方々の講演が何人も再現されており、記念にコピーを取ろうと尋ねると、何と『コピー面倒なので、写メして帰って』とあっさり言われてしまう。何でも煩い日本の図書館とは大違い。著作権などどこ吹く風。素晴らしい。

またMRTに乗って宿へ帰った。結構疲れたので休んでいると雨が降り出す。その雨が止んだ頃、また出掛ける。今晩はKL在住のHさんと会う予定になっていた。何と彼はつい先日結婚したとのことで、奥さんも一緒にやってきた。まずは彼があさりラーメンの店に連れて行ってくれた。KLで結構人気があるという。あさりラーメンというと松江を思い出すが、ここのあさりはかなりデカい。

続いてHさんが行きたいというので、中国茶の店に行ってみる。夜もやっている観光客用の店で、私も以前来たことがあるが、何ときれいな2号店が出来ており、高級感が出ていた。この店は、好きなお茶を一人一品選んで、店の人が淹れてくれるという方式。試飲だけして買わない人を防止するということだろう。かなりいい、またレアな岩茶を揃えており、その分値段は高い。オーナーは福建人だという。H夫人は客家の出とか。お茶にも興味があるので色々と話が盛り上がる。

クアラルンプール茶旅2023(2)KL旧市内をフラフラ歩く

昼は近くで海南チキンライスを食べる。以前からある有名店だが、その観光客向け対応が進み、もはや私が食べる場所ではないように思えた。そこからもう一つの老舗茶荘、高泉発を探す。4年前に行ったのだが、今では場所も定かでない。許さんから教えられた通り慎重に歩いて行くと、途中に安渓会館なども出てきて、雰囲気が増す。

以前はもう少しオープンだった高泉発だが、コロナの影響か、今はピンポンを押さないと入れないので、普通のお客さんはいない。中に入ると女性がいたので華語で『オーナーは居るか?』と聞くと一瞬怪訝な顔をしたので、私が4年前に書いた記事にある写真を見せるとすぐに対応してくれた。後で聞けば娘さんだった。

黄さんは、4年経ってもあまり変わらない。最初日本人が来たというので簡単な日本語を使ったが、すぐに『ああ、あんたのことは覚えているよ』と華語に代わった。お茶を飲もうと岩茶を淹れてくれる。言い方は変だが、おばあちゃんの家に来たような気分になる。そして店に飾られたお茶や茶缶を眺めながら、ゆるゆると話す。店内には本当に貴重な品々が並んでいた。

そこからふらふらと図書館を探して歩き出す。クラン川とゴンバック川が合流する地点がクアラルンプール発祥の地とされており、その西側に芝生が映えるムルデカ・スクエアが見えた。その前には1897年に建てられたスルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)が聳え立つ。複合様式で圧倒的存在。

その先のナショナル・テキスタイル・ミュージアム(国立織物博物館)は、もとは1905年に鉄道事務局として建てられた。そこから右に曲がるとKLシティギャラリーが見えてくる。1898年に建てられたコロニアル式の建物を改築した資料館。1階にはKLの歴史が学べる展示室があり、KLの街が形成された様子、客家が大いに貢献したことなどが分かる。2階にはKLの町を模型で再現したコーナーがある。この辺観光客が多い。

さらに進むとお目当ての図書館がある。ここの1階には先ほどよりさらに詳しいKLの歴史が通路のように展示されていて面白い。2階に上がるとほぼ人はいないので、ゆっくりと本を探して読む。もし観光に疲れたら、ここで休むのも良いだろう。私は茶に関する書籍を探すが、かなり限られている。

その後ムルデカ広場をちょっと歩く。この広場の周囲に歴史的建物がごっそり集まっているのが面白い。更に向こうは高層ビル。古びた教会があるのもちょっと気になるが、その背景は書かれていない。スルタン・アブドゥル・サマドビルに入ってみたかったが、門は閉ざされている。今も現役で使用されているのか。その横に観光案内所があったので、地図をもらいながら、お勧めを聞く。更にはこの建物写真を撮る。

フラフラとこの地域を脱出すると、ちょうどよい所に食堂があった。ここで焼肉鶏飯を食べる。広東系で、こりゃいい味出している。11リンギ。お茶と言えば、すぐに中国茶アイスが出て来るのも良い。こんな感じで簡単なご飯を食べるのが私のKLかな。

そこからまた歩く。KLの2大モスク、マスジットネガラはちょっと遠い。その向かいには1910年にイギリス人建築家の設計で建てられたクアラルンプール駅(旧中央駅)が見える。ミナレット(尖塔)があったのでモスクと見間違えてしまった。KLセントラルが今は中央駅だが、ここも現役。この駅の横から線路を撮るのは鉄道オタク的か。裏に回って眺めていると、インド系の女性から『駅の入り口はどこ?』と聞かれたので、教えてあげた。一日とても良く歩いたので、疲れ果て、宿に帰ってシャワーを浴びて熟睡する。

クアラルンプール茶旅2023(1)KLへ

《クアラルンプール茶旅2023》  2023年7月4日-7日

ホーチミン滞在中、中抜けする形で4年ぶりのKLを満喫した。以前取材した老舗茶行を訪ね、またKLの変化もちょっとだけ体感した。

7月4日(火)KLへ

ホーチミンからベトナム航空で2時間足らずのKL。今後拠点をベトナムにして、アジア各地を回るという手もあるな、と思いながら、機内食を食べる。日が西に傾く頃、KL空港に到着。バスでターミナルまで運ばれ、そこから歩いて出口を探すが、なんと遠いことか。以前はシャトルが走っていたようだが、今は停止されている。

ようやく入国審査場まで来て驚いた。延々長蛇の列が目の前に現れる。しかもその列はなかなか進まず。ちょうどラッシュ時に遭遇したらしく、何と1時間近くかかり、入国した。日本人は登録すれば自動ゲートが使えると、見た記憶が蘇ったが後の祭り。ただただ疲れてしまい、これまで使用したことがない、空港シャトルに乗ることにした。

その前に先ずはシムカードを購入。何とコロナ前からかなり値上がりして、どこのブースも最低25リンギだった。そこから空港シャトル、KLIAエクスプレスへ。料金50リンギは高いが、30分でKLセントラルへ出られる。勿論車内も快適だが、バスに比べて高いので利用者は多くない。最初の方は草ぼうぼうで景色はない。突然雨が降り出したが、到着までに止む。

KLセントラル、懐かしい駅だ。ここから僅か一駅、パサールスニへ向かうのだが、何と度の電車に乗ればよいか迷ってしまい、右往左往する。4年間のブランクの大きさを噛みしめる。更に電車カードも4年の間に失効しており、新しいカードを買わなければならない。この辺は他の都市にはなかった扱いだ。

何とかパサールスニへ辿り着き、予約した宿まで歩く。駅のすぐ横だったが、道は分かり難い。フロントは親切で、部屋はコンパクト。特に申し分はないが、何とも機械的な現代ホテルだった。部屋の窓から、不思議な光が輝いて見えた。なんだろうと思い、外へ出てみた。そこはヒンズー寺院で、夜のライトアップがあったのだ。

何となく寺院に入るのは止めにして、腹が減ったのでその近所の華人食堂に入る。怖そうなおじさんが待っていた。何とか焼きそばを頼む。出てきた麺は、福建麺だろうか。味は濃いがこれは美味い。おじさんは華語が出来たが、『どこの出身だ?』と聞くと、困惑した表情を浮かべるだけだった。店の横には関帝廟もある。それから何とかコンビニを見付けてドリンクを買って帰る。

7月5日(水)懐かしの茶荘へ

朝は宿に付いている朝食を食べてみる。正直ちょっと残念。これなら外でマレーシアの朝食を食べるべきだった。ただ宿は気に入ったので、ネットでまた予約。今度は朝食抜きとした。日々プライスが変わるので、何だかせわしない。パサールスニの市場、店もかなり閉まっているのだろうか。チャイナタウンの露店も活気はあまり感じられない。店員は明らかに華人ではなく、バングラデッシュやミャンマー人らしく、華語は通じず英語で話す。

チャイナタウンの端まで歩いて行くと、懐かしの建源茶荘が見えてきた。4年ぶりだが特に変わっていない。中に入ると女性スタッフが『あら、久しぶり』と何の驚きもなく迎えてくれた。オーナーの許さんも『よく覚えているよ』と古い友人のような自然な話しぶりだった。何だか突然ホームグラウンドに帰ったみたいだ。

店で茶を飲んでいた常連さんが帰ると、この4年間、特にコロナ禍での商売など、色々な話を聞いた。残念ながら茶の売れ行きも今一つのようだ。茶の歴史の方も、許さんがかなり興味を持ち、色々な話が出てきた。とにかく一度福建に行かないと確かめられないことばかりだ(行っても分からないかも)。マレーシア茶商公会の60周年記念誌を買って帰った。