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静岡茶旅2022(1)聖一国師墓所へ

《静岡茶旅2022》  2022年12月19₋21日

ワールドカップの64試合目はPK戦までもつれ、アルゼンチンが勝った。その時点で夜中3時だった。そこから寝て、起き上がるともう午前9時。ゆっくりと静岡へ向かう。今年最後の旅が始まる。

12月19日(月) 静岡 聖一国師墓所へ

先月も行った静岡。ちょっとやり残したことがあったので行ってみる。ということで今回はゆっくり在来線で静岡入りする。到着したのは午後2時。今日の宿は静岡駅の真横、ちょっといいホテルらしい。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれる。

まずは荷物を預けて、すぐに横のバスターミナルへ。 蕨野というバス停へ行くバスを検索するが、乗り場が多過ぎて良く分からない。案内所があったのでそこで聞いて何とか辿り着く。しかし1つのバス停にも何台ものバスが次々来るので結局よく分からない。すると地元の方が親切に教えてくれる。こういうのがとても有り難い。

随分昔に梅ヶ島というところへバスに乗っていたことがある。今日のバスも恐らくはその路線を走っている。前回は土曜日だったが、今回は平日。途中から小学生が沢山乗ってきた。バス通学の子が結構いるようで、先生が見送りに出ていた。静岡市というのは市町村合併もあってか、何とも広い。今回は結局バスに1時間揺られて、ようやく目的地に着いた。

そのバス停の横には茶畑があり、説明書きが建っている。『本山茶の茶祖 聖一国師墓所』と書かれている。鎌倉初期に宋に渡り、多くの文物を持ち帰った国師は、ここの出身であり、伝承として持ち帰った茶の種をこの地に植えたとある。その真偽は別としても、この地が茶栽培に優れていたことは確かなようで、本山の名を付けている。

墓所は軽くスロープを上がったところにあった。ここにはお寺はなく、斜面にお墓がいくつも並んである。国師の墓を探したがよく分からない。手前に小さな石碑があり、その前に聖一国師と書かれているのがそうだろうか。付近に人の気配もなく、確認することもできない。安部川の向こうにも茶畑が見える。

帰りのバスにはかなり時間があるので、安部川沿いに少し歩いて戻ってみる。冬枯れなのか、川には水が少なく、すすきの穂がなびく夕暮れ、川岸では何やら工事が行われている。ここは雨量が一定を越えると、通行止めになるとも書かれている。更に行くと、川につり橋が掛かっている。ここを渡るとずっと遊歩道が続いているらしいが、私はつり橋が大の苦手で眺めるだけ。

結局バス停2つを数十分かけて戻り、そこでバスを待つ。ここから乗ったのは私以外に1人だけ。何とも寂しい。だがどんどん静岡駅が近づくと乗客が増え、いつの間にか立っている人が多数になる。最後は多少の渋滞もあり、行きより時間が掛かって、暗くなって駅に戻った。

そして宿にチェックインしようとしたら、結構な行列で驚く。時間帯が悪かったらしい。それにしてもフロント業務の効率が悪いと感じる。ようやく私の番が来たが、マスク越し(防御パネル越し)で会話が通じず?何度も同じことを確認され、嫌な思いをする。折角いいホテルに泊まったと思ったのに、部屋も狭いし、ちょっとガッカリ。

それでも旅行支援クーポンをアプリに入れ、いざ出陣!今晩はすぐ横の回転ずしに行く。まだ早い時間だったが、次々にお客がやってきて席が埋まっていく。私は食べたい物だけどんどん注文し、バクバク食べて引き上げる。酒を飲まない客は早く帰るのが良い。帰りにドラッグストアーで買い物しても、クーポンが使えるので何とも嬉しい。

静岡歴史茶旅2022(4)袋井 松下コレクションと可睡斎

袋井駅まで行き、バスに乗る。このバスは現金のみ。小銭の用意が何とも面倒だ。しかもあいにくの雨。何とか浅羽支所に着く。週末は脇から入りエレベーターで3階の松下コレクションへ。すぐに松下先生が登場され、30分ほど懇談。先生は92歳とは思えないお元気さ。私がこの1年で立てた仮説に対して、ダメ出し連発でかなり参ってしまった。やはり単に頭を捻っただけでは分からないことが多い。

そこへ突然IJさんが登場して驚いた。しかし考えてみれば、今日は松下先生の講演がある日だから、いてもおかしくない。彼女も交えて更に話が弾む。更に松下コレクションの貴重な展示品を少し見て写真に収める。そうこうしている内に、時間になり、セミナー会場へ移動。途中に小学生が書いた『税の習字』が目を惹く。小学生の納税洗脳教育か。すごいな、日本。

松下先生のセミナー、お題は番茶。2週後に番茶大会も開かれるらしい。日本の番茶、もう一度見直して、整理した方が良いと常々感じているが、そういうムードが出てきた、ということなのだろうか。セミナーには知り合いが数人参加しており、先日のエコ茶会であった人もいた。やはり知りたい人はここまでやってくるようだ。

セミナー終了後、IJさんが『李鴻章関連の場所へ行かないか』と誘ってくれた。静岡と李鴻章、全く結び付かないので気になって行ってみる。T議員のご案内で、INさんも同行した。その場所は可睡斎。李鴻章と佐藤進ゆかりの寺と聞き、思わず佐藤進に反応したところ、T議員に『佐藤進を知っているのか』と逆に驚かれた。佐藤進は順天堂の三代目で、陸軍軍医総監、天皇の命で、暴漢に襲われた李鴻章の手当てをした。そこに活人剣の逸話が生まれ、ここ可睡斎に記念のモニュメントが作られた(可睡斎の僧侶と佐藤にご縁があったらしい)。

可睡斎は思ったより大きいお寺。聞けば曹洞宗でも相当格式が高い。先ほどの李鴻章、活人剣の逸話の他、家康ゆかりの寺としても知られるなど、その歴史を十分に感じさせる風格がある。中を見学させて頂くと、すごく広い。『日本一の東司』というのもあり、また善光寺を思わせる地下道?もある。何とキューバ出身の坊さんがいて驚く。

帰りもT議員に車で送ってもらう。議員の家に寄り、李鴻章関連の資料を頂戴する。活人剣モニュメント復活のため、募金活動を行い、わざわざ李鴻章の故郷安徽省、佐藤進の佐倉まで出向いて、彼らについて学んだというからすごい。郷土の歴史というのは、このような熱心な方に支えられて続いて行く。そして我々もそれを利用させて頂く。有難いことだ。

3人で掛川まで行く。もう夜なので夕飯を食べようとなり、駅前の居酒屋へ入る。私は酒を飲まないし、一人で居酒屋へ入る機会などなかったが、偶然入ったその店の焼き鳥は大きくてうまい。パイナップルサワーは自ら搾るという面白さ。結構新鮮な驚き。居酒屋飯は意外と野菜も取れて、定食屋より、よいかもしれないと思う。今度は一人で入ってみようか。

食べて飲んでいる間も、お茶の歴史や製法、品種などのお茶談義が続き、午後8時になってしまった。名残惜しいが私はこだま号に乗って東京へ帰る。涼しい風が何となく心地よい駅のホームだった。暇なので車内を見学していたら、変なスペースがあった。見れば『廃止された喫煙ルーム』だった。新幹線って、去年まで喫煙できたのか、すごいな、日本。さあ、これからワールドカップの連戦だ。気合を入れよう!

静岡歴史茶旅2022(3)なぜ行ったのかの磐田

バスに乗って掛川駅へ戻る途中、あの名店を見付けて思わず降りてしまった。静岡に来たらさわやかへ、とは以前より何度も聞いていた。今回は6年ぶりに、衝動的な出会い。時刻は土曜日の午後2時半、それでも5組待ちという超人気で、かなり驚く。さすがに帰り客が多くいて、そんなに待たずに入れたが、さすがさわやか、と感心しきり。ジューシーなげんこつハンバーグのセットは1260円で、十分満足した。

磐田

そこから歩いて15分で掛川駅へ到着する。何だか勢いが出て(明日の雨予報もあり)、そのまま電車に乗った。磐田までは4駅と近い。初めての磐田。駅を降りると階段にジュビロ磐田の応援が。清水と並び、来年は残念ながらJ2になったようで、こちらも駅前は実に静か。そして何とボケたことか『私は何で磐田に来たんだろう』とその目的を完全に忘れてしまって焦る。元々明日来る予定だったので、いきなり来ていきなり忘れた。そんなことってあるのだろうか。老いとの戦い、いや共生。

仕方なく、何も分からずに駅からまっすぐ歩き出す。1㎞ほど行くと、遠江国分寺跡という看板が見えた。今朝は駿河、夕方は遠江国分寺とは、なかなかすごい。静岡の広さを感じる。更に静岡県には伊豆国分寺もあったらしい。遠江国分寺は、現在鋭意発掘整理中のようで、かなりの規模を発掘し、整理していた。夕暮れ時に遺跡を眺めていると、何故か遠い昔、歴史学を勉強したいと思った自分が懐かしくなった。

道路の向かいにうっそうとした森があった。こちらも奈良時代創建の府八幡宮。かなりの格式が感じられる上、日がほぼ沈む頃のこと、何とも神妙な雰囲気が流れている。子供の頃なら肝試し会場かもしれない。そこから駅までゆっくり戻るが、残念ながら見るべきものはあまり見当たらなかった。

掛川

掛川に戻り、荷物を取りだして再度宿へ向かった。さすがにフロントがいてチェックインが進んでいた。フロントは外国人だったが、慣れた感じの日本語を普通に使い、テキパキこなしており、特に問題はなかった。彼らも全国旅行支援など、新しい制度の業務が加わり、大変だとは思うが、マニュアル通りきちんとこなしていて好感が持てる。

だがこの宿、そのサービス内容はかなりすごかった。何しろ掃除は7泊以上しないとしてくれない(必要な場合は1回1000円)。スタッフは23時以降昼までは完全不在。電話しても浜松店にかかる仕組みらしく、緊急状況に対応できるのか、かなり不安である。部屋も狭く、これで料金1万円(明らかに全国旅行支援の便乗値上げ)はないだろう。まあ部屋に電子レンジがあるなど、よい点もあるのだが、ついにこんな宿が出来たのかと、複雑な心境になる。夕飯を探しに出たが、支援クーポンが使える店もなく、何だかかなり疲れたので、コンビニでサンドイッチなどを買い込んで部屋で食べた。

11月20日(日)袋井へ

今日の予報は雨。そしてやはり雨。掛川城にでも行こうと思っていたが、宿でゆっくり待機する。10時ちょうどにチェックアウト。スタッフはいなので、単にカードを箱に返すだけ(チェックアウトしたかは誰が確認するのだろうか)。朝食を食べていなかったので、駅にあるコメダ珈琲で久しぶり(台湾以来)のモーニング。おぐらあんを選択して500円。日曜日のせいか、お客さんはかなり多い。

静岡歴史茶旅2022(2)駿河国分寺と松本亀次郎

11月19日(土)静岡で

朝早く起きる。朝食も食べずに出掛ける。宿の前付近から静岡大学方面行バスに乗る。料金をSuicaで払おうとしたら、何と『本日限り運賃無料』と書かれているではないか。一体なぜなのかはどこにも書かれていない。そして地元民が乗ってきても、この表示に戸惑っているので、余程稀なことなのだろう。すごく得した気分でバスに揺られる。

東名高速道路を潜り、静岡大学正門で下車したが、キャンパスには向かわず、駿河国分寺跡と言われている片山廃寺にやってきた。最近各地を旅する中で国分寺跡を目にすることも多く、出来る範囲で行ってみることにしている。片山廃寺は奈良時代創建の寺で、現在は大きな木がある他は何もなく、土台が復元され、高速道路の下まで続いている。近くに七重塔の跡も見つかり、国分寺跡とみられているようだ。

しかしGoogleによれば、駿河国分寺は別にあるという。そこにも行ってみようとまた無料バスに乗る。バスには静大の学生たちが乗り込んできて、結構な乗客になる。このバスで浅間神社まで行く。以前ここは見学していたが、もう一度中を通り、丸尾文六、阪本藤吉の石碑を眺める。これから彼らについて調べを進めたい。来年の大河ドラマ館の設置は進んでいる。

そこから数分歩くと、横道の中に古くはない、小さなお寺があった。確かに駿河国分寺と書かれている。ご住職が居たので『ここが国分寺跡ですか?』と聞いてみると、『いいえ、ここは奈良時代から続く国分寺で、跡ではありません』と言われ、驚く。奈良時代はこの横にある静岡高校の敷地全てが国分寺だったともいう。そして慶喜さんのお陰で明治以降も国分寺は残ったと説明されたが、何とも不思議な話だった。

そこから宿まで歩いて行くと、お城の裏に出る。すぐ近くにカフェがあり、モーニングが食べられるというので入ってみた。静かで心地よい空間だった。トーストと丁寧に入れられたコーヒー、そしてヨーグルト。ご主人が一人でやっていた。いい気分だったが、『写真撮影禁止』という張り紙で、少し心が萎えた。きっと事情はあるのだろうが、自分が食べたものを撮影できないのだろうか。忙しそうなので、聞かずに店を出た。

宿まで戻り、少し休息した後荷物を持って駅へ。今回は意外と時間がないので、昼ごはんは駅のホームでそばを食べる。これまで何度も見てきたが、ここで食べるのは10年ぶりだろうか。チーズそばなど不思議なメニューもあったが、一番人気のかき揚げそばを注文。さっきのカフェを引きずったのか、写真を撮り忘れた。来た電車に飛び乗って掛川へ向かう。

掛川

掛川駅へ着くと、まずは予約した宿に荷物を預けに行く。だがこの宿、どこかおかしい。入口が完全にブラインドになっていて中は見えない。入ってみると、何とフロント業務は12時からで、午前中は荷物を預からないとある。これで計画が狂い、駅へ戻って反対側にあるコインロッカーに荷物を入れる。何とも面倒だ。

そこからまた駅の反対側に戻り、バスに乗る。570円払って、40分行く。静岡市内は無料だったが、ここでは有料だった。バス停から10分ほど畑の間を歩いて行くと、立派な図書館が見えた。大東図書館、ここの2階に松本亀次郎記念館がある。資料の展示や亀次郎のビデオが無料で見られる。だが見学者はおらず、係員もいない。松本亀次郎とは、戦前あの魯迅や周恩来に日本語を教えた教師だったが、今は知る人は少ない。

そこからバスの時間が合わず、天気も良いので、歩いて亀次郎生家へ向かった。徒歩約40分。今は鶴峯堂という建物が出来ており、ここに亀次郎と中国人の交流が展示されている。ここは実は前回高天神城を訪れた帰りに偶然見つけた場所だった。そこで亀次郎を知り、興味を持ったので再訪することになった訳だ。

折角なのでこの付近で亀次郎の足跡を辿ろうと思ったが、お墓も見付からず、卒業した小学校も良く分からなかった。大きな道に出ると鷲山医院があり、ここから吉岡弥生が出たことは前回学んだ。

静岡歴史茶旅2022(1)清水次郎長を巡る

《静岡歴史茶旅2022》  2022年11月18₋20日

茨城から帰ってまたすぐに電車に乗る。今回は所用で静岡へ向かった。日本にいる期間が限られており、その中でワールドカップも近づく中、ちょっと強行軍ではあるが、やはり旅に出た方が楽しい。

11月18日(金)清水へ

いつも静岡へ行く場合、どの方法で行くかを迷う。ただ新幹線はつまらないので原則乗らない。電車もJRか小田急かなどと迷う。そんな中、今回は疲れないで行く、をテーマにゆっくりバスの旅を選択する。これまでもバスタ新宿からバスで行ったことはあるが、今回は渋谷から乗ってみた。新宿始発の25分後に渋谷に停まるので、こちらの方が楽だと思った。

渋谷のバス停はマークシティーにあると書かれていた。何度も行っている場所だが、こんなところにバスターミナルがあるのか。半信半疑で行ってみると確かに5階にあった。だが本当に小さな待合室、殆どいない乗客、9時台だと窓口すら開いていない。トイレも狭い。ただ逆に言えば、リラックスしてただバスを待つだけでよい。ここに来るのは羽田空港行などかなり限られているので、バスタのような忙しさは一切ない。今度ここから羽田に行って見ようかな。

バスはほぼ定刻にやってきた。乗客は2人だけ。そして乗っている客も多くはない。途中高速が渋滞したのは道路工事のせいだった。予定より40分遅れて足柄サービスエリアに入る。急ぐ旅ではないので、気楽なものだ。向こうに富士山がくっきり見える。今日は実に良い天気で風もない。観光バスはなぜ停車中ドアを開けたままなのか。泥棒はいないのか。

このバスは遅延している上、高速を降りてから静岡駅まで結構時間が掛かることを知っていたので、清水駅前で降りる。昼過ぎの駅前、人もまばらで何とも寂しい。清水エスパルスに勢いがないことも関係するだろうか。腹が減ったのでとんかつ屋に入ったのだが、なぜか名物モツカレーを食す。モツもカレーも大好きだが、別々に食べても良いかもしれない。

そこから天気も良かったので、清水次郎長巡りを始めた。まず港沿いに歩き、次郎長が明治に開いた船宿末広の跡地へ行く。本当に港の横、ここは海軍の定宿だったとかで、あの広瀬武夫なども泊まったとある。今は家があったという雰囲気はない。山本長五郎の生家も少し離れた商店街に残っており、今は次郎長の足跡を展示する資料館になっていた。

生家の近くに次郎長の墓があるというので行ってみる。梅陰寺、かなりモダンな造りに見える。階段を上ると奥に次郎長の墓があるのだが、ここで参観料300円を取られる。墓参りに入場料とは、京都の寺でもあるまいし?遺物館に展示があり、次郎長の像もあった。そしてようやく次郎長、大政、小政、お蝶などの墓が並ぶ。帰りに受付でお茶を出してくれた。コロナ前はガイドの案内で外国人も来ていたという。

次郎長と茶園開拓(富士裾野の開墾)、というテーマで調べてみるのも面白いと思い、そこから県立図書館へ向かう。ただこの付近、交通は不便でバス路線もなく、静鉄の駅までかなり歩いて行く。美術館前で降り、知った坂道を上りようやく図書館に着く。ここでは、いつも気持ち良いサービスが受けられるので大変有り難い。今回は様々な資料を出して頂いたが、『本は使われないと可哀そうです』と言われたのが印象的だった。

本日は駅前ホテルに宿を取った。これも全国旅行支援のお陰で安く泊まれると喜んできた。静岡のクーポンは紙もあるが、原則はアプリ使用だった。ここに支援金を入れて使うという優れもの。これだと1円単位で使えるので、悩まなくてよい。ただエキナカで夕飯を食べる所はあるが、居酒屋系が多く困る。結局前回と同じ店で同じ夕飯を食べ、ちょっとお菓子を買って帰る。 

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(11)なぜか屋島へ

なぜか屋島に行ってみたくなった。源平合戦、先日壇ノ浦に行ったことも理由だろうか。琴電屋島で降りる。実は屋島は島と書いて山だった?!小さな駅で降りてどうするのかと思っていると、ちゃんとバスが来て山頂まで連れて行ってくれた。しかも100円で。登るにつれて、眼下に海が見えてくる。

源平屋島合戦場との看板が迎えてくれたが、やはり山の上ではピンとこない。その向こうには四国88か所の一つ、屋島寺があったので、まずはそこを見学。源平合戦の遺物を展示した宝物館があるとあったが、スルーした。太子堂や千躰堂などが並び、蓑山大明神のたぬきの置物がかわいらしい。本堂も年季が入っている。

更に展望台?にも行ってみた。ここからなら屋島地域が一望でき、屋島の合戦の舞台を上から見ることが出来る。きれいに作られた施設もあるが、人は殆どいない。天気が悪いからだろうか。今日は小雨で気温も23度と肌寒いと言ってもよく、歩くにはいい気温ではある。

そこから更に歩き、屋島城という古代の遺跡を見た。663年の白村江の戦いに敗れた後、中大兄皇子がここに防御の城を築いたらしい。他にも瑠璃宝の池(血の池)など源平ゆかりの場所もあるが、那須与一や義経の故事はやはり下へ行かないと出てこないらしい。帰るバスが来たので乗り込んだが、駅まで行く前で一人だけ降りた。

バスから洋館が見えたからだ。神戸の異人館から移築され、今はカフェになっていた。その横にはテーマパークのようなきれいな施設があったが、これまたスルーした。その向こうを登ると屋島神社がある。高松藩初代は水戸家初代徳川頼房の次男で、ここに家康を祭った。讃岐東照宮という文字も見える。階段がきつい。神社の門は固く閉ざされていた。ここからは街が良く見えた。

琴電で元に戻り、瓦町駅から歩く。商店街のモールの下をずっと歩いて行くと、高松のB級グルメ、かしわバター丼を出す店に辿り着き、遅いランチを食べる。それにしてもこの店のボリュームはすごい。ご飯は茶わん3杯ぐらい。鶏肉をふんだんに焼いて乗っけてくれる。更には何とご飯が余れば、無料でカレーを掛けて食べられる。これで800円、ありえない。午後3時でも若者が何人も来ていたのは頷けるが、この量、私にはもう無理かな。

腹ごなしに歩いて行くと、歴史資料館と図書館、そして菊池寛記念館が同じビルに入っていたので、寄ってみる。歴史資料館で香川の歴史を学び、図書館で香川茶業の歴史を探す。菊池寛は時間的にパスしたが、後で中央公園に像が建っているのを見て、地元では顕彰されていると感じる。この日は宿でゆっくりして、夕飯は抜き、夜泣きラーメンで一日を終える。

7月15日(金)高松で

朝ご飯を探して町に出る。商店街の2階にモーニングがあると聞いて出掛けてみると、何と300円のコーヒーを頼めばトーストが無料で付いてくるというものだった。かなりレトロな店内は満員で、ちょうど席が空いたので、取り敢えず注文してみた。正直コーヒーは?だったが、トーストは美味しく頂いた。

東京に戻る前に時間があったので、高松駅まで散歩して、高松城跡を見ることにした。横には琴電築港駅がある。この城は基本的に松平家。天守閣は石垣だけが残っており、披雲閣庭園は手入れが行き届いており、素晴らしい。盆栽なども沢山置かれている。月見櫓も残っている。今は玉藻公園という名称の方が一般的らしい。

宿近くまで戻り、早めのランチに行く。丸亀で行けなかったので、綿屋の肉ぶっかけを食べる。システムが良く分からなかったが、社員食堂のように流れていくらしい。早い時間でもどんどん人が入ってくる。確かにこの麺はコシがあり、肉汁のうまみも感じられ、美味い。

昼頃リムジンバス乗り場を探してバスに乗り込む。高松空港は以前一度降りたことはあるが、乗るのは初めて。というか、今回私が四国を目指した真の理由、それは香川県にこれまで1泊もしたことがなかったからだった。これで残すは埼玉県のみ。いつでも泊まれると思って残ってしまったが、果たしてどこで泊まるのが良いかを考えながら、フライトを終わる。折角讃岐うどんを食べたのに、帰りに新宿でまた立ち食いうどんを食べてしまったのはなぜだろうか。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(10)仁尾、塩飽本島から高松へ

仁尾

文化会館の中に図書館があったので入って、後発酵茶や茶粥について何か資料はないか、聞いてみる。対応は非常に親切で、かなりの資料をコピーさせてもらえた。それでも地元の人も、碁石茶がここに運ばれ、仁尾商人が売り捌いた歴史についてはほとんど知らないという。茶粥も食べてはいないとか。坂出あたりでは今も食べられているのだろうか?

古い町並みを歩いてみる。旧塩田忠左衛門邸という、見るからに立派な建物が保存されている。特定日には公開もされるらしい。この付近の旧家は米酢などの製造で栄えていたのかな。その先には文豪菊池寛母の出生地の碑が建っている。海寄りには江戸時代に造られた金毘羅灯篭があり、土佐藩主が参勤交代におりにこの港を使ったこと、そして土佐茶の販売権を仁尾商人が得ていたことが説明されていた。ようやく碁石茶と仁尾の接点を見つけたが、今回はこれまでだった。

更に覚城院という寺へ行く。ここは坂がかなり急であり、横から見ると石垣が積まれている感じだった。仁尾城跡と書かれていて、何となく納得した。最後に50年前は碁石茶を扱っていたと資料に書かれていた今屋という茶屋に行ってみる。店の建物自体はまだあり、茶缶などが置かれているのは見えたが、扉は固く閉じられており、これ以上仁尾茶についての調べは受け付けられないことを悟る。

塩飽本島

仁尾からバスで詫間へ戻り、JRで丸亀までやってきた。結構疲れたのでそのまま宿で休む手もあったが、明日の天気予報が雨だったので、思い切ってそのまま塩飽本島へ向かう。歩いて数分のところに港があり、往復1070円でフェリーに乗れた。30分で到着。高見島行よりかなり大きいフェリーで、島の規模を知る。 

本島は平たんで歩きやすい。すぐに天理教の大きな建物があったのは驚いた。10分ぐらいで塩飽勤番所跡の建物が見えたが、既に見学時間は終わっていた。そのすぐ近くの家には咸臨丸水夫生家跡の表示がある。確かにこの時代、アメリカまで行ける水夫を探すのは大変で、塩飽の漁民などが駆り出されたのだろうか。

その先をずっと歩いて行くと、専称寺という寺を見た。この寺の起源は、あの法然上人が四国へ配流になった際、ここに庵が建てられたことだという。横には島のまとめ役、年寄の墓も見られる。その先が笠島伝統的建造物群保存地区であり、古い建物などがきれいに整備されて残っていた。中には何でも探偵団に伊藤若冲の絵を出品して、高額の評価を得た家もあると書かれているが、歩いている人は一人もいない。

フェリーの時間があるので、ここまでとして帰り道を急ぐ。一つ気付いたのは、家の門のように、柱が二本経っている家が多い。あれは何の印だろうか。今度はもっと時間を掛けて島を巡りたい。今回は残念ながらお茶に関する歴史は何も出てこなかったが、色々と面白い発見がありそうだ。

フェリーで丸亀に戻ると、腹が減ったので商店街の店に入った。さしみの文字に釣られたのだが、何ともうないという。仕方なくかつ丼とうどんのセットにしてみたが、これが意外にイケる。何だかこういう店のかつ丼は、卵とじが上手いような気がする。店の人は刺身がないことを何度も謝ってくれたが、とんでもない、ご馳走様でした。

7月14日(木)雨の高松へ

今朝は予報通りの雨だった。高松へ移動することにしていたのだが、荷物もあるので困った。取り敢えずチェックアウト時間に外へ出て、商店街のアーケードで雨を避ける。昨日閉まっていたカフェがやっていたので、そこへ入る。何とこの店、和朝食、洋朝食各990円という本格的なメニューがありドキッとしたが、その横にモーニングセット510円があった。ほっとしてそれを頼んだが、それでも十分の量がやってきた。お店は広く、喫煙可でもその被害はなかった。

小雨の中を駅へ行き、高松行電車に乗る。途中国分寺のあった国分駅、そして鬼無(きなし)という駅名に驚く。ここも桃太郎関連だろうか。30分弱で高松に到着。駅の案内所で地図を貰い、バスに乗って今日の宿へ向かう。荷物を預けると雨が止んでいたので、すぐに行動を開始して、琴電瓦町駅まで歩く。琴電は先日金毘羅で始発駅を見て乗りたいと思っていたローカル線だ。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(9)高見島と丸亀城

高見島へ

観光案内所の女性が『茶粥は高見島』といったのが頭から離れず、とにかく高見島を目指すことになってしまった。案内によれば、高見島へ行くには、まずJRで2つ戻って多度津駅で下車。何とこの辺ではSuica使用可能。多度津駅前には少林寺拳法発祥の地の碑がある。駅でもらった地図を手掛かりに、古い町並みが保存されている地区を歩く。合田という一族が繫栄していたらしい。合田家の豪邸を見ても、多度津が江戸から明治にかけてかなり繫栄していたことは分かる。

駅から港までは徒歩15分。港で往復切符950円を買って乗り込む。小さなフェリーで乗客も数人だけ。老人に茶粥のことを聞きたかったが、このフェリーは他の島へも行くのでおいそれと話しかけられない。高見島に着いたが、飲み物を買うところもなく、自販機すらない。ひたすら歩くだけだ。

石垣の脇を登る。サンフランシスコへ移住した家があり、外からトマトが伝わったとある。実にいい感じの細い道が続き、鄙びた家々が連なり、そして青い海と空、石垣の集落。この世のものとも思えない風景、まるで寅さんの舞台だなと思っていると、やはり寅さんはここへ来ていた。『男はつらいよ 第46作 寅次郎の縁談』(マドンナ松坂慶子)にこの島は登場しているようだ。大聖寺という寺があり、その楼門は力士が柱を支えている。 

浦地区から浜地区へ移動してみた。島は大きくないので歩いて回る。途中お爺さんが家の前に座っていたので声を掛けると、まあ座って話そうと言ってくれた。茶粥については『茶粥なんて結婚してから食べたことない』とあっさり。更には『茶粥を食べなくなってから、島で胃が悪い人がいなくなったよ』という驚きの証言も飛び出す。基本的に番茶や麦茶を飲んで暮らしてきたという。茶粥は50年以上前に一般的には食べられなくなったと考えてよさそうだ。因みにこの島に食堂のようなものはなく、茶粥が食べられるのは島に一軒ある民宿だけらしい。

お爺さんの家の先にはお墓があった。これが珍しい両墓制(埋葬とお墓参り用に2つのお墓を設ける)。昔は土葬だったので、土葬の上に小さな小屋を作っていたが、昨今の台風で墓が流されてしまって荒れていた。先ほどのお爺さん曰く『今は島で死ぬ人はいない、皆町の病院だ』。

フェリーで島から戻り、駅まで走っていく。何とか電車に間に合い丸亀へ戻る。宿にチェックインして、疲れたので部屋で相撲を見て過ごす。6時に夕飯を食べに外へ出た。宿の近くでうどん屋を探したが、実はさぬきうどんも朝から昼に食べるもの。夜やっているのは居酒屋でその一軒でざるうどんと骨付鶏を食す。骨付鶏はうまみが出ていてよいが、ニンニクが非常に多く使われている。居酒屋なので、隣のおばさんが酒飲みながらタバコをふかすので、すぐに退散。

7月13日(水)丸亀城

今日も朝から暑い。朝ご飯を探そうかと思ったら、お城が目に入ってしまい、暑くないうちにと、登り始めたが坂が厳しい。それでも丸亀城天守閣まで登ると、とても涼しい風が吹き抜けてホッとする。これは入場料を払う価値がある。ただ階段はかなり急激で、木造なのでちょっと怖い。景色は間違いなく抜群。搦め手からするすると降りる。城の石垣は大規模工事だった。横の歴史資料館に入り、丸亀藩のお勉強。生駒、山崎、松平と続く藩主についての展示があった。

昨日歩いた商店街に、良さそうなカフェを見つけていたので、朝ご飯を食べようと向かったところ、まさかのお休み。何だかすごく焦って急遽他の店に走っていく。ちょうど居心地の良さそうなカフェが見付かり、一安心。ホットサンドセットとアイスティーは悪くなかったが、600円という表示が税抜き表示で660円取られたのは、ちょっと残念。更にタバコを吸う常連客がいて、またもやすぐに退散。

今日は仁尾へ行ってみる。昔栄えた港街だというが、今や鉄道も通っていない。詫間駅まで4駅。ここの駅でもなぜかSuicaが使える(詫間と観音寺のみ)。駅に着くと馬渕英里何と要潤が三豊市のCMに出ている。二人ともここの出身だという。

駅の横にある詫間駅観光案内所に入ると若い女性がとても親切に色々と教えてくれた。40分バスを待つ間、その辺をふらふら歩く。ここにも桃太郎伝説があるらしい。この辺りもコミュニティーバスが何路線か動いているが運賃100円は安い。30分ぐらい乗って行くと、一山超えて仁尾に入っていく。そして古い町並みが見えてくる。取り敢えず仁尾文化会館で降りてみる。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(8)碁石茶と金毘羅参り

大豊町は7年前の四国行脚の時に寄っているので、街中に入ると懐かしい風景があった。JR駅の横、大豊町碁石茶生産組合が農業センター内にあった。現在は大豊ゆとりファームが管理しており、Yさんが丁寧に説明してくれた。ただ碁石茶の歴史については、石鎚黒茶、阿波晩茶同様、現在文化庁が調査中で来年には報告書が出るらしいので、それを待つしかないという。

組合が結成されたのは10年前。前回色々と面倒を見てくれたOさんはなんと今町長になっておられるという。ブランド統一(ブレンド)、製法統一、小笠原家(一時唯一残った碁石茶農家)の蓆(菌)を使うなどを共通ポリシーとしている。だが私が前回訪ねた頃がピークで8軒だったが、現在は高齢化もあり5軒に減り、後継者難だという。碁石茶はマーケッティングが上手くいっていると思っていたので、意外だった。その後ゆとりファームの生産現場(標高400m)で作業の様子も見学させてもらった。

その後道の駅に寄り、私は煎茶と番茶を買う。Aさんが食べたかった碁石茶アイスは売り切れていたようだ。残念。JR大杉駅まで送ってもらい、ここでお世話になった2人と別れる。彼らは今から熊本まで車で帰るというから大変だ。小さな駅で駅員さんからきっぷを買う。ホームに碁石茶の里と書かれている。

特急で約1時間。琴平駅まで行く。自由席は意外と混んでいる。子供の頃から一度は金毘羅参りと思っていたので、ここで降りた。だが琴平駅から予約した宿まで歩いて15分ぐらいと、遠かった。また金毘羅も駅を挟んで反対側でやはり遠い。更にご飯を食べる場所もなく、向かいのスーパーで弁当を購入して部屋で食べた。ただ部屋は狭いがきれい(机はなかったが)で、屋上展望浴場でゆったりできたのは良い。 

7月12日(火)金毘羅参り

翌朝は早めに宿を出て金毘羅参りに行く。まずは宿のすぐ近くにあった高杉晋作が隠れた家を見る。呑象楼と書かれており、日柳燕石という人が住んだらしい。幕末に追われた高杉がここに滞在したというがどうだろうか。

暑いので早めに金毘羅宮へ。ふもとまで歩いて15分、そして見上げると階段は続いており、表示ではそこから785段とあり、恐れる。しかしここまで来て引き下がるわけにもいかず、トボトボ登り始める。早くもお参りを終わって降りてくる人もいるが、全体的に参拝者は多くない。古びた雰囲気はとても良いが相当に疲れる。石松や源内の金毘羅参りを思いながら這い上がる。江戸から明治期、茶屋からの寄付が多いのは面白い。

高所恐怖症なので、後ろは振り向かず、ただただ上がる。いくつかの鳥居をくぐり、いくつかの建物を通り過ぎ、何とか本殿に達する頃には汗びっしょり。しかしここからは町が一望できる。疲れたので少し休む。特にこれ、といったものはなく、金毘羅参りとは一つの修行では、と思う。

帰りは石段を下りる自信がなく、裏参道を降りてきた。平地まで来ると、琴電琴平駅があった。ここから電車で高松まで行けるようだ。JR駅前の喫茶店に入る。モーニングの表示はなかったが、聞いたら『トーストとゆで卵、コーヒー』が出てきた。450円。常連さんしか来ないような店だが、暑いから常連も来ない?店主と電気屋を待つ女性の世間話は世相を反映していて、参考になる。これから朝はモーニングだな。

線路沿いに『琴平グランドホテル』が見えた、と思ったら、何と立派な社員寮だった。宿へ戻り荷物を引いてJR駅まで戻る。今日の目的地丸亀までは360円30分。乗客は誰もいないと思ったが、発車直前に増えてきた。琴平駅は大正時代に建てられた偽洋風建築のようだった。

丸亀で

丸亀駅で降りた。静かな駅だった。観光案内所で地図を貰い、色々聞いていると塩飽諸島が魅力的に聞こえてくる。茶粥というと、それは高見島かなといい、その島は丸亀の範疇外だというから驚いた。まずは老舗の宿へ荷物を預けて行動を開始する。

商店街を歩くと富田園があった。弘化4年(1847年)創業(元は古道具屋)、店にいた奥さんの話を聞くと、碁石茶と阿波晩茶は子供の頃は店の前に沢山あって『甘酸っぱいにおい』に思い出があるという。現在も扱っているが、昔は一番安いお茶だったのに、今や高級品になってしまった。それでも最近も島の人が買いに来るという。地元の茶は高瀬産、少し渋みある煎茶だという。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(7)西条の高知神社と旧石鎚村で

7月10日(日)西条を歩く

翌朝は朝食をたくさん食べてから、散歩に出た。西条市の事情を知りたいと図書館へ行ったが、何と9時過ぎにはまだ開いていなかった。その裏から小川が流れ、いい風が吹いていたので、それに沿って歩くと郷土資料館、工芸館へ辿り着いた。五百亀記念館は何と読むのか。その横は西条高校、学校の入り口は大手門が使われている。

西条市は水の町、『うちぬき』と書かれた自噴井(地下水)がいくつも湧き出している。この水は石鎚山系に発し、加茂川を通じてやってくるらしい。名水百選などもある。水が美味しいから食べ物が美味しく、移住者に好まれる街であるという。駅まで戻ると四国鉄道文化館があり、その前に十河信二の像がある。戦前は満鉄理事、戦後すぐは西条市長、そして新幹線の父になった人である。

昼にAさんが助手の女性とやってきた。まずはランチを食べようということになり、お蕎麦屋さんに行ったが、満員札止め。2軒目に向かう途中、うなぎ屋があり、そこへ入る。メニューを見るとドジョウ鍋があるではないか。私はうなぎを捨て、ドジョウに走った。柳川鍋で絶品だった。ドジョウ、何年ぶりに食べたろうか。

午後は石鎚黒茶に関連するところへ行こうと思い、まずは土佐との関係を知るべく、西之川に高知八幡神社を訪ねる。ここはかなり急な階段を登らなければならず、また折角辿り着いても神社の由緒書きなどが見られず、何もわからなかった。ただ西条市に高知と名の付く神社があるということ自体、自ずと高知との繋がりを示していると勝手に思う。

実は八幡神社と反対方面、東之川に『高知神社』があることが分かり、そちらに回ってみる。かなり山の方へ向かい、石鎚村の近くにあった。こちらは何となく霊気が漲り、すごく雰囲気のある神社だった。しかもその周辺の道沿いには山茶と思われる茶樹が沢山見受けられ、中には茶葉がアッサム並みに大きいものまであって、仰天してしまった。その近隣の村もちょっと風景が原始的で神秘的。ここはある種の原風景ではないかと思ってしまった。恐らく私が知りたい高知と愛媛の繋がる場所だが、詳細は不明である。

ここで本日の活動は終了し、ホテルまで送ってもらった。夜はホテル内のコインランドリーが無料だったので洗濯する。利用者が多くてなかなか洗濯は進まない。ロビーには東南アジア系の若者が沢山チェックインしている。何の仕事だろうか?参議院議員選挙速報を見たが、自民党圧勝で何ともつまらない。アイドル高見知佳は落選。年齢は私の一つ下だった。

7月11日(月)旧石鎚村へ

翌日は高知へ向かう前、折角なので旧石鎚村へ行ってみた。西条市内から20㎞ほどで旧石鎚村の山道へ。意外とちゃんと整備されている道だった。土井というところまで来て車を降り、少し山に入ると道の両脇が茶の木で埋まっていた。自然に種が落ちて増えたのだろうが、誰かが世話をしていなければ、このようにきれいには生えていかない。険しい山道と聞いていたが、見た感じはそれほどでもない。

入口のところに、祠があった。偶然人が出てきたので話し掛けると、あのレジェンド曽我部さんと同じ村出身、曽我部さんの息子さんと同級生だというSさんだった。そしてSさんが子供の頃に住んでいた場所は中村といい、ここから歩いて登って30分はかかるらしい。因みに曽我部家はそこから更に10分上と言われて驚く。中村には以前6軒が住んでいたといい、中学の頃まで樽漬けの黒茶作りを実際にしていたともいう。茶摘みを実演して見せてくれたが、その速さにはAさんたちも舌を巻いていた。Sさんの手に歴史を見た思いだ。

実は本日は祭り。石鎚山の祭礼(石鎚神社夏季大祭)は、古くより「お山市」、「お山開き」と呼ばれ、7月1日から7月10日に斎行、そして本日11日午後12時30分、本社へ御還宮して、夏季大祭は終了するという。まさにその最後の場面に偶然にも遭遇したので、神社までついていく。

そろいの法被を着ている参加者はほぼ男性。神主と山伏とが談笑しながら出てきた。この辺りの関係性は極めて興味深い。我々が見ていた横の家では桑の葉を干していた。お茶が捧げられる習慣があると聞いたが、今は桑の葉が納められているのだろうか。いずれにしても詳細は分からないながら、何とも神秘的、そして茶との繋がりも感じさせられる重要な祭礼に立ち会ったのは幸運だった。

これで西条での活動を終了して、車で高知県大豊町に向かう。予想外に午前中の時間を使ったので、慌ててサービスエリアで昼ごはんを食べる。真鯛の漬け丼、生卵掛け。山の中では意外な食べ物だったが、美味しく頂く。昔は生の魚など食べられなかったのだろうに。西条から大豊までは、案外と近い。これも関連性があるだろうか。