ふらっと四国茶旅歴史旅2022(10)仁尾、塩飽本島から高松へ

仁尾

文化会館の中に図書館があったので入って、後発酵茶や茶粥について何か資料はないか、聞いてみる。対応は非常に親切で、かなりの資料をコピーさせてもらえた。それでも地元の人も、碁石茶がここに運ばれ、仁尾商人が売り捌いた歴史についてはほとんど知らないという。茶粥も食べてはいないとか。坂出あたりでは今も食べられているのだろうか?

古い町並みを歩いてみる。旧塩田忠左衛門邸という、見るからに立派な建物が保存されている。特定日には公開もされるらしい。この付近の旧家は米酢などの製造で栄えていたのかな。その先には文豪菊池寛母の出生地の碑が建っている。海寄りには江戸時代に造られた金毘羅灯篭があり、土佐藩主が参勤交代におりにこの港を使ったこと、そして土佐茶の販売権を仁尾商人が得ていたことが説明されていた。ようやく碁石茶と仁尾の接点を見つけたが、今回はこれまでだった。

更に覚城院という寺へ行く。ここは坂がかなり急であり、横から見ると石垣が積まれている感じだった。仁尾城跡と書かれていて、何となく納得した。最後に50年前は碁石茶を扱っていたと資料に書かれていた今屋という茶屋に行ってみる。店の建物自体はまだあり、茶缶などが置かれているのは見えたが、扉は固く閉じられており、これ以上仁尾茶についての調べは受け付けられないことを悟る。

塩飽本島

仁尾からバスで詫間へ戻り、JRで丸亀までやってきた。結構疲れたのでそのまま宿で休む手もあったが、明日の天気予報が雨だったので、思い切ってそのまま塩飽本島へ向かう。歩いて数分のところに港があり、往復1070円でフェリーに乗れた。30分で到着。高見島行よりかなり大きいフェリーで、島の規模を知る。 

本島は平たんで歩きやすい。すぐに天理教の大きな建物があったのは驚いた。10分ぐらいで塩飽勤番所跡の建物が見えたが、既に見学時間は終わっていた。そのすぐ近くの家には咸臨丸水夫生家跡の表示がある。確かにこの時代、アメリカまで行ける水夫を探すのは大変で、塩飽の漁民などが駆り出されたのだろうか。

その先をずっと歩いて行くと、専称寺という寺を見た。この寺の起源は、あの法然上人が四国へ配流になった際、ここに庵が建てられたことだという。横には島のまとめ役、年寄の墓も見られる。その先が笠島伝統的建造物群保存地区であり、古い建物などがきれいに整備されて残っていた。中には何でも探偵団に伊藤若冲の絵を出品して、高額の評価を得た家もあると書かれているが、歩いている人は一人もいない。

フェリーの時間があるので、ここまでとして帰り道を急ぐ。一つ気付いたのは、家の門のように、柱が二本経っている家が多い。あれは何の印だろうか。今度はもっと時間を掛けて島を巡りたい。今回は残念ながらお茶に関する歴史は何も出てこなかったが、色々と面白い発見がありそうだ。

フェリーで丸亀に戻ると、腹が減ったので商店街の店に入った。さしみの文字に釣られたのだが、何ともうないという。仕方なくかつ丼とうどんのセットにしてみたが、これが意外にイケる。何だかこういう店のかつ丼は、卵とじが上手いような気がする。店の人は刺身がないことを何度も謝ってくれたが、とんでもない、ご馳走様でした。

7月14日(木)雨の高松へ

今朝は予報通りの雨だった。高松へ移動することにしていたのだが、荷物もあるので困った。取り敢えずチェックアウト時間に外へ出て、商店街のアーケードで雨を避ける。昨日閉まっていたカフェがやっていたので、そこへ入る。何とこの店、和朝食、洋朝食各990円という本格的なメニューがありドキッとしたが、その横にモーニングセット510円があった。ほっとしてそれを頼んだが、それでも十分の量がやってきた。お店は広く、喫煙可でもその被害はなかった。

小雨の中を駅へ行き、高松行電車に乗る。途中国分寺のあった国分駅、そして鬼無(きなし)という駅名に驚く。ここも桃太郎関連だろうか。30分弱で高松に到着。駅の案内所で地図を貰い、バスに乗って今日の宿へ向かう。荷物を預けると雨が止んでいたので、すぐに行動を開始して、琴電瓦町駅まで歩く。琴電は先日金毘羅で始発駅を見て乗りたいと思っていたローカル線だ。

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