ふらっと四国茶旅歴史旅2022(8)碁石茶と金毘羅参り

大豊町は7年前の四国行脚の時に寄っているので、街中に入ると懐かしい風景があった。JR駅の横、大豊町碁石茶生産組合が農業センター内にあった。現在は大豊ゆとりファームが管理しており、Yさんが丁寧に説明してくれた。ただ碁石茶の歴史については、石鎚黒茶、阿波晩茶同様、現在文化庁が調査中で来年には報告書が出るらしいので、それを待つしかないという。

組合が結成されたのは10年前。前回色々と面倒を見てくれたOさんはなんと今町長になっておられるという。ブランド統一(ブレンド)、製法統一、小笠原家(一時唯一残った碁石茶農家)の蓆(菌)を使うなどを共通ポリシーとしている。だが私が前回訪ねた頃がピークで8軒だったが、現在は高齢化もあり5軒に減り、後継者難だという。碁石茶はマーケッティングが上手くいっていると思っていたので、意外だった。その後ゆとりファームの生産現場(標高400m)で作業の様子も見学させてもらった。

その後道の駅に寄り、私は煎茶と番茶を買う。Aさんが食べたかった碁石茶アイスは売り切れていたようだ。残念。JR大杉駅まで送ってもらい、ここでお世話になった2人と別れる。彼らは今から熊本まで車で帰るというから大変だ。小さな駅で駅員さんからきっぷを買う。ホームに碁石茶の里と書かれている。

特急で約1時間。琴平駅まで行く。自由席は意外と混んでいる。子供の頃から一度は金毘羅参りと思っていたので、ここで降りた。だが琴平駅から予約した宿まで歩いて15分ぐらいと、遠かった。また金毘羅も駅を挟んで反対側でやはり遠い。更にご飯を食べる場所もなく、向かいのスーパーで弁当を購入して部屋で食べた。ただ部屋は狭いがきれい(机はなかったが)で、屋上展望浴場でゆったりできたのは良い。 

7月12日(火)金毘羅参り

翌朝は早めに宿を出て金毘羅参りに行く。まずは宿のすぐ近くにあった高杉晋作が隠れた家を見る。呑象楼と書かれており、日柳燕石という人が住んだらしい。幕末に追われた高杉がここに滞在したというがどうだろうか。

暑いので早めに金毘羅宮へ。ふもとまで歩いて15分、そして見上げると階段は続いており、表示ではそこから785段とあり、恐れる。しかしここまで来て引き下がるわけにもいかず、トボトボ登り始める。早くもお参りを終わって降りてくる人もいるが、全体的に参拝者は多くない。古びた雰囲気はとても良いが相当に疲れる。石松や源内の金毘羅参りを思いながら這い上がる。江戸から明治期、茶屋からの寄付が多いのは面白い。

高所恐怖症なので、後ろは振り向かず、ただただ上がる。いくつかの鳥居をくぐり、いくつかの建物を通り過ぎ、何とか本殿に達する頃には汗びっしょり。しかしここからは町が一望できる。疲れたので少し休む。特にこれ、といったものはなく、金毘羅参りとは一つの修行では、と思う。

帰りは石段を下りる自信がなく、裏参道を降りてきた。平地まで来ると、琴電琴平駅があった。ここから電車で高松まで行けるようだ。JR駅前の喫茶店に入る。モーニングの表示はなかったが、聞いたら『トーストとゆで卵、コーヒー』が出てきた。450円。常連さんしか来ないような店だが、暑いから常連も来ない?店主と電気屋を待つ女性の世間話は世相を反映していて、参考になる。これから朝はモーニングだな。

線路沿いに『琴平グランドホテル』が見えた、と思ったら、何と立派な社員寮だった。宿へ戻り荷物を引いてJR駅まで戻る。今日の目的地丸亀までは360円30分。乗客は誰もいないと思ったが、発車直前に増えてきた。琴平駅は大正時代に建てられた偽洋風建築のようだった。

丸亀で

丸亀駅で降りた。静かな駅だった。観光案内所で地図を貰い、色々聞いていると塩飽諸島が魅力的に聞こえてくる。茶粥というと、それは高見島かなといい、その島は丸亀の範疇外だというから驚いた。まずは老舗の宿へ荷物を預けて行動を開始する。

商店街を歩くと富田園があった。弘化4年(1847年)創業(元は古道具屋)、店にいた奥さんの話を聞くと、碁石茶と阿波晩茶は子供の頃は店の前に沢山あって『甘酸っぱいにおい』に思い出があるという。現在も扱っているが、昔は一番安いお茶だったのに、今や高級品になってしまった。それでも最近も島の人が買いに来るという。地元の茶は高瀬産、少し渋みある煎茶だという。

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