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佐原旅2022(2)成田で、そして電車遅延で

12月17日(土)成田へ

朝6時に起きたが、大浴場に行く気にはなれず、朝ご飯も頼んでいなかったので、部屋でボーっと過ごす。このご時世、体に異変があると困るので、取り敢えずジッとしておく。そして9時になったのでチェックアウトして、昨日の観光案内所へ行く。そこで残った旅行支援クーポンを美味しそうなご当地お菓子と交換する。

伊能忠敬記念館への思いが馳せたが、意を決して駅へ戻り、電車を待つ。結局佐原では歩きたいところへ行きつけず、後悔が残るが仕方がない。楽しみを次回に残したと思って、また来よう。駅舎からホームへ行くと、何とこの駅にはゼロ番線があるというアナウンス。ここを使う電車は鹿島神宮まで行くらしい。ちょうど電車がやってきて、こちらの電車に乗り換える。いつか鹿島神宮にも行ってみよう。

また昨日来た路線をただただ戻る。今日は土曜日だからなのか、乗客が多いが何とか座っていく。40分で成田駅へ戻る。今日は逆に京成駅へ行く。イオンモールへ行く電車があるのかと勘違いして駅で聞くと、前のバスに乗れ、と言われたので、そちらを向くと、既に結構な行列が出来ている。

このバスはイオンモール直通バス。最後の一人として何とか乗り込み、立っていく。道はそれほど遠くないはずだが、意外と時間が掛かる。20分で何とか到着。なぜここへ来たのか。それは先日知り合いのTさんと連絡を取り合い、久しぶりに会おうということになったのだが、何と彼は知らない内に成田に引っ越していた。折角なので都内にある彼の会社ではなく、成田へ来て見た(そのついでに佐原に寄った)というわけだ。

イオンモールは結構広いので会うのに手間取ったが何とか落ち合った。そしてモールの向かいにあるカフェでサンドイッチなどを頬張り、ゆっくりした時間を過ごす。すきっ腹のサンドイッチは何とも旨い。Tさんとは6年ぶりらしい。その間彼の周辺は激変し、彼は着々と日本定住を進めている。一方彼の両親の故郷である広東省にも、家を建て、そちらに両親を住まわせる計画もあった。私としてはその場所と茶に大いに関連があるため、準備が出来たところで、そちらに調査に行きたいと考えている。

因みに彼は私のIT周りをいつも手伝ってくれていた人。以前はPCの購入からソフトやデータの移設まで、全部やってもらっていた恩人だ。今回も何気なく『中国の決済システムが使えなくて』と話したところ、取り敢えず最低限の処置をしてくれた。実はこの時やってもらった処置がその後大きな意味を持つ。持つべきものは友、何とも有難いお知り合いだ。

3時間ほど話して、また成田駅へ向かった。それから昨日来たルートを淡々と戻っていく。ところが笹塚まで来た時、京王線で人身事故があったことが初めてアナウンスされる。明大前まで来ると、一度電車を下ろされる。振替輸送があるというので行列して駅員に尋ねると『Suicaでは振替できません。目的地を明確にするため、きっぷを買ってください』という。それも面倒だと思い、そこで駅そばを食べながら待つ。1時間で回復予定と出ていていたので、日本なら1時間以内に動き出すだろうと高を括っていた。1時間が近くづくと来た電車に乗り桜上水まで進んだ。

皆考えることは同じだ。復旧したら一番最寄りの駅ら乗るのが一番近道と。何と桜上水駅のホームは人で溢れていた。しかも動くはずの電車は全く来ず、後から後から乗客がここに送り込まれてきて、大混乱になる。もうアナウンスも当てにはならない。そしてこの日は非常に寒い。体感温度は零度に近いのではと思う中、約1時間吹きっさらしのホームに立たされていた。それでも文句を言う人がいないのはやはり日本人、すごいなと感心する。ようやく電車が動き出し、家に帰ると昨日の疲れがどっとぶり返し、本当に病気になりそうだったので、急いで寝入る。

佐原旅2022(1)初めて佐原へ

《佐原旅2022》  2022年12月16₋17日

日本に帰国し、茨城、静岡に行った後は、ずっと家にいた。そして毎日サッカーを見ていた。日本がこれだけやれるとは正直思っておらず、予想外に盛り上がったワールドカップだった。決勝戦後に今年最後の旅に出ようと思っていたが、その前にちょうど成田へ行くことになったので、ついでに前から興味のあった佐原へ行って見ることにした。

12月16日(金)佐原へ

まずは京王線、都営新宿線で本八幡へ行き、京成線に乗り換える。そして京成成田駅で降りる。これは久しく使っていない成田空港への一番安く行ける道である。何となく懐かしい。京成からJRに乗り換えるには数分歩かなければならない。JR成田駅まで来ると、乗る予定の電車が少し遅れているという。

それならばと近くでランチを探すと、駅の横に駅そばがあったので、何気なく入ってみる。そして何気なく普通にかき揚げそばを頼み、するすると食べて、外へ出た。そこには張り紙があった。『閉店のお知らせ』、その日付はまさに今日だった。初めて入った店が今日でお仕舞だ何て、何となく悲しいのだが、お客さんも従業員も、とても普通な雰囲気でちょっと不思議だった。まあ、10日後には新しいチェーン店がそのまま入って、何事もなかったように営業するらしい。

駅の前には観光案内所もあったので、成田山新勝寺の案内を貰う。そこで『ちょうどすぐ近くで歌舞伎浮世絵展やっています』と言われたので、トイレに行くついでに?ちょっと覗いてみることにした。市川團十郎が浮世絵に描かれており、新勝寺詣でをするなどの場面が展示されていた。

駅まで戻ると電車はそれほど遅れず、発車した。この時間帯に乗っているのは高校生。銚子行の電車は快調に走っていき、40分も乗ると佐原まで着いてしまう。何だかもっと遠い所へ行くつもりでいたので、少し拍子抜けする。

佐原で

佐原駅の駅舎は結構クラシックで様子が良い。駅前に出ると、さっそく郷土の偉人、伊能忠敬像が迎えてくれる。精緻な日本地図を作った男はここで生まれた。そして本日の宿は駅のすぐ横、まずは荷物を預かってもらうべく、そちらへ向かう。フロントの対応が実に親切で嬉しい。

外へ出て、観光案内所へ向かう。そこで説明を聞き、地図を貰う。その地図に沿って歩き出す。10分もしない内に、川へ出て、その両脇に古い店舗や倉庫が見えてくれる。川には遊覧船も浮かんでいる。この風景には既視感がある。私が育った栃木市も『蔵の街』として売り出しており、同じような風景を見てきた。もう長く行っていない栃木、今はどうなっているだろうか。

こちらの街並みでは、商店なども多く保存されており、今も店舗として活用されている。ただ12月の寒空、今日は日差しが暖かいと言っても、平日に歩いている観光客は多くはないのが、少し寂しい。ただゆったりと歩けるのは自分にとっては有難い。正上醤油店は何かの番組で取り上げられており、見た記憶があった。川から少し外れると川崎銀行佐原支店という洋風建築があり、中は観光案内所、展示スペースになっており、休息がてら勉強する。

勿論この街には中心がある。伊能忠敬である。その旧宅は開放されており、酒造業を営んだ家が残っている。忠敬は養子で、50歳まで家業を行い、隠居後全国を歩き始めた。全く環境や志は異なるものの、私も50歳で会社を辞め、本格的に茶旅を始めた。一方的に親近感を持っている。

伊能忠敬記念館に行けば、詳しい説明があるだろうと思っていたが、何故か急に疲れが出てしまい、集中力もなくなったので、ここは明日に回して帰ることにした。帰りは別の道を通り、諏訪神社の先の公園内にあった、もう一つの伊能忠敬像だけ見て帰る。こちらの像は駅前よりかなり大きく、佐原の街が以前より伊能忠敬に向けていた尊敬が伝わってきた。

宿に戻りチェックインする。まだ早い時間なのに、結構人が並んでいた。どうやら全国旅行支援でゆっくりしようという人々らしい。この宿には大浴場もあるし、ちょうどよいのかもしれない。私も早々に風呂に入ろうと考えたが、何とも疲労感がすごい。まさか病ではないだろうな、とちょっと心配になるほどだが、熱などの症状は全くない。

夕方になっても回復しない。腹だけが少し減ったので、近所の定食屋を探したが、残念ながら閉店していた。平日は開いていない店も多いらしい。仕方なく旅行支援クーポンをコンビニで使用して、食べ物を確保。部屋で食べた。そしてふっとベッドに入ると、何とそのまま朝まで寝込んでしまう。丸12時間、一度も起きずに寝ていることなど近年稀。本当に疲れがピークになっていたようだ。

横浜歴史旅2022(2)掃部山公園と音楽堂

中華街をよく見ながら歩くと、かなり古い建物が見られる。そういえば半年前に閉店した老舗の聘珍楼、既に店があったことも分からないようになっていた。賃料が高額で負担できなかったとの話もあるが、本日見る限りかなりの人出があり、コロナがもう少し早く収束していれば、あるいは生き残れたかもしれない。これも中華街の栄枯盛衰か。最近はレストランではなく、占いコーナーがすごく増えたと感じるが、これもまた世の流れだろうか。

お昼はお知り合いのKさんと食べる。Kさんが選んでくれた店は、まさかの東北料理。いや、これまで中華街のイメージは広東中心の南方系が主流だったが、最近は中国人のための中華ニーズからか、東北系の進出が目立っているようだ。午後1時頃でも店は満員。店員は勿論お客も中国人が多く、中国語がそこかしこで飛び交う。これもまた新たな中華街だろうか。中華街は食べ放題の店が増えてしまい、観光客向け。ここで働く人などの食事も必要だ。

そこからKさんと散歩がてら、桜木町駅方面へ向かう。横浜公園を通り掛かったので、横浜開港初期の功労者の一人、英国人土木技師ブラントンの胸像を紹介する。長く横浜界隈に住んでいても、公園を散歩することがあっても、この胸像には気が付かなかったと。歴史とはそういうものだろう。

桜木町駅でKさんと別れた。この駅の横に操車場?があり、その跡地で中国鉄道展が開かれ、30日間東京の王子から毎日バイトで駆り出されたのは、あれはちょうど40年前の夏休みだった。懐かしいというか、あれは何だったのだろうかと思ってしまう。初めて中国人民(運転手さん)と中国語で言葉を交わした思い出の地。

そこから少し坂を上っていくと、神奈川県立音楽堂がある。この付近に横浜の大茶商、大谷嘉兵衛の屋敷があったらしいが、今やその痕跡は全く見付けられない。音楽堂の裏は掃部山公園と書かれている。掃部山というぐらいだから、日米修好通商条約の井伊直弼ゆかりだろうか。直弼も幕末の大茶人だから、茶の歴史とは深い関係にあるが、今日はこの公園をパスした。因みにここは明治5年の鉄道開業に際して、外国人技師の官舎などが建てられていたらしい。今年は鉄道開業150年、何かしらの因縁を感じる。

更には立派な能楽堂という建物もある。ここは旧前田家の敷地だったらしい。その横に目的地の県立図書館があった。この図書館が出来た経緯なども知りたいと思い、入ってみたら、何と月に一度の特別休館日。何と間の悪い日に来てしまったのだろうか。後悔先に立たず、だな。

仕方なく市立図書館へ回ってみる。所在地は野毛山。戦前は原善三郎や茂木惣兵衛など、大物の屋敷があったと書かれている。今は動物園か。こちらは普通に開いていたので、調べ物をする。少しのつもりが意外と時間を取り、外へ出たら既に真っ暗。トボトボ桜木町駅方面へ歩いて行くと、その辺は野毛の飲み屋街。何だかなあ、と思いながら、電車ですぐに帰った。

ところが東横線で渋谷まで来るうちに、すごく腹が減ってしまい、渋谷で夕飯を探す。ふらふらと川沿いを歩いていると、『とん汁定食』という文字が見えたので、古い定食屋かと思い入ってみた。その文字とは裏腹に、かなりおしゃれなお店で、店員も若者、お客も若者という、イメージとは違う店だった。

何だか旨そうなアジフライもあるというので、セットにして食べる。豚汁は野菜がゴロゴロ入っており、意外といける。ご飯も選べるし、雰囲気も良い。何だかよくできているなあと思って調べてみたら、かつやの系列店だった。なるほどと妙に納得して帰路に着く。まあ1000円は決して安くはない。

横浜歴史旅2022(1)中華義荘から中華街へ

《横浜歴史旅2022》  2022年12月8日

これまでも横浜には何度も来た。中華街にも時々来ている。だが私は中華街がどのような過程で発展し、どのような経緯で華人が今日を迎えたのかをよく知らない。偶には港横浜で華人巡りをしてみようと思い立ち、珍しく?日帰りで出掛けた。

12月8日(木)

東横線で横浜駅まで来て、根岸線に乗り換えた。ところが電車が遅れているという。ホームに行くと電車は停まっており、表示では55分遅れとなっていた。どうしたものだろうかと考えていたところ、突然ホームのベルが鳴り、慌てて乗り込むと走り出した。約1時間止まっていた電車がちょうど動き出したところだったらしい。何という幸運。

山手、という駅で初めて降りる。山手と言えばユーミンの『山手のドルフィンは』ぐらいしか思いつかない。駅から目的地までGoogleで調べた通り歩き出すと、何とかなり急な坂道だった。更には道も入り組んでおり、意外と面倒な行程となる。何とか喘ぎながら到着したのは中華義荘というところ。

ここは横浜華人たちのお墓がある所だった。19世紀後半に出来た墓地、1892年に華人たちの手によって建てられた地蔵王廟もここにあり、立派な菩薩像も安置されている。華人たちがここを手に入れるまでも色々と苦労があったようだが、今やそれも良く分からない。近所で日向ぼっこしていた老婆もどこか華人の雰囲気があった。

裏手の墓地、墓石が整然と並ぶ。広東、福建、浙江など大陸各地の他、台湾などの地名が墓碑に刻まれている。墓の形、様子も年代により少しずつ異なっている。徐々に日本化しているのだろうか。奥の方には関東大震災で亡くなった華人の慰霊碑なども見られる。あの100年前の震災が横浜にどれだけの被害をもたらしたのか、その一端が分かるようだ。

お墓の横にはモダンな建物が建っている。中華会館。葬儀など、恐らく何かある時はここに集まるのだろう。館内には整備中の展示物があった。そこには中華学校など、華人の歴史のパネルが置かれていた。現在中華学校は二つあると言い、そこには歴史のみならず、外交問題なども絡んで複雑なようだが、取り敢えず私は初期の中華街の華人史を追いたい。

そこから20分ぐらい歩いてJR石川町駅前まで来た。さっきは登りだったが、今度はゆっくり下ったのでかなり楽に感じられた。この駅前にあるのが山手中華学校。2010年に山手からここに移転したらしい。幼稚園も併設されている。昔はこの駅からとぼとぼ歩いて中華街へ行ったなあ、などと思い出す。

そこから更に歩いて関帝廟まで。その横には横浜中華学院がある。ここは最近校舎が新築されたようで、非常に新しい。この周囲には中華会館など、各地の同郷会もあり、中華街の中心を感じさせる。付近は修学旅行生が大勢歩いている。そのまま歩いて行くと山下町公園に着く。

ここは明治初期、会芳亭という劇場があり、その後は中華民国総領事館があった場所だった。今は会芳亭と書かれた東屋が建っているが、それ以外で往時を偲ぶものはない。何と最近ラグビーワールドカップアが開かれたのを記念して、『日本で最初のラグビー発祥地』なる記念碑が建てられている。

そこから中華街を突き抜け、神奈川芸術劇場へ向かう。ここは山下居留地遺跡の発掘が行われた場所であり、基本的に欧米商会が軒を連ねたところ。ただ一軒だけ華人経営の印刷所があったと聞き、ここの店主が中華街の歴史に大きく関与していることを学ぶ。更にその裏側には居留地48番館の建物が少し残っており、その風情を感じさせる。

再び中華街へ戻ると、そこにはツタが絡まった古い工場が見えた。同發菓子工場、月餅などを作っていたのだろうか。同發と言えば、もう40年近く前、下宿先の家族に伴われて初めて中華街で食事をした場所だったような微かな記憶がある。福満園というレストランのビル、すごいY字路で見事。

茨城歴史旅2022(2)水戸散策

そこからお城へ入ろうとすると斉昭公の像が迎えてくれた。中に入ると光圀公が『大日本史』の編纂所とした彰考館跡がある。この辺に瞬水も関係しただろうか。水戸一高など学校が多くあり、学生が下校している。そこから今日の宿を目指して、線路を渡る。既に夕日がきれいだ。

今日の宿も川沿いにしてみたが、随分と寂しいリバーサイドで、かつすぐに暗くなると部屋の窓からは何も見えなかった。ただチェックインの際、『全国旅行支援』を選択していたらしく、何も分からず宿泊代は安く(東横インは他社と違って旅行支援の便乗値上げをしていなかった)、更に3000円のクーポンがもらえた。身分証と一緒にワクチン接種証明の提示を求められて、ちょっと慌てた。タイに行く時コピーした紙が、バッグの下からボロボロになって出てきたが、それでもOKだった。アジアでは使うことがなかった紙が、こんなところで活躍したのは皮肉なものだ。

折角全国旅行支援で3000円もらったので、今晩は豪勢な食事でもと思ったが、クーポンが使える食堂が見付からない。ふらふらしていると、レトロな食堂を発見、思わず入ると完全な昭和だった。和定食は立派なお膳で、刺身と天ぷら、小鉢が二品とボリュームがあり、天ぷらなどは懐かしい家庭の味、無料コーヒーまで付いて僅か650円。旅行支援は不要だった。帰りに駅前を通りかかると、既にクリスマスの飾りがきれいにできていた。ちょっと早すぎでは?

11月15日(火)水戸散策

東横インの朝ごはん、昔はおにぎりとみそ汁ぐらいだったと記憶しているが、今回の宿では豊富なおかずがあった。更に水戸と言えば納豆だったが、器は間に合っていなかったのか、茶碗はなく、プラスチック食器。まるでタイのぶっかけ飯のように納豆をかけて掻き込んだ。

今日は水戸を散策して帰ることにした。川沿いを歩き、最寄りのバス停まで行くと、雨が降り出した。ちょうどバスが来たので何とか濡れずに済んだが、いくつも来るバスの行き先が良く分からず困る。水戸駅を経由して、バスは更に進んでいく。雨が強くなる。30分ぐらい揺られ、更に10分ほど歩いて何とか歴史館に到着する。

中に入り、学芸員の方に『朱瞬水に関する展示』を尋ねると、それは誰、という顔をされて驚いた。そうか、水戸でも瞬水は知られていないんだ、と分かる。展示はいくつもあったのだが。また江戸時代、水戸藩でもお茶が作られていたことが書かれていて、興味深い。他にも色々と面白い展示があるのだが、よく見る時間が無かったのは残念だ。

敷地内には色づいた銀杏の木が鮮やか。その近くには立派な旧小学校校舎が残されていた。中には茨城の偉人の展示がある。木村安兵衛(木村屋のあんぱん)、山下りん(ロシアに留学した宗教画家)など、ちょっと調べてみたい。そこからまたバス停まで歩いて戻り、さらに郊外行のバスに乗る。

昨晩ネットで図書館を検索したら、インスタ映えする図書館が出てきたので、急に行って見たくなる。やはりバス停から15分ほど歩く羽目になったが、行って見ると確かに、内部がきれいな、面白い図書館だった。内部の写真を撮るための申請をして、何枚も写真を撮った。勿論参考資料も探せるので一挙両徳というわけだ。

またバスに乗り、駅前まで戻る。もう昼を過ぎていたので、ちょうどそこにあった居酒屋でランチを食べた。鯖塩焼き、チーズオムレツ、小鉢が付いて、600円。水戸は本当に定食が安くてボリュームもすごい。ここは生活費が安く上がるのだろうか。2年前来た時も家賃が安いと聞いていたが、ここに住むのも手かもしれない。

県立図書館にも行って見た。こちらは星野珈琲が1階に入っていて、おしゃれな感じだった。先ほどの市立図書館に比べて、やはり資料はこちらの方が多く、また手際よく集められて良かった。朱瞬水に関する資料を読むと、やはり彼の功績、影響は大きいと感じられた。

最後に黄門様関連の場所に行って見る。さっきバスから見た義公生誕地が駅の近くにあった。その前に道路沿いには黄門生誕の地という碑と、黄門像まであった。そこから横道に入ると、義公祠堂があった。水戸黄門神社とも書かれている。ここで手を合わせて祈る。黄門様もテレビドラマとはかなり違う人生を歩んだはずだ。

駅まで戻り、昨日貰ったクーポンを使って、お菓子をたくさんもらった。前回のGoToトラベルの時も、結局は和菓子ばかり貰ってしまい、後悔したがやはり治らない。しかも欲しかった栗蒸し羊羹がなく、かなり残念だった。今度クーポンを貰えるなら、ちゃんと考えたい。

帰りは特急に乗る必要もないかと、各駅停車で帰る。それでも2時間少しで上野駅まで来るのだから、水戸は便利なところと言える。本当は牛久あたりで降りてみたかったが、これも次回となる。上野駅では何となくまた立ち食いそばが食べたくなり、ホームを探したが見つからない。結局隣のホームにあったのだが、その影はどんどん薄くなっている。

茨城歴史旅2022(1)常陸太田 水戸徳川家墓所を訪ねる

《茨城歴史旅2022》  2022年11月14₋15日

バンコクから帰ってすぐ、また旅に出た。11月中旬の日本、しかも北関東の風は冷たい。それでもなぜか出掛けていく。

11月14日(月)常陸太田へ

前回水戸へ行ったのが2年前。あの時は博物館や偕楽園に行くはずが、何と原因不明の頭痛で逃げ帰った。そうだ、1年前も青春18きっぷでいわきに行く時、水戸を通過しているが、降りてはいない。今回はある人の歴史を追って茨城入りする。まずは水戸まで行くのに特急に乗ろうとネットで予約したが、何となくよく分からない。

少し早めに上野駅へ行き、緑の窓口で確認すると年配の職員が私のスマホを見て、『そこに置いて』と横柄な態度で指示(コロナ対策)する。そしてそれを取り上げて色々と見ているが、彼もスマホ予約について行けていないようで『多分大丈夫でしょう』と心もとない返事をする。確かに年配者にとって次々に繰り出されるネットITは苦手だろう。気持ちはよくわかる。でも駅員でしょう、もう国鉄の人は退場しましょう、と言いたい。

結局ときわ57号は殆どが空席で、確かに何の問題もなかった。1時間半で水戸駅に到着する。ここで乗り換えに少し時間があったので、別のホームにある駅そばで、名物から揚げ蕎麦を食べる。分かり難いホームにあるにもかかわらず、常連さんが次々入ってくる。そばに乗る唐揚げは、まあフライドチキンという大きさだった。駅には鉄道開業150周年のポスターが見えた。

12時過ぎの水郡線に乗る。二両列車は川を越えて、冬枯れの田舎風景をゆっくりと進む。上菅谷駅で向かいのホームの列車に乗り換え、合計30分で常陸太田駅に着いた。Suicaが使えたので、トラブルなく外へ出た。駅前からバスに乗ることになっていたが、どこで乗ればよいのだろうか。何と乗客もあまりいないこのバス停に向かって、数台のバスが重なってやってきた。思わず隣のおばあさんに聞くと『前のじゃないよ、後ろだよ』と親切に教えてくれ、何とかバスに乗り込んだ。

だが私が今日訪ねる水戸徳川家墓所については、おばあさんも、そして運転手でも、全く知らないというので、驚いてしまった。水戸徳川家と言えば、茨城では誰でも知っているものと勝手に思い込んでいたが、今や知られているのは水戸黄門様だけなのかもしれない。取り敢えず検索していたバス停まで行くことにする。バスは常陸太田の街を抜けて、郊外の畑に出る。

誰も下りない『里の宮』で下車するが、周辺には何もない。少し歩いて行くと、日は西に傾き、何だか子供の頃の栃木の風景がやけに重なってくる。栃木ならからっ風が強そうな時期だが、今日の常陸太田は日差しも柔らかく、気持ちの良い散歩となる。そして歩いて10分ちょっとで誰も知らない水戸徳川家墓所の前に来た。だが門は固く閉まっており、隙間から中を窺うしかない。墓地は高台にあり全く見えない。

実は事前の検索でも、入れないことは分かっていた。それでもここに来たのは門の写真を1枚撮る、たったそれだけの目的だった。門の横には墓所内の配置図が掲示されており、初代藩主徳川頼房(家康末男)から13代目までの墓があるようだ。あの有名な黄門は第2代である。だが私のお目当ては徳川家ではなく、そこに一人ポツンと名前が刻まれていた、朱瞬水という中国人だった。明朝再興に命を懸け、後に長崎に亡命した彼を光圀が水戸藩に招いた訳だが、それにしても藩主たちと同じ墓所に入る中国人とは。興味は尽きない。

少し回り道をして周囲を散策したが、特に何もない。1時間後のバスを待っていると、隣家の柿が熟れている。日に数本しかないバスに乗ると乗客はいない。帰りは少し余裕が出来たので、常陸太田の街を眺めると何ともレトロな建物がいくつも見えたので、思わず散策する。

鯨が丘という地名が見える。ここは日本武尊の東征時に丘が盛りあがって鯨のように見えたことからその名が付いたと書かれており、真偽は別としてその歴史は思ったより古い。更に平安時代から戦国まで、佐竹氏がここに城を築いていたというから、やはり歴史的な街なのだ。赤煉瓦の蔵や木造の趣のある建物を見ると、明治以降もそれなりの発展を見せたのだろうか。駅の横にも煉瓦のレトロな建物が建っていた。

水戸で

来た時と同じ鉄道で水戸まで戻る。何とものどかな風景、帰りは直通だった。駅前では黄門様と格さん助さんの像が迎えてくれる。お城の周囲を回りこむと、道路脇にひっそりと朱瞬水の像が建っている。駅から徒歩15分、実は2年前、お知り合いのKさんの家に招かれた際に暗闇でこの像を見たのがきっかけで今回の旅となったのだ。その時は写真も撮れなかったので、ゆっくりと撮る。瞬水の功績を称える文言が横に書かれている。水戸藩への影響力は絶大であったようだ。

トラン、スラッタニー旅2022(4)スラッタニー散策

仕方なくGrabタクシーを呼ぶと10分ほどしてやってきた。だが街中の予約した宿までは相当に距離があり、料金も180b程度した。この街は列車で着く街ではないらしい。以前来たと言ってもタクシーの窓から見る風景にとんと覚えがない。30分近く走ってようやく川沿いの見覚えのある通りに出て、何とか宿に着いた。

目の前に現れたのはきれいなホテル。そして名前にリバービューが付く。ところがフロントで『リバービューの部屋をお願い』したところ、『我がホテルにはリバービューのお部屋は1つもございません』だと??確かにリバーから少し離れており、方角的にも見え難い位置だ。まあ部屋がきれいだったのと、清々しいまでの返答に免じて、良しとしよう。

そうこうするうち、日が暮れてしまった。私は何の目的もなくスラッタニーへ来てしまっていた。だから取り敢えず腹を満たしたい。だが宿の周辺に食堂らしきものは見られない。街の通りの方へ歩くのも億劫だ。反対に少し歩くと、チキンがぶら下がっていた店があった。ガイヤーン、何でタイ南部でとは思いながらも急に食べたくなり、その屋台に毛の生えた店に入った。大盛のご飯を貰い、大量の鶏に思いっ切り食いつく。とても満足したが、何と隣は草むらで大量の蚊に刺されて、かゆくてたまらない。店主夫妻が英語を話したのは意外だった。

10月27日(木)スラッタニー散歩

朝ご飯が無かったので、外へ出て探す。宿から直ぐのところに、小さな食堂が2₋3軒あった。ちょっと覗き込むと、何とジョークが作られていた。しかもジョークの上から団子スープのような物を掛け、半熟卵と高菜漬けも載っていた。これは思ったよりはるかに美味く、大満足。なぜか飲み物は甘いミルクティというのもタイらしい朝だった。

いい天気なので、そこから散歩に出た。すぐ近くにコーランプーパークという小島が公園になっているところを歩く。なかなか自然な雰囲気でよい場所だったが、特に見るべきものはない。歩いている内に数年前にここを散歩したことを急に思い出す。次に橋を渡ると、白いきれいなお寺が見えたので、遠方からちょっと眺める。

そのまま川沿いを歩いて行けば、華人廟などに着くだろうと歩き始めたが、なかなか見えてこない。途中には鯨のモニュメントなどがある。因みに川沿いの看板に中国領事館の注意書きがあったのは、やはりこの付近にも中国人観光客が沢山来るのだろうかと、ふと疑問に思う。最後はトイレに行きたくなり宿へ引き返した。

宿で少し休み、12時にチェックアウトして、またGrabタクシーを呼ぶ。昔は空港バスなどあったはずだが、ホテルのフロントは『バスなど知らない』というので仕方なく、Grabにした。空港は昨日の駅より更に遠く、1時間弱かかり、料金も相当かかった。何でこんなに遠いのだろうか。途中で雨も降りだす。

空港にはかなり早く着いたので、色々と眺めてみた。到着便から降りてくる乗客には欧米人も多く、リゾート島へ向かう人々の中継地がこの空港だと分かる。ここからバスとフェリーで思い思いの島へ行くらしい。出迎えの旅行業者も多く、チケットもここで買える。次回は島へでも行ってみようか。

チェックインカウンター、荷物検査ともかなり混んでおり、もうコロナの時代は終わり、観光事業が蘇ってきたことを告げていた。お気に入りのタイライオン航空に乗り、1時間ちょっとで無事にドムアン空港に戻る。空港ではきれいな夕日が出ており、気分良くバンコクの宿へ帰った。

トラン、スラッタニー旅2022(3)トラン散策2、そして鉄道旅

10月26日(水)トラン散策2

翌朝も昨日の早茶屋へ行った。店が気に入ったこともあるが、この店では点心だけでなく、 ジョークが旨いとの情報を得たからだ。食べてみると確かにめちゃくちゃ味付けが良く(米つぶし少な目)絶品だった。更にトランの名物焼き豚(豚の丸焼き)も頼めば出してくれるので、一つの店で色々と食べられ、大満足できる。特に豚肉はジューシーでうまい。点心と合わせて食うと、何となく香港を思い出してしまう。

食後はまた散歩に出る。特に目的地もなかったので、ちょっと郊外にあるシーナカリーン公園まで30分ぐらい歩いて行く。かなり広々とした公園に、市民がジョギングしたり、散歩したりしていて、とても気持ちが良い。そういえばここにも時計台があった。帰りに宿の近くの線路でバンコクからやってきた電車に遭遇した。鉄道員のおじさんが踏切で旗を振る。これから電車に乗るので何となく気分が盛り上がる。

宿に戻ると2階に立派なプールがあることを発見した。だがそこへ行ってみると、何と子供たちが潜水の練習をしているではないか。これはホテルとのタイアップ企画らしい。付き添いの大人たちが暇そうに眺めている。ホテル側も客を増やすため、色々と対策を練っている。12時にチェックアウトして駅へ歩いて行く。途中鳥かごを売る店が何軒かあった。そんなに需要があるのだろうか。

スラッタニーへ

電車の時間より1時間前に駅に着く。本来はランチを食べてから乗るつもりだったが、体調も考量(食べ過ぎ)して、食べないことにした。すると時間が余るが仕方なく、ホームで大人しく、タイ人乗客の動きを観察して過ごす。駅員に聞いたら乗るべき電車はディレー?だという。タイ国鉄、これまた仕方がない。

1時間ほどホームで待っていると、いろいろなタイ人が来る。乗車するより見送りの方が多いらしい。皆思い思いにお話ししながら待っている。まあ待つのもまた楽しいのかな。そう思っていると意外に早く列車が来てほぼ定刻出発となった。慌てて自分が乗るべき二等車両を探して乗り込む。貨物車両に荷物が沢山積まれていく。駅員がベルを鳴らして見送ってくれる。

座席はゆったりしており、エアコンはなく、扇風機が回っているだけが、窓から吹く風が気持ちよい。乗客も多くはなく、緩い時間が過ぎていき、完全に我を忘れて、いい気分になる。さっき汗で濡れたTシャツを車内で干したが、風で結構乾く。2等は座席が柔らかくてよい。3等の方そうな座席には若い軍人さんが沢山乗っていた。

今回の目的地、スラッタニーまで10以上の駅に、各駅で停まる。コロナ前はもう少しあったはずの列車本数は、今はバンコクまで1日2便しかなく、選択肢は極めて狭い。乗客にとって車掌が切符のチェックに来た以外は全くフリーだ。どこの駅も線路を跨いで乗客は自由に乗り降りしている。田舎の風景がずっと続いていたが、途中パラパラと雨が降ったり、バンコクに近づくにつれてだんだん暗くなっていく。

4時間弱でスラッタニー駅に到着し、列車の旅は終わった。さすがに乗る客は多いが、降りた者は多くはない。実は4年ほど前スラッタニーに来たことがあったが、その時なバスで到着したため、列車の駅の場所も良く分からない。駅舎はかなり小さい。駅の周辺を見てもバスなどが走って様子はなく、近所にあったタクシースタンドで聞いても、観光客向けに高い料金を言ってくるだけで乗せる気もない。

トラン、スラッタニー旅2022(2)トランを散策する

10月25日(火)トラン散策

翌朝は狙っていた近所の早茶屋へ向かう。完全な華人経営(元は旅行会社もやっていた)であり、お客も華人の顔をしているが、店員はタイ人が多く、華語を使う場面はない。点心は魚のすりみなど実にうまし。華人オーナーに話し掛けようとしたら向こうから英語が飛んできた。

食後散歩していると大きなタイ寺があり、その向かいに天福宮の文字が見えた。中に入ると管理人が出てきて、きれいな華語を話す。100年以上前に移民してきたらしいが、祖先がどこから来たのか、自らの原籍を知らないという。ここは福建系ではないのだろうか。それでも華人(年配者)はこの地でちゃんと華語を学んでいたことが分かる。今の若者は全てタイ語で話してしまうようだ。

ここから大観音が見えたので、登って行ってみる。途中道を間違えそうになったが、車に乗った華人女性が英語で道を教えてくれた。更に細い道に入ると自転車に乗った華人の老人とすれ違う。彼も普通に華語を話したので聞いてみると、姓は黄、ヤラー県生まれの潮州系で、薬屋を開くために商売に適したここに移住して数十年も経つらしい。

トランの華人勢力は広東系、福建系、潮州系の順番だと黄さんは言う。100年以上前貿易で栄えた街で、ペナン、プーケット方面から来た華人が多く住んでいる。黄さんが若い頃は華人学校で皆が華語を学んでいたが、今はバラバラになっているため、華語を話す人は確実に減っているとか。

大観音まで登る。誰が建てたのか、説明もなくよく分からない。そして特に寺があるわけでなく、人も常駐していない。ただただ街の(華人の)シンボルのように小高い丘に建っている。近所に天后廟があったので寄ってみたが、華人でなくタイ人管理人一家が廟を守っていたのは意外だった。タイ語が分からないため、その経緯などを聞くことは叶わなかった。この付近には犬が多く、吠えられるので早々に退散した。

宿まで戻ってくると隣にいい雰囲気の建物が見えた。近づくと何とホテルとして使われている。次回トランに来る機会があればここに泊まってみたい。今日の昼は昨日失敗したホッキンミーにありついた。これは濃厚なスープともちもち麺の組み合わせで確かに美味い。観光できていたタイ人若者も迷わず頼んでいた。ペナンで以前食べたのとよく似ている。50bで満足。

食後フラフラと歩いて行くと、チュワン首相生家というのがあった。チュワン・リークパイ(中国語: 呂基文)は、1938年にこの地で生まれた華人であり、タイの首相(第27・30代)にまでなった人物である。現在も政治家を続けており、ある意味でトランを象徴する人ともいえる。実は私にホッキンミーの店を教えてくれたのも、バンコクに住むチュアン一族の一人であった。

形ばかりの警護門があるが、中に入ると誰もいないので、説明を受けることもできなかった。どれが家なのか、敷地が広大でよくわからない。奥の方まで庭が続いており、小さな池もある。温室などもある。何だかトイレがとてもおしゃれだ。それから街をゆっくり歩いて宿へ帰る。途中に大きな寺などを見る。

午後はまた激しい雨が降る。スコールというべきだろうか。しかし2日続けて夕飯に行かないのも詰らないと思い、宿で傘を借りて出掛ける。マッサマンカレーも名物だと聞き、ネットで調べた店を探す。ところがその情報が正しいのかどうか、かなり歩くもなかなか見つからない。Google検索もできないので諦めかけたその時、奇跡的に目の前に現れる。ちょうど雨も上がった。

ここはイスラム教徒の経営だった。マッサマンと言うと何とか通じる。取り敢えずチキンを注文。美味しそうなカレーにきゅうりが付け合わせで付いてくる。ここではきゅうりを一緒に食べないのは反則らしい。調理場を覗くとチキンだけでなく、魚や煮卵など美味しそうなものが並んでいたので、思わず皆注文して合わせて食べる。

ちょっとスパイシーだが実に美味しく、日本人に合うお味だ。応対してくれたのは高校生ぐらいの女の子。英語ができるので、少しお話したところ、日本人がこの店に来るのは珍しいらしく、とても喜んでくれた。最後に支払いをしたら、お釣りが無いと言って、隣の店に走っていく姿が何とも愛らしい。

トラン、スラッタニー旅2022(1)トランへ行く

《トラン、スラッタニー旅2022》  2022年10月24₋27日

先日タイ深南部を旅して、南タイの面白さに惹かれた。Yさんから『トランはいいよ』と言われて行く気になった。トランは4年ほど前に行こうとして、発音が通じず、全く別の街に連れていかれた苦い経験があったが、今回はそれを克服しようと勇んで出掛ける。

トランはタイ南部、プーケット島の南東約140㎞、アンダマン海に面した南北約120キロメートルにわたる長大な海岸線を持ち、近年は近隣のプーケットやクラビに続いて欧米などからの個人旅行者も訪れている。また20世紀初頭までは国際交易の拠点で、マレー語で「夜明け」を意味するその地名のとおり、連日外国からの船が暁の港を発着していた。街中には当時の繁栄を物語る古びた建物、中華系住民がいまも大切に守り伝える信仰や暮らしがある。

10月24日(月)トランへ

何だかタイ国内旅が面白くなってきた。ちょうど半月前にドムアン空港からノックエアでベートンへ向かったが、今日もまたトランへ向かう。搭乗ゲートまで行くと、一つ前のプーケット行きに乗り遅れたインド人女性が激怒して係員に怒鳴っているが、飛行機は既にゲートを離れている。どんな事情かは分からないが、飛行機に乗れないのは悲しい。

私が乗るフライトはとても順調。トランも華人が多い街と聞いていたので、ベートンのように乗客も華人が多いのかと思っていたが、そうでもなかった。1時間半でトラン空港に無事到着する。空港はとても小さく、周囲には何もない。殆どの人に迎えが来ていたが、街まで行くミニバン送迎があったので、それに乗り込む。90b。私以外に乗ったのは地元住民2人のみ。先に彼らの家に行き、そこから街に向かった。

ミニバンは20分で駅前に到着。駅周辺で泊まる所を探したが、どこも部屋に電気ポットの備えがなく、歩いて10分ほど行った街のどこからでも目に付く大型ホテルへ向かった。朝食なしなら1000b。部屋は広く、静かで快適、おまけに景観も良い。大型ホテルは団体客が騒がしいかと危惧したが、フロントで聞くと今日はお客が僅か10室のみ。騒がしい心配はないが、ホテル自体が心配になる。

このホテルの近くにホッキンミーが旨い店があると聞いていた。その店まで歩いたつもりだったが、何と間違えてとなりの店へ入ってしまうというミスを犯した。腹が減っていたので普通のクイッティアオを食べたが、スープが美味い。店員は華人の顔をしているがタイ語しか話さない。お客の家族連れも華人の顔をしていたが、タイ語しか聞こえてこない。

食後街を歩いてみると、中国的建物があり、『董里』がトランの漢字名だと知る。ここにも洋風な時計台が駅前から伸びた道の十字路に建っている。きれいな庭園も見られる。駅からの道には古びているがおしゃれな洋風建築もあり、この街が昔はかなり栄えていたことを示している。

駅近くを歩いていると何とも美味しそうな匂いがしてくる。店の前で焼きそばが作られており、思わず入ってしまった。これはもちもち卵麺にいい感じのソースが絡まっており、何とも旨い。50b。潮州系の麺ということだろうか。メニューには英語はあったが、華語はなく、よく分からない。

更に歩いて行くと、古い建物が多く見られた。広東、潮州公所など華人会館も存在している。駅の向こう側には包公宮もあった。古びた市場もかなり大きい。宿のすぐ近くには、1915年創建、今は歴史的建造物となっているトラン教会がかなりいい感じで佇んでおり、観光客が写真を撮っていた。

宿へ戻ると既に日は西に傾いていた。そして部屋で休んでいると、突然大雨が降り出し、その雨は夜まで止まなかった。仕方なく外へ出るのを諦め、持ち合わせの物を食べて、そのまま部屋でゆっくり過ごす。本当に静かなホテル、静かな雨の夜だった。