「マレーシア」カテゴリーアーカイブ

KL散歩2011(4)ロングステイ事情

(6) ロングステイ&生活事情

駅前にはジャスコがあり、その奥のホテルロビーへ。そこにはこれまたご紹介頂いたKさん夫妻が待っていてくれた。Kさんがご主人と一緒に来るとは思っておらず、最初は分からなかった。先方も私が日本人らしくないため、英語で話し掛けて来た(笑い)。

ロビーで1時間ほどお話を聞く。この7月よりKLに越してきたそうだ。ご主人は以前、KL在住経験があり、KさんもNGOなどで東南アジアはお手の物。今回は駐在員とは異なり、自ら商売を始めるという。それでロングステイヤーが多く住む、市内中心部から少し離れたこの駅の近くを自宅に選んだ。ここからバスで10-15分らしい。

ロングステイヤーは以前マレーシアの駐在経験のある人が多く、年金生活者であり、月額10-15万円の生活費を使い、優雅に暮らしている。やはり電車には乗らず、自分で車を運転している人が多い。旦那は週2回ゴルフ、奥さんは習い事をするなど、日本よりよほど快適な生活との声が多い。

英語も通じ、医療水準も高く、問題は少ない?かと思ったが、やはり交通渋滞、大気汚染、などアジア共通の問題点はあるようだ。最近は物価も少しずつ上がり、KLより安い、ペナンやコタキナバルにステイする人も出て来ている。

その後、ジャスコの中を歩く。平日の午前中でもそこそこ客がいて、しかも大量に物を買っていく。カートで駐車場へ行き、そのまま車に乗せる。置いてあるものも、皆5個、10個と纏められて売っている。日本とは感覚が違う。因みに日本食材も一通り揃っていた。

ショッピングモールには日本料理屋もあり、日本が浸透してきている様子が分かる。休日はお客で溢れるモールも今日は閑散としている。本屋に入り、先日羽田で買えなかったインドのガイドブックを探す。英語のガイドブックはとてもとても厚くて持ち歩けそうになかったので、買わず。

HOJO、と書かれたお店があった。何と日本人が出店したお茶屋さんであった。中国茶を中心にして、お土産物と言った感じで、きれいな包装で販売している。店員に北京語で話し掛けると、色々と教えてくれたが、私がKさん達と日本語を使っていると「日本人か」と驚かれる。やはりKLにも北京語を使う日本人は少ないのだろう。このHOJOさん、長野にあるお店で、ご主人はマレーシア在住経験があり、海外が良いということで出店したらしい。お茶を求めてアジア中を歩いている様子が伺える。

Kさん夫妻と別れ、KL駅へ戻る。今後は慣れているので問題ないと思ったが、予定時刻になっても電車が全く来ない。この辺の正確性には問題があるようだ。ちょっと焦る。

(7) 空港へ

KL駅に着くと、今後はエアポート列車に乗る。LCCT行きもあるという。どこが違うのだろう。説明を聞くと空港駅のひとつ前で降り、そこからバスだという。本来なら、下からLCCT行バスに乗ればその方が安いし、楽だが、折角なので、トライする。KLIA(KL国際空港)と書かれた列車に乗る。最近はどこでも同じような車両である。40分ほど乗ると、乗り換え、そこから専用バスで15分ほど。合計時間ではあまりバスと変わらないが、やはり荷物を運んだりして不便。しかも4RMほど高い。

空港に着くと、先ずはランチ。マレーシア名物海南チキンライスを食べていなかったので探す。ようやく1軒、それらしい所があり入る。しかしとても混んでおり、荷物を持って来たことを後悔する。11RMでスープ付。決して安くはないが、まあまあか。

そしてチェックイン。前回羽田でもまごついたが、今回は本当にまごつく。ようやくWebチェックインした人は専用のカウンターに行くことが分かり、荷物を持って進む。ここはさすがに本拠地だけあり、大勢の人が列を作っている。今回は事前に15㎏までの荷物預けを予約。予約だと1,500円で済むからお得。

まだ時間があったので、レストランでネット。コーラ一つを手に奥のテーブルへ。既に先客がいたが、電源も使わせてくれた。どうやら日系企業に勤める華人のようで、携帯で何か国語も使い分けて話している。

周囲に中国人観光客が目立つ。団体で行動し、何か買う物はないかと探している。既にTVなどの電化製品を買い込んでいる人もおり、大きな荷物を抱えている。そうか、日本に今行っても、円高で買えないから、マレーシアで日系企業製品を買っているのか。なるほど。

LCCTはバスターミナル並み

荷物検査が混んでいるとの話だったので、少し前に進む。ここでも中国人が喧嘩していた。手荷物が重量オーバーらしいが、何とか無料で持ち込もうと懸命に言い訳している。しかしここは通常空港ではなく、格安専用ターミナル。見逃すはずはなく、すごすごと引き返させられていた。この辺は融通が利かず、面白い。

出国審査を済ませると、そこは体育館、いや、どこぞのバスターミナルの雰囲気。とても国際線出発ロビーとは思われない。兎に角頻繁に出発があり、人の出入りが激しい。これほど大勢の人が待っているターミナル、LCCの力を感じる。

水を買い忘れて探す。どこも空港価格で高い。ようやく安い所を見付けて、買う。しかしその時、小さなバックを忘れてしまう。最近物忘れが激しくなったとの自覚はあるが、こんな所で忘れるとは。中には手帳や旅行計画、などが入っており慌てて戻る。何とかそのままレジの前に置かれており助かる。

定刻になっても呼び出しはなく、ディレーが告げられる。20分ほど。その間、ネットをやろうと探すと、柱の所に電源がある。ネットは無線でフリーだという。さすがLCC。多くの外国人が皆寄り添ってネットしていた。

ようやく出発のアナウンスが。ところが驚いたことに、ゲートがよく分からない。番号はあるのだが、そこには2つの列が。誰から聞いてきて左の列に並ぶ。右左同時出発だ。本当に驚いたことには、ジャカルタ行とコルカタ行の乗客が一緒に通路を歩いて行き、ある所で別れたこと。セキュリティ、大丈夫か。中には間違える乗客もいるだろうに。これがLCCだ。

何とかコルカタ行の飛行機が見えた。その時急に雨が降り出す。私も他の乗客も一斉に飛行機に向かって走り出す。LCCの搭乗は誠にシンドイ。




KL散歩2011(3)KL不動産事情

(3) KL不動産事情

ホテルまで30RMで戻り、部屋でシャワーを浴び、そして慌ただしく階下へ。2時に約束があった。優雅なKLライフ、どころではなく、東京より忙しい。こんなスケジュールを立てたら、いかん、ディープを見習い、心穏やかな生活をしなければ。

1階ロビーで待っているとEさんはやって来た。彼女は私の昔の知り合いOさんの部下。現在は上海を本拠にKLは出張ベースで来ている。職種は不動産業。Oさんが昨年出した本に、これからはマレーシア不動産投資がお勧め、と書かれていたのを思い出し、案内してもらうことにしたのだ。

最近は日本から小金のある投資家が次々に訪れ、物件を購入しているという。先週も9人が来訪。契約を済ませたらしい。一体どんな物件を買っているのか。現場へ向かう、車はベンツだ、さすが。

1軒目はKL市内中心部の高層マンション。既に日本人も多く購入、入居している。部屋の眺望はよい。東京のマンションよりゆったりと広く、値段は安い。お買い得かも。階下にはプール、ジムが付いており、優雅なKLライフが送れそうだ。

2軒目と3軒目はモデルルームへ。基本的にEさん達が進めている物件はディベロッパーがしっかりしている開発案件。完工後も利回り保証が付くなど、面白い仕組みになっていた。ただ私のような無職の物には銀行融資が付かないので、うーん。兎に角今回見た3物件は住むための物ではなく、金融投資として考えるもの。日本円が高く、国内金利がほぼゼロなら、年率6%で回ると言われれば、考えてみたくもなる。日本人の資産はどんどん海外に流出していく。

因みに大陸中国人の投資はあまり見られず、香港、シンガポールからの投資が多いようだ。大陸では金融投資で6%と言われても、ピンとこないだろう。ついこの間まで20-30%の利回りが不動産の常識であったのだから。

帰り道、夕方のラッシュに捕まり、車は中心部で動かなくなる。KLも車の増加が著しい。

(4) KL旅行業事情

途中で車を降り、次の約束へ向かう。マレーシアと言えば、どうしても旅行を思い出す私としては、旅行の状況を聞いておきたかった。これまたご紹介を頂いたYさんを訪ねる。Yさん、旅行業界は長いが、KLは駐在約1年。

日本人のマレーシアへの観光客は横ばいだという。ただエアアジアの進出によりこの状況が徐々に変わることが期待されている。また日本の高校生の修学旅行が増加しているのが面白い。海外で、英語が通じ、交通・治安が安定している国として、注目されている。現地高校生との交流会なども、開き易い環境。

旅行業としては、マレーシアの駐在員の増加が大きい。製造業・金融業・建築業などが近年マレーシアでの事業を拡大している。経済が順調に伸びているし、チャイナ+ワンの効果もある。駐在員が来れば、家族呼び寄せから観光旅行まで需要が生じる。特に最近はKL在住者のマレーシア国内旅行が伸びている。日帰りのマラッカ、特に鉄道で行くマラッカなどは伸びているそうだ。

最近マレー人の訪日観光にも大きな期待がかかっており、少しずつ増えて来ていたが、今年は震災の影響もあり、止まってしまった。マレーシアはアジアと言うだけではなく、イスラムと言う切り口もあり、重要な拠点であるが、残念ながら日本の旅行業界は対応しきれていないという。

最後にロングステイヤー。駐在員とともに増加傾向にあり、KLに住むロングステイヤーは比較的資金的な余裕があり、旅行などに使うお金も多い。ここに注目すると同時に、新たなステイヤーを捕まえ、その友人たちの旅行を請け負い、幅を広げていくことは重要。

何だかんだで、8時過ぎまでお話を聞く。それから一駅半ほどを歩いて帰る。KLの繁華街、ネオンもきれい。パビリオンと言う名前の巨大モールが目を惹く。東京なら銀座三越、といった感じ。

夕飯はホテル前の小さな中華食堂で。どうしても華やかな繁華街で食べる気になれず、戻ってきてしまった。この食堂はおかずが沢山並んでおり、好きな物を取ってもらい、ご飯とスープを付けて、奥で食べるスタイル。何となく、台湾の自助餐に似ている。中華系らしく、神様も祭られており、皆北京語が通じる。客は9時を過ぎてもひっきりなしに入ってくる。大陸からの観光客もいる。そうか、今は国慶節の7連休、観光客は多いはずだ。

 

10月6日(木)  (5) ミッドバレーまで行く

翌朝はホテルで朝食。2階のレストランは結構立派。食事もまあまあで納得。横には屋外プールもあり、雰囲気も悪くない。これで1泊6,000円は安い。などと思って部屋に戻るとネットが繋がらない。慌ててフロントに電話するが、「そんなはずはない」とすげない答え。再度トライするもダメ。フロントへ行き事情を話すと「今ダウンしている」という。この辺のソフトは??何とか30分で繋がり、メールチェックを終え、チェックアウト。

荷物を持って、駅へ。ここからKL駅まで電車で行って見ることに。KLでは電車は下層階級の乗り物だ、と言われ、日本人の駐在員などは決して乗らないとも聞いた。実際乗ってみるとそんなこともないが、学生なども多く、ビジネスマンなどお金がありそうな人はいない。

地下鉄と異なり、上を通ることから、KLの再開発の状況などが見られて面白かった。料金は勿論安い。ただコミューターと呼ばれる線はKL駅と直接つながっておらず、少し歩いた。

駅ではまずコインロッカーを借り、荷物を放り込む。これは意外と高い。15RMもしたから、空港まで行くバスの2倍だ。観光客向けということだろうか。 それでも当初20RMの所を使おうとすると、係のおじさんが親切にも、安い方を教えてくれた。

そして鉄道に乗り、ミッドバレーへ。ここは9年前にはなかった気がする。チケットは1RM。これを自動販売機で買ったつもりが、チケットは取り忘れ、領収証だけ受け取ってしまった。自動改札が通れずに気が付く。何だかややこしい。窓口で事情を話し、ハンコを貰って何とか通過。

ミッドバレーはKL駅から僅か1駅、とタカを括っていたら、地下鉄などではなく、在来線に乗ることになり、電車がなかなか来なかった。来た電車は大変混んでいて乗れないかと思うほど。乗ったら直ぐに着いてしまったが。そういえば、この電車にも女性専用車両が付いていた。イスラム世界では男女ははっきり分けられている。日本も朝夕などと面倒なことを言わずに、女性車両を増やせばいいと思う。



KL散歩2011(2)インド人ヨーガ講師と華人会計士

(3) 新しいホテルにはいい点も悪い点もある

その新しいホテルはフラマであった。香港に出張した時など、昔よく使ったのだが、最近はどうなのだろうか。ネットでは非常に安い値段で出ていたので、思わず予約。確かに新しいが、立地は今一つか。

朝の8時過ぎにチェックインしても、笑顔で迎えられた。お客はそれ程いないのだろうか。元々今日の午前中は夜行の疲れを考量して、チェックインできそうなホテルを選んだという事情もある。その予想は的中。

部屋に上がるエレベーターは最新式。部屋のカードを差し込まないと上がれない。しかし、私のカードでは動かない。着いてきたスタッフが「まだ新しいので」と言い訳しながら、自分のカードで動かす。部屋は広く、おまけにもう一部屋ついていた。セミスイート?しかし私は休むわけにいかない。朝9時の約束を入れてしまったのだ。

既に時間は8時40分を過ぎていた。慌てて下に降り、タクシーを探す。玄関前に1台、トヨタのバンがちょうどおり、乗り込む。住所を告げるとそのまま発進。さて、どこへ行くのやら。

3.KL (1) KL郊外のヨーガ

車は南へ進路を取り、高速をスムーズに走る。何だかその昔来たような道だが分からない。20分ほど行くと、リゾート地、といった感じの家々が並ぶ。その中へ入る。実に広々とした敷地、木々が溢れ、南国の別荘である。

目的の家は広大な敷地の中にあり、なかなか見つからない。運転手も何度も場所を聞き、ようやく探し当てた。タウンハウスの2階建て。1階には各家に駐車場もある。その1つを恐る恐るドアをノックすると、隣だと言われる。隣をノックするとインド人が顔を出す。

ディープ、それが私が訪ねた人。インド出身でありながら、KLにやって来て、ヨーガを教えているという。彼は30代半ば、実に柔らかい笑顔で迎え入れてくれた。広ーいリビングがあり、その向こうにはベランダが。そこから池が一望でき、とても心地よい空間が広がる。如何にも自然に生きている感じがする。

ディープは東京でヨーガを教えているHさんの紹介。何でもインドのヨーガ学院で一緒だったとか。当時からイケメンで女子には人気があったらしい。特に何となく当たりの厳しいインド人が多い中、彼の優しさは受けたことだろう。その彼がなぜKLに来たのか。それは彼女がKLに住んでいたからだそうだ。KLにヨーガ教師の仕事を探し、契約した所で、その彼女はいなくなってしまった。後にはヨーガの契約のみが残った。仕方なく、ヨーガを教え始めた。

そしてそこで今の奥さんと知り合い、結婚。現在は自らヨーガ教室を主宰し、この別荘地内で教えている。朝はヨーガをやり、昼間は教室、暇な時は読書、食べ物は自分で調理。実に理想的な生活をこの歳で送っている。素晴らしい。「インドより遥かに快適な空間がある」という言葉には、重みがある。

今回彼は早朝到着する私を気遣って、「家で朝食を食べよう」と言ってくれていた。有難い。彼自身が、スクランブルエッグ、トースト、ヨーグルトを準備してくれ、美味しく頂く。油は控え、基本はベジタリアン。「食べ物が体を作る」「心を穏やかにするのは環境」と静かに話すが実に説得力がある。心穏やかな生活が垣間見える。

彼は仏教などについてもよく勉強していた。「ブッダの教え」などはない、あれは弟子が聞いたというものを纏めただけ、と言ってのける。宗教がビジネス化していることを嘆く。そういえば、この家にも観音様がある。奥さんは中華系。彼は奥さんの宗教もよく理解している。

帰りがけに、彼のスタジオを見学。彼の車はダイハツ合弁の新車。「これならあまりお金が無くても買える」とのこと。乗り心地はまあまあ。スタジオまで2-3分で到着。華人の家の1階部分を借りているそうだが、庭もあり、気持ちの良いスタジオであった。ここで爽やかにヨーガをやれば、効果も抜群かと思う。

更に数分行った家に入る。大きな別荘だ。オーストラリア人が所有しているが、ヨーガ合宿を実施する際は、この家に皆泊まり、ヨーガもここで行うらしい。部屋は沢山あり、大人数が収容可能。食事はここのお手伝いさんが作るとのことで、大きなキッチンもあり、家の外と内と両方で食事が出来るテーブルがあった。プールもあり、広いリビングで寛ぐこともできる。良いスペースだ。一度ここでヨーガ合宿をやってみたい。

(2) 華人

ディープの奥さんが帰って来た。会計の仕事をしているらしい。KLに来る前にディープに「マレーシアの最新事情を教えて欲しい」とメールした所、「僕は世俗のことは分からない、世俗のことは妻に聞いてくれ」との返事。どこかで聞いたセリフだが、やはりヨーガ教師は世俗を離れる必要がある。

奥さんにマレーシア経済について聞く。「ここ10年、色々なことがあったけど、基本的には順調」「KLの一等地の不動産はかなり上昇したけど、この辺の別荘地は結構安く買える。郊外へ引っ越す人も出て来ている」

奥さんはKLのチャイナタウンに実家がある。華人に関しては「ここ数年、マレーシアの人口はかなり増えている。でも増えているのはイスラム系(主にマレー人)だけ。彼らは残念ながら生産性が低く、ブミプトラ政策で守られているが、実体経済を主導しているのは華人。その華人は人口比でどんどん減少している。これはマレーシアの将来にとって極めて危険な兆候」と懸念を示す。

大陸中国人の進出に関しては「華人と組んでビジネスしようと言う人は結構いるようだが、特に目立った動きは感じない。マレー人優遇社会では大儲けは出来ないのでは」と素っ気ない。

帰りにタクシーを呼んでもらったが、「来た時のタクシーはデラックス。ここまで60RMもする。節約が大事。帰りは普通タクシーを呼んであげるから。30RMでホテルまで帰れるよ」と。

KL散歩2011(1)エアアジアでKLへ行ってみた

《KL散歩》 2011年10月5日-6日

今回実に9年ぶりにクアラルンプールへ行った。しかし目的地はKLではなく、インド。安い航空券を探していくうちに、マレーシアベースの格安航空会社(LCC)エアアジアがヒットしたのだ。兎に角片道から乗れて、安い。たまたまKLで乗り継ぎ、コルカタへ行く便が同日になかったため、1泊することに。インドへ行く前に優雅なマレーシアライフを満喫した。

10月5日(水)
1. エアアジア

近年空の世界ではLCCと呼ばれる格安航空会社の活動が活発化し、新たなマーケットが開拓されている。その代表格がエアアジアであろう。KLはシンガポールやバンコックに比べて、何となく遠い存在であったが、この羽田深夜便かつ格安料金のエアアジアの就航によりKLがかなり身近になった気がする。

実際当日夕飯を我が家で普通の時間に食べ、ゆっくり電車で羽田空港に行く。帰宅ラッシュに巻き込まれることもなく、座って行けるから楽ちん。10時前には空港に到着。

チェックイン

エアアジアの航空券は安いが、他のサービスを求めると全て料金が課金される仕組み。今回全てネットで予約しており、説明も受けていない。何が起こるか分からない。実際チェックインカウンターは「チェックインする人」と「チェックイン済みで荷物を預ける人」に分かれていて新鮮。しかし自分はどちらに並ぶんだろうか。Webでチェックインは済ませたが。

まごまごしていると直ぐに係員がやって来て用件を聞く。「チェックインしたのなら、ボーディングパスは持っているか」と聞かれ、困る。プリントアウトして来なかったのだ。それでもチェックイン済みは済みに並ぶ。カウンターでは荷物の有無を問われる。手荷物は7㎏以内だそうで、私の大きな荷物は2つとも取られる。15㎏以内で2,500円徴収された。クレジットカードで支払い、無事通過。

小さなリュックを慌てて出して、PCを格納。実に軽くなった。搭乗者全員が本当に身軽な雰囲気である。これはこれでいいカモ。荷物検査上に楽々歩いて行く。すると後ろから「おー」という声が。何と北京時代のお知り合いHさんと遭遇。彼女はシンガポールへの出張。出発は夜11時台、翌朝には目的地に着き、朝から会議だと言う。羽田空港の深夜便はアジアへの旅を大きく変えた。

お土産とガイドブックを買っていなかったので、Hさんと別れてショップへ。ところが・・お土産を買おうとしてカードを出したが、どうしても読み込まない。先程チェックインでは問題なかったのだが。何度も試してもらったが、ダメで現金払いに。

この先カードが使えないと何かと不便。もう1軒でガイドブックを買って試す。しかし無理だった。使い過ぎで擦り切れたらしい。これは困った。またまた現金払い。おまけにガイドブックにも誤算が。マレーシアはあったが、その先のインドの本は置いていなかった。聞けば、「羽田では直行先のみ販売している」のだそうだ。それは合理的な説明だが、インドにガイドブックなしで行くとは、ちょっと無謀か。消費税をケチった結果はどうなるのか、後のお楽しみである。

兎に角トラブル続き。それにしてもカードは今回の旅が終わっても必要であることに気が付き、カード会社へ電話。事情を説明している間にも搭乗手続きが始まってしまった。相手は「この電話はカード紛失用なので、明日の日中掛けて欲しい」と言うのだが、私は日本に居ないので、何とかお願いする。しかし紛失再発行となると、番号が変わってしまい、ほぼ全ての口座引き落としが出来なくなる。困った、困った。最後は搭乗の最終案内を聞いてもらい、何とか自宅に新しいカードを送ってもらうように依頼した。

機内

11時45分にテイクオフ、5時間程度睡眠を取ると、翌朝6時(日本時間7時)にはKLに到着していた。料金は片道2万円台。食事などは出ないので、自ら必要な物を持ち込む(数百円程度で食事をオーダーすることも可能)。既存航空会社が深夜にもかかわらず、食事を提供するため、長い時間機内を明るくしているのとは対照的に睡眠時間も比較的長く取れる。また荷物を預けると追加料金が掛かり、機内持ち込みは1人1個、7㎏までとなっていてちょっと厳しい感じがする。だがルールが分かってしまえば、逆に機内で収納するスペースを心配することもなく、皆軽装で乗り込んでくる。

私が乗った便の乗客はほぼ半分程度。離陸すると皆早速寝床準備。三席で横たわる人。シートを倒して寝る人など様々。私は隣に人がいたので、横の席に移動したが、窓際に居たマレー人女性に「私が寝るからあっちに行って」と言われ、しょげる。後ろへ行くとなぜか前が壁の特等席が三席とも空いていた。ラッキーと思い座っているとCAがやって来て、「ここはホットシートです。30ドル支払う必要があります」と言う。なるほど、ここにまで差別化が図られているのか。

座席は思ったほど狭くはなく、音楽などはすべて有料であり、何も考えずに座ってウトウトしていると朝になってしまった。

2. ホテルまで
(1) LCC専用空港

KLの空港には以前降りたことはあるが、現在ではエアアジアなど格安航空会社用には専用ターミナルが用意されていた。当然タラップを降り、バスでターミナルへ向かう。まだ夜は明けておらず、あたりは暗い。ターミナルはだだっ広い。イミグレは我々の到着を待っていたという感じで、スピードは速い。

イミグレの手前に両替所があったが、朝はやっていないようだった。イミグレを抜けると両替可能な場所が一つあり、レートを見たが、出口を出ればたくさんあるだろうと両替しなかった。ところが荷物のターンテーブルの所にあった銀行のレートはかなり悪く替える気がしない。荷物を受け取り外へ出たが、そこには両替所は見当たらない。当座の金は持っていたので、取り敢えず市内までのバスに乗る。

空港から市内は結構距離が離れており、タクシーで1時間程度掛かる。但し交通費の格安なKLでは、そのタクシー代は約MR100(日本円2,500円)。定額制の前払いを利用すればぼられる心配もない。しかし節約する私はバスに乗る。KL駅まで僅かMR8(200円)で行くことができる。他にエアポートエクスプレスもあり、これでもRM12.5(約310円)で行ける。日本と違い、バリエーションが多く、自らの目的に合わせて使い分けられるのは嬉しい。

LCCT(格安航空会社専用ターミナル)→KLセントラル、と書かれたバスを見付ける。大きなバックを持った外国人も大勢乗り込む。タクシーに乗るのとはまた違った旅がここにある。

(2) KL駅

バスに乗ると朝日がさしてきた。何だかとてもいい気分になる。眠ろうとしたが眠くはない。ボーっと窓の外を眺めて過ごす。KLの周辺は道路が発達しており、安心して見ていられる。道路の整備状況はアジアでも有数ではないだろうか。

1時間して、KL駅に到着した。予約してあるホテルに向かう前に再度両替を試みる。が、まだ7時台、銀行はやっていない。インフォメーションと書かれたデスクがあり、そこで聞くと丁寧に教えてくれた。このようなサービスは実によい。

教えられた通り進むが、どうしても見つからない。ガードマンに聞いてやって分かる。それ程に小さな、目だたない両替屋だった。しかしレートは最初に見たものより更によく得した気分になる。待てば海路の日和あり、であろうか。

両替を済ませると、さっきのガードマンが目に入る。有難うと言うと、タクシーに乗らないかと言う。それではとタクシーの方に進むと慌てて「チケット」と遮る。タクシー乗るのにチケット?横を見ると数人が列をなしている。どうやらここで買うらしい。見ていると皆行先を述べ、買っている。これはプリペイドタクシーだ。これだと行先を言わなくても運転手も分かるし、ぼられる心配もない。

運転手は陽気なマレー人。早々に通じ難い英語を駆使して、会話してみる。子供は4人いるが、今生活は安定しているという。車は日本車が良いに決まっているが、何しろ高い。最近は韓国車が増えている。確かに走っていると現代が目に付く。ダイハツは新しい車を出したらしく、これが安くて良いという。

ところが運転手は私が予約したホテルを知らなかった。8月に出来たばかりだから仕方がない。勝手に違うホテルを思い描いていた。私は9年ぶりのKLだったが、所々に記憶があり、間違っていることが分かった。住所を確認し、何とか到着した。





《昔の東南アジアリゾート紀行》‐2000年ランカウイ

12.2000年10月 ランカウイ

(1)国慶節休み
実は中国では私が赴任した1999年の国慶節から突如休みが7連休になった。僅か1週間前に公布されたのだから如何にも中国的。何とその後年に3回の7連休が始まるのである。国慶節、旧正月、労働節。

2000年の労働節からは中国国内で大旅行ブームが起こった。我々が香港旅行に行った5月には、万里の長城に行く旅行客が通常3時間で往復できる道を12時間掛かったなどという凄まじい話も出た。因みに近くのゴルフ場に行く日本人も軒並みキャンセルに追い込まれた。

年3回の7連休は家で大人しくしているか、海外旅行するしかない、と言われるようになった。我々は『Go South』の方針に従い、南へ行くことにする。今回はマレーシア。それも前回の香港駐在で行かなかったランカウイ島へ行くことになった。

(2)ランカウイ
北京からランカウイへ行くにはクアラルンプールを経由しなければならない。北京空港を午後マレーシア航空で出発した我々は午後10時頃KLに到着。ここで一泊しても良かったが、面倒なのでそのまま国内線に乗り換える。しかし出発は11時半。子供達はグッタリして寝ている。特に次男は出発時間になっても起きずに飛行機に担ぎこまれる。

真夜中の12時半、ランカウイ到着。もし迎えが来ていなかったら大変だ。空港は小さく、その心配は直ぐに杞憂に終わる。車で10分弱、今回のホテル、ペランギに到着。

(3)ペランギ
チェックインは簡単で今回から2部屋をコネクティリングルームで予約していたが、トラブルもない。部屋はコテージ風で高床式。かなり木の香がある。部屋の明かりは暗いがムードはばっちり。このホテルはバンタイ・チェナン地区を代表するホテルでかなりシックな印象。ペランギはマレー語で虹を意味すると言う。

翌朝起きて窓から外を見ると、そこには大きな池があり、鳥が囀る木々がある。実に素晴らしい風景。周りは全てコテージタイプの部屋で統一されている。朝食のビュッフェを食べた後、近所を散歩。池以外にも、昔の農家を再現した家があり、その先には何故かパターゴルフがある。反対側にはビーチがあり、砂浜が続いている。勿論プールもある。

今回子供達はパターゴルフに興味を持ち、やり始める。なかなか難しくて、ボールが池に落ちたりする。炎天下で2ラウンドもすると汗びっしょりになる。しかし何のプレッシャーもない、ゴルフは良いものだ。プールも落ち着いた感じのもので、ここが大人のリゾートを目指していることが分かる。子供も多少控えめに泳ぐ。現在はオフシーズンなのか客は多くないので、特に気にすることは無かったが。

ホテルの従業員も対応もこれまでの東南アジアのリゾートの中で最も良かったような気がする。マレーシアは全般的に対応が良いのだが、色々と気を使ってくれていた。

(4)ビーチと水族館
ビーチに出て泳いでいると、南の方に建物が見える。ここが水族館のようだ。このビーチは、遥か南に続いている。ビーチ沿いには高級リゾートホテルが立ち並び、非常にきれいである。これはランカウイの開発がつい最近行われたことを差している。

水族館はかなり規模が大きく、中には沢山の魚、その他海の動物がいた。近海に生息するものを集めたと言う。これも最近出来たと思われる。但し最近の水族館は大体何処へ行っても同じなのが残念。水族館の横には大型免税店が併設されており、観光の目玉となっているようだが、我々が行った時は人が多くはなかった。

尚海は汚かったと言う印象はないが、何故かあまり覚えていない。確か天気が今一つで、ビーチにいる時間が短かったからだろうか?兎に角今回はホテルが気持ちよく過ごせたので、外を出歩くことも少なく、全体的にはあまり覚えていない。

(5) クアラルンプール
帰りもクアラルンプール経由となるが、同日で北京に戻るとなるとランカウイのフライトが非常に早い為、KLで1泊することとした。これは奥さんの希望でもある。

ホテルはKLのエアポートホテルである、パンパシフィックに取り、午前中にチェックイン。午後KL市内へ。空港でシャトルタクシーを頼むと70kmもある市内まで僅かM$60で行ってくれる。取り敢えずペトロナスタワーを目指す。ここは以前無かった92階建てのアジア最高の建物である。業務上若干係わったこともあり、是非とも見たいと思っていた。行ってみると確かに高い建物がツインタワーとなってあった。1つは日系企業、1つは韓国系が建設。是非とも上に上りたかったが、ペトロナスのオフィスとなっており、朝9時前しか登らせないようだ。

諦めてKLタワーを目指す。ペトロナスタワーに昇れなかったので、何となくタワーに昇りたくなったのだ。横に伊勢丹があり、その前からタクシーの乗ろうとすると警備員がこっちのタクシーに乗れと指示する。素直に乗り込むとやけに愛想の良いインド系運転手が早々に観光案内を取り出す。『KLタワーに行け。観光はいらない。』と言ったが、なかなかしつこい。最終的にタワーに到着し、料金を尋ねるとM$30という。メーターも進めてある。しかし初乗りM$2のKLで30はありえない。払わないと言うとごちゃごちゃ言い始める。最後はM$10を投げつけて降りる。

タワーの眺めも良く覚えていない。おまけに帰りに車が無く、歩いて小山を降りることに。家族からはかなり不満が出る。しかも暑い。降りてもタクシーが捕まらない。何なんだ?

その後奥さんはタワーレコードへ。我々3人はお茶を飲んで時間をつぶす。夕方スコールが来る。かなり強い雨で雷を伴い、子供などは驚く。ドアボーイが親切にもタクシーの予約をしてくれる。安心して夕食はヒルトンホテルの源氏で。久しぶりに日本食を食べて大満足。外に出てみると大雨はあがっており、涼しい風が吹く。タクシーで30分ほどで空港ホテルに戻る。

(6) リゾートの鉄則12

落ち着いたリゾートはランカウイで。そのホスピタリティーは素晴らしい。

《昔の東南アジアリゾート紀行》‐1991年コタキナバル

3.1991年12月 コタキナバル

(1) 香港赴任
1991年2月に台北から香港に転勤した。そして5月に家内と長男を呼び寄せ、漸く家族3人の生活が始まった。私には夢というべきものは無かったが、何となく小さい子供を連れて旅行したいという気持ちはあった。

ところが最初の夏休みは家内の母が孫と離れて寂しそうだということで、日本に帰ることにした。但しただ帰るのでは面白くないので、福岡、長崎の旅をした後、実家に行ったのだ。長男は丁度何を見ても直ぐに触りたくなる年頃。福岡のホテルは日本的(かなり狭いという意味)で、ベットの上から何でも手に触れることができる為、世話が大変であった。

長男とは1歳3ヶ月まで一緒に暮らしていなかったので、香港に来ても今一つ懐いていなかった。公園に連れて行くと『ママ、ママ』と直ぐに泣き出し、周りのアマさん達から誘拐犯と間違えられそうになったこともある。

(2) タンジュンアルビーチ・ホテル
その年のクリスマス前(旅行費用が上がる前)、マレーシアのコタキナバルに行くことにした。理由はキャセイの直行便で2時間で行けること、空港からホテルまでが近いことの2つであった。更にホテルはビーチリゾートで、浜辺がある。何となく楽しそうである。

赤ん坊は航空会社の規定で2歳まではノーマル料金の10%で飛行機に乗れる。皆旅行は2歳前に行こうとしていた。(私は当時JALのカウンターで『うちの子供は6kgしかないので預ける荷物と一緒にして料金無料でいいでしょう?』と言ったところ、『それなら荷物ですから、万が一のことがあっても責任持てません。』と切り返され、スゴスゴ引き下がったことがある)。

コタキナバルのタンジュンアルビーチ・ホテルは本当に近かった。香港から飛行機で2時間ちょっと、そして空港からホテルまでは車で10分ほどであった。2歳前の子供を連れた者にとっては非常に便利である。

このホテルはシャングリラ系列で当時この街唯一の極めて豪華なリゾートホテルであった。部屋もゆったりしており、居心地も良い。今回はキャセイのパッケージツアーであったが、シーズンオフということで、シービューの良い部屋であった。尚このパッケージは往復の航空券、ホテル代(朝食付き)、ホテルまでの送迎が付いており、その後も良く使った。

ホテルには大きなプール、庭、ビーチがあり、大いに楽しめる。翌日プールに入っていると子供が他の子供と遊び始める。良く見ると日本人の子であった。後で家内が聞いてみるとコタキナバルとは目と鼻の先にあるブルネイに駐在する一家であった。ブルネイの首都バンダルスリブガワンには何とヤオハンがある。ここのヤオハンは王室御用達と言われ、王族が買うものは一般人には売らないと聞いた。靴1つが必要でもその店の在庫全てを買って帰るとのこと。また人口僅か30万人のブルネイでは石油により収入が豊富にあり、皆豊かである。普通のOLが通信販売でグッチやエルメスのバックを買っている。世の中には不思議な国があるものだ。

(3) ビーチ
3日目はビーチへ。ホテル前のビーチで砂遊びなどをしているとホテルの従業員が『ボートで無人島に行けばよい。海ももっときれいだ。』などとアドバイスしてくれる。ボート乗り場はビーチの端にあり、直ぐに行ける。但し本当に無人島なので昼ごはんや飲み物を持参する必要がある。

我々3人はボートに乗った。ホテルのランチボックスを持って。何だか子供の時以来のピクニック気分で嬉しい。20分ほどエンジン付きボートの乗ると周りは何も見えない海。そこに無人島が見えてくる。島には木が生い茂っており、ロビンソンクルーソーを思い出す。子供の頃一番好きだった物語だ。何時かクルーソーのように誰もいない所で暮らしたいと思っていた。

到着するとボートのおじさんは午後迎えに来ると言う。本当に取り残された感じ。周りを見ると既に西洋人が3人、香港系が3人、日なたぼっこをしていた。我々も早速ビーチで砂遊び。飽きるとシートで寝転がる。楽園である。昼飯もサンドイッチとフライドチキン、ピクニックである。

午後寝転んでいると、ボートが見える。岸に乗り上げると2人の人間がライフセーバーの格好で歩いてきた。私は丁度雑誌を読んでいたが、彼らは真っ直ぐ私の前にやって来て突然、『現地の人ですか(当地人)?』と何と北京語で聞いてきた。一瞬怯んだものの直ぐに『違う(不是)』と答えると、先方はかなり驚いて、シンガポール人か?香港人?台湾人?大陸人?と続けざまに聞いてくる。全て違うと答えると、途方に暮れたように『何人だ?』と聞く。日本人だと答えるとひどくビックリして、『日本人が北京語を話すのを初めて見た。』と顔を見合わせている。

その後彼らとは30分ぐらい話した。行き成り北京語で話しかけた理由は地元の人間でも中華系の彼らは先祖の出身によって広東語、福建語など使用言語が違うこと、若者は皆華人学校で北京語を習っており、共通語として使われていることなど。マレーシアはなかなか面白いところだとその時思い、その後ずっとマレーシア贔屓である。

しかしこの無人島で、しかも観光客しかいないはずの島で、何ゆえ私に北京語で話しかけてきたのか?それはとうとう分からなかった。横で家内が不思議そうに首を振り、『よっぽど現地人に見えたのね?』と頷いているのが、何となく悔しい。

(4) 食事
ホテルでの食事は2-3日で飽きてしまうが、子供が小さいとなかなか外に食べに行けない。彼は好きな時間に寝るし、食べられない物も多い。ホテル内では、例の海南チキンライスを見つけ、愛用。それとスチームボート。2人で食べるには多過ぎるが、このスープは美味しい。魚、野菜などがふんだんに入り、消化にも良い。それから一番リゾートらしいのが、プールサイドでフライドポテトを食べながら、コーラを飲むこと。毎日これをしていると極楽気分になれる。

(5) リゾートの鉄則3
現地に馴染むことは大切である。しかしあまりに同化してしまうのは如何なものか?

《深夜特急の旅2002-マラッカ編》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回はこの旅を始めるきっかけとなったシンガポール・マラッカ。(『深夜特急2』)

1.2002年12月 シンガポール1(P177)
今回はマイレージが残っており、年末に失効することから何処でもよいので行ける所をANAに頼んだところ、UAのシンガポール往復チケットが手に入った。尚UAは先日米国で破産を申請したばかりで、あまり人気が無かったようだ。

いつでも感心するのが、シンガポールのチャンギ空港である。あの手際の良さは何であろうか?今回も午後11時50分に飛行機が到着したが、その後僅か5分で空港の外へ出てしまい(手荷物のみ)、タクシーに乗ると市内のホテルに12時15分にチェックインしていた。これは快感である。

最近のシンガポール旅行は家族連れであったのでフリーに歩くことが無く、今回は10年振りにチャイナタウンを訪れようと思っている。沢木氏はシンガポール全体に香港のような期待を掛け、そして落胆した。『とりわけ落胆したのはチャイナタウンだった。』という。香港の廟街のような活力は30年前既にシンガポールには無かった。

今回シェントンウエーのホテルより歩いて行く。本当にきれいな街並みだ。文句の付けようも無い。だがしかし物足りない。中国人がこんな環境に我慢できる訳が無いと思ってしまうのだ。しかし現実は目の前にある。規則を作れば、罰則を強く設ければ中国人も出来るのか?

チャイナタウンは驚きの一言だ。雑踏などは全く無い。高級住宅街のように静まり返り、澄まし切って佇んでいる。これでよいのか?思わず叫びたくなる。沢木氏も恐らく似たような感情を持ったのでは?

近くにはMRTの『チャイナタウン』駅が近く開通するようだ。横浜中華街もきれいであり、大陸中国人や台湾人を連れて行くと、きっと飯が不味いに違いないと思うようである。そうだとするとシンガポールはとりわけ不味いと感じるはずだ。買い物客は疎らだが、どうもマレーシア人が多いようだ。何か良いものでも売っているのだろうか?中国茶の店も見つからず、面白くない半日を過ごしてしまった。究極の社会主義国シンガポールの真骨頂を見る思いである。

2.ジョホールバル
(1)危機一髪?
シンガポールで2泊して、陸路歩いてジョホールバルに渡る。
ジョホールで一泊しようと思い、予め調べておいた国境近くのホテルに電話すると、何と経営が変わっていた。値段も高めなのでそれならいっそ一番良いハイアットリージェンシーに泊まる事にした。1泊ネットでM$230。朝食付き。これは安い。

国境からホテルまでタクシーで10分弱と言われたが、折角だからと歩いて行くことにする。少し歩くとジョホール水道沿いの広い道に出る。午後の日差しが強くなり、歩いていることを後悔し始めたその頃、突然小型車が私の横に停まる。運転手が『ここは歩行者通行禁止だ。私は道路管理公団の者だ。直ぐにこの車に乗りここを離れるように。』と公団の身分証を見せながら英語で言う。普通であればおかしいと思うべきだが、何しろ全てが規制だらけのシンガポールから来た為、そういうこともあるかと思い、車に乗る。

『何処に行くのだ?』『ハイアット。』『ジョホールバルには見るところは無い。ホテル代が勿体無い。次の目的地は何処だ?』?私は次の目的地を決めかねていた。はじめは東海岸に行くつもりだったが、シンガポールの友人にもホテルのフロントにも12月に東海岸に行っても波が荒くてシーズンオフだ、と散々言われていた。

私の目的地は何処だ?この時公団職員に目的地が言えないと『怪しいヤツ』と思われるのが嫌で、咄嗟に『マラッカ』と答える。どうしてマラッカなんだ??自分でも分からないが、何故か心の奥底ではマラッカが引っ掛かっていた。

『そうか、マラッカなら今日の内に行ける。俺がジョホールを2,3案内してバスターミナルに送っていこう。』と公団職員が言う。どう見てもおかしいことに漸く気付く。さて、どうしようか?意外と冷静に逃げ出す方法を考える。

直ぐ近くの墓地を通る。公団職員が説明を始める。少し話していると彼が本当の公団職員であること、偶々非番となり帰りがけにアルバイトをしようと声を掛けたのではないかとの推測が出来た。仲間がいて拉致されては大変だと思ったが、その確率は低いと分かり、突然助手席のドアを開け、バイバイした。彼は何か言っていたが、諦めて車を走らせた。

解放されて流石にホッとした。ジョホールバルの治安が悪いことは聞いていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思いも寄らなかった。凶悪犯でなくて良かった。しかし自分が何処にいるのか分からない。大きな通りまで歩いたが、方向も分からない。バスが通るが、行き先が読めない。途方に暮れかけたときタクシーが来た。言葉が通じるか不安があったが、乗り込んでみると何と片言の日本語を話した。もしや又騙されるのでは?不安が過ぎったが、聞けば日系メーカーで働いたことがあるとのこと。ハイアットは何と歩いても行ける所にあることが分かり一安心。

(2)ハイアット
ホテルは立派だった。おまけに部屋はフル・ジョホール水道ビュー。気持ちが良い一枚ガラスで見晴らしは最高。これで朝食付き6,900円は格安。先程からの騒ぎで大汗を掻いた事もあり、早々にシャワーを浴びる。実に気持ちが良い。風呂場から直接景色が見える。シャワーが終わり、さて拭こうかと思ったが、何とタオルが一枚も無い。部屋はクーラーがガンガン利いている。全く拭くものがなく、びしょびしょの場合、人はどうするのだろうか?取り敢えずハウスキーパーに電話する。直ぐに持って来るとの答え。どうしてこんなことに?初めての体験である。

タオルは結局30分経っても来なかった。2回目の催促後10分して漸く人が来て事態を把握。その5分後にタオルを貰った時には既にほぼ自然乾燥しており、風邪を引く寸前だ。流石に腹に据えかねた。マネージャーを呼んだが来ない。その時知り合いが以前ここで会議を開催した時に不手際が多く、とてもハイアットのサービスではなかったと愚痴をこぼしていたのを思い出す。思い出すのが遅すぎた。

最終的に事件が起きてから約2時間後、マネージャーの男はやってきた。事情を聞くと一言、『洗濯物を出してください。全て無料で洗濯しましょう。』と提案する。これは有難いと沢山出す。しかしこの手際の良さは何だ。余程慣れているということか?

3.バトゥパパ
翌朝タクシーで郊外にあるラーキンバスターミナルへ。何故か昨日口に出したマラッカを目指すことにする。理由は無い。それが私の旅の流儀である。しかし不思議ではある。

ターミナルに行きマラッカ行きを探していると、小さな字で『バトゥパパ』の表示がある。何故かこれにも引っ掛かる。確かこの地名は金子光晴だ。金子は昭和初期に上海を振り出しに足掛け7年のアジア・ヨーロッパ放浪の旅に出た詩人で、マレーシアの滞在については、『西ひがし』『マレー蘭印紀行』に詳しい。何故か引き寄せられるようにバトゥパパ行きの切符を買う。M$6.95。沢木氏もシンガポールで金子の詩を読んでいる場面がある。

金子の文章は非常に暗く、内容も川底に引きずり込まれるような不気味な雰囲気をかもし出している。その中で彼は多くの日々をバトゥパパという今日の日本人は全く知らない土地で過ごしている。当時多くの日本人が東南アジアに出て貿易や資源開発で一旗あげようとしていた。バトゥパパはスリメダンの鉱山開発の集散地として開けた港町として、日本人クラブなどもある日本人の拠点であった。

当時シンガポールからバスで5時間掛かったようだ。本日ジョホールバルからバスに乗る。直ぐ着くだろうとたかを括っていたが、高速道路を外れてからは道も細い一本道になり、舗装していないところもあり、なかなか着かない。長閑な南方の風景を眺めながら漸く到着したときには2時間半は掛かっていただろう。どうやらこの辺りは昔の様子を十分に残していそうだ。

しかし本当に小さな街でこれがジョホール州第2の街かと思われるほど静かで何も無いところであった。昼間のせいもあり、人影も殆どない。微かに昔の隆盛を思わせる低層の建物が、数十年経っています(建物に建築年代が記されているものが多い)といった風情で強い日差しの中に建っている。少し行くと港が見える。かなり小さな港できっと100年変わらないのだろう。当地を訪れた日本人が必ず集まった旧日本人クラブの建物はそのまま残っていたが、気を付けて見なければ行き過ぎてしまう。今は華人が使っているのであろうか?

金子はこのクラブの藁床をこよなく愛した。そこが唯一の安らぎの場であったようだ。(何だか、深夜特急の旅ではなく、金子光晴の旅になりそうだ。)時代は満州事変の頃、シンガポールでは排日運動も盛んになり、蒋介石が華僑を使って宣伝工作を行っていた頃である。
何処にも身の休まる場所の無い旅人にとって、この街は落ち着いて、包み込んでくれるのかもしれない。そう考えると何となく理解できるところもある。

100年前に日本人が多く移住し、ゴム園を開いた街、金子の時代にはその最盛期に陰りが見え(だからこそ彼を引きつけたのだろう)、そして終戦で全て廃れた街。歴史に埋もれたこのような街は無数にあるのだろうか?金子が書き記したカユ・アピアピと呼ばれる火炎樹の木を探したが見当たらなかった。夜になると沢山の蛍が集まるというこの木はバトゥパパを象徴している。

私はこのバトゥパパに長く留まることは出来なかった。バスの時間が来たからではない。どうしても物悲しい気分になり、どうしても深く暗い思いに浸ってしまうのである。例えそれが、南の国の強い太陽の刺激の下であってさえも。

4.マラッカ(P144-148)
(1)マラッカの祝日

バトゥパパにいたのは僅か2時間。マラッカに向かう(バス代M$5.9)。バスの時間もいい加減で席もあって無きが如し。乗り切れずに降ろさせている人もいる。バスは海岸線を北上する。2時間ほど田舎の風景が続き、そしてマラッカ着。

ガイドブックは持っていたものの、自分が何処に着いたのか全く分からない。市内に行くバスがどれかという表示も無い。変なおじさんが寄って来てホテルを紹介するというが断る。隣に英系スーパーTESCOが見えるので、そこから市内のホテルに電話を入れる。何と意外な事に何処も満室で断られる。こんなことはマレーシアでは初めてだ。確かに今日は土曜日だが・・・?

何とか市内に出るため、タクシーを捜す。やっと見つけた運転手は中国系で北京語が通じた。何故か分からないが今日は至るところが通行止めで市内に行くタクシーなど無い、とのこと。結局バス停に戻るとさっきのおじさんが市内行きのバスの番号を教えてくれる。満更悪い人ではなかったようだ。バスに乗ると車掌のおばさんが『何処に行くのか?』と北京語で聞いてくる。どう言って良いか分からず、『華人街』というと怪訝そうな顔をして切符をくれる。30分ぐらい乗っていたところ突然多くの人が降りる。おばさんが『降りろ』という。またまた何処にいるのか分からない。

目の前にマコタホテルという字が見える。さっき電話して断られたホテルだ。ダメもとでフロントへ。アジアでは直接行けば何とかなることが多い。しかし、ダメだった。何と言おうと部屋は無いという。本当に途方に暮れる。既に夜の7時になっている。未だ外が明るいのが救い。その時はたと思いついた。何故私はマラッカを目指したのか?そう、夕日を見る為??

マコタホテルを出ると向こうの方に立派なホテルが見える。さっき電話した中で繋がらなかった『ホテルエクアトリアル』である。思い足取りで向かう。かなり疲れており、精根尽き果てようとしていた。もし断られたらロビーに座り込むつもりであった。(昔中国でよくやった)

恐る恐るフロントへ。正に運命の一瞬、と思ったら、フロントの女性がにこやかに『お一人ですか?』と日本語で話す。この驚きは文章では表現できない。女神が目の前に立っているのである。彼女は正真正銘の日本人。今日はマラッカのスルタンのオープンハウスディで、全国から多くの人々が来ており、何処もホテルは満員であることが語られる。しかし、彼女は『幸い最後の1室がご用意できます。』という。悪運は全て振り払われる。

部屋代を聞くことも忘れて部屋を確保。観光客も来るが、日本人出張者が多いこのホテルの部屋代は若干高めのM$270。部屋はタバコ臭くて古くてお世辞にも良いとは言えないが、贅沢はいえない。部屋代に朝食代の他、M$88分の食事代が含まれていることが分かる。

殆ど外が見えない窓から外を見ると、夕日が落ちて行く。急いで外に飛び出す。しかし遅かった。既に海に消えていた。明日もここに滞在することが決まった。何しろ旅の目的が夕日を見ることだから?

(3)2日目のトライ
早朝から市内散策に出掛ける。ポルトガル風砦跡、教会、マラッカ王朝の宮殿(復元)などを見る。何となく、マカオを歩いている部分と日本を歩いている部分があるのが面白い。瓦屋根が多いせいであろうか?

沢木氏も言っている。『マラッカに立ち寄ってみるつもりになったのは、何もポルトガル人の築いた砦やザビエルの像を見たかったからではない。』私もそうなのだ。夕日を見る方法を考える。以前は海辺に出れば何処でも見られたかもしれないが、今は高架道路があったり、建物があったりして、意外と見え難い。ガイドブックを見るとマラッカ郊外にリゾートホテルがある。そこに行けば完璧だと思い、予約する。

そのホテルは西に10kmは離れていた。M$20でタクシーに乗り、海岸線を走る。ビーチは無く、建物も少ない。リビエラホテルに到着。M$258と高めだが、部屋は寝室がセパレートされたセミスイート、カウンターバー、バルコニーもあり、部屋も広く、リゾート気分。部屋からはマラッカの海が一望出来る。部屋から出ると裏側は吹き抜け、民家や畑が良く見える。これなら夕日は問題ないと思う。

日中は涼しい部屋かプールで過ごし、夕方散歩に出る。夕日を意識して西に向かう。ところが西側に岩があり、夕日を遮りそう。漸く漁師の船がある気持ちの良いビーチに着いて、そこの流木に腰を掛け、1時間ほどもボーっとしていた。至福の時間が過ぎた。何も考えない、何も耳に入らない。

とうとう夕日が沈み始めた。しかしその時信じられないことが起こる。急に雲が現れ、日を隠してしまい、そのまま夕日は海に消えてしまう。自然とは恐ろしいものだ。又香港や日本でなら、この理不尽な状況を大いに嘆くところだが、素直に明日に賭けようと思う。

ついていない時は重なるもので、ホテルに戻る時近道をしたところ、目の前に小川がある。簡単に越えられると思い、飛んでみたが両足を捻る。歳を感じると共に明日が思い遣られる。

(4) 3日目のトライ
リビエラホテルでもう一日滞在し夕日を待とうとも考えたが、このホテルも高い割にはしっくり来ない。朝日に輝くマラッカの海は最高だったが?

12時半のシャトルバスで市内へ。乗客が一人のため、チャイナタウンを指定し降ろして貰う。マラッカ川の辺にヒーレンハウスという小ぎれいでレトロなゲストハウスがある。あの2階の窓を開けて川面を見たいと思ったが、生憎2階の5部屋は一杯で断念。それならば話の種にとババハウスへ。

初めてババニョニャハウスに踏み込む。数百年前にマレーシアに移住した華人男性が『ババ』、ババと結婚したマレー系女性が『ニョニャ』でその子はプラナカンと呼ばれる。150年ほど前まではこの辺りはオランダ人の住居であったが、その後ババ・ニョニャが移り住み、現在は観光地化している。

ハウスは間口が狭く、入ると大きなホールがある。フロントもそこにある。祭壇などが置かれ華人風。次の間は吹き抜けになっており、気持ちが良い中庭。椅子が置かれ本なども読める。次にテーブル・椅子などがある、食事をする間であろうか?そしてその奥に部屋がある。入り口から裏までかなりの距離がある。京都の家が似ているようだが?風通しが良い造りだ。私は3階に上がり、一番奥の部屋に入る。部屋の前には大きなバルコニーがあり、椅子に座ると気分良く、眠たくなる。部屋はこじんまりしているが、シャワートイレ付き。エアコンもあり快適。

午後は川べりのおしゃれなレストラン『ハーパース』でアイスティーを飲む。気持ちよい風が吹くベランダに座る。ゆっくりとした時間が流れる。ところがボーっとしていると何故か地球の歩き方を片手に持った日本人の50代の夫婦が2組も入ってきた。最近は熟年個人旅行がブームなのか?

マラッカ川のボートトリップに参加。西洋人が多く乗船。M$8、小1時間。川を逆走して船は進む。川べりの民家は立派なものも結構あり、川を中心に栄えた様子が分かる。水上生活者は多くは無いようだ。川べりや橋から子供が懸命にボートを眺めている。自分の子供も昔はああだったなと思う。

ババハウスに戻ると横にマッサージ屋を見つける。横というより建物の一部に店を出している。ここのオーナーはスキンヘッドのにーちゃんでバンコックでマッサージ修行をしたという。何時戻るか分からないとのことであったが、おばさんが一人留守番している。この人が足マッサージ師であると分かるのにかなり時間を要したが、それは彼女がタイ人で5ヶ月前にここに着たばかりだったからだ。

棒を使って行う痛いマッサージを受けながら、聞くところに寄ればにーちゃんに頼まれて来たもののマラッカは小さな都市で楽しみも無く、言葉も通じず良いことは何も無いという。一生懸命揉んでいる姿を見ると、何だか『からゆきさん』を連想してしまう。戦前多くの日本人女性がここマラッカにもやってきたことだろう。おばさんにはかなりの哀愁がある。いつかこのおばさんの物語を書いてみたい気分。マッサージ代M$25。

午後7時になった。今日こそは夕日を拝まなければ。海の方に歩いて行くと埋立地があり,そこが開けていた。後で聞くとマコタパレード付近の桟橋が良く見えたようだが、この埋立地には地元の人が犬の散歩などに訪れていた。

雲が出ている。しかし私の願いが届いたかように雲が黄金に輝きだし、後光が差してきた。雲の合間からゆっくりと日が落ちるのが見えた。近くの船も皆停止し、夕日を眺めている。1つのショーがゆっくり終わった。

私は学生時代に沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだはずである。しかしそれから20年一度も思い出すことが無かった。それが突然何の前触れも無く、記憶が蘇った。『マラッカの夕陽』はそれほどまでに魅力的だったのだろうか?いや、現在の私が最も欲しているもの、それがマラッカの夕陽であったのだ。もっと自由に生きたい、人間の本能ではないのか?

沢木氏が見た『巨大な夕陽が水平線とはるか向こうの地平線をかたちづくっている岬との間に、落下するように沈んでいった。』とは又違う夕日であった。兎に角旅の目的は達成された。

因みにマラッカの夕日については、戦前詩人金子光晴が『窓から見る他所の家と家の間の屋根越しのせせこましい落日の空は、七珍万宝が彩られ、その先に大宴会でも始まっているような華やかさを見せていた。司祭の身に纏う金襴の袈裟のようであった。』と伝えている。

5.シンガポール2

あの沢木氏でも1泊しかしなかったマラッカに3泊もしてしまった。最初のホテルの日本人女性も1日あれば十分と太鼓判を押したマラッカに3泊もした。しかし夕日を見るためだけに3泊もするような、そんな馬鹿な旅が私は好きなのだ。クアラルンプールへ行って、航空券を買い直して香港に戻ることも頭を過ぎった。そうすれば次回KLに行く口実も出来る。最終的にはそうしないで、敢てシンガポールに戻ることにした。それは沢木氏が敢てシンガポールでカルカッタ行きの切符を買わずに、バンコックまで2日間掛けて戻り、インド航空と交渉したこととは無縁である。

ババハウスの人に聞いて、長距離バスターミナルへ。何とそこはチャイナタウンから歩いていけるところにあった。マラッカに着いたあの日だけ、バスターミナルが郊外に移動していた為、分からなかったのだ。ターミナルに行くとシンガポール行きは11時の1本と言われる。30年前と同じだ。但し私は乗り合いタクシーなどの存在は知らない。タクシーは停まっていたが、シンガポールまで行きそうなものは当然無い。沢木氏は30年前M$8でシンガポールまで行ったのだが。

何処かに何かあるはずと見ると裏のほうに別のバス会社がある。30年前と違いバス会社は何社かあるのだ。バス代はM$22。1時間後の切符を購入して悠々としていると、何とその又裏には15分後出発がある。急いで払い戻しに行ったが、受け付けない。その内北京語でワーワー言ったら半分返してくれた。これまた急いでバスに乗り込む。バスはリクライニングシート、エアコン付きで快適。

途中で昼食となり、肉まんなどを頬張る。また紙コップに入れたスイートコーンは実に美味しい。軽食が良い。沢木氏は辛いマレー料理に挑戦していたが、バスの旅では体調管理が重要。

30年前タクシーで5時間掛かったマラッカーシンガポールの旅は今でもバスで5時間掛かる。国境で運転手に聞くとここで運転手が代わるので、シンガポールの何処に停まるのかは知らないという。まあいいや、なるようになれ、シンガポールは問題ないはずだ。

ところが降ろされたところは何の目印も無い、バスターミナル。周りはきれいな高層住宅が並ぶ住宅街でどうしてよいか分からない。先進国の住宅街の真ん中に取り残されることは先ず無いので、珍しいなどと思ってしまう。

バスが通っているようなので、近くのおばさんに聞くと地下鉄まで直ぐだという。ラベンダーという可愛らしい名前の駅から地下鉄に乗り、オーチャードロードへ。そういえば、ラベンダーは先日ジョホールバル行きバスに乗ったブギスの隣の駅である。何だアラブストリートかと思う。沢木氏は30年前タクシーをアラブストリートで降り、宿を取る。このストリートを日本で言えば、アメ横か浅草橋などと表現していたが、今では再開発され小ぎれい街に変身している。

オーチャードでホテルを探そうと考えていると携帯がなる。何とかみさんから『今日の紅白自分で見てね、ビデオ取れないから。』と何とも能天気な電話である。そうか今日は12月31日の大晦日。じゃあ、紅白でも見るか?それでは良いホテルに泊まらないと衛星放送が見られない。自分に言い訳しながら、良いホテルを探す。

半ドンで既に業務時間外の旅行社のおねえちゃんを捕まえ、アレンジを頼むも相手が皆休みに入っていて予約できない(勿論お金を払えば幾らでも取れるのだが、厳しい要求により相手がギブアップ)。助言により自分でシェラトンに電話すると直ぐにS$180で部屋を用意してくれた。シェラトンはやはり立派でチェックインしてこの値段が如何に安いか良く分かる。しかも歩いて直ぐにニュートンサーカスという屋台街もある。

ところがニュートンサカースで早めの夕食を取ろうと行くと、これが完全な観光屋台街。値段も高いし、何より日本語で話しかけられるのには、幻滅する。結局麺を食べて早々に退散し、暖かい布団に潜り込み紅白を見る。ビールを飲んで2002年も1年が暮れた。深い眠りが訪れた。