《深夜特急の旅2002-マラッカ編》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回はこの旅を始めるきっかけとなったシンガポール・マラッカ。(『深夜特急2』)

1.2002年12月 シンガポール1(P177)
今回はマイレージが残っており、年末に失効することから何処でもよいので行ける所をANAに頼んだところ、UAのシンガポール往復チケットが手に入った。尚UAは先日米国で破産を申請したばかりで、あまり人気が無かったようだ。

いつでも感心するのが、シンガポールのチャンギ空港である。あの手際の良さは何であろうか?今回も午後11時50分に飛行機が到着したが、その後僅か5分で空港の外へ出てしまい(手荷物のみ)、タクシーに乗ると市内のホテルに12時15分にチェックインしていた。これは快感である。

最近のシンガポール旅行は家族連れであったのでフリーに歩くことが無く、今回は10年振りにチャイナタウンを訪れようと思っている。沢木氏はシンガポール全体に香港のような期待を掛け、そして落胆した。『とりわけ落胆したのはチャイナタウンだった。』という。香港の廟街のような活力は30年前既にシンガポールには無かった。

今回シェントンウエーのホテルより歩いて行く。本当にきれいな街並みだ。文句の付けようも無い。だがしかし物足りない。中国人がこんな環境に我慢できる訳が無いと思ってしまうのだ。しかし現実は目の前にある。規則を作れば、罰則を強く設ければ中国人も出来るのか?

チャイナタウンは驚きの一言だ。雑踏などは全く無い。高級住宅街のように静まり返り、澄まし切って佇んでいる。これでよいのか?思わず叫びたくなる。沢木氏も恐らく似たような感情を持ったのでは?

近くにはMRTの『チャイナタウン』駅が近く開通するようだ。横浜中華街もきれいであり、大陸中国人や台湾人を連れて行くと、きっと飯が不味いに違いないと思うようである。そうだとするとシンガポールはとりわけ不味いと感じるはずだ。買い物客は疎らだが、どうもマレーシア人が多いようだ。何か良いものでも売っているのだろうか?中国茶の店も見つからず、面白くない半日を過ごしてしまった。究極の社会主義国シンガポールの真骨頂を見る思いである。

2.ジョホールバル
(1)危機一髪?
シンガポールで2泊して、陸路歩いてジョホールバルに渡る。
ジョホールで一泊しようと思い、予め調べておいた国境近くのホテルに電話すると、何と経営が変わっていた。値段も高めなのでそれならいっそ一番良いハイアットリージェンシーに泊まる事にした。1泊ネットでM$230。朝食付き。これは安い。

国境からホテルまでタクシーで10分弱と言われたが、折角だからと歩いて行くことにする。少し歩くとジョホール水道沿いの広い道に出る。午後の日差しが強くなり、歩いていることを後悔し始めたその頃、突然小型車が私の横に停まる。運転手が『ここは歩行者通行禁止だ。私は道路管理公団の者だ。直ぐにこの車に乗りここを離れるように。』と公団の身分証を見せながら英語で言う。普通であればおかしいと思うべきだが、何しろ全てが規制だらけのシンガポールから来た為、そういうこともあるかと思い、車に乗る。

『何処に行くのだ?』『ハイアット。』『ジョホールバルには見るところは無い。ホテル代が勿体無い。次の目的地は何処だ?』?私は次の目的地を決めかねていた。はじめは東海岸に行くつもりだったが、シンガポールの友人にもホテルのフロントにも12月に東海岸に行っても波が荒くてシーズンオフだ、と散々言われていた。

私の目的地は何処だ?この時公団職員に目的地が言えないと『怪しいヤツ』と思われるのが嫌で、咄嗟に『マラッカ』と答える。どうしてマラッカなんだ??自分でも分からないが、何故か心の奥底ではマラッカが引っ掛かっていた。

『そうか、マラッカなら今日の内に行ける。俺がジョホールを2,3案内してバスターミナルに送っていこう。』と公団職員が言う。どう見てもおかしいことに漸く気付く。さて、どうしようか?意外と冷静に逃げ出す方法を考える。

直ぐ近くの墓地を通る。公団職員が説明を始める。少し話していると彼が本当の公団職員であること、偶々非番となり帰りがけにアルバイトをしようと声を掛けたのではないかとの推測が出来た。仲間がいて拉致されては大変だと思ったが、その確率は低いと分かり、突然助手席のドアを開け、バイバイした。彼は何か言っていたが、諦めて車を走らせた。

解放されて流石にホッとした。ジョホールバルの治安が悪いことは聞いていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思いも寄らなかった。凶悪犯でなくて良かった。しかし自分が何処にいるのか分からない。大きな通りまで歩いたが、方向も分からない。バスが通るが、行き先が読めない。途方に暮れかけたときタクシーが来た。言葉が通じるか不安があったが、乗り込んでみると何と片言の日本語を話した。もしや又騙されるのでは?不安が過ぎったが、聞けば日系メーカーで働いたことがあるとのこと。ハイアットは何と歩いても行ける所にあることが分かり一安心。

(2)ハイアット
ホテルは立派だった。おまけに部屋はフル・ジョホール水道ビュー。気持ちが良い一枚ガラスで見晴らしは最高。これで朝食付き6,900円は格安。先程からの騒ぎで大汗を掻いた事もあり、早々にシャワーを浴びる。実に気持ちが良い。風呂場から直接景色が見える。シャワーが終わり、さて拭こうかと思ったが、何とタオルが一枚も無い。部屋はクーラーがガンガン利いている。全く拭くものがなく、びしょびしょの場合、人はどうするのだろうか?取り敢えずハウスキーパーに電話する。直ぐに持って来るとの答え。どうしてこんなことに?初めての体験である。

タオルは結局30分経っても来なかった。2回目の催促後10分して漸く人が来て事態を把握。その5分後にタオルを貰った時には既にほぼ自然乾燥しており、風邪を引く寸前だ。流石に腹に据えかねた。マネージャーを呼んだが来ない。その時知り合いが以前ここで会議を開催した時に不手際が多く、とてもハイアットのサービスではなかったと愚痴をこぼしていたのを思い出す。思い出すのが遅すぎた。

最終的に事件が起きてから約2時間後、マネージャーの男はやってきた。事情を聞くと一言、『洗濯物を出してください。全て無料で洗濯しましょう。』と提案する。これは有難いと沢山出す。しかしこの手際の良さは何だ。余程慣れているということか?

3.バトゥパパ
翌朝タクシーで郊外にあるラーキンバスターミナルへ。何故か昨日口に出したマラッカを目指すことにする。理由は無い。それが私の旅の流儀である。しかし不思議ではある。

ターミナルに行きマラッカ行きを探していると、小さな字で『バトゥパパ』の表示がある。何故かこれにも引っ掛かる。確かこの地名は金子光晴だ。金子は昭和初期に上海を振り出しに足掛け7年のアジア・ヨーロッパ放浪の旅に出た詩人で、マレーシアの滞在については、『西ひがし』『マレー蘭印紀行』に詳しい。何故か引き寄せられるようにバトゥパパ行きの切符を買う。M$6.95。沢木氏もシンガポールで金子の詩を読んでいる場面がある。

金子の文章は非常に暗く、内容も川底に引きずり込まれるような不気味な雰囲気をかもし出している。その中で彼は多くの日々をバトゥパパという今日の日本人は全く知らない土地で過ごしている。当時多くの日本人が東南アジアに出て貿易や資源開発で一旗あげようとしていた。バトゥパパはスリメダンの鉱山開発の集散地として開けた港町として、日本人クラブなどもある日本人の拠点であった。

当時シンガポールからバスで5時間掛かったようだ。本日ジョホールバルからバスに乗る。直ぐ着くだろうとたかを括っていたが、高速道路を外れてからは道も細い一本道になり、舗装していないところもあり、なかなか着かない。長閑な南方の風景を眺めながら漸く到着したときには2時間半は掛かっていただろう。どうやらこの辺りは昔の様子を十分に残していそうだ。

しかし本当に小さな街でこれがジョホール州第2の街かと思われるほど静かで何も無いところであった。昼間のせいもあり、人影も殆どない。微かに昔の隆盛を思わせる低層の建物が、数十年経っています(建物に建築年代が記されているものが多い)といった風情で強い日差しの中に建っている。少し行くと港が見える。かなり小さな港できっと100年変わらないのだろう。当地を訪れた日本人が必ず集まった旧日本人クラブの建物はそのまま残っていたが、気を付けて見なければ行き過ぎてしまう。今は華人が使っているのであろうか?

金子はこのクラブの藁床をこよなく愛した。そこが唯一の安らぎの場であったようだ。(何だか、深夜特急の旅ではなく、金子光晴の旅になりそうだ。)時代は満州事変の頃、シンガポールでは排日運動も盛んになり、蒋介石が華僑を使って宣伝工作を行っていた頃である。
何処にも身の休まる場所の無い旅人にとって、この街は落ち着いて、包み込んでくれるのかもしれない。そう考えると何となく理解できるところもある。

100年前に日本人が多く移住し、ゴム園を開いた街、金子の時代にはその最盛期に陰りが見え(だからこそ彼を引きつけたのだろう)、そして終戦で全て廃れた街。歴史に埋もれたこのような街は無数にあるのだろうか?金子が書き記したカユ・アピアピと呼ばれる火炎樹の木を探したが見当たらなかった。夜になると沢山の蛍が集まるというこの木はバトゥパパを象徴している。

私はこのバトゥパパに長く留まることは出来なかった。バスの時間が来たからではない。どうしても物悲しい気分になり、どうしても深く暗い思いに浸ってしまうのである。例えそれが、南の国の強い太陽の刺激の下であってさえも。

4.マラッカ(P144-148)
(1)マラッカの祝日

バトゥパパにいたのは僅か2時間。マラッカに向かう(バス代M$5.9)。バスの時間もいい加減で席もあって無きが如し。乗り切れずに降ろさせている人もいる。バスは海岸線を北上する。2時間ほど田舎の風景が続き、そしてマラッカ着。

ガイドブックは持っていたものの、自分が何処に着いたのか全く分からない。市内に行くバスがどれかという表示も無い。変なおじさんが寄って来てホテルを紹介するというが断る。隣に英系スーパーTESCOが見えるので、そこから市内のホテルに電話を入れる。何と意外な事に何処も満室で断られる。こんなことはマレーシアでは初めてだ。確かに今日は土曜日だが・・・?

何とか市内に出るため、タクシーを捜す。やっと見つけた運転手は中国系で北京語が通じた。何故か分からないが今日は至るところが通行止めで市内に行くタクシーなど無い、とのこと。結局バス停に戻るとさっきのおじさんが市内行きのバスの番号を教えてくれる。満更悪い人ではなかったようだ。バスに乗ると車掌のおばさんが『何処に行くのか?』と北京語で聞いてくる。どう言って良いか分からず、『華人街』というと怪訝そうな顔をして切符をくれる。30分ぐらい乗っていたところ突然多くの人が降りる。おばさんが『降りろ』という。またまた何処にいるのか分からない。

目の前にマコタホテルという字が見える。さっき電話して断られたホテルだ。ダメもとでフロントへ。アジアでは直接行けば何とかなることが多い。しかし、ダメだった。何と言おうと部屋は無いという。本当に途方に暮れる。既に夜の7時になっている。未だ外が明るいのが救い。その時はたと思いついた。何故私はマラッカを目指したのか?そう、夕日を見る為??

マコタホテルを出ると向こうの方に立派なホテルが見える。さっき電話した中で繋がらなかった『ホテルエクアトリアル』である。思い足取りで向かう。かなり疲れており、精根尽き果てようとしていた。もし断られたらロビーに座り込むつもりであった。(昔中国でよくやった)

恐る恐るフロントへ。正に運命の一瞬、と思ったら、フロントの女性がにこやかに『お一人ですか?』と日本語で話す。この驚きは文章では表現できない。女神が目の前に立っているのである。彼女は正真正銘の日本人。今日はマラッカのスルタンのオープンハウスディで、全国から多くの人々が来ており、何処もホテルは満員であることが語られる。しかし、彼女は『幸い最後の1室がご用意できます。』という。悪運は全て振り払われる。

部屋代を聞くことも忘れて部屋を確保。観光客も来るが、日本人出張者が多いこのホテルの部屋代は若干高めのM$270。部屋はタバコ臭くて古くてお世辞にも良いとは言えないが、贅沢はいえない。部屋代に朝食代の他、M$88分の食事代が含まれていることが分かる。

殆ど外が見えない窓から外を見ると、夕日が落ちて行く。急いで外に飛び出す。しかし遅かった。既に海に消えていた。明日もここに滞在することが決まった。何しろ旅の目的が夕日を見ることだから?

(3)2日目のトライ
早朝から市内散策に出掛ける。ポルトガル風砦跡、教会、マラッカ王朝の宮殿(復元)などを見る。何となく、マカオを歩いている部分と日本を歩いている部分があるのが面白い。瓦屋根が多いせいであろうか?

沢木氏も言っている。『マラッカに立ち寄ってみるつもりになったのは、何もポルトガル人の築いた砦やザビエルの像を見たかったからではない。』私もそうなのだ。夕日を見る方法を考える。以前は海辺に出れば何処でも見られたかもしれないが、今は高架道路があったり、建物があったりして、意外と見え難い。ガイドブックを見るとマラッカ郊外にリゾートホテルがある。そこに行けば完璧だと思い、予約する。

そのホテルは西に10kmは離れていた。M$20でタクシーに乗り、海岸線を走る。ビーチは無く、建物も少ない。リビエラホテルに到着。M$258と高めだが、部屋は寝室がセパレートされたセミスイート、カウンターバー、バルコニーもあり、部屋も広く、リゾート気分。部屋からはマラッカの海が一望出来る。部屋から出ると裏側は吹き抜け、民家や畑が良く見える。これなら夕日は問題ないと思う。

日中は涼しい部屋かプールで過ごし、夕方散歩に出る。夕日を意識して西に向かう。ところが西側に岩があり、夕日を遮りそう。漸く漁師の船がある気持ちの良いビーチに着いて、そこの流木に腰を掛け、1時間ほどもボーっとしていた。至福の時間が過ぎた。何も考えない、何も耳に入らない。

とうとう夕日が沈み始めた。しかしその時信じられないことが起こる。急に雲が現れ、日を隠してしまい、そのまま夕日は海に消えてしまう。自然とは恐ろしいものだ。又香港や日本でなら、この理不尽な状況を大いに嘆くところだが、素直に明日に賭けようと思う。

ついていない時は重なるもので、ホテルに戻る時近道をしたところ、目の前に小川がある。簡単に越えられると思い、飛んでみたが両足を捻る。歳を感じると共に明日が思い遣られる。

(4) 3日目のトライ
リビエラホテルでもう一日滞在し夕日を待とうとも考えたが、このホテルも高い割にはしっくり来ない。朝日に輝くマラッカの海は最高だったが?

12時半のシャトルバスで市内へ。乗客が一人のため、チャイナタウンを指定し降ろして貰う。マラッカ川の辺にヒーレンハウスという小ぎれいでレトロなゲストハウスがある。あの2階の窓を開けて川面を見たいと思ったが、生憎2階の5部屋は一杯で断念。それならば話の種にとババハウスへ。

初めてババニョニャハウスに踏み込む。数百年前にマレーシアに移住した華人男性が『ババ』、ババと結婚したマレー系女性が『ニョニャ』でその子はプラナカンと呼ばれる。150年ほど前まではこの辺りはオランダ人の住居であったが、その後ババ・ニョニャが移り住み、現在は観光地化している。

ハウスは間口が狭く、入ると大きなホールがある。フロントもそこにある。祭壇などが置かれ華人風。次の間は吹き抜けになっており、気持ちが良い中庭。椅子が置かれ本なども読める。次にテーブル・椅子などがある、食事をする間であろうか?そしてその奥に部屋がある。入り口から裏までかなりの距離がある。京都の家が似ているようだが?風通しが良い造りだ。私は3階に上がり、一番奥の部屋に入る。部屋の前には大きなバルコニーがあり、椅子に座ると気分良く、眠たくなる。部屋はこじんまりしているが、シャワートイレ付き。エアコンもあり快適。

午後は川べりのおしゃれなレストラン『ハーパース』でアイスティーを飲む。気持ちよい風が吹くベランダに座る。ゆっくりとした時間が流れる。ところがボーっとしていると何故か地球の歩き方を片手に持った日本人の50代の夫婦が2組も入ってきた。最近は熟年個人旅行がブームなのか?

マラッカ川のボートトリップに参加。西洋人が多く乗船。M$8、小1時間。川を逆走して船は進む。川べりの民家は立派なものも結構あり、川を中心に栄えた様子が分かる。水上生活者は多くは無いようだ。川べりや橋から子供が懸命にボートを眺めている。自分の子供も昔はああだったなと思う。

ババハウスに戻ると横にマッサージ屋を見つける。横というより建物の一部に店を出している。ここのオーナーはスキンヘッドのにーちゃんでバンコックでマッサージ修行をしたという。何時戻るか分からないとのことであったが、おばさんが一人留守番している。この人が足マッサージ師であると分かるのにかなり時間を要したが、それは彼女がタイ人で5ヶ月前にここに着たばかりだったからだ。

棒を使って行う痛いマッサージを受けながら、聞くところに寄ればにーちゃんに頼まれて来たもののマラッカは小さな都市で楽しみも無く、言葉も通じず良いことは何も無いという。一生懸命揉んでいる姿を見ると、何だか『からゆきさん』を連想してしまう。戦前多くの日本人女性がここマラッカにもやってきたことだろう。おばさんにはかなりの哀愁がある。いつかこのおばさんの物語を書いてみたい気分。マッサージ代M$25。

午後7時になった。今日こそは夕日を拝まなければ。海の方に歩いて行くと埋立地があり,そこが開けていた。後で聞くとマコタパレード付近の桟橋が良く見えたようだが、この埋立地には地元の人が犬の散歩などに訪れていた。

雲が出ている。しかし私の願いが届いたかように雲が黄金に輝きだし、後光が差してきた。雲の合間からゆっくりと日が落ちるのが見えた。近くの船も皆停止し、夕日を眺めている。1つのショーがゆっくり終わった。

私は学生時代に沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだはずである。しかしそれから20年一度も思い出すことが無かった。それが突然何の前触れも無く、記憶が蘇った。『マラッカの夕陽』はそれほどまでに魅力的だったのだろうか?いや、現在の私が最も欲しているもの、それがマラッカの夕陽であったのだ。もっと自由に生きたい、人間の本能ではないのか?

沢木氏が見た『巨大な夕陽が水平線とはるか向こうの地平線をかたちづくっている岬との間に、落下するように沈んでいった。』とは又違う夕日であった。兎に角旅の目的は達成された。

因みにマラッカの夕日については、戦前詩人金子光晴が『窓から見る他所の家と家の間の屋根越しのせせこましい落日の空は、七珍万宝が彩られ、その先に大宴会でも始まっているような華やかさを見せていた。司祭の身に纏う金襴の袈裟のようであった。』と伝えている。

5.シンガポール2

あの沢木氏でも1泊しかしなかったマラッカに3泊もしてしまった。最初のホテルの日本人女性も1日あれば十分と太鼓判を押したマラッカに3泊もした。しかし夕日を見るためだけに3泊もするような、そんな馬鹿な旅が私は好きなのだ。クアラルンプールへ行って、航空券を買い直して香港に戻ることも頭を過ぎった。そうすれば次回KLに行く口実も出来る。最終的にはそうしないで、敢てシンガポールに戻ることにした。それは沢木氏が敢てシンガポールでカルカッタ行きの切符を買わずに、バンコックまで2日間掛けて戻り、インド航空と交渉したこととは無縁である。

ババハウスの人に聞いて、長距離バスターミナルへ。何とそこはチャイナタウンから歩いていけるところにあった。マラッカに着いたあの日だけ、バスターミナルが郊外に移動していた為、分からなかったのだ。ターミナルに行くとシンガポール行きは11時の1本と言われる。30年前と同じだ。但し私は乗り合いタクシーなどの存在は知らない。タクシーは停まっていたが、シンガポールまで行きそうなものは当然無い。沢木氏は30年前M$8でシンガポールまで行ったのだが。

何処かに何かあるはずと見ると裏のほうに別のバス会社がある。30年前と違いバス会社は何社かあるのだ。バス代はM$22。1時間後の切符を購入して悠々としていると、何とその又裏には15分後出発がある。急いで払い戻しに行ったが、受け付けない。その内北京語でワーワー言ったら半分返してくれた。これまた急いでバスに乗り込む。バスはリクライニングシート、エアコン付きで快適。

途中で昼食となり、肉まんなどを頬張る。また紙コップに入れたスイートコーンは実に美味しい。軽食が良い。沢木氏は辛いマレー料理に挑戦していたが、バスの旅では体調管理が重要。

30年前タクシーで5時間掛かったマラッカーシンガポールの旅は今でもバスで5時間掛かる。国境で運転手に聞くとここで運転手が代わるので、シンガポールの何処に停まるのかは知らないという。まあいいや、なるようになれ、シンガポールは問題ないはずだ。

ところが降ろされたところは何の目印も無い、バスターミナル。周りはきれいな高層住宅が並ぶ住宅街でどうしてよいか分からない。先進国の住宅街の真ん中に取り残されることは先ず無いので、珍しいなどと思ってしまう。

バスが通っているようなので、近くのおばさんに聞くと地下鉄まで直ぐだという。ラベンダーという可愛らしい名前の駅から地下鉄に乗り、オーチャードロードへ。そういえば、ラベンダーは先日ジョホールバル行きバスに乗ったブギスの隣の駅である。何だアラブストリートかと思う。沢木氏は30年前タクシーをアラブストリートで降り、宿を取る。このストリートを日本で言えば、アメ横か浅草橋などと表現していたが、今では再開発され小ぎれい街に変身している。

オーチャードでホテルを探そうと考えていると携帯がなる。何とかみさんから『今日の紅白自分で見てね、ビデオ取れないから。』と何とも能天気な電話である。そうか今日は12月31日の大晦日。じゃあ、紅白でも見るか?それでは良いホテルに泊まらないと衛星放送が見られない。自分に言い訳しながら、良いホテルを探す。

半ドンで既に業務時間外の旅行社のおねえちゃんを捕まえ、アレンジを頼むも相手が皆休みに入っていて予約できない(勿論お金を払えば幾らでも取れるのだが、厳しい要求により相手がギブアップ)。助言により自分でシェラトンに電話すると直ぐにS$180で部屋を用意してくれた。シェラトンはやはり立派でチェックインしてこの値段が如何に安いか良く分かる。しかも歩いて直ぐにニュートンサーカスという屋台街もある。

ところがニュートンサカースで早めの夕食を取ろうと行くと、これが完全な観光屋台街。値段も高いし、何より日本語で話しかけられるのには、幻滅する。結局麺を食べて早々に退散し、暖かい布団に潜り込み紅白を見る。ビールを飲んで2002年も1年が暮れた。深い眠りが訪れた。

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