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インドでアユルベーダを2017(5)ギーを飲む

8時に先生がやってきて、朝ご飯を食べるかと聞いてきた。3年前のカイバリヤダーマは全てのスケジュールがおおよそ決まっており、特に食事の時間は食堂の関係でしっかり決まっていたのだが、ここでは特に何時に何をするとは言われない。お互いの時間が合う時(基本的に私は暇だから、先生たちの都合)に事が起こる。

 

先生が持ってきてくれた朝飯は何とトーストとオムレツ。私はベジタリアンではない、と伝えた結果か、それとも実質的には未だ治療が始まっていないのか。とにかくおいしく頂く。そしてお茶は緑茶ティバッグ。お腹が一杯になると、なぜか眠くなる。昨晩あれだけ寝たのに、なぜだろうと思いながら、ベッドでごろりとしていたら、本当に寝てしまったらしい。ちょっと涼しいと感じていたので、そのせいかもしれない。

 

10時頃、先生が部屋のドアを叩いた音で起き上がる。すぐに脈診が始まる。アユルベーダではこの脈診が重要であり、毎朝取るのだが、今日は眠ってしまい、時間が遅れた。先生より『日中は寝てはいけない』というお達し書きを頂戴してしまう。脈は正常らしい。眠気でちょっと気持ち悪いなと思っているとヨゲーシュが来て、マッサージが始まった。昨日と同じ力強い指を使ったマッサージ。足もそうだが、腕にも強烈な痛みが走る。更には昨日同様、強烈なスチームバスを浴び、何だか疲れてしまった。

 

昼ご飯を食べられるかどうかと思っていたが、12時半ごろ先生が来て、何と『ギーを飲みなさい』と言われ、コップに継がれたギーが登場した。このギー、牛の油、バターを煮詰めたような油なのだが、私はこれが大の苦手。前回は食事に混ぜて取っていたのだが、それでも嫌で誤魔化し胡麻化し口に入れていた。アユルベーダ治療ではこのギーが重要な要素であることは分っているのだが。

 

今回誤魔化しは利かない、とばかりに飲めという。恐ろしい。飲みにくいからと言って、しょうがに砂糖が入った物を一緒に渡され、それを口に入れながら、ゆっくり飲んでいった。食事に混ぜると食事が不味くなるので、それよりはマシだが、正直飲み終わった後は気持ちがよいものではない。

 

それで結局ランチはなしとなった。食べると言えば用意してくれたはずだが、とても食べる気にはなれない。洗濯物を渡すために外に出ると、かなり強い日差しが照り付けて暑いのだが、この建物の中はクーラーもなく、扇風機すら回っていないのに、何とも涼しく快適。元々建物の構造がそのようになっているのだろう。

 

ギーを飲んでからは眠気が襲ってくるが、寝てはいけないので堪える。先生も気を使ってくれ、話し相手になってくれる。実はアユルベーダは数千年の歴史を持つ伝統医療であるが、インドで茶が飲まれたのはイギリス植民地時代以降の話。だからアユルベーダには茶についての記述はないという。ただ概念としては、お茶を飲み過ぎるのは良くはなく、また飲むにしても紅茶よりは緑茶の方が体に適していると考えているらしい。特にインドの庶民が飲むチャイについては、ミルクの質が悪い、砂糖を入れすぎている、などの理由から、11-2杯を限度とするのがよいとのこと。

 

午後3時ごろ、ご同窓のA師夫妻がラトールさんと共に、様子を見に来てくれた。元々今回このクリニックを紹介してくれたのも、昨年バンコックのヨーガ合宿で会ったA師からだった。ちょうど眠気が来ていたので、話し相手になってもらう。彼らは今日、プネー郊外のナチュロパティセンターに行っていたという。自然療法というのだろうか、自然に帰って、心身を健康にするものらしいがよくわからない。自分が決めたフルーツだけを食べたりすると聞くとちょっと興味が沸く。

 

ナチュロパティと違って、アユルベーダはバラモン階層の人々の治療法であり、インドの一般人は知らなかったはずだという。これが一般化したのは、わずか20年ほど前かららしい。何ともヨーガと似ている。流石インド、豊富な資源を持ちながらも、活用されていなかったということか。

 

インドで急速に進む都市化、それに合わせてマンションなどで植木鉢を置く家が増えており、自然に帰りたいという人間の心理を表しているらしい。そしてナチュロパティは今やインド人に大人気、多くの人々がセンターに来ていたという。一方カイバリヤダーマでもインド人および外国人が大挙して押し寄せており、今や個人で予約を取ることはできないという。ナチュロパティとアユルベーダ、何となく対極にあるようなこの2つの治療法がインドで人気となるとは。この3年で様変わり、インドの急速な変化の一面を見る思いだ。日本人でも興味を持つ人は多いが、決して低くはないハードルがある。

 

1時間ぐらい話していると、ヨゲーシュが来て、ハートマッサージをするという。心臓をマッサージするのだろうが、なぜだろうか。初めて受ける。心臓の上に煮出した薬草を包んだ布を置く。このマッサージによりギーでモヤモヤしていた気分は晴れてきた。気持ちが落ち着くと少し腹が減ってくるが、先生はいないので、何ともしようがない。まあ食事よりもいつ寝てよいのか、いつシャワーを浴びてよいのかが知りたいが、何となく放置された気分になる。

インドでアユルベーダを2017(4)懐かしの日本語学校を訪ねる

部屋でスマホを見てみると、何といつの間にか電話が掛けられる様になっていた。昨晩デリー空港で言われた通りの番号に電話して、アクティベート作業を行う。だが、『申請した住所は』と聞かれ、住所など書いた覚えがない、とハタと気付く。『ではお名前は』と聞かれ、自分の名前を述べると何と『一致しません』というではないか。何故だ、私がオペレーターの英語を理解できないのかと思い、先生に代わりに聞いてもらったが、何と答えは一緒だった。

 

一体どういうことだ。そこへ先生の息子がやってきたので、彼に聞いてもらったが、何だか激しいやり取りが始まる。そして『どうやら申請内容があなたの情報とはマッチしていないらしい』ということが分かったというのだ。恐らくはデリー空港の販売代理店のおじさんが、パスポートのコピーを取った後、申請書を私に書かせずに自分で勝手に書いてしまったらしいというのに、呆れて声も出なかった。ではどうするのか。Airtelのプネーオフィスに行き、本人確認をしたらどうか、オペレーターは言っているらしいが、それで解決するのだろうか。

 

そこへ今度はトラブルシューター、ラトールさんが登場したので、事情を話すと、先ほど同様オペレーターを話し、埒が開かないとみると、今度はデリー空港のシムを販売した会社へ電話する。そして分かったことは、『係員が申請書に全く関係ない住所と名前を書き込んでいた』という事実であり、『住所はパンジャブのXXホテル』と言えば繋がるというのだ。これにさすがの私も開いた口が塞がらない。そこまでわかったが、オペレーターの方は名前が違う、規則だと言って、アクティベートを頑なに拒んでいた。

 

ついにマネージャーを電話口に出し、交渉が始まったが、それでも最終的には解決に至らなかった。ラトールさんは激しく売った者の責任を追及し、また外国人に対するインドの名誉を訴えたようだが、どうにもならなかった。インドでは本人確認がそれほどまでに重要なのか、はなはだ疑問だったが、何とも仕方がない。明日にでもプネーオフィスに出向き、また解決を図ろうということになる。だが問題は、クリニックのWi-Fiもなぜか繋がらなかったことだ。これだと当分の間、下界との連絡が途絶える。またそれもまたインドか、と軽く諦められるところがインドである。

 

ラトールさんのバイクの後ろに乗っかって街の方へ行く。今日は夕方、ラトールさんが主催する日本語学校の授業があるということで、見学に行く。思えば8年前、初めてプネーに来た時も行ったところで、全くそのままの環境で授業が行われていた。何とも懐かしい。生徒は日本語検定4級の受験者とのこと。その中にはラトールさんの娘、ナイニーカもいた。数人が熱心に勉強しているところに割り込み、皆さんの自己紹介を聞いた。私も自己紹介してから、お茶の話をしてみた。インドの紅茶はいつからあるのかなど、普段インド人があまり考えないような内容をわざと話してみた。皆どの程度聞き取れただろうか。

 

そこへ3級の生徒も入ってきた。私には3級と4級の難しさの違いはよくわからないが、明らかに3級の生徒の方が自己紹介は上手い。中には発音がネイティブ並みの女性もいて、ちょっと驚く。8年前と学校の大きさは変わっていないが、生徒の質は向上しているように思われる。因みに今日来ていた生徒は全員女子であったことが少し気になる。但し中国や台湾などは違って、アニメが好くだから日本語、といった理由で勉強している訳ではなく、将来のため、という感じなのはとても良い。

 

午後7時過ぎにバイクで送ってもらい、クリニックに戻る。夜は1階の別室に食事が準備してあると聞いていたので、見てみると、ちゃんと置かれていた。夜は一人で食べるようである。チャパティとライスがある。おかずは少なく、明らかに昼より量が少ない。お湯を沸かすポットはなく、鍋で沸かす。水は濾過された水が置いてある。勿論お茶は飲まず、白湯で一日を終わる。

 

午後8時に眠気が襲ってきた。今朝シャワーを浴びているので、その睡魔に負けてベッドに潜る。考えてみれば、昨晩は夜中のトランジットでほとんど寝てはいない。眠くても当たり前であり、ここできちんと睡眠を確保して明日からのアユルベーダ治療に備えるべきだと考える。2分であっという間に寝落ちた。

 

218日(水)
クリニック2日目

 

翌朝はかなりスッキリとした目覚めになる。7時頃起きればよいと言われたが、6時前には起き上がる。それでも10時間近く寝ている。早速アーサナを試みる。体が意外と軽い。やはり夕飯の量が少なかったのが、良かったのではないかと感じる。窓を開けてみると、かなり涼しくてびっくり。昼は30度ぐらいあるというのに、朝晩は15度以下と冷え込む?ようだ。

 

スマホを見てまたビックリ。なぜか繋がっていてネットがみれ、メールも取れた。昨日の夕方、ラトールさんの交渉が不調に終わったと思っていたが、やはり抗議はしてみるものである。恐らくはAirtelと販売代理店の間で何らかの連絡を取り合い、開通させたのであろう。しかしこれまたいかにもインドである。

インドでアユルベーダを2017(3)クリニック生活が始まった!

アユルベーダクリニック1日目

10時過ぎに、ラトール家を出発し、今回の目的地であるアユルベーダクリニックへ向かう。15分ぐらい乗ると川を渡り、そのすぐ脇を入ると、閑静な住宅街があり、その奥の方に滞在するクリニックがひっそりとあった。何とも雰囲気がよい。入り口から入るとスチェータ先生が迎えてくれた。

 

ここは先生の自宅。先生は2階に住み、1階に患者が滞在できる部屋が3つある。勿論施術室も完備している。何とも落ち着いた空間だ。ラトールさんはすぐに帰っていき、私は部屋に案内された。部屋はきれいで、比較的広く、シャワーとトイレも付いており、完璧。ここなら10日間の滞在も苦にならないだろう。

 

すぐにランチの時間となる。今日から施術は始まるとのことだったが、まずは食事から。お茶は好きかと聞かれ、毎日たくさん飲んでいると答えると『飲み過ぎは良くない』とすぐにくぎを刺された。確かに前回アユルベーダを受けたカイバリヤダーマでも、チャイは出ず、ハーブティだけでちょっと難儀した記憶が蘇る。

 

そして先生から渡されたのは、Green Tea & Mintというティバッグ。お茶を食後に飲む習慣のある日本と違い、アユルベーダ的には茶は飲むとしても食前にするようにとのこと。なぜかと訪ねると実にシンプルに『消化の妨げになるから』というのだ。アユルベーダでもっとも重要なの『消化』だということがこれで分かった。

 

先生に『飲み物では何を飲むのがベストか』と聞くと『白湯』との答え。そしてホットミルクもよいという。但しそのミルクは『フレッシュ』でなければならないとのこと。日本で搾りたての牛乳を手に入れることは難しいと回答すると『インドでも都市部は難しい』と。フレッシュミルクを得るにはどうすれば良いかと聞くと『牛を飼うしかないかも』と笑いながら言う。現代生活とはかくも面倒なものだ。尚私は子供の頃胃腸が弱くてミルクが飲めなかったというと『それも1つのアレルギー』ということらしい。

 

また紅茶を飲むなら緑茶の方がよい、ともいう。これは初めて聞いた。紅茶と言ってもチャイなどのミルクティを指しているようで、1日に1-2杯ならよいが、何杯も飲むのはダメ、とのお達し。但しインドにとってお茶は最近の飲み物であり、長い歴史のあるアユルベーダには茶についての記述はないとのこと。まあ、私自身も茶の飲み過ぎは良くない、との自覚はあるため、素直に聞き入れる。

 

ランチは2階の先生の自宅の居間で食べる。食事を作る担当の女性がおり、チャパティを焼いている。食事の前に先生が祈りの言葉を発する。私は分らないので、単に手を合わせて目をつぶる。食事は実にシンプル。ポテトが美味い。やはり家庭料理は、大勢を収容する施設での食事より、格段に美味しい。尚食後にフルーツやデザートを食べるのも、消化に良くないとのことだったが、今日は特別なのか、スイカ、ブドウ、イチジクが与えられた。恐らくはこれが最後のフルーツなのだろう。大切に食べた。物を大切に食べる、意識しながら食べることは意外と重要だと気付かされた。

 

 

午後3時にマッサージ師のヨゲーシュがやって来た。3年前は団体だったので順番待ちが結構あったが、今回は私しかいないので、都合が合えばすぐに始まる。何とも便利だ。ベッドに仰向けになり、シャワーサナのポーズで2-3分。それからヨゲーシュの強烈なマッサージが始まった。正直最近むくみのある足などかなり痛い。揉まれ慣れていない証拠だ。続いてオイルマッサージが始まる。『貴方の体がオイルを欲している』と言われたがなぜだろうか。オイルの吸収が早いということだそうだが、乾燥していたのだろうか。

 

そして全身オイルだらけになると、今度はスチームバスに入る。頭からタオルを被せられ、息苦しい。すぐにバスは熱くなり、全身から汗がこれでもかと噴き出す。これは思っていた以上に激しく水分を失っていく。同時に何かが体から出て行く感覚もある。5-6分でバスも終了し、そのまま部屋に帰る。

 

但しシャワーを浴びることは許されない。オイルが体に浸透するまで体を洗ってはいけないのだ。ちょっとオイルが鼻につく。ビショビショのパンツはどうすればよいのだろうか。カイバリヤダーマではマッサージ師から『パンツを履きかえるとオイルの臭いが付いて後で履けなくなるからできるだけ同じものを使え』と言われた記憶が蘇る。先生にそれを言うと『そんなことはない』とまた笑われる。確かにここで使っているオイルの質はちょっと良いのかもしれない。

 

部屋でパンツを洗濯しようかと思ったが、一応先生に洗濯機はあるかと聞いてみると、『あるけどこちらで洗うから出して』と言われたので、素直に出した。全てはここにいるスタッフが手で洗ってくれていた。因みに言葉が通じない相手が殆どなので、洗濯物も先生かマッサージ師を通してお願いする。ただ乾いたものが返されてきたことは一度もなく、2日後に物干しから自分で回収した。これもまたインドらしいところだ。

インドでアユルベーダを2017(2)両替騒動からプネーへ

両替

空港の出口を出る前に一仕事ある。それは両替。昨年11月、モディ首相は突如500ルピーと1000ルピーの高額紙幣を廃止し、新紙幣を発行した。だがその新紙幣の流通は遅れており、各地で混乱が続いていると報じられていた。私も3年前に両替して残ったルピーを持っていたが、それは紙くずとなるはずだった。

 

両替所には日本から来た観光客などが列をなしていた。表示を見ると『両替制限、1週間5000ルピーまで』と書かれている。やはりまだ制限は続いているようだ。日本人は1万円札を出して、5000ルピーを受け取っている。両替レートの表示は5200ルピーなので、その手数料は相当に高い。しかもこれで1週間両替できないとなると、どうやって旅していくのだろうか。まあ、私の場合は最終目的地、プネーに行けば、知り合いがいるので、問題はないのだが。

 

午前2時半には出口を出た。プネー行きの国内線の出発は午前5時。あまりに順調でまだ時間はあるがさてどうするかと周囲を眺めてみると、携帯屋が目に入る。夜中でもシムカードが買えるのは素晴らしいと思い、立ち寄る。昔はインドで携帯を使うのは大変だったが、3年前でもインド全土で使えるシムカードを買った記憶があり、安心し切っていた。

 

1050ルピーで1GB、電話代330ルピーがセットされているという。係員はパスポートをコピーし、自ら申請書を書いてくれた。そして明日の正午ごろ、所定の番号に電話して、シムカードを使用可能にする手続きを取らないと使えないと告げる。そうか、本人確認などで、すぐには使えないのだ。まあ、私はこれからまた飛行機に乗るし、明日の昼でもよいと諦めて、購入した。

 

国内線ロビーの方に歩いて行くと、途中にトランスファーデスクがあった。ダメもとで聞いてみるとエアインディアはここでチェックインできるという。さすが地元。チケットを受け取り、そのまま荷物検査へ進めた。尚荷物は東京からずっと預けず、機内に持ち込んでいた。万が一フライトが遅れた場合、乗り継ぎに間に合わないことを恐れたのだが、杞憂に終わる。

 

ただインドの空港の手荷物には苦い経験がある。荷物検査の時にタッグを付けていないと、検査済みのスタンプを押してもらえず、そのまま通り過ぎると、搭乗口で搭乗を拒否される。そうなると、検査台まで、場合によってはチェックインカウンターまで戻らなければならかった。しかし今回はタッグがなくても、すぐに予備のタッグを付けてくれ、スタンプもきちんと押してもらえた。そんな些細なことが嬉しいのがインド。

 

歩いているとCitibankATMが見えた。私はカードを持っていたので、試しにルピーの引き出しを試みたが、なぜか拒否されてしまった。限度オーバー、といった表示だったので、どうやら先ほどの両替で上限いっぱいを使ってしまったようだ。いや、しかし海外発行のカードまできちんと管理できるとすれば、インドのシステムは優れものだが、果たしてそうだろうか。

 

217日(火)

プネーへ

空港内を歩いていると、エアインディアのマスコットキャラクターが可愛らしい。久しぶりにエアインディアに乗ったのだが、スターアライアンスメンバーにもなったということで、何となくサービスが向上したように思ってしまう。機体は古いままだったが、CAが何となくにこやかで、朝5時に出るカレーも美味い!紅茶も他社と比べれば本格的な雰囲気がある。午前5時のフライトに客がそれなりに乗っているというのは凄い。インド人は巨体の方が多いので、席が小さく見える。

 

 

午前7時前、定刻通りプネー空港にランディングした。ここまで総飛行時間約12時間、昨日の昼前に家を出てから、ほぼ1日が経過していた。それでも疲れはあまり感じられない。インドにおける様々なストレスから、徐々に解放されているような感覚がある。空港は小さいので、すぐに出口まで着く。預け荷物もなく、外へ出ると、懐かしのラトールさんが待っていてくれた。朝早くから申し訳ない。

 

空港を振り返ると何だかとてもきれいになっている。リノベーションしたらしい。客待ちしているリキシャーも何となく小ぎれいになっている。外を走っている車も新車が増えている。3年ぶりのプネーは見違えるほど明るい。それは朝日が昇って来たからだけではなさそうだ。ラトールさんの車に乗り、市内へ向かう。まだラッシュ時間ではないのでそれほど渋滞はなかったが、プネーでも朝晩の渋滞はかなりひどいらしい。

 

私がプネーに来るのは4回目ぐらいになるが、いつも誰かの案内で動いているので、道は全く覚えていない。ラトールさんはしきりに『ここに新しい道ができた。ここにバイパスが通った、橋が架かった』と説明してくれるが、正直さっぱりわからない。それでもプネーがこの3年で随分発展した様子はハッキリと分かる。

 

懐かしのラトール家に行き、前にも泊めてもらった部屋でシャワーを借りた。この部屋も壁をきれいに塗り替えており、カーテンも代えられ、全てが新しく見えた。経済成長著しい国というのはこういうことだろうか。日本で言えば昭和30-40年代あたりに雰囲気かもしれない。旅の疲れを流すと、奥さんのチャイが美味い。これはどうやって作っているのだろうか。それから朝食も出してもらい、美味しく頂く。

インドでアユルベーダを2017(1)デリー空港でアライバルビザを取る

《インドでアユルベーダを2017》  2017216日‐32

 

3年前、数年行っていなかった健康診断をしようとしていた時、知り合いのA師から『健康診断をインドで受けないか』と打診された。当時拠点にしていたバンコックでは、日本より安い料金で、しかも日本語で健康診断が受けられると聞いていたので、なぜインドへ行かなければならないのか、と訝ったが、何となく面白そうなので、その話に乗ってしまう。

 

そして初めて受けたアユルベーダ。思い描いていたのとは全く違う、ある種過酷な修行のような生活と治療を通して、インドの伝統医療とは何か、を垣間見ることができた。この経験は非常に大きかった。西洋医学、病院へ行くことへの拒否反応は高まっていた。対処療法としては良くても、根本的な治療や予防には、やはり中医か、アユルベーダかな、と思うようになっていた。因みにその時の滞在で、私は受信者の中で唯一『全く健康に問題がない』と言われていた。

 

そんなこともあり、特に体の調子が悪いわけではなかったが、今回3年ぶりにインドへ行き、アユルベーダ治療を受けることにした。勿論日々の旅の連続、そしてPCに長時間向かっていることが体に負担になっていることは自覚している。更には茶の飲みすぎも気になっている。

 

今回は前回の集団治療?と異なり、アユルベーダドクターのクリニックに滞在し、一対一でじっくり話を聞き、私の体を見てもらい、将来の予防策を検討したいと考えた。同時に、奥深いインド伝統医療について、また中医や日本との比較ができないか、と思い、インドへ向かうことになった。

 

216日(月)

デリーまで

これまではバンコックからインドへ向かうことが多かったが、今回は東京から行くことにした。とにかくエアチャイナが安い。北京経由でデリーまで往復4万円ちょっと。なんでこんなに安いのかと驚いてしまうが、まあ安い方がよいし、私の場合、エアチャイナには慣れているので、重宝させてもらっている。

 

午後羽田から北京行に乗る。一昨年までは中国人観光客で溢れていたような気がするこの便。以前は大量のブランド品や大型の荷物を持ちこむ彼らに迷惑していたが、今は様子がだいぶ違う。中国人以外がかなりを占めている。勿論日本人も多いが、それは中国に行くための人たちではないようだ。春休みに入った学生が目立つ。欧米人もかなりいる。彼らは安い費用に惹かれて、搭乗したものと思われる。エアチャイナは、または中国は、何か戦略があって、低価格作戦を展開しているのだろうか。それとも競争激化の結果なのだろうか。いずれにしても私には有り難い。

 

北京行は機体も新しく、個人テレビも付いているので、それで映画を見る。日本映画や音楽はかなり限られている。三蔵法師が主人公の中国映画を見た。つい先日、台湾の日月潭の玄奘寺、および埼玉の岩槻にある慈恩寺を訪ね、玄奘三蔵の舎利が収められていることを知ったばかりだったので、興味が沸いた。中国では恐らく、仏教ブーム、中国偉人の業績称賛、そして一帯一路政策に合わせた映画製作だったのではないかと推測する。

 

北京での乗り換えにも慣れている。国際線トランスファーカウンターを通り、込み合う荷物検査を通過する。フライトが遅れることを心配して荷物を全て機内に持ち込んでいたが、杞憂に終わる。北京空港にもWi-Fiがあるが、なぜか上手く接続できない。携帯番号があれば、パスワードを取得して、接続できるかもしれないが、携帯のシムを入れ替えるのが面倒で止めた。Wi-Fiが繋がっても、FacebookGoogleにも繋がらないのだから、あまり意味はない。

 

北京からデリーまでのフライトは約7時間。夜9時過ぎに北京を出て、デリーに夜中1時半に着く。機内の食事は、中国には珍しいカレー?結構美味しい。このフライトにはインド人もかなり乗っている。やはり安いからだろうか。それにしても彼らは中国を観光したのだろうか?それとも他国訪問の経由地として北京を使ったのだろうか。インド人はベジタリアンが多い。CAもインド人にはベジかどうか一々確認している。事前に予約している人でも席を勝手に動いているケースがあるからだ。

 

空港でアライバルビザを取った!

フライトは揺れも殆どなく、順調にデリーに着いた。夜中の1時半。日本との時差は3時間半なので、日本は午前5時、何とも眠い。まあ、ここまでは予定通りなのだが、ここからがインドだ。しかも今回は常に悪戦苦闘するビザを取得していない。何とデリー空港でアライバルビザを取るつもりでやって来た。緊張感が高まる。

 

デリー空港もかなり広いので長時間歩いて、入国審査場まで来てしまう。だがアライバルビザのデスクは見付からない。Eビザという表示も別にある。Eビザは事前申請だから、受け付けられていれば安心だが、アライバルビザは一発審査。果たしてどうなるのだろうか。入国審査の長蛇の列を横目に更に進むと、その先にビザコーナーが見えた。ただそこには欧米人が列をなしている。

 

その列を覗いていると、椅子に座っていた日本の若者が『日本人ならこっちですよ』というではないか。そのカウンターは手数料の支払いを行うところで、おじさんにクレジットカードを渡した。2000ルピー。あっという間に支払いが終わり、隣のカウンターでパスポートと申請書(事前に記入してきた)を渡すと、数分後にはビザが押されて返ってきた。

 

これまでの苦労は一体何だったのだろうか。更にはイミグレの長蛇の列に並ぶこともなく、横からすっと抜けられ、荷物を取りに行ける。これは日本人だけのサービスらしい。安倍政権の功績を初めて見付けたような気分になる。でもなぜインド政府は日本にそこまでしてくれるのだろうか。ちょっと怖くなる。インドはそんなに甘い国ではない!

バラナシ伝説のGHへ行け2014(6)リキシャで熱風に煽られて

4月29日(火)

ケダーシュワルツロッジとイーバカフェ

その夜は昨日よりかなり慣れて、少し眠りが深かった。もう朝5時に起きてガンジスを眺めなくてもよさそうだ。だが6時半も過ぎると強烈な日差しが空けていた窓から差し込んでくる。ガンジスはそんなに甘くない。簡単には寝かせておいてはくれなかった。昨日と同様8時に朝食を取る。今日の方が人は少なかった。昨日多くの人がチェックアウトし、インド各地やネパールに散って行った。夜中に駅に向かった人もいたようだ。私のようにこの宿の路地すら満足に歩けない者にはバックパッカーは無理だな、と思う。

 

10時頃、昨晩Sさんに教えてもらったケダーシュワルツロッジに行ってみる。ここのオーナーはSさんから日本語を習ったことがあるという。クミコハウスと同じような立地だが、こちらはきれいに改装し、1泊2000-3000rpも取っているという。そうクミコハウスにもそういう可能性はあるのだ。だが、久美子さんもご主人もそういう金儲けには興味がない。それより、如何に安定的に宿を運営していくか、そこに苦心していた。この対照は面白い。

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それにしても午前中とはいえ、ガンジス河畔に照り付ける太陽の強さは尋常ではない。その照り返しで目がおかしくなりそうだ。その日の最高気温は後で聞くと43度だったようだが、体感温度は50度にも達している。そこを歩いているだけで、目が回りそうだ。そんな中、目の前には見事なほどに白い洗濯物が堂々と干されている。その白さがまた眼を焼き付ける。

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日本人が経営しているイーバカフェ、という所にも行ってみる。残念ながらオーナーは不在だったが、彼には著書もあり、このインドで、このバラナシで日本人がビジネスをしていることが良く分かる。このカフェはバラナシとは思えないきれいな内装である。聞けば若いインド人のデートスポットになっているらしい。

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私はこれから空港へ向かい、ムンバイ経由でバンコックまで帰る身。腹ごしらえが必要だとメニューを見れば、『日印奇跡のコラボ』というキャッチコピーに惹かれた。それはカレーうどんだった。確かに食べてみたいと注文、ちょうど料理がやってきたところで間が悪いことにHさんから電話が入り、話しながら食べる羽目に。どうもあまり味のことは覚えていないが、麺はしこしこしていたように思う。

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そしてクミコハウスに戻り、久美子さんに別れを告げて、チェックアウトした。『また来ます』と言ったものの、再度来る機会はあるのだろうか。やはりここはバックパッカーの聖地、私には似合わないような気がした。

 

リキシャで空港へ 暑さに乾く

荷物を引き摺り、路地を歩く。そしてオートリキシャを探す。意外とあっさり450rpで行くという運ちゃんがいたので、乗り込む。これで楽ちん、と思ったのは大間違いだった。リキシャは市内を迷路のように走り出す。そのほこり、車とリキシャの多さ、汗がしたたり落ちた。

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郊外に出るとスピードが出て風が少し入るようになる。これで助かったかと思うと、その熱風のすさまじい暑さ、やはり尋常ではなかった。とても景色を見る余裕などない。速く着いてくれ、その一点だったが、リキシャのスピードは遅く、いつになっても着かない。もう喉が渇いて死にそうだった。砂漠でラクダに乗る人の気持ちがほんの少しわかったような気がした。

 

1時間半ほどかけて空港に着いた時にはもうヘロヘロだった。さて、これでまた運ちゃんが何か言いだし、交渉になったら勝ち目はないと思っていたが、彼は親切にもカートまで持ってきてくれ、最初の料金を受け取ると『サンキュー』と言って戻って行った。何と有難いことだろうか。

 

スパイスジェット 荷物を預けさせられる

空港ロビーに飛び込むと何をおいても飲み物を買いたかったが、そこはインド。セキュリティチェックをしなければ中へ入れない。そのスピードの遅いこと、そして私の荷物について何か言っていたが無視して中へ入る。それほどに疲れていた。

 

今回はLCCのスパイスジェット。1月にバンコック‐プネーを往復しており、印象は悪くない。ところがチェックインの時に『荷物を預けろ』と言われる。これまでジェットもエアインディアも同じ荷物の量で預けろと言われたことはなかった。兎に角飲み物が飲みたかった。それでも無情にもセキュリティチェックに戻された。チェックする人間が『だから言っただろう』と言う。もう頭が回っていなかったのだと思う。意識朦朧、とはこのような状態なのかもしれない。

 

チェックインが完了し、横の売店でコーラと水を買った。水だけでよかったのだが、強烈に甘味を欲していた。両方とも一気に飲み干す。これで生き帰った。その後飛行機の到着が遅れ、出発も1時間遅れたが、ぐったりと休んでいた。インドに9日間にいること、後半の一人旅、疲労が溜まっていたのだろう。ネットも勿論繋がらないのでいい休息になった。

フライトはまずはデリーへ行き、それからそのままムンバイへ。狭い座席、同じ機体で運ばれていった。LCCなので食事などは出ない。途中2回ほど、冷たくない水が配られたのみ。腹が減ったが、大人しくシートに体を沈めることしかできない。

 

ムンバイ空港に驚く

ムンバイに着くと、国際線ターミナルまでシャトルバスに乗る。国内線から国際線までかなりの距離がある。バスに乗るにもチェックがあり、荷物をバスに積み込むとチップを請求される。何ともインドだ。

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そして国際線ターミナル。遠目に見ても実にきれいだ。中へ入ると驚くほどに輝いていた。以前はこんなだっただろうか?チェックインを済ませて、出国審査を終えると、そこはインドではなかった。煌びやかなショッピング街、きれいな通路。驚きの連続である。

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更に驚いたのはそこで私の名前を呼ぶ声に遭遇したこと。何とA師夫人が目の前に立っていた。周りにはタイ人が数人。そうか、今回バンコックからムンバイへ来るときに『タイ人ヨーガツアーご一行』で出くわしていた。帰りは彼女らの方が日程が長かったので会うはずがないと思っていたのだが、当方もバラナシへ行ったため、帰り便も同じになったようだ。これもご縁かもしれない。

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間違って買ってしまったジェットのビジネスクラスチケットのお蔭で、ムンバイのラウンジに潜入。これもまたかなり豪華に出来ており、驚く。食べ物も飲み物も沢山あった。WIFIも繋がる。インドの変化を見る思いがした。

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夜中1時、飛行機に乗り込む。ビジネスクラスも満員。何と隣に座っていたのは日本人だった。彼女が後方にいたので旅行だろう。もう一人日本人ビジネスマンも乗っていた。インドへ行く日本人が増えていく、インドも変わっていく。食事もせずにシートでぐっすり休んだ。

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バラナシ伝説のGHへ行け2014(5)生きることを考える

暑さにバテて考える

午前中とはいえ、街を歩くとかなり体力を消耗した。昨晩よく眠れなかったせいもある。眠気はあるのだが、ベッドに横になっても寝入ることはできない。これは結構苦しい状況だ。ぐったりとしてただただダラダラする。まあ、これもインドかもしれない。昼を食べようという気も起らない。ニュークミコハウスでネットに目をやり、過ごす。

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久美子さんとまた話をする。彼女にとっても、比較的年代の近い私は格好の話し相手だったかもしれない。彼女にとってインドとは何だろう、ぼんやり思うのだが、そんな愚問を発する気にもなれない。それほどにインドは厳しい所であり、そこで生活すること、それが生きることそのものだ、という以外ないように思う。かといって、いまさら日本に帰る気もない。実は日本に住んでいる誰しもが同じような状況であるのだが、日本が幸せすぎて?気づくことは少ない。いや、そんなことはない、日本だって厳しい社会だ。皆薄々感じていながら『日本はいい国だ』と思いたいだけ、かな。

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夕方外へ出た。どうしても冷たい飲み物が欲しい。だがやはり冷蔵庫を備えた店は少ない。あっても電源を切っているか、中の飲み物は冷たくない。結局道端のチャイを飲む羽目になる。まあこれが一番安上がりで安心できる飲み物、と言う訳だ。

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それにしてもバラナシにはなぜ人がこんなにいるのだろうか。勿論インド全体がそうなのであろうが、南インドの山中、ムナールから来た者には、この環境は過酷過ぎた。全てが死を待つ動物のように見える。そしてガンジスがある。生と死を見つめには絶好の場所ということだ。

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バラナシ在住12年はひよっこ

夜はHさんの紹介で連絡を取った日本人女性Sさんと会う。Sさんはバラナシ在住12年、日本語の先生をしているという。このバラナシに12年、それだけでも凄い、と思ってしまうが、当人にはそんな自覚はないようだ。クミコハウスまで迎えに来てもらい、近くのカフェに入る。

 

ここはなんちゃって日本食も食べられるというので、オムライスを頼んでみる。バラナシにはこんな店がいくつもある。昔からバックパッカーが多く、ニーズも高かったようだ。私のオムライスがやってくると、背後から中国人が英語で『それは何だ』と聞いてきたので、中国語で蛋包飯だと伝えると、『美味そうだがコメが入っているのなら食べられない』という。彼は上海から来た名門復旦大学を卒業したという若者。お金はありそうだが、敢えてバックパッカーをしているようだ。

 

だが『インドのコメ』だけは胃腸が受け付けないらしい。そういえばクミコハウスでも電源のコンセントは全てガムテープが張られていた。久美子さんによれば『中国人は炊飯器を持ち込んで自炊する。その電気代はバカにならない』のだとか。中国人は金がないから自炊する、という人もいるのだろうが、実は現地のコメが食べられないから、という理由もあるのではないだろうか。確かにインドは古米を使うため、我々にはなじまない。

 

Sさんは12年前にバラナシにやって来て、日本語を教え、気が付いたら年月が経っていたというが、そんな簡単だろうか。インドで、しかもバラナシで10年以上生きていくのは私から見えれば至難の業だ。だがあるハードルを越えた後は、何とかなっていくのかもしれない。時々は日本に帰るようだが、やはり大変な苦労もあるのだろう。『久美子さんに比べればまだまだです』と笑っていた。

 

食事を終ると既に9時。この付近の店が閉まり始め、ちょっと道を歩くのが怖くなる時間だ。それでもSさんは全く平気な感じで、細い路地を歩いて行った。私にはこの夜道を歩くだけでも大丈夫だろうか、と思ってしまうのだが。

 

バラナシ伝説のGHへ行け2014(4)圧巻 ガンジスの日の出を見る

4月28日(月)

圧巻の日の出

翌朝は5時前に目覚める。何としてもガンジスの朝陽を見ようと思い、起き上がる。皆これを楽しみにここに泊まっていると思い込んでいたが、3階のドミトリーに行ってみると、床に1人が倒れるように眠りこけていた。ベッドには3人しかいない。あとは屋上で待機しているのかと登ってみると、3人は屋上で寝ていた。私の部屋でも相当に暑かったのだから、3階の彼らは暑さに耐えきれず、夜なかから屋上で寝ていたのだろう。何と台湾人のカップルはこんなところで抱き合って寝ていた。愛の力は暑さにも勝つのだろうか。

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猿が入るので付けられた檻を一人で出る。ガンジスが直接目に入る。少しずつ、少しずつ明るくなってきている。この助走は相当に長い。朝陽を眺めるための船も沢山出てきている。だがクミコハウスの屋上から眺めていると、完全にガンジスを独り占めしている感覚になる。それほどに圧巻のビューなのである。

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ついに朝陽が昇り始めた。河面を陽が徐々に照らす。少しずつ大きくなる。どんどん太陽が大きくなる。ふと横を見ると猿が私と同じようにガンジスを眺めていた。鳥たちも同じように眺めている。全てがそこに注ぎ込まれる。とにかくここへ来てよかった、と思う一瞬。

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みんなで朝食

それから1時間ほどはウットリとしたままだった。こんな感覚はとても久しぶりだった。朝ごはんは8時からニュークミコハウスだと聞いていたので、7時半ごろ出掛けた。久美子さんが指揮をして、お手伝いの女性が一生懸命作っていた。何だか色々なものがテーブルに並び始め、宿泊客が集まり始める。

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ニュークミコハウスには韓国人やフランス人、イギリス人からオーストラリア人まで多彩なメンバーが泊まっていた。この朝食の時間が彼らの貴重な情報交換の場なのである。活発な会話が始まっていた。日本人は結局私の他に2人しかいなかった。内の一人はかなり長い間バックパッカーをしているようで、単語を並べるだけの英語ながら、巧みに会話していた。そして韓国人の女性相手に今晩の活動を相談している。ハングルも多少でき、中国語も片言話せる。確かに各国を渡り歩いてきたにおいがする。日本語は完全な関西弁だ。

 

8時にお手伝いさんが大声で階上に向かい『朝ごはんですよー』と日本語で叫んだのには驚いた。これが往年のクミコハウスの名残なのかもしれない。ビュッフェ形式というか、食べたい人が食べたい物を取るというか、面白い。内容も豊富で、トーストあり、パスタあり、カレーあり、卵あり、サラダあり。これで50rpなら、確かにお客は来るだろう。久美子さんも『うちは朝食の良さを売り物にしている』と語っていた。

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椅子に座る者、ソファーに座る者、床に座る者、立って食べる者、それぞれがそれぞれの食べ方をするのも面白い。そして黙って食べる者、携帯をいじる者、大声で話す者、本当に多彩だ。GHに泊まるというのはそういうことだろう。それぞれの価値観を尊重し、窮屈な中で生活を共にする、今の日本人にはそんな生活が段々難しくなってきているように思われる。みんなで朝食、良いコンセプトだ。

 

この日はフランス人の一人が極度の体調不良に陥っていたが、久美子さんと息子が相談の上、彼女をバイクに乗せて医者に連れて行っていた。クミコハウスの狭い路地には車は入ることが出来ず、医者に行く基準はバイクに乗る力があるかどうか、だという。このインドの地で、体が弱っている時にサポートしてくれる人がいるのは何とも心強い。

 

韓国人とメグカフェ

朝食後、出掛けてみる。ベンガルトラと呼ばれる細い路地を歩いて行くと、GHがいくつもある。折角なのでちょっと寄ってみたが、大体どこも似たり寄ったり。まあクーラーを入れたり、WIFIが入ったり、少しずつ変わって来てはいる。

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大きなガートへも行ってみたが、ここは観光客が多かった。近くに大きな寺院があると聞いていたので行ってみたが、パスポートチェックがある上、カメラなど全てを預けない限り、中に入れないと聞き、断念した。

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ガイドブックに載っていた日本人が経営しているというメグカフェを探してみた。初めての場合、本当に路地が入り組んでいるように見えてどこへ行くのも大変だ。ようやく見つけると女性が一人店から出てきた。『開店は10時から』と言われたらしい。あと10分、ということで2人して外で待つ。彼女は韓国人、30歳ぐらいのバックパッカー。ネパールから夜行列車に乗り、何とニュークミコハウスに先ほど投宿したが、時間が早いので荷物を置いて腹ごしらえに来たという。

 

メグカフェは日本人のメグさんがやっていた。お子さんが小さく、今は昼の一時だけ開店しているという。ご主人はインド人、『インドは何をするのも大変』と言いながら、子供をしつけ、従業員を教育し、忙しそうだった。

 

韓国人とアイスティを飲みながら話を続ける。彼女は幼稚園の先生だったが、どうしても旅に出たいとの衝動から辞めて数か月の旅に出た。韓国も日本同様、先生に対する要求が厳しいようだ。一人で旅をすることに抵抗感はまるでなく、過去にも何回かこのような旅をしているらしい。『韓国人バックパッカーはアジアにいくらでもいる』そうだ。

 

メグカフェを出て、彼女の行く所に着いて行ってみた。かなりガイドブックを読み込んでいるようで、すぐに韓国人御用達のヨーグルト屋を見つけて、食べる。なんかその手作り感がいいらしい。店にはハングルや中国語が書かれており、観光客が良く訪れる場所だと分かる。それにして暑くなってきたので、宿に戻ることにした。

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バラナシ伝説のGHへ行け2014(3)夕方の火葬場へ

夕方の火葬場

それから昼寝をした。と言っても寝られるわけではない。暑いのだ。それでもベッドに横たわる。涼しいムナールからこの暑いバラナシへ来るとかなり堪える。キツイ。やはり耐えられない。仕方なく、ニュークミコハウスへ向かう。ここにはWIFIがあり、そしてクーラーもある。それほどクーラーが効いている訳でもないが、あるのとないのでは大違い。部屋の電気は消えており、皆昼寝をしている。

 

夕方までダラダラして、河沿いを歩いて見た。火葬場を見たいとは思わなかったが、『有名なガートは500rpのお布施を要求するけど、反対側の火葬場は無料だ』と久美子さんに教えてもらい、何となく歩いて行く。河岸に降りるとクミコハウスの建物が眼前にそびえたつ。やはりすごいロケーションにあるのだ、この宿は。

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各ガート間の距離はかなり短いが、歩くのは面倒だ。平らに歩けるようにはなっていない。一々階段を上り下り。まだ暑さが残っている夕方、結構堪える。それでも若者たちはこんな斜面でクリケットに興じている。誰がいい当たりをすると球は河に落ちる。それでもみな平然としており、誰かが河に飛び込む。

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観光用のボートが停泊している場所もある。ガンジスの朝陽、夕陽を見るためにボートに乗る人たちがいるのだろう。ガイドブックにも決して騙されないように、と書いてあるが、騙されないようになどできそうにない。インド人でも恐らくは騙されて、いや過剰な料金を支払って乗っている。それも神の思し召し、だと思えばよい。

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沢山の牛が水浴びしていた。牛だって暑いだろう。とても気持ちよさそうで、思わず私も入りたくなる。が、水を眺めれば一遍でその気は失せる。ドロドロとした水面、なかなか厳しそうだ。だが子供たちはお構いなしに楽しそうに水浴びをしている。その無垢な姿に感じるものがある。

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西洋人の女性が階段に腰かけている。すると犬が一匹非常に親しげに近づいて行く。彼女は追い払うことをせず、犬はどんどんスキンシップを図る。キスしようとしているように見える。あれは前世の恋人だろうか。こんな所でないと考えないようなことを考えている。

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ケダーガートという所にヒンズー寺院があった。そろそろ火葬場だろう。と見ると火を焚いているところがあった。特に見ている者もなく、ひっそりと行われている。これが本来だろう。この聖なる河、ガンジスで燃やされる、この人にとって最上の喜び。

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熱風の夜

夕日が沈む前、宿に戻り屋上からガンジスを眺めた。残念ながら夕陽は見られなかったが、良い眺めであることに変わりはない。ずーっと眺めていたかったが、やはり暑さがこみ上げてくる。

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もう一度外へ出た。相変わらず道は分かり難い。ベンガルトラと言われる小道を行けばよいのだが、どうもこの道は苦手だ。何とかもう一つ大きな道へ出ようともがくが、なかなかうまくいかない。最終的に道に出た時にはクタクタに疲れている。そこで何とか冷たい水でもゲットしようと探すのだが、生憎と冷蔵庫などを使っている店は少なく、見付からない。

 

道端でチャイを売っていたので1杯飲む。5rp、これは美味い。暑い時には熱いチャイに限る?暗くなると更に道に迷うので早々に戻るが、また真っ直ぐは帰れない。最近歳のせいか方向感覚が著しく鈍っている。

 

食欲もなく、8時頃にはベッドに入る。天井のファンを回して暑さを凌ごうとしたが、これは完全な間違い。熱風をかき混ぜているだけで、寝ている私の体を直撃しているだけ。更に暑さを感じて寝ることなどできない。蚊が入るのを嫌い、閉めていた窓を1つまた1つと開けるがどうにもならない。

 

天井を回るファンを見つめながら『これは修行なんだ』と言い聞かせる。バックパッカー経験者には皆こんな体験があるのだろう。ただ50歳も過ぎて何故こんなことをしているのだろうか、との疑問はこのような時に炸裂する。昔バックパッカーだった人にとって、この聖地クミコハウスは懐かしい場所だろうが、私にとっては特に思い入れはない。ではなぜ?これは偶然ではなく、必然なのだ、と考えるしかない。羊を数えるより遥か簡単なことをつらつら考えている内に何とか寝入る。

 

バラナシ伝説のGHへ行け2014(2)タクシーに騙されながらも辿り着いたクミコハウス

2.バラナシ

空港タクシーに騙される

バラナシの空港に着いた。周囲に何もない所にドーンと空港を作った感じだ。初めての場所、久しぶりにインドで一人、用心せねば、と空港タクシーを探す。プリペイドタクシーなら大丈夫と思い、そこで行先を告げると手数料を50rp取られ、紙を渡され、運転手を探す。

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タクシーは快調に飛ばす。途中で運ちゃんが『バラナシには何日居るのだ?案内は要らないか?帰りのタクシーは予約したか?』と聞いてきた。警戒して全て不要と断ると、それきり何も言わなくなった。さすが空港タクシー、しつこくないのが良い。そして1時間、どこをどう走ったのか、街中のある場所で運ちゃんは『クミコハウスはあそこの細い路地を入っていくんだ』と指差し、規定の700rpを受け取り、去って行った。チップも要求しない、さすがだと感心。そしてその路地を入って行ったが・・

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3分ぐらい歩いて見たが、それらしいところはない。GHのオジサンが『どこ行くんだ?』と聞いてきたのでクミコハウスというと、『クミコはここではないよ、ずっと遠いよ。大変だからうちに泊りな』と言ってくる。これは客引きの常とう手段と思い躱す。しかしまた歩いて行くと別のオジサンも同じことを言う。じゃあ、ここはどこなんだ?と聞くと『ここはアッシーガートさ』とこともなげに言う。

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アッシーガート、聞き覚えがあった。そう、ラトールさんが『バラナシで行ってはいけない場所』として挙げた地名だった。その理由が『そこでは麻薬が売買され、危険だ』というのだ。本当にここがアッシーなら一刻も早く逃げ出さねば。ただ周囲にそれほど危険な感じはない。

 

オジサンが『クミコへはガンジスをボートで行くしかない。連れて行ってやろう、500rpでどうだ』と言ってくる。確かに誰かにすがらなければこの局面は打開できないが、このオジサンが信用に値するとはとても思えない。取り敢えず車を下りた場所へ戻る。どうやらこの大通りを行けば、近づくとの予感がある。試しにリキシャに聞いてみると100rpで行くという。これで方向性に確信を持ったのでちょっと交渉して50rpでリキシャに乗る。3kmほど行くと運ちゃんがまた、そこの細い路地を行くのが一番早い、という。信じられないが、行くしかない。

 

その路地はアッシーよりも数段汚かった。本当に細い路地で牛のふんが大量に落ちており、ハエがすごかった。若いにいちゃんが声を掛けてきた。クミコハウスまで案内するという。だが断った。それでも彼は付いてきた、というより先導していた。相当な裏道を通り、人の家を通り、階段を上り下り、良い悪いではなく、彼に着いて行くしかなかった。そしてついに・・

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クミコハウスで

ガンジス河が見える位置に、クミコハウスを見た。にいちゃんは本当にチップも要求せずに去って行った。そういうヤツもいるんだな。そして扉を開けるとおじいさんが『いらっしゃい』と日本語で言った。しかし顔は日本人ではなかった。奥に若い女性がいたので久美子さんの所在を訪ねると上だという。

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2階へ上がろうとすると『靴は階段脇に置いて、盗まれるよ』とおじいさんが指示。階段は意外と急、しかも2階ではなく3階まであった。2階は個室が並んでいたが、3階は大部屋。そのトイレを掃除していたのが、だれあろう久美子さんだった。汗まみれになりながら、必死に掃除していた。

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掃除の合間に話を聞き始めた。『私がバラナシへ来たのは38年前。GHを開いたのは37年前。その頃バラナシに住む日本人は私一人。寂しいから日本人バックパッカーに部屋を貸して、日本人と話したかった』と。『この建物のロケーションは最高。何しろ聖なる河ガンジスが一望できるから、インド人にとって泊まりたい場所。でもインド人は信用できない。絶対に貸さない』とも。『日本には30数年前に一度帰ったきり。インドがそんなに好きかって?そんな訳はない。一度2か月帰ったら、その間にインド人に鍵こじ開けられて、住み込まれた。それを追い出すのにどれだけ苦労したか』。いやはや、まさに伝説の人だ。

 

ご主人はインドのカルカッタ出身のベンガル人。東京で芸術関係の学校に通っており久美子さんと知り合った。そしてインドへ戻りバラナシに職を得る。それからずーっとここに住んでいる。1男1女、娘は嫁に行き、息子は嫁を貰った。さっきの女性はお嫁さんだった。息子は『ニュークミコハウス』を近所でやっている。

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この伝説のGHはインドに来るバックパッカーで知りない者はいないというほど有名だったらしい。何しろ今でも過酷なインド、バラナシはネパールから入り、デリーへもカルカッタへも行ける要衝の地。疲れ果てた体で辿り着くと、久美子さん特製のごはんが待っており、日本人しかいない気安さでインドの緊張感がほぐれたとか。常に満員でベッドを押さえるのが難しいとも言われた。

 

ところがここ数年、日本人の若者は来なくなっていた。最近の若者は『個室』『WIFI』『エアコン』を希望するが、クミコハウスには辛うじて個室が4つほど。しかも相当に年季が入っており、最近できた新しいGHに太刀打ちできない。息子はこの3種の神器が揃ったニュークミコハウスをやっている。今どきの若者である。

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日本人の代わりに中国人、韓国人、香港人、台湾人がここを占拠していた。3階の壁には昔の日本語の落書きの横に中国語や韓国語が目立つ。しかも『ここの朝飯は最高!』などとこのGHを誉めているが、久美子さんは『読めないから分からない』と素っ気ない。当日も上海から3人ずれ、台湾の自転車漕ぎ、韓国人カップルも来ていた。日本人は2人いたが、個室に入っていた。

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私は一番良い個室を与えられた。部屋は広いし、小さいがトイレが付いており、水浴びも出来た。ここはかなり暑いのでホットシャワーは不要だった。小さい窓をいくつか開けるとガンジスが開けた。窓から熱い空気が入り込む。1階に下り、風が通るところに座った。お昼を食べていなかったので、聞いてみるとカツ丼が出来るという。久美子さんが嫁さんに教えたとか。試しに食べてみた。インドなので肉がちょっと硬いが、上々。180rpは嫁さんの小遣いになるそうだ。『インド人はタダ働きしないよ』とキッパリ。

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