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インドで自然療法2018(7)一転して絶好調に

30分ぐらいして、ようやく私の番になり、ドクターに症状を説明すると『なんで症状が出たらすぐに来ないんだ』と言われてしまう。それはあなたが初日に、そういう症状に関する想定や治療法を全く説明しなかったからでしょう、と言いたかったが、かったるいので何も言わなかった。ドクターは『今からザクロを買って食べ、その後薬草を飲み、夕飯はライスとバターミルクだけにしろ』という。血圧を測ると、こちらも上下とも20ずつ落ちていた。

 

どうやらドクターは私が来なかったことに驚いたようで、夜助手のジュディを派遣して、体調を確かめさせた。ジュディは『時々ドクターのところへ行った方がいいよ』という。A師からは『基本的に放任主義なので』と言われていたが、やはりこうあるべきではないだろうか。まあとにかく言われた通りの物を食べて飲んだところ完全に収まってしまったのは事実だ。しかしあまりに効果が早過ぎる、自然ではない、と思ってしまったのは私だけだろうか。自然療法とは何だろうか。

 

因みにオフィスを出てすぐにフルーツ売りのところに言われたものを買いに行ったが、英語は通じず、ヒンディー語の『ダーリ』という単語を言ってみても、最初のおばさんは違うものを出してくる。困っていると英語のできる女性が呼ばれ、『ザクロね』と言って、隣のおじさんのところからつまみ出した。おじさんはダーリが分かっていたようだが、おばさんの商売の邪魔はしないという不文律でもあるのだろう。危うく指示と違うものを食べる羽目になる所だった。フルーツぐらいは間違いなく買えるシステムが欲しい。外国人にはこの辺がきつい。

 

2月18日(日)
快調な6日目

夜9時半に寝て、朝7時に起きる。段々睡眠が正常に近づいているような気がする。とにかく朝のバターミルクだけはちゃんと飲もう。バターミルクとは何か。酸味を持つ発酵乳のことを指し、培養バターミルク(cultured buttermilk)というらしい。ただこの朝のバターミルクはジンジャーが入っているうえに甘みを付けるため、酸味が感じられず美味しい。昼に飲む場合は冷たいので、日本でいえば、飲むヨーグルトという感じになり、私の好みではない。

 

スチェータ先生は昨年『発酵食品は体に良くない』と言っていたが、なぜこれほどまでにバターミルクを飲ませるのだろうか。この辺がアユルベーダとの違いということになるのか。ミルクを飲んで帰る時、カップを洗おうと立ち寄った炊事場で、ふと横を見るとなんとホットウオーターが供給される機械が設置されていることに初めて気が付いた。何だ、あるなら言ってくれ、と言っても誰も答えてはくれない。

 

9時になるとマッサージ師がやって来た。体調はどうかと聞いてきたので、絶好調と答え、マッサージへ。マッサージが終わると『1回100ルピーだから4回で400ルピーね』と言って現金払いを要求する。払ってよいのかよく分からなかったが、外の料金表示が、100㎏以下の人は1回100ルピーとあったので支払った。こういうのも支払いはまとめてオフィスでやって欲しいところだ。

 

マッサージ師は私の顔を見て、スチームバスか、という。今日はマッドパックをやる気分ではないので、そうだ、と答えてそのままスチームへ。ところが昨日に続いて、このスチームバスが非常に熱い。最終的には火傷するのではないかと思うほど、肌にダメージが来たので、早く開けてくれ、と叫んだが、スタッフはなかなか来ない。先日もインド人が入っている時、同じことを訴えていたが、『早くシャワーを浴びろ』というだけで取り合わない。何とも困ったものだ。当然人によって熱さの感じ方も違うはずだから、もうちょっと加減というものがあってもよいのではないだろうか。

 

部屋に帰って、洗濯をする。今日はカバーを洗ったが、これは大きくて洗いにくい。そういえば昨日インドのおばさんが『洗濯物はないか』と聞きに来た。そういう時に頼んでしまえばよかったと後悔するがもう遅い。何とか絞ってみたが、後は湿度の低い当地の気候にゆだねるしかない。

 

昼ご飯、キッチンに行き、昨日ドクターに言われた通り、ライスとバターミルクだけ、というと、昨晩と違って、白いご飯だけが出てきてビックリした。確かにライスなんだけど、ライスだけで食べたこともないし、味が全くしないだろうし、むしろ食べた方が体に良くないと自らが判断して、一度出してもらったものを下げてきた。バターミルクと白米、日本的にはあり得ない組み合わせだ。既に体調は万全だったので、申し訳ないがこんな食事はお断りだ。そばにいたインド女性が英語で『あなたは何が食べたいんだ?』と聞いてくれたが、ドクターの指示なのだから、と他の人は取り合わない。

 

バターミルクだけのランチでも問題はなかったが、何となく、気が収まらなかった。思い出したのは昨晩ジュディに『ザクロ以外のフルーツは食べてはいけないのか?』と聞いた時、『パパイヤなんかならよいのでは』というコメント。早速昨日のフルーツ屋に行き、パパイヤを買い込む。40ルピーで大きなものが手に入る。ナイフがないので切ってもらい、持ち帰る。このパパイヤ、実にうまい。最初からこれだけ食べていればよかったのかもしれない。まさにフルーツダイエットだ。

インドで自然療法2018(6)腹を下して絶食状態に

2月16日(金)
腹を下した4日目

また今朝も起き上がれなかった。結局8時に起きる。今日は旧正月元旦だから、LINEも微信もお祝いメッセージばかり入ってくるが、正直ここにいては正月気分は毛ほども感じられない。マッサージに行く気力が起こらずにいると、何と昨日のこともあってか、9時にはマッサージ師が迎えに来てくれた。

 

これは申し訳ないとすぐに向かう。今日はココナッツオイルも買ってあるし、上出来だ。マッサージの後、そのままマッドパックにも行く。これをしてから出ないとスチームバスに入れてくれないらしい。でももうマッドパックの時間は終わっているはずだが、上に行くとまだ数人がおり、何とか間に合った。爽やかな風が吹いてきたので、腹に響くかと思ったが、存外暖かく、問題なく終了した。

 

この泥を落とした濡れた状態で、Tシャツを着て外へ出るのはちょっと辛い。だが前回は初めてで分からなかったが、今日は前のおじさんが、反対側のおり口から降りていくのを見て、後ろをついて行く。するとなんとスチームバスの横に出るではないか。何だ、これならパンツ一丁でもよかった。スチームバスはなぜか熱すぎて、途中でギブアップ。今日はちゃんと替えのパンツ持参で、濡れずに部屋に帰れた。

 

部屋に帰ると掃除に兄さんがやってきて、5分で終える。濡れたものを洗濯して干す。これもリズミカルになっている。ただちょっと腹の調子が心配になり、ランチをパスする。白湯を飲もうと東京でHさんから借りてきた電気ポットを始めて出してみる。ところが電気のランプはつくのに、お湯はいつまで経っても沸かない。電圧の問題かと調整してみても、状態は変わらず断念。こういう時は急に心が落ち込む。

 

それでもまた昼寝をして、3時頃にトリートメントに行くと、今日はスピナルバス、と言われ、半身浴のようなことをする。特に薬草なども入っていないところに、仰向けに浸る。10分ほどで上がって、それでおしまい。どんな効果があるのか、全く不明だ。ただこの時から完全に下痢が始まった。午前のマッドパックと午後の半身浴で完全に腹が冷えた気がする。これは香港などでウイルス性と診断されるタイプの下痢で、食べ物を腹に入れると下る。特別の薬を飲むか、数日収まるまで我慢しなければならないものだと直感する。

 

ただ食事をコントロールすることは出来ず、飲み物もフルーツジュースやバターミルクでは、我慢していても治るのには相当の時間がかかるように感じる。まあ自然療法だから、自然に任せるかと、夕飯もパスして、何も食べずに過ごす。先日おじさんが持ってきてくれた沢木耕太郎の深夜特急インド編(私が唯一の日本人ということだからだろう)。本はボロボロ簿で最初は読む気になれなかったが、ちょっと読み始めると止まらない。かなり気がまぎれてよい。

 

2月17日(土)
2日連続絶食の5日目

朝は7時に起きる。相変わらず腹はゴロゴロなっている。空腹で食欲はあるのだが、食べるものはない。とにかく朝のこの時間だけ、暖かい飲み物が提供されるのでキッチンへ向かう。あったかいハーブティに甘みも付くので、今の私にとっては得難い代物だった。8時からはフルーツジュースが提供されるがこれはとても飲めない。このままでは自然治癒どころではないと感じる。

 

9時前にまたマッサージ師が迎えに来てくれたが、ついに体調不良を理由に断ってしまった。このマッサージだけが別料金なので、彼にとってはお客がいないと収入が減る、だから一生懸命誘いに来るのか、と考えると、彼自身は悪くないが、ここのシステムには疑問を持つ。体調が悪い時にマッサージなどする必要があるのだろうか。私の体はそれを欲していなかった。

 

結局午前中はブログを書いたりして様子を見たが、特に変化はなく、相変わらず下痢の症状は治まらない。当然ランチもパスだ。ただどうしても腹が減ってしまって困る。日本から持ってきたお菓子などはあるが、腹に良いとも思えず、しかもここのポリシーにも合っていないので、最終的にやむを得ず、買ってあったオレンジを食べた。下痢の時食べてはいけないものだが、その甘みが体に沁みた。

 

このままここにいても意味があるのだろうかという疑念が生まれ、A師に状況をメールしてみた。すると『すぐにドクターのところへ行け』『下痢の症状は自然療法では良い兆候だ』というではないか。でも自然療法でしょう、自分の治癒力に頼るんではなかったの?という疑問が沸いたまま、ドクターのオフィスへ向かった。

初日もそうだったが、ドクターのオフィスは混んでおり、行列ができていた。私にとっては昨年のスチェータ先生のところがよかった。何しろ先生に時間があれば、いつでもその場で質問し、症状を説明し、的確なアドバイスがもらえたからだ。だがここではドクターは忙しすぎる。患者は次から次に来るのだ。体重を図ると、既に初日より4㎏減っていた。当たり前か。

インドで自然療法2018(5)起きられなかった3日目

2月15日(木)
起きられなかった3日目

5時に起きて、ヨーガに行くはずだった。だが9時間寝たにもかかわらず、更に言えば、昼間も5時間寝たにもかかわらず、結局起きることは出来なかった。もうこうなれば休むしかないと目覚まし時計を止めて、寝に入る。7時のドリンクもパス、8時のジュースもパスしていく。どうなってしまうんだろうか。

 

ようやく起き上がったのは9時半過ぎ、実に12時間以上ベッドにいたことになる。ようやくよくなってきた腰が少し痛い。10時半のランチに行くべく、態勢を整えていると、何とジュースは10時までもらえることに気が付き、走ってキッチンへ。10時ジャストに到着、そこはインド、まだ窓口は開いており、オレンジジュースをゲット。甘みは少ないが一気に飲み干す。

 

部屋へ帰ろうとすると、マッサージのお兄さんに呼び止められる。『なんで今日は来ないんだ?』と聞くので『今起きた?』というと、あきれ顔で『すぐに来い』と怒られる。そうか、彼らは私が来るのを待っていたのだ、申し訳ないことをした。すぐに強めのマッサージが展開される。昨日言われていたのに、ココナッツオイルを買うのも忘れていた。

 

マッサージが終わると、すぐにスチームバスに入れられる。もう午前の終わり間際で、お兄さんも急いでいるのか、急に熱くなり、汗が噴き出す。出てくると、タオルは持っていたのだが、替えのパンツを忘れ、びしょ濡れのまま。仕方なく、その上からズボンを履き、急いで部屋へ。

 

そして洗濯。洗濯物は湿度が低いこの地では2-3時間もあれば簡単に乾いてしまうのが嬉しい。そこへ部屋をノックする音がした。昨日からずっと部屋の掃除をしたいと待っていたお兄さんだった。ここはホテルではない上、インドだから勝手に掃除して、という訳にも行かない。5分で掃除するというので見ていたが、やってもらってよかった。シャワーの水が止まらなかったのが、ちゃんと止まっていた。

 

昼ごはんを逃してはいけないと、また急いでキッチンに向かう。この頃からかなり元気を取り戻し、通常の状態に戻ってきていた。昼にはライスが無く、代わりにロ―ティーを2枚もらった。食後の散歩をして部屋でまた1時間ほど寝てしまう。一体どうしたというのだろうか。インドに来て、この緊張感の無さは何だろうか。

 

午後2時からのヨーガに参加してみた。もしこちらがよければ朝5時15分からの会は回避したい気持ちだった。だが行ってみると、人が多過ぎ、そして何より暑い上、虫が飛び交う状況。おまけにアーサナはなく、プラナヤーマに終始しているので、ヒンディー語の分からないこちらとしては、どうにもならない。隣のおじさんが親切にも英語で解説してくれ、何となくやった気分になるが、これは出なくても良いかと思う。

 

午後3時にトリートメントの確認に行くと、また一昨日の腹巻をさせられる。まあ腰に痛みがあったのでちょうどよい。それを巻いたまま、ジュースをもらいに行き飲む。部屋で巻物を取っていると、ドアをノックする音がした。また掃除かと思って出ると、別の人がポイと本を渡して帰っていく。見ると随分と古ぼけた沢木耕太郎の『深夜特急3』だった。昔はインドに来る時に必読書だったかもしれない。折角なので読んでみよう。

 

斜め向かいにあるNeurothrapyに向かう。このメニューがあることを知らなかったので(初日に何か言われたような気はするが)、その場所を聞き、行ってみる。Neurothrapyとは一体何か?辞書には神経治療などと書かれているが、そこへ入ると、いきなりうつぶせを命じられ、何と足で足から背中を踏まれた。昔香港辺りにあったマッサージではないか。私のどこが悪いのか、なぜこの治療をするのかなどは一切不明で、10分ぐらい踏まれて終了した。先生は終わると外へ出て足を洗っていたが、彼の足と私の背中(Tシャツ)、どっちが汚いのだろうか。

 

購買部?にココナッツオイルを買いに行く。先客の女性たちが売り子とおしゃべりに夢中で、なかなかどいてくれない。しかも実は担当があり、オイルは奥にいたおじちゃんが出してくれた。あまりの動作の遅さ、変な担当割に、30年前の上海を思い出してしまった。あの頃は何を買うにも、待つ、ということだったな。初日にドクターが『重要なのは忍耐です』と言っていたが、外国人にとっては、確かに時間の流れに満足できないかもしれない。でも私は、日本では無理だが、ここインドでは何となく平気だった。

 

夕暮れが迫る中、暑さの収まって来た外のテラスに座り、『大日本帝国植民地下の琉球沖縄と台湾』という本を読み始めた。今回の課題図書だ。『昨今の本はその大半が植民地を賛美しており、自省が見られない』とあったのが、私のイメージと合っている。ちょうど台湾や中国は旧正月の前日、除夕のこの日、このような本を読むのは何となく意義を感じる。

 

夕飯は相変わらずだが、ほうれん草の味付けの塩が効いておりうまいと感じられた。やはり人間、塩がないと生きていけないと痛感する。昼に比べ夕飯に人が少ないのは、やはり断食などの影響なのだろうか。そして食後の散歩がスピードは速いのも、何か指示されているのだろうか。分からない。

 

7時頃、お湯をバケツに溜めて、足湯をする。これもメニューにあったのだが、まさか自分が部屋でやるとは思わずにいた。そのまま体を洗ってシャワーも終了だ。何だか生活がシンプルになっている。あまりやることがないからだろうか。それなら朝早く起きればよいと思うのだが??

インドで自然療法2018(4)寒気と眠気に襲われる!

6時にアーサナが終わってもまだ外は薄暗かった。取り敢えず一度部屋に戻り、初めてPCを開いた。オリンピックのニュースで、高梨、高木、ともに金メダルには手が届いていなかった。7時にキッチンで、飲み物がもらえるというので行ってみた。出てきたのはちょっと甘いハーブティ!涼しいこともあり、これは意外とイケる!

 

すぐにトリートメント室へ向かう。7時半から受付が始まり、既に多くの人が待っていた。まず私には苦手のエネマ(浣腸)が待っていた。隣のおじさんが話し掛けてくれる。インド人の半数は親切に話しかけてくれ、困っていれば対応してくれるように思う。日本ではどうだろうか。エネマはすぐに終了。私は我慢できないので、横にトイレがあり、駆け込む。

 

今度はマッドパックへ向かう。キッチンの2階でやると言われるが迷う。そこは2階というより屋上、そしてむくつけきインドのおじさん達が、パンツ一丁で仰向けに寝転んでいた。腹には泥が備えられている。私も真似して、シートを敷き、新聞紙をパンツに挟む。この新聞紙が立ち上がった時に、泥からパンツを守るらしい。おじさんが泥を山盛りに腹の上に置いていく。

 

太陽に向かって仰向けに寝転んだ。態勢を変えることはできず、いやでも太陽と向き合うことになる。朝9時、まだ風がちょっと涼しいが、日差しは強くなっている。周囲のおじさん達はヒンディー語で何か冗談を言い合い、驚くほどに大きな声で笑っている。まるでそれはヨーロッパの酒場で馬鹿笑いしている男たちを思いださせる。ただ裸で酒も飲んでいないので、ドイツの温泉地あたりのイメージだろうか。

 

30分でパックを終え、慎重に泥を持ちながら、洗い場に向かう。腹にたっぷりついた泥を落とすのには時間がかかる。いや完全には落ちないまま、ズボンを履き、Tシャツを着ることになる。まあ気持ちがよいと言えばよかったが、ちょっと涼しい風に当たってしまい、寒気がしたのは気のせいか。

 

更に9時半頃からオイルマッサージを受ける。これはかなりきついもので、足がつりそうになる。体が締まる感覚がある。頭にはココナッツオイル!相変わらず体はべとべとだ。終わるとスチームバス。おじさん達が待っており、順番待ちの間、べとべと感が増す。スチームは、時間も温度設定もかなり適当な感じでやっており、『もういいか』とスタッフが聞いてくる。何だかサウナにいるような感じ。

 

ビショビショの体を洗いたかったが、シャワーが満員で立って待つ。そこに涼しい風が吹いてきて、何とも寒く感じる。10分ぐらい待って、シャワーを浴びたものの、何となく寒気がした。これはやばい。取り敢えず部屋に戻って、着替えをして、濡れたパンツを洗濯して干す。部屋の外には物干し場があり、洗濯ばさみが重宝する。

 

それからランチに向かう。基本的に野菜スープと煮込み、食事の内容は毎回ほぼ一緒。昼ご飯にライスがあるので有り難い。そこにつける塩味の物もあるので、美味しく頂く。煮物は大根。何とか味があるので食べられる。そして昨日も飲んだ冷たいバターミルク、あまり得意ではないが、飲み干す。

 

食事が終わって部屋に帰る。これから何をしようかと考えていると、急激な睡魔に襲われた。理由は判然としない。午後2時まではお休み時間と言われていたので、ちょっと寝ようとベッドに横になった。ところが2時間寝ても眠気は収まらない。いやむしろ頭が痛くなり、起き上がれないほどだった。

 

2時からはヨーガクラスがあったがパスして様子を見る。しかし改善せず、3時からのトリートメントも見合わせることになる。鳥の声などはよく聞こえるのだが、体はベッドに横たわったまま、完全に力が抜けた状態となる。水分ぐらいは取らないと、と思っていたが、その気力もないほどだったから重症だ。

 

5時過ぎに何とか起き上がった。とにかく5時半の夕飯だけは食べようと思った。それを食べないと翌朝10時半まで食べ物はないのだから。既に食欲ということが脳裏から消えてはいたが、見てみるといんげん豆が煮られていた。これがなかなか美味しい!隠元禅師についてはお茶関連で時々話題に出るが、この豆はインドにも運ばれたのだろうか。有り難い。夕飯にはライスとロ―ティーの両方がついていたのもよかった。

 

食後の散歩を少ししたが、また疲れを感じて部屋に引き込む。PCは、ルーターのお陰で快調にネットに繋がっていたが、それも少し見ていると、またもや眠気が来た。既に昼間5時間も寝ているのに、まだ寝られるのか心配だったが、シャワーを浴びて、ミカンを一つ食べて、9時前には寝入ってしまった。なんだかおかしい。

インドで自然療法2018(3)アウエー感が半端ない!

2時頃再び事務所へ行き、手続きを始めたが、これがなかなか分かりにくい。いくつもの用紙に同じようなことをかき込み、何とか提出するものの、『あんたの予約ないよ』などと言ってくる。それが済むとカード(ここに私のデータが入力される)を作り、支払い。ここでも色々と面倒があったが、何とか支払いを完了して、ようやく部屋の鍵を手に入れた。

 

だがすぐにドクターの診察を受けるように言われ、隣の診察室へ。ここでもたくさんの人が待っており、なかなか順番が来ない。体重や身長を計り、待っているとようやくドクターと対面。彼は昨年引退したニサル先生の後を継いだ若手のホープ。脈診と血圧チェックでサラサラと今後のトリートメントの指示などを書いてくれた。

 

部屋に入ったのは何と夕方4時過ぎ。ラトールさんも忙しいので、荷物を部屋に入れるとすぐに帰っていこうとしたが、マッサージ用のオイルとタオル、腹巻?セットを買うのに付き合ってくれた。一度外へ出て門の脇の店でそれらを買うと、ラトールさんは帰っていき、私は部屋に戻った。

 

部屋は2人部屋に一人。かなりゆったりしており、お湯のシャワーも出るし、天井には大きな扇風機が回っており、申し分ない。聞けば、昔は外国人も一般インド人と同じ安い部屋に泊まれたが、今やお客が急増しており、外国人は一番上等の部屋以外に泊まることが認められなくなったという。まあ、私にとっては悪い話ではないが、とにかくここのシステムは何もわからない。

 

 

すぐにトリートメント室に行き、その腹巻を腹に巻いてもらった。なぜこれをするのかという説明はない。ただ水に浸したさらしを腹に巻き、その上からバンドで固定するだけだ。ちょっと腹がひんやりしたが、特に問題なく、30分ほど巻いていた。これが初めての施術であり、今日唯一のものだった。

 

この施設のシステムについては、午後5時半から説明があるというので、そこへ行ってみたが、何と女子トリートメント施設だった。躊躇していると中へ招き入れられたが、10数人の参加者で外国人は私一人。そして説明は、ヒンディー語かマラティ語から知らないが、私には全く理解できない言語で滔々と行われた。

 

ようやくそれが終わると担当者が私のところへ来て英語で話してくれたが、何だか頭に入らない。これほどのアウエー感は久しぶりでボーっとしてしまったのかもしれない。また英語でもわかるというものではなく、取り敢えず今晩と明日、しなければならないことを確認して退散する。

 

もう夕飯の時間になっていた。私もランチと違い、ここの一員になったので、ドクターの指示による食事が供されると思い込んでいた。だが食堂の列に並び、デスクのおばさんにカードを示しても、向こうに並べと言われ、直接食事を取りに行くことになる。その時は『私は悪いところもないので、何を食べてもよいのだろう』と考え、出されるものを取る。ただ出す方も一応『ペーパーは?』というジェスチャーはするので、おかしいとは思ったが。

 

まあ、ここの食事はお世辞にも美味しいとは言えなかった。美味しくないというより、塩気とかスパイスとかを全く使っていないようだ。また美味しそうな色味もないので、体にはよいのだろうが、どうにも味気ない。でも昔はこんな感じだったのだろうと思い、そのままのみ込む。

 

食事が終わると、皆が夕暮れに散歩をする。私も周囲を一周したが、皆歩くのが早い。これも運動の一環でドクターからの指示だったようだ。私には何の指示も下されていない。確かフルーツダイエットなどもあると聞いたが、いつから始まるのだろうか。門の近くでフルーツを売っており、美味しそうだ。何が何だかわからないうちに1日が終わり、シャワーを浴びて眠りに着く。

 

2月14日(水)
午後休息となった2日目

夜中に電車の通る音がした。一度蚊に刺されて起き上がった。トイレにも一度だけ行った。朝5時にはきちっと起き上がる。まあ日本時間の8時半だから、問題はない。外は暗く、かなり涼しい。昨日確認しておいたヨーガの場所へ。既に大勢の人が床に座っていた。きれいとは言えないヨーガマットがあり、その上にカバーを敷いて座る。

 

先生は昨日会った図書館にいるインド人女性だったが、今朝はビシッとヨーガ先生になっている。朝5時15分のクラスは初心者と年配者向けとなっており、初めは体をほぐすことに重点が置かれる。何と言語はヒンディー語のみ。眼鏡を外したいが、そうすると他の人の動作が見えず、何をしているのか分らない。私だけ向きを変え、眼鏡をかけて、人の動作を追う。アシスタントもいるが、体の固い人などのケアに追われている。

 

なんて不親切なのだろうか、と思うことはない。ここはインドなのだ。完全アウエーの中、自らがすべきことを自らが考える機会ととらえる。また同時に、人と同じことしなければいけない、という考え方はここに存在せず、自分がしたいようにしていても、文句をいう人はいない。ここが日本と決定的な違いだ。内容をいち早くコピーしてできるようにするのではなく、長い道のりを経て、自分の形を作り出す、それが必要だということを思い出させる。

 

45分間の後半は、若干のアーサナと呼吸。朝起きあがるとすぐにパソコンに向かう生活から考えると、このような時間を過ごすことが大切なのであり、『出来るようになりたい』などとは思わず、ただ時間に身をゆだねたい、と思うのみだ。

インドで自然療法2018(2)プネーへ

心配だった荷物が無事に自分の手元に戻って来た。だがもう一つ心配があった。それは予約してもらっている運転手がちゃんと待っていてくれるかどうかだ。先ほどビザ代を持ち合わせのルピーで払ってしまったが、ここで両替する気にもならず、そしていつもなら購入するシムカードも、昨年のトラブルでラトールさんから止められていたので、とにかく外へ出てみた。

 

いつものように大勢の人が待っていたが、その中に私の名前を見付けてホッとした。同時に相手もホッとしている様子が見てとれた。まあ2時間近く出てこないのだから、本当に来るのか心配だったことだろう。彼は『腹は減っていないか』と聞いてきたので『それより早くプネーに行こう』と言ってしまった。実は腹が減っていたのは彼の方だったに違いない。

 

車は夜のムンバイを走り出す。初めてこの空港に来たのは2009年のこと。当時はすぐ近くにスラム街があり、夜中に異様な光を放っていたように見えたが、今はもうない。20分ぐらい行くとプネーへの道が近づいているように思えたが、車は急にそこで停まる。何と横にはマクドナルドがあった。

 

『これから何時間もかかるので腹が減るからそこで何か買って車で食べて』というではないか。そして自分は要らないという。何とも困ったが、彼の心遣いに感謝して、店に入る。何年か前に入ったことはあるが、その時買ったのはベジバーガー。まあ、コロッケが入っている感じだ。

 

今回メニューを見てみると、さすがにビーフやポークはないようだが、チキン全盛でフィッシュもある。食べているのは若者ばかりだが、皆チキンを食べ、コーラーを飲んでいる。そして働いているのも若者で、『お待たせしました』などと言いながらテキパキ捌いている。しかもすべて機械化されており、注文を入れると、その番号が印字されて出てくるから間違わない、らしい。私はフィレオフィッシュを買って車に戻り、食べた。味は変わらない。

 

それから郊外に出て、少し行くとデカン高原を登り始める。何となく9年前を思い出すが道もよくなっているのだろう。スムーズに過ぎていく。その後サービスエリアに入った。トイレ休憩かと思ったが、彼はここで食事をした。私はチャイだけをもらったが、それほど旨いチャイではなかった。深夜近くだが、お客は多い。この雑多な感覚がインドを呼び起こす。

 

ついにプネーの街に入ったのは夜中の1時近かった。結局4時間ぐらいかかったから、昔と変わらないようだ。車も殆ど走っていない街中を疾走し、ラトール家に着いた。私は携帯を持っていないので、運転手がラトールさんを呼び出してくれた。彼は『これからロナワラへ帰る』と言って、さっさと帰っていった。ご苦労様でした。

 

勝手知ったるレトロなエレベーターを上がり、部屋に招き入れられた。ラトールさんもこんなに遅くなるとは思っていなかっただろう。水をもらって、そそくさと寝る準備をしたが、先ほど飛行機で寝たせいか、またはインドに来た興奮からか、すぐには眠れず、今日起きた出来事を反芻する。そして日英二か国語版のアニメ、金田一少年の事件簿をパラパラめくる。こんなアニメがあるんだな。

 

2月13日(火)
ニサルゴプチャールへ

翌朝は頭が少し重かったが、何とか起き上がる。この部屋にも何度か泊めてもらったが、今回も壁が塗り替えられ、どんどんきれいになっていく。これがインドの発展のように見える。ラトールさんがチャイとクッキーを持ってきてくれた。これが旨い。有り難い。そこでお互いの近況を話し合い、彼が日本企業の代理店をしていることを知る。インドに進出したい企業はあるが、そのやり方も人材もないので、ラトールさんのような人に依頼することになるようだ。

 

毎回そうだが、ビバさんの作る朝ご飯は美味しい。それを娘のナイニーカと一緒に食べる。彼女もすっかり女子大生っぽくなり、子供から大人になってきている。今日から借りるWi-Fiルーターの説明も彼女がしてくれる。昔はこの家でWi-Fi繋ぐのも一苦労だったけど、今はあっという間。インドも当然進歩している。

 

それからラトールさんの車に荷物を積み込み、出発した。目的地は郊外にある、自然療法場、ニサルゴプチャールだが、まずは両替をするべく、街中を走る。何と今日は平日だと思っていたが、祝日らしい。両替所が開いているか心配だったが、ちょうど開いていた。中に入ると今日のレートが電光掲示板に出ているのだが、ラトールさんはそんなものは見ずに、ここのマネージャーと交渉を始める。結果、表示よりかなり高いレート(勿論空港よりは非常に高いレート)で両替が成立した。有り難い。

 

それから30分ぐらい乗っていくと、ニサルゴプチャールの門が見えた。自然療法というから大自然の中を想像してしまったが、ここは街中。出入りの管理は厳重だ。何とか中に入り、事務所へ。だが今は昼休み中で手続きは出来ない。既にほぼ食事が終わっている食堂へ行き、二人でランチを食べながら待つ。食後辺りを見回すと、木々が生い茂り、確かに環境は良い。

インドで自然療法2018(1)ムンバイのアライバルビザ

【インドで自然療法2018】 2018年2月12日-3月2日

昨年もインドへ行った。目的は健康診断。昨年アユルベーダドクターとのやり取りがとても楽しく、且つ勉強にもなったので、出来れば2年に一度ぐらいは訪ねてみようと思っていたところ、A師より『ナチュロパティーもうけてみてはどうか』との連絡があり、検討することにした。

 

実は昨年6月、東京で、ナチュロパティーのニサール先生一行と短時間お目に掛かった。その際、先生は初対面にも拘らず『ぜひインドへいらっしゃい』と言い、自然療法場のパンフレットをくれたのだ。こういうご縁は大切にしようと思っていた。ちょうど11月に成田空港に行くと『ムンバイ行きは間もなく出発です』とのアナウンスが流れており、急に行きたくなってしまった。

 

すぐに空港でネット検索したところ、何とANAのムンバイ往復が58,000円だったので、思わず予約してしまった。久しぶりに勢いのある決断だった。ビザは現地空港で簡単に取れるし、プネーに行けばA師やラトールさんもいるので、何の問題もないはずだった。だがそこはインド、そんな簡単な訳はないのだ。

 

2月12日(月)
ムンバイまで

朝11時成田発のフライトに乗るには、家を6時台に出なければならない。その時間でも特急などは通勤時間帯なので、各停でゆっくり目指そうと思ったが、何と今日は三連休の最終日で休日だった。もう曜日の感覚が無くなって久しいが祝日の感覚もない。8時台には空港に着いたが、スーツケースに少し不具合があった。このまま預けてインドの手荒い荷物運びをされ、万が一壊れていけないと思い、ベルトを購入した。だがこのベルト、巻き付けるのが意外と難しい。いきなりインドに試されているような展開となる。

 

取り敢えず、チェックイン、出国審査などは簡単に終わり、お土産を見に行った。インドにお土産を持っていくのは難しい。特に食べ物には気を遣う。クッキーなどが無難だが、中にはラードなどを使っているものもあり、そうなるとあげられない。先方も外国から来た未知の食べ物においそれとは手を出さないだろう。そういえば煎餅はどうなんだろうか。ラトール家で試してみようと購入した。実際に渡してみると『うーん』という反応だった。ライスクラッカーだから食べられるということではなく、味にも問題があるようだった。来年からは、食べ物は止めよう。

 

飛行機は満席とはならず、エコノミーの一番前の座席に着く。隣も空いており楽ちんだと思ったが、その向こうのおじさん、ビジネスマンの出張らしいが、その空いている席に荷物をボンボンと置き、離陸するや、テーブルを出してPCを打ち始めた。食事が配られるとなんと、隣のテーブルを出して、こちらを斜めに見ながら食事をし、PCを打つという離れ業を展開。正直見られながらの食事は愉快とも言えず、さりとてやめて、とも言えない。

 

余程変なおじさんなんだなと思い、彼の部下になった人は大変だな、などと思ってしまう。ところが彼が飲みほしたビールの缶が床に落ちたので拾ってあげると『大変申し訳ございません』とやけに腰が低い対応。この人、よほど仕事に追い詰められており、むしろ可哀そうなんだな、と思えるようになる。

 

ところでムンバイまで成田から一体何時間かかるのだろうか。実は私のインド行は8回目のだが、これまで一度も日本から直接インドへ行ったことはなかった。バンコックか北京経由が普通であり、乗ってしまってからやけに遠いなと感じていたが、何と所要時間10時間半と言われ、ビックリ。インドって遠いんだな。

 

やることもないので映画を何本か見て、落語を聞いて、寝入る。サンドイッチが配られ、コーヒーを飲んでいる(ANA機内の熱い日本茶はどうしても飲めないほどマズい)と、到着が遅れるとの知らせがある。結局11時間以上かかってムンバイに着いた。この空港、4年ぶりかな。

 

ムンバイ空港で
昨年の深夜のデリー空港を想像していた。ものすごい人の列がイミグレに並んでいると思っていたが、何と殆ど人はいなかった。だが私はここを通れない。アライバルビザを取るために更に進むと、そこに先着していた日本人がいた。そこで用紙をもらって書き込み、列に並んだ。

 

ところが係官の対応が恐ろしいぐらいに遅い。というか、今日初めてこの業務をやります、と言わんばかりの状態で、何もわかっていない感じだった。昨年のデリーは僅か15分でビザゲットだっただけに驚き呆れる。別の係官が『国内線乗り継ぎの人はいるか』と聞いて、一人が手を挙げると、その人だけ優先的に処理され、出て行った。だが彼とて、ビザをもらったという雰囲気はなかった。

 

皆日本人だからきちんと列に並んでいたが、係官は『何故立っているんだ、向こうで座って待て』というのだ。『急いでいるから立って待っているんじゃないか』と言ってみても勝手にしろ、と言った感じで取り合わない。流石インド。機械は全く導入されておらず、全てが手作業。デリーでは先にクレジットカードで費用を支払ったが、『ここではクレカは使えない』ともいう。そしていつになっても処理は進まない、ようやく自分の手続きが完了したが、何と全員が終わるまで先には進めなかった。

 

たった8人のために1時間半を要した。更には一列で別のオフィスへ行き、それから銀行へ行って支払いを行うとパスポートが返され、解放された。因みに預け荷物はANA職員は帰ってしまったが、エアインディアがきちんと保管して、我々が来るのを待っていた。毎日この喜劇が繰り返されているのかもしれない。モディ‐安倍のお友達ラインもムンバイまでは届かない。

インドでアユルベーダを2017(17)プネーに広がる工業団地

3月1日(水)
いよいよ今回のインド最終日。朝は周辺散歩に出る。これまで何度かラトール家に滞在しているのに、一人で外を散歩したことすらなかった。うきうきと出掛ける。今日も快晴だ、気分がよい。そして静かな町。この付近は車もそれほど多くなく、実に環境がよい。道路は相変わらず、女性が箒で掃いていた。プネーの私の第一印象というのは、実はこの掃除。インドは汚いという先入観念があったが、プネーでは見事にそれが払しょくされた。昨日は機械で掃除する人を見かけたが、やはり箒がよく似合う。道が朝日に輝いていた。

 

近くの公園に行くと、多くの人が決められたコースをウオーキングしている。日本ならジョギングだろうか。向こうではアーサナのポーズをとっているおじさんがいた。中国の公園なら、太極拳だな。瞑想している人もいて、実に多彩。戦車が飾られているのはなぜ?

 

それからも道を忘れないようにしながら、ゆっくり散策した。1時間も歩くととてもすっきり。戻って頂く朝食が美味しい。部屋に戻って荷物をまとめて、さあ出発だ。10時過ぎに車に荷物を載せて、この家ともお別れ。今日はどこへ行くのだろうか。着いた先は、かなり広い敷地を持つ、立派なところ。聞けば、地方政府の教育部門だという。

 

ここの言語教育担当責任者に会う。彼らも日本語教育の重要性を強調しており、日本との交流を望んでいると言ってきた。話を聞いていると、大学の多い学園都市プネーには、フランス、ドイツ、ロシアなどから、各国語の支援が入ってきている(語学教育、留学など)が、残念ながら日本語はないのが現状らしい(H先生のように日本語教師として派遣されている例はある)。勿論日本は他の都市でやっているのかもしれないが、デリーやムンバイなどの誰でも知っている都市ばかりではなく、プネーのような重要都市にも何かをするべきかと思う。

 

次に郊外のITパークに行く途中、A氏夫妻に帰国の挨拶に行く。家の前までは何度か来たことがあるが、中に入るのは初めてだ。軽く立ち寄るつもりが、話が弾み、1時間以上の長居となる。やはり政治でも文化、習俗でも、インドのこととなると、A師に確認したいことは山ほどあるのだ。

 

それから30分ぐらいで郊外のヒンジャワディにあるITパークに着く。何とここには街が形成されており、その中に数千人が住み、仕事をしていた。インドのインフォシースやタタなどの大きな建物が目についた。外資系もちらほらあり、かなりの規模だと分かる。現在第1期、2期が完成し、3期の計画もあるという。こういうところを見ると、インドも広いな、とつくづく思う。

 

腹が減ったので、道路脇のレストランに入る。麺が食べたかったが、客家ヌードルしかなく頼む。前回客家ヌードルの起源を調べてみたが、よくわからない。インドに客家がいるのだろうか。また客家は独特の焼きそばを持っているのだろうか。意味不明ながら久々でうまい。ニンブーもあったので飲む。満足。

 

それから工業団地があるというので行ってみる。ラトールさんの仕事に同行した訳だ。そこには富士通、ブリジストン、よつばなど、日系企業が数社見えた。ここにも日本がと感慨深かったが、近くを回ると、フォルクスワーゲン、メルセデス、ボッシュなどドイツメーカー、それも一流の自動車関連が出てきており、ドイツ語需要が高いことが分かった。

 

ロレアルなどフランス系もあり、また三一重工など中国系の大工場もあった。インド系の二輪会社やトラック会社が先に出て、そこへドイツ系がやって来たのだろう。日系自動車は、デリーはチェンナイなどに出ているので、ここではマイナーな存在。先ほどのITパーク同様、優秀な学生が多いこの街を選ぶ理由に良い人材の確保があるのは間違いがない。

 

そこからプネー空港までは距離はそうないのだが、夕方の大渋滞にはまる。私のフライトにはまだ時間があったが、ラトールさんは日本語学校の授業に間に合わない。申し訳ない限りだ。空港では、これまでチケットのコピーがないと入れなかったのだが、今回はスマホ画面で入ることができた。当然だ、インドも進歩しているのだから。

 

デリー行きの国内線は、フライトが遅れ、いつチェックインできるかもわからない。あまり遅れると、デリーの乗り継ぎに問題が出ると冷や冷やしたが、遅れて出たにもかかわらず、デリーには定刻に着いた。夜中の零時、デリー空港の国際線は大混雑だった。エアチャイナのチェックインはまだよかったが、荷物検査で1時間近く並んだ。何とも効率が悪い。

 

そこを何とか抜けると、もう搭乗時間が迫っていた。だがいつになっても搭乗は始まらない。インド人などは平気な顔で待っていたが、日本人のおじさん二人がしきりに『おい、どうなっているんだ』と叫ぶ。彼らはビジネスクラスのチケットを持っているのに、そんな態度だからスタッフも取り合わない。

 

ようやく搭乗が始まるかと思っていたら、なんと、車いすに乗ったインド人がその家族と共に続々と搭乗を始める。北京で国際会議でもあるのだろうか。何とか搭乗すると、ほぼ満員。すぐに食事も出てなかなか眠れない。ちょっとウトウトしていたら、もう到着。5時間半ぐらいのフライトだった。北京空港の国際線トランスファーも車いす組が優先!

 

夕方の便で羽田へ向かうのだが、このフライトも遅延した。昨日から3本のフライトに乗ったが、その全てが遅れるという珍しい体験。結局羽田にも1時間遅れで着いたが、まだ電車があり、問題なく帰れた。さすがに丸一日以上の移動は堪えた。アユルベーダの教えをちゃんと守り、規則正しい生活、移動を少なめにしていこう。出来るかな?

 

いよいよ今回のインド最終日。朝は周辺散歩に出る。これまで何度かラトール家に滞在しているのに、一人で外を散歩したことすらなかった。うきうきと出掛ける。今日も快晴だ、気分がよい。そして静かな町。この付近は車もそれほど多くなく、実に環境がよい。道路は相変わらず、女性が箒で掃いていた。プネーの私の第一印象というのは、実はこの掃除。インドは汚いという先入観念があったが、プネーでは見事にそれが払しょくされた。昨日は機械で掃除する人を見かけたが、やはり箒がよく似合う。道が朝日に輝いていた。

近くの公園に行くと、多くの人が決められたコースをウオーキングしている。日本ならジョギングだろうか。向こうではアーサナのポーズをとっているおじさんがいた。中国の公園なら、太極拳だな。瞑想している人もいて、実に多彩。戦車が飾られているのはなぜ?

それからも道を忘れないようにしながら、ゆっくり散策した。1時間も歩くととてもすっきり。戻って頂く朝食が美味しい。部屋に戻って荷物をまとめて、さあ出発だ。10時過ぎに車に荷物を載せて、この家ともお別れ。今日はどこへ行くのだろうか。着いた先は、かなり広い敷地を持つ、立派なところ。聞けば、地方政府の教育部門だという。

ここの言語教育担当責任者に会う。彼らも日本語教育の重要性を強調しており、日本との交流を望んでいると言ってきた。話を聞いていると、大学の多い学園都市プネーには、フランス、ドイツ、ロシアなどから、各国語の支援が入ってきている(語学教育、留学など)が、残念ながら日本語はないのが現状らしい(H先生のように日本語教師として派遣されている例はある)。勿論日本は他の都市でやっているのかもしれないが、デリーやムンバイなどの誰でも知っている都市ばかりではなく、プネーのような重要都市にも何かをするべきかと思う。

次に郊外のITパークに行く途中、A氏夫妻に帰国の挨拶に行く。家の前までは何度か来たことがあるが、中に入るのは初めてだ。軽く立ち寄るつもりが、話が弾み、1時間以上の長居となる。やはり政治でも文化、習俗でも、インドのこととなると、A師に確認したいことは山ほどあるのだ。

それから30分ぐらいで郊外のヒンジャワディにあるITパークに着く。何とここには街が形成されており、その中に数千人が住み、仕事をしていた。インドのインフォシースやタタなどの大きな建物が目についた。外資系もちらほらあり、かなりの規模だと分かる。現在第1期、2期が完成し、3期の計画もあるという。こういうところを見ると、インドも広いな、とつくづく思う。

腹が減ったので、道路脇のレストランに入る。麺が食べたかったが、客家ヌードルしかなく頼む。前回客家ヌードルの起源を調べてみたが、よくわからない。インドに客家がいるのだろうか。また客家は独特の焼きそばを持っているのだろうか。意味不明ながら久々でうまい。ニンブーもあったので飲む。満足。

それから工業団地があるというので行ってみる。ラトールさんの仕事に同行した訳だ。そこには富士通、ブリジストン、よつばなど、日系企業が数社見えた。ここにも日本がと感慨深かったが、近くを回ると、フォルクスワーゲン、メルセデス、ボッシュなどドイツメーカー、それも一流の自動車関連が出てきており、ドイツ語需要が高いことが分かった。

ロレアルなどフランス系もあり、また三一重工など中国系の大工場もあった。インド系の二輪会社やトラック会社が先に出て、そこへドイツ系がやって来たのだろう。日系自動車は、デリーはチェンナイなどに出ているので、ここではマイナーな存在。先ほどのITパーク同様、優秀な学生が多いこの街を選ぶ理由に良い人材の確保があるのは間違いがない。

そこからプネー空港までは距離はそうないのだが、夕方の大渋滞にはまる。私のフライトにはまだ時間があったが、ラトールさんは日本語学校の授業に間に合わない。申し訳ない限りだ。空港では、これまでチケットのコピーがないと入れなかったのだが、今回はスマホ画面で入ることができた。当然だ、インドも進歩しているのだから。

デリー行きの国内線は、フライトが遅れ、いつチェックインできるかもわからない。あまり遅れると、デリーの乗り継ぎに問題が出ると冷や冷やしたが、遅れて出たにもかかわらず、デリーには定刻に着いた。夜中の零時、デリー空港の国際線は大混雑だった。エアチャイナのチェックインはまだよかったが、荷物検査で1時間近く並んだ。何とも効率が悪い。

そこを何とか抜けると、もう搭乗時間が迫っていた。だがいつになっても搭乗は始まらない。インド人などは平気な顔で待っていたが、日本人のおじさん二人がしきりに『おい、どうなっているんだ』と叫ぶ。彼らはビジネスクラスのチケットを持っているのに、そんな態度だからスタッフも取り合わない。

ようやく搭乗が始まるかと思っていたら、なんと、車いすに乗ったインド人がその家族と共に続々と搭乗を始める。北京で国際会議でもあるのだろうか。何とか搭乗すると、ほぼ満員。すぐに食事も出てなかなか眠れない。ちょっとウトウトしていたら、もう到着。5時間半ぐらいのフライトだった。北京空港の国際線トランスファーも車いす組が優先!

夕方の便で羽田へ向かうのだが、このフライトも遅延した。昨日から3本のフライトに乗ったが、その全てが遅れるという珍しい体験。結局羽田にも1時間遅れで着いたが、まだ電車があり、問題なく帰れた。さすがに丸一日以上の移動は堪えた。アユルベーダの教えをちゃんと守り、規則正しい生活、移動を少なめにしていこう。出来るかな?

インドでアユルベーダを2017(16)日本語を学ぶ理工系学生

一度部屋に戻ると、ナイニーカがオムレツサンドを作ってくれた。昨年6月に名古屋へ日本語の勉強に行き、食事に苦労していた彼女。母親のビバさんからも『自分でご飯を作れるように』と強く言われている。インド人が海外へ出たら、自炊が基本となるので、料理の勉強は欠かせない。

 

それから銀行へ行った。インドの銀行、なんか懐かしい雰囲気がある。スタッフはマネージャー以下ほぼ全員女性。住宅ローンの宣伝が大きく出ているが、その金利は8年前に初めて見た時とほぼ同じだ。それなのに、定期預金金利は年4%と、以前と比べてかなり低下している。これは銀行の貸し出しが伸びていないことを意味しているのだろうか。

 

昨日は女子校に行ったが、今日は系列の男子校をラトールさんと訪問した。ここも雰囲気のある建物。元気な男の子ばかりが教室一杯に座っていた。初めは緊張気味だった彼らも、ちょっと話してみると、日本への興味が実に強く、『日本へ行ったみたい』という声が出てくる。だが日本に関する情報はあまりなく、どんなところかというイメージは沸かないようだ。

 

今日はバイクの後ろに乗って行動しているのだが、さすがに炎天下に出ると暑い。クリニックから出たばかりなので、かなりひ弱になっており、水分補給が必要になる。フラフラになって歩く。ラトールさんが連れて行ってくれた場所は、カフェというかバーの様な雰囲気。イギリス人が経営する、おしゃれなスポットだった。

 

だが売られている物は、酒ではなく、ベジタリアンフードが中心。マンゴジュースと、目についたトーフロールというのを頼んでみたが、マスタードが効いていて、美味い。久しぶりに触れた日本的な味だった。プネー在住外国人の憩いの場となっているようで、白人や中国、韓国人の姿も見られた。こういう場所が増えると日本人も少しは楽になるのではないか。但し長居禁止のようで店内ではPCを使用できない。

 

午後はまずHSBCの支店へ行く。ここのATMで試してみると、ちゃんとお金が引き出せた。やはりCitiは私の問題で引き出せないのだと分かる。最近プネーの街で見かけるものとして、機械を担いで掃除する人がいる。昨年導入されたらしいが、以前は女性が箒で掃いていたが、今や機械化が進んでいる。ただこの暑い中、労働は大変だろう。

 

道路工事もあちこちで見かける。道幅拡張や花壇の設置など、徐々に進歩が見られる。プネーも地下鉄工事が始まっているようだが、ラトールさんによれば、20年前に日本の地方都市が地下鉄の必要性を指摘したが誰も取り合わなかったという。急激な渋滞が発生し、皆目が覚めたのだが、かなり後手に回っている。

 

夕方、またバイクに乗り、工科大学へ向かう。ラトールさんはここで日本語の授業をしているというので見学に行く。キャンパスは道を隔てて2つに分かれており、100年は経っていそうな古い建物の横では、新しいビル工事が行われている。教授の一人にお会いしたところ、『実は今年から正式な大学になるんです』という。これまでは理工系の専門学校的な位置づけだったらしいが、規模を拡大する。

 

『日本の大学と是非提携したいんです!どこかいいところはありませんか?理工系でもよいし、総合大学でもいいんです』と訴えられる。『インドの発展はこれから。日本の成功に学びたい』ということか。もし日本の大学で将来を見据えてインドの大学との提携を検討するのであれば、良いかもしれない。

 

教室は新しいビルにあり、きれいだった。生徒が十数人来ていたが、正直ちょっとビックリした。これまで日本語を勉強している子たちは、女子が多く、またはアニメや音楽など、日本のカルチャーが好きで学んでいたのだが、ここは全然違う雰囲気だった。まず生徒はほぼ男子(女子は1人だけ)、しかも専攻はITや電子工学といった専門性の高い分野が多い。

 

授業は、まだ初歩であり、あいうえおなど、ひらがなから始まっている。ラトールさんの授業はひらがなを教えながら、同時に日本の文化などにも触れていく。カラオケを説明するのに『カラは空、つまりスカイだね』『リキシャーという言葉は日本から来たんだよ』という感じだ。日本から持ってきた教材を使い、ビデオも見せる。

 

彼らになぜ日本語を勉強しているのかと聞いてみるとズバリ『日本へ行って日本の技術を学びたい』というのだ。出来れば日本で就職の機会を得て、自分の理工系の知識を生かして働きたいと、優秀なインドの学生に訴えられると思わず、『皆さんは既に英語も出来るし、アメリカやヨーロッパの方が行くのが簡単ではないですか』と問うてみる。それでも日本の技術が優れている、と彼らは思っており、そう思われているうちが花だな、今のうちに日本のシンパを多く作るべきだな、としみじみ思う。因みに日本語は難しいかと聞くと『思ったより入りやすい言語だ』と言われ、これまた驚き。

 

夜は疲れたので、また軽くご飯を食べてシャワーを浴びて寝る。それにしても、インドで日本語がこんなに学ばれているとは驚きだった。これからもやり方次第ではどんどん増えていくだろうが、日本側にその意識が薄く、その担い手がいない、という現状を変える必要があると思われる。

インドでアユルベーダを2017(15)インドの経済発展を見る

ラトールさんに車で送ってもらい、クリニックへ戻った。1011日の滞在、いや修行が終了し、お別れの時が来た。先生はYさんに与える薬をさっと渡してくれた。説明を聞こうとしたが、『中にすべて書いてあるから指示通り飲めばきっとよくなる』というので、物だけもらって出てきてしまった。2匹の番犬もすでに吠えなくなっていた。随分長くいたような気がする。またいつか来よう。

 

ラトール家に投宿する。これが何回目だろうか。今回のプネー初日の朝もここに立ち寄りシャワーを借りている。夕方、日が暮れた頃、ラトールさんが『銀行に行ってみますか?』と聞く。Citibankのカード、デリー空港のATM機で現金が引き出せなかったので、試してみようというのだ。バイクの後ろに乗って街に出る。何とも賑やかで、バイクの洪水。これまでの環境とはだいぶ違う。しかし市内のATMでも結局現金は出て来なかった。これは機械の問題ではなく、カードの問題に違いなと判断。因みに後日香港で確認したところ、何とパスワード変更したことを忘れていたらしい。今回はもう滞在日数も少ないので、明日銀行で両替すればよい。

 

帰りがけに、ビッグバザールという、インドではお馴染みの大型スーパーの前を通ったので、ちょっと寄ってみることにした。バッグを預けなければならないのは面倒だが仕方がない。中に入ると、3年前よりずいぶんときれいになっており、品物もよくなっているように思えた。その分か、価格も高くなっているような気がする。

 

お茶コーナーに行ってみて、驚いた。棚の多くの部分が、グリーンティのティバッグで占められているのだ。あのリプトンが大々的に『グリーンティは健康に良い、ダイエット効果がある』と謳っている。紅茶のティバッグは棚の下の方に押しやられ、見る影もない。グリーンティは紅茶の3倍の価格が付いている。これで売れるのであれば、当然こちらを売るだろう。勿論チャイのパウダーは健在だが、徐々にチャイから緑茶へのシフトが進んでいると感じられる。これも経済発展の恩恵だろうか。

 

どうしてもニンブーというインドの一般的なジュースが飲みたくて、探したが、こちらも見つからなかった。棚にはオレジジやアップル、ライチなどのジュースはあるが、安いニンブーは棚から漏れたらしい。また前は瓶や缶が多かった飲料コーナーも、ペットボトルが主流になっていた。

 

高額消費時代の足音が聞こえるようだ。支払いはクレジットカードもあるが、ATMカードも使える。一部だが、スマホ決済すら導入されようとしている。経済成長が年率7%というのは、決して低い成長率ではない。日本ではどうしても中国と比較してしまいがちだが、インドは急速に変化しようとしているらしい。

 

夜は、ラトール家でチャパティと野菜が出た。夜は沢山食べないというのは、クリニックだけではなく、一般家庭でも普通に行われているらしい。出所したばかりの私には軽い食事が有り難い。日本や中国のように、夕飯を思いっきり食べていては消化が追い付かない。ベッドに横になるとあっという間に睡魔に襲われた。

 

228日(火)

翌朝は7時には起きて、アーサナを行う。8時前にはラトールさんがチャイを運んでくれた。そして今日は仕事が忙しいというビバさんを車で送っていくというので付いていくことにした。ビバさんの職場までは、市街地を通らなければならず、朝は渋滞が予想された。デリーやムンバイでは相当ひどい渋滞になっているが、ここプネーにもその波は押し寄せてきている。

 

何とか職場まで送り届けた帰り道。何とも趣のある道を通過した。馬車に積まれていたのは氷だった。馭者のおじさんがにっこりと手を挙げる。古びた図書館のような建物があった。ここはパルシーが住む街だという。ベーカリーに入る。ここのクックキーが美味しいとお土産に買ってもらった。パルシーはイラン系、パンをうまく焼く技術があったのだろうか。お客が引っ切り無しに来て、繁盛していた。店員は男性しかいなかった。

 

また少しくとイスラ系住民が住む地域がある。インドは各都市に、各階層、各民族が住んでいる。その先はヒンズー教徒が住むエリア。ラトールさんは日本語教材などをここのコピー屋さんに持ち込み、大量のコピーを依頼しているらしく、店員とも仲良しだった。日本語の本は簡単に手に入らないので、どうしてもコピーが必要になる。

 

外では皆が朝ご飯を食べていた。最近は他の州からプネーに働きに来る者も多く、簡単な朝ご飯の屋台が繁盛しているらしい。どんどん人々が忙しくなるインドでは、これから食の変化、食のとり方の変化が起こってくるだろう。家の近くまで戻ると、路上の野菜売り場に『Paytm』という表示が出ている。これがスマホ決済のシステムの一つらしい。

 

誰か使っていないか、じっと見ていたが、数人の客はすべて現金で払っていた。店はこの決済をすると、2%の手数料を取られるの、客には勧めないらしく、お客も少額の買い物は、現金でよい、という感じ。現時点では店にも客にメリットがないので、取り敢えずは普及しないようだが、もし何かのインセンティブが付けば、中国のように急激に発展する可能性はなきにしも。少なくとも政府は今回の高額紙幣廃止に合わせて、キャッシュレス化を進めるつもりだから、今後の動向には注目したい。