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香港歴史散歩2004(14)中英街

【番外編―中英街】2004年10月9日

AトラベルのSさんが突然『中英街ってどうやって行くんですか?』と聞く。私は全くノーアイデアであったが、K君が『私は上水から行こうとして途中で摘み出されました』と説明する。えっ、つまみ出される。こいつは国境越えでもしたのだろうか?俄然興味が沸く。

しかもSさんと本件の関わりを聞くと『社長と下川さんがお友達で取材らしいんです??』との答え。えっ、下川さんって誰??取材??何だか分からないが、巻き込まれていく。どうせいつも何も考えずに歩き回っているのである。Sさんも『メルマガのネタになるかもしれません』等と言って、私の心を揺さぶる。結局K隊長、S隊員の後ろからついて行くことになる。かなりおそる、おそるではあるが。

(1) 出発

尖沙咀のハイアットリージェンシーのロビーに朝9時集合。S隊員、K隊長とも若干緊張の面持ちで待つ。下川裕治氏と言えば、昔からアジア貧乏旅行に関する数々の著書があり、熱狂的な崇拝者を持つバックパッカーの草分けと言える存在。一体どんな人物なのか?(私は名前を聞いていたが、実は著作は一冊も読んでいなかった。すみません。)

そこへ実に気さくな感じで下川裕治氏とカメラマンの阿部さんが登場した。早速K隊長が中英街体験を説明し、中国側からも入れるかどうか分からない旨を述べる。おい、おい相手の目的を聞かないのかと思ったが、黙っていると下川さんが一言、『兎に角行って見ましょう。』と。そう、数々の旅行体験を重ねた彼は先ず行動してみるタイプである。ここでは情報は必要だが、議論は必要ないのである。

サッと立ち上がると、バス停に向かう。タクシーで行けば速いが、5人だとちょっとキツイ。特にK隊長を擁している我々には。K隊長は既に計算済みと見えてバス停に我々を導く。表の対面にはあの重慶マンションが見える。カメラマンの阿部さんはすかさずカメラを構えている。

 

バスに乗り込んでも2階の一番前の席に陣取り、阿部さんはシャッターを切り続ける。それは凄い勢いだ。窓ガラスにカメラや頭を打ち付けても撮っている。プロのカメラマンとはこういうものかと参考になる。下川さんが私に『本日は取材です。今回上手く行けば記事になりますが、お名前はどうしましょうか?』と聞く。『名前は出さず、写真は後姿のみでお願いします。Sさんは別ですけど。』と勝手なことを言う。本当は本になるなら載せてと欲しいのだけれども。

(2) シンセンへ

ホンハム駅に到着し、早々KCRに乗り込む。普通車には車両の端に2人掛けの椅子が2つあり、更に1つだけ2人掛けと向き合う形の椅子がある。5人が乗るのに丁度良い形である。阿部さんは相変わらずシャッターを切り、K隊長は下川氏にあれこれと体験談を披露している。私はS隊員と後ろの席でおしゃべり。

 

時々聞き耳を立てると中英街への行き方について、K隊長は自信が無いようだ。下川さんは悠々と『1980年頃広州にいきましてねえ。あの頃は香港経由、それも重慶マンションでしかビザが取れなかったんですよ。旅行社の人が来て、ビザ申請するんですよ。』などという貴重な話をしている。また『最近3年毎ぐらいに重慶マンションに来ますが、毎回滞在者の国籍が大きく変わるんですね。面白いですよ。前回はネパール人が多かったが、今回はアフリカ人ですね。何故でしょうかね?』などという経済で言えば定点観測のような話が出る。もう直ぐ羅湖というところでとうとう阿部さんは席を立ち、カメラを構える。動きが本当にスムーズ。

羅湖駅に到着するとK隊長が突然、『ちょっとすみません』といって今降りた列車に向かって走る。どうしたんだ??少しして戻ってきてすみません、又言う。まさかパスポートを席に忘れた訳ではあるまいが??誰もそれ以上聞かない。K隊長のコミカルな動きが笑いを誘うのみ。

(3) 茶葉世界へ

羅湖から真っ直ぐ中英街のある沙頭角行きのバスに乗る予定であったが、あまりにも情報が無いので1つの提案をした。『茶葉世界に行きませんか?』??何で?実は茶葉世界で前回1人の人物と会っていた。鳳凰単叢を売る李さんのご主人は何と沙頭角の税関職員。何か情報を持っているかもしれない。下川氏も反応が早い。『行きましょう』

茶葉世界に着くと李さんは何時ものように座っていた。事情を話すと『何でそんな所に行きたいの??』とかなり不思議そう。しかも彼女自身中英街に行ったことがあると言う。中英街はどんな所?李さんの説明。『沙頭角のイミグレ近くにある国境線の道。村の前に大きな門があり、住民と許可された人だけが入れる場所。確か毎月許可される人数が決まっている。昔は中国人が買い物に行く場所。買うものは外国製の日用品、例えばアメリカ製のシャンプーとか。観光で行く人がいるとはねえ』

そうか、ここは国境線で真空地帯。免税品がある。以前は大陸から香港に旅行することは大変であった為、ここで香港の物、つまりは外国製品を買うことに価値があったのだ。しかし香港への個人旅行が解禁された現在、その意味合いは薄れている。だから李さんは『観光で行く人がいるとはねえ』となるのである。

李さんはご主人に電話して確認してくれる。ご主人の情報。『外国人には開放されていない。当面開放される予定はないらしい。中国人は旅行社に申し込むとツアーに参加できる。香港人でも中国側から入るのは無理』道は閉ざされる。

 

しかし下川さんは諦めない。『門の前には行けるんですよね?兎に角そこへ行きたい。どうやったら行けますか?』李さんもお手上げで、ご主人が沙頭角から来ることになる。

(4) 昼食

この時点で既に12時になっている。こんなことで良いのだろうか?ご主人が来るまでに先ずは腹ごしらえとなる。時間が無いので隣の泮(はん)渓酒家へ。この店、1947年に開店した広州3大酒家の1つで由緒ある広東レストランの支店。手頃な値段で点心が楽しめる。注文はK隊長に任せて、漸く今回の取材目的を聞く。『現在好評連載中の週末アジア旅行の企画。以前はグアム、サイパンであったが、アジアも金曜日の夜または土曜日の朝日本を発って月曜日の朝までに帰国する旅行が可能な時代。基本は夜行便でシンガポール経由東南アジアだが、香港も外せないところ。』

『韓国は羽田―キンポ間に定期便があり、もっと行くかと思ったがそれ程でもない。実は今の日本の20代、特に男性には頭を痛めている。彼らの旅行は女性化している。これまでの若者は目的地に着くまでの旅の苦労を楽しんだが、彼らは違う。飛行機で目的地のホテルに入り、テレビをつけてからガイドブックを開き、何処か美味しいレストランは無いかと探す。』S隊員も続く。『日本の旅行社で働いていた時、若手のサラリーマン(男女とも)から、休みがあるので何処かへ行きたいが良いところは無いか、と良く聞かれた。特に行きたいところはないのだ。こちらがどこかを勧めると、良いとも悪いとも言わない。じゃあ、意見が無いかと思うと結構煩い。本当に困った』

うーん、これは旅行雑誌に記事を書く人には大変な世の中である。下川さんによれば、最近の若者旅行のヒット商品は何と『四国のお遍路さん』だそうだ。(私の歴史散歩のこの形のような気がするが??)話はミャンマーに飛ぶ。下川さんは何度も行っているという。『政治がもう少し良ければ、もっと良い国なんだけどなあ。』と総括。『チャイトンは綺麗な街だった。タイ側からジープで8時間掛かったけど。インパール付近はなかなか入れない。ヤンゴンでは最近川向こうに行ったよ。』ふーん、そうか。今度タイ側からチャイトンに行こう。チャイトンはシャン州の美しい街と書いてあったし。

香港から2泊3日でお勧めの場所は。『ラオスの古都ルアン・パバーン。世界遺産にも登録された美しい街並み。上手く行けばバンコック経由でその日の内に行けるよ。ビザは空港で』是非行って見たい。老後住むなら何処。『本当はバンコックだろうけど、既にしがらみが多過ぎてどうも。現在(奥さんと)相談中』やっぱりバンコックか。

(5) そして沙頭角へ

茶葉世界に戻ると李さんのご主人が来てくれていた。何と税関職員の制服のまま、ご飯を食べていた。我々の為に急いで来てくれたのだ。感謝。

再度ご主人に確認するが、『中英街に入るのは無理。門の前には行けるが何も無い。バスで行けるが、時間が掛かる。中英街は門の外から見ることは出来ない。もしかしたら盤山の山道からなら少しは見えるかもしれない。そこに行くには車をチャーターするのが良い。』と言って、早々車の手配をしてくれる。やあ、茶葉世界人脈が生きた。突然車を頼んだこともあり、なかなか来ない。そういえば、朝シャングリラホテルの横を通った時にホテルの前の道が掘り返されているのにビックリ。しかも特に柵も無く、人々がそこを歩いている。道は閉鎖されているが。そうだ、道の閉鎖により車が入れないのか。

李さんは飽きずにお茶を入れてくれる。皆が潮州の鳳凰山に興味を持ち、質問する。カメラマンの阿部さんはお茶が美味しいと言って、古単叢などを買い込んでいる。漸く車が来たのは2時前。少しボロのバン。タクシーでは5人乗れないので、特別にアレンジしてくれていた。ご主人は車の所まで送ってくれる。値段交渉もしてくれる。1時間、100元。

沙頭角はシンセンの東、車で30分。車は直ぐに国境沿いを走る。阿部さんは何も言わずに助手席に乗っている。国境のフェンスを撮り、香港側の山を撮り、道路の表示に『沙頭角』『中英街』とあるのを何とか撮ろうとする。途中トンネルを通るのであるが、そこの脇に新しい道が出来ている。盤山に登る道である。この盤山公道は正に国境線に沿っている。山の間に歩哨の物見櫓があったりする。全くはじめて見る光景である。向こうの山もこちら側にもフェンスがある。間は中立地帯である。

山を越え下りに入るところで車を停める。ここにも物見櫓があり、立ち入り禁止とある。ここからは沙頭角の街が一望出来る。しかしこの街の何処に中英街があるのか?下川さんと阿部さんは流石に仕事である。懸命に探す。ある程度見た後取り敢えず下に降りることにする。

(6) 中英街

下に降りる所にそこだけ時代が違う建物が並ぶ一角があった。近代的な建物の裏側に取り残された場所。どう見ても客家の家に見えるのだが。沙頭角には歴史的に客家が多く移民したという。時間の関係もあり車を降りてみることは無かったが、今度機会があれば是非行って見たい。

沙頭角のイミグレの前を通過する。何処まで行くのだろうか?と思っていると、何と直ぐ近くに『沙頭角』と大きく書かれた門(というより城壁)が見える。周りには人だかりが出来ている。我々の想像した場所とはちょっと違う。

 

『中英街』は1898年に新界がイギリスに租借された折、建設される。当初は小川であったが後に埋め立てられる。全長250m、幅約4m。石碑には『光緒24年(1898年)、中英地界』と書かれているという。1928年に香港側の粉嶺から沙頭角までの道路が完成。中英街の発展に繋がった。戦後の中国大陸解放により香港政府は保安上の理由から一般市民の侵入を許可制として現在に至っている。尚最近香港の新聞には『中英街の秘密トンネル発見』と言った記事が載っているそうだ。それだけ必要性が失われた証拠か?

車を降りてその門に近づく。するとそこかしこから『入りたいなら、手続きするよ』との声。えっ、出来るの?しかしここは中国。疑ってかかるのが筋。1人のおばさんがさっと通行証なるものを差し出す。すかさず阿部さんが写真を撮ろうとするが、おばさんもサッと引っ込める。どう見ても怪しい。

その後何人かに聞いて分かったことは『外国人は手続きできない。香港IDカードでも無理。外国人旅行証があれば通行証が出ることになっているが、その例は聞いたことが無い。住民は皆通行証を持っている。』ということ。やはり無理なのか?念の為、運転手が門衛に質すが、答えは同じ。しかし下川さん、阿部さんは諦めない。じっと佇み、タバコを吸う。『あの建物の上はどうか?登れるのか?』と考えを巡らしている。うーん、凄い。

門の向こう側から両手にズタ袋を持って小走りに来る人が見える。と、門の所にその荷物だけ置いて立ち去る。すると門の外からやはり小走りに人が走り寄り、その荷物を持つと一目散に外へ走る。どうやら密輸のようであるが、中身は何か?

 

阿部さんはその後を着いて行く。直ぐ隣の古ぼけたビルに入り込む。表面的には土産を売っているが何となく怪しい。荷物持ちは奥の階上に消える。我々も少し登るがそこには怪しい人影が、監視するように下を見ている??もう一つのビルも登ったが、やはり中英街は見えなかった。反対側には高層マンションが建っていたが、ここは警備が厳しそう。門の横にあるイミグレ?を見に行くが、許可書を持った中国人が手続きしているだけで、外国人の姿はない。万事休す。

最終的には中英街をこの目で見ることは諦める。そして空母ミンクスの記念館に行くが、心はいまだ中英街。ミンクスを見ずに去る。塩田港を見に行く途中、『あの山の上の別荘辺りからは中英街が見えないか?』となる。

 

運転手も道が分からないながら、懸命に探してその別荘に登る。しかし別荘入り口で守衛に断られる。当然である。それでも途中の道路から眺めてみる。どうも角度が合わない。見えない。やはり先程の盤山の中腹から見るのが良いという事になり、戻る。再度見てみると地理が分かっているだけに、様子は良く分かる。ただし残念ながら、2つの高いマンションに邪魔されて、中英街の方向は見えない。これだけ努力したのは久しぶりである。下川、阿部両氏は最後の最後までファインダーを覗く。やはりプロである。その後地王大廈に寄り、展望台からシンセンを見つめる。

後で聞いた話では、翌日両氏は香港側からも中英街にトライした。勿論達成されなかったようだが。久しぶりに諦めない姿を見た。最近忘れていたことである。

 

 

香港歴史散歩2004(13)北角 

【香港ルート5北角】2004年10月3日

北角は香港島北東部に突き出た岬で開港前はかなり辺鄙な所であった。土地も痩せており農作物も取れない。開港初期は倉庫として使われていた。戦後国民党が内戦に敗れると多くの上海人がこの地区に移民し、『小上海』とも呼ばれていた。

(1) 油街政府宿舎

油街12号。クォリーベイのMTR駅を出て英皇道を渡り、電気道と油街の角に政府宿舎がある。(対面は麗東酒店)とても政府宿舎には見えないお洒落なレンガ造り。20世紀初頭にヨットクラブのクラブハウスとして使われた。その後1946年にクラブハウスが移転、政府はここに官舎と資材庫を建てた。

 

 

現在はかなり古くなっており、実際に使われているかは窺い知れないが、もしここが資材倉庫だけに使われているとしたら、かなりの無駄というほど立地は良い。この一角だけ時間が止まって見えるのは私だけであろうか?

(2) 北角発電所

1919年建造。当時湾仔に発電所があったが、電力不足となりここに発電所が建設される1941年12月に日本軍上陸で発電所は破壊され、一時供給はストップ。1968年に北角の人口増加により発電所は移転し、閉鎖された。

その後大規模な住宅開発が行われた。現在の城市花園である。城市花園から見て、発電所がかなりの規模のものであったことが想像される。

 

 

 

 

(3) 月園
月園街。城市花園から電気街を更に東に行き、電気街の東の境界線である北角街の手前を右に入るとそこは狭い路地。また奥は行き止まり。ここが月園街である。元々名大世界遊技場として英皇道に正門があり、中には電動遊技機、劇場、歌座、映画館などの総合娯楽場であったが、1950年に経営者が代わり、名前も月園遊楽場に改められる。しかし何故か僅か1年で閉鎖され、更地となる。

その後政府の住宅建設計画に乗り、この一帯に住居が建てられ、横丁は道も月園街と名付けられた。現在この地には古びたビルが立ち並び、入り口に1952年と書かれた所もある。突き当たりにはビルの入り口があり、入ると電気部品等を売る小さな店が数軒。その先には明るい出口があり、英皇道に繋がっていた。

 

 

(4) 北角砲台

保塁街。1880年に政府により大砲4門が置かれる。当時既に九龍はイギリスの植民地であったが、新界は未だに清朝の領土であったため、香港島の守備にあたった。しかし20世紀に入ると北角は発展していき、保塁は不要となり大砲も廃棄された。

その後住宅建設が行われ、住宅街となっているが、今日歩いてみるとこの道には茶芸館などもあり、意外に小奇麗な場所であった。20世紀初頭まではこの下の英皇道の先は海であったが、埋め立てが行われていき、今では海は全く望めない。

 

 

(5) 北角倉庫区

和富街。地下鉄北角駅で降り、糖水道を海に向かう。この辺りは1920年代に埋め立てられるまで海であった。和富街との交差点、古びた倉庫が見える。North Point Wharf Ltd.とかすれた横文字が壁に見える。

昔はこの一帯に倉庫が立ち並んでいたが、今では住宅街に変貌を遂げており、倉庫は1つしか見えない。70年代に倉庫街は九龍サイドに移転したという。住宅も開発して30年ほど経っているものもあり、かなり古くなっている。

 

 

 

(6) 四十間

春秧街。和富街を歩き、北角道を山側に戻るとトラムとぶつかる。ここはかなり伝統的な香港のにおいがする。春秧街、南洋の砂糖王、郭春秧がこの辺り一帯を買い取り、一列に並んだ建物を建てていた。元々この四十間という名は、さらに山側の琴行街あたりに建てられたのが始まりというが、今でも風情を残しているのは春秧街辺りである。通りの両側には肉や魚、乾物屋などが並ぶが、更に道にはみ出して多くの屋台が軒を連ねている。

 

上を見上げると、両側のビルはかなり古く、小さな窓から物干し竿が突き出ている。国慶節ということで五星紅旗を靡かせていたりする。昔の香港がそこにある。

(7) 賽西湖貯水塘

私は香港勤務が2回目であるが、1回目の時はここ賽西湖に5年ほど住んでいた。住んでいて一番問題になったのは湿気が異常に多いということ。理由は沼地を埋め立てたから、聞いていた。兎に角除湿機は半日以内に一杯なるなど湿気対策が重要であったことを良く覚えている。

ここは沼地ではなく、貯水池。1884年に英系のスワイヤーが付近の工場に水を供給する為、独自に作ったもので、その美しい風景が中国杭州の西湖を連想させ、賽西湖と名付けられたと言う。

1970年代後半に埋め立てられ、初期の大規模住宅開発が行われた。現在25階建ての住宅が25棟建っており、その敷地内が広いことでは香港島内で他に例を見ない。小さな子供を遊ばせる所が少ない香港では実に貴重なマンションであった。環境が良いことから付近には学校が多く、日本人中学校も少し上にある。現在中学生の長男は昔を懐かしんで時折この辺りを散策しているようだ。

 

 

香港歴史散歩2004(12)上環2

【香港ルート13上環】2004年9月29日

(1) 中環消防総局跡と中環街市

中環消防総局跡は1926年建造。当時は水車館と呼ばれていた。1982年に移転し、ビルは取り壊される。現在の恒生銀行本店ビルのある場所である。100年前の香港は火事が多かったのだろうか?今は昔を偲ぶものは何一つ無い。

恒生銀行と言えば、地下鉄の各駅に小さな支店があり、両替のレートも良いことから便利な銀行とのイメージが強い。その銀行本店ビルが予想以上に立派なのに驚く。

一方道の反対側には中環街市跡がある。1938年建造。中環街市自体は1842年(南京条約で香港がイギリスに割譲された年)に早くも華人が集まり、市場を開いていたが、1895年に政府が街市を建設。手狭になり現在の場所に建造。つい最近まで使われていたが、現在は閉鎖され小物を売る店が並んでいる。

建物は3階建て。3階には広い通路があり、今ではそのままミッドレベルのエスカレーターに繋がる便利な場所となっている。但しあまり魅力的とは言えない店が多く、勿体無いという印象。

 

 

 

(2)石板街

皇后大道と荷李活道を結ぶ急な坂道、石板街。日頃の運動不足から息が上がる。この狭い坂、石畳で何となく良い。両側には昔ながらの屋台が並ぶ。特に裁縫道具を売る店が多いのは何故であろうか?

この道の本名はポッティンジャーストリート。1858年に香港初代総督の名前が付けられている。何故であろうか?何か由緒正しい謂れでもあるのだろうか?華人の間では石ころが多いので石板街と呼んでいた。

 

 

 

(3)道済堂跡

荷李活道59号。1888年に華人キリスト教徒により建造。1890年前後に香港で医学を学んでいた孫文はよくこの教会のミサに参加していたという。1922年に教会が手狭になった為、般咸道と西摩道の交差点に中華基督合一堂という名の新しい教会が建造された。(現在合一堂の正門に『道済会堂』と書かれた門の額がはめ込まれていると言うが、未確認)

(4)雅麗氏医院と付属香港西医書院跡

荷李活道81号。1887年建造。何啓はイギリス留学を終えて1885年に帰国、西洋式に医院の設立を思い立ち、ロンドン伝道会と共に雅麗医院を設立。雅麗氏とは彼の亡妻Aliceの名前から取る。

同時に香港西医書院を併設。広州より移って来た孫文は第一期生32人の一人で1892年に優秀な成績で卒業。

 

1913年に西医書院は香港大学医学部に合併され、1915年に閉鎖。雅麗氏医院は1893年に般咸道2号に移転、那打素医院と改名(現在は移転し跡地はマンションになっている)。旧医院は売却され、現在は1階に骨董屋が入居する荷李活道に良く見られるビルとなっている。

(5)輔仁文社跡、楊衛雲烈士殉死の地、楊耀記跡

結志街百子里1号。結志街という如何にも革命に深く関わっている名前の道。その中のほんの小さな入り口に歴史を感じさせる『百子里』の文字が見える。ここの短い階段を登るとパッと前が開ける。今は小さな公園になっており、その前に輔仁文社跡という看板が立っている。

輔仁文社は1892年に楊衛雲と謝鑚泰により創設。革命を目指す2人は民の啓蒙を目的に同社を興し、メンバーを募ってここで集会を開いていた。1895年に孫文が興中会を設立すると社員数人がこれに参加。正に革命への道を進む拠点となった場所である。

尚この百子里は非常に狭い場所であるが、如何にも路地裏といった印象。革命は路地裏から。

 更に結志街と鴨巴旬街の角に楊衛雲烈士殉死の地がある。楊衛雲は輔仁文社を設立後、興中会に参加。結志街52号2階に道場を開き、志を同じくする同志を集めていた。清朝密偵に情報が入り、刺客陳林が1900年11月に楊を道場内で刺殺。楊は福建省漳州の出身。義侠心に富んだ人物と言われている。

 

 

結志街から鴨巴旬街に入り、少し下ると歌賦街がある。ここの8号が元楊記である。楊記とは楊鶴齢の店。こちらの楊氏は孫文の幼馴染。陳少白、尤列を加えた4人がここで清朝打倒の密談をしていた場所が楊記。

革命後楊氏はオーストラリアに移民。店は売却され、ビルとなる。現在1階の店舗は空き家で『租』という文字が空しく掛けられている。

 

 尚この通りには牛肉麺で有名な九記がある。

 

 

 

 

 

(6)中央書院跡と皇仁書院跡
歌賦街44号、楊記の前から九記を過ぎて道の曲がり角。1862年建造の西洋式教育の学校。1884年には孫文が入学。1889年に荷李活道と鴨巴旬街の交差点に移転(歌賦街の跡地は女学校となり、戦後官立小学校となり、現在も小学校がある。)。1941年の日本軍香港侵攻で学校は破壊され、戦後1950年に現在のビクトリアパーク前に再建される(跡地は警察官宿舎として今も使われている。但しかなりボロボロで人が住んでいるのかどうか?)。1984年に皇仁書院と改名。

(7)香港興中会総部跡

中環士丹頓街15号。所謂Sohoの中。エレベーターの直ぐ脇。1895年孫文等はここに興中会を設立し、清朝打倒を目指す革命組織の本部とした。表向きの名前は乾亨行として、世間を欺いたが、同年秋に清朝警察の探りが入り撤退。

現在の跡地は特に使われる様子もなく、2階以上に住人がいると思われるのみ。窓が昔風なので建て替えられていないのでは?

しかし歴史的に有名な孫文の興中会がこんな身近なところで設立されていたとは。そして孫文にとってここ香港は勉学に励み、洗礼を行い、革命に燃えた実に重要な場所であったのである。

 

(8)海事処総部大楼跡
干諾道中と林士街の交差点。1906年建造時にはここから北側は海。ビクトリア港の状況を把握するのに最適としてここに設けられた。しかしその後埋め立てが進み、場所的に内陸になった為、取り壊しとなる。

現在は維徳広場として商業ビルとなっている。上環MTR駅の真上という利点もあり、多くの企業が入居、改修工事も進んでいる。

 

 

香港歴史散歩2004(11)上環

【香港ルート13上環】2004年9月26日

(1)西港城(ウエスタンマーケット)

1906年建造。旧上環街市の一部。街市は1988年に閉鎖されたが、翌年ショッピングセンターに改築。赤レンガの3階建て。横をトラムがゆっくり通るなど非常に良い雰囲気で建っている。1階は時計、玩具などの土産物屋。両サイドの入り口は天井が高く、歴史的建物の雰囲気を出している。2階は布、生地屋が所狭しと商品を並べており、3階はレストラン。観光地らしく綺麗に補修されている。

3階の上の天井にはステンドグラスがあり、西洋色を出している。但しレストランが良い味を出しているかどうかは試していない。山側の出口にはトラムの駅があり、一部はここが終点。駅舎の復元と思われる建物が、これも雰囲気一杯に建っている。赤い郵便ポストもある。うーん、オールドホンコン。

(2)上環街市南座跡

皇后大道中345号。西港城から細い道を真っ直ぐ北側に歩くと、上環市政ビルが目に入る。下には街市もあるようだ。ここは1858年に街市が建てられた場所。中国からの移民が商人となり、次々に店を開いていった。1906年には手狭になった為北側に新しいビルを増築、北座と呼ばれたことから昔からのビルは南座と呼ばれる。

1900年前後のこの地はどんなだっただろうか?活気に満ち溢れていたのではないか?福建から、潮州から、一攫千金を目指した人々がこの街市に集まったのだろうか?この街市は1980年代に取り壊されるまで現役として使用された。

(3)文咸街と南北行公所

1857年に三代総督Bonhamにより上環の埋め立てが始まる。1860年頃に完成したこの埋め立てで上環一帯は人口が急増することになる。文咸街とはこのBonhamに因んで付けられた。香港は中国大陸と東南アジアの中継基地。ここを拠点にマレーシア、インドネシア、タイなどに渡って行く者もいる。そして自らの故郷と自らの同胞を結んだ貿易が始まる。この仲介者を南北行と呼ぶ。

 

1868年には広東十三行に倣って、南北行公所が作られる。広東をはじめて福建、潮州、山東など出身の有力商人が代表を務める。1920年には同業者間の規則も定められ、自衛、消防などを行うようになる。文咸西街に公所が設けられたためこの通りを南北行街とも呼ぶが、1997年にビルが取り壊され、現在は新しいビル(文咸東街と西街の交差する近く)に移されている。

文咸街には所謂乾物屋、漢方薬屋などがひしめき合い、今では立派な店構えを連ねている。ここでの成功者の子孫が商いを行っているのだろう。茶を扱う店もある。

(4)高陛劇場跡

文咸西街を出ると徳輔道西。そして直ぐに高陛街に入る。この辺りはかなり落ち着いた裏通り。午後の日差しを浴びて老人が公園のベンチに腰掛けている姿が似合う。この人達にもきっと波乱の人生があったのだろうが。

道を和風里で曲がる。和風というと日本と関係があったのかとも思うが、恐らくは『柔らかな風』が吹く場所であったでは?緩やかな坂を上ると皇后道西にぶつかる。以前この角に高陛劇場があった。1890年に建造、当時としてはモダンな作りで1階は全て木製の長椅子、2階は中央が女性専用、両脇が立見席。その後何度も再建されるが、1937年に取り壊される。一体どんな劇が上演されていたのか?広東オペラか?

現在この交差点近くに高陛大廈というかなり古い建物がある。当時を偲ぶ唯一の建物である。因みに先日北角の新光劇院に行った時、偶然にも高陛劇団の名前を目にした。どの様な繋がりかは分からないが、劇団の名前に残っていることは何となく嬉しい。

(5)大笪地跡

高陛大廈の所を曲がると緩い登りがあり、左側に荷李活道公園がある。ここはアヘン戦争時の1841年にイギリス軍が香港に上陸、国旗掲揚の儀式を行い正式に香港占領を宣言した場所である。

そして軍営が築かれたがその後セントラルに移され、この場所では蚤の市が開かれるようになった。大笪地という。現在は公園となっており、老人がゆっくりと腰を落ち着けている。この公園は最近改修されたのか、他の公園と比べてきれいである。大樹もあり落ち着ける。中秋節の準備も整い、皆が集える席も用意されている。入り口付近では上環の古跡を復活させようという市民グループが集会を開く所であった。やはりここにも都市化の波が押し寄せ、古い町並みが消えていっている。この運動にどれだけの人が関心を持っているのであろうか?

(6)水坑口跡

開港前は大坑口(現在の水坑口街)。山から水が流れる河口であった。ここから北は全て海。蝦が良く取れたと言う。エビ漁の漁民が体を洗ったのが水坑口という名の由来。確かに今でもここから北へは河が蛇行したように下っている。1841年にイギリス軍が上陸した際、占領角と名付ける。現在の英語名『Possession Street』はここから来ている。

(7)荷李活道

1844年、ここを占領したイギリス軍は荷李活道を建設。上環から中環までを繋ぐ。道沿いには全て常緑樹の喬木と潅木の並木(Holly Wood)であった為、Hollywood Roadという名が付く。

現在では香港一の骨董屋街となっている。綺麗な店が多く軒を並べており、外国人が骨董を求めて歩く姿が見られる。90年代のようなバブル的な賑わいは無く、道には停滞したムードが流れているが、最近中国大陸から大量の骨董買付団が来ているとの話もある。

(8)香港島初の警察署

現在の荷李活道と差館上街の交差点に開設。開港初期に中国大陸からの移民が急増し、治安が悪化。政府は治安維持のため、軍の中から警察官を募集。主にインド兵が応募。彼らの宿舎はこの場所の直ぐ下にあったため、便利であったに違いない。

その後警察署はセントラルに移され、建物は取り壊される。現在はかなり古い住居が建っており、往時を偲ぶものは何も無い。

(9)東華医院

荷李活道公園の前に普仁街がある。少し登ると右側に東華医院がある。1872年建造。中には歴史を感じさせる建物がある。100周年記念のビルもある。歴代の総裁の写真が飾られたビルもある。6代総督マクドナルドは華人医院の設立が急務と見て、東華医院の設立を支持。何と当時禁止されていた賭博場を復活させ、そのライセンスを公開で売却。医院設立費用を当てた。(その後この政策は多くの非難を浴び、賭場は直ぐに閉鎖される)

東華とは広東華人の略である。現在東華三院と言われている東華、東華東院、広華(九龍)の3つの医院の中で最古。後述の広福義祠が1869年に解散させられた後、華人の医療を委ねられた。当時広東省から多くの移民がやって来たが、上環の衛生状況は決して良くは無かった。当初華人は西洋医学を受け入れず、貧困で死に直面した華人を収容。その後1896年には西洋人を雇い、西洋医学を開始。

東華医院は医療のみならず、災害時の救護などにも力を入れている。香港だけでなく、中国国内で大きな災害があった場合にも寄付などを行っている。また1932年の上海事変(日本軍が上海に侵攻した事件)の際には、香港に避難してきた1万6千人の人々の面倒を見ている。尚東華三院は香港で最も歴史のある慈善機構であり、ここの委員は所謂香港の名士で構成されている。

(10)広福義祠

太平山街に入る。因みに太平山街の由来は、開港当時治安の悪かったこの地が後に警察署が出来て太平(平和)になった所から来ている。目の前に『済公聖仏』と書かれた場所が見える。何だろう?2階建て、上には大きな渦巻き型の線香が沢山掛けられている。入り口は狭く、2階に上がる階段は一見さんを拒むようだ。

更には階段の所に『百姓廟』と書かれている。近所のおじいさん、おばあさんがお参りしているようだ。ここが私の探していた『広福義祠』であったのだが、全く分からなかった。それ程庶民的な場所である。

1856年建造。当時は貧者、病者、身寄りの無いものが死を待つ場所であったと言う。開港当初の香港には多くの移民がやってきたが、その多くは安い労働力を提供する出稼ぎ者であった。彼らは一度事故や病気になると資力が無い為、全くの無力となる。

1869年には死臭が充満していると言う住民の苦情により第6代総督マクドナルドの命令により解散。その後東華医院が作られ、医療、薬品の提供が行われた。『済公聖仏』とは現在の湾仔、合和中心が建てられる前にあった『蟠龍里済公活仏堂』が1980年代に移されたもの。今も地王菩薩と共に祭られている。

(11)水月堂と観音堂

広福義祠を過ぎ階段を登る。その途中左側に水月堂がある。1895年に太平山街に移転。廟は天后宮を祭っていたが、80年代に済公活仏堂の緩瑞伯殿が湾仔から移された。その後1997年に廟が取り壊され、現在はビルの1階にひっそりと残っている。

中には老人が二人、お茶を飲みながら話し込んでいる。とても中に入る雰囲気ではない。よそ者が入ることの出来ない、昔ながらの街なのである。

階段を登り切ると観音堂がある。水月堂と全く同じで1895年建造、1997年取り壊し。現在は建て替えられた建物の一階に観音大士が祭られている。入り口は狭く、中を覗き込もうとするとおじいさんが中から睨み返す。表で写真を撮ろうとしても、道の反対側におじさんが椅子に腰掛け、黙ってこちらを見ている。太平山街、ここは昔の香港そのものなのではないのか?

(12)卜公花園

太平山街の少し上。バスケットコートの横に卜公花園がある。人口が急増していた上環でも最も人口が密集していた場所。1894年(日清戦争の年)にペストが大流行。ここで多くの人々が亡くなった。政府はこの住宅密集地区の土地を買い取り、住民から鼠の死骸を買い取るなど浄化政策を行った。

1904年(日露戦争の年)にはペストも沈静化し、ここに公園が作られた。現在公園は大樹が光を遮り、老人達が木陰で昔話に花を咲かせている。丁度100周年を迎えた公園である。公園の名前は当時の香港総督Sir Henry Blakeに因んで付けられている。

(13)同盟会招待所跡

普賢街。孫文は革命の人である。1905年に中華同盟会を結成。しかし革命に相次いで失敗。多くの同士が香港に逃れる。逃れた同士を匿う場所としてここ上環に招待所が設けられた。当時上環は人口密集地帯、隠れるには絶好の地域であったろう。華人も多い。

近代中国建国の父、孫文はここ香港で教育を受け、洗礼を受け、革命を模索した。これ程深い繋がりがあるのに香港政府はこの歴史的な遺産を有効活用していないように思う。勿論返還前はイギリスの手前、難しかったのかもしれないが。

上環には孫文ゆかりの場所が多い。各ゆかりの場所には歴史古跡のプレートがあり、番号通り歩いて行くとこれだけで歴史散歩出来るようになっている。当日も親子連れが本を見ながら歩いている姿が見られた。中国大陸の観光客も買い物に飽きた後はこういった歴史に眼を向けてくれると良いのだが。

因みに孫文夫人の宋慶齢は1937年の上海陥落後香港に身を寄せる。1938年には『保衛中国同盟(保盟)』を結成。保盟は大量の献金を集め、寥承志(後に中日友好に貢献する)を経由して八路軍に資金が流れた。尚保盟に結成には上海の暗黒街の大ボスと言われた杜月笙なども援助しているのが面白い。39年には『中国工業合作協会』の国際委員会を設立。中国難民などのへの支援も行っている。

尚招待所跡と思われる建物の写真を撮ろうとしたところ、数人がカメラを持ち、若い女性を撮影していた。どうやらアマチュアの写真同好会がモデルを連れて撮影会をしている雰囲気であった。彼らはこの建物の歴史を知っているのだろうか?

(14)香港医学博物館

招待所跡の横にある階段を登ると洋風のレンガ造りの建物が見えてくる。香港医学博物館である。1906年に先程のBlake総督の建議により細菌研究所として建造される。庭には薬草が沢山植えられており、『病理研究所』として医学研究が行われた様子が分かる。

 西洋と中華の折衷洋式、重厚な造りの2階建て。入り口でHK$10を払い中へ。昔のべッド、診察台、など様々なものが飾られている。2階にはベランダもあり、午後の穏やかな日差しの中で実に気持ちが良い。こんな環境で病気治療が出来た人は幸せだっただろう。実際何人の香港人がその恩恵を受けたかは疑問であるが?地下にも歯科治療施設などがあり、実はかなり広い施設であることが分かる。又別館もあり庭も広い。本博物館は公営ではないため、資金難に陥っているとの話しもあるが、このような建物こそ是非とも香港政府が保護するべきである。

(15)上環更練館跡と香港中華基督教青年会

医学博物館から下ると直ぐに必列者士街にぶつかる。その角に元は上環更練館があった。開講当初は香港の治安が悪く警察も整備されていなかったので、華人団体や商人が自衛団を組織し治安維持を図っていた。20世紀に入ると警察が増強され、自衛団の役割は小さくなる。建物は取り壊されて現在は1階が印刷会社、上が住居になっていた。

上環更練館跡の道の向かいには香港中華基督教青年会(YMCA)がある。香港のYMCAはアメリカ人牧師によって1901年に開設。その後1918年に現在の場所に香港初の室内プール、室内運動場、宿舎、レストラン、大礼拝堂を完備した建物を建造。

1936年には香港初の集団結婚式(11組)が行われた。又1941年の日本軍侵攻では防空救護隊本部となり、住民の避難所となった。現在は5-6階建てであろうか?最上階から下を見ている若者数人が見える。今でも宿舎として使われているようだ。

尚このYMCAでは1927年に魯迅が講演を行ったとの記録がある。歴史的には革命家などが多く集った場所なのであろうか?

(16)文武廟

YMCAを少し下るとそこは荷李活道。角には上環の観光拠点、文武廟がある。文の神様、文昌帝(古代の神霊)と武の神様、関帝(三国志の関羽)が祀られている。以前は文武の神は別々に祀られていたが、明清以降広東省では二聖人を合祀するようになる。この文武廟も何時創建されたかは不明であるが、現在の建物は1847年建造。

開港当初イギリスから法治制度が導入されたが、華人、特に商人はこれを好まず、伝統的な神事による解決を文武廟に求める。即ち『黄色紙を燃やす』(黄色い紙に宣誓の言葉を書く)『雄鶏の首を切る』(もし疚しい事があればこの鳥のようになることを示す)などの神事が行われ、事件は解決して行く。又この地区の重要事項を協議する場としての役割も担っていた。1908年には政府の条例により東華三院の管理下に入る。

3つに分かれている建物に入ると線香のにおいが立ち込める。観光客も多いが地元の人々も常にお参りしている場所である。堂内には1847年に鋳造された銅鐘など歴史のある品々が納められている。横道の壁には『無料診断』の文字が見える。今でも昔のように貧しい人々の為に無料で医療行為を行っているのだろうか?

(17)キャットストリートと警察宿舎跡

この道の正式な英語名はLascar Rowである。Lascarはインド兵、Rowは日本的に言えば長屋であろうか。要するに英国の香港占領後、この場所にインド兵の宿舎が作られたと言うことである。(尚警察が整備される過程で多くのインド兵が警察官になっている。)その後1900年代初めには、現在で言う骨董屋街が出現したようだ。古本屋なども多かったが現在は無い。

では何故Cat Streetと言うのか?一説には多くの泥棒が『ねずみ銀貨』と言われる古銭を盗んではこの辺りの骨董屋に売り捌いており、そのねずみ銀貨を吸収していたところから、猫が連想されたようだ。確かに現在でも古銭が多く売られている。

2年ほど前、香港に赴任してきた時に、よくキャットストリートも歩いた。確かに『泥棒市』『がらくた市』といった風情だ。色々なものを売っている。でも、観光地化してしまったこの場所は、北京から来た私にはもう物足りないものだった。北京のがらくた市場には活気があった。大勢の人がいた。真剣な駆け引きがあった。これが興奮する要因だ。何となく楽しくなる要素だ。国は発展し過ぎると活気を失う。これは成熟とは違うのではないか?今の日本も同じだろう。

 

 

香港歴史散歩2004(10)湾仔

【香港ルート8湾仔】2004年9月25日

湾仔とは小さな湾という意味。元々皇后大道東の北側は湾であり、後に埋め立てられたもの。英国統治初期にはイギリス人も多く住み、政府は上環、中環に合わせてここ湾仔を下環と名付けた。その後中国人人口が増え、20世紀初めからの埋め立てで土地が広がり、繁栄を迎える。人口密集地区となる。

(1) 春園街

MTR湾仔駅を降りると海側に行くか山側に行くかで、情景が大いに異なる。海側はコンベンションセンター、グランドハイアットなど綺麗な建物が多く、道も広々としており、清潔。反対に山側はごちゃごちゃした狭い道が続く、という印象。駅の山側に春園街という道がある。典型的な狭い道。ところがこの一帯1850年頃はイギリス人の庭付き1戸建て住宅があり、第4代総督はここで暮らしていた。現在歩いてみても、1戸建て住宅があったとは考えられないほど、道は狭いのだが。

現在の春園街は小さなレストランと店が並ぶ、何の変哲も無い通り。丁度新しい店と古いままの店が交錯してはいるが。歩いて行くと服や野菜を売る屋台街にぶつかる。その名も加交街(Cross St)。更にそのまま真っ直ぐ行くと右側にごみ収集所。夕方6時頃にはくず屋が続々と集まってきてゴミを置いて行く。右に曲がり元の春園街に戻ると直ぐに巨大な建物、合和中心が見える。

 

 

尚春園街の由来は、庭付き住宅に噴水があったからだが、何かの勘違いでSpringが春と訳されたようだ。

(2) 洪聖古廟

埋め立てが行われる以前皇后大道東の目の前は海であった。1847年浜辺にあった大きな岩に寄り添うように建てられたのが、この洪聖古廟。その後1860年、67年の改築によって現在の姿となる。

中はかなり狭く、薄暗い。2階建てのようである。流石に古く、地元の人以外は中に入り辛い雰囲気。この古廟は地元の人に浸透しているようで、お年寄りを中心に前を通る人が手を合わせて行く。最近あまり見ない光景である。

現在は合和中心の横、商店がひしめく中にひっそり立っている。そこだけが異次元の空間、といった趣である。裏の崖に沿って昔ながらの林が広がるのが特徴。

 

(3) 蟠龍里済公活仏堂

現在の合和中心(ホープウエルセンター)は1980年代に建てられた。以前は蟠龍里済公活仏堂という名の堂があったというが、一体どんなものなのであろうか?済公の生き仏が安置されているのかと思ってしまう。

 

済公活仏堂はその後太平山街の広福義祠に移され、一方蟠龍里入り口の石額は太古広場のテラスに飾られていた。(その後両方とも探しに行ったが、広福義祠はやはり地元の人々の信仰を集めており、済公活仏堂はしっかりと根付いていた。一方太古広場は改装されて、テラスにあった歴史的な物は撤去されたと受付嬢に素気無く言われたが、広場と隣の政府庁舎の間に確かに飾られていた。恐らく気付く人は殆どいないほどひっそりと。)

(4) 旧湾仔郵便局分局

合和中心の前を東に進むと湾仔峡道との交差点に白っぽい小さな建物が見える。ちょっとお洒落なその建物が旧湾仔郵便局である。1912年に当初は警察署として建造。1915年から郵便局として使われる。

現在郵便局は隣のビルの2階に移転、建物は重要文化財として保護されている。一般にも開放されているが、当日は丁度閉まっており、見学は出来なかった。

 

(5) 華陀医院

石水渠街72号。湾仔峡道を登って行くと直ぐに小さな公園があり、老人が日向ぼっこをしている。狭い空間ではあるが、安らぎがある。隣の住居ではおじさんとおばさんがお互いのベランダから大声で話をしている。香港らしい風景である。

公園を抜けると石水渠街に出る。突然目の前に非常に歴史的な建物が目に入る。3階建て。右の1つは古びた石造りで1階の扉はかなり凝った観音扉。左は青く塗られた壁。この辺りでは異彩を放っている。

 

 

 

 

 旧華陀医院は左の青い壁の建物。以前は俗称華陀廟。現在は景星街との角に骨接ぎ等の医院が出来ており、『男授(男子を授かる)』の文字も見える。香港では今でも男の子が欲しいのであろうか?

 

 

 

(6) 下環更練館跡

石水渠街を登って行くと左側に聖雅各福群会ビルがある。1857年に政府は区画整理を行い、湾仔を下環と名付ける。西環、上環、中環はその後も使われているのに何故下環だけは使われなくなったのであろうか?

当時は治安が悪く警察も未整備であったため、各地で自警団が結成された。湾仔ではここに更練館が置かれたが、その後警察が整備された結果、20世紀に入り廃止された。(上環でも同様の更練館跡があった)

 

(7)北帝古廟

更に石水渠街を登り切ると、興隆街とぶつかった所に北帝古廟がある。1862年建造。しかし行ってみると、何と全面改装中で全くその姿が見えない。廟の正面には1604年に鋳造された銅像があるとされていたが、これも見えない。廟の外の門から中には入れないので、諦める。このような全面修繕が行われた後はどんな姿になるのであろうか?公開は来年になる。

(8)湾仔街市

皇后大道東に戻るとそこに街市がある。1937年建造。どこの街市の建物より立派に見える。丁度交差点にある見る角度が良いからだろうか?この建物はドイツのバウハウス方式。バウハウスとは1919年にワルターグロピウス(建築家)を校長として国立バウハウス ワイマールとして発足した学校のことで、そこから生まれた水平、垂直の直線的な構成を元に無装飾の平坦な壁面と連続するガラス面、陸屋根、白を基調とする淡白な色彩などの特色を示すものである。

 

現在も下の階に野菜、魚、上の階に肉の売り場がある。天井が高く、年代物の扇風機が回る、広い売り場は非常に清潔感のある市場である。また果物売り場は裏口から入る。遠くドイツの建築がいち早く香港に導入されたのはいかなる理由であろうか??

他の街市同様周辺には野菜、魚、肉などの屋台が道一杯に店を出している。お客は街市まで行かずにここで買い物をするようだ。賑わいが凄い。

10月3日(日)

(9)中華循道会礼拝堂
大仏口。正式名称は循道衛理連合教会。軒尼詩道と荘士敦道の交差点の三角形の土地に建てられていた。1932年建造。1998年に再建され、高層ビルとなっている。高層階はオフィスビルとなっているが、階下は今もメソジスト教会として使われている。

 

 

(10)大仏口

軒尼詩道と皇后大道東の交差点。日本占領時代に一軒の商店があり、表に三尊仏の絵が書かれていた。戦後は漢方薬屋に代わり、表には一尊仏が書かれていたという。今ではその漢方薬屋も無くなり、当時を偲ぶものは何も無いが、大仏口という名称だけが残っている。

 

 

現在この交差点には建物は無い。当日は日曜日であり、歩道橋の横にあるベンチには朝からフィリピンのアマさん達が座り込んで楽しそうにお話していた。

 

 

 

香港歴史散歩2004(9)土瓜湾

【九龍ルート15】2004年4月11日

イースター休暇の3日目、知人を訪ねてホンハムに行く。北角からフェリーに乗ろうとするとホンハム行きより早く九龍城行きが出るという。思わず九龍城に行く。フェリーで10分、この日は少し暑いが気持ちが良い風が吹いていた。ターミナルはホンハムより少し北、左程離れてはいなかった。地名は土瓜湾、海に浮かぶ海心島がさつまいもに形状が似ていたことから土瓜(さつまいも)湾と呼ばれたとも言われている。

(1) 土瓜湾ガス工場

フェリーターミナルを出て目の前のバス乗り場の向こうを見ると、円筒形の骨組みが見える。一瞬工事現場か、又は火事で焼けた建物跡かと思ったが、近づくとそこはガス工場であった。

中華ガス、現在独占的に香港でガスを供給するこの企業は、元は佐敦道にあったが、同地の環境問題もあり、当時拡張されつつあったカイタック空港の横に移された。1956年であった。勿論当時は周りに何も無い荒涼とした場所であったという。50年代にカイタックを写した写真を見ても、空港以外に建物は少なく、岩肌を露出した小山が実に寒々と写っている。

その後1960,70年代に土瓜湾は香港の工業地帯として大いに発展することになるが、その中心にこのガス会社があった。しかしこの工業地帯も80年代以降工場が中国へ移って行く中、徐々に寂れていき、カイタック空港が閉鎖されて以降は利便性を生かして大型住宅の建設が始まっている。

(2)馬頭角牛房

ガス工場の横に不思議な建物がある。かなり古風な作りであるが中が何になっているか良く分からない。1907年に建てられた赤レンガ造りの洒落た建物のように見えるが、実はここは元屠殺場。以前はホンハムにあったが、九広鉄道建設の為にここに移された。

牛房とは屠殺される前の牛を一時的に入れておく小屋のことであるが、牛房と聞くとどうしても文化大革命を思い出す。文革中牛房(棚)と言えば、下放(都市から地方に知識人を移すること)された知識人が田舎で入れられた小屋を指すものである。

下放された作家などが作品の中で牛房のことを書いているのを読んだことがある。それは狭く汚い場所で、小さな窓から顔を出すところが牛そのものであると書かれていた。しかも農村での生活は過酷で、牛の代わりに鋤や鍬を引かされ、その悪夢は都市に戻ってからも決して消えないという。

 

香港の牛房は99年に閉鎖され、現在は芸術村?として、再生しようとしているようだ。確かに建物はお洒落だが、果たして上手く行くのだろうか?現在は所々にギャラリーやショップが作られ、一部工房として使っている所もある。正に文化大革命?であろうか?

尚牛房の前の道は細く縦に数本伸びており、殆どが自動車整備などの町工場となっている。工場の上は住宅と成っており、今でも洗濯物を竿一杯に伸ばして乾している光景が昔を偲ばせる。極めて香港らしい風景を残している場所として印象深い。

(3)北帝廟

牛房から少し歩いて行くとカイタック空港跡地に出る。宋代末に2人の皇帝により廟が建てられたと言われている。1756年に廟がこの場所に建てられ、乾隆帝の銅鐘も奉じられた。(現在はランタオ島の観音殿に納められている。)中華の中央から見ると香港はどのように映っていたのだろうか?

 

廟は日本占領時に取り壊されて、現在は北帝街という道の名前のみが残っている。カイタックが無くなった今日、この道沿いも新しい高層住宅の建設が進んでおり、昔の面影はどんどん消えて行くようだ。

(4)天后古廟

九龍城道を10分ほど歩き、落山道を少し入るとそこにひっそりと天后古廟が建っている。元々廟は土瓜湾の海心島が見られる場所にあったが、60年代の埋め立てで現在の位置に引っ込むことになった。1885年に修復が行われたとあるから建造はかなり古い。

賑やかな道の脇に建っているが中は意外と広い。天后廟と並んで龍母廟も建っている。これも元は海心廟にあったものを移設している。香港は60年代の埋め立て工事で多くの廟を移動させている。墓は何があっても動かさない中国人であるが、廟は問題ないのであろうか?

(5)海心廟

北角からフェリーに乗って九龍城ターミナルに着く直前、海から突き出したような岩が見える。それが海心公園内の魚尾石である。何やら本当に魚のように見える。近づいて見ると意外と高さがある。上に上ることは禁止されているようだ。又海に突き出した形で海心亭がある。ここに座ると海風が涼しく、おじいさんがのんびり座って海を眺めていたのが、印象的。

昔ここが埋め立てられる前、この部分は島として陸から離れていた為、観光客はボートで島に渡っていたという。埋め立てられたのは1964年である。

現在龍母廟は先程の天后廟内に移され、この場所はジョッキークラブにより綺麗な公園として市民の憩いの場となっている。当日は連休中であり、天気も程好いことから多くの家族連れで賑わっていた。

 

ここ土瓜湾に来て見て分かったことは、埋め立てにより香港は多くの陸地を確保したが、その分多くの何かを失ったということだ。そして特に利用もされていないカイタック空港跡がこの場所の地盤沈下を象徴している。

香港歴史散歩2004(8)油麻地

【九龍ルート2】2004年5月8日

(1) 油麻地揚水小屋

窩打老道と上海街の角に1895年に建てられたポンプステーション。通称『赤煉瓦小屋』。当初は香港政府が油麻地住民に飲料水を供給していたが、1920年以降は改築され郵便局として使われたという。何故郵便局かというとこの近くには手紙の代筆をする代書屋が多かったので、郵便局の存在が便利であったようだ。

1967年に郵便局が移転、その後再開発で取り壊される予定であったが、何とか残された。2000年には香港初の揚水ポンプステーションであったという理由で、辛うじて保存の対象となった。

今回行ってみて驚いた。赤煉瓦小屋のあるはずの場所には、何と高層マンションが建設中であった。新鴻基が開発し『窩打老道8号』という名前で売り出し中である。何しろMTR油麻地の駅前で地の利は抜群。

香港ではやはり開発優先で大企業の力があれば歴史的な建造物も簡単に買い取れるのだな、などと考えていると、実は建設中の建物の背後に赤い建物が竹の柵に囲われて見える。どうやら企業は建物の保護を条件にこの場所の開発許可を得ているようだ。このマンションが出来た時にどんな姿で再登場するのだろうか?楽しみである。

(2) 油麻地劇場
赤煉瓦小屋の直ぐ横にかなり古い建物がある。1925年に建造された映画館の跡である。九龍地区で戦前に建てられた映画館で残っている数少ないものの1つである。1998年に閉鎖されて今は保存もあまりされておらず、残念ながら朽ち果てて行く感じである。保存されることが望まれる。

 

 

建物には上映時間などの文字が今も掲げられており、往時を偲ばせる。中に入ることは出来ないが、香港の伝統的な映画館の造りとなっているとのこと。一体ここでどんな映画が上映されたのだろうか?そしてどんな人々が映画を見たのだろうか?

(3) 油麻地果欄

油麻地劇場の更に海寄りに果物の卸売り市場、油麻地果欄がある。1913年の建造。新填地街より西側は1885年の埋め立てまでは海であったから、その後程なく建造されたことになる。最盛期300軒の野菜、果物の卸し商が軒を連ね、九龍地区の供給を殆ど賄っていたが、現在は市場が長沙湾に移転、ここは歴史的建造物になろうとしている。

 

建物の各店の上には『XX商』『XX記』などと屋号が刻まれている。実に古めかしく、歴史を感じさせる。午後ということもあり、殆どの店が鉄格子を下ろし、ひっそりしている。

しかし当日は道の反対側にまでスイカの箱が並び、未だに数十軒の店が存在しているのを見て、歴史的建造物には未だ早いと思うようになった。私が写真を撮っていると、午後店を閉めて寛いでいる店員が怪訝そうな顔でこちらを見る。その顔には『ここは生活の場で観光名所じゃあねえよ』と言っているように見え、早々に退散した。古き良き油麻地である。

 

(4) 東華三院文物館
窩打老道を行くと、広々とした広華医院が左に見える。右側は高台となり、学校や教会が見える閑静な場所に見える。病院内に入ると受付付近は物々しい警戒状況にあり、直ぐに体温を測られる。更にマスクが渡され、つける様に指示される。久しぶりに昨年のSARSを思い出す。現在も警戒注意報発令中のようである。

 

病院の敷地内ほぼ中央に東華三院文物館がある。そこにはこの病院の歴史が刻まれている。東華三院の歴史は1851年、香港が英国領となって直ぐに香港島に広福義祠が建てられたことに始まる。元々は先祖の霊を慰める場所であったが、その後祠には老人、病人、難民が身を寄せ、環境劣悪となったことから、1872年に政府の援助により華人の為に上環に東華医院が建造された。

 

尚香港の人口は1840年代には僅か5,000人であったが、1870年代には10万人を越え、急激に増加していったことが、病院の必要性を高めた。東華医院は当初華人救済の意味合いもあり医療費が無料であった。その財源は上環の文武廟の資産から上がる収益で賄われていた。

1911年には九龍側に病院を設立する必要から、広華医院が建造された。当時の写真を見るとかなり立派な建物が建っている。先の東華医院と1929年に建造された東華東院を合わせて東華三院と呼ばれる。

文物館は1971年に建造され、東華三院の歴史が展示されている。ロビー中央には漢方薬の始祖と言われる農氏の位牌が飾られている。殆ど訪れる人がいないこの文物館ではあるが、何か重要な場所のような気がしてならない。

 

 尚現在東華三院は香港最大の慈善団体であり、多くの廟の管理を行うなど香港の顔と言える存在である。

 

 

 

香港歴史散歩2004(7)ケネディタウン

【香港ルート17】2004年5月30日

朝起きると晴れていた。何となく散歩に出るとバスに乗って海に行きたくなる。レパルスベイ行きバスを待つがなかなか来ない。そこへケネディタウン行きバスが来たのでつい乗ってしまう。このバス(No.10)は北角からケネディタウンまで僅かHK$3.4で行ける。もしかすると香港のクーラー付きバスとしては最も安いのでは?

(1) 東華痘局アーチ型門と奠基石

天后から約50分、ケネディタウンのバスターミナルに到着。そこは招商局の倉庫などがある海辺である。そのターミナルの端っこに東華痘局アーチ型門と奠基石がある。小さな、小さな公園のようになっているその場所は公衆トイレに訪れる人でも滅多に見ないのでないかと言うほどひっそりしている。

ここは香港島の西の外れ、19世紀末にケネディ総督によって開拓が進めたれたことからその名が付いた。島の外れと言うことで屠殺場やゴミ捨て場として使われた。伝染病病院の建設もそんな関係で1910年に落成したのだろう。(政府の病院となったのは1938年)

しかし日本の占領時代に取り壊され、その後再建されることは無く、今ではアーチ型の門と定礎石が残っているのみ。そのアーチの形が何故か非常に物悲しい。想像するに昔は伝染病の流行が良くあり、多くの人が亡くなった。その名残だろうか?

(2) ビクトリア市境界石

バスターミナルから数百メートル西へ行くと、青少年がサッカーなどに興じているグランドが目に入る。グランドの向こう側には海が見える。ここから見る海は非常に青い。小さな島が2つ、くっきり見える。釣りをしている人々もいる。何と海パン姿で海に入っている老人までいる。

 

公園内を歩き回るが、お目当ての境界石は見当たらない。そんなに広くないのに。グランドでサッカーの試合をする子供を応援する母親がベンチに座っている。その昔子供の頃少年野球をしていた頃、母親が見に来ると嬉しかったのを思い出す。その後ろを通ると何とそこに小さな石がある。そこには『City Boundary 1903』とのみ書かれている。実にシンプル。100年前にはビクトリア市と言う呼び名があり、ここが境界線だった。ということはここから西は市外地。番外地と言ったイメージか?

(3) 摩星嶺要塞

ガイドブックによれば、境界石を見た後はそこからタクシーに乗れとある。これは珍しい。普通は歴史散歩であるから歩きなのである。次の場所は当然交通機関が無く、又かなり険しい登りの様だ。

 

タクシーは細い小道を上がって行く。右側に時折、海が見える。眺めは良い。歩いている人は殆どいない。10分ほど行くとタクシーが停まる。左側にユースホステルがある。若者が何人かいる。

更にそこから急な階段を登りきると右側に砲台跡と思われる場所に出る。ほぼ破壊されており、瓦礫が残っていると言った感じ。そこから左手に公園を見て歩いて行くと、その先には兵舎、貯蔵庫等の建物が今も残っている。こんな所にと思うが、この山は1912年に要塞が建てられた軍事上の重要拠点。

1941年の日本軍上陸に際しては、この拠点は最大の攻撃目標とされ、イギリス軍は撤退の折に自ら要塞を破壊したと言う。その後再建されることは無く、現在は荒れ放題。周りには草が茫々に生えており、何となく芭蕉の『夏草やつわものどもが夢の跡』と言う句を思い出す。

近くには通信会社の無線塔が建てられており、丁度修理が行われていた。やはりこの場所は重要なのだろう。

(4) 域多利道奠基石

山道を歩いて降りる。暑いが山道は気持ちが良い。最近は強盗事件もあり、一人で山道を歩くのは危険であると言われるが、流石に日曜日の午前中、しかも車も通る道ではそんな気配はまるで無い。

所々に砲台や兵舎(見張り小屋?)の跡と見られる残骸がある。その横に綺麗な休憩場所があったりして面白い。要は見晴らしが良い場所は軍事上も価値があると言うことだ。

 

降りきって域多利道に出る。数十メートル戻ると摩星嶺道との交差点がある。そこに奠基石がある。1897年に域多利道の建設記念として起点に置かれたものを1977年に現在の場所に移転した。1897年、1977年共に地下にタイムカプセルが埋められたという。タイムカプセルと言えば、先日世界1周の途中でお会いしたTさんが『世界1周の動機は16年前タイムカプセルに入れた自分への手紙』と言っていたのを思い出してしまう。この下にはどんなものが入っているのだろう?

(5) 銀禧砲台跡

1938年に建造された砲台。当時は3つ砲座と地下室の弾薬庫があったが、1941年の日本軍上陸の際、イギリス軍は砲台施設を破壊して撤退。その後再建されることは無かった。

その残骸は域多利道から下に降りるとある。殆どそれとは分からない。更に下に行くと海に出る。見晴らしの良い場所である。岩に立って釣りをしている人が居る。

(6) 海辺の廃村

砲台傍の海辺には1951年に大陸から貧しい移民が押し寄せ小屋を建てて住み始めた。大陸で共産党が政権を握ったことと関係があるのだろう。

しかし1983年の台風で村はほぼ全壊。翌年には村は全て撤去され、住民は別の場所に移り住んだと言う。香港でしかもこんなに近い過去にこのようなことがあったとは信じ難い。今村があったと思われる場所は立ち入りが出来ないようだ。

因みに砲台の直ぐ近くに古びた建物があった。『Oriental Hotel』と看板があったが、既に廃業しており、その土地は政府に差し押さえられているようであった。この海辺のホテルは何となく趣があったのではないかと思うが、どうだろう?

廃村の横に立つ廃業ホテル。ここが香港だとは思えない。

香港歴史散歩2004(6)太子2

【九龍ルート8】2004年4月18日

1.雷生春楼

MTR太子駅で降りる。茘枝角道を歩いて行くと三叉路にやけに目立つ如何にも古い建物がある。それが雷生春楼である。何だか異様な3階建てである。1934年建造というから今年で70年。現在は廃屋となっている。

この建物は九龍バスの創業者の一人雷亮の持ち物で職場と住居を兼ねていた。更に一族の一人が整骨医としてここで開業しており、その名前『雷生春』が建物の上に書かれている。香港の昔の金持ちが如何に力があったかを思わせる大きな建物である。

この建物は80年頃から荒廃していたが、近年重要文化財に指定され、管理されている。九龍バス博物館を設立するとの話もあるようだが、訪ねた時点では特に何かがされている様子は無かった。

しかしこの建物は三叉路の角にあることもあり、この街の象徴的な建物に見える。太子は以前モンコックの繁栄に合わせて、栄えていたようだが、今は古い住居のみで活気は無い。

2.洪聖殿

ひっそりとした太子の街を歩いて行くと、これまた本当にひっそりと洪聖殿が建っている。言われなければ通り過ぎてしまうほど。元々は深水歩にあったが、1928年の拡張工事で現在の場所、福全街に移された。大きな樹木が後ろの建物を覆いつくさんばかりである。建物自体は比較的新しく再建された様子が分かる。

祀られているのは、南海神洪聖広利大王。一体どんな人物なのだろうか?何処の廟でもそうだが、中は薄暗く安置された像を覗き込むが良く見えない。おまけにここは管理がしっかりしており、管理者が何者だ、という感じで私を覗き込む。すごすご退散する。

これらの古い廟に関心を持つ香港人は殆どおらず、勿論観光地でもない。昔からの信者か近所の老人が通うのみであるから、所謂よそ者に対する警戒心は強い。福全街を歩き、更にモンコック道から上海街へ出ると先程までの静けさが嘘のような喧騒に襲われる。ごみごみした土曜日の午後、何時もの香港がそこにある。

 

香港歴史散歩2004(5)大杭

【香港ルート6】2004年3月6日
今週は週の半ばに寒の戻りがあったが、本日は非常に暖かい良い天気であった。次男が銅鑼湾に行くというので、一緒に家の近所を散策した。

(1) 天后古廟

家の前の英皇道を渡り、少し道を登ると直ぐに天后古廟がある。建築年代は定かではないが、1800年代と思われる。香港には40程の天后廟があると言われているがその1つ。

清朝初期にここに兵営が置かれていたとの話がある。兵士は自らの安全を祈願して廟の横に兵営を建てることを好んだという。天后廟道を登った山は当時『紅香炉山』と呼ばれ軍事上の拠点であった。香炉がある日海から引き上げられ、それが天后から送られたものとして祀られたと考えられている。

 

入り口には天后古廟公園と書かれているが、猫の額ほどの公園である。元は個人が建立し毎日草取りをしていたと言う。廟は一段高い一枚岩の上に建てられているが、今は丁度改修工事中で中に入ることは出来なかった。廟の前に臨時に祭壇が設置され、人々は相変わらず熱心に祈りを捧げている。

 

 

廟は本来海に面して建てられていたはずであるが、ここもご多分に漏れず、埋め立てが進み、現在では海を眺めることは出来ない。

(2)皇仁書院
家の斜め前には皇仁書院と呼ばれる高校がある。1950年に香港総督により現在の場所に移されたと記念碑に刻まれている。この学校は何時出来たのであろうか?兎に角名門であることは間違いない。

この学校を調べると何と創立は1818年、場所はマレーシアのマラッカであった。イギリス人モリソンが中国と西洋の文化交流のため、そして何よりキリスト教布教のため、英華書院という名の学校が建てられた。因みにモリソンは中国でのプロテスタント伝道の開拓者で、1807年にマカオに渡り、漢英辞典や漢訳聖書の作成を行った人である。その後1843年に香港に移され、中央書院と改名された。校舎は中環にあったが、運動場は現在の場所にあり、その後校舎は日本軍の香港侵攻中に破壊され、1950年に新校舎が建てられた。

高士威道に面している入り口脇には小さな公園があり、何と英国社が製造した大砲が無造作に置かれている。裏に回るとこの地区としては大きな校庭があり、校舎も何となく古めかしいが気品が感じられる。更にその後ろ側には書院OB会の建物があり、老人が椅子に座って寛いでいたりする。やはり由緒正しい学校のようだ。

(3)蓮花宮
元の建物は1846年の建立。90年代に取り壊されて、現在は新しい宮が建ち、奥の高台は綺麗な公園となっている。公園には人影が無く、非常に静か。宮の裏を回るとそこには昔の住居があった。高層だが、一つ一つの家がかなり小さい。ベランダには洗濯物が大量に干され、又別のベランダには老婆が線香を持ち、一心に宮の方角に祈りを捧げている。実に昔の香港らしい風景であった。

 

宮の入り口にはおじいさんとおばあさんが陣取り、目を光らせていた?我々が写真を撮っているとおじいさんがじっとこちらを見ていた。前回モンコックで廟内の写真を撮り怒られたことを思い出し、中に入るのを止めた。実際これらの宮は地元の人々の信仰の場であり、部外者がズカズカ入り込むこと自体に問題あると思われる。

宮の前にお線香や花を売る店があった。見てみると風車のような飾り物があり、面白そうであった。次男は干支のお守りを買うと言い出し、長男の分と合わせて購入した。おばさんが利是に使う赤い袋にそれを入れてくれた。何だがご利益が有りそうな気がした。

(4)大杭
皇仁書院の横からかなり長い水杭がある。上はコンクリートの橋があり、人が歩くことが出来る。本日は暖かい日で花も咲き始め、実に気持ちの良い水杭であった。

そもそも水杭は1884年に水害防止のために作られたもので、由緒あるものだったが現在ではその役目はほぼ終わっており、建物と運動場を繋ぐ仕切りのようにしか見えない。ただそこに木があり花が咲くので、中には好んでここを歩く人が居るようである。

又以前8月の終わりの夜にここを通ったおり、人々が紙か何かを燃やしている場面に遭遇したことがある。その時は日本軍が降伏した日を記念して死者を弔っていると聞かされていたが、あるいは疫病退治の火龍踊りの夜であったのかもしれない。1880年に台風があり、疫病が流行ったようで、天后が現れモグサや除草菊を3日に渡って燃やすよう告げ、疫病が治まったとの言い伝えがあるという。

(5)聖約翰救傷隊香港分区本部
銅鑼湾道と大杭道のクロスする所に聖約翰救傷隊香港分区本部があった。何の気なく建っており、これまで何百回と通り過ぎてきたが、一度も注意を引くことは無かった。1930年の建築というがそれにしては新しい。

建物の前には救急車が2台。日本では救急車といえば消防署にあるものと思っていたが、ここは消防署とは別になっているようだ。逆に言えば消防と救急が一緒である必要は何処にあるのか?江戸は非常に火事が多かったので、その名残か?

近くにセントポール病院があるので、そこに運び込むことが多いのだろうか?そう言えば香港で救急車を呼ぶと勝手に病院を決められて、連れて行かれるので救急車に乗ったら先ず病院名を言え、と教わったが。土曜日の午後で入り口も閉まっており、ひっそりとした感じ。

(6)タイガーバームガーデン
大杭道を登って行くとタイガーバームガーデンがある。以前は香港の観光名所の1つであり、私も80年代に訪れた記憶があるが、現在は既に売却され、再開発が始まっている。ここは住居と庭園部分があり、庭園と塔が公開されていたと思うが、特に印象に残るようなものは無かった。

 

 

シンガポール華僑の胡文虎兄弟が建てたもの。タイガーバーム(萬金油)は日本で言えばメンソレータム。非常にポピュラーな塗り薬である。胡兄弟はこのタイガーバームで財を成し、シンガポールに移住。シンガポールにも同名の庭園があったはずだが、今ではどちらも無くなってしまった。

タイガーバームガーデンは香港の象徴。華僑の夢を具現化した場所。ここが無残に再開発される姿は香港の将来を暗示してはいないだろうか?ふと、不安になる。