香港歴史散歩2004(12)上環2

【香港ルート13上環】2004年9月29日

(1) 中環消防総局跡と中環街市

中環消防総局跡は1926年建造。当時は水車館と呼ばれていた。1982年に移転し、ビルは取り壊される。現在の恒生銀行本店ビルのある場所である。100年前の香港は火事が多かったのだろうか?今は昔を偲ぶものは何一つ無い。

恒生銀行と言えば、地下鉄の各駅に小さな支店があり、両替のレートも良いことから便利な銀行とのイメージが強い。その銀行本店ビルが予想以上に立派なのに驚く。

一方道の反対側には中環街市跡がある。1938年建造。中環街市自体は1842年(南京条約で香港がイギリスに割譲された年)に早くも華人が集まり、市場を開いていたが、1895年に政府が街市を建設。手狭になり現在の場所に建造。つい最近まで使われていたが、現在は閉鎖され小物を売る店が並んでいる。

建物は3階建て。3階には広い通路があり、今ではそのままミッドレベルのエスカレーターに繋がる便利な場所となっている。但しあまり魅力的とは言えない店が多く、勿体無いという印象。

 

 

 

(2)石板街

皇后大道と荷李活道を結ぶ急な坂道、石板街。日頃の運動不足から息が上がる。この狭い坂、石畳で何となく良い。両側には昔ながらの屋台が並ぶ。特に裁縫道具を売る店が多いのは何故であろうか?

この道の本名はポッティンジャーストリート。1858年に香港初代総督の名前が付けられている。何故であろうか?何か由緒正しい謂れでもあるのだろうか?華人の間では石ころが多いので石板街と呼んでいた。

 

 

 

(3)道済堂跡

荷李活道59号。1888年に華人キリスト教徒により建造。1890年前後に香港で医学を学んでいた孫文はよくこの教会のミサに参加していたという。1922年に教会が手狭になった為、般咸道と西摩道の交差点に中華基督合一堂という名の新しい教会が建造された。(現在合一堂の正門に『道済会堂』と書かれた門の額がはめ込まれていると言うが、未確認)

(4)雅麗氏医院と付属香港西医書院跡

荷李活道81号。1887年建造。何啓はイギリス留学を終えて1885年に帰国、西洋式に医院の設立を思い立ち、ロンドン伝道会と共に雅麗医院を設立。雅麗氏とは彼の亡妻Aliceの名前から取る。

同時に香港西医書院を併設。広州より移って来た孫文は第一期生32人の一人で1892年に優秀な成績で卒業。

 

1913年に西医書院は香港大学医学部に合併され、1915年に閉鎖。雅麗氏医院は1893年に般咸道2号に移転、那打素医院と改名(現在は移転し跡地はマンションになっている)。旧医院は売却され、現在は1階に骨董屋が入居する荷李活道に良く見られるビルとなっている。

(5)輔仁文社跡、楊衛雲烈士殉死の地、楊耀記跡

結志街百子里1号。結志街という如何にも革命に深く関わっている名前の道。その中のほんの小さな入り口に歴史を感じさせる『百子里』の文字が見える。ここの短い階段を登るとパッと前が開ける。今は小さな公園になっており、その前に輔仁文社跡という看板が立っている。

輔仁文社は1892年に楊衛雲と謝鑚泰により創設。革命を目指す2人は民の啓蒙を目的に同社を興し、メンバーを募ってここで集会を開いていた。1895年に孫文が興中会を設立すると社員数人がこれに参加。正に革命への道を進む拠点となった場所である。

尚この百子里は非常に狭い場所であるが、如何にも路地裏といった印象。革命は路地裏から。

 更に結志街と鴨巴旬街の角に楊衛雲烈士殉死の地がある。楊衛雲は輔仁文社を設立後、興中会に参加。結志街52号2階に道場を開き、志を同じくする同志を集めていた。清朝密偵に情報が入り、刺客陳林が1900年11月に楊を道場内で刺殺。楊は福建省漳州の出身。義侠心に富んだ人物と言われている。

 

 

結志街から鴨巴旬街に入り、少し下ると歌賦街がある。ここの8号が元楊記である。楊記とは楊鶴齢の店。こちらの楊氏は孫文の幼馴染。陳少白、尤列を加えた4人がここで清朝打倒の密談をしていた場所が楊記。

革命後楊氏はオーストラリアに移民。店は売却され、ビルとなる。現在1階の店舗は空き家で『租』という文字が空しく掛けられている。

 

 尚この通りには牛肉麺で有名な九記がある。

 

 

 

 

 

(6)中央書院跡と皇仁書院跡
歌賦街44号、楊記の前から九記を過ぎて道の曲がり角。1862年建造の西洋式教育の学校。1884年には孫文が入学。1889年に荷李活道と鴨巴旬街の交差点に移転(歌賦街の跡地は女学校となり、戦後官立小学校となり、現在も小学校がある。)。1941年の日本軍香港侵攻で学校は破壊され、戦後1950年に現在のビクトリアパーク前に再建される(跡地は警察官宿舎として今も使われている。但しかなりボロボロで人が住んでいるのかどうか?)。1984年に皇仁書院と改名。

(7)香港興中会総部跡

中環士丹頓街15号。所謂Sohoの中。エレベーターの直ぐ脇。1895年孫文等はここに興中会を設立し、清朝打倒を目指す革命組織の本部とした。表向きの名前は乾亨行として、世間を欺いたが、同年秋に清朝警察の探りが入り撤退。

現在の跡地は特に使われる様子もなく、2階以上に住人がいると思われるのみ。窓が昔風なので建て替えられていないのでは?

しかし歴史的に有名な孫文の興中会がこんな身近なところで設立されていたとは。そして孫文にとってここ香港は勉学に励み、洗礼を行い、革命に燃えた実に重要な場所であったのである。

 

(8)海事処総部大楼跡
干諾道中と林士街の交差点。1906年建造時にはここから北側は海。ビクトリア港の状況を把握するのに最適としてここに設けられた。しかしその後埋め立てが進み、場所的に内陸になった為、取り壊しとなる。

現在は維徳広場として商業ビルとなっている。上環MTR駅の真上という利点もあり、多くの企業が入居、改修工事も進んでいる。

 

 

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