「香港」カテゴリーアーカイブ

香港歴史散歩2004(4)太子

【九龍ルート9】2004年2月22日
先週のモンコックに続き、次の駅太子で降りる。今回は時間が無かったので、訪ねる先が2つしかないルートを選ぶ。

(1) 花墟(フラワーマーケット)
太子駅を降り、太子道西を歩き出す。直ぐにモンコック警察署に行き当たる。この警察署かなり大きい。5分ほど歩いて左に折れるとそこは花市であった。花墟道にある店は約70軒、道の片側に店が並んでいる。はみ出して花が置かれている。実に様々な花がある。日本で言えば今は春。菖蒲がある。花の鉢も置かれている。値段は結構安いようだ。両手に余るバラの花束がHK$38.-?

 

 先週はバレンタインデーでここは賑わったことであろう。今日はカップルよりは若い女性、母親と娘といった感じの組み合わせが目立つ。香港人は意外と花好きである。西洋人の姿もそこここに見られる。大きな花束を抱えた男が居る。奥さんの誕生日であろうか?

花屋の道の反対側はモンコックスタジアム。歓声が聞こえる。入場料はHK$60.-。丁度今香港リーグが行われているようだ。香港リーグのレベルは如何であろうか?先日のワールドカップ予選ではマレーシアにアウエーで勝っていたから、最近はレベルも向上しているだろう。兎に角香港にしては大きな競技場である。

(2)雀鳥花園(バードガーデン)
フラワーマーケットを端まで行くと左側に入り口がある。日本語でバードガーデンと書かれた看板が見える。このバードガーデンはモンコックにあったバードストリートの取り壊しにあわせて1997年にここに移ってきたものであるから新しい。

バードストリートはモンコックの狭い路地、康楽街に鳥好きが鳥籠を持って集まった所。そこに小鳥屋が多く出来、完全に鳥一色になった場所である。10年前に行った時には、おじさん達が鳥籠を自慢げに持って、思い思いに話し込んでいた姿が目に浮かぶ。政府としても既に観光スポットに成ってしまったバードストリートを残す為に、現在の場所に新たにガーデンを作ったのも当然のことか。

中に入ると以前と同じ鳥好きが籠を木に掛けて、お互い話し合っている。ここは公園といった感じで、数十軒の小鳥屋が軒を並べている。但し以前と比べて格段にきれいである。鳥屋のオヤジたちも少し小ぎれいになっている。モンコックスタジアム横の細長い路地を使ったバードガーデン、中々面白い。

 

 

今回ここを訪れたのは、例の鳥インフルエンザの影響を見るため。やはり西洋人の姿は殆どない。彼らは細菌に極めて敏感。鳥と名が付く物には一切触れたくない人も居るだろう。香港人はあまり気にしていない様子。勿論鳥籠の鳥を見ていてインフルエンザに感染するとも思えないが。

鳥好きのおじさんにとって、インフルエンザは良いことだったかもしれない。本当の鳥好きがここに集まり、話を弾ませる。これぞ、老舎の小説『茶館』に描かれた茶を飲みながら鳥談義をする姿なのである。

それにしても鳥は良い声で鳴いている。この声は花墟に入った瞬間から気持ちよいほどに聞こえてくる。ここは誠に香港らしい場所であり、また香港らしからぬ場所なのである。

 

 

香港歴史散歩2004(3)旺角

【九龍ルート7】2004年2月14日

前回の旅から2ヶ月以上経過してしまった。年末年始は忙しいとか色々と理由を付けていたが、どう見ても山歩きはキツイ。そこで今回は平地を歩くことで再開する。

モンコックに行く。特に理由は無かったが、女人街の由来などを知りたいと思ったからである。何時でも人が多いモンコックであるが、本日は特に多い。バレンタインデーである。日本と異なり、香港では男性が女性に花をあげる。駅にも花束を抱えた男性が女性を待っている姿や、花を貰った女性が誇らしげに男性を従えて歩いている光景がそこかしこに見える。

hk sanpo 741m

そう言えば90年代初めには我が社の女性社員も若かったので、バレンタイン当日には受付に花束が多数届けられていた。中には見栄で自ら発注したものを届けさせたケースもあったと聞く。本日は土曜日でそのような光景は無く、真のカップルが待ち合わせて花束を持っているのであろう。

ところでモンコックの由来であるが、200年ほど前は芒角という名前であったと言う。一面に芒草(ススキ)が生えていたからだ。その後1930年代からビルが建ち始め、賑やかな所と言う意味で現在の旺角と呼ばれるようになった。歴史的にはかなり古い街である。

(1) エリザベス女王2世遊楽場館(Queen ElizabethⅡ Youth Centre)
最初に訪れたのが、エリザベス女王2世遊楽場館である。モンコックMTR駅から奶路臣街を東へ雑踏を5分ほど行った染布房街との角にある。角にあると言うより、そのワンブロック全てが敷地であった。

洗衣街に到達すると広州行きの直通バスの発着場所がある。1日数便がここから出ている。その脇にサッカーグラウンドがある。スタンド付きでかなり大きい。隣はテニスコートやバスケットコートがあり、子供の遊ぶ遊技場もある。その隣に体育館がある。1953年に完成した当時はアジア最先端の体育館であったと言う。丸いアーチ型の屋根はお洒落であったであろう。現在は青少年活動の施設として使われているようで、入り口から中を覗くと各種催し物の案内があり、又地域活動の拠点としての役割も見られた。

名前は当時のケント公爵夫人の発案で作られた所からきているようで、開会式は香港総督主催で行われた。入り口横には今も記念のプレートがはめ込まれている。

(2) 旺角観音廟
体育館の直ぐ横、山東街に小さな廟がある。旺角観音廟はこじんまりしてるがかなり格式と趣のある建物である。現在の場所には1927年に移されたと書かれているがどのくらい古いものなのであろうか?

中に入るとかなり多くの人が居る。普通このような古い廟には老人が時々居る程度であるので不思議に思っていると明日から明後日に掛けて1年に一度の『観音開庫』があるという。開庫とは観音廟の蔵から宝物などを出して開帳することで信者は『借庫(金を借りる)』の為に訪れ1年の金運を願うと言う。

hk sanpo 733m

建物の中は線香が至る所で焚かれ、祈りを捧げる人でごった返していた。大きくは無いが仏像が安置され、周りにも幾つもの像が安置されている。偶々目に付いた色の着いた像に興味を持ち眺める。写真を撮りたくなり、シャッターを切ると前に居たおじいさんが何か言ってきた。広東語は分からないという素振りをすると彼は直ぐに私を連れて外の方に行く。着いて行くと建物の表の注意書きを指す。そこにははっきりと撮影禁止の表示がされていた。思わず『ソーリー』と言うと、分かればいいんだよ、といった笑顔で私の背中を2-3度軽く叩いて行ってしまった。最近こういうおじいさんに出会うことは稀であったので、何だか貴重な経験をしたように思う。ルールをしっかり伝える、決して怒ることも無く、言葉が通じなくても動じない、この姿勢は実に大切だと思う。

(3) 聖公会諸聖堂
聖公会は九龍で最も歴史のある教会である。1891年に布教を開始、1922年に現在の場所に聖堂が建設される。日本統治下では軍の宿舎として使われた。現在は教会、学校がある。

hk sanpo 738m

しかしこの辺りの街並みは古い。この建物がある場所は、白布街、豉油街、染布房街、黒布街の4つの道で囲まれているが、見れば3つに布がつく。どうやら繊維関係の街のようだ。更にもう1つは醤油である。醤油工場もあったようだ。確かに周辺には古いビルが並ぶ。モンコックの歴史が垣間見られる。

因みに染布房街の横にはKCRが走っており、モンコック駅は直ぐ近くにある。古い町並みと最新の列車のコントラストも面白い。

(4) 女人街
1975年に香港政府はそれまでバラバラだった香港の露天商を20の地区に集めることを決め、通菜街に初の『小販認可区』を設置。安価な家庭用品や女性服が多く売られ女性客が多かったことから『女人街』と呼ばれるようになる。

hk sanpo 739m

現在は亜皆老街から登打士街まで露天が所狭しと並んでおり、家庭用品というよりTシャツや時計など観光客向けの商品が多くなっている。香港人のみならず、観光客も多く訪れ、特に西洋人に好まれるようで、一生懸命値切っている姿が微笑ましい。

但し最近は大陸中国人がどんどん増えており、北京語が彼方此方で聞こえる。彼らにとっては大陸の方が更に安いはず。何の目的があってここに来ているのだろうか?単なる観光名所となっている節がある。私は本日日本語の書かれた靴下(中国製だが、日本ブランド。日本で売るものの横流し。)を2つ買った。北京語で話しかけたところ、何も言わずに10元になった。西洋人には幾らで売るのだろうか?因みに廟街にある同様の市場を男人街という。こちらは夕方から店が出始め夜賑わいを見せる。特に品揃えに違いは無いと思う。男人街の謂れは、当初治安が悪く、男しかぶらつかなかったからだと言う。

モンコックは本当に香港らしい所である。女人街の一本西側の西洋菜南街は歩行者天国になっている。土曜日は本当に多くの人が歩いている。何を求めて歩いているだろうか?正に老若男女が歩いている街である。

最近モンコック駅の反対側に大型ショッピングセンターが建設されている。古き良きモンコックも時代の波に晒されている。老舗のレストランも生き残っている所は皆新しいきれいな店舗をショッピングセンターに出店し、値段が倍以上になっている店もある。どこか寂しい気がしてならないが、それが香港なのかもしれない。

 

香港歴史散歩2003(2)莦萁湾

【ルート2莦萁湾】2003年12月6日

(1)愛秩序湾(Aldrich Bay)

 

MTR莦萁湾駅に降りた。今回は子供2人と一緒だ。半ば無理やり連れ出した。駅のA3出口を出るとバスターミナル。そこは香港開港直後に赴任した英国海軍工兵隊将校アルドリッチの名に因んで命名された。現在は海までかなり距離があるが、当時は恐らくここから海であったのだろう。但しアルドリッチが何をしたのか、何故ここが重要であったのか分からない。いえることは1941年12月17日の晩日本軍がここから上陸し、鯉魚門軍営を攻撃したこと。軍事上の重要拠点であったことは確かである。

hk sanpo 657m

(2)天主教滋幼会修

バスターミナルより南に少し行くと、莦萁湾道と柴湾道の分かれ目に出る。これを柴湾道に沿って左に登る。5分ほど登ると莦萁湾滋幼中学と言う建物が見える。建物の1つにはあのタイガーバームガーデンの胡文虎の記念の文字が見える。何か関係があるのだろうか?更に少し登るとそこに天主教滋幼会修院がある。かなり古い建物のようだ。現在は修道院として使われているようだが、厳かな雰囲気に建物の中に入るのは躊躇われる。庭もあるようだが、木々に覆われておりよく見えない。

hk sanpo 659m

ここは1941年の日本軍侵攻当時野戦病院として使われており、負傷兵が収容されていた。12月17日から18日に掛けて、日本軍は鯉魚門軍営を攻撃する際ここにも進入し、負傷兵の殺害、看護士への強姦、殺害が行われたという。

尚日本軍の総司令官は酒井隆中将。彼は1928年に瀋陽で起こった張作霖爆殺事件時の瀋陽駐在武官、1937年の南京大虐殺時の天津駐在師団長として両事件に関与した人物と言われており、香港側から見れば情け容赦の無い日本軍の典型であったと思われる。

(3)鯉魚門軍営

滋幼会修院の前の道を渡り、更に柴湾道を登ると左側にIsland Gardenというかなり古いアパートがある。かなり規模の大きいアパートで入り口も3つに分かれており、バス停の名前にもなっている。きっと50年代にでも建設されて有名な物件なのだろう。そのアパートの先を左に曲がる。『鯉魚門渡暇村』と言う表示がある。登って行くと反対方向から沢山の観光バスと擦れ違う。どうやら学校のバスのようだ。ここは休日の学校活動に使われていることが分かる。

少し登って下るとそこが渡暇村のようだ。入り口に守衛が立っている。入ろうとすると遮られる。聞くと宿泊客以外が立ち入る場合は一人HK$27を払うこと、又4時半で閉鎖するという。既に時間は4時に近く、また守衛は迷惑そうにしているので、立ち去ることにする。しかし何故入れないのか?恐らく学校活動の場所なので不審者(?)には注意を払っているのだろう。

ガイドブックに寄れば、ここは1845年以降イギリス軍が兵を駐留させ、兵舎が築かれた場所で、見ると20世紀初頭と思われるかなり古い建物が建っている。どうやらこの村の宿泊はこの歴史的な建物を使用するようだ。何となく興味が沸く。何時か泊まってみたい気もするが、又入れてもらえないのだろうか?尚砲台跡は今は駐車場だと言う。

先程触れたように日本軍は12月17日に侵攻し、18日にはこの軍営を占拠したと思われる。そして19日の午前までには、ジャーディン、パーカー、バトラーの主要3山は全て陥落した。この軍営を襲った一隊はそのままパーカー山へ向かったと思う。

(4)西湾砲台とトーチカ

渡暇村に行く道の途中に、トレールの階段がある。ここを登って行けば本日の最終目的地である西湾砲台に着く。渡暇村で追い返された我々は道を引き返し、階段を登る。登って行くと直ぐに渡暇村の横に沿って道が続く。横目に村を見ると確かに年代物の建物である。ここが宿泊場所として使われている。広々とした敷地内は散歩をするにも良いようだ。最後に門があり、トイレを使いたい場合は入れてもらえるようだ。更に行くと舗装された広めの道が続く。子供達は既にバテバテ、ベンチで休む。空気も良く、遠くに更に高い山が見える。これがパーカー山だ。

道を大きく曲がると門の跡が見え、そこを入ると右手に監獄のような建物が見えてくる。現在は鍵が掛かっており、格子戸越しに中を見ると小さな部屋に区切られており、正に監獄のようだが、どうやらこれは兵舎跡か? 登って行くと更に左右に建物があり、規模が大きいことが分かる。

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この一帯は1987年に公園になっており、遊具施設もあるが、その前の看板には『ここは旧軍営であり、不審物は自ら処理せず通報するように』と書かれている。その看板の反対側には、かなり古い木がある。公園にする際に、根元部分を掘り起こしたのか、巨大な根っ子がむき出しで、不思議な感じのする木である。夜など行ったら、さぞ怖いのでは?

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その木の横を登ると、砲台跡に出る。現在は壊れた台が転がっているといった感じでここも保護されていない。確かにここからの眺めは良く、海に向かって大砲を撃つことも可能だっただろうと思う。途中から高射砲が設置されたというから、空爆に備えていたのかもしれない。

但しこの砲台が実際に役に立ったと言う記述は見つからない。恐らくは早々にスタンレー方面に撤退を余儀なくされたのでは?その後に残された一般民衆、病院などが悲劇の対象となってしまったのだろう。砲台跡より更に一段高いところに登ると九龍半島までの全景が見渡せる。この景色を見ながら、日本軍侵攻のことを考えるが、何とも浮かばない。

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香港歴史散歩2003(1)柴湾

先日本屋で『香港市区文化の旅』と言う本を見つけて購入した。何と日本語で書かれており、香港島・九龍各26ルートが示されていた。オリエンテーリングに参加するつもりで、このルートに乗って歩いて見ることにした。『香港に歴史はあるのか』、素朴な疑問である。長く香港に住んでいてもいつも行くところは決まっており実は香港のことは何も知らない、というのが実情であろう。健康と新しい香港発見ため、歩いてみたい。

【ルート1柴湾】2003年11月30日
(1) 羅屋
MTR柴湾駅に降りた。私は香港在住8年になるが、この地下鉄の終点に降りたのは1度しかない。昨年中学の運動会を見に行くため、小西湾運動場に行ったときだけである。柴湾はそれ程印象の無いところである。正直言ってベッドタウン、住宅しかない場所のように考えていた。

駅前に吉勝街という道があった。ほんの少し歩くと公園があり、その向こうに『羅屋』はある。1988年に改修されたこの家は現在香港歴史博物館の分館となっているが、元は200年の歴史を有する典型的な客家の家である。18世紀初頭に現在のシンセンより300人の客家が柴湾に移り住み、各村を形成。羅氏もその1つで客家では村を屋ということから『羅屋』となった。移住した場所は木々に覆われ、耕作には適さず、果樹栽培、養豚・養鶏などで生計を立ててきたという。

1950年代より柴湾は住宅化の波に飲まれていく。客家の家は次ぎ次ぎに壊され、1967年までに全ての羅屋の人々はいなくなってしまった。現在唯一残された1軒を保存している。

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家は小さな入り口を入ると警備員が座っており、パンフレットをくれる。『三間両廊』と呼ばれる三間は中央に居間、右側に寝室、左側に作業場と分かれている。寝室・作業場には屋根裏部屋がある。居間の天井は高い。作業場では脱穀を行うような機械が置かれている。農作業があったことを窺わせる。両廊は入り口の左側にキッチン、右側に物置がある。キッチンには竈があり、食事もここで取る。

客家と言えば、土楼のような城壁を巡らした家屋を想像する向きもあると思うが、香港島に移住してきた人々は中国の伝統的な家屋を守ってきたと言えよう。僅か120㎡の小さな家であるが、一度覗いてみるのも面白い。

(2) 西湾国傷墓地
羅屋からすこし歩くと連城道があり上り坂になる。何気なく見上げると驚いたことに一面墓地が見えた。どうやら中国系の墓のようだ。

hk sanpo 749m

ところで柴湾は何故柴湾というのか?本に寄れば、元は西湾と呼ばれていたが、福建や広東の漁民が水や薪を補給したことから柴湾と呼ばれるようになった。17世紀半ばから客家の移住が始まり、漁業・農業・石の切り出しで生計を立てた。石の切り出し、ここ柴湾は三方を山に囲まれており、石は大量に出たのだろう。墓地が多く作られたのも、1つには石があったからかもしれない。坂の途中には墓石屋もあり、様々な墓石が置かれていた。丁度歌連臣角道に曲がるあたりだ。

10分ほど歩くと軍の墓地があった。記念碑が建てられており、中に入るとあまり多くないが墓がある。墓石を見ると皆戦後亡くなっており、西洋人と香港人の退役将校の墓かと思われる。

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更に3分ほど登ると、右側に西湾国傷墓地がある。ここには第二次大戦中に香港防衛の為に戦死した兵士の墓がある。基本的には日本軍の香港上陸、占領中に死亡した人々である。入り口には経緯が書かれているようであるが、入ることが出来なかった。

道の端から墓碑を見てみる。イギリス人と思われる人々の名前が書かれている。1941年に死亡した人は日本軍の上陸戦で亡くなったのだろうか?1945年のものは、獄中で亡くなったのだろうか?しかし一番心に残るのは、墓碑に名前の無い、無名戦士の墓である。彼らはどの様にして亡くなったのだろうか?墓地の周りにはインド兵やカナダ兵の墓もあるという。我々日本人はこの歴史を心に刻むべきである。

この墓にはカナダ隊のトップ、ローソン准将のものもある。ローソンはイギリスの依頼により1941年11月に2,000人の部隊を率いて香港に入り、香港島の守備にあたっていた。戦死した場所は今の陽明山荘近くの黄泥峡であったという。

(3) 日本軍香港侵攻時の東旅司令部
更に登って行くと10分ほどで石澳道にぶつかる。そこを右に折れて数分行くと大潭道との交差点、所謂大潭峡に出る。そこを柴湾側にほんの少し登ると東旅司令部跡が見える。

1941年12月の日本軍侵攻により新界、九龍は僅か5日で落ち、守備軍は香港島にて戦力を東西2つに分けて防衛。東側はウォーリス准将が率い東旅と呼ばれ、その司令部がここにあった。残念ながら建物は残っているものの、荒れ放題で全く保存されていない。ゴミだらけの内部を見るとイギリスの歴史観が判るような気がする。


(4) 東旅司令部防衛用機銃トーチカ
大潭峡の交差点に戻り、小山の上を見上げるとそこに小さな建物のようなものが見える。ここは交通の要所であり、司令部の背後に当たる為、トーチカが作られた。トーチカは現在苔むしているが、半分埋まったまま前面に2つの窓、側面に各1つの窓を持ち、機銃掃射出来る様になっていた事は分かる。

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背後には煙突のようなものが見える。これは展望塔であったようだ。しかしこんな小さなものでは、日本軍が侵攻した19日には一体ここで何が行われたのだろうか?結局何事も無く、スタンレーに撤退したのでは?そして最終的に12月25日のクリスマスの日、日本は香港を全面的に占領。香港ではこの日を『暗黒のクリスマス』と呼んでいる。

帰りは歩くの止めて、9番のバスで莦萁湾に出る。山道からこれまで歩いてきた墓や小山が良く見える。ここは本当に軍事戦略上重要な拠点であったのだろうか?素人の私には分からない。次回は莦萁湾を歩くことになる。

《深夜特急の旅-香港編2003》(6)スターフェリーとペニンシュラー

6.2003年7月 スターフェリーとペニンシュラー

(1)スターフェリー(P84,112-115)
今回はスターフェリー。沢木氏は前日知り合った張君を訪ねて中環に渡る時初めてこのフェリーに乗り、気に入ってその後も何度も使っていたようだ。

スターフェリーの歴史は100年を越える。1898年に中環ー尖沙咀間開通。香港では1888年に出来たピークトラムに次いで古い乗り物である。インド系商人によって開設される。現在は1等HK$2.2、2等HK$1.7、当初は1等HK$0.15、2等HK$0.13。今でも最も安い乗り物であるが、1966年には僅かHK$0.05の値上げを巡り、1人の青年がハンガーストを行うとあっと言う間に2,000人もの抗議行動に発展したほど、常に庶民の乗り物であると言える。

待合場所の奥に以前はトイレがあったが、今は廃止されている。フェリーに乗る時は跳ね板を渡る。座席は木製、背もたれは前後どちらにも変えられるようになっている。最近1等には船の前と後ろにクーラーが付いており完全な観光客用となっているが、下の2等は依然として庶民用である。現在スターフェリーに乗る時はオクトパスカードで簡単に乗れる。

フェリーは僅か7分。この間に景色を眺める。天気の良い日や夜は実にきれいな風景である。風も気持ちが良い。しかし雨の日、風の日は揺れる。まるで人生そのもの。夜のライトアップされた香港島側のビル群、夏の午後のそよ風が吹く尖沙咀の時計台、晴れた朝の遠くに霞む鯉魚門。沢木氏は一体何を見たのだろうか?

30年前と言えば、フェリーが交通の主力。今とは異なり、乗船者は非常に多かったに違いない。『スリに注意。』という注意書きが見える。スリも多かっただろう。昔見た『スージーウォンの世界』という50年代の香港が舞台の映画では、満員の乗客を乗せたフェリーの様子が実に印象的であった。

『フェリーの動きと共に変化して行く風景に、やさしい視線を投げかけている姿をよく見かける。本や新聞に目を落としている客はほとんどいず、大部分は対岸の建物や大小の船、風に舞うしぶきなどを眺めている。』沢木氏は言う。喧騒の中にある香港で『フェリー船上は香港唯一の聖なる場所』であると。

セーラー服の船員がいる。大体がおじさんだ。おじさんが草臥れた制服を着て、仕事をする。船が動いている間はボーっと水面を眺めている。実に哀愁がある。船が停まる時縄を投げる。実に上手く対岸の人間に渡る。職人芸?尚スターフェリーの運航が終わった深夜に沢木氏が乗ったワラワラと呼ばれていた渡し舟は現在は無い。

(2)YMCA(P66-69)
沢木氏は香港到着の翌日ゴールデンパレスホテルを出ようと考え、探した宿がここYMCA。今でも尖沙咀のペニンシュラーホテルの横にある。私は1987年に泊まる気も無くロビーに入った記憶があるが、既にかなり違った印象になっていた。

何しろ入ると直ぐ左手に書店があり、英語の本を沢山売っている。その奥には洒落たヘアーサロンまである。真っ直ぐ進むと左下に大きなコーヒーショップもある。右には小奇麗になったレセプション。昔はこんなのだったっけ?まるで普通のホテル。違うのはYMCA会員の為の設備があることとキリスト教関連の張り紙があることぐらい。

ロビーの一角にプレートがあり、それによればここは1924年に設立されたようだ。歴史的にはかなり古い。現在はリノベーションされ、バックパッカー用のホテルとは思えない。立地が良く、施設が良いとなれば当然プライスも上がる。聞けばシングルの部屋がHK$400と言う。30年前も同じようで、シングルがHK$50。当時の物価を考えれば決して安くは無い。しかし沢木氏が泊まらなかった理由は金ではない。ゴールデンパレスの曖昧さに惹かれたのだ。それが旅と言うものだ。

(3)ペニンシュラー(P65)
YMCAの隣にあるペニンシュラーは言わずと知れた香港を代表するホテル。

1928年の開業以来常に香港のトップホテルであり続ける。但しその道のりは平坦ではない。元々1925年開業予定であったが、上海の5・30暴動に刺激された中国人労働者による香港ゼネストにより大幅に遅れる。1941年には日本軍の香港占領で一時軍司令部が置かれ、その後『東亜ホテル』として3年半営業される。戦後も中国大陸からの逃避先として、また斜陽の植民地ホテルとして、常に異彩を放ってきた。

現在はグランドフロアーでアフタヌーンティーを楽しむ観光客が多く、一時は日本人が行列していてあまり行きたい場所ではなかったが、今回行って見るとSARSの影響か?日本人の姿は稀で、西洋人と香港人が楽しいそうにお茶を飲んでいた。因みにここのスコーンは非常に美味しい。1階のトイレも有名で観光客が訪れて写真を撮る。
尚ペニンシュラーほど玄関先のロールスロイスが似合うホテルはないとの意見には諸手を上げて同意したい。

沢木氏はここで信じられないことに、香港の地図をただで手に入れている。私も敢て挑戦してみた。フロントがグランドフロアーの奥にあることを初めて知る。従業員の女性は西洋人であった。何時もは恥かしさも感じない私が躊躇した。そして聞いた。『香港の地図はありますか?』彼女はさも当然と言う感じで地図を取り出し、くれた。笑顔も付いていた。30年経ってもペニンシュラーはペニンシュラーだ。因みに先日ミャンマーのヤンゴンに行った際、ペニンシュラーの先輩格であるストランドホテルに入り同じことをした。そこの従業員も当然のように笑顔で地図をくれた。次回はシンガポールのラッフルズに行こう。

尚沢木氏は知り合った日本人と香港人の混合グループとペニンシュラー地下のディスコに遊びにいっているが、今ディスコは見当たらない。ペニンシュラーにディスコがあったとすれば、それは高級な遊び場でなければならない。

 

 

《深夜特急の旅-香港編2003》(5)KCRと国境

5.2003年10月 KCRと国境(P75-78)

(1)KCR
KCR(九広鉄路)は1910年8月に開通。当初は1日2往復で駅の数は羅湖、上水、大埔、大埔墟、沙田、油麻地、九龍の7つ。九龍は現在の尖沙咀時計台(70年代に現在のホンハムへ)。沢木氏は時計台の前から上水に向かったと思われる。
当初は蒸気機関車で九龍—羅湖間は4時間、61年にディーゼル化、78年には電化され今日では45分。沢木氏は上水まで1時間以上掛かったといっているから、ディーゼルの時代。

開通時料金は1等HK$5.4、2等HK$2.7。その後3等も出来、沢木氏は3等HK$1.1に乗っている。現在は1等が1車両でHK$66、2等がHK$33でホンハムー羅湖を結ぶ。但し上水—羅湖間がHK$20する計算になり、要するに中国への通行料を取られている。香港人の中には落馬州経由の方が安いとバスで向かう人もいる。落馬州は現在24時間通行可能で便利度は増している。シンセン出張の多いある日本人は何時でも帰れるのでシンセンでの飲み会が増え、体に悪いと言っていた。

現在のホンハム駅はオールドトンネルを抜けた所にある。隣はホンハム体育館。コンサートがよく行われている。オクトパスカードがあればそのまま改札を通れる。1等車両に乗る場合はホームにある機械に再度通さないと罰金HK$500を取られるので要注意。列車は主に羅湖行きで驚くことに3-5分に一本出ている。それでも2等は結構満員。

九龍塘ではMTRに接続しており、多くの乗客が乗り込んでくる。沙田は以前新界の中心でショッピングモールなどが栄えたが、今は何処の駅でも立派なスーパーがある。それでもシンセンの方が断然安い為、新界の経済は相当に悪い。この鉄道も一種の買い物列車となっており、おじさん、おばさんが買い物に向かう。中には大きな荷物を引くカートを持っている者もいる。

大学という駅がある。今香港には7つの大学があるが、昔は香港大学と中文大学の2つ。九龍サイドで大学といえば中文大学に決まっており、駅の名前も大学で十分な訳である。駅前から緩やかな上り坂があり、その上に広大なキャンパスが広がる。更に上に上れば下界がきれいに見える。香港とは思えない風景がある。
英系の香港大学は英語教育の最高峰であり、中文大学は中国語の最高峰。中国に返還された現在、その地位は更に高くなっている。

粉嶺には名門香港ゴルフクラブがある。開業した頃はイギリス人が馬車で訪れていたという。この先にある落馬州の名の謂れは、馬車で国境を越えることは出来ず馬を下りた場所ということらしい。

(2)国境
上水に到着。昔はこの駅は特に何と言うことのない駅であったが、近年はシンセンの窓口として、人の乗り降りが激しい。香港人に聞いた所、実は上水で一度降りて再度乗り直して羅湖に行った方が直接行くより料金が安いのだそうである。それで一度改札を出てもう一度乗り込んでくる人が多いのだと言う。本当だろうか?

午後になるとシンセンで仕入れてきたものをダンボールに入れて駅前で売る商売をしているものも多い。シンセンと香港の価格差は相当のものがあり、雑貨や野菜が半値以下で売られている。

沢木氏はここから白タクに乗って、落馬州の展望台に向かった。往復HK$25。最初運ちゃんは英語で話しかけてきたというから当時は観光客が居たのだろう。今この駅前から展望台に向かう人は殆どいないと言う。というより展望台からシンセンを眺める人が居ないのだ。当たり前である。直ぐにシンセンに行けるのに態々展望台から眺めるのは余程の物好きということになる。

駅前のタクシーの運転手に英語で展望台に行きたいといってみたが、全く分からないと言った表情をする。以前であれば恐らくこちらの言いたいことは理解しただろうが。面倒なので行くのを止める。今ならタクシー代はHK$100以上するだろう。

昨年時間の無い人でどうしてもシンセンを一目見てみたいと言うお客さんがいたので、展望台に連れていったことがある。九龍から車で真っ直ぐ北に進み、国境近くで山道に入る。周りは閑散としていた。車を降りると数軒の土産物屋が展望台に行く途中にあるが、平日と言うこともあり、店番すら見つからない。

シンセン側は発展していた。それはシンセンの街中で見るより一層良く分かる。それにしても沢木さんが見た30年前のシンセンとはまるで違う風景である。『水田の間にポツリポツリと小さな集落があり、煙が棚引いている家もある。』これが30年前だ。驚きである。現在はビルが林立し、どちらがシンセンでどちらが香港か分からない。

『老婆が一人でじっと遠くを眺めていたりする姿』も見ている。この当時中国は文化大革命、大陸から逃げてきた人が残された家族を思っていたのだろうか?1967年にはこの国境で逃げてくる人民をシャットアウトしたと聞く。そこで生死が分かれた。

将来この国境はなくなるのだろう。香港がシンセンと一体になるのではなく、シンセンが香港を飲み込む日が来るのだろうか?

《深夜特急の旅-香港編2003》(4)佐敦・廟街

4.2003年7月 佐敦、廟街(P88-93)
今回は沢木氏が旅の中で香港に長居するきっかけを作った廟街を歩く。

ある日沢木氏は夕食後ネーザンロードを北へ10分ほど歩き、佐敦道を左に曲がった。私はMTRを佐敦駅で降り、交差点の手前から左に曲がってみた。確かに大きな百貨店やレストランは30年前と同じように軒を連ねている。ところが、『大きな百貨店やレストランの続く通りが途切れると油麻地の埠頭に出る。やはりフェリーのターミナルがあり、バスの発着所もある。』と記述されている風景は全く無い。
交差点より5分歩くとジョージ5世公園がある。小さい公園だ。昔通り、おじさん達が中国将棋に興じている。ここを過ぎると昔はフェリーターミナルがあったのだろうか?今は行っても行っても海に出ない。

そこは埋立地となっていた。佐敦道を歩いて行くと左にゴルフ練習場が見える。それを過ぎると大規模な開発が行われており、現在は高層住宅がある。また空港がチャプラッコックに移ってから作られたエアポートエクスプレスの九龍駅がこの下にある。

立体道路の上を歩いて行くと漸く海が見える。大小様々な船が停泊しているが、やはりフェリーは無い。左には90年代後半に出来た西部トンネルの出口が見え、前は一面クレーンが置かれている。人は進入禁止で海に触れることは出来ない。

期待していた30年前の市民の憩いの場も無く、新聞売りの少年も子守のばあさんも居ない。凧を揚げたらよく上がるだろう風が吹き抜けて行くが、そこには実に人工的な建物が威厳を備えて建っている。非常に寂しい。

道を戻り、沢木氏同様いくつもの道を彷徨う。広東道の翡翠市場。1949年の中国解放に伴い広州市の翡翠市場の商人が香港に逃げ込み、ここに店を開いたのが始まりとか。翡翠好きの中国人で賑わい、東南アジア最大の翡翠市場と言われたこともあったが、現在は以前ほどの賑わいは無いのでは?

新填地街の青空市場。所狭しと並ぶ野菜、魚、肉などの食品市場だ。売っているおばさんたちも心持愛想が良い。何となく買い物をしたくなるマーケットだ。

更に廟街。ここは男人街とも言われ、男物の衣服を売る屋台が多い。但し沢木氏が見た熱気は現在感じられない。SARSによる観光客の減少のせいか?それと経済低迷のせいか?どちらにしても30年前外国人観光客など全く見られない市民の為の市場であったと書かれていることからもその性格を変えているようだ。因みに市民の夜市を『平民夜総会』と呼んでいたのは、遥か昔か?

廟街は南街が数百メートル続いており、その北に天后古廟がある。これが中心だ。30年前は広場で様々の商売が展開されていたようだが、今はただの公園といった感じ。私も大道芸人の芸を見てみたかった。広場の北側の道に屋台が多く出ているが、その後ろには2−3軒歌謡ショーをやる店が見える。歌手のブロマイドが色褪せて張られているのが、悲しい。きっと大道芸を屋内に閉じ込めた結果だろう。所々に手相見、占い師が机を置いている。これは昔からの光景であろう。

私も80年代最初に香港に来た頃、何度かこのあたりを歩いたことがある。その時は沢木氏が感じたであろう熱気を私も確かに感じた。表現できない活気を。あれは70年代以前の浅草(?)だろうか。日本人でも年齢が上の方は今の廟街、女人街を歩くと懐かしくて楽しいと言う。香港人は楽しいのだろうか?

 

《深夜特急の旅-香港編2003》(3)中環

3.2003年7月 中環(P84-88)

(1)雪廠街と電話
今回は中環。沢木氏は前日知り合った張君を訪ねて中環に渡る。我が職場も中環、そして職業も張君と同じ銀行員(?)の私は昼休みに何度となく、この辺を歩いてみた。

先ずはフェリーを降りて張君に電話する場面。30年前公衆電話は少なかったとあるが、私が最初に香港に来た1980年代公衆電話は沢山あったと思う。但し現在は携帯電話普及率ほぼ100%の国であり、また香港テレコムをPCCWが買収し経費削減を図ったことから、公衆電話は30年前の水準に戻りつつあると思う。(スターフェリーの乗り場付近には何故か今も多くの公衆電話があるが?)

店で電話を借りる習慣は現在でも中国の田舎ではよく見られる光景であるが、これも携帯の普及でその内無くなるのであろう。固定電話を引くこと事態が廃れて行く方向にあるのだから。

話は脱線するが、香港の電話の歴史はここ中環から始まる。1882年に東方電話電力公司が設立され、中環の15戸で使用が始まった。九龍サイドに渡るのは1898年のこと。この東方電話電力公司は雪廠街(Ice House Street)2号(現在のマンダリンホテルの横か?)に事務所を持っていたようだ。雪廠街は読んで字の如し、氷の貯蔵庫があったところ。日本的に言えば『氷室』。尚マンダリンホテルの横などは1862年に埋め立てが行われるまでは海だったと思われる。

1840年代に上陸した英国兵は(アヘン戦争の結果、香港を占領する目的)当地の暑さで熱病などを罹ったが、氷が無かった為多くが亡くなったと言われている。そこで氷を輸入して貯蔵する場所が設置されたわけ。
因みに今でも高熱が出た時、氷で冷やすのが英国式、暖かくして汗を出すのが日本式(アジア式?)。私の子供が入院した際、夜中に看護婦が何度切っても強烈な冷房をつけていき、付き添いの私が風邪を引いた経験を思い出す。

(2)銀行
張君の勤めていた銀行は何処の銀行なのだろう。書いていないのだから勿論知りようも無いが、気にはなる。香港最初の銀行は英国統治の開始直後、1845年に開業した金宝銀行(東方銀行)。この銀行は50年後には倒産したようだが、最初の発券銀行にもなっている。初期の仕事はアヘンの輸入に関する貿易金融というから、時代が偲ばれる。

現在の発券銀行である3行は、香港上海銀行(HSBC)が1865年に開業(その年から発券業務開始)、スタンードチャータード銀行が1859年に支店開設(1862年に発券開始)、中国銀行の出張所が1916年に設立されている。HSBCは最初に中国に進出した外銀としても知られ、上海のバンドには旧上海支店の建物が残っている(1923年建築)。英国系の強い後押しのあったHSBCが中央銀行の無い香港で実質的に中銀の役割を担うことになる。

1970年代初といえば、歴史的には中国の国際社会への復帰(台湾の国連脱退)の時期であり、台湾の中国銀行が名前を中国国際商業銀行という民間銀行に変え、中国側の接収を免れる、というようなことが起こった時期である(戦前の中国銀行は国民党により台湾に移されたが、共産党の新中国も外為専門銀行として中国銀行を設立。この時期各地の台湾資産を接収していた。余談だが現在大陸・台湾双方に交通銀行と言う名の銀行があるが、英語名を変えて対応している。)

何れにしても張君がビジネスマン風の服装をしていたことから、英国系銀行の幹部候補生として就職していた可能性が高い。

(3)陸羽茶室

張君が沢木さんを昼食に連れて行ったのが陸羽茶室だ。1927年創業の老舗。現在も士丹利街にどっかりと趣を残して建っている。但し30年前は庶民のレストランであったところが、現在は一部常連と観光客の為の場所と化してしまった。

約7年ぶりに行って見ると、先ずは昼の飲茶屋のあのごみごみした熱気が無い。テーブルとテーブルの間隔が離され、優雅な昼食を取る場所になっている。店員は相変わらず昔の服装をしているが、それすら観光地の民族衣装のように見える。またメニューを見てビックリ。確かにザラ紙に書いてあるのは同じだが、値段が点心1つHK$25から。何と高いこと。30年前は『点心4つ、肉と野菜の炒め物、魚の油煮、ヌードル、パイで、2人でHK$20(1,200円)』である。現在は点心4つ、焼きそば、パイで3人でHK$390(約6,000円)。

確かに雰囲気は良い。高い天井、レトロな調度品、しかし何かが・・・?

12年前、初めて香港に赴任した際、家内と1歳3ヶ月の長男が合流した翌日最初に連れて行ったレストランがここ陸羽であった。今もある4人掛けのテーブルに座り、ポーレー茶を注文。何故か長男も美味そうに飲んでいると店員のおばあちゃんが広東語で捲くし立て始める。『こんな小さい子にお茶を飲ませるなんて、なんて親だ。子供は白湯だよ。』広東語など分からなくても、意味は通じる。日本だったら、客に向かってなんだ、と言うところだろうが、そのおばあちゃんの飾らない親切に胸を打たれたのであった。この雰囲気がここの良さではなかったのか??今では常連との間でだけ、このような会話が交わされているようだ。

因みに陸羽とは、唐代の人、中国茶の世界では『茶聖』と言われており、名著『茶経』を著している。『茶経』は現在までバイブルとして読まれ続けており、その卓抜した才能が窺い知れる。私も何時か原書で読んでみたいと思っている。

(4)皇后大道

張君と別れて、皇后大道を西へ。キャットストリートへ向かった。私もブラブラ西へ。現在は両側ぎっしり銀行、時計屋、服屋などが並ぶ、きれいな道である。レーンクロフォードの先に石坂街がある。この辺りから、左側の上りにぎっしりと店が見える。野菜市場あり、服を扱う店あり、雑貨あり。沢木氏の書いたものと似た光景が見えてくる。

但し彼が得た興奮が私には無い。廟街でも同じであったが、何がそう違っているのか?やはり客の側ではないか?30年前は皆がここで買っていた。男も勤め帰りに夕食のおかずを丹念に一品一品選んでいた。今はどうか?勤め帰りは皆スーパーだ。買い物に熱気が無いのは当然だろう。

老婆に対する商売が出てくるが、これも今は見られない。私はこの光景を台北の行天宮の前の地下道で見たことがある。老婆が客の老婆に何かを塗りたくり、その後糸を使って産毛(?)を抜いているのだ。見ている方が痛くなる感じだ。

道には新しい風景がある。中環中心(70階建て)、新紀元広場(洋式の広場がある)、そしてエスカレーター。沢木氏はこの付近に興奮して、『キャットストリートなどもうどうでも良くなった。』と書いている。

(5)キャットストリート
この道の正式な英語名はLascar Rowである。Lascarはインド兵、Rowは日本的に言えば長屋であろうか。要するに英国の香港占領後、この場所にインド兵の宿舎が作られたと言うことである。その後1900年代初めには、現在で言う骨董屋街が出現したようだ。古本屋なども多かったが現在は無い。

では何故Cat Streetと言うのか?一説には多くの泥棒が『ねずみ銀貨』と言われる古銭を盗んではこの辺りの骨董屋に売り捌いており、そのねずみ銀貨を吸収していたところから、猫が連想されたようだ。確かに現在でも古銭が多く売られている。

2年ほど前、香港に赴任してきた時に、よくキャットストリートも歩いた。確かに『泥棒市』『がらくた市』といった風情だ。色々なものを売っている。でも、観光地化してしまったこの場所は、北京から来た私にはもう物足りないものだった。
北京のがらくた市場には活気があった。大勢の人がいた。真剣な駆け引きがあった。これが興奮する要因だ。何となく楽しくなる要素だ。国は発展し過ぎると活気を失う。これは成熟とは違うのではないか?今の日本も同じだろう。

因みにこのキャットストリートからハリウッドロードへ上がる階段のような道がある。私はお茶屋巡りをすると何時もここの途中のトイレを使わせてもらっているが、ここをLadder Street(楼梯街)と言う。

ハリウッドロードの少し上には青年会(YMCA)と書かれた建物が見えるが、ここで1929年魯迅が歴史的な講演をしたことで知られている。当時の香港は孫文をはじめ、劉少奇・魯迅等共産党系の人々が香港で活動していた歴史的な場所でもあり、今のSOHOエリアには孫文の興中会の拠点があった革命の場所なのである。

中環から上環はオフィス街の印象が強いが、多くの歴史を含んでおり、歩いてみる価値の在る場所と言える。

 

《深夜特急の旅-香港編2003》(2)香港仔

2.2003年7月13日(土) 香港仔(P116-124)

今回は沢木氏が香港編で最後に書いた香港仔に行く。

夜7時半、セントラルよりバスに乗る。沢木氏の頃アバディーントンネルはあったろうか?無ければ島の西側を回ったのだろうか?今はトンネルを潜ると直ぐに到着。30分。やはり終点だ。しかし降りたところはバスターミナル。以前と光景は違っていた。

ターミナルの前は湖南街。あの少女ベティが書いた住所だ。あの場面は心に残る。沢木氏が香港仔を書いたのもこの場面の為だと思われる。当時水上生活者は15万人以上と言われ、香港仔の名所となっていた。ベティ達も幼い頃から日本人等の団体観光客に土産物を売っていたに違いない。観光客はベティの家を見て土産を買う。何とも切ない。

でも観光客が去ると、皆何事もなかったように縄跳びをして遊ぶ。この強さ。明るさ。この名場面の場所も今は唯のターミナル。隣に広い道路が出来、その向こうに綺麗になった遊歩道、海を眺める為のものだが、観光客の姿など全く無い。地元民が夕涼みをしている。小さな船で麺を作り、その辺の人に売っているぐらいだ。

確かに歩き易い。しかし味気ない。レストランジャンボが遠くに見える。ジャンボも80年代はこれぞ香港名所として、何度も来たものだが、今や規模も縮小されたと聞く。何しろ味が良くない、高い。悪い香港の典型例となっては致し方ない。レストランに向かう艀に乗り込む客も数えるほどしか居ない。寂しいがこれは許容されるべき淘汰。70年代には小さな船上で食事を供するレストランは無数にあったろうが、こんな大型のレストランは無かったろう。このレストランが香港仔の最後の輝きであったのでは?

ベティ達の通っていた小学校が気になっていた。かれらはどんな学校生活を送り、現在どうしているのだろう?現在香港仔には小学校が2つしか見当たらない。1つは香港仔大道にある私立カノッサ。隣にはお決まりとなった天后古廟がある。但し現在は改修工事中。どちらにしても校庭は殆どないし、水上生活者の子供達が行く学校とは思えない。もう1つも直ぐ近く、坂を上ったところにある公立学校だが、きっと30年前にはもっと多くの学校があったはずだ。『湾の周りに小さな廟があり、難民集落があり更に歩いて行くと学校がある』となっている。小さな廟は湖南街の直ぐ横にあるので、もう少し先に学校があったのではと想像する。兎に角水上生活者が坂を上って学校に行くとは思えない。

今水上で生活する人々は殆ど見られない。15万人の水上生活者は90年代に出来た政府の『公屋』に吸収された。それは彼らの見ていた夢の実現なのだろうか?それは香港の発展なのだ。だがそう思うと何故か複雑な思いになるのは、我々部外者のエゴであろうか?

沢木氏が唯一選んだ香港の観光名所『香港仔』は、今は静かな1つの町となった。

《深夜特急の旅-香港編2003》(1)筲箕湾

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

1.2003年7月5日(土) 筲箕湾

(1)トラムの風景

最初は家から近い所で、筲箕湾に行く。沢木氏はセントラルよりトラムで行っているが、今回は天后よりトラムに乗る。ところで何故沢木氏は筲箕湾に行ったかを書いていない。何か特別な興味があったのかと思ったが、トラムに乗った瞬間感じたものは『そうだ、そこが終点だったから』と言う呆気ないものだった。毎日暇に任せてふらついていたようだから、小雨の降ったその日トラムから降り気も無く、終点に着いてしまったのだろう。

01 001

トラムから見る景色は30年の間に随分と変わったことだろう。セブンイレブン、ワトソンズ、マクドナルドなど当時は存在しなかったものが目に付く。北角に新光劇院が見える。建物は建て替えたろうが、30年前もあったはずだ。因みに私は以前ここで一度広東オペラを見た。きらびやかで宝塚を思わせたが、延々5時間も劇が続いたのには驚いた、と同時に飽き飽きしたことを良く覚えている。

もう少し行くと葬儀場がある。香港島で唯一と言われており、いつも葬儀が執り行われている。先日自殺したレスリーチャンもSARS騒ぎの中、ここで葬儀が行われていた。SARSの折は、亡くなる方が通常より多く、3週間から1ヶ月待ちと言われていた。ここも昔からあっただろう。クゥオリーベイの太古プレースなどは新しいハイテクエリアであり、またUnyやJascoのある太古城も新しい町である。英国系のSwireが所有しているが、元々は何だったのだろう。沢木氏はどんな風景を見たのだろう?

(2) 筲箕湾

太古を越えると筲箕湾である。筲箕湾は2つの地区に分かれており、西側を西湾河、東側を東大街という。トラムの終点は東大街である。初めて終点まで来た。非常に簡単な終点だ。ここは東大街の真ん中。道幅はあまり広くない。両側に食べ物屋や雑貨を売る店が並ぶ。海方向に歩いて行くと天后古廟が見える。こじんまりした建物だ。古くはここが中心であった。沢木氏はここを歩いたろうか?特に書かれていない。

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更に真っ直ぐ行くと店もなくなり、海が近くなる。地下道を越えるとそこに譚公廟がある。筲箕湾は古来漁村である。海の守り神として、漁民は譚公廟を崇拝していた。現在は建物も新しくなっており、少々重みに欠ける感じだ。

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廟の先は海。『筲箕湾は小雨に煙って無数のサンパンに埋めつくされていた。』と表現されていた湾には、今も多くの船が停泊していた。但し生活する為のサンパンは数えるほど(それでも何隻かは洗濯物を干していた)、基本的には漁船。偶々天気が快晴であるせいか、沢木氏が描いたうら寂しい筲箕湾は既に無くなっていた。

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なおも先に進むと、船舶修理の小さな店が並ぶ。但し船を修理しているものは多くないようだ。何故なら店先にはバス、乗用車、バイクが多く置かれていたから。店を覗くとそのまま向こう側の海が見える。吹き抜けだ。爺さんが一人、椅子に靠れて眠っている。こんな風景は30年変わらないのでは?

(3) 香港海防博物館

香港海防博物館の表示を見つける。魚の卸売市場の隣。何気なく入り、緩やかな坂を上ると立派な建物がある。入場料10ドル。展示場は何とエレベーターで8階に行き、そこから外へ出て数分歩いた別棟にある。公園のようなところを歩くと大砲が置かれ、弾薬庫などもある。展示場で見ると香港の海防は明代より600年の歴史がある。その最初は倭寇の侵略を防ぐことにあった。続いてポルトガル、そしてアヘン戦争のイギリス。殆ど人が住んでいない時代から砲台は置かれていた。

展示場から外へ出ると湾が一望できる。対岸には鯉魚門がある。どうもここを隔てる海峡が鯉の口に似ており、セントラル、チムサッチュイが鯉の尻尾の形に近いことと海峡の入り口(門)であることから、鯉魚門という名前が付いたらしい。因みに昔行ったことがあるが、酷く観光地化しており、値段も高く、満足できる場所ではなかった。

博物館から戻ると、地下鉄駅近くの野外市場に行く。流石漁村だけあって魚を扱う店が多い。土曜日と言うこともあり、人通りも多い。値段も心持安いようだ。ただ魚はここで取れるのだろうか?疑問がわく。

(4)麺屋

沢木氏が元ペンキ屋の若者から麺をご馳走になる場面を探したが、今や屋台は衛生面で禁止されており、6種類の麺を出す店も見当たらない。仕方なく、天后古廟向かいの利安という麺屋で魚旦魚片麺を食べる。これが抜群に旨い。麺は細いうどんのようで柔らかい。(『白い麺のソバは、味も日本のうどんに似ていて、さっぱりとした塩味のスープによくあった』と表現されている)魚団子と厚揚げの中が魚のすり身といった感じの魚片が載っている。スープはあっさりした塩味で胡椒が加減良く効いている。16ドル。30年前の塩味の利いたスープはこれだろうか?1ドルであったとあるから、16倍か。若者が寝泊りしていたという『ルーフ・トップ』も探してみたが、見つからない。30年は殆どのものを変えてしまった。

元ペンキ屋の若者が明日の日雇い仕事をかたに沢木氏に麺をおごるこの場面、外国への遠い憧れと職の無い現実、何とも言えない悲哀を感じさせる。1970年代前半と言えば、文化大革命で大陸から多くの人が流れてきており、職も減ってきていただろう。沢木氏も数多く歩き回った中でこの場面を書きたくて、筲箕湾を登場させたのだろう。今の香港に重ねられる部分があるのでは?

帰りは地下鉄に乗る。30年の間にトラム通りの下には便利な地下鉄が走る。トラムが地下鉄に、そして人の心も変わっていったのだろうか。