香港歴史散歩2004(14)中英街

【番外編―中英街】2004年10月9日

AトラベルのSさんが突然『中英街ってどうやって行くんですか?』と聞く。私は全くノーアイデアであったが、K君が『私は上水から行こうとして途中で摘み出されました』と説明する。えっ、つまみ出される。こいつは国境越えでもしたのだろうか?俄然興味が沸く。

しかもSさんと本件の関わりを聞くと『社長と下川さんがお友達で取材らしいんです??』との答え。えっ、下川さんって誰??取材??何だか分からないが、巻き込まれていく。どうせいつも何も考えずに歩き回っているのである。Sさんも『メルマガのネタになるかもしれません』等と言って、私の心を揺さぶる。結局K隊長、S隊員の後ろからついて行くことになる。かなりおそる、おそるではあるが。

(1) 出発

尖沙咀のハイアットリージェンシーのロビーに朝9時集合。S隊員、K隊長とも若干緊張の面持ちで待つ。下川裕治氏と言えば、昔からアジア貧乏旅行に関する数々の著書があり、熱狂的な崇拝者を持つバックパッカーの草分けと言える存在。一体どんな人物なのか?(私は名前を聞いていたが、実は著作は一冊も読んでいなかった。すみません。)

そこへ実に気さくな感じで下川裕治氏とカメラマンの阿部さんが登場した。早速K隊長が中英街体験を説明し、中国側からも入れるかどうか分からない旨を述べる。おい、おい相手の目的を聞かないのかと思ったが、黙っていると下川さんが一言、『兎に角行って見ましょう。』と。そう、数々の旅行体験を重ねた彼は先ず行動してみるタイプである。ここでは情報は必要だが、議論は必要ないのである。

サッと立ち上がると、バス停に向かう。タクシーで行けば速いが、5人だとちょっとキツイ。特にK隊長を擁している我々には。K隊長は既に計算済みと見えてバス停に我々を導く。表の対面にはあの重慶マンションが見える。カメラマンの阿部さんはすかさずカメラを構えている。

 

バスに乗り込んでも2階の一番前の席に陣取り、阿部さんはシャッターを切り続ける。それは凄い勢いだ。窓ガラスにカメラや頭を打ち付けても撮っている。プロのカメラマンとはこういうものかと参考になる。下川さんが私に『本日は取材です。今回上手く行けば記事になりますが、お名前はどうしましょうか?』と聞く。『名前は出さず、写真は後姿のみでお願いします。Sさんは別ですけど。』と勝手なことを言う。本当は本になるなら載せてと欲しいのだけれども。

(2) シンセンへ

ホンハム駅に到着し、早々KCRに乗り込む。普通車には車両の端に2人掛けの椅子が2つあり、更に1つだけ2人掛けと向き合う形の椅子がある。5人が乗るのに丁度良い形である。阿部さんは相変わらずシャッターを切り、K隊長は下川氏にあれこれと体験談を披露している。私はS隊員と後ろの席でおしゃべり。

 

時々聞き耳を立てると中英街への行き方について、K隊長は自信が無いようだ。下川さんは悠々と『1980年頃広州にいきましてねえ。あの頃は香港経由、それも重慶マンションでしかビザが取れなかったんですよ。旅行社の人が来て、ビザ申請するんですよ。』などという貴重な話をしている。また『最近3年毎ぐらいに重慶マンションに来ますが、毎回滞在者の国籍が大きく変わるんですね。面白いですよ。前回はネパール人が多かったが、今回はアフリカ人ですね。何故でしょうかね?』などという経済で言えば定点観測のような話が出る。もう直ぐ羅湖というところでとうとう阿部さんは席を立ち、カメラを構える。動きが本当にスムーズ。

羅湖駅に到着するとK隊長が突然、『ちょっとすみません』といって今降りた列車に向かって走る。どうしたんだ??少しして戻ってきてすみません、又言う。まさかパスポートを席に忘れた訳ではあるまいが??誰もそれ以上聞かない。K隊長のコミカルな動きが笑いを誘うのみ。

(3) 茶葉世界へ

羅湖から真っ直ぐ中英街のある沙頭角行きのバスに乗る予定であったが、あまりにも情報が無いので1つの提案をした。『茶葉世界に行きませんか?』??何で?実は茶葉世界で前回1人の人物と会っていた。鳳凰単叢を売る李さんのご主人は何と沙頭角の税関職員。何か情報を持っているかもしれない。下川氏も反応が早い。『行きましょう』

茶葉世界に着くと李さんは何時ものように座っていた。事情を話すと『何でそんな所に行きたいの??』とかなり不思議そう。しかも彼女自身中英街に行ったことがあると言う。中英街はどんな所?李さんの説明。『沙頭角のイミグレ近くにある国境線の道。村の前に大きな門があり、住民と許可された人だけが入れる場所。確か毎月許可される人数が決まっている。昔は中国人が買い物に行く場所。買うものは外国製の日用品、例えばアメリカ製のシャンプーとか。観光で行く人がいるとはねえ』

そうか、ここは国境線で真空地帯。免税品がある。以前は大陸から香港に旅行することは大変であった為、ここで香港の物、つまりは外国製品を買うことに価値があったのだ。しかし香港への個人旅行が解禁された現在、その意味合いは薄れている。だから李さんは『観光で行く人がいるとはねえ』となるのである。

李さんはご主人に電話して確認してくれる。ご主人の情報。『外国人には開放されていない。当面開放される予定はないらしい。中国人は旅行社に申し込むとツアーに参加できる。香港人でも中国側から入るのは無理』道は閉ざされる。

 

しかし下川さんは諦めない。『門の前には行けるんですよね?兎に角そこへ行きたい。どうやったら行けますか?』李さんもお手上げで、ご主人が沙頭角から来ることになる。

(4) 昼食

この時点で既に12時になっている。こんなことで良いのだろうか?ご主人が来るまでに先ずは腹ごしらえとなる。時間が無いので隣の泮(はん)渓酒家へ。この店、1947年に開店した広州3大酒家の1つで由緒ある広東レストランの支店。手頃な値段で点心が楽しめる。注文はK隊長に任せて、漸く今回の取材目的を聞く。『現在好評連載中の週末アジア旅行の企画。以前はグアム、サイパンであったが、アジアも金曜日の夜または土曜日の朝日本を発って月曜日の朝までに帰国する旅行が可能な時代。基本は夜行便でシンガポール経由東南アジアだが、香港も外せないところ。』

『韓国は羽田―キンポ間に定期便があり、もっと行くかと思ったがそれ程でもない。実は今の日本の20代、特に男性には頭を痛めている。彼らの旅行は女性化している。これまでの若者は目的地に着くまでの旅の苦労を楽しんだが、彼らは違う。飛行機で目的地のホテルに入り、テレビをつけてからガイドブックを開き、何処か美味しいレストランは無いかと探す。』S隊員も続く。『日本の旅行社で働いていた時、若手のサラリーマン(男女とも)から、休みがあるので何処かへ行きたいが良いところは無いか、と良く聞かれた。特に行きたいところはないのだ。こちらがどこかを勧めると、良いとも悪いとも言わない。じゃあ、意見が無いかと思うと結構煩い。本当に困った』

うーん、これは旅行雑誌に記事を書く人には大変な世の中である。下川さんによれば、最近の若者旅行のヒット商品は何と『四国のお遍路さん』だそうだ。(私の歴史散歩のこの形のような気がするが??)話はミャンマーに飛ぶ。下川さんは何度も行っているという。『政治がもう少し良ければ、もっと良い国なんだけどなあ。』と総括。『チャイトンは綺麗な街だった。タイ側からジープで8時間掛かったけど。インパール付近はなかなか入れない。ヤンゴンでは最近川向こうに行ったよ。』ふーん、そうか。今度タイ側からチャイトンに行こう。チャイトンはシャン州の美しい街と書いてあったし。

香港から2泊3日でお勧めの場所は。『ラオスの古都ルアン・パバーン。世界遺産にも登録された美しい街並み。上手く行けばバンコック経由でその日の内に行けるよ。ビザは空港で』是非行って見たい。老後住むなら何処。『本当はバンコックだろうけど、既にしがらみが多過ぎてどうも。現在(奥さんと)相談中』やっぱりバンコックか。

(5) そして沙頭角へ

茶葉世界に戻ると李さんのご主人が来てくれていた。何と税関職員の制服のまま、ご飯を食べていた。我々の為に急いで来てくれたのだ。感謝。

再度ご主人に確認するが、『中英街に入るのは無理。門の前には行けるが何も無い。バスで行けるが、時間が掛かる。中英街は門の外から見ることは出来ない。もしかしたら盤山の山道からなら少しは見えるかもしれない。そこに行くには車をチャーターするのが良い。』と言って、早々車の手配をしてくれる。やあ、茶葉世界人脈が生きた。突然車を頼んだこともあり、なかなか来ない。そういえば、朝シャングリラホテルの横を通った時にホテルの前の道が掘り返されているのにビックリ。しかも特に柵も無く、人々がそこを歩いている。道は閉鎖されているが。そうだ、道の閉鎖により車が入れないのか。

李さんは飽きずにお茶を入れてくれる。皆が潮州の鳳凰山に興味を持ち、質問する。カメラマンの阿部さんはお茶が美味しいと言って、古単叢などを買い込んでいる。漸く車が来たのは2時前。少しボロのバン。タクシーでは5人乗れないので、特別にアレンジしてくれていた。ご主人は車の所まで送ってくれる。値段交渉もしてくれる。1時間、100元。

沙頭角はシンセンの東、車で30分。車は直ぐに国境沿いを走る。阿部さんは何も言わずに助手席に乗っている。国境のフェンスを撮り、香港側の山を撮り、道路の表示に『沙頭角』『中英街』とあるのを何とか撮ろうとする。途中トンネルを通るのであるが、そこの脇に新しい道が出来ている。盤山に登る道である。この盤山公道は正に国境線に沿っている。山の間に歩哨の物見櫓があったりする。全くはじめて見る光景である。向こうの山もこちら側にもフェンスがある。間は中立地帯である。

山を越え下りに入るところで車を停める。ここにも物見櫓があり、立ち入り禁止とある。ここからは沙頭角の街が一望出来る。しかしこの街の何処に中英街があるのか?下川さんと阿部さんは流石に仕事である。懸命に探す。ある程度見た後取り敢えず下に降りることにする。

(6) 中英街

下に降りる所にそこだけ時代が違う建物が並ぶ一角があった。近代的な建物の裏側に取り残された場所。どう見ても客家の家に見えるのだが。沙頭角には歴史的に客家が多く移民したという。時間の関係もあり車を降りてみることは無かったが、今度機会があれば是非行って見たい。

沙頭角のイミグレの前を通過する。何処まで行くのだろうか?と思っていると、何と直ぐ近くに『沙頭角』と大きく書かれた門(というより城壁)が見える。周りには人だかりが出来ている。我々の想像した場所とはちょっと違う。

 

『中英街』は1898年に新界がイギリスに租借された折、建設される。当初は小川であったが後に埋め立てられる。全長250m、幅約4m。石碑には『光緒24年(1898年)、中英地界』と書かれているという。1928年に香港側の粉嶺から沙頭角までの道路が完成。中英街の発展に繋がった。戦後の中国大陸解放により香港政府は保安上の理由から一般市民の侵入を許可制として現在に至っている。尚最近香港の新聞には『中英街の秘密トンネル発見』と言った記事が載っているそうだ。それだけ必要性が失われた証拠か?

車を降りてその門に近づく。するとそこかしこから『入りたいなら、手続きするよ』との声。えっ、出来るの?しかしここは中国。疑ってかかるのが筋。1人のおばさんがさっと通行証なるものを差し出す。すかさず阿部さんが写真を撮ろうとするが、おばさんもサッと引っ込める。どう見ても怪しい。

その後何人かに聞いて分かったことは『外国人は手続きできない。香港IDカードでも無理。外国人旅行証があれば通行証が出ることになっているが、その例は聞いたことが無い。住民は皆通行証を持っている。』ということ。やはり無理なのか?念の為、運転手が門衛に質すが、答えは同じ。しかし下川さん、阿部さんは諦めない。じっと佇み、タバコを吸う。『あの建物の上はどうか?登れるのか?』と考えを巡らしている。うーん、凄い。

門の向こう側から両手にズタ袋を持って小走りに来る人が見える。と、門の所にその荷物だけ置いて立ち去る。すると門の外からやはり小走りに人が走り寄り、その荷物を持つと一目散に外へ走る。どうやら密輸のようであるが、中身は何か?

 

阿部さんはその後を着いて行く。直ぐ隣の古ぼけたビルに入り込む。表面的には土産を売っているが何となく怪しい。荷物持ちは奥の階上に消える。我々も少し登るがそこには怪しい人影が、監視するように下を見ている??もう一つのビルも登ったが、やはり中英街は見えなかった。反対側には高層マンションが建っていたが、ここは警備が厳しそう。門の横にあるイミグレ?を見に行くが、許可書を持った中国人が手続きしているだけで、外国人の姿はない。万事休す。

最終的には中英街をこの目で見ることは諦める。そして空母ミンクスの記念館に行くが、心はいまだ中英街。ミンクスを見ずに去る。塩田港を見に行く途中、『あの山の上の別荘辺りからは中英街が見えないか?』となる。

 

運転手も道が分からないながら、懸命に探してその別荘に登る。しかし別荘入り口で守衛に断られる。当然である。それでも途中の道路から眺めてみる。どうも角度が合わない。見えない。やはり先程の盤山の中腹から見るのが良いという事になり、戻る。再度見てみると地理が分かっているだけに、様子は良く分かる。ただし残念ながら、2つの高いマンションに邪魔されて、中英街の方向は見えない。これだけ努力したのは久しぶりである。下川、阿部両氏は最後の最後までファインダーを覗く。やはりプロである。その後地王大廈に寄り、展望台からシンセンを見つめる。

後で聞いた話では、翌日両氏は香港側からも中英街にトライした。勿論達成されなかったようだが。久しぶりに諦めない姿を見た。最近忘れていたことである。

 

 

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