香港歴史散歩2004(10)湾仔

【香港ルート8湾仔】2004年9月25日

湾仔とは小さな湾という意味。元々皇后大道東の北側は湾であり、後に埋め立てられたもの。英国統治初期にはイギリス人も多く住み、政府は上環、中環に合わせてここ湾仔を下環と名付けた。その後中国人人口が増え、20世紀初めからの埋め立てで土地が広がり、繁栄を迎える。人口密集地区となる。

(1) 春園街

MTR湾仔駅を降りると海側に行くか山側に行くかで、情景が大いに異なる。海側はコンベンションセンター、グランドハイアットなど綺麗な建物が多く、道も広々としており、清潔。反対に山側はごちゃごちゃした狭い道が続く、という印象。駅の山側に春園街という道がある。典型的な狭い道。ところがこの一帯1850年頃はイギリス人の庭付き1戸建て住宅があり、第4代総督はここで暮らしていた。現在歩いてみても、1戸建て住宅があったとは考えられないほど、道は狭いのだが。

現在の春園街は小さなレストランと店が並ぶ、何の変哲も無い通り。丁度新しい店と古いままの店が交錯してはいるが。歩いて行くと服や野菜を売る屋台街にぶつかる。その名も加交街(Cross St)。更にそのまま真っ直ぐ行くと右側にごみ収集所。夕方6時頃にはくず屋が続々と集まってきてゴミを置いて行く。右に曲がり元の春園街に戻ると直ぐに巨大な建物、合和中心が見える。

 

 

尚春園街の由来は、庭付き住宅に噴水があったからだが、何かの勘違いでSpringが春と訳されたようだ。

(2) 洪聖古廟

埋め立てが行われる以前皇后大道東の目の前は海であった。1847年浜辺にあった大きな岩に寄り添うように建てられたのが、この洪聖古廟。その後1860年、67年の改築によって現在の姿となる。

中はかなり狭く、薄暗い。2階建てのようである。流石に古く、地元の人以外は中に入り辛い雰囲気。この古廟は地元の人に浸透しているようで、お年寄りを中心に前を通る人が手を合わせて行く。最近あまり見ない光景である。

現在は合和中心の横、商店がひしめく中にひっそり立っている。そこだけが異次元の空間、といった趣である。裏の崖に沿って昔ながらの林が広がるのが特徴。

 

(3) 蟠龍里済公活仏堂

現在の合和中心(ホープウエルセンター)は1980年代に建てられた。以前は蟠龍里済公活仏堂という名の堂があったというが、一体どんなものなのであろうか?済公の生き仏が安置されているのかと思ってしまう。

 

済公活仏堂はその後太平山街の広福義祠に移され、一方蟠龍里入り口の石額は太古広場のテラスに飾られていた。(その後両方とも探しに行ったが、広福義祠はやはり地元の人々の信仰を集めており、済公活仏堂はしっかりと根付いていた。一方太古広場は改装されて、テラスにあった歴史的な物は撤去されたと受付嬢に素気無く言われたが、広場と隣の政府庁舎の間に確かに飾られていた。恐らく気付く人は殆どいないほどひっそりと。)

(4) 旧湾仔郵便局分局

合和中心の前を東に進むと湾仔峡道との交差点に白っぽい小さな建物が見える。ちょっとお洒落なその建物が旧湾仔郵便局である。1912年に当初は警察署として建造。1915年から郵便局として使われる。

現在郵便局は隣のビルの2階に移転、建物は重要文化財として保護されている。一般にも開放されているが、当日は丁度閉まっており、見学は出来なかった。

 

(5) 華陀医院

石水渠街72号。湾仔峡道を登って行くと直ぐに小さな公園があり、老人が日向ぼっこをしている。狭い空間ではあるが、安らぎがある。隣の住居ではおじさんとおばさんがお互いのベランダから大声で話をしている。香港らしい風景である。

公園を抜けると石水渠街に出る。突然目の前に非常に歴史的な建物が目に入る。3階建て。右の1つは古びた石造りで1階の扉はかなり凝った観音扉。左は青く塗られた壁。この辺りでは異彩を放っている。

 

 

 

 

 旧華陀医院は左の青い壁の建物。以前は俗称華陀廟。現在は景星街との角に骨接ぎ等の医院が出来ており、『男授(男子を授かる)』の文字も見える。香港では今でも男の子が欲しいのであろうか?

 

 

 

(6) 下環更練館跡

石水渠街を登って行くと左側に聖雅各福群会ビルがある。1857年に政府は区画整理を行い、湾仔を下環と名付ける。西環、上環、中環はその後も使われているのに何故下環だけは使われなくなったのであろうか?

当時は治安が悪く警察も未整備であったため、各地で自警団が結成された。湾仔ではここに更練館が置かれたが、その後警察が整備された結果、20世紀に入り廃止された。(上環でも同様の更練館跡があった)

 

(7)北帝古廟

更に石水渠街を登り切ると、興隆街とぶつかった所に北帝古廟がある。1862年建造。しかし行ってみると、何と全面改装中で全くその姿が見えない。廟の正面には1604年に鋳造された銅像があるとされていたが、これも見えない。廟の外の門から中には入れないので、諦める。このような全面修繕が行われた後はどんな姿になるのであろうか?公開は来年になる。

(8)湾仔街市

皇后大道東に戻るとそこに街市がある。1937年建造。どこの街市の建物より立派に見える。丁度交差点にある見る角度が良いからだろうか?この建物はドイツのバウハウス方式。バウハウスとは1919年にワルターグロピウス(建築家)を校長として国立バウハウス ワイマールとして発足した学校のことで、そこから生まれた水平、垂直の直線的な構成を元に無装飾の平坦な壁面と連続するガラス面、陸屋根、白を基調とする淡白な色彩などの特色を示すものである。

 

現在も下の階に野菜、魚、上の階に肉の売り場がある。天井が高く、年代物の扇風機が回る、広い売り場は非常に清潔感のある市場である。また果物売り場は裏口から入る。遠くドイツの建築がいち早く香港に導入されたのはいかなる理由であろうか??

他の街市同様周辺には野菜、魚、肉などの屋台が道一杯に店を出している。お客は街市まで行かずにここで買い物をするようだ。賑わいが凄い。

10月3日(日)

(9)中華循道会礼拝堂
大仏口。正式名称は循道衛理連合教会。軒尼詩道と荘士敦道の交差点の三角形の土地に建てられていた。1932年建造。1998年に再建され、高層ビルとなっている。高層階はオフィスビルとなっているが、階下は今もメソジスト教会として使われている。

 

 

(10)大仏口

軒尼詩道と皇后大道東の交差点。日本占領時代に一軒の商店があり、表に三尊仏の絵が書かれていた。戦後は漢方薬屋に代わり、表には一尊仏が書かれていたという。今ではその漢方薬屋も無くなり、当時を偲ぶものは何も無いが、大仏口という名称だけが残っている。

 

 

現在この交差点には建物は無い。当日は日曜日であり、歩道橋の横にあるベンチには朝からフィリピンのアマさん達が座り込んで楽しそうにお話していた。

 

 

 

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