香港歴史散歩2004(11)上環

【香港ルート13上環】2004年9月26日

(1)西港城(ウエスタンマーケット)

1906年建造。旧上環街市の一部。街市は1988年に閉鎖されたが、翌年ショッピングセンターに改築。赤レンガの3階建て。横をトラムがゆっくり通るなど非常に良い雰囲気で建っている。1階は時計、玩具などの土産物屋。両サイドの入り口は天井が高く、歴史的建物の雰囲気を出している。2階は布、生地屋が所狭しと商品を並べており、3階はレストラン。観光地らしく綺麗に補修されている。

3階の上の天井にはステンドグラスがあり、西洋色を出している。但しレストランが良い味を出しているかどうかは試していない。山側の出口にはトラムの駅があり、一部はここが終点。駅舎の復元と思われる建物が、これも雰囲気一杯に建っている。赤い郵便ポストもある。うーん、オールドホンコン。

(2)上環街市南座跡

皇后大道中345号。西港城から細い道を真っ直ぐ北側に歩くと、上環市政ビルが目に入る。下には街市もあるようだ。ここは1858年に街市が建てられた場所。中国からの移民が商人となり、次々に店を開いていった。1906年には手狭になった為北側に新しいビルを増築、北座と呼ばれたことから昔からのビルは南座と呼ばれる。

1900年前後のこの地はどんなだっただろうか?活気に満ち溢れていたのではないか?福建から、潮州から、一攫千金を目指した人々がこの街市に集まったのだろうか?この街市は1980年代に取り壊されるまで現役として使用された。

(3)文咸街と南北行公所

1857年に三代総督Bonhamにより上環の埋め立てが始まる。1860年頃に完成したこの埋め立てで上環一帯は人口が急増することになる。文咸街とはこのBonhamに因んで付けられた。香港は中国大陸と東南アジアの中継基地。ここを拠点にマレーシア、インドネシア、タイなどに渡って行く者もいる。そして自らの故郷と自らの同胞を結んだ貿易が始まる。この仲介者を南北行と呼ぶ。

 

1868年には広東十三行に倣って、南北行公所が作られる。広東をはじめて福建、潮州、山東など出身の有力商人が代表を務める。1920年には同業者間の規則も定められ、自衛、消防などを行うようになる。文咸西街に公所が設けられたためこの通りを南北行街とも呼ぶが、1997年にビルが取り壊され、現在は新しいビル(文咸東街と西街の交差する近く)に移されている。

文咸街には所謂乾物屋、漢方薬屋などがひしめき合い、今では立派な店構えを連ねている。ここでの成功者の子孫が商いを行っているのだろう。茶を扱う店もある。

(4)高陛劇場跡

文咸西街を出ると徳輔道西。そして直ぐに高陛街に入る。この辺りはかなり落ち着いた裏通り。午後の日差しを浴びて老人が公園のベンチに腰掛けている姿が似合う。この人達にもきっと波乱の人生があったのだろうが。

道を和風里で曲がる。和風というと日本と関係があったのかとも思うが、恐らくは『柔らかな風』が吹く場所であったでは?緩やかな坂を上ると皇后道西にぶつかる。以前この角に高陛劇場があった。1890年に建造、当時としてはモダンな作りで1階は全て木製の長椅子、2階は中央が女性専用、両脇が立見席。その後何度も再建されるが、1937年に取り壊される。一体どんな劇が上演されていたのか?広東オペラか?

現在この交差点近くに高陛大廈というかなり古い建物がある。当時を偲ぶ唯一の建物である。因みに先日北角の新光劇院に行った時、偶然にも高陛劇団の名前を目にした。どの様な繋がりかは分からないが、劇団の名前に残っていることは何となく嬉しい。

(5)大笪地跡

高陛大廈の所を曲がると緩い登りがあり、左側に荷李活道公園がある。ここはアヘン戦争時の1841年にイギリス軍が香港に上陸、国旗掲揚の儀式を行い正式に香港占領を宣言した場所である。

そして軍営が築かれたがその後セントラルに移され、この場所では蚤の市が開かれるようになった。大笪地という。現在は公園となっており、老人がゆっくりと腰を落ち着けている。この公園は最近改修されたのか、他の公園と比べてきれいである。大樹もあり落ち着ける。中秋節の準備も整い、皆が集える席も用意されている。入り口付近では上環の古跡を復活させようという市民グループが集会を開く所であった。やはりここにも都市化の波が押し寄せ、古い町並みが消えていっている。この運動にどれだけの人が関心を持っているのであろうか?

(6)水坑口跡

開港前は大坑口(現在の水坑口街)。山から水が流れる河口であった。ここから北は全て海。蝦が良く取れたと言う。エビ漁の漁民が体を洗ったのが水坑口という名の由来。確かに今でもここから北へは河が蛇行したように下っている。1841年にイギリス軍が上陸した際、占領角と名付ける。現在の英語名『Possession Street』はここから来ている。

(7)荷李活道

1844年、ここを占領したイギリス軍は荷李活道を建設。上環から中環までを繋ぐ。道沿いには全て常緑樹の喬木と潅木の並木(Holly Wood)であった為、Hollywood Roadという名が付く。

現在では香港一の骨董屋街となっている。綺麗な店が多く軒を並べており、外国人が骨董を求めて歩く姿が見られる。90年代のようなバブル的な賑わいは無く、道には停滞したムードが流れているが、最近中国大陸から大量の骨董買付団が来ているとの話もある。

(8)香港島初の警察署

現在の荷李活道と差館上街の交差点に開設。開港初期に中国大陸からの移民が急増し、治安が悪化。政府は治安維持のため、軍の中から警察官を募集。主にインド兵が応募。彼らの宿舎はこの場所の直ぐ下にあったため、便利であったに違いない。

その後警察署はセントラルに移され、建物は取り壊される。現在はかなり古い住居が建っており、往時を偲ぶものは何も無い。

(9)東華医院

荷李活道公園の前に普仁街がある。少し登ると右側に東華医院がある。1872年建造。中には歴史を感じさせる建物がある。100周年記念のビルもある。歴代の総裁の写真が飾られたビルもある。6代総督マクドナルドは華人医院の設立が急務と見て、東華医院の設立を支持。何と当時禁止されていた賭博場を復活させ、そのライセンスを公開で売却。医院設立費用を当てた。(その後この政策は多くの非難を浴び、賭場は直ぐに閉鎖される)

東華とは広東華人の略である。現在東華三院と言われている東華、東華東院、広華(九龍)の3つの医院の中で最古。後述の広福義祠が1869年に解散させられた後、華人の医療を委ねられた。当時広東省から多くの移民がやって来たが、上環の衛生状況は決して良くは無かった。当初華人は西洋医学を受け入れず、貧困で死に直面した華人を収容。その後1896年には西洋人を雇い、西洋医学を開始。

東華医院は医療のみならず、災害時の救護などにも力を入れている。香港だけでなく、中国国内で大きな災害があった場合にも寄付などを行っている。また1932年の上海事変(日本軍が上海に侵攻した事件)の際には、香港に避難してきた1万6千人の人々の面倒を見ている。尚東華三院は香港で最も歴史のある慈善機構であり、ここの委員は所謂香港の名士で構成されている。

(10)広福義祠

太平山街に入る。因みに太平山街の由来は、開港当時治安の悪かったこの地が後に警察署が出来て太平(平和)になった所から来ている。目の前に『済公聖仏』と書かれた場所が見える。何だろう?2階建て、上には大きな渦巻き型の線香が沢山掛けられている。入り口は狭く、2階に上がる階段は一見さんを拒むようだ。

更には階段の所に『百姓廟』と書かれている。近所のおじいさん、おばあさんがお参りしているようだ。ここが私の探していた『広福義祠』であったのだが、全く分からなかった。それ程庶民的な場所である。

1856年建造。当時は貧者、病者、身寄りの無いものが死を待つ場所であったと言う。開港当初の香港には多くの移民がやってきたが、その多くは安い労働力を提供する出稼ぎ者であった。彼らは一度事故や病気になると資力が無い為、全くの無力となる。

1869年には死臭が充満していると言う住民の苦情により第6代総督マクドナルドの命令により解散。その後東華医院が作られ、医療、薬品の提供が行われた。『済公聖仏』とは現在の湾仔、合和中心が建てられる前にあった『蟠龍里済公活仏堂』が1980年代に移されたもの。今も地王菩薩と共に祭られている。

(11)水月堂と観音堂

広福義祠を過ぎ階段を登る。その途中左側に水月堂がある。1895年に太平山街に移転。廟は天后宮を祭っていたが、80年代に済公活仏堂の緩瑞伯殿が湾仔から移された。その後1997年に廟が取り壊され、現在はビルの1階にひっそりと残っている。

中には老人が二人、お茶を飲みながら話し込んでいる。とても中に入る雰囲気ではない。よそ者が入ることの出来ない、昔ながらの街なのである。

階段を登り切ると観音堂がある。水月堂と全く同じで1895年建造、1997年取り壊し。現在は建て替えられた建物の一階に観音大士が祭られている。入り口は狭く、中を覗き込もうとするとおじいさんが中から睨み返す。表で写真を撮ろうとしても、道の反対側におじさんが椅子に腰掛け、黙ってこちらを見ている。太平山街、ここは昔の香港そのものなのではないのか?

(12)卜公花園

太平山街の少し上。バスケットコートの横に卜公花園がある。人口が急増していた上環でも最も人口が密集していた場所。1894年(日清戦争の年)にペストが大流行。ここで多くの人々が亡くなった。政府はこの住宅密集地区の土地を買い取り、住民から鼠の死骸を買い取るなど浄化政策を行った。

1904年(日露戦争の年)にはペストも沈静化し、ここに公園が作られた。現在公園は大樹が光を遮り、老人達が木陰で昔話に花を咲かせている。丁度100周年を迎えた公園である。公園の名前は当時の香港総督Sir Henry Blakeに因んで付けられている。

(13)同盟会招待所跡

普賢街。孫文は革命の人である。1905年に中華同盟会を結成。しかし革命に相次いで失敗。多くの同士が香港に逃れる。逃れた同士を匿う場所としてここ上環に招待所が設けられた。当時上環は人口密集地帯、隠れるには絶好の地域であったろう。華人も多い。

近代中国建国の父、孫文はここ香港で教育を受け、洗礼を受け、革命を模索した。これ程深い繋がりがあるのに香港政府はこの歴史的な遺産を有効活用していないように思う。勿論返還前はイギリスの手前、難しかったのかもしれないが。

上環には孫文ゆかりの場所が多い。各ゆかりの場所には歴史古跡のプレートがあり、番号通り歩いて行くとこれだけで歴史散歩出来るようになっている。当日も親子連れが本を見ながら歩いている姿が見られた。中国大陸の観光客も買い物に飽きた後はこういった歴史に眼を向けてくれると良いのだが。

因みに孫文夫人の宋慶齢は1937年の上海陥落後香港に身を寄せる。1938年には『保衛中国同盟(保盟)』を結成。保盟は大量の献金を集め、寥承志(後に中日友好に貢献する)を経由して八路軍に資金が流れた。尚保盟に結成には上海の暗黒街の大ボスと言われた杜月笙なども援助しているのが面白い。39年には『中国工業合作協会』の国際委員会を設立。中国難民などのへの支援も行っている。

尚招待所跡と思われる建物の写真を撮ろうとしたところ、数人がカメラを持ち、若い女性を撮影していた。どうやらアマチュアの写真同好会がモデルを連れて撮影会をしている雰囲気であった。彼らはこの建物の歴史を知っているのだろうか?

(14)香港医学博物館

招待所跡の横にある階段を登ると洋風のレンガ造りの建物が見えてくる。香港医学博物館である。1906年に先程のBlake総督の建議により細菌研究所として建造される。庭には薬草が沢山植えられており、『病理研究所』として医学研究が行われた様子が分かる。

 西洋と中華の折衷洋式、重厚な造りの2階建て。入り口でHK$10を払い中へ。昔のべッド、診察台、など様々なものが飾られている。2階にはベランダもあり、午後の穏やかな日差しの中で実に気持ちが良い。こんな環境で病気治療が出来た人は幸せだっただろう。実際何人の香港人がその恩恵を受けたかは疑問であるが?地下にも歯科治療施設などがあり、実はかなり広い施設であることが分かる。又別館もあり庭も広い。本博物館は公営ではないため、資金難に陥っているとの話しもあるが、このような建物こそ是非とも香港政府が保護するべきである。

(15)上環更練館跡と香港中華基督教青年会

医学博物館から下ると直ぐに必列者士街にぶつかる。その角に元は上環更練館があった。開講当初は香港の治安が悪く警察も整備されていなかったので、華人団体や商人が自衛団を組織し治安維持を図っていた。20世紀に入ると警察が増強され、自衛団の役割は小さくなる。建物は取り壊されて現在は1階が印刷会社、上が住居になっていた。

上環更練館跡の道の向かいには香港中華基督教青年会(YMCA)がある。香港のYMCAはアメリカ人牧師によって1901年に開設。その後1918年に現在の場所に香港初の室内プール、室内運動場、宿舎、レストラン、大礼拝堂を完備した建物を建造。

1936年には香港初の集団結婚式(11組)が行われた。又1941年の日本軍侵攻では防空救護隊本部となり、住民の避難所となった。現在は5-6階建てであろうか?最上階から下を見ている若者数人が見える。今でも宿舎として使われているようだ。

尚このYMCAでは1927年に魯迅が講演を行ったとの記録がある。歴史的には革命家などが多く集った場所なのであろうか?

(16)文武廟

YMCAを少し下るとそこは荷李活道。角には上環の観光拠点、文武廟がある。文の神様、文昌帝(古代の神霊)と武の神様、関帝(三国志の関羽)が祀られている。以前は文武の神は別々に祀られていたが、明清以降広東省では二聖人を合祀するようになる。この文武廟も何時創建されたかは不明であるが、現在の建物は1847年建造。

開港当初イギリスから法治制度が導入されたが、華人、特に商人はこれを好まず、伝統的な神事による解決を文武廟に求める。即ち『黄色紙を燃やす』(黄色い紙に宣誓の言葉を書く)『雄鶏の首を切る』(もし疚しい事があればこの鳥のようになることを示す)などの神事が行われ、事件は解決して行く。又この地区の重要事項を協議する場としての役割も担っていた。1908年には政府の条例により東華三院の管理下に入る。

3つに分かれている建物に入ると線香のにおいが立ち込める。観光客も多いが地元の人々も常にお参りしている場所である。堂内には1847年に鋳造された銅鐘など歴史のある品々が納められている。横道の壁には『無料診断』の文字が見える。今でも昔のように貧しい人々の為に無料で医療行為を行っているのだろうか?

(17)キャットストリートと警察宿舎跡

この道の正式な英語名はLascar Rowである。Lascarはインド兵、Rowは日本的に言えば長屋であろうか。要するに英国の香港占領後、この場所にインド兵の宿舎が作られたと言うことである。(尚警察が整備される過程で多くのインド兵が警察官になっている。)その後1900年代初めには、現在で言う骨董屋街が出現したようだ。古本屋なども多かったが現在は無い。

では何故Cat Streetと言うのか?一説には多くの泥棒が『ねずみ銀貨』と言われる古銭を盗んではこの辺りの骨董屋に売り捌いており、そのねずみ銀貨を吸収していたところから、猫が連想されたようだ。確かに現在でも古銭が多く売られている。

2年ほど前、香港に赴任してきた時に、よくキャットストリートも歩いた。確かに『泥棒市』『がらくた市』といった風情だ。色々なものを売っている。でも、観光地化してしまったこの場所は、北京から来た私にはもう物足りないものだった。北京のがらくた市場には活気があった。大勢の人がいた。真剣な駆け引きがあった。これが興奮する要因だ。何となく楽しくなる要素だ。国は発展し過ぎると活気を失う。これは成熟とは違うのではないか?今の日本も同じだろう。

 

 

1 thought on “香港歴史散歩2004(11)上環

  1. 1996年2月の15回目の香港で、ウエスタンマーケットに行ってますが、その後も何度か立ち寄っていますね。行く度にテナントが替わっていたような記憶が。ハリウッドロードで歩き疲れて,W.M.で休み、トラムでセントラルへ。

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