香港歴史散歩2004(8)油麻地

【九龍ルート2】2004年5月8日

(1) 油麻地揚水小屋

窩打老道と上海街の角に1895年に建てられたポンプステーション。通称『赤煉瓦小屋』。当初は香港政府が油麻地住民に飲料水を供給していたが、1920年以降は改築され郵便局として使われたという。何故郵便局かというとこの近くには手紙の代筆をする代書屋が多かったので、郵便局の存在が便利であったようだ。

1967年に郵便局が移転、その後再開発で取り壊される予定であったが、何とか残された。2000年には香港初の揚水ポンプステーションであったという理由で、辛うじて保存の対象となった。

今回行ってみて驚いた。赤煉瓦小屋のあるはずの場所には、何と高層マンションが建設中であった。新鴻基が開発し『窩打老道8号』という名前で売り出し中である。何しろMTR油麻地の駅前で地の利は抜群。

香港ではやはり開発優先で大企業の力があれば歴史的な建造物も簡単に買い取れるのだな、などと考えていると、実は建設中の建物の背後に赤い建物が竹の柵に囲われて見える。どうやら企業は建物の保護を条件にこの場所の開発許可を得ているようだ。このマンションが出来た時にどんな姿で再登場するのだろうか?楽しみである。

(2) 油麻地劇場
赤煉瓦小屋の直ぐ横にかなり古い建物がある。1925年に建造された映画館の跡である。九龍地区で戦前に建てられた映画館で残っている数少ないものの1つである。1998年に閉鎖されて今は保存もあまりされておらず、残念ながら朽ち果てて行く感じである。保存されることが望まれる。

 

 

建物には上映時間などの文字が今も掲げられており、往時を偲ばせる。中に入ることは出来ないが、香港の伝統的な映画館の造りとなっているとのこと。一体ここでどんな映画が上映されたのだろうか?そしてどんな人々が映画を見たのだろうか?

(3) 油麻地果欄

油麻地劇場の更に海寄りに果物の卸売り市場、油麻地果欄がある。1913年の建造。新填地街より西側は1885年の埋め立てまでは海であったから、その後程なく建造されたことになる。最盛期300軒の野菜、果物の卸し商が軒を連ね、九龍地区の供給を殆ど賄っていたが、現在は市場が長沙湾に移転、ここは歴史的建造物になろうとしている。

 

建物の各店の上には『XX商』『XX記』などと屋号が刻まれている。実に古めかしく、歴史を感じさせる。午後ということもあり、殆どの店が鉄格子を下ろし、ひっそりしている。

しかし当日は道の反対側にまでスイカの箱が並び、未だに数十軒の店が存在しているのを見て、歴史的建造物には未だ早いと思うようになった。私が写真を撮っていると、午後店を閉めて寛いでいる店員が怪訝そうな顔でこちらを見る。その顔には『ここは生活の場で観光名所じゃあねえよ』と言っているように見え、早々に退散した。古き良き油麻地である。

 

(4) 東華三院文物館
窩打老道を行くと、広々とした広華医院が左に見える。右側は高台となり、学校や教会が見える閑静な場所に見える。病院内に入ると受付付近は物々しい警戒状況にあり、直ぐに体温を測られる。更にマスクが渡され、つける様に指示される。久しぶりに昨年のSARSを思い出す。現在も警戒注意報発令中のようである。

 

病院の敷地内ほぼ中央に東華三院文物館がある。そこにはこの病院の歴史が刻まれている。東華三院の歴史は1851年、香港が英国領となって直ぐに香港島に広福義祠が建てられたことに始まる。元々は先祖の霊を慰める場所であったが、その後祠には老人、病人、難民が身を寄せ、環境劣悪となったことから、1872年に政府の援助により華人の為に上環に東華医院が建造された。

 

尚香港の人口は1840年代には僅か5,000人であったが、1870年代には10万人を越え、急激に増加していったことが、病院の必要性を高めた。東華医院は当初華人救済の意味合いもあり医療費が無料であった。その財源は上環の文武廟の資産から上がる収益で賄われていた。

1911年には九龍側に病院を設立する必要から、広華医院が建造された。当時の写真を見るとかなり立派な建物が建っている。先の東華医院と1929年に建造された東華東院を合わせて東華三院と呼ばれる。

文物館は1971年に建造され、東華三院の歴史が展示されている。ロビー中央には漢方薬の始祖と言われる農氏の位牌が飾られている。殆ど訪れる人がいないこの文物館ではあるが、何か重要な場所のような気がしてならない。

 

 尚現在東華三院は香港最大の慈善団体であり、多くの廟の管理を行うなど香港の顔と言える存在である。

 

 

 

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